クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 16 December, 2015 (追記 2015年12月31日,2016年3月24日,6月27日,12月31日)
2015年 もう一度トゥヴァ(トゥバ)  (1)
    7回目のトゥヴァ紀行
           2015年7月4日から7月20日(のうちの7月4日から7月8日)

Путешествие по Тыве 2015 года (04.07.2015−20.07.2015)

アジアの中心トゥヴァ共和国(赤色)
 トゥヴァ共和国はアジアの中心、モンゴルの北西、クラスノヤルスク地方の南にある。サヤン山脈、アルタイ山脈、タンヌ・オラ山脈に囲まれたトゥヴァ盆地が中心。首都はクィズール市。昔は ウリャンハイ地方と言って、1911年までは清朝中国の領土だった。清朝崩壊後は、ロシア帝国保護領となり、ロシア革命後の1921年タンヌ・トゥヴァ人民共和国として独立した。(ソ連邦とモンゴル人民共和国からのみ独立国として承認された)。1944年にソ連邦に合併され、トゥヴァ自治州となった。(ついで、1961年、トウヴァ自治共和国に昇格)。1991年ソ連崩壊でトゥヴァ共和国と改名。現在、ロシア連邦の連邦構成主体(地方行政体)85の一つである。面積17万平方キロ(日本は38万平方キロ)、人口は31万人で、人口密度は平方キロ当たり2人弱。
トゥヴァ共和国地図 シベリアの中央を南から北へ流れるエニセイ川の上流に位置し、国土は南北に420キロ、東西に630キロ。その80%が山岳地帯。

年月日 目次
1)7/04-7/8 ソウル・インチョン空港 ようやくインチョン発 クィズィール市へ 2通の許可証を調達、コラム・苗字
2)7/8-7/9 トゥヴァ鉄道建設 考古学キャンプ場 最南のエルジン 砂金のナルィン川 険道の食堂
3)7/9-7/11 テレ・ホリ盆地 沼湖テレ・ホリ ポル・バジン城 湖周辺の遺跡 クングルトィグ村
4)7/12-7/14 砂漠と極寒のウヴス・ヌール盆地 ウヴス湖 国境線に沿って西へ 再び考古学の首都サグルィ アダルガン鉱泉
5)7/14-7/15 カルグィ谷へ カラ・スール鉱泉 ブグズン峠踏破計画 地の臍ヒンディクティク湖 モレン・ブレン川を渡る
6)7/15-7/20 白湖アク・ホリ ブグズン峠を越える ヘレル君を残す ハイチン・ザム道 クィズール・ハヤ
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、本紀行文では、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
 もう一度はトゥヴァへ行きたいと思っていた。1999 年以来、6回もトゥヴァに行き、特にこの3年は毎夏行っていたにもかかわらず。と言うのも、ポル・バジン遺跡を見ていないからだ。これは2012年と2013年に計画したのだが行けなかった。また、2014年に通ったウヴス・ヌール(湖)北岸や、モングーン・タイガ山塊(3976m)南のモンゴルとの国境沿いを通るハイチン・ザム道をもう一度走ってみたかった。さらに、トゥヴァのクィズィール・ハヤからアルタイ共和国のコシュ・アガチまで行くのは(アルタイ共和国の国境地帯通過の)許可もとれないし、時間もないとしても、途中までのアルタイとトゥヴァの境になるブグズン峠まで行ってみるのも悪くない。
ロシア連邦の構成主体85の州、地方、共和国などのうちトゥヴァ和国とコミ共和国

