クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2009年12月27日  (校正,追記: 2010年2月14日、2012年1月23日、2018年10月3日,2019年11月28日、2021年8月2日、2022年7月13日)
26-5  南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地
(5)白イユース川
           2009年6月22日から7月14日(のうちの6月28日から29日

Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.06.2009-14.07.2009 )

ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア (ハカシア盆地古代史略年表)
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』、シーラ湖畔泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
サラート山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小さな『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区オグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山岩画 アバカン見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェノエ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトラシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフス村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり

 サラート山麓(タルピック要塞)クルガン草原
 翌日6月28日はハカシアのメソポタミアと言われるところの聖山、有名なスンドークというところが目的地だ。この日は日曜日だったので、サーシャは休み。だからアバカンまで私をわざわざ送らないで、スラーヴァがチェルノゴルスクまで私を迎えに来てくれた。そして、3日前と同じくプリゴルスク町を通りすぎ、シラ―湖畔を通り過ぎ、ツェリンノエ村を通り過ぎて白イユース川へ向かった。
タルペック山麓クルガン、白イユース川方面
 白イユース川はこのあたりでは蛇行し、あちこちに三日月湖を残しながら低いサラート山オンロ残丘の間を流れている。だから、白イユース川岸谷のところどころにサラート山の延長らしい険しい崖が突き出ている。サラート山の頂上には、北側に『スベ(山岳石造り要塞)』の石垣の列(長さ90m、高さ1m、幅1.5m)があり、西と南側は絶壁で、東側には2個の残丘があって石垣の続きのようにそびえているそうだ。しかし、この石の要塞『スベ』も用途は不明だ。要塞と言っても防御施設ではなかったとされている。そのスベがタルピック・スベ(要塞、城壁)と言われている。
 タルピック頂上から眺める白イユース谷は、ハカシアの絶景のひとつだそうだ。しかし、スラーヴァの予定にはタルピックは入っていない。タルピックではなく、より有名なオンロ残丘スンドークが今日の目的地だ。
イユース川ほとり(『タルペック』は間違い、正しくは『サラート山』)
 ソレノオジョールノエ Соленоозёрное村を通り過ぎ、白イユース川のほうへ曲がり草原の中をしばらく行くと、見渡す限りクルガンの石が立っているところに出た。今回のハカシア旅行でいくつかのクルガン集中地を訪れたが、ここが一番印象深かった。シラー湖近くのクルガン群は現代人と同居させられている。ここの古代遺跡たちは、遠くに見える低い山々(サラート山)に囲まれ、横には川も流れている一面の草むらの間に、静かに群がっている。川は、蛇行して流れていて周りに三日月湖が見える白イユース川だ。
 クルガンの間を縫って走って行くと何か調査している人が見えた。三脚やポールを立ててクルガンの位置や地形を測っている。彼らも場所の移動はニーヴァでやっているらしく、スラーヴァとはちょっと違った色のニーヴァが近くに止まっていた。測量の目印ポールを何百メートルも離れたところに立てたりするために、この草原を動き回るにはニーヴァがぴったりだ。スラーヴァが言うにはちょっと新しいモデルだとか。この3人の測量技師とスラーヴァは知り合いらしい。
「今日ぐらいは、ここで調査しているのではないかと思っていた」などとスラーヴァが挨拶している。
三日月湖もある白イユース川
測量技師と助手
打刻画のある石もあった
ラリチェフ教授と

 謎のタルピック『スベ』の崖下の白イユース川のほとりにはタガール時代の無数のクルガンのほか、オクニョーフ時代の打刻画のある石柱などが多く、現在考古学関係者が集中的に調査をしているところの一つらしい。
