クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2008年12月24日(2009年1月28日,2010年9月25日,2013年5月1日,2014年3月11日
クラスノヤルスクからトゥヴァ共和国へ(2)
           2008年8月7日から8月24日(のうちの15日まで)

Из Красноярска в Тыву−2 (с 7 августа по 15 августа 2008 года)

(1)ウラジオストック空港 (2) (3)
イルクーツク空港のお勧め度 数百基のスキタイ古墳群 チャダンのホテルと駐車場
シベリア鉄道(わずか)18時間 黄金の『アルジャン2』古墳 トゥヴァらしい風景
1日目、滞在予定を決める 『赤い』首都クィジール 未調査古墳に出会う
アパート修理事情、ネットカフェ アジアの中心碑、ミュージシャンと仏教寺院 ミルクの湖スト・ホリ
動物園と街中散策 遺跡の宝庫トゥヴァ盆地縦断 アスベクトの町を通って
交通警察官、草原の中の高層建築群 トゥヴァ人の町チャダン 再び西サヤンを越えリングの輪を閉じる
私たちのハカシア基地、道の駅 上チャダン仏教寺院 ダーチャ(ロシア風別荘)訪問
ロシアからロシア領トゥヴァへの道
クラスノヤルスクからポドカーメンナヤ・トゥングースカ川へ

スキタイ
紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族(国家)。スキタイは古代ギリシア人たちによってこの地域の遊牧騎馬民族をまとめて使われていた呼称。言語はヘロドトスの記録からインド・イラン語派と考えられているが詳細は不明である。スキタイについてはヘロドトスなど古代ギリシャの歴史書、及び北西中国、モンゴル、トゥヴァからドナウ川下流にかけての発掘調査が情報源。スキタイ風動物文様、馬具、武器が特徴(ウィキペディアから)。
←写真は『アルジャン2』からの出土品、黄金の兜飾り

 数百基のスキタイ古墳群の盆地
トゥラン・ウユーク盆地を行く
キズラコフ著『古代トゥヴァ』(1979年)から
ウユーク盆地の土盛り古墳(クルガン)
『アルジャン1』古墳から見つかった有名な
ブロンズ製バックル、『輪になった豹』
『アルジャン2』古墳から出土した金製品
 西サヤン山脈から出たところに広がるこのトゥラン・ウユーク盆地は、ウユーク川(エニセイの源流のひとつのビー・ヘムの右岸支流)とトゥラン川(ウユークの支流)とが流れ、トゥヴァではじめにできたロシア人の町トゥラン市とウユーク村があり、この盆地を南下するウス街道もここを通る。
 ロシアからの農民がこの地に19世紀末から殖民をしたのは、11世紀頃のエニセイ・キルギス族の残した灌漑設備があったからだ、とトゥラン史には書いてある。(つまり、このトゥラン辺からロシアによるトゥヴァの殖民が始まった。そして、1885年には、司法行政権を有するロシア移民村ができていた)

 この、周りが山々に囲まれている海抜1000キロの盆地は降雪も少なく、古くから放牧地としても豊かなのだそうだ。しかし、ここが有名なのは、盆地に紀元前8世紀から前3世紀の初期鉄器時代に活躍したスキタイ人の古墳(クルガン)があるからだ。それら数百基もの古墳は数基ずつまとまって(たぶん一族だろう)グループを作っているものが多い。数キロごと離れて、そのような大小のいくつかの古墳群が広がっている。

 それら古墳には土盛りのものや、石で表面が覆われたもの、直径が50メートル以上のもの、2メートルくらいのものなどさまざまだが、ウス街道をトゥラン市の手前で右折し20キロも行った草原の中には、特に大きい古墳がまとまってある。事実、このあたりには直径100メートル級の古墳が25基も集まっているので『ツァーリ(皇帝)たちの谷』と呼ばれている。全体が石でできている立派な古墳もいくつかあり、トゥヴァだけでなく南シベリア最大の大きさだと言う『アルジャン1』古墳と、盗掘を免れたため数10年に1度と言う大発見だった『アルジャン2』古墳の2基が特に有名だ。