 2015年夏、旅行の前半はトゥヴァに行き、後半はウラル山脈北西のコミ共和国へ行く計画をたてた。ウラル山脈北西コミ共和国首都のスィクティフカル市に住む知り合いのセルゲイさんが招待してくれているからだ。
 トゥヴァで車の運転をしてくれるスラーヴァさんと、コミへ招待してくれたセルゲイさんの都合を調整して、
 7月5日、小松空港発、ソウル(インチョン)経由クラスノヤルスク着、
 7月6日 トゥヴァに向けて、スラーヴァさんの車で出発し、トゥヴァを踏破、7月19日クラスノヤルスクに戻り、
 7月20日、クラスノヤルスク空港からサンクト・ペテルブルク着。セルゲイさんの車でコミに行き、
 8月5日、コミからモスクワに戻り、ヘルシンキ経由で関西空港に着く、
 という大きな一回りの計画をたて、チケットをそろえた。ヘルシンキ経由にしたのは、その方がモスクワから成田への直行便より安かったからだ。
 合計の飛行機代だけで179,350円だったが、その後3度変更をして約24万円を超えてしまった。(ビザ取得手数料5400円と乗り換え時のホテル代10500円を含む)。
モスクワの3箇所の国際空港。紫の輪がモスクワ大環状道路で延長109キロ
 と言うのは、8月5日のコミのスィクティフカル空港からモスクワへは、市の中心から45キロ南東にあるドモジェドヴォ空港に到着し、次の飛行機に乗るには、そこから北北西のシェレメチェヴォ空港(市の中心から40キロ)まで移動しなければならない。空港から別の空港への直行便はなくて、空港特急から地下鉄などに2回乗り換えなければならない。これは大きな荷物を持った私にはつらい。荷物だけでも運ぶ方法があるかと調べていると、コミのセルゲイさんから、サンクト・ペテルブルク発着なら戻る車があると連絡があった。それなら、モスクワを経由しないで、サンクト・ペテルブルク空港から直接ヘルシンキへ飛んだほうが近い。しかし、すでに購入してしまったチケットの買い替え手数料込みが3万円以上と言われて、サンクト・ペテルブルクからモスクワのシェレメチェヴォに飛ぶアエロフロート便を15,930円で追加購入した(サンクト・ペテルブルク6時15分発は何と25,030円、1時間早い便なら半額近いと言う訳、これにはわけがある)。だから帰りの便はジグザグで、ずいぶん遠回りになってしまった。これが1度目の変更。(小松⇒ソウル⇒クラスノヤルスク⇒トゥヴァ⇒クラスノヤルスク⇒サンクト・ペテルブルク⇒スィクティフカル⇒サンクト・ペテルブルク⇒モスクワ⇒ヘルシンキ⇒大阪)

 2度目の変更と言うのは、7月5日のうちに小松空港発、インチョン乗り継ぎ、クラスノヤルスク着のはずだったが、小松インチョン便は韓国で感染症マーズ流行(*)のため7月中は欠航となり、中部国際空港発の代替え案が出された。これでは小松から出発できると言うインチョン経由の意味がなくなるが、購入後のことなのでやむなく受け入れた。7月5日早朝に自宅を出発しても、何とか中部国際空港発の飛行機には間に合いそうだが、念のため前日出発することにして、インチョン空港近くで1泊することにした。(中部国際空港からインチョンは毎日出るが、インチョンからクラスノヤルスクは毎日ではない)。日本の旅行会社経由でホテルを予約したので10,500円とやや割高。出発前のチケット代とこのホテル予約などの合計が、この2度の変更で 211,180円という額になった。
(*)中東呼吸器症候群(MERS)。 韓国で5月に確認され、12月24日に終息が発表された。最終的に感染者は186人、死者は38人となった。
 
 3度目の変更には、インチョン空港で、3万円余が必要だった(後述)。
 ロシア国内では滞在費と移動費として(日本からのお土産も含めて)、トゥヴァで約10万円、コミで約5万円だったから、自分へのお土産をのぞいて、33日間の全旅費として約40万円は費やしたことになる。