 スラーヴァが作成中の測量図を見せてもらっていたので、私ものぞかせてもらった。200mから300mはなれてポールが7本立っている図だ。石柱も黒点で書き込まれ、第3ポールの方向に『太陽神殿』、『太陽の道』、『太陽石』とかの書き込みもある。それはタルピック『スベ』のある山の方なのかもしれない。スラーヴァと彼ら3人は仲間内らしい話しを長々としている。話の内容がわかれば、この場所についてもっと詳しくわかったかもしれないが、誰も、私にわかるロシア語では説明してくれなかった。
 彼らからスラーヴァは、ノヴォシビリスク大学のラリチェフ教授も来ていると聞いて、挨拶をしてこようとクルガンの間を探しに出かけた。ラリチェフ教授は旧石器時代遺跡をはじめ、イユース谷の遺跡研究の権威だとスラーヴァが教えてくれた。スラーヴァは、できたらノヴォシビリスク大学院に通信教育で入学したいと思っているそうだ。クラスノヤルスク市やハカシアのアバカン市、ケーメロフ州のケーメロフ市、トゥヴァのクィジール市などに国立総合大学はあるが、それらは比較的新しく、ノヴォシビリスク大学の分校からできたものもある。シベリア学、南シベリア考古学の中心はノヴォシビリスク大学らしい。たとえば、クラスノヤルスク大学の研究者がアバカン共和国やケーメロフ州の遺跡研究をあまりやらないし、アバカン大学の研究者がトゥヴァ共和国などの遺跡調査はあまりやらないが、ノヴォシビリスク大学の研究者は南シベリアのどこの遺跡も研究している。またレニングラード大学の研究者はロシア中のどの地区でも重要なところは発掘に関係している。大学の上下関係がこんな風になっているらしい。
 スラーヴァによると、ノヴォシビリスク大学院の通信科でも、年に1、2回以上は2週間ほど大学に行かなければならない。長く滞在すればするほど自分の研究は進むが、学費と寮での滞在費がかさむと、言っていた。ノヴォシビリスク大学の民俗学考古学科のラリチェフ教授の講座に入りたいそうだ。
 クルガンの間で、絵を描いている女性が遠くから見える。草原にクルガンのある風景画は、アバカンの土産店でもよく見かける。彼女はエレーナ・ギエンコだと、近くに立っていたラリチェフ教授が紹介してくれた。
 考古学民俗学アカデミー・シベリア地区主任のラリチェフ教授に会えると、スラーヴァが前もって言ってくれれば、ロシア語で質問を用意していたかもしれないが、この時はただ挨拶して、教授が教えてくれることを拝聴するだけだった。
 帰国後調べてわかったことだが、教授は東洋学、中国史の権威でもあるそうだが、その時は、スラーヴァや教授自身の話から白イユース川のやや上流で見つかった3万4千年前のマーラヤ・シーヤ旧石器時代遺跡の発掘研究や、古代芸術研究、最近では古代天文学の研究をしているということだけが理解できた。

 このクルガン群からは見えないが、有名な残丘第1スンドークが古代天文観測所だとラリチェフ教授が教えてくれた。白イユース川左岸には頂上がテーブルのようになった残丘が5個か、数え方によってはそれ以上並んでいるが、そのうちの最も北の残丘の頂上はちょうど直方体のスンドーク(長持ち)の形に侵食されているので、遠くからも目を引く。それで、並んでいるほかの残丘も第2スンドーク、第3スンドークと言うふうに呼ばれている。この残丘第1スンドークには頂上の直方体(立方体にも見える)のようになった岩を貫く隙間があって、そこで古代人が冬至や夏至、春分、秋分の日の出や日の入りを観察していたのだという。実はこれは専門家の間ではもう有名な仮説なのだが、日本から来た私は始めだ。教授によると、エジプト、ペルシャなどでは大犬座のシリウス星を観測の中心においたかもしれないが、ここ緯度の高い南シベリアでは牛飼い座のアルクトゥルス星が観測の起点で、春分のころ、その古代天文観測台の隙間の穴から見ると、日の出の15分前に沈むのだそうだ。
 教授はスラーヴァに、私をぜひそのスンドークに案内するように勧めている。しかし、その隙間はスラーヴァではわからないそうだ。もっとも、そこへ行き着くには岩の直方体をよじ登らなくてはならないから、高いところの苦手な私には無理だ。
 しばらく、教授はスラーヴァと研究の最近の成果について話していた、と思う。タルピック要塞やオンロ要塞(第1スンドークのあたりを土地の人はオンロと言うらしい)について話していたのだろう。私には断片しか理解できない。
サラート山
 ここのクルガンの石にも彫り物がある。一つ一つ見て写真を撮っておいた。
 偉大なクルガン草原だ。テントを張って夜を過ごしたいくらいだったが、1時間あまりで出発した。この近くにあるらしいスンドークに行かなくてはならない。
 古代天文観測所スンドーク  
ノヴォシビルスク大学調査グループのキャンプ場
第1スンドーク
スンドークの長く緩やかな西斜面を上っていく
『ウサギのキャベツ』の芽
西斜面は緩やかだが長い
上ってみるとかなり大きい
遠く見える白イユース川とイユース村
北斜面を下りる。小さな石は現代人が載せた
 スラーヴァは道が悪いと悪態をついている。
「どうも、教えてもらったのはこの用水らしい」というところを渡ってすぐに曲がって開けたところに出ると、不思議な小山が見えてきた。おおっと思わず叫んでしまうような特異な形をしている。平原からそこだけが突き出ている丘の上に、誰かがわざと載せたような大きなさいころ(つまり、長持ち、スンドーク)がみえる。こんな神秘的な高所が古代人の聖所となるのも無理はない。
