クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 01 April, 2017 (追記・校正: 2017年5月7日、5月30日、2019年12月16日、2021年11月23日)
34-1    2016年 トゥヴァ(トゥバ)からペテルブルク (3)
    トゥヴァ盆地からペテルブルク
           2016年8月2日から8月10日(のうちの8月6日から8月10日)

Путешествие по Тыве 2016 года (2.8.2016−10.8.2016)

1)8月2日から8月10日  トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
  8/2-8/3 ハバロフスク経由(地図) クラスノヤルスク クラスノヤルスクからトゥヴァ(地図) 考古学キャンプ場
  8/4-8/5 匈奴のカティルィク遺跡 スグルク・ヘムの岩画(地図) 影のない半砂漠草原で『遭難』 『救助』される
  8/6-8/10 (地図) 巨大古墳チンゲ・テイ遺跡 ダム湖岸の遺跡 トゥヴァからクラスノヤルスク サンクト・ペテルブルク
2)8/11から8/20  コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3)8/20から9/6   北カフカスのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
 巨大古墳チンギ・テイ遺跡
1.首都クィズィール 2.シャガナール市 3.チャー・ホリ村 4.チンギ・テイ古墳 5.バヤン・コル村 6.サウスケン・キャンプ 7.アルディン・ブラグ 8.ウユーク川 9.エニセイ川(ウルク・ヘム) 10.ダム湖(堤高241mのダムは312キロ下流にある)  11.テレジン遺跡 12.チャー・ホリ川 13.仏教石窟寺院シュメー
 8月6日(土)、この日は、パーヴェル・レウスさんはクィズィール近くのドゲェー遺跡の調査に行くので、私の同乗はできない。それでエヴゲーニィ・リボヴィッチ・キリロフ Евгений Львович Кирилловさんに同行してもらうことにした。ピックアップはツー・ドアで後部座席に2人しか乗れない。ラザレフスカヤさんはいつも同乗することになっている。土曜日はチンゲ・テイ古墳発掘に、キリロフさんか、またはエルショワさんに乗ってもらって、コンスタンチン・チュグノフさんに挨拶に出かけたらいいと、キルノフスカヤさんがモンゴル出発前に計画を立てておいてくれたのだ。発掘物を見せてくれるかもしれない、と言う。チンゲ・テイ古墳は数年前からエルミタージュのコンスタンチン・チュグノフが調査している。キリロフさんも、チュグノフに会いたがっている。
 エールベック川のキャンプ場からチンゲ・テイ Чинге Тей遺跡は直線では100キロもなさそうだが、ウユーク山脈があるので(将来は鉄道が通るとしても、今は)道はない。遠回りでその倍以上はかかる。まず連邦道54号線まで出て、80キロほどクルトゥシュビン Куртушибин山脈の方へ向かい、トゥラン市を通り過ぎると、ウユーク盆地へ入る道に出る。ウユーク山地の南を流れるウルッグ・ヘム(エニセイ川)とヘムチック川でできる東西に長いトゥヴァ盆地に並行して、ウユーク盆地は、その北、クルトゥシビン山脈の南を流れるウユーク川の盆地だ。この道は、『王家の谷』とも言われ、2003年未盗掘だったため黄金の見つかった『アルジャン2』古墳や巨大な古墳が多いウユーク盆地のアルジャン村へ通ずる。連邦道を西に折れて30キロほどのアルジャン村を過ぎると、南はハディン村だが直進すると道路はさらに悪くなって、チカロフカ村に入る。村を通り過ぎて草原の中、左右に目を凝らして進むと、発掘調査している人たちがいるチンゲ・テイ古墳が見えてくる。そのリーダーがチュグノフで、近づいて行って(見えたからと言って、草原の道らしいところを探しながら進まなくてはならないから、直進ではない)挨拶する。『チンゲ・テイ1』古墳は『王家の谷』ウユーク盆地の最も西にある巨大古墳だ。