 7月4日(土)。朝8時半家を出る。知り合いに金沢駅まで送ってもらう。プラット・ホームまで誰かに来てもらった方が、今更ながら、一人旅の心細さが和らぐというものだ。中部国際空港では中国人観光客の『バク買』に交じって免税ショップでお土産を買う時間がたっぷりあった。私はバク買いもしていないのに、店員さんから中国語で質問された。17時55分中部国際空港発、インチョン着19時55分。ホテル・ゼウメスは値段相応だったかもしれない。日本語がよく通じた。
 ソウル・インチョン空港
 7月5日(日)。インチョン発クラスノヤルスク行きは14時20分発だが、このホテルにいても仕方がないので早めに空港へ着く。電光掲示板にヤクーチア航空運航のクラスノヤルスク行きがない。インフォーメーションでeチケットを見せて確かめると、
「その便は運行しません。どんな事情かこのeチケットの下に書いてある航空会社に電話して確かめてください」と言われる。日本の旅行代理店は日曜日で通じない。ヤクーチア航空にも通じない。クラスノヤルスクの知り合いのディーマさんに電話して、ヤクーチア航空に確かめてもらう。やっぱり運行していないそうだ。なぜチケットを購入している私にそのことが知らされなかったのかは、(最後まで)不明。インフォーメーションでは、ヤクーチア航空からの代替え便もないから別の便のチケットを買ったらいいと言われる。
 確かに、できるだけ早くクラスノヤルスクに自力で行きつくには別のチケットを買うしかないと、パニックになった私は考えた。インフォーメーション嬢に教えてもらって、空港内の旅行会社Top Travel Agencyを探し当てる。
 その旅行会社のパソコン嬢(しかし年配)からは、
「インチョンからクラスノヤルスクへの便はない」と言われる。それはわかっている。「モスクワ経由なら3時間後に出る」。
「とんでもない、そんな遠回りはしない。ウラジヴォストック経由かハバロフスク経由で行けないだろうか」。
「ハバロフスク経由なら明日の便があるが、満席だ。今週いっぱい満席だ。ビジネス・クラスなら取れる。ハバロフスクからクラスノヤルスクならエコノミー・クラスがある。クラスノヤルスク到着はその日の22時05分だ」と言う。そこまでの対話が30分以上かかった。コンピューターの速度が遅いのか、彼女の打ち方が悪いのか。
 値段を聞いてみると、1,201,700ウォン、手数料諸費用込みで1,321,900ウォン。それは日本円になおすといくらか。その韓国人女性は、数字を割ってはだめ、かけてはだめ、小数点の置き方を間違えたと何度もやり直して、やっと紙に数字を書いてくれた。見ると16万円くらいだった。高額だなあ。しかし、考えてみれば、こんなことでもないと一生ビジネス・クラスには乗れないかもしれない。それはいいとして、支払いはウォンの現金のみと言われる。「ウォンなんて持ってない」ではないか。「すぐそこに銀行があるから両替できますよ」。
 ここまできたら、もう両替するほかなく、教えてもらった銀行に行くと、せめて順番がなかったのがいい。1,321,900ウォンの両替のため10万円と残りは502ドル払った(これは、あまりに銀行に有利なレートではないか!)。日本から持ってきた現金は18万円と550ドル、それに2500ルーブルで、ドル札がこの先、最も不要に思えたからだ。
 旅行会社に戻り、明日のインチョンからハバロフスク経由クラスノヤルスク行きのeチケットを購入する。次にすることは、空港近くのホテルを取ることだ。送迎があって、少しは日本語が通じるホテルがいい。空港のホテル・インフォーメーションで頼んでみると、6万ウォン(先ほどの銀行の為替ルートでは7,300円、yahooのルートでは6,400円)のパークウッド・ホテルに電話をかけてくれる。私も電話口に出てみると受付の女性が片言の日本語で一生懸命説明してくれた。実は、このパークウッド・ホテルは日本の旅行会社から出発前にゼメウス・ホテルと並んで9,100円で提案があったホテルだ(予定通りの1泊目は、私は1400円高いゼメウスの方を選んでいたのだ)
 数分後、迎えの車が来てくれて、ホテルへ向かう。ここの食堂はキムチの漬物付きどんぶり1杯の甘いスープが1万ウォン、朝食のトーストとコーヒーが4000ウォンだった。感染症マーズが流行っているというニュースのせいか、旅行客は少ない。
 3時ぐらいに日本の旅行会社から連絡があった。この日は日曜日で、空港からは電話が通じなかったが、「飛ばない飛行機のチケットを売るなんてひどい」と怒ったメールを打っておいたのだ。「事情を調べる」と言う返事だった。今さら調べてもらっても。
 夕方4時くらいになって、日本の旅行会社からまたメールがあって、ヤクーツク航空の便は運行しないと確認ができたこと、代替え案として、明日インチョンからS7航空でノヴォシビリスクへ飛び、そこから鉄道でクラスノヤルスクに向かえばその翌朝到着できる、というものだった。それならば、費用は6,7万円だと書いてある。でも、もうビジネス・クラスのハバロフスク経由便を買ってしまったではないか、ほらこの通りとeチケットの写真も添付して送った。すると、
「それは手数料を引いて全額返金されるタイプのチケットだ。ノヴォシビリスク経由の方が3分の1近くの金額になる」。
「しかし、そのためには、言葉の通じにくいインチョン空港の旅行会社へまた出向いて返金してもらい、そのウォンを銀行で円に換えなくてはならない」。
「ルーブルに換えればいいでしょう、これから必要なのだから」と。本当はこんな不利なルートのところで両替はしたくなかったが、まだパニックが続いていた私は、あのインチョン空港の旅行会社がすんなり返金してくれるかどうかだけ心配していたのだ。日本の旅行会社の女性が、応援しますと約束してくれる。
 ようやくインチョン発、ノヴォシビリスク経由でクラスノヤルスクへ
 7月6日(月)。早めにホテル出発し、昨日の旅行会社を探し当てて、チケットのキャンセル手続きをする。この日の窓口の男性は英語も日本語もできなかったので、日本の旅行会社からの英語のサポートも役に立たなかったが、彼は音声翻訳機能の付いたスマートフォンを持っていて、これで疎通ができた。返金用の現金を彼はカードで下してこなくてはならない。1,299,618ウォンが返金された。受け取ったウォンを持って銀行窓口に走る。全額両替すると58,700ルーブルだった。
 つまり、このチケット購入で10万円と502ドル(中部国際空港の当日のレートでは60,240円)を初めに支払った。つまり、合計160,240円を支払い、キャンセル手数料や銀行手数料を引いて、58,700ルーブルが戻って来たことになる。しかし、クラスノヤルスクで、手数料なしの当日のロシア銀行レートでディーマさんに両替してもらえば、58,700ルーブルは128,912円だ。つまり、160240−128912=31687というわけで、31,328円を、インチョン空港の旅行会社と銀行に手数料として無駄に支払ったことになる。この3度目の変更と2泊目のホテル代を追加すると、旅費は約25万円になった。
 空港に戻ると、ノヴォシビルスク便(S7便)は長い列だった。アイフォンに添付されたままのeチケットとパスポートを示して登場手続きを済まし、ソウル・インチョンを11時45分発、ノヴォシビリスクに14時55着。
 ちなみインチョンからノヴォシビリスクの航空券代(金額の記載のないeチケットだった)、ノヴォシビリスクからクラスノヤルスクの列車代(3012ルーブル、当時のレートで6,596円)は、当然のことながら私は支払っていない。
 私がヤクーチア空港のチケットを購入した日本の旅行会社は、後に、私に代わってヤクーチア航空に強く抗議してくれたそうだ。その結果『12月2日ロシア中央銀行のレートによる109ドル(7237ルーブル)の補償金を支払う』と言う12月3日付のレターが来た。これは、ノヴォシビリスクからクラスノヤルスクの列車代と2泊目のインチョンでのホテル代に相当するそうだ。12月10日付で13,272円が銀行へ振り込まれていた。日本の旅行会社は、振込料も相手側が払うよう交渉してくれたそうだ。それだけがありがたい。