 この辺りにアルジャン村があるので、古墳もそう呼ばれている。村は、近くに『アルジャン(薬効ある水、鉱水、湧き水と言う意味の現地語)』があるからその名前になった。鉱水は、『アルジャン1』と後に名づけられた高さ3、4メートルの台形の形をした石造りの古墳の上の中ほどから湧き出ていた。その、ありがたい湧き水のそばに小礼拝堂が建てられたくらいだ。トゥラン・ウユーク盆地では掘りぬき井戸は塩分が多いのに、この泉は『超』淡水だったそうだ。しかし、1971年から古墳が発掘されると、泉は枯渇してしまったが、村の名前は残った。
 と、これは同行のスラーヴァが詳細に説明してくれたことだ。

 もちろん『ツァーリたちの谷』の古墳は昔から内部は『闇の考古学者』たちによって盗掘され、外部の石はアルジャン村などの学校や住宅、公民館、元の集団農場事務所、店舗などの建設材料に使われている。
 こうした古代遺跡の崩壊の危機のため、1971-74年、サンクト・ペテルブルクとトゥヴァの考古学者チームが古墳『アルジャン1』の発掘調査をしたそうだ。その結果、古墳の内部の構造や、16人のスキタイ人と160頭以上の馬が葬られていることがわかり、青銅製の武器、馬具、動物意匠(有名な輪になった豹も)の留め金など盗掘を免れた副葬品が見つかっている。何よりも有名なのがこの直径120メートルのトゥヴァ最大級の『アルジャン1』古墳が紀元前9、8世紀と年代が判明したことで、ユーラシアの草原地帯の歴史が再考されたことだ。遊牧スキタイについてギリシャなどの記録に残っているものより、南シベリアのスキタイのほうが古く、ここがスキタイ文化の発祥地ではないかといわれている。
 黄金の『アルジャン2』古墳
『アルジャン2』古墳跡
中心の古墳跡
横に積み上げてあった土盛りの上から。
 スラーヴァが私たちを案内してくれたのはウス街道を右折して12キロ行ったところの『アルジャン2』のほうだ。この古墳群は『アルジャン1』の古墳群から数キロ離れている。考古学者のスラーヴァはハカシアの遺跡ならすべて知っているが、トゥヴァは領域外なので知らない。しかし、『アルジャン』遺跡群だけは知っていると言う。
 『アルジャン2』古墳も全体が石でできた古墳で、2001年ドイツやロシア、サンクト・ペテルブルク(考古学、民俗学と言えば、モスクワよりここのアカデミーがロシアの中心か)の考古学者チームが発掘調査しているのだが、盗掘を免れた黄金が20キロも見つかったことで有名だ。『ナショナル・ジオグラフィック』2003年6月号にも発掘の特集が載っているし、トゥヴァの旅行案内書にもある。2004年のトゥヴァ旅行のときは訪れなかった。
 この古墳の埋葬室が中心から外れていたため、昔の盗掘者たちは黄金を発見できなかったそうだ。それで埋葬室は2700年前のままの状態で発見された。スキタイの王と王妃が葬られていて、衣服の細かい動物意匠の黄金のビーズが骨の周りに散らばっていたと、スラーヴァが説明してくれた。黄金が見つかったのだから自動小銃で武装した警官も周りにたくさんいたのだそうだ。発掘のときは近辺の考古学者も動員されたのだろう。スラーヴァは、だからサンクト・ペテルブルク・アカデミー出版の『アルジャン2』遺跡の写真集を持っている。現物の遺跡を見ながらこの写真集で私とディーマに説明しようと持参していた。カラー版や白黒の多くの写真、遺跡の説明もロシア語でぎっしり書かれている。これは手に入れたい、と思ったが、スラーヴァによると、どこにも売ってない、出版部数がとても少ないのだそうだ。それなら全ページをコピーすればいいのだが、トゥラン・ウユーク盆地のどこにもコンビニはない。

