クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 December, 2015  (追記 2016年1月4日,4月19日,2017年1月17日,2019年12月14日、2021年11月14日)
33−(3)   2015年 もう一度トゥヴァ(トゥバ)  (3)
    中世ウイグルの城跡ポル・バジン
           2015年7月4日から7月20日(のうちの7月9日から7月11日)

Путешествие по Тыве 2015 года (4.07.2015−20.07.2015)

年月日 目次
1)7/04-7/8 ソウル・インチョン空港 ようやくインチョン発 クィズィール市へ 2通の許可証を調達
2)7/8-7/9 トゥヴァ鉄道建設(地図) 考古学キャンプ場 最南のエルジン(地図) 砂金のナルィン川 険道の食堂
3)7/9-7/11 テレ・ホリ盆地 沼湖テレ・ホリ ポル・バジン城 湖周辺の遺跡 クングルトィグ村
4)7/12-7/14 砂漠と極寒のウヴス・ヌール盆地 ウヴス湖 国境線に沿って西へ 再び考古学の首都サグルィ アダルガン鉱泉
5)7/14-7/15 カルグィ谷へ カラ・スール鉱泉 ブグズン峠踏破計画 地の臍ヒンディク・クリ モレン・ブレン川を渡る
6)7/15-7/20 白湖アク・ホリ ブグズン峠を越える ヘレル君を残す ハイチン・ザム道 クィズール・ハヤ
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
 テレ・ホリ盆地(地図は前ページ)
 7月10日(金)。山中の水辺のテントではやはり、明け方が寒くて、5時半ごろ目が覚めた。私の寝袋はあまり熱を閉じ込めてくれないので、セーターやカーディガンを着て寝ても、上から毛布をかぶっても、いつも明け方は寒さで目が覚める。バーザンさんたち3人はゆっくり起きてきた。朝食を食べて出発したのは8時半ぐらいだった。
 写真に残っている撮影時刻を見ると、ここからテレ・ホリ湖まで約3時間の距離だった。
多分カルグィ川のほとりでテントを張った
178キロの『ナルィン=クングルトゥグ』道
では唯一の橋。カルグィ川にかかる

