クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2009年12月26日  (校正・追記: 2010年2月14日、2012年6月15日、2018年10月4日、2019年11月29日、2021年8月3日、2022年7月14日)
26-7  南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地(7)
ウイバット、サヤンリング
           2009年6月22日から7月14日(のうちの7月2日から3日

Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.06.2009-14.07.2009 )

ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシーラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア (ハカシア盆地古代史略年表)
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』シーラ湖畔泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
タルペック山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小さな『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区オグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山岩画 アバカン見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェノエ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトラシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフ村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり


 ウイバット川中流の香炉を打刻した立石
ウイバット草原
 7月2日、この日からコースはハカシア南部となる。だから、アバカンを出発すると、もうプリゴルスク町付近は通らなくなった。だが、車窓から見える景色は変わらず、草原と遠くに連なる青色の低い山々だ。ウイバットはアバカン市のほぼ西にあるが、道は南回りに通じている。
 このアバカン市はハカシア部分を流れるエニセイ川の最大の右岸支流アバカン川(514キロ)の合流点にある。クラスノヤルスク市からエニセイ川と平行にさかのぼってアバカンまできた国道54号線は、エニセイを渡りミヌシンスク市を通って南東に延び、西サヤン山脈を超えてトゥヴァ共和国へ通じる。一方、アバカンから南西へアバカン川をさかのぼって西サヤン山脈を越える国道161号線もある。両道はトゥヴァで合流するのでアバカンはリングの要となっている。
 そのアバカン川に沿った国道161号線の方を行くと、左岸支流ウイバット川(162キロ)の合流地点近くに出る。シベリア幹線鉄道のアバカン支線はアバカン川を離れて、ここでウイバット川のほうへ曲がり、北上し、カピヨーヴォ町やウジュール町を通ってアーチン市でシベリア幹線鉄道に合流する。アバカン支線の鉄道に沿って100キロほどのソルスク市まで、舗装はされていないが自動車道が延びている。この辺は草原の中の農業地帯らしい。古くから灌漑水路が縦横に通っているそうだ。だから『オロシーテリヌィОросительный(感慨の意)』と言う鉄道駅もある。
 道路を走るだけでもクルガンが目に入る。道路から入ったところにも、もっと密にクルガンがあるに違いない。
「降りてクルガンを見たい、クルガンに触りたい」と言うと、また
「帰りに」と言われる。アバカンから1時間ほど走ると、草原のかなたにある緑の濃い山々が近くなり、道も少し上り坂になる。このウイバット川とその支流の谷間も古代遺跡の多いところのひとつだ。
 3個のうちのひとつのクルガンの門石に彫られた香炉