 そこは青い山々がはるか遠くを囲む草原盆地で、しかし、遺跡のある場所は草もあまり生えていなかった。直径80メートル、高さ2メートルの掘り起こした塚の土は隣に積み上げてあり、そこに上ると、古墳のあった場所に古墳を覆っていた石を環状に並べてあるのが見渡せる。中心から14メートルはなれたところの埋葬室のあった場所にも、元あったように石が並べてあった。
 私たちは1時間ぐらいしかそこにはいなかった。発掘されて平らになったクルガンの中や外から写真を撮ったり、馬の墓だという穴に入ってみたり、掘って隣に積み上げられた土盛りの上に登ってみたり、大きな古墳の周りにある一族の墓だという小さなクルガン跡の上に立ったり、この場所を野外博物館にするためのスキタイ時代再現画の看板の写真を撮ったりしていた。
 もっといたかったが、これ以上はどうしてもすることがなかったので、私たち4人はまたランクルに乗り込み、ウス街道に戻った。ここからまたウユーク山脈を越えて80キロほどウス街道を行った所に、この日の宿泊地クィジール市がある。盆地の草原を走るのもトゥヴァらしい風景が見渡せるが、このウユーク山脈越えもトゥヴァらしい。道路のはるか右下にはビー・ヘムの流れる谷(湿原)が見渡せる。
 トゥヴァの『赤い』首都クィジール
クィジール市への道
 クィジールまであと9キロのところで、母アカシカが子ジカに授乳している彫刻があって、これがまたトゥヴァの首都を感じさせる(設置者の意図に素直に感動する私だ)。周りにごみが散らばっているところも(これは、設置者も仕方ないとしているか)。 
 スラーヴァはアルジャン遺跡までしかガイドができないが、一応最後まで同行する。クィジールにはアルカージーの知り合いがいてトゥヴァの見所を案内してくれるか教えてくれるはずだ。だから、アルカージーは道中その知り合いに携帯をかけて、
「サーシャ、俺、今どこにいると思う?クィジールまであと10キロのところだぞ。もうしばらくしたら着くからな」などと宣言していた。

 1755年から辛亥革命まで清朝の属領でウリャンハイと呼ばれていた頃の行政中心地は南のモンゴルに近いサマガルタイ村だった。
 1914年にはロシア帝国の保護領(エニセイ県の一地方)となり、ロシアにより近く、ビー・ヘム(トゥヴァ語で『大エニセイ』)とカー・ヘム(同語で『小エニセイ』)の合流点にベロツァルスク(ロシア語で『白い帝都』)と呼ばれる今のクィジール(トゥヴァ語で『赤い』)の建設が始まった。
 トゥヴァは1921年から1944年までは独立のタンヌ・トゥヴァ人民共和国だった。はじめ行政中心地はロシア人の殖民町トゥランだった。ベロツァルスクはヘム・ベルジール(『合流点』と言う意味のトゥヴァ語)と名前が変わっていたが、1923年トゥヴァ人民共和国の首都になり、1925年クィジールという革命的な名称になったわけだ。ちなみに1921年から1944年まで独立国トゥヴァ人民共和国を認めていたのはソ連邦とモンゴル人民共和国だけだった。中華民国(台湾)は今でもトゥヴァをタンヌ・ウリャンハイとして自国の領土とみなしているそうだ。