 ノヴォシビリスク空港では、日本の旅行社が予約しておいてくれた運転手が私の名前を書いたカードを持って、空港で待っていてくれた。空港を出発して、駅へ向かう。聞いてみると運転手さんはブリヤート人だった。空港から駅までの途中のスーパーマーケットлентаで660ルーブル程の買い物(ビスケット3袋、水、ジュース、グリンピース缶詰3個、オリーブ缶詰、チョコレート菓子2袋)をする。この先の列車内で食べなくてはならないし、クラスノヤルスクについても、トゥヴァへの道中でも役に立つ。彼の顧客カードを使うと34ルーブルの値引きがあった。5%だ。
 ノヴォシビリスク駅では、プラット・ホームへ下りる階段の前まで送ってくれた。階段の降り口の上には、どの列車が何番ホームに到着するかを、到着10分前ぐらいに示す掲示板がある。駅のどっしりとした外観や、大理石を張ったようなモザイク模様の床はきれいになっても、この急な階段と、直前までホームがわからないという不便さは変わらない。少しでも身体が不自由な人は付き添いがないと、これでは絶対電車に乗れない。電光掲示板を見上げ、階段の前でスーツケース2個をお供に立っていると、先ほど目のあった男性が近づいて話しかける。ウズベック人だそうだ。イルクーツクに行くが、クラスノヤルスクで乗り換えるとのこと。通しのチケットが売り切れていたとか。友達のところへ遊びに行くのだとか。その若いウズベック人と言葉を交わしたおかげで、目の前の危険な階段を下りる時、重い方のスーツケースを持ってもらえた。ホームでは5号車を探し、その入り口まで運んでくれた。(ちなみに、翌日クラスノヤルスクで降りた時、ホームを歩いている彼を見つけ手を振った。次の瞬間私だとわかったようだ)。
 5号車の入り口では若い車掌がチケットとパスポートを調べる。私のチケットは、日本の旅行会社からメールに添付されたeチケットのほかに、空港で出迎えてくれたブリヤート人運転手がプリントして持ってきたeチケットがあった。飛行機のチケットばかりでなく、列車のチケットも便利になったものだ。
 5号車の高いステップに沿ってスーツケースを上げようとすると、上にいた10歳くらいの女の子が引っ張ってくれた。みんな親切だなあ。私の席はクペー(2等車のコンパートメントなので4人用)の31席、つまり下段だ。入って行くとおばあさんが一人座っていた。彼女はノヴォシビリスク駅より130キロ西のチュリムスカヤで乗ってウラン・ウデ(クラスノヤルスクより1500キロ東)まで行くそうだ。この列車”082ИЦ”はモスクワ発、ウラン・ウデ行きで、全行程は3日間と17時間45分かかる。ノヴォシビリスク駅は18時04分(現地時間)発、クラスノヤルスク着は翌日06時40分(現地時間、ノヴォシビリスクとの時差は1時間)。
列車のクペーで