 やがてウイバット川を2度ほどわたったウスチ・ビュール村の近くでニーヴァが止まった。道路のすぐ脇にはクルガンが3基ある。周りに大小の石が転がっている、1972年、発掘調査済みで、初期タガール時代のものだと言う。この方形のクルガンは広くはないがいくつもの高さ3mもありそうな石で囲まれている。クルガンはタガール時代のものだがオクニョーフ時代の石を使っているそうだ。スラーヴァに指でなぞって説明してもらってやっとわかったのだが、一番大きい石の外側には彫刻がある。平行な線や弧線が何本も横に彫ってあり、これはオクニョーフ時代の香炉を表しているそうだ。その下にある絵は私にはよくわからないが、顔らしい。
 ハカスと言う民族名、エニセイ文字発見記念碑
 そこはウイバット川が作る狭い谷間で、かなり近くまで山が迫っている。ここを出て、もと来た道を戻っていくと、谷間が次第に開けてくる。ウイバット村駅から程近いチャルコフ村で1918年の革命の後、地元民の民族集会が開かれてミヌシンスク盆地に住む民族の名前を統一したそうだ。それまでは、この地の先住民は、それぞれ、カチンツィкачинцы人、サガイツィсагайцы人、クィズィルィツィкызылыцы人、コイバルィкойбалы人、ベリティルィбельтиры人と地方によって自称他称していた。しかし、例えば、サガイツィ人といっても単一ではなく、多くの氏(セオク、骨の意)を含み、今はアルタイ共和国になっているムラッスィ川流域からアバカン川流域に移ってきたショル人の氏も少なくない。一方、ロシア人からは、まとめてミヌシンスク・タタールとかアバカン・タタール(タタールの代わりにチュルクとも)と呼ばれていた。
 この、アバカン・タタール人とかエニセイ・キルギス人、クズネック・タタールとかロシア人から呼ばれてきた今のハカシア人だが、中国唐時代の文献では『ヒャガス』となっていたそうだ。それは『キルギス』の中国語音訳だった。中世の『大帝国』キルギス時代から、この地に住んでいた住民を中国では『ヒャガス』と呼んでいたのだ。それで、『ハカス』人と統一して呼ぶことになった(複数は『ハカスィ』、国名は『ハカシア』、普通日本語では『ハカス』人、『ハカス』語、『ハカス』共和国となっている)(ロシア語で国名.地域名はハカシア)。
 チャルコフ村で民族集会が開かれたというのも、このウイバット川流域の谷間は肥沃で多くのカーチンツや、ミヌシンスク・タタールと呼ばれていた今のハカシア人が住んでいたからだ。
 また、この村には、18世紀ピョートル1世時代の『お雇い外国人』学者で、はじめてシベリアを科学的に探検したドイツ人メッセルシュミットのエニセイ文字発見280年記念碑が、2001年に建てられたそうだ。メッセルシュミッドは医師で植物学者だったが、シベリア考古学、民族学の祖となった。エニセイ文字のほか、タガール人(スキタイの一派か)の黄金や、岩画も多く発見した。
 しかし、チャルコフ村には寄らなかった。大体18日間のハカシア滞在中訪れたのはスラーヴァが行きたかったところと、私のハカシアについての中途半端な知識の折衷点だけだった。私はクルガンが見たいと言い続けた。
ウイバット川中流のクルガン
 ウイバット草原にもクルガンは不足しない。オクニョーフ時代の石柱を借用したタガール時代のクルガンはたくさんあった。大きなクルガンにくっついて小さなクルガンがある。この時代の特徴だと言う。家族か一族なのだ。スラーヴァが車を止めてくれたところでは、できるだけたくさんのクルガンの周りを回り、中に入り、石のそばに生えている花の写真を撮り、石の埋まり方の写真をとり、石に寄りかかった。
 ウイバット・チャータース
ウイバット・チャータース
オクネフ時代の彫り物
頭が縦に2個ある石
タムガ
 この近くに、大サルビック古墳に匹敵するような考古学的価値のあるというウイバット・チャアタース(チャータースとは戦士の石)がある。自動車道から入って何も目印のない草原の中の丘陵をいくつか超えると、突然遠くに、ぎっしり立ち並んだ中世9-11世紀の石の林が見えてくる。どの石とどの石でひとつのクルガンになるのかもわからないくらいだ。近代になってからの破壊や崩壊が進んでいるからだろう。さまざまの形の石が樹立している。土盛りがあったりなかったり、盗掘の穴が開いていたりするので、チャアタースの中は足を運ぶのも用心深く、まずは写真を撮りまくった。遠くに青い山の見える広い広い草原の中、にょきにょきと立ち並んだ石の群れがあるのだ。ハカシアの伝説によると、古代の勇者がお互いに巨大な石の投げ合いをした。その時、地面に刺さった石が今も立っているのだという。それが本当らしく思えるくらいだ。
ウイバット草原にあったタガール時代のクルガン