 トゥヴァ共和国の面積は17万平方キロというから、北海道2個分くらいで、人口は30万人。77%がトゥヴァ人、20%はロシア人(2002年)と、トゥヴァ語とロシア語のウィキペディアに記してある。(しかし日本語ウィキペディアでは64%と32%になっている。(こちらの方が古いのだろう)。ソ連崩壊前は、ロシア人の割合はずっと高かっただろう。全人口の半分の15万人が都市に住んでいて、そのうち10万人がクィジールに住んでいる。首都クィジールは、新しい町で、歴史的な名所はない。ただ、このクィジール市がカー・ヘムとビー・ヘムの合流地点に位置し、ここでエニセイ(ウルグ・ヘム)になることと、ちょうどこの地点の川岸にアジアの中心碑があることが有名だ。
 アジアの中心碑、ミュージシャンと仏教寺院
ビー・ヘムとカー・ヘムが合流してエニセイになる
その地点に建つアジアの中心碑
実は有名なミュージシャンたちと
クィジール市の新しいチベット仏教寺院
その内部
 この地にクィジール市がまだなかった20世紀はじめの頃、あるイギリス人探検家が合流地点よりビー・ヘムに沿って25キロ上流(?)のサルダム村が、アジアの中心だとみて碑を建てたそうだ。その後、1964年(トゥヴァのロシア連邦へ『自発的』編入20周年祭とかがあった)にはすでに首都になっていたクィジールに『中心碑』が立て替えられ、さらに、1984年(同じく自発的云々40周年祭とか)今の場所に立派な『アジアの中心碑』が建った。そのイギリス人探険家の時代ではヨーロッパとアジアの境界は正確ではなく、だから、サルダム村のあった碑も、この合流点にある碑も正確にはアジアの中心に位置していないかもしれない。

 私たち4人は、トゥヴァの見所を教えてくれるというアルカージーの知り合いと会うために、この『アジアの中心碑』に向かった。アルカージーの知り合いがなかなか現れないので長い間待っていたが、その間、ここは初めてだというディーマとスラーヴァに『中心碑』の歴史を説明してあげた。私は3度目だ。アルカージーは2度目だが、そんなことは知らなかった。
 この碑の横にシャマーン・クリニックがあるが、これもトゥヴァ旅行会社経由の2回目訪問(2004年)のとき訪れている。
 やがてやっと現れたアルカージーの知り合いはホメイ(のど歌)歌手サーシャ・オクチャブリとギタリストのアレクサンドル・メドヴェージェフだった。後でサイトを調べて、彼らがトゥヴァではかなり名の通ったミュージシャンだと知ったが、そのときは、しがないアルカージーの有名な知り合いだとしか知らなかった。
 彼らは、シャゴナールからサヤノ・シュシンスカヤ・ダム方面のクルーズを勧めてくれたが、私たちのようなドライブ派には不向きだ。珍しいところに行きたいというと、西トゥヴァ、タンヌ・オラ山脈の南側、つまりモンゴルのウブス・ヌール(湖)側にある自分の出身地の寒村を勧められた。すばらしい、もしそんなところに行けたら。だが、ランクルを運転するディーマが同意しないだろう。有名で忙しい彼らはすぐ去っていった。
 アルカージーにはまだ知り合いがいるそうだ。その知り合いもなかなか現れない。私たちはクィシール市内見物をすることにした。1999年に建てられたというチベット仏教寺院があって、2004年の2度目のトゥヴァ旅行の時訪れた。1999年1度目のときは、だからこの場所にはなく、ずっと郊外に臨時の寺院があっただけだった。
 ロシア正教のディーマたちは寺院には入らないというので、私一人が入っていった。掲示板のお知らせはすべてトゥヴァ語だった。お経を上げている部屋もあったが、多分チベット語だろう。寺院の後ろに小さな売店もあって売られていたのは、たぶんお守りなんかだ。首都の寺院は小さく、私は一人でぐるぐる回ったが20分以上はつぶせなかった。石段の上の本堂から下を見ると待っているディーマたちが見える。アルカージーは相変わらずビール瓶を手にしていた。空になった瓶はどこにおいているのか、もう尋ねない。