 近くの木陰のある原っぱにはテントがたくさん立っている。ビキニを着た女性一人が番をしているので、スラーヴァが近づいて挨拶をした。ここはノヴォシビリスク大学研究グループのキャンプ場で、その女性はコックだそうだ。このあたりはスンドークやクルガン、古代要塞跡が多いので、毎年夏には、こうして研究者のキャンプ場になるそうだ。また、ここはノヴォシビリスク大学の研究テリトリーらしい。
 スラーヴァとまた車に乗ってさらにスンドークに近づいていった。(私の普通の)カメラを望遠にすると、さいころ岩に登っている人が写るほど近づいた。この残丘のこちら側はかなり急斜面になっているので、車どころか歩いても登れない。ぐるりと奥へ回ると、比較的なだらかな斜面が、さいころ岩まで続いていて、観光客の道でもあるようだ。
 そこをニーヴァで上れるところまで上って止めると、スラーヴァは早速車の点検をしている。今ほどは、かなり悪路だったから、また何か部品が外れたかもしれない。その間に、私は缶詰やビスケットを並べた。このスンドークの周りにもたくさんクルガンがあるという。今、私たちが食事した地面にも、
「ほら方形に並んだ石の一部が見えるだろう」と言われる。小さなクルガンだったかもしれないと言うので、私なんかがちっとも気のつかないところでもちゃんと見ている。スラーヴァは目の付け所がすごい、さすが考古学者だ、と感心したものだ(だから車の故障は許す)。
 ニーヴァをその小さなクルガンの横において、私たちはさいころ岩へ上って行った。いつものようにスラーヴァは一気に上ってしまう。確かにこちらの坂はなだらかだったが、それでも、私は荷物のリュックをスラーヴァに持ってもらって、息を切らしながらやっと上りついた。垂直に立つさいころ岩そのものの上には、私は登れない。スラーヴァは途中まで上ったり、さいころを一周したりしたらしい。私は古代人のように身軽ではなく、たぶん短命だった古代人に比べてあまりにも高齢なので、さいころの下の一辺で周りの景色を眺めるだけで十分だ。さいころの上にあるという石のイスに座れば四方が見渡せたかもしれないが、ここからでも、周りの草原の中にまっすぐ走っている用水路(ここから見えないところも含めると網の目のようになっていて、一部は古代人が作った)や、隣の残丘との間にある大きな水溜り(池)や、古代要塞跡オンロ『スベ』といわれている土にうずもれたような石垣の列や、三日月湖を作って蛇行して流れている遠くの白イユース川や、もっと遠くにはイユース村も見える。
 スンドークには木は一本も生えてはいないが、聖地だから低くてまばらな潅木に布を結んだチャラマもある。この山は霊気の強いことでもハカシアでは有名なのだとか。ここで、超能力の実験をやったとか。しかし、落書きがあったりごみが落ちていたりしている。
 この、古代天文台と言われているさいころ岩のどの割れ目から、冬至や夏至の日の出を見たり、春分の日の出の15分前に沈むアルクトゥルス星を見たりしたのかは、探さなかった。この仮説を著したラリチェフ教授も、さいころ岩に登るのは難しく、上っただけでは見つけられないと言っていた。(あまり考えられないが、将来、観光資本でも入れば、天文観測の案内板やこの岩場に誰でも上れるような足場ができるかもしれない)。(後記:2013年にも訪れた
 ハカシアのたいていの古代遺跡同様、ここもアクセスがひどく悪いのだが、この特異な形の残丘は観光地のひとつになっていて、ふもとに何台か車が止まっている。ただ見物ばかりではなく、霊感を感じるためにも訪れるのか。
 降りるときは、また別のさらに奥のなだらかな斜面を通った。別の観光グループもガイドと一緒に登って来ていて、時々ガイドが立ち止まって説明している。それを聞いたスラーヴァが
「ふん、作り話なんかして」と怒っている。スンドークに関してはさまざまな仮説ばかりか伝説も多く、中にはSFのようなのもあるらしい。
  グループのみんなが地面の一点を眺めているので、
「何が見えるの」と聞くと、「エーデルワイス」だそうだ。あっ、白い綿毛のエーデルワイスが斜面の低い草の間に小さく群がっている。エーデルワイスのほかにも、途中の岩道に『ウサギのキャベツ』と言う花の芽をたくさん見かけた。
 もっと降りてゆくと要塞のように積んだ石垣が並んでいるところに出た。だが、スラーヴァは黙って写真を撮っているばかりで何も説明してくれなかったが、これも有名なオンロ『スベ』だっただろう。後日、発掘現場で会うことになるアバカン大学のアンドレイ・ゴトリフ準教授の論文を、帰国後ネットで読んでわかったことが多いのだ。白イユース川の右岸にある『スベ』タルペックや、このスンドークの『スベ』オンロもゴトリフ準教授の論文にある。しかし、オクニョフ時代にできたらしいと言う『スベ』については、スラーヴァは何も言ってくれなかったので、その時は無言で、ただ石の道を転ばないように、蛇でも踏みつけないように必死で下を見ながら歩いていただけだった。事実、蛇もいた。縞々ヘビで、私はカメラに撮ったが、点火の遅いスラーヴァのカメラは間に合わなかった。
第4スンドーク、天上とこの世と地下の世界か
よく見かける人物、男性か
スキーを履いて弓と矢を持つ?