一直線に石を並べてあるのは

 中世のキルギス族は、自分たちより以前に使われた石を持ってきてクルガンを作っている。形も5mもある細長いもの、どっしりとしたもの、方形で薄いもの、三日月形のものなどある。どっしりとしたものはオクネフ時代の石柱だったりする。歴史の教科書に載っているような三日月形の石の内側に顔が縦に並び、その上には香炉を描いた平行な弧線が刻んであるというような石柱も立っている。不思議な動物を彫りこんだ石はオクネフ時代のものだ。実物の石ではコケが生えていたり欠けていたりでよくわからないが、専門家の模写画を見ると、ゴキブリのようなねずみだったりする。タガール時代の動物の岩画もある。
 中世キルギスの『タムガ』という印を彫った石もある。タムガというのは古代から広い地域に普及していて、主に遊牧チュルク人たちの家紋だそうだ。(キプチャック・カン国時代、東欧から中央アジアにかけて『カンの印のある書類』、つまり『税金』という意味も含めて普及したそうだ。ちなみにロシア語の「タモージニャ(税関)」という語はここから借用した)
 一直線に石を並べたチャータースもある。スラーヴァによると、キルギス戦士は自分のクルガンから一定の方向に一列に倒した敵の数だけ石柱を立てたそうだ。スラーヴァと数えてみると9個あった。
「女性も殺したのだろうか」と言うと、それは数えない、石の数は倒した敵でも強大なものだけだろう、とのこと(性差別)。
 この数十年、建築資材として貴重な彫刻のある石を多く運び去ったり、飼料を植えるため草原を耕すとき、トラクターで均したりと、チャータースは崩壊が激しいそうだ。
 このチャアタースには2時間半もいた。草原にマットを広げお弁当も食べたくらいだ。
 ウイバット・チャアタースの付近にもいくつかのチャアタースがあるそうだ。そこへは寄らなかったが、帰り道の草原にはタガール時代のかなり大きな墳丘がいくつかをみた。墳丘の周りは大きな石で方形に近く囲んである。石はたいていは平板で東に向くように並んでいる。墳丘の上には盗掘跡の大きな穴があり、ハカシア盆地に多くあるクルガンだ。もしかして、これらタガール時代のクルガンの石のいくつかも、持ち去られ、あのチャータースでリサイクルされているのかもしれない。
 『サヤン・リング』フェスティバルの評判
 『サヤン・リング』フェスティバルというのはクラスノヤルスクにいたときからよく耳にした。2003年から旅行会社『サヤン・リング』が主催して、ミヌシンスク市の60キロほど南のシューシェンスコエ町で開催する民俗音楽祭だ。観客は年を追って増加し、第6回には2万人以上にも達し、出演グループは100近くになるという、いまではエニセイ地方切っての大フェスティバルで、地方政治機関も後援しているらしい。企業のスポンサーも多い。外国からの著名な出演者の名前も宣伝されている。夏の大イベントのひとつで、この時期の旅行者はみんなシューシェンスコエに向かうかのように宣伝されている。数日後、クラスノヤルスクに戻っても、知り合いから
「サヤン・リング・フェスティバルに行ったの?どうだった?」と尋ねられたものだ。
 フェスティバルは7月3日から5日まである。そこは旅行会社主催なのでロシア各地からの観客は『サヤン・リング・ツアー』に参加すると言うことになる。ツアー客はフェスティバルばかりでなく、クラスノヤルスクやハカシアの名所もフェスティバルの前後に回るのだ。会場はもともとシューシェンスコエ町外れにある野原で、そこに設けられた舞台に出演したい人が主催者に届け出て演奏し、聞きたい人がまわりに集まってくるというような、素朴な形だ。出演者や聴衆は3日間も続く祭りのために近くに野営するのだ。おおぜいの人が集まるので当然、縁日もできる。
 サヤン・リンク・フェスティバルと聞いただけで、実は私はよく組織されていない、だらだら間延びした、ロシア人が大好きな大音響の、人数が多いためにやや不衛生なイベントを思い浮かべた。だが、古代ハカシア遺跡ばかりでなく、この評判の現代のフェスティバルをのぞいてみるのも悪くない。
 もちろん、サヤン・リング・フェスティバルは回を追うごとに大きく成功してきている、ということだから、のぞいてみる価値はある。今ではこれほど多くの人が集まるようになったものだから、印刷されたプログラムなんかも売っているし、駐車場もあり、テント村用の敷地も用意されている。これは有料で『サヤン・リング』社が運営する。人口2万人にもならないこの町には宿泊設備などがあまりないから、参加する若者たちはテント村に3日間住む。もちろん、別の場所で自分が持ってきたテントに寝泊りしてもいい。私のクラスノヤルスクの知人はそうしたと言う。