 同室の女性がウラン・ウデに行くのは弔事、つまり、彼女の姉妹の息子の娘と、その外祖母の葬儀に出席のためだそうだ。外祖父運転の車に乗っていて事故があったそうだ。その外祖父も重傷で今頃は死んでいるかもしれないと言っていた。死んだ少女の父親、つまり彼女の甥は気も狂わんばかりだと言う。酒酔い運転だったらしい。なんて悲惨なのだろう。
 その同室の女性は、今は年金生活だが、チュリムスカヤ駅の駅員だったそうだ。鉄道職員には乗車代は割引されるか、全く無料になったりする。だから毎年、黒海の保養地に行っていたとか。
 車内販売のかごを持った女性が廻ってきたので、何があるのだろうと、ちょっとでも興味を示すと、買わないわけにはいかなくなり、バイカルと記名されたスプーンを600ルーブルで買う。
 ノヴォシビリスク時間で夜11時半頃マリインスク駅に止まった時、「もうパルプチ(полпути半途)来たのね」と同質女性に言うと、「まあ、あなた、ロシア語に慣れているわね」と言われる。そして、車掌さんに「あと40分でクラスノヤルスクですよ」と起こされるまで寝ていた。 
 クラスノヤルスクからクィズィール
 7月7日(火)。早朝6時40分、クラスノヤルスク駅到着。電話で確認しておいた通りディーマさんが迎えてくれる。ホテル『ドゥマ・オテルДом Отел』着。日本出発前に用立てしてくれるようメールで頼んでいたゴム長靴の試着もする。誰かのお古でいいと思っていたが、安いものだからと購入したらしい。10時15分には、打ち合わせ通り、スラーヴァさんが来てくれた。
 スラーヴァさんとのトゥヴァ紀行は3度目になる。早くからメールで連絡をとり計画をたてていた。今回は今まで行けなかったテリ・ホリ・コジューン(トゥヴァには17のコジューンがある。コジューンとは満州語起源で『旗』の意、つまり17の区がある)のポル・バジン遺跡への行き方について調べてくれていた。最近の道路の状態は良くなっているかもしれないが、1台の車では危険なので誰か一緒に行ってくれる高駆動車の持ち主を探していた。スラーヴァさんのトゥヴァ出身の教え子の両親が承知してくれたそうだ。それで、
 7月5日夕方、クラスノヤルスク着
 7月6日朝、クラスノヤルスク発でトゥヴァのクィズィールに向かう、途中で1泊して
 7月7日朝、クィズィール着。国境地帯許可証と自然保護区許可証を受け取って、考古学発掘現場に寄る。
 7月8日朝、テレ・ホリ(湖)へ向けて出発。途中で1泊して
 7月9日、テレ・ホリ着、ポル・バジン遺跡や、考古学遺跡を見る。12日頃出発。
 7月13日頃、ウヴス・ヌール(湖)、ハンダガイトィなど通る
 7月14日頃、ムグール・アクスィ村着、ブグズン峠を廻る
 7月18日朝、ムグール・アクスィ発、アク・ドゥヴラク経由クラスノヤルスクへ。
 7月19日夕、クラスノヤルスク着、スラーヴァさん宅泊
 7月20日早朝、クラスノヤルスク空港からサンクト・ペテルブルクへ
 という計画をたてていた。ただ、ソウルで飛行機が飛ばなかったので日程が1日ずつずれることになるが、19日までにはクラスノヤルスクに戻らなくてはならない。