チンゲ・テイ古墳の全体図、指はチュグノフ
キャンプ場でラザレフスカヤさんとマリーシャ

 ウユーク盆地には巨大な古墳が多い。ウユーク盆地を横切って敷設される鉄道予定地内の古墳群の『ベーロエ・オーゼロ(ベーロエ湖)』(2014年キルノフスカヤさんたちの発掘)や『オルグ・ホブー』(同左)、最大古墳『アルジャン1』(1970年代発掘調査)と『アルジャン2』(同2003年)の古墳のほかは、ほとんど発掘調査されていない。しかし、チカロフカ村とチンゲ・テイ(チンゲ・ダック)山の間にある直径105メートル以上ある『チンゲ・テイ1』古墳は2008年から国立博物館エルミタージュのチュグノフが発掘している。『アルジャン』古墳群以上の考古学価値があると想定されているが、予算が少ないので、進展は遅々としている。ひと夏シーズン(夏場しか仕事ができない)ごと、少しずつ発掘しているらしい。全容がわかるまでにはまだまだ年月がかかる。しかし、2011年には4基の墓地を発掘したが、2015年にはさらに2基を発掘した。この大古墳にいくつ墓(弔われた人物は石棺に入っていることも入っていないこともある)があるかまだ不明だ。中心から外れたとことに、こうして葬られた遺体(骨)が眠っているのだ。古墳の中心まではまだ遠い。場所が『王家の谷』にあり、6基の墓地の一つから黄金の耳輪が発掘されているので、この古墳は権力者のものであることは間違いない。当時、黄金は神聖な金属であり、必ず副葬したのだから。これまで発掘した6人は全員戦士だった。最年少は12−14歳だが、弓矢セットが副葬されていた。・・・Александор Адрианов
 『チンゲ・テイ1』古墳には多分40分ほどいた。チュグノフが説明してくれたが、実はよくわからなかった。予備知識がなかったからだ。古墳は直径60mくらいの円形だが、周りに堀があり、そこを含めると105mになる。堀の内面には粘土が塗られている。たぶん(上記の)ベーロエ湖の湖底から持ってきたものだろう。古墳は紀元前6世紀の前期スキタイ時代と推定できるが、堀を造営するようになったのは後期である。鹿石が2柱見つかっている。これは前時代に建てられた石を再利用したものかもしれない。『アルジャン2』でも鹿石が見つかっている。…
 12時半過ぎ、お昼を食べにチンゲ・テイのキャンプ場に行く。考古学発掘調査隊のキャンプ場はみんなよく似ている。ユルタがあって、そこには貴重品と情報機器が置かれ、また仕事場にもなっている。キッチンと食堂のテーブルがあるテントも設置してある。周囲にはそれぞれが寝泊まりする小型のテントが張られ、運転手付きのウアスが止まっていて、木造の小屋もあり、少し離れたところにはトイレ小屋がある。そして必ず近くに川がある。ウユーク川の支流のようだった。
 1時過ぎ、私たちはテーブルに座って食事した。10歳くらいのマリーシャという女の子がいてキャンプ場にくるお客の相手をしたがっている。そのマリーシャのママが「今だけコック」だった。
 食事が終わると、チュグノフは、木造小屋に保管してあるトゥヴァ風の模様のある長持ちを運んできて、中の発掘物を見せてくれた。写真を撮ってはいけないと言われたので、私たち訪問者はチュグノフが食堂のテーブルの上に順番に広げて、説明してくれた発掘物をただ感心して眺めるだけだった。発掘物はまだ修復してない生のままだし、調査が一段落すれば、チュグノフの論文も出るだろうが、今のところは、チュグノフが個人的に好意で見せてくれるのを感謝するだけ。小屋から、長持ちを運び出してくるのも重そうだった。発掘物はそれぞれ小さな有り合わせの箱に入れてあり、それを一つ一つ出してテーブルに置き、説明して、また片づけるのも大変だ。
 墓地の一つは特に保管状態が良く、革製品などもそのままの形で発掘できた。しかし、脆くなっている。それらを拾い上げて箱に入れるのも細心の注意が必要だ。そんな脆くて貴重なものを、テーブルに出してきて、それをまた箱に戻すのも、見ていてもハラハラする。壊れた革製品もあったかもしれない。