 仏教寺院の隣に、フレッシュと言う相撲によく似た伝統スポーツの競技場がある。私たちはぶらぶらと歩いていた。マンホールのふたがなくなって、ぽっかり大きな穴の開いている道路もある。覗いてみると、ほどよくごみが捨ててあった。スラーヴァによると、金属製のマンホールのふたは鉄くずとして売れるため、誰かが盗んだのだろうとのこと。
クィジールからアク・ドヴラックまでが国道162号線(全306km)
アク・ドヴラック→アバザ(ここまで236km)→アバカンが国道162号線(全401km)

 やがて現れたアルカージーの別の知り合いアリベルト・クベジンが言うには、西トゥヴァ、タンヌ・オラ山脈の南側のウブス・ヌール盆地にあるその寒村に行くには3日もかかるし、今この辺りはモンゴルとの国境地帯ということで許可がないと入れないそうだ。だから、チャダンに行ったらいいと言われた。そこにはホテルもあるが状態が悪いから自分の知り合いの民宿に泊まればいいと、電話番号を教えてくれた。チャダンの近くにスト・ホリという湖があってそこへも行けるそうだ。
 その日は『ブヤン・バディルギ』という20世紀のトゥヴァ名士(白軍に銃殺された英雄か)の名前がついたホテルに泊まった。36部屋あって66人宿泊できると書いてある。バス・トイレつきで快適。ツインルームは一人800ルーブル(3500円くらい)だが、私はひとりで1部屋だったので1600ルーブルと言われた。
 ホテルのカフェで私たちは夕食を取ったが、アルカージーはビールどころかウォッカもたっぷり飲んだようだ。
 遺跡の宝庫、トゥヴァ盆地
スキタイの動物意匠がデザインされた国立博物館
博物館内ホメイ(のど歌)音楽コーナーに
あった著名歌手のジャケット。
彼アリベルト・クベジンもアルカージーの知り合い
ハイイラカン』(モンゴル語で『天の熊』)山
ハイイラカン近くの仏塔(とゴミ)
遊牧するトゥヴァ人のユルタ
岩窟仏像遺跡(写真集『トゥヴァ』から)
 8月13日(水)朝9時40分ごろホテルを引き上げて国立博物館に向かったが、11時になってやっと開館した。アルジャン遺跡の出土品や遺跡内部の模型のほか、ダライ・ラマの仏教、ホメイ(のど歌)に関する展示物が多かった。
 1時には私たちは次の目的地チャダンに向けて、トゥヴァ盆地を縦断する国道162号線を西進していた。ビー・ヘムとカー・へムが合流してエニセイとなり西へ流れ、東からきたヘムチック川と合流してエニセイは西サヤン山脈に向かって北進する。ここに広がるトゥヴァ盆地は南北25から75キロ、東西400キロもあって、昔からトゥヴァ人が季節移動の牧畜をしていた。ここに8世紀ウィグル人の城壁跡が点々と15個も残っていると旅行案内書には書いてある。エニセイ・キルギスを防御して戦ったのだそうだ。クィジールから30キロほど西のウスチ・エレゲスト村郊外にはそのひとつの城壁跡があるそうだ。
 国道162号線を少し出てタンヌ・オラ山脈のほうに南下すれば、コバルト産地で有名なホブ・アクシスィ村の近くにスキタイ時代の古墳群があると、1979年モスクワ大学刊クィズラコフ著『古代トゥヴァ』や、モスクワ・ナウカ社刊マンナイ・オール著『スキタイ時代のトゥヴァ』にある。さらに同書には近くのカラ・ハヤ山からスキタイ人が銅を採掘していたと書いてある。20キロほど離れたアク・タール近くにも石造りの大きな古墳群があるそうだ。盗掘者が掘った穴からはカラマツの老樹がそびえていて、地下は永久凍土で覆われていて保存状態はよさそうだが発掘調査はされていないと、これは詳細旅行案内書(私の愛読書)に書いてあったことだ。またこの山地には岩石画が多く見かけられるそうだ。(後記:ホブ・アクスィ村近くのアク・タールの遺跡群は2012年に訪れることができた)
 こんな名所があるにもかかわらず、私たちは国道162号線を素通りしてしまった。トゥヴァらしい名所だ。スキタイ時代の銅採掘場も土しかないだろうし、古墳もやはり石か土まんじゅうしか見えないだろうし、岩石画を見ようにもそこへ行く道もないだろう。こんな、観光用にまったく整備もされていないような名所遺跡を、整備される前(されないかもしれない)に見るのが好きだったのに。
 ディーマたち好みではない名所だ。