フィルカル湖の向こうに見えるスンドークを
撮るスラーヴァ
 『城』のようなスンドーク山
 『城』のようなスンドーク。この印象的な第1スンドーク残丘に並んでいくつかの残丘があって、特に、第4スンドークには岩画があると、旅行案内書に書いてある。この辺の悪路をもう走りたくないようなスラーヴァに
「どうしてもそこへ行きたい」と頼んだ。残丘が幾つか並んでいるそうだから、数えて4番目の塊に行けばよさそうに思えるが、自然にできた残丘は、そんなに整然とはしていない。残丘の並ぶこのイユース谷に特に道はないらしい。あっても時期と天候によって来るたびに変わっているのかも知れない。スラーヴァは道に迷って、用水横の畑で作物を作っている地元に人に聞いたりして、やっと、第1スンドークからかなりはなれたところにその第4を見つけた。
 「ここだ」と切り立った岩山のすぐ近くに車を止めたので降りてみると、草丈の高い沼地の間に踏み固められた小道があって、途中に布切れを結びつけた木のチャラマが立っている。聖なるところだからだ。小道の向こうの短いふもとを登ったところに、すぐ切り立った岩があって、こんな低いところなのに岩画がたくさん打刻してある。様式の違う絵が混ざっているから時代も異なるのだろう。男性の像が多く見られる。狩や戦いの場面も見られる。死後の世界や天上の神々も彫られているそうだが、あまりよくわからない。身の軽いスラーヴァが、もっと高いところや別の面にもあるかと探したが、なかった。
 普通は高くて見晴らしの良いところにあるのに、ここは、古代人の『高齢者』にも到達可能だ。2千年前はこのあたりは別の地形だったのか。イユース川谷は古代から灌漑用水が発達しているようだから、地形も変わってきたのだろうか。この残丘の麓ももっと長かったのだろうか。だから、打刻画を彫ったころは、古代人好みの見晴らしのよい高所だったのだろうか。そして身軽な若い古代人だけが軽々と登って石か青銅か鉄の道具で打刻したのだろうか。
 私たちは、15分ほどでひきあげてしまった。スラーヴァとの旅はいつもなんだか急いでいるなあ。ゆっくり留まっているのは、この先も車が故障したときだけだった。
 次は、マーラヤ・シーヤ村 Малая Сыяへ行くという。近道を探して、悪路を進んで行くと静かな湖に出た。光って小さく波立つ湖面の向こう岸に宮殿の見晴台のような小さな四角が載っている第1スンドークが見える。こんな幻想的な風景に、降りて写真を撮るスラーヴァまでを私は写真に撮った。この悪路をすすんでいくとフィルカル村にでて、その村の少し倒れ掛かった塀の遠く向こうに、村とは奇妙な組み合わせの城のようなスンドークが見える。
 村の住民に聞くと、私たちは道を間違えたようで、また悪路を引き返して砂利を飛ばし、かわいそうなニーヴァを鞭打って、がたがたと進む。やっと舗装道路に出ると標識もあって、もう道も迷わない。そこから草原の道を50キロほど南へ、つまり、白イユース川の上流方向へ行くと、マーラヤ・シーヤ村があって、そこには観光ユルタ村もあり、スラーヴァの知り合いが運営しているそうだ。最初の予定表でも29日マーラヤ・シーヤの洞窟、ユルタと書いてあった。
 白イユース川中流上流山地の洞窟地帯
 ハカシア盆地は大部分が草原だが、周りを囲む山に近づくにつれて草原から森林に代わっていく。両イユース川はクズネック・アラタウ(山地)から流れてくるので、上流へ行くほど、周りはクズネック・アラタウの支脈が迫ってくる。古代人も、こんなところを好んだのか、クルガンも相変わらず点在している。発掘されたクルガンも見えてきて、そこはスラーヴァも参加したのだと言う。また、帰りに寄ろうと言うことになって先に進んだ。
 この辺までさかのぼると白イユース川はもう山川で、渓谷の間を流れてくる。エフレムキーノ村はもうクズネック・アラタウの支脈に三方が囲まれている。この先の白イユース川に沿った道も次第に険しく絶壁の下と峡谷の上の間に続く。
 エフレムキーノ村を過ぎて白イユース川の橋を渡ったところで、道路から離れて、スラーヴァの勝手知ったらしい上下左右にうねった小道をしばらく行くと、白イユース川右岸段丘の小さな空き地にでた。スラーヴァは車を止めて、ここで食事をしようという。火をおこしやすく石を並べた跡や、その周りに誰かが作った素朴なベンチらしいものまである。この場所は『タグース・アス』(ハカシア語で『9個の口』)山のふもとで、多数の小さな洞窟が白イユース川に向かって開いている。