 11時頃には荷物を積んで、ディーマさんに見送られて、スラーヴァ車でホテルを出発。クラスノヤルスクから連邦道M54号線のディヴィノゴルスク経由は混むからと、バイパスのデレディーヴォ経由で進む。ヴェルフネ・ビリュッサ村近くで連邦道M54号線に合流する。パーシェンカ川手前の熊の檻の前のパーキングエリア(と言えるかも)で小休止。何年も前に小熊を保護して、食堂横の広場の檻で飼い始めたそうだ。今では大きな熊になり、食堂の客寄せにもなっている。
 駐車場(檻の前)に車を止めてぶらぶらしていると、隣の車のおじさんから、
「タイヤに釘が刺さっていることをサプートニックсопутник(またはスプートニックспутник、同伴者)に言ってあげたら」と指摘される。私とスラーヴァさんとの組み合わせでは『同伴者』という中立的な言い方をして気を使ってくれたのかと思う。
ハカシア共和国とクラスノヤルスク地方との境

 クラスノヤルスク地方とハカシア共和国の境では、一瞬だけ車外に出て写真を2枚ほど撮り、オイスキー村近くの道路脇で立ったまま軽食を済ませたほかは、ノンストップで進む。帝政時代、エニセイ県では最も南の郡役所のあったミヌシンスク市からも120露里離れ、当時から郵便局(当時は重要拠点、19世紀末頃までにはここまで、帝国の支配が及んだということ)があったと言うグリゴリエフカ村を過ぎ、2年前には寄ったタンジィベイ村へは今回は寄らずに過ぎて、サヤン山中にはいる。ヘアピン・カーブの下り坂ではスピードを上げない方がいい(車が勝手にスピードを出すのか)。1950年代製造の車なのでシートベルトはない、後付けのシートベルトは禁止されているとか。
 オヤ湖を過ぎると、『眠れるサヤン』の霊峰が見える。アルダン村もすぎ、ウス川沿い(*)を下り、新ウス街道で一気にクルトゥシビンКуртушибин 山脈を下ると、トゥヴァ国境にでる。今年、ウス街道(連邦道M54号線の一部)は意外にも通行量が多かった。トゥヴァに物資を運ぶトラックだ。『世界から忘れられた地』のトゥヴァだったが、最近は活発にモスクワ資本に組み込まれていっているのだろう。
(*)ウス川の中流のウス谷を通る道は20世紀初めに、ロシアからトゥヴァへ抜ける道として、初めて車輪が通れる道になった。それ以前からも、もちろん馬道はあった。ミヌシンスク盆地からトゥヴァ盆地へ行く、古代からの動脈だった。3000年前の青銅器時代から利用されていたことが発掘調査で分かっている。(クラギノ・クィジール鉄道建設前考古学発掘調査で、クラスノヤルスク側を調査した結果から)。