 『チンゲ・テイ1』古墳は、全体に保存状態が良いそうだ。しかし、2003年の『アルジャン2』古墳発掘で多量の黄金が見つかったため、『王家の谷』にあるより小規模な古墳まで、盗掘されるようになった。『チンゲ・テイ』を発掘しているのも、盗掘で荒らされる前に調査しようという意図もあるそうだ。造営の形も同時代の古墳と違って、研究の価値がある。
 2時過ぎにキャンプ場を後にした。時間が早かったので3年前に発掘した『オルグ・ホブー』古墳に寄ってみようとキリロフさんが言う。当時、キリロフさんやラザレフスカヤさんが実際にスコップやシャベルで発掘していた。私はキルノフスカヤさんと車で回って見ていただけだが。
 3年前には草原の中に道がついていたのに、今は周り中すっかり草が生い茂り、わずかに土盛りになっているところが、昔の場所だとわかる。ピックアップで近づいて行って、その場所に立って、周りを見る。発掘跡の古墳には、何もない。蚊やブヨだけがうじゃうじゃいた。
 私たちのキャンプ場に戻ってきたのは6時過ぎだった。パーシャへのクレームはディーマに送ってある。ネット接続は、キャンプ場にはないが、接続できる場所に出たときには送信される。
 渇水期、ダム湖から現れる遺跡
 8月7日(日)、この日は9時過ぎに出発できた。ナターシャ・ラザレフスカヤさんのほかに同乗してくれたのは、彼女の親友のタチヤーナ・エルショワさんだった。いつも二人でトゥヴァに調査にやってきて同じ大型テントに住んでいる。この日の行程は片道200キロ以上あった。サヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖、つまりトゥヴァ海のチャー・ホリ村付近へ行く。チャー・ホリ村はクィズィール市から、エニセイの左岸、トゥヴァ盆地の共和国道162号線を170キロ行ったアク・ドゥルク村で、ダム湖の方へ曲がり14キロほど行ったところにある。旧チャー・ホリはダム湖に沈んだので、ここに新チャー・ホリを作ったのだ。旧チャー・ホリはかつての交通の要路ウルッグ・ヘム(エニセイ川)岸にあり、クィズィールが首都として建設されるまでは、ほとんどウリャンハイ(トゥヴァの旧称)の中心とも言えて、中国人商人は、チャー・ホリをなまってジャクリと言っていたそうだ。それなりの歴史のある旧チャー・ホリ村人が移住した新チャー・ホリは道路のまっすぐな(つまり人口の村)、ほこりっぽい集落だ。

 クィズィールから西へ行く共和国道162号線を、私は何度も通った。沿道にあるものはたいてい車から降りて見物したものだ、それも1度ではなく。
 パーシャのほうは2012年に、私に「帰りはアク・ドヴラク経由にしよう」と言われ、地理に疎かったパーシャは、200キロも遠回りのこの道を通ったことが1度だけあった。その時、クィズィールから40キロほどの『アルディン・ブラグ』という政府肝いりのトゥヴァ民族風の宿泊総合施設が、エニセイを見下ろす絶景に作られていて、そこが、パーシャには気に入っていて、もう一度寄りたそうだった。しかし、
「パーシャ、彼らが待っているから早くチャー・ホリの方へ行こう」と急がせて通り過ぎる。パーシャの写真のためにトゥヴァに来たわけではないし、私は『アルディン・ブラグ』は3度も見ている。それ以上見たいとは思わなかった。
 むしろ、クィズィールから150キロほどの『スゥィン・チュレク』山に寄りたかった。2002年に近くまで来たが上らなかった。共和国道162号線を通るたびに、寄ろうと思うのだが、機会がなかったのだ。今回も結局は寄れなかったが。