 エフレムキーノ村あたりからマーラヤ・シーヤ村付近まで8キロほどの白イユース川に沿った岩山にはこの『9個の口』洞窟の他にも、有名な洞窟だけで40個以上あると、ニーヴァの助手席にいつも置いておく旅行案内書に書いてある。中でも、『パンドラの箱』と言う洞窟は長さが11キロとシベリアでは第2、深さが195mあり、内部には約400もの湖がある。
 ちなみに、エフレムキーノ・シーヤ地域の洞窟群の科学的探検は18世紀から行われていて、1982年までマーラヤ・シーヤ村にソ連科学アカデミー永久凍土研究シベリア支部の基地が置かれていたそうだ。
 『パンドラの箱』や『9個の口』の他、古代人の生活跡が見つかった長さ560mの『考古学』洞窟というのもある。しかし、考古学上でそれよりも有名なのは『プロスクリャコヴァ』洞窟で、更新世(*)の生物の化石が見つかっている。この洞窟で調査された最も古い文化遺跡層は4万年前と、資料にあるので、ハカシアで発見された人類の生活跡(文化遺跡地層)としては、ここは、ボグラット区のドゥヴグラスカ洞窟(4万年から5万年前)についで2番目に古い。西隣のアルタイ共和国では、もっと古く10万年以上前の文化遺跡地層のある洞窟が見つかっている。住民はネアンデルタール人だった(責任編集L.R.Kyzilasov『ハカシア史』)。また、その洞窟の壁には4500年前と言う赭土(しゃど、あかつち)で描かれた絵が残っている。
 (*)更新世 資質年代で現在の新生代第四期完新世の一つ前。かつては180万年前から1万年前とされていた。鮮新世後期に位置づけられていたジェラシアンが、2009年6月の国際地質科学連合(IUGS)による勧告により、第四紀更新世前期として定義されたので250万年前からとなった(後記)

 『クルタヤ』洞窟は、紀元前2千年紀の古代人の墓地だった。『タフザッス』洞窟は19世紀末に探検され、動物の骨、土器の破片が見つかったほか、壁に鉱物顔料で書かれた中世キルギス人のルーン文字(オルホン・エニセイ文字、突厥文字)などが残っていた。『黒い悪魔』洞窟の入り口近くに男根の形をした石筍(鍾乳洞の床に見られる筍状の岩石。上壁から落ちるしずくの中に含まれている石灰分が沈殿して固まったもの)があって、そのまわりには2000年前という火の跡があり、古代シャーマンの占いの場所だったとされている。
 事実、ハカシアの観光スポットは古代遺跡とリゾート塩湖と洞窟だ、と言ってよい。スポーツとしての洞窟探検(ケービング)は、ロシアでは盛んだ。洞窟学(洞穴学、スペレオロジー)と言う科学もあって、考古学と重なるほか、洞窟の生物、気象、物理、化学、形成史、洞窟探検技術などを総合的に研究するのだそうだ。
 『9個の口』洞窟
誰かが作ってくれたようなベンチや炉がある
『9個の口』洞窟から白イユース川を見下ろす
 『9個の口』岩山のふもとの小さなキャンプ場はこの日は誰もいなかった。スラーヴァが石で囲んだ野外いおりで上手に火を起こしてお湯を沸かしてくれたので、熱いお茶が飲めた。中国製ポータブル・レンジ用のガスポンプの節約になる。食事が終わったのは8時半ごろだったが、まだまだ空は明るい。だから夏至のころのシベリアは好きだ、が、洞窟探検は明日で、この日はマーラヤ・シーヤ村のスラーヴァの知り合いのハカシア人女性シャーマンのタチヤーナに会って、白イユース川畔のユルタ・キャンプに宿泊しようと言う。それもいいかもしれない。
 しかし、行ってみたが会えなかったので、また戻って来てスラーヴァの勝手知った『9個の口』山麓のキャンプ場で宿泊することになった。村まで行ったのは無駄ではなくて、途中、村の店から食料品が買えた。スラーヴァは店なんかないといったが、民店(民宿のアナロジー,かつてはすべて国営だったから)があったのだ。普通の家の一室が店になっている。こんなところはアルコール類しか売っていないものだが、普通のパンや缶詰なんかも売っていた。もちろんかなり割高だった。

 『9個の口』山麓のキャンプ場は、この日は私たちだけだったが、たびたび旅行社のテントが張られるらしい。朝起きてみると、えさをねだりにきた牛の群れや人懐こい犬までいた。それで、古いパンは全部売れた。動物たちと遊んだあと、スラーヴァは『9個の口』洞窟に行くのだという。