 シューシェンスコエ町
 2008年にトゥヴァに同行した自称音楽プロジューサーのアルカージーもサヤン・リング祭に一緒にいくそうだ。彼は10時にスラーヴァの勤める学校近くの待ち合わせの場所に来る。私とスラーヴァはいつも8時半にサーシャの店で待ち合わせる。時間があったのでスラーヴァの学校見物もする。夏休み中なので廊下と校長室受付けのほかはどこも見なかった。
ハカシア南部

 やがて現れたアルカージーと、ミヌシンスク盆地(エニセイ川の両岸に広がる盆地を、昔はそう言った。クラスノヤルスク南部を、左岸のハカシアを無視してミヌシンスク地方とも言ったくらいだ。今はハカシア・ミヌシンスク盆地と言う)の国道54号線を南のシューシェンスコエ町へ向かう。
 シューシェンスコエは18世紀中ごろシューシ川がエニセイ川に注ぐところにコザック駐屯地としてできた。19世紀は帝政ロシアの流刑地で、たいていのシベリアの村と同様、デカブリストも流刑で送られてきた。この人口2万人弱の小さなシューシェンスコエ町は、デカリストの流刑地だと言うだけではなく、実はソ連時代から有名な町で、遠くクラスノヤルスクなどから団体客が多く訪れ、ソ連時代の数少ない観光名所、つまり革命に関係する場所のひとつだった。エニセイ地方の学校の修学旅行地でもあった。というのも、1897年から3年間レーニンが妻のクルプスカヤとここに流刑になっていたからだ。ここには有名な『レーニン・シベリア流刑博物館』があった。生徒たちはレーニンの住んでいた家(再現)や、19世紀から20世紀はじめのシューシェンスコエやシベリア地方の農民の家、店、パン焼き小屋、当時の農民の家内工房、監獄などを移して再現したこの野外博物館を見学したわけだ。
 『レーニン・シベリア流刑博物館』はその後、『歴史、民族野外博物館』と改名したが、小さなシューシェンスコエ村にしては立派な観光名所だ(サイトによると、シューシェンスコエはそのほかに、2003年からのサヤン・リング・フェスティバルと、1995年からの森林公園が名所だと出ている。ちなみにその森林公園の中には石器時代遺跡があるそうだ)。
 スラーヴァの初めの予定表には、この地方の観光名所の旧『レーニン・シベリア流刑博物館』にも寄ることになっていた。スラーヴァは私がこの地方に来たのは初めてか、せいぜい2回目だと思っているが、実は何度も来ているし、その野外博物館にも2回以上行ったことがある。だから今回は寄らないことにした。
 サヤンリング・フェスティバル会場
会場メイン舞台、本格的なアーティスト出場は
もっと後
会場近くのテント村、まだ空き地がある
手作り人形の前に並べられたロシア製テマリ
岩画のコピーの売り物
祭りの大会場
 フェスティバルの行われる場所や駐車場は、さすが音楽プロジューサーだというアルカージーがよく知っていた。7月3日の昼頃はまた観客が少なく、だから車の列もなかったので、アルカージーがいなかったら、シューシェンスコエの町で迷っていたところだった。
 駐車場から会場まで、すでに(会場外)露店が出て、自分たちの畑で取れたようなイチゴとか野原で集めてきた木の実やきのこ、花束や風船などを売っていて、私たち3人組が地元民でないように見えたのか
「ウェルカム」などと英語で話しかけられ、アルカージーとスラーヴァはおもしろそうだった。
 フェスティバルは夕方6時ごろから少しずつ始まっていくそうだ。夜の10時を過ぎてやっと大物の出演があって、12時を過ぎるといよいよ祭りが盛り上がるそうだ。明け方までディスコ・クラブのような音楽が続く。フェスティバルは3日間あって、最終の7月5日が最も面白いのだとアルカージーが言う。だから、初めの予定ではその最終日の5日にシューシェンスコエに行き、この日の7月3日はアスキース地区の古代遺跡カザノフカ野外博物館に行くことになっていたのだ。たぶん、車のないアルカージーがフェスティバルに行きたがり、スラーヴァもそうだったのだろう。そして、最終日の5日も、もちろん行くのだとスラーヴァは言った。
 会場近くのテント村は、この早い時間(13時頃)では張られたテントもまばらだった。祭りの会場は元スタジアムだったかのような広い野原で、一角に舞台がしつらえてあり、はるか遠くの反対側に階段席があった。舞台はまだ音響テスト前のようだが、テレビ局は来て、誰かにインタビューしていた。となりの野原では小舞台があって、民族舞踊などもぼちぼちやっているようだった。