 クィジールからエニセイ川(ウルグ・ヘム)が右手に見え隠れする国道をまっすぐ105キロのところには、有名な『ハイイラカン(モンゴル語で『天の熊』)』山が道路からよく見えるところにあるはずだ。広々とした草原の前方に突然そびえている岩山がみえたので、ディーマも車を止め、スラーヴァと私は写真を撮り合い、アルカージーはタバコをすった。
 ハイイラカン山の下を流れるエニセイは広く深くなっているそうだ。道はこの高度1300メートルの山を越えていく。ハイイラカンの聖なる場所に1992年ダライ・ラマが訪れたという記念の仏塔が立っている。トゥヴァでは聖なる場所にはどこにも、このチベット仏教の塔が立っていて、その近くに布切れを結びつけるロープと、それから、必ずごみの山がある。

 ハイイラカンを超えて10キロほど行ったところに『シャゴナール』と書いた道標がある。ここをエニセイのほうに曲がれば、人口1万人のトゥヴァ第3の町シャゴナールに出る。アバカンに行ったときにはいつも泊めてももらうディーマの兄嫁さんはこのシャガナール出身だ。ソ連崩壊で多くのロシア人はトゥヴァを引き上げたが、彼女の一家もその一人だそうだ。
 ここから、約300キロも川下にできたサヤノ・シューシンスク発電所のダム湖が、このあたりまで続くことになったので、シャガナールは7キロほど離れた高台に移った。ダム湖ができてみると、元の町の辺りは実は湖ではなく沼地の下に沈んだのだそうだ。
 この巨大なダム湖には、無数の古墳、石画など貴重な古代遺物が沈んでしまった。新シャガナールの博物館には沈む前に収集した遺跡の一部が展示されているそうだ。しかし私たちはシャガナールには寄らなかった。
 ウルグ・ヘム(エニセイ川)とヘムチック(エニセイの左岸支流)からなるトゥヴァ盆地は遺跡の宝庫だ。それら貴重な遺跡の中でも、1914年ここを訪れたイギリス人探検家のカルテルスがイギリスの街道より広くて平坦だと驚いた8世紀頃のウィグル人の道路遺跡や、その周囲の無数の岩画、古墳、13世紀の岩窟仏像遺跡などは、ダム湖に沈んだそうだ。中でももっとも立派な岩画は沈む前に運び出されてクィジールの人文大学前に展示してあると、資料にはある。ダム湖から免れて今も見える遺跡もあるそうだが、私たちは全くどこへも寄らなかった。どの遺跡も国道からすぐそばに見えるところにはないし、たとえ見えてもよく知らない人には牧草地の一部にしか見えないし、どこに何があるか詳しく知っているガイドに案内されない限り行きつけない。あるいは、1箇所くらいなら遊牧中の地元の人に訪ねるとか(たいていは、知らないと言われる)、村に入って知っている人を探し当てて道を聞いて、迷いながらなら行き着けるかもしれないが。