 この地は愛好家ならわくわくするような洞窟が多く、スラーヴァは洞窟探検が好きらしい、が、私はそれほど得意ではない。洞窟の入り口と言うのはたいがい断崖の中腹にあり、そこまで上るのは苦手だ。降りるのはもっと苦手だ。『9個の口』山は白イユース川の絶壁右岸なので、足を滑らせれば、川に落ちるかもしれない。洞窟の入り口は暗くて狭い。私はたまたまこの日、ヘッドライト(炭坑符のヘルメットについているようなもので、夜、屋外トイレに入るときは両手があいて便利なので、ロシア旅行では必需品)を持ってきていなかったし、スラーヴァも洞窟用強力ライトは持ち合わせがなかった。入り口だけでも入ってみようというので、私の苦手な岩山登りが始まった。この絶壁の中腹にはいくつも洞窟の入り口がある。だから『9個の口』と言うのだろうか。スラーヴァに薦められて、いくつかの洞窟口に入ってみた。洞窟の中は乾燥して粉っぽい。入り口だけ狭くてすぐ広くなるのもある。ヘッドライトは忘れたが、軍手は持ってきていたので、手も使ってよじ登ったり降りたりできた。そのうち、スラーヴァは私が足手まといになったのか、自分だけで近くの洞窟を回っていた。私にも回れそうな洞窟を探していたのかもしれない。これらの洞窟には古代人の跡は残っていない。
 洞窟に入るだけではなく、『9個の口』岩山に苦労して登って、白イユース川を見おろす絶景が堪能できたのがよかった。前を行くスラーヴァに、
「もう洞窟はいいよ、戻ろうよ」などと言いながらついていったが、岩をよじ登ったり、くぐったりしたところで、はるか山奥から狭い渓谷を流れてくる白イユース川が見張らせる場所に突然出たときは、スラーヴァから
「どうだい、来てよかっただろう。写真を撮ってあげるよ」と言われたくらいだ。
 『小マーラヤ・贈り物シーヤ』村で見つかった旧石器時代遺跡
白イユース川原『金の光』ユルタ・キャンプ
マーラヤ・シーヤ村
『アルティン・スス(金の光)』旅行会社
経営者で、『白い骨』家の女性シャーマンと孫娘
赭土で描かれた岩画の模写
 マーラヤ(ロシア語で小さい)・シーヤ(ハカシア語で贈り物)村は『9個の口』洞窟のあるエフレムキーの村から8キロほど、川に沿って険しい道を上流へ行ったところにある住民34人の村だ。ここに白イユース川に注ぐシーヤ川が大小2本あって、小さいほうのシーヤ川の合流点にあるからその名前マーラヤ・シーヤが付いた。クズネック・アラタウの支脈に囲まれたこんな辺鄙なところの小さな村に舗装されていないとはいえ自動車の通れる道路があるのは、もちろん、この先に金採掘場があるからだ。マーラヤ・シーヤ村から12キロほど上流へ行ったところに人口3000人のコムナール町があって、19世紀末から金を採掘していた。革命後国有となり、第2次大戦後はシベリア抑留者が800人働いていたと言う。1994年民営化され、2001年株式会社になった。今、サイト(http://aokr.ru/)で見る限りでは『コムナール鉱石』会社では、あまり環境に悪くない装置が2005年から徐々に導入されているとなっていて、イワノヴィ湖群近くの金採掘場には見かけないような新品の大型トラックやトラクターが並んでいる写真や、金のインゴットを積み上げた写真が載っているので、比較的繁盛している企業なのかもしれない。
 マーラヤ・シーヤ村は、以前はその金山の副次的な村、つまり鉱山従事者に食糧を供給したりする農業の集落だったのだ。今、洞窟ツアー客用の観光村になっている、と旅行案内書にある。

 また、前日と同じマーラヤ・シーヤ村の川岸広場に向かう。渓流の白イユースだが川岸にできたちょっと広めの場所だ。ユルタが数張り建っている。今回はまだ日が早いからタチヤーナを見つけられるかもしれない。着いてみると、相変わらずどのユルタも無人だったが、このユルタの関係者らしい女性が近づいてきてタチヤーナが住んでいる家を教えてくれた。タチヤーナと言うのは、これらユルタ・キャンプ場の持ち主、つまり『アルティン・スス(金の光)』旅行会社の経営者で、ハカシア人女性シャーマンなのだ。

 スラーヴァによると辺鄙な村では住民がみんな険悪・邪悪なのだそうだ。外来者が入っていくと、特に夜など喉首を切られることもあるなどという。村ではみんな酔っ払っているからだそうだ。ディーマも同じことを言っていた。だから、スラーヴァがマーラヤ・シーヤ村でタチヤーナの家を探し出すために私を車に残したとき、ちょっと心細いような気持ちだった。だが、車の中にいてもつまらないので、出て周りをうろうろしていると、男性住民が私に近づいてきた。野良着で顔も黒く、髪はもじゃもじゃで口元では歯もかけていた。