 トゥヴァに入って、目的地のクィズィールまで40キロほどのスーシ Сушь村のゴミ捨て場近くで泊。私はむしろサヤン(クルトゥシビン)山中に泊まりたかったが、スラーヴァさんによると、高度の高いところは寒いからとか。そのゴミ捨て場は、前年彼が単独に来た時も車中泊したのでナビに残っているからとか。田舎では村からやや離れたところに必ず(不燃物)ごみ捨て場がある。暗がりにテントを張るのを手伝わずにただ見ていた。この日はただ移動の日だった。翌日から本当の旅が始まると期待して寝た。 
 クィズィール市で2通の許可証を調達
 7月8日(水)。国境地帯(5キロ圏内、外国人には20キロ圏内)を通行するにはロシア連邦保安庁(*)トゥヴァ共和国国境地帯警備管理部の許可証が必要だ(**)。これは2012年にも2013年にも取得できなかった。2012年はトゥヴァ大学を通じて申請したのだが、拒否の理由は不明。2013年は地質調査隊を通じての申請だったが、私が国境地帯に入るという理由が薄弱と拒否されたのだ。が、2014年にはヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんを通じると、取れた。今年も彼に頼んで取ることにした。そのヴァレーリーさんとクィズィール市で待ち合わせて、10時過ぎには国境警備部窓口の前の順番に着く。
   (*)ロシア連邦保安庁FSB。ソ連時代のKGBの後身と考えていい。約35万人の人員を擁す。
   (**)Пересечение границы Монголии на автомобиле (モンゴルへの旅行会社legendtour)のサイト
 どの治安部の窓口でも必ず長い順番がある。弱い者は順番抜かしをされる。最近は順番抜かしがないよう、先に来た順に誰かが用意した紙に名前を書いていくようになっている。ここでも、今年から誰かが紙を用意するようになった(その紙に書かれた順番が守られる保証はない)。私たちの前にもう10人以上の名前が書かれていた。窓口が開くと
「私たちは申請ではなく受領に来たのだから」と、やはり順番を抜かして入る。中では、たぶん去年も渡してくれた女性の職員がいて、
「もう説明はしてあるからいいですね」と、許可証を渡してくれた。1年前のことなのに、よく覚えている。

 私たちの予定の行程には、『ウヴス・ヌール盆地』自然保護区内(またはその緩衝地帯)を通ることになっている。自然保護区『ウヴス・ヌール盆地』はユネスコにも登録されている。保護区内に入るには、また、許可証が必要だ。その取得は国境地帯通行ほど難しくはない。申請を電話やメールでも受け付けているそうで、事前にスラーヴァさんが出しておいてくれた。その時、電話口の女性がアーラと言って、知り合いだったので、スラーヴァさんは喜んだそうだ。申請書も問題なく受け入れてくれたと、前もってスラーヴァさんからメールがあった。
自然保護区管理部のある地区
保護区所長のカンザイさんと

 受取は本人がサインしなければならないので、先ほどの、ロシア連邦保安庁トゥヴァ共和国国境地帯保護区管理部の次に、そのロシア連邦天然資源省トゥヴァ共和国支庁『ウープスヌル盆地』Министерство природных ресурсов Российской Федерации, Федеральное государственное учреждение, Государственный природный биосферный запаведник "Убсунурская котловина" へ出向く。稼働していない工場地帯のそばにあって、その廃墟のような地帯は何度通っても平気にはなれない。以前は活気ある地区だったので、いくつかの役所はここに残っているのだ。穴だらけの雑草の生えた道と崩れたコンクリート、泥でうずまった歩道という憂鬱になる地区だ。
 傾いた塀の中に管理部があり、スラーヴァさんと入って行く。国境地帯許可証を受け取るときのように順番をつかなくてもいい。すぐアーラという職員が現れた。スラーヴァさんがクラスノヤルスクから問い合わせた時、たまたま知り合いだったとわかった女性だ。官庁の職員に知り合いがいると、いつでも事はスムーズに運ぶ。しばらく待っていると、所長に会ってほしいと言われる。ふーん、よくあることだと、所長室に入って行く。
 意外にも、所長と言うのはウラジスラフ・カンザイさんだった。1999年森林研究調査でカー・ヘム(小エニセイ川)上流の右岸支流ビリン川へ行った時のグループの一人だった。新潟大学の(当時の)教授、クラスノヤルスク森林研究所関係者、トゥヴァ森林省関係者(カンザイさんとその助手)、スポンサーのような人たちの10人で10日間ほどキャンプ生活を送ったのだ。しかし、それ以来は全く会うことも便りを聞くこともなかったが、トゥヴァ人なのに苗字に『神西』と言う漢字が当てられるので、よく覚えていた。
現代トゥヴァ人の苗字  トゥヴァがソ連邦に合併された1940年代から、パスポート制度が進められた。清朝中国時代や、まだトゥヴァ人民共和国時代は、トゥヴァ人は伝統的に氏族родに属していた。『アク・モングーシュ』や『カラ・モングーシュ』、『イシュティン・オールジャク』、『ヘルテック』、『イルギット』、『ドンガック』などは士族の名で、苗字はなかった。1940年代、氏族制の破壊も狙って、パスポート制度が導入された。ソ連から派遣された官僚がトゥヴァ人のパスポートを作る際、氏族名を苗字にするのでは、同姓が多くなりすぎるので、父親の名前などから、新たな苗字を作った。
カンザイさんはもともとクィルグィス氏族だった。カンザイと言う苗字は、パスポート制度ができた時、クィルグィスと言う姓が多すぎるので、祖父の名前から作ったらしい。またムグール・アクスィのチンチはヘルテックと言う苗字だが、ヘルテック姓はとても多い。2014年アク・スクのピオネール・キャンプで知り合い、文通が続いている、オクサーナ・セディプは、もともとヘルチックという苗字だったが、1940年代曾祖父の名前のセィプを取って苗字にした。