 どこへも寄らず、草原や、低い山々の間を縫って通る国道を私たちはひたすら走った。山のふもとにはユルタが張ってある。訪れてもよかったのにと思う。外国人が珍しいここではただ近寄っていって挨拶するだけで、しばらくは話し相手になってくれ、もしかしてユルタの中も見せてくれるかもしれない。しかし、同行のディーマたちはどうもトゥヴァ人にはよい印象を持っていないようだ。私のクラスノヤルスクの知り合いの多くはソ連崩壊以後トゥヴァ人に対しては複雑だ。
 どこへも寄らなかったが、草原の中の分かれ道に立つ道路警察には止められて車の中を調べられた。関所みたいなものだから。
 トゥヴァ人の町チャダン
復興5年目の下チャダン寺院(アルヅィ・フレー)
国道162号線からチャダン市に入ったところに立つ
国道162号線沿いにあるチャダン市
ベッド5台ぎっしりの大部屋
 クィジールから国道162号線を225キロ行ったところに今日の目的地、人口8千人のチャダン市がある。
 近づいたところで、知り合いの、知り合いの民宿と言うところに電話したが、今は修理中で受け付けられないと言う。5時半ぐらいにこの市と言うより村に到着し、仕方がないのでホテルを探すことにした。やがて見つけたのは、1階は店や食堂になっている小さな建物の2階が25人泊まれるという町で唯一のホテルだ。ゆがんだ階段を上っていった2階の1室が受付で、太ったロシア人女性がトゥヴァ人女性としゃべりながら座っていた。部屋は5部屋ほどあってみな大部屋だ。ベッドが5台の男性用の部屋にディーマたち3人があてがわれ、ベッドが6台の女性用とか言う部屋が私にあてがわれた。
「私と一緒の部屋でもいいわよ」と受付の女性に言われたから、職員も客室のひとつで寝ているのかな。やはり、今のところ一人のほうがいい。もちろん相部屋だから、夜中にどんな泊り客が入ってくるかもしれないが。だから、
「こんな見知らぬ町の見知らぬ旅籠やで、知らない女性より、知っている男性と同じ部屋で寝たほうがましだ」と言ってみたが、
「女性のあなたを男性の部屋に泊めてあげるわけにはいかない」などといわれた。何か誤解しているのではないか。こんな小さな町に私以外の女性の旅行者がくるはずはないから、明日の朝までは一人で1部屋占領できると思うことにした。

 スト・ホリ湖は私の持っている地図ではチャダンから程遠くないところにある。例の受付の女性に聞いてみるとそこまで50キロくらいか、と言う。はっきりは知らないが、ただ、田舎の道はすごく悪いそうだ。ランクルなら行き着けるだろうとのこと。町のほかの住人に聞いても、スト・ホリ湖の行き方は誰もあいまいにしか知っていない。
「ほら、向こうに青く見える山の方さ」としか答えない。
 ちなみに、アルジャン遺跡以外のトゥヴァは、詳細地図(と言っても百万分の1)を持参した私が一番よく知っていて、大体私がナビゲーション役を務めた。ディーマは一生懸命運転していたし、スラーヴァは知らないながらも考古学調査の勘で現地の人たちに聞きながら、私たちの力強いガードマンになってくれていたが、最もトゥヴァを知っているはずのアルカージーはビールを飲むとやたら喋り捲るか、後部座席で寝ているか、アルコールが切れるとしょんぼりしている不思議な同行者だった。アバカン出発前、彼は音楽プロデューサーでトゥヴァの音楽祭にも参加、チャダンでの毎年の国際音楽祭にも一度(以上と思う)は参加、そのときスト・ホリ湖までグループで足を伸ばしたと言っていたが、今、スト・ホリ湖の近くまで来て、そこへはどう行くかも知らないようだった。
 まだ5時半、あと4時間は明るいからスト・ホリ湖へ行ってこよう、地図で見るとほらこんなに近いではないか、と言ったが、やはり次の日の朝行くことにして、この日は有名な『ウスツ(上の)・フレ(寺院)』を見ることにした。
 上チャダン仏教寺院
かっての上チャダン寺院の壁
寺院の内部にある大きなダライラマの写真
廃墟の寺院の横に立つユルタと少年僧
その内部
廃墟の横にある木造の臨時の寺院
上チャダン寺院復興模型
 1878年チャダン川のほとりに仏教寺院ができ(もっと古い頃の寺院はトゥヴァの移動式住居ユルタだった)、1907年にはその7キロ上流にチベット僧を招いてモンゴル様式の立派な『ウスツ(上の)・フレ(寺院)』が建設され、チャダンはトゥヴァの一大仏教中心地となった。1929年には350人のラマ層が住み、たいそうお金持ちだったそうだが、1930年閉鎖され、1937年には破壊された。
 アルカージーによるとラマ僧たちはこの近くの木に絞首刑にされて放置され、誰も寺院には近づきたがらなかった、とか言うが本当かどうか。
1984年、廃墟