 カルグィ川に沿って道は続いている。川を下っているのか、遡っているのか、ここはセンギレン山脈とその北のホルムヌグ・タイガ山脈(全く有名ではない)との間にあって、どの川がどちらの方向に流れているのか、道路の傾斜だけではわかりにくい。道は登っているように見えるが、川は下っているようだ。テレ・ホリ盆地に入ってきたのだろう。この3時間の間に、前日には1台も見なかったトラックとツーリストらしいジープを見かける(1台と1グループだけ)。眼下の川岸の草原では遊牧小屋も見かけた。もっと驚いたことには、前方の川に新しそうな橋がかかっている。クィズィール市のウヴス・ヌール保護区の所長のカンザイさんが言っていた1メートルもの深さがある最深『浅瀬』の一つかもしれない。深さは渇水期でない今はそれほどでもないが、川底に大きな石がごろごろしているのが危険だ。これを避けて渡るのは難しい。橋は、ここ1,2年以内にできたものに違いない。カンザイさんはこの橋のことは知らなかったに違いない。だからスラーヴァさんの車を見てだめだと行ったのだ。
 手すりまである広い木造の橋だったが、その手すりが数か所崩れていた。洪水のときの水と氷の勢いで崩れたのだろうか。春の雪解けシーズンには必ず流氷の洪水が起きるのだ。橋を渡ると、次の川岸まで、高地の草原を行く。鶴の番もいた。
 チルガランドィЧиргаландыと言う夏の遊牧地が見える。ここは広々としておいしそうな草が一面に生えているが、定住地ではないので、テレ・ホリ・コジューンの4個の集落の中には入っていない。
 テレ・ホリ・コジューン(自治体)の公式サイト2009年では、スモーン・シィナーはクングルトィク村が中心で1637人、スモーン・カルグィがベルディル・チャスィ村中心で165人、スモーン・バルィグトゥグはタル村中心で80人、スモーン・エミはオットゥク・ダシュ村中心で176人。(スモーンと言うのはいくつかの集落が集まった単位)
 20世紀半ばにクングルトィグ村ができたり、砂金採集が始まったりする前まではこの『気持ちの良い場所』と訳せるチルガランドィがテレ・ホリ盆地の中心だったそうだ。今でも夏営地として多くの家族が遊牧基地にしている。広い草原はベリー類やキノコ類も豊富なのだそうだ。(今は行政的にはクングルトィクが中心)。
 曲がり角にオヴァーがしつらえてあった。これは峠のオヴァーではなく村はずれの目印だろう。曲がるとすぐ道の向こうに湖面が見えた。トゥヴァの最南東センギレン山脈の北麓にあるテレ・ホリ(湖)へ、私たちは南西から近づいて行ったのだが、湖の南東6キロにあるクングルトゥグ村へまずは行くことにした。そこの文化宮殿(公民館)で、ポル・バジン遺跡への行き方について教えてもらえるかもしれないし、郷土について情報が得られるかもしれない。
 しかし、行ってみると村役場をはじめ公立の建物はすべて鍵がかかっていた。道端の村人は酔っぱらっていて、声をかけると絡んでくるので、早々に逃げださなくてはならない。
 実はユーリーさんが私達と同行を承知したのも、この村に親戚がいるからと言うことだった。あの悪路をスラーヴァさんの車1台で踏破するのは危険だ。スラーヴァさんも、ユーリーさんの同行がなかったらポル・バジン行きは承知しなかっただろう。トゥヴァでは僻地の通行も僻地の村も、トゥヴァ人と一緒の方が安全だ。何かあった時には地元の人とトゥヴァ語で話し合ってくれる。現地のトゥヴァ人も外来者に警戒し、悪意を持っても、トゥヴァ人が同行しているなら、仲間と思ってくれる。ましてや、そのトゥヴァ人の親せきがこの村にいると言うのなら、もう私たちは村人全員と親戚も同然だ。
 ここに親せきがいてユーリーさんがその人に会うと言うのは素晴らしい。クングルトゥグ村人と知り合いになれると、私は喜んだ。だが、ユーリーさんが道端で電話をかけて見ると、その親戚は休暇でクィズィールへ行っていて留守だった。前もって電話しておかなかったというのは、疎遠な親戚だったからだろうか。またはそんな風習はないのか。
 沼湖テレ・ホリ (ホリはトゥヴァ語で湖)
 ここまで来た目的の遺跡を訪れることにしよう。
 テレ・ホリは高度1300m、面積40平方キロで、クングル・トゥグ川(14キロ)などの小さな川が流れ込み、サルダム川(21キロ)と言う小さな川が流れ出る。そのサルダム川はバルィグトゥグ・ヘムに注ぎ込む(同川のかなり上流で合流する)。つまり、テレ・ホリの水はバルィグトゥグ・ヘムからカー・ヘムへ流れ、エニセイ川に流れ、最後には北極海に流れ出る。流れがあるので塩湖ではない。湖には数十の島が浮かんでいて、そのうちの一つに、ウィグルの城塞遺跡ポル・バジンがある。その島は湖岸から1キロほどのところにあり、2003年から始まった遺跡調査のために橋がかけられた。調査は終了して、今は橋も半壊で渡りきれないそうだ(徒歩では不可、ボートでは可、橋をボートで渡るなんて)。
湖岸(沼地)に舫いであったボート
先頭で湖底の泥をけるユーリーさん
テレ・ホレ湖
島に至る半壊の橋にたどりつく。格好の船着き場