 チャー・ホリ村のパーヴェル・レウスさんたちとの待ち合わせ場所、村を通りすぎて『オーン・マニ・パドメー・フーン Ом-мани-падме-хум』(*)と書いてある標識に着いたのは12時半頃だった。待っていると小型ジープが近づいてきた。パーヴェル・レウスさんたちが、クィズィール市近くのドゲェーから乗ってきた車で、彼らは既に2時間も前に調査場所について仕事を始めている。迎えに来てくれたのはその運転手アレクサンドル Александр Иванович Евсеевさんだった。彼の後について、チャー・ホリ村とダム湖岸の間の草原砂地を30分ほど行く。湖岸近くに屋根だけのテントがあって、ここがパーヴェル・レウスさんたちの今日の調査基地だった。トゥヴァでは車を動かすときは可能な限りの同乗者がいるものだ。彼らの車は小型ジープだったので運転手のほかは3人、レウスさんの他ダリーナ Дарина Николаевна Ултургашеваさんとロマン Роман Анатольевич Жундо君も、自分たちの調査をしている。
(*)オーン・マニ・パドメー・フーンというチベット仏教のマントラ真言、六字大明陀羅尼(ろくじ だいみょう だらに)、チベット仏教のトゥヴァでは首都クィズィールから見えるドゥゲー山斜面のほか至る所で読める。

 ダム湖の水位は季節によって上下が激しく、今は中くらい。今、青い水をたたえている水面も乾季には干上がって、つまり、水が引いて沼地に生えるような草はらが遠くまで広がるそうだ。水位が上がると、今私たちがいるところも、その上の崖を超えて(今では湖岸段丘となっている)水がくる。
 ダム湖ができる前までは、エニセイ川のほかはすべて陸地だったところだ。前スキタイ時代から中世後期にかけての遺跡が多かった。このウルッグ・ヘム(エニセイ川)の作るトゥヴァ盆地は南シベリアでも、もっとも豊かな地の一つで、あらゆる歴史時代を通じて、あらゆる文化を持った民族を引き付け、また新たな文化の発生地ともなった場所だ。
 1978年から1985年にかけて発電所が稼働始め、ダム湖が出来上がったが、湖水が引いた時にはそれまで発見されなかった埋葬地がいくつも地表に現れてきた。毎年、それらは流されたり、また現れたりする。
湖水が引いた時に現れた頭骨
チャラマ(リボン)が結び付けられた長い階段の途中
仏陀の像の前で

 パーヴェル・レウスさんたちはその調査をしている。湖岸や湖岸段丘は砂地だ。その砂の中から石棺が現れている。砂浜に生える草にせき止められたかのように土器の破片や、小さな骨片がある。流されてきたような石棺の側面だか天井だかが半分砂に埋まっている。たぶんその中に葬られていただろう人骨の一部と副葬品のツボの破片が近くにある。立派な頭蓋骨もあり、これ以上風に飛ばされなかったのは、大きめの石の間に収まっていたからのようだ。
 これらは中世初めのものだそう。彼らも永遠の眠りを水や風に邪魔されて、血縁でもないものに白骨をさらされ、…
 運転手のアレクサンドルさんが昼食を作ってくれた。エルショワさんは、せっかく水辺へ来たのだからと、水着に着替えてダム湖で泳ぐ。水着のなかったパーシャは、車で崖向こうの湖岸へいって泳いできたよう。パーヴェル・レウスさんたちは私たちが来る前にひと浴びしたようだ。私の知っている限りのロシア人は水場と言え、湯場と言え、必ずつかる。
 私は崖(湖岸段丘)の上から写真を撮っていた。この場所、つまりチャー・ホリより北東10キロの(ウローチッシャ)・テレジンурочище терезин遺跡は2007年から調査されている。2017年3月にレウスは約束通り会報に乗っている報告書を送ってくれた。それによると…

 3時半ぐらいには、引き上げる。この近くの名所と言えば、仏教石窟寺院『シュメー』があると言う。トゥヴァの旅行案内書にも必ず載っている。13−14世紀のモンゴル時代に掘られたという石窟でチャー・ホリ川左岸にあったが、ダム湖に水没して5月から7月の乾季にのみ訪れることができるとか、できないとか。それでは信仰心が満足しないので、ダム湖に突き出た高い岬に同じく『シュメー』という名所が新たに作られた。トゥヴァの遠くからもお参りにやってくるという。
 新チャー・ホリ村はダム湖にできた湾の南岸の奥深くにあり、私たちが調査していたのは湾の東岸で、シュメーは西岸にある。南岸は沼地で通れないので、チャー・ホリ村まで戻って、西岸へ行く。砂地の草原が続いている。