 破壊後、長い間『ウスツ(上の)・フレ(寺院)』が立っていた広い野原の中に、かつての僧院の一階部分の分厚い壁が風化されるままに残される廃墟になっていた。1999年には復興が企画され、今、廃墟をガラスで囲み、その横にコピーを立てる工事が進んでいる。復興に賛同した音楽家たちが毎夏ここで大規模な国際音楽祭を開いている。民俗音楽ののど歌(ホメイ)歌手をはじめ、日本からの参加グループもあるそうだ。アルカージーも第何回かのフェスティバルのとき参加したそうだ。

 上チャダン寺院に着いたのは6時半ぐらいだった。私たちはランクルから降りて、20世紀はじめのトゥヴァ仏教のメッカで、21世紀初めは民俗音楽家たちのメッカになった廃墟をひとわたり見物した。厚さ1メートル半もありそうな半壊の粘土の壁に囲まれた(荒地にしか育たないような草の生えた)床には、大きなダライ・ラマの写真が飾ってあった。廃墟の近くにはトゥヴァでよく見かける石の仏塔や、木造の臨時の寺院、たぶん僧侶たちの住むフェルト製のユルタがあった。トゥヴァ人の年配の女性が、木造寺院から出てきた。袈裟をまとった僧侶も2、3人寺院やユルタを出たり入ったりしている。広い野原にはそのほか誰もいなかった。
 僧侶に話しかけてみようではないかとディーマやスラーヴァを誘ったが、彼らはロシア正教の信者のせいか、トゥヴァ人を好きでないのか、いやだと言って車に戻って行った。せっかくここまではるばる来たのに、何も知りたがらないロシア人たちだ。
 私は一人で、白いフェルト製のユルタに近づいていった。頭を丸めた男性がじっとこちらを見ている。日本から来たんだと、『日本』を強調すれば、遠いところから来たと感心して話し相手になってくれるものだ。
 若い僧侶でちゃんと私の話しかけに応じてくれた。話しているとユルタの中からもう一人出てきたので、こちらにも話しかけてみた。彼らは僧侶になったばかりで、ひとりは1ヶ月前でもう一人は半年前だそうだ。仏教については師匠に聞いてくれと、木造の仮寺院に案内された。そこでは年配の僧侶がいて、一応私の質問には答えてくれたが、トゥヴァ人のロシア語は実はあまりわからない。彼は僧侶の息子ではないそうだ。ザバイカル地方のアギンスクで修行をしたそうだ。

 上チャダン寺院には全部で1時間くらいしかいなかった。私が僧侶と話している間、ディーマとスラーヴァは車の周りをぶらぶらしていたようだ。一方、アルカージーは車のクールボックスに入れておいたディーマのビールを見つけ出して飲んでしまったそうだ。ディーマはこのことを後々までトゥヴァ旅行が話題になると笑い話として繰り返していた。

かっての上チャダン寺院
1906年、南東方角から
1912年北西方角から 1925年、南正面
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