 会場横のヤールマルカ、つまり縁日では各工房別に出身地や製作者名を上げた露店は、ほとんど開店していた。白樺の木を彫ったおなじみの民芸品や、シャーマンのタンブリン、岩画をコピーしたTシャツ、毛皮製品、ビーズ玉の装飾品、かご、絵、伝統食器、絵皿、おもちゃ、陶器類、民族衣装などの多くの露店が縁日風に並んで、店員も民族衣装を着ていた。スラーヴァやアルカージーがここでお土産を買ったらいいと薦めてくれた。旅行では土産店は回らない私も、一軒一軒丹念に見て回った。他に全くすることもないので。
 中にはロシア語で『テマリ』と書いた日本の糸巻き手まりを売る店もあって、思わず手に取った。『世界中に有名なこの万華鏡的模様を刺繍した玉を贈られた人は幸せになれる』と書いてあり、小さいのが1個120ルーブル(500円)くらいだった。ロシア製テマリを買おうとは思わないたが、確かに、これだけ民芸品があるのだから、記念に何かハカシアらしいものを買っていってもいい。と思って、青銅製のスキタイ動物意匠風ペンダントを露店で自ら売っていた作者から買った。実はスラーヴァも、内職に古代遺跡発掘物のコピーを作っている。スラーヴァは、ここに店は出していないが、アバカン市のある土産店で自分の製品を売ってもらっているそうだ。
 これら民芸品の露店は作った人が売るばかりか、白樺製品などは作りながら売っていたので、アルカージーとスラーヴァをお供に従え、ゆっくり回っていた。が、なかなか時間がつぶせなかった。
 食べ物は別の一角で売られている。危ないとは思ったが、スラーヴァやアルカージーに御馳走してあげなくてはならないので、自分も食べた。心配していたが、『サヤン・リング』旅行社製のシャシュリク(バーベキュー)がなかなかおいしかった。
 書籍売り場も見つけてどっさり本を買った。何しろ町の本屋は冒険物か恋愛物しか売られていないのだから。この店の持ち主はスラーヴァの知り合いだとか。よいお客を連れてきたと、またスラーヴァは感謝されたようだ。

 お昼の12時ごろ到着して4時間もうろついて時間を潰していたが、フェスティバルが始まる様子はなかった。すっかり退屈した夕方の6時ごろ、さきがけグループが演奏し始めた。1時間半も我慢して階段席に座っていたが、退屈でたまらなくなった。アルカージーはここで多くの知り合いと挨拶している。彼ほどではないがスラーヴァも知人がいる。集まった人々を見るのも飽きてきた。暗くなったころ、つま11時も過ぎると本格的ミュージシャンが演奏するのだとアルカージーが言う。こうした音楽と雰囲気に熱中し、ディスク音楽で踊るのは、私には岩山をよじ登る以上に難しいことだ。なんと言っても興味がない。
 ちなみに、後でチェルノゴルスク市のマリーナから聞いたのだが、長女のナースチャが友達の車に便乗させてもらってフェスティバルに来ていたそうだ。ナースチャはここの音楽に『鳥肌が立つほど』感動したのだそうだ。彼女は若いロシア人の女の子だから可能だ。だが、誰でも感動すると思っていたマリーナは会場にずっといたらしい私をうらやましがっていた。本当の私は退屈でたまらなくなって、長い間、時計を見ながら座って聞いていたが、8時にはもう我慢ができなくなって帰りたいとスラーヴァに言った。一応承知してくれたが、駐車場までの会場外で演奏しているグループの音楽もゆっくり聞き(つまり、彼らは主催者側の審査から外れて参加できなかった)、そのグループが売っている彼らのCDも買いながら進んだ。そんなにゆっくり進んでいって、よかったのは2年前にトゥヴァであったホメイ・ロック歌手で『ヨハント』のアリベルト・クベジンとばったり会えたことだ。クベジンは新しいパートナーのアフリカ人ミュージシャンを連れていた。彼らは、今日は出演しないのだと言う。
 帰り道、反対方向へ行く車の長い列に出会った。この日は金曜日で、仕事が終わったアバカン人やクラスノヤルスク人がフェスティバルに向かっているのだ。このシューシェンスコエの街中ばかりか、国道54号線に出ても、反対方向へ行く車の切れ目はなかった。彼らは日曜夜まで、音楽に堪能し、雰囲気を味わい、酔ったり、冗談を言い合ったり、ふざけ合ったり、踊ったり、つまり祭りを楽しむのだ。でも、個人で参加している日本人はいなかったと思う。どんな日本人も見かけなかった。 
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