 4時半ごろ、シュメー山の麓に着く。石窟寺院まで長い木の階段が続いていて、手すりには青赤黄白のリボン(チャラマ)が結び付けられている(聖なる場所には南シベリアではこのようにチャラマがしつらえてある)。この長い階段をのぼりつめて上まで行ったのは、アレクサンドルさんとエルショワさん、ラザレフスカヤさんと私だけ。あとのロシア人はキリスト一神教徒だからか、下で待っていた。
 のぼりつめると、仏陀とその両脇には菩薩が極彩色で描かれている。ここへ次々とトゥヴァ人の家族が上がってくる。石窟の前の足場は狭く、数人も上がってくれば、満員になる。写真を撮ろうと3歩もバックすれば手すりもない高台から真っ逆さまに落ちそうだ。子連れで来ている感じのいい若い女性と目があったので、どこから来ましたかと尋ねてみる。ハンダガイトゥからだそうだ。タンヌ・オラ山脈の向こう側からではないか。
 ここから、ダム湖がはるか見下ろせる。近くにフェリー乗り場があって、湖上を一艘の船が滑っていくのが見える。時間があれば遊覧もできたのに、とラザレフスカヤさんが言う。ダム湖でもこの辺が最も広い場所で、この下流になると幅は急に狭くなる、サヤン峡谷に入るからだ。
 シュメー山の長い階段を下りて、下で待っていた4人と合流し、2台の車で帰途に着いたのは5時頃。私たちのキャンプ場まで3時間はかかった。
 途中のクィズィールから40キロの『アルディン・ブラック』にパーシャは勝手に向きを変える。自分が撮りたいところがあったからだ。朝、行に寄ろうとしたとき、私が待たれているからと先を急がせたのだ。私やラザレフスカヤさんたちは施設を見物しようとはしなかった。パーシャが走って行って写真を撮っている間、車から降りで足を延ばしていただけだ。本当は車からも出たくなかったが。戻ってきたパーシャを私としては冷たく迎える。こんなところに寄るくらいなら『スィゥィン・チュレク』に寄りたかったのに。遅い時間だったから先を急いだのに。
 エールベック谷に入ったころ、雷鳴のなる豪雨となった。いなづまの光を頼りに、私たちは道に迷わずに帰りつけた。
 チェルノゴルスク経由クラスノヤルスク
 8月8日(月)、この日キャンプ場を去って、チェルノゴルスクのパーシャ宅に一泊してクラスノヤルスクに戻る。来る時と違って、2日がかりで帰ることにしたのは、10日早朝の飛行機に間に合うように、と思ってだ。800キロの道のりで、車が故障して1日ではいきつけないということもある。キルノフスカヤさんからミヌシンスク博物館が改装したので、帰りに寄ってみたらいいと勧められていたが、パーヴェル・レウスさんが電話してみると月曜日と火曜日は休館だった。アバカン博物館も月曜日は休館だった。
 骨の鑑定の仕方を教えてくれる
 サーシャに電話してみると、夕方7時より早くは仕事が終わらないから留守だという。では、8日は7時以後に400キロの行程のチェルノゴルスクに着くよう、遅めにキャンプ場を出発しよう。昼食後とか。
 午前中は発掘物を見せてもらっていた。副葬品は、土器の破片、青銅の耳輪や剣、2カ所穴のあいた子安凱、玉、バックル、根元に穴のあいた角、小さなリング、埋葬の郭に用いていた木片のついた繊維らしいものの切れ端、矢の先、鏡などがあり係りの女の子が説明してくれる。骨は別の小屋に保管してある。骨の鑑定はまた別の女の子で、一つの頭蓋骨を取り上げて、性別年齢などの見分け方を説明してくれる。彼女はいつも発掘された骨と付き合っているのだが、数千年も前のものだから、あまり亡者を感じないとか。これが第2次大戦のものだったりすると別だが、と言っていた。
食堂のコックさん
オリガさん、タチヤーナさん、パーヴェル
ヴァ―リャ、
背後の壁の写真のヴァ―リャは初めて会ったころ

 もう一度発掘中のサウスケン・クルガンを見て、お昼を食べ、特に親しくなった人たちと懇ろにあいさつを交わし、1時半ごろキャンプ場を後にした。