「あんた、どこから来たかね」と言う。
「アバカンからよ」とあわてず答えておいた。
「旅行者かね」
「そうよ」
「一人で来たのかね」
「ううん、ほら、連れがあそこにいるでしょう、ユルタのこと聞いてるの」
「あんたの夫かね」
「そうじゃないけど」
「泊まるところを探しているのだったら、いいところを知ってるよ」
「ふうん」
「マーラヤ・シーヤ川のほとりに洞窟もあって、キャンプにはすばらしいところがあるんだ」
 実際そんなところにぜひ行きたいものだった。しかし、スラーヴァが戻ってきて、そのしつこい男性を追っ払ってしまった。そして『アルティン・スス(金の光)』旅行社事務所へ行ったのだ。新築(というより未完成)の平屋で、いくつかの棟がある。旅行者が宿泊できるのだろう。そのひとつが食堂で、入ってみると大きなテーブルのほか、コンロと調理台があり、雑然といろいろなものがおいてあった。客だか従業員だかタチヤーナの家族だかわからないが、10人ほどの男女がいた。ハカシア人の年配女性が、部屋の奥で赤ちゃんを抱いている。スラーヴァが
「こちら、タチヤーナ・ヴァシーリエヴナ、こちら日本からのタカコさん」と紹介してくれる。赤ちゃんはロシア系の顔だが孫だそうだ。
 タチヤーナ・ヴァシーリエヴナは『アフ・ハスハ(白い骨)』シャーマン家の子孫だそうだ。『白い骨』家は最も古い由緒ある宗族で、代々のシャーマンが、人々や動物、土地の病気の治療や儀式を行ってきたと、そこでもらったパンフレットに書いてある。今でも、シャーマン治療をしている。パンフレットにはユルタでの宿泊とハカシア料理や、この近郊の観光コースとして洞窟探検(ケービング)、岩画(鉱物顔料の)見物、白イユース川下りなどのほか、古くからシャーマン儀式の行われてきたルーン文字(オルホン・エニセイ文字)や岩画のある洞窟を訪れるというコースや、さらに、『生命力や何世紀にもわたる深い知恵を得るために』土地を拝める儀式に参加するというコースもあると書いてある。つまり、リフレッシュだろうか。
 タチヤーナの娘一家は、いつもはアバカンにいるそうだ。そこで、電話やネットで観光客の受け入れをやっている。確かにパソコンがテーブルの上に載っていたが、このマーラヤ・シーヤ村では通じるのだろうか。
 料理を作っているのは従業員らしい。彼女たちはモスクワからやってきたボランティアで、この環境のよい神聖な地でひと夏過ごすためにやってきたそうだ。

 マーラヤ・シーヤ村が有名なのはこの地区に探検できる洞窟が多いというだけでなく、数千年前から青銅器時代にかけての生活跡、さらに中世のルーン文字(オリホン・エニセイ文字)まで残っている洞窟があるということもあるが、もっと有名なのは、1975年この近くに3万4千年前の居住地跡(旧石器時代の大都市と言えるほどの規模)が発見されたことだ。その後期旧石器時代人は、50平米くらいの円錐形の家にいくつかの小家族ずつ住んでいた。このあたりの白イユース川の流れるクズネツク・アルタイ山麓には古代人が狩で捕らえて食べるとおいしい動物がたくさんいたのだろうか。事実、生活跡には、石器、骨や角で作った道具などと一緒にトナカイ、山羊、ヤギ、カモシカ、バイソンの骨のほか、マンモス、毛サイ(1万年前に絶滅)の骨なども見つかっている。
 ちなみに、サヤン山麓を含むエニセイ中流やアバカン川流域、トゥバ川流域では、1万年から2万年前の氷河期時代の後期旧石器時代人の生活跡が百箇所以上発見されているそうだ。住居は円錐形で穴に石で囲った炉もあった。トナカイなどを追って狩りをしていた小さな家族集団は、ハカシア・ミヌシンスク盆地にかなり密に存在していたと上記『ハカシア史』にもある。ちなみに、当時(氷河時代)は少し北の現在のクラスノヤルスクのあたりまでがツンドラ地帯(凍土帯)だった。ハカシア盆地のほうは寒冷な草原・砂漠で、マンモスや毛サイ、トナカイやジャコウウシの群れ、北極狐、げっ歯類、鳥類などがさまよっていたのだ(活動していた)。南部ハカシアには馬、カモシカ、バイソン、鹿などがいて、後期旧石器時代人のご馳走だったわけだ。