 スラーヴァさんとユーリーさんが島へ渡る方法を考えているらしい。ともかく、村から湖岸の方へ車を進めた。
 湖の近くに湧水(ドルグン・アルジャーンか)があり、チャラマなどで祭ってあった。自転車で来た一人の村人が魚の袋を持って休んでいる。私たちに魚を買わないかと勧める。湖ではソ連時代漁業コルホーズが活躍していた。今は個人で漁をしているのか。ユーリーさんが魚は不要だがと、トゥヴァ語で何か話している。島へ渡る方法を聞きとったようだ。魚売りの男性はこの先の岸辺に自分のボートを1艘繋いでいる。それを使ってもいいと言うことだった。必ず元のところに戻してくれればいいと言う。
 湖岸を探しながら行くと、確かに繋いであるボートが見えた。テレ・ホリ(湖)はテレ・ホリ盆地と言う大きな沼地の中にある大きな水たまりだ。湖岸近くも深い沼地だった。ボートが繋がれている水面までは細いが板が渡されていたので、何とかたどり着けた。この板を踏み外すとかなり惨めなことになる。
 ボートは、大抵の繋いであるボートのように多少は浸水していた。しかし、水漏れボートでもなんでも、目当ての島はすぐ近くにある。大枝が1本ボート内にあって、それがオールのようだった。近くにあった細い角材も持ってきてオールにする。と言うのも、ユーリーさんの長男は車の番に岸辺に残り、ボートには私とゾーヤさんの二人の女性と、ユーリーさんとスラーヴァさんの二人の男性が乗り、漕ぎ手が二人いたからだ。長男が岸辺に残って車の番をしてくれたのは、ボートが怖いからだそうだ。ゾーヤさんは船の底にたまっている水をかきだしている。
 湖はどこまでも浅く、底にたまっている泥が見え、芦かスイレンのような水草が水面にゆらゆらと揺れていた。ボートは絶えず水草に引っかかったり、浅い湖底に乗り上げたりして、進みは遅かった。オールは水をかくためではなく、湖底を蹴るためのものだった。しかし、水底は沼地になっていてオールをさすと沈んでいく。水深は50センチだがその底に泥土が2mもたまっているらしい。つまり、上記のように、テレ・ホレは湖と言うより、センギレン山脈などの永久凍土帯の上にできたテレ・ホリ盆地の底の沼地で、夏だけ上の氷が解けるが、下にしみこむことができないで広がっていると言う浅くて広い水たまりなのだ。ボートが転覆しないで本当によかった。橙色の救命チョッキなどもちろんないから、落ちれば2mの泥沼に沈んでしまう。湖は浅くても底に足をつけて歩くこともできない。
 これは、岸からかなり離れてから気がついたことだ。所々水面には底の泥土から湧き出てきたガスの泡がぶくぶくとうごめいているのが見える。
 湖面からの眺めは抜群だった。小さくて黄色いスイレンの花も群生している。空は真っ青で、飛行機が2機飛んで行った(トゥヴァの上空はモスクワ=北京などの飛行コースに当たるそうだ)。葦だけが生えている小さな島の側も通り過ぎた。近づくとボートの底が泥土につくから大回りしなければならない。遠くの大きな島は緑の木々が水面に映って揺れていた。二人の男性が懸命に水底の泥をついてくれたおかげで、少しずつポル・バジン遺跡のある島に近づいている。隣の島から木の橋が続いている。これは2003年ごろ遺跡調査のためかけた歩道橋だ。長い歩道橋は一気にポル・バジンの島に通じないで、島をひとつ経由している。しかし、今では橋は所々落ちている。
 40分も角棒で水底を突き突き進むと、その橋が遺跡の島にかかるところまで進めた。橋げたにボートを舫いで私たちは半壊の橋によじ登る。時刻は夕方の4時過ぎだった。
 中世ウイグルの城跡ポル・バジン遺跡
 島の入り口、つまり橋のたもとには『8,9世紀ウィグルの城塞である考古学遺跡「ポル・バジン」は連邦政府の管理の下にある』と書かれた立て札が立っていた。
 その横を私はわくわくしながら進んで行った。この廃墟は城塞だったとか、寺院だったとか、ウィグルのカガン、つまり支配者の(愛妃のための)宮殿・別荘だったとか憶測されている。長さ240mほどの島いっぱいに、東西は211m、南北は158mとちょうど四角になるように外壁が築かれている。面積は約3.3ヘクタール。外壁は、8、9世紀の当時は25mの高さだったと推定されているが、1200年もたった今でも高い部分は8mある。ポル・バジンと言うのはトゥヴァ語で『粘土の家』と言うそうだが、確かに多量の粘土と煉瓦、木材でできている。調査の結果、火事があったとされているが、そのためにウィグル人はここを去ったのではなく、その前に去っていた。と言うのは、普通は戦火のために廃墟になった遺跡から見つかるような発掘物や襲撃の跡が見つかっていないからだ。ここにウィグル人たちは短期間住み、突然打ち捨てたと推測されている。なぜなら、例えば、鍛冶場には100個以上の未完成の装蹄が残っていて、城址の別の場所には中国風の瓦が丁寧に積み上げられているが、住人の遺骨は全くなかったからだ。
ポル・バジン遺跡
ポル・バジン遺跡
チャラマの横で現地の漁師さんとユーリー、ゾーヤさん