 この日パーシャはとても神妙だった。だが、(私の心証をよくするためには)もう遅いというものだ。
 トゥヴァとクラスノヤルスクの境界の見晴らし台の近くで、地元の人がブルーベリーを売っていた。小さなバケツ一杯が100ルーブル(180円ほど)。バケツ一杯は食べきれないが一応買っておく。途中でできる限り食べたが、この日の宿のサーシャ宅に大部分は残してきた。
 サーシャ宅に着いたのは、8時過ぎだった。サーシャの2度目の妻(数年前から同居)のレーナは遅番勤務でいない。先妻の娘ヴァーリャの作ってくれたマカロニ料理を食べる。ここへ初めて来たのは2005年2月だった。そのころサーシャは初めの妻のマリーナといっしょで、ヴァーリャは8歳くらいだった。マリーナの先夫との娘のナースチャ(サーシャが養女にした。当然のことながら、ヴァ―リャより年上)と4人家族だった。マリーナとは2011年くらいに別れてヴァーリャはサーシャと残り、マリーナとナースチャはクラスノヤルスクに住んでいるらしい。ヴァーリャは競馬場のトレーナー助手として働いている。彼女は小さい時から乗馬が好きだった。競馬では優勝したこともあるらしい。
 初めて会ったときは、小さな女の子だったヴァーリャも今では、自分の好きな仕事にも就き、洗濯して干してある騎手の服も誇らしげに見せてくれるほどになった。サーシャの家は、2005年に泊めてもらったときは、水道もトイレもシャワーもなかった。水は近くの井戸から運んできたし、菜園の向こうに『ボットン』トイレ小屋があり、ガレージの続きには蒸し風呂小屋があった。今では水の出る流し台や、水洗トイレとシャワーボックスもあって、洗濯機もある。

 8月9日(火)。チェルノゴルスクから400キロほどのクラスノヤルスクだが、なるべく早い時間に着きたかった。ディーマにロシア携帯のシムカードのセットを頼まなくてはならないし、両替もあり、早めにホテルへ入って、洗濯もしたい。翌日のサンクト・ペテルブルク行の飛行機は早朝の5時40分発なので3時半にはホテルを出なければならない。サーシャやヴァーリャにも仕事がある。出発したのは8時半頃だった。途中パーシャとランチを食べ、ディヴィノゴルスク市のエニセイの橋を渡ったのは1時半だった。
 パーシャがクラスノヤルスク発電所に案内するという。クラスノヤルスクに住んでいたころ、何度も見ているし、その頃と変わってないので、特に寄りたいとも思わなかったが、急にサーヴィス精神の旺盛になったパーシャに気を遣ってあげて、一応車から降りで写真を撮る。
 2時には『第4の橋』を渡ってクラスノヤルスクに入る。ディーマさんの会社に着いたのは2時半。ロシア携帯をセットしてもらい、5万円で31500ルーブルを両替してもらって、ワジムと3人でお昼を食べて、ホテル『アグニ・エニセイ』に入ったのは6時過ぎていた。 
 クラスノヤルスクからハカス・ミヌシンスク盆地と西サヤン山脈を超えていく陸路の連邦道54号線は私の好きな道の一つだが、やはり時間がかかりすぎる。途中の寄りたいところはウシンスク村のほかはすべて寄った。これからは、かなり定期的に飛ぶようになったという飛行機にしようかと思っている。
 クラスノヤルスクからサンクト・ペテルブルク、そしてコミ共和国
 8月10日(水)。ホテルのフロントで頼んでおいたタクシーは3時半の約束の時間に玄関に降りてみると、ちゃんと待っていてくれ、4時過ぎには空港に着いた。ホテルのフロントでもそう教えてもらった通り、タクシー料金は950ルーブルで、感じのいい女性の運転手だった。前年『オテル・ドゥーマ』から乗った時は1200ルーブルとかだった。距離はほぼ同じなのに、ホテル・フロントによって値段が違う。フロントに頼むとホテル既定の手数料もとるのかな。
 空港の搭乗待合室ではこれから行くサンクト・ペテルブルクとスィクティフカルにロシア携帯からショート・メールを送る。
 5時40分に出発して7時5分にサンクト・ペテルブルクに到着する。時差は4時間だから、5時間半も乗っていた。