 マーラヤ・シーヤ旧石器遺跡を調査したのは主にノヴォシビリスク大学のラリチェフ教授で、石器や動物の骨の他、鉱物顔料(赭土など)で描かれた岩画や楽器(石笛)なども発掘された。オンロ遺跡で教授に会ったとき、近々教授自身もマーラヤ・シーヤへ行くという話をしていた。教授もスラーヴァもシャーマン・タチヤーナと知り合いのようだ。
 タチヤーナとスラーヴァが話に夢中になっている。どうやら『アルティン・スス(金の光)』旅行社は考古学専門家がパンフレット作成やガイドとして必要らしい。つまり二人は仕事の話をしていたのだ。やがて、タチヤーナが部屋の隅から模写絵を出してきた。赤色で角のある男性が描かれている。
 1909年、この地の少し奥のアスパット川近くで、赭土で描かれた岩画が見つかったそうだ。顔料で描かれた絵なので消えかかっているが、角のある男性や走っている鹿が確認されたそうだ。その模写らしい。
 ロシアの田舎は、たいがい電気は通じているので煮炊きは電気コンロでするが、水は川か井戸から運ばなくてはならない。スラーヴァが、頼まれて桶に入った水運びを手伝っていた。そんなことをしているスラーヴァに、赭土で描かれたアスパット川の原画を見に行きたいと言ったが、道路が悪くて行けないと言われる。青銅器時代人の生活跡が見つかった洞窟のひとつでも見に行きたい、とは言わなかった。なぜなら、発見物は運び去られているし、壁画はあったとしても洞窟の奥だろうし、第一、洞窟の入り口まで行くのはもう懲りている。せめて、何も残っていなくても、ラリチェフ教授が調査したと言う旧石器遺跡を見たいと言ったが、道が悪いからだめといわれる。
 結局2時間半ほど、『アルティン・スス(金の光)』旅行社の事務所にいただけで、何も見ないで引き上げたのだ。由緒あるシャーマン家の代々の正当な世継ぎのタチヤーナとは少し話したが。

カラスク時代の調査済みクルガン
 マーラヤ・シーヤを出発したのは3時半ごろだった。昨日来た道を戻る。クズネック・アラタウ支脈の端でハカシア盆地の草原地帯に出たところで、道路のすぐそばにクルガンがある。ここは、2003年道路を作るために発掘調査をしたクルガンだそうだ。それにスラーヴァも加わったと言うので、ニーヴァから下りて、写真を撮る。カラスク時代のものだと言うほか、何が発掘されたとか、どんな特徴があったとか、何も説明してくれなかった。ほぼすべてのクルガンは造成直後に同時代人と、その後は17,18 世紀ごろやってきたロシア人とに2度にわたって盗掘されているのだ。
 シュネット湖とマタラック湖
マタラック湖
 シーラ町に戻って食事を取ったのは5時半ぐらいだ。まだ早いので、2日前にできなかったシーラ湖南にある小さなシュネット湖とマタラック湖に行くことにした。シュネット湖は300mくらいの小山に囲まれた谷間にあるので、行きも帰りもその小山に上ったり降りたりした。小山の上から見ると、まるで大きな水溜りのようにみえる。シュネット湖の水源は湧き水だが、流れ出る川はもちろんないので塩湖だ。ここの泥は薬効があるので近くのシーラ湖保養所に運んでいるとか。ラドンの源泉がこの近くにあるとか。近くにテントを張っている旅行者もいた。有料キャンプ場は柵で囲ってある。私たちは誰もいないところにニーヴァを止めて、湖の水に触り、30分ほど湖の周りをうろついて写真を撮って引き上げた。絵を描くにも絵の具がなかったし、音楽を奏でるにも楽器がなかったから。
 次は、お隣のマタラック湖だ。ハカシア盆地の多くの湖は大きさや深さが同じようでも、距離が近くても、たとえくっついていても異なる性質を持っているらしい。マタラック湖はほぼ淡水だそうだ。シュネット湖とマタラック湖の水質の違い、その原因などを詳しく調査した報告書もある。http://library.krasu.ru/ft/ft/_articles/0061362.pdf
 マタラック湖は、シュネット湖ほどではないがやはり丘に囲まれているので、水面には空の雲や丘の影が美しく写っていた。しかし、湖岸は沼地状だった。ぐちゃぐちゃとした感じで、もしかして瀝青かもしれない。
 この日9時ごろ、サーシャとマリーナのチェルノゴルスクに戻ったが、スラーヴァは夕食を食べた後も長々と11時ごろまでマリーナと話していた。スラーヴァは話し好きなのだろうか。

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