 カンザイさんは日本人が申請を、と聞いて私ではないかと思ったそうだ。所長室に入って行くと、すぐにお互いを思い出し、ロシア流に抱き会って再会を喜ぶ。思いがけないところで知り合いに会うと言うのもいいものだ。
 1999年のビリン川上流森林調査のグループのうち、クラスノヤルスク森林研究所のダニリン氏の連絡先など教えてくれた。カンザイさんは新潟大学の教授の方とは、その後、数年前再会したそうだ。私はその教授に日本でまた会うかと尋ねられ、本当は全く会わないのだが、曖昧に返事をしていると、
保護区のバッジ。帰国後、新潟大学の公式サイトから(今では退職の)教授のメール・アドレスを探し当てて、便りを出すことができた。バッチも郵便で送った

「では、もし会ったらこれを届けてください」と自然保護区『ウヴス・ヌール盆地』のバッチを渡された。「もし会えなかったら自分に取っておいてもいいです」という雰囲気だった。カンザイさんは書棚から保護区に関した本など出してきて、これとこれは差し上げることができますと言う。いきなりの贈り物の山だった。私たちが、保護区『ウヴス・ヌール盆地』の7か所のクラスターのうちウヴス・ヌール湖とモングーン・タイガ山塊に行くので、そのクラスターのインスペクター(指導・監視員)の連絡先も書いてくれた。これは後にスラーヴァさんの意に反して、とても役に立った。
 カンザイさんは、私たちがこれからテレ・ホリ湖のポル・バジン遺跡に行くと知ると、どんな車で行くのかと尋ねる。車を見るために外に出て、この車では、まず無理だと言う。川の深さが1mもあるから、渡れない。たまたま水量が少ないなら、渡れるかもしれないが、と言う。水は征服できても岩がある、急な峠があると説明する。確かに、トレ・ホリ湖はごつい軍用トラックでないといけない場所にある。しかし、(地方自治体指定ではなく、より高い水準の)ロシア連邦指定遺跡ポル・バジムがあるため、道路が整備されつつあるとサイトには載っているが。
 スラーヴァさんは嫌な顔をしていた。自分の愛車の心配をしていたのかもしれない。カンザイさんと知り合いとわかった時、「ほらね、私にはトゥヴァにこんな古い知り合いがいるのよ」とスラーヴァさんに囁いた時も、「自分の方が多い」と不満そうに返された。それはそうだが。

 12時頃には、自然保護区『ウヴス・ヌール盆地』管理事務所を出た。この日は午前中に2通の許可証が無事手に入ったので満足。次は考古学発掘現場に向かってもらう。スラーヴァさんからは、そこは早めに引き上げてほしいと言われる。しかし、彼と事前にメールで交わした予定では、7日にクィズィールに入り、許可書を手にしたら発掘現場へ、翌8日朝テレ・ホリ湖へ向けて出発と決めておいた。ただインチョンからの出発が1日遅れたので予定が1日ずつずれるだけだと思っていた。が、やはり、当初の通り8日には出発するのか。朝ではなく午後からになるのか、と思っていた。道路があるかないかわからないようなテレ・ホリ湖へは1台の車で行くのは危険なので、前述のように、ユーリー・バーザンБаазан Юрийさんと言うハイゥイラカンХайыракан村で食堂を経営している男性一家も同行する。ユーリーさんの娘のユリアさんがスラーヴァさんの勤める音楽学校に入学した。スラーヴァさんが仕切るピアノ科だ。それでスラーヴァさんがユーリーさんを誘ったのだ。ヴァレーリーさんも一緒に行くかもしれない。だから、いつ出発なのか私にはよくわからなかった。だが、去年も一昨年もその先も訪れたことのある発掘現場へだけは、どうしても行かなくてはならない。スラーヴァさんからは短時間で引き揚げてほしいと言われたが。
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