 サンクト・ペテルブルクのプルコヴォ空港では打ち合わせの通りジェーニャが迎えてくれ、彼の車で市の南にあるアパートへ着いてスーツケースを下したのは8時ごろ。
 ジェーニャのメールにも書いてあったが、朝食におにぎりとみそ汁を作ってくれる。日本食のちょっとした食材がサンクト・ペテルブルクでも売られていて、彼はそれらを買い求めて自己流日本食を作り、本物の日本人にごちそうするのが、たぶん好きなのだ。おにぎりのお弁当とポットに入れた味噌汁をもって、彼は仕事に出かけ、私は一休みする。
 12時近く、打ち合わせておいた通り、彼のアパートに鍵をかけ、近くの地下鉄に乗って、町の中心へ出かける。ネフスキー駅でジェーニャと待ち合わせ、リゴフスキー通りにある『ガレレヤГалерия』という5,6年前に開店した5階建てショッピング・センターに行く。そこには店舗が300以上、食べ物どころは30近くあるそうな。この場所は、ずっと昔は稼働していただろう工場や古い建物があった(その一部は今でもガレレアの屋上から見渡せる)。かなりの部分を取り払って、世界中どこにもあるようなアミューズメント・ショッピング・センターが建てられた。ロシア帝国風でも、ソ連風でもないこのセンターをジェーニャは私に見せたかったのだ。1階の目立つところには最近オープンしたサンクト・ペテルブルク第1店の『ユニクロ』があって、それも見せたかったらしい。屋上のレストランで軽食をとる。
 ジェーニャはこの4月に、花見に日本へ訪れたが、
「10年前か20年前の自分なら先進文化都市の日本に目を見張ったかもしれないが、今では自分たちのところにもこれくらいはある」と言っていた。都市のハードの部分なら資金さえあれば、アフリカの経済的に中の下くらいの国の首都にでも作れると思うが。
日本小物ショップの店員さん
漢字センターの日本語ディー

 そこを出ると、若者たちがコンテナで作ったショップ街に入った。たこ焼き屋、日本アニメに出てくるような小物屋など、小さな面積に様々なものを売っているショップが連なっている。こんなものがこんなところに、と小さな驚きの連続だったが、サンクト・ペテルブルクまで来てハングルと日本語で書かれた駄菓子を買う気もしない。ショップの狭い売り場に一人ずつかわいい顔の店員さんが座っていた。日本のメイド喫茶にあるような化粧をしている店員さんもいる。
 ジェーニャがずっと案内をして説明をしてくれたが、彼は職場から昼休みに出てきただけで、早く戻らなくてはならない。カリーナが案内役を交代してくれるそうだ。彼女も4月に私宅に泊まっていったのだ。4時半ごろ、やっと赤いスポツカー(日本車スープラ、しかし中古)に小型犬を載せたカリーナが現れ、ジェーニャは仕事に戻っていった。
 サンクト・ペテルブルク中心は車を止めるのが難しい。『ガレレヤ』のような新しいショッピング・センターでは地下に有料駐車場があるそうだが、たいていの車は駐車違反ではない道路上に止める。そこは道路というより、何とか通行できるスペース以外は無料駐車場になっているのだ。今頃、どの通りに自分の車を止められそうな隙間があるかはきっと、地元のドライヴァーなら知っているのだろう。
 カリーナが止めたのはロシア博物館前の通り。ロシア博物館に入ってもよかったが、カリーナは小型犬を連れているので不可。私一人で入るのも遠慮して、近くの観光名所をぶらぶらする。ハリストス復活大聖堂 Собор Воскресения Христова на Крови(血の上の救世主教会ともいう、または Храм Спаса на Крови、1907年完、ソ連時代は倉庫、1997年修復された)付近はお土産屋の軒が並び、ギターを抱えて歌っている若者もいる。多くの観光客が写真を写している。私も久しぶりだ。20年以上前の修理中の姿しか見てないので、写真を撮る。真鍮色の立像があるので近づいてみると、それは真鍮色に塗った生きた人間で、私とぴたりと目があってしまった。ちょっと恥ずかしがっているような目をした女性だと思う。前にあった箱に小銭を入れる。
 マルスの広場から夏の庭園を回る。1980年代にはよく訪れていたレニングラードで、どこも見慣れた観光名所だが、どこも見事に整備され、写真通りの観光が快適にできる。
 『夏の公園』では寓話作家Крыловの像の前でヴィブラフォンを演奏している青年がいる。夕方の夏の公園によくマッチした音色だったし、チジックという音楽家(後で知った)が4本の撥をあまりに巧みに操り、うっとりとしたメロディーを奏でているので、聞きほれてしまった。それで、USBフラッシュ・ドライブを1000ルーブルで買うことになった。500ルーブルでディスクも売っていた。もっとヴィブラフォンの音色を聞いていたかったが、7時からジャーニャやカリーナが通う中国語コースで日本から来た私とのミーティングがあるというので、去る。
 小さな語学学校はきっと町にいくつもあるだろう。その一つ、オリガという女性の経営する中国語学校『漢字センター』は、市の中心の裏通りの裏口から入った2階にある。アパートの住居を改造した教室が3部屋ほどあって、日本語もやっているらしい(この時は韓国系ロシア人の日本語講師は休暇中)。小規模な私塾だが、もし本気でやれば力はつくと思う。ジェーニャは中国語をぼちぼちとやっているらしく、日本語にもたまに顔を出している、と言っていた。カリーナは日本語を、もっと遅いテンポでやっている。
 私がサンクト・ペテルブルクに来ると聞いてジェーニャが、オリガ校長に懇談会を提案した。広く広告して参加者を集めれば、この学校の良い宣伝にもなる。この種の会には昔、よく呼ばれたものだ。私の話すことや、参加者からの質問は大体決まっている。
 夏季休暇中なので、はじめは、参加者は8人程度と言われていた。だが、この学校の生徒さんのほかにジェーニャの作った宣伝文、『日本と日本語ディー』という題で「ロシア文化と歴史が好きな日本語のネイティヴ・スピーカーのカナクラ・タカコと話そう。毎年ロシアに訪れる云々。クラスノヤルスクで云々、」などと書かれていたビラで会のことを知った市民から問い合わせが続々あったそうだ。

 7時近くなると次々と参加者が集まり、部屋に入りきれないほどになった。初めに来た参加者にはオリガ校長がお茶をふるまっていたが、そのうち、椅子にも座りきれないくらいになった。
 参加者はかなり日本語ができる人から、ロシア人なりの日本通、まったくできないが日本大好きという人など男性も女性も子供も年配者もいた。会が終わってから分かったのだが、サンクト・ペテルブルクに留学している日本人大学院生もいた。彼はドストエフスキーの研究をしているそうだが、会に参加した目的は『サンクト・ペテルブルクの日本人』というコラムを書いているらしいので、そのためだと思う。なんだかまとまらないことを話して、記念写真も撮って終了
 9時ぐらいには参加者の4人と校長で近くのラーメン屋さんへ移動した。
 天井から紙提灯のランプが下がっているのは、こんなところでも日本らしく見せる演出をしてるなと思ったが、トイレのウォッシュレットには感激。お味も日本とあまり変わりなかった。ウェーターも日本人で、客が日本人とみると日本語で、ロシア人とみると素早くロシア語に変えて注文を取っているのが見事だった。値段は高めだが、少なくとも私の分はオリガ校長が支払ったらしい。ラーメン屋に入ると仕事を終えて駆け付けたジェーニャも待っていた。本当は、私はロシアまで来て日本食は食べないことにしている。ロシア風日本食なら好奇心と意地悪心からお味見してもいいが、コックもウェーターも日本人では、、、
 10時前には日本人留学生や、参加者、オリガを後にして、ジェーニャの車で彼のアパートまで戻り、スーツケースをもって、今朝のプルコヴォ空港へ急ぐ。ネットで購入したスィクティフカル行の飛行機が23時45分に出るからだ。この時間になるとサンクト・ペテルブルクの通りも車が少なくなる。
 01時50分という夜中にスィクティフカル空港に着く。セルゲイ・ガルブノフさんが迎えてくれる。
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