 近世にはテレ・ホリ周辺、つまりテレ・ホリ盆地に集落は全くなかった。遊牧のトゥヴァ人はもともと集落を作らない。季節の遊牧基地ぐらいはあっただろう。今のテレ・ホリ・コジューンの行政中心地クングルトゥグは1949年のソ連時代にできたものだ。湖周辺の盆地には古代スキタイ時代の古墳は残っているが、中世の突厥やウィグル時代の古墳や集落跡は発見されていない。ウィグルがなぜこのような場所に城塞(だけ)を築いたのかは謎だ。
 この遺跡がロシア人探検家に発見されたのは19世紀末で、20世紀半ばには考古学的発掘調査が行われた。2003年から2007年にかけての再調査発掘では、湖岸のキャンプ場から遺跡の島まで橋もかけ、常時、数百人の学生院生ボランティアも参加して行われた。2007年にはプーチン大統領とモナコ大公アリベル2世も見物に訪れたそうだ。
 840年エニセイ・キルギスによって滅んだウィグル帝国の首都(の一つ)である北モンゴルのバイ・バリクは周囲が20キロにも及ぶ大城塞だが、ポル・バジンはそれと同じ様式のミニチュア版と言えるそうだ。しかし、それにしても発掘物は、魔よけの面、槍の先端、耳環、壁の顔料の断片、瓦などだが、その量と種類は驚くほど少ないと考古学調査報告書にはある。また、歴史上唯一ウイグルのみが国教としたマニ教の寺院と様式が似ているとも言われている。
 島の形は不規則だが、城址は四角形で、湖岸線ぎりぎりまで外壁が迫っている所もある。その外壁の頂点をたどって行くと、高い壁が切れる。また、その先で外壁が続いているので、ここが門なのだろう。外壁の外側の湖岸までの短い間にも、内側の『宮殿』廃墟の中にも一面に草が生えている。内側の壁の一部に黒いビニールシートがかぶせてあった。考古学調査が未完のところだろうか。壁の間に黒こげの柱のような木材が挟まっている。日干し煉瓦(アドベ煉瓦)か、瓦のようなものもある。煉瓦には表面にガーゼのような繊維の跡がついていた。当時の煉瓦の製法か。
 城壁内には背の低い草や灌木の茂みしかないが、1本だけマツ科の若い木が生えていた。その1本にチャラマが結んであった。私たちがボートで島に向かっていたのを見たのか、初めから島にいたのか、地元のトゥヴァ人がチャラマを眺めている私たちのところに寄ってきた。ユーリーさんとトゥヴァ語で会話するので、意味がさっぱりわからない。ユーリーさんによると彼は漁師で、自分のボートは中継点の島につないであるそうだ。トゥヴァ人は、特に男性はひどく日焼けしている。幼児のころは白い肌なので、トゥヴァは高原にあって紫外線が強いからなのだろうか。
 島にいたのは1時間ほどだった。自力で見られるだけを見た。考古学関係者と一緒なら、私が気のつかなかったところも注目させてくれたかもしれないが、自力では粘土の崩れかけた厚い壁と、一面に生えている草の他に何を見たらいいのかわからない。実は、クィズィールの国立博物館考古学ホールの責任者のオリガ・モングーシさんが同行すると言う計画はあった。しかし、スラーヴァさんが、座席がないと断ったのだ。

 また半壊の橋を伝ってボートに移り、島を去った。帰りは2時間近くもかかった。風が出ていた上、オールにしていた細い角材も折れ、水底の泥も突きにくくなったからだ。スラーヴァさんは手に豆ができるほど突いてくれた。しかし、何だか1か所をぐるぐる回っているようで元の岸辺には近づけない。風のため水面に小さな波まで立ってきたので、私は内心あわてたものだ。
 やっと、車が止めてある岸辺に近い沼地まで来た。ボートから出て、細い板を伝って乾いた地面まで、私は行けたが、スラーヴァさんは板を踏み外して沼に落ち、長靴の中まで泥が入った。(水底の沼地より地上の沼地はやや地面が硬いから、2mも沈まなかったが)。
 時刻は夕方の6時過ぎで、まだまだ明るいのでテレ・ホリ湖の周りを廻りたかった。ユーリーさんの車の後について行くと、湖岸の岩山の上の祠のようなところに出た。木々を円錐形に組み合わせ、中には、何か祭ってありそうだった。眼下に湖が広がり、巫女・シャーマンがテレ・ホリの霊魂でも呼びだすところのようでもあった。トゥヴァにある遺跡は自分たちの遠い祖先が残したものとトゥヴァ人は考えているから、すべての遺跡は神聖なもので、お供えをして祀らなければならない。
 湖の近くには湧水ボヤン аржан Бояиもあって、キャンプも張れるところがある。しかし、そこに今夜の宿は取らなかった。先客もいて、この湧水の泉でスラーヴァさんの長靴の泥を洗ってはいけないと言ったからだ。確かに、湧水とは神聖なものだから、仕方がない。
 私たちがテントを張ったのは、そこからすこし離れた湖畔の崖の下で、時刻はまだ9時前だった。
 テレ・ホレ周辺の遺跡
 7月11日(土)。朝食は、またお湯を沸かしてカップ・ラーメンを食べる。私たちがテントを張った湖岸の上を、馬に乗ったトゥヴァ人が通り過ぎていく。少し離れたところに遊牧小屋があった。
湖畔に見かけるスキタイ時代の古墳の一つ
『チンギスハンの門』と呼ばれている2基の石柱

 テレ・ホリ湖周辺には、近世の生活跡はないが、スキタイ時代の古墳は多い。2003年から2007年の考古学調査の結果がサイトに載っていたので、それによると、
『・・・この地は近世にはほとんど無人だったが、古代にはスキタイ人などが牧畜や漁業を行っていた。それら遺跡が最も多いのは、湖の西部と北西方面で、そこは南部と北東部低地が沼地化しているのに対して、草原が広がっている。東部で湖岸から数キロ離れた高台には、クングルトゥグ村ができているが、そこにも多くの遺跡がある』。
『・・・西岸には、ドルグンと言う湧水の流れがあり、この周辺にある古墳群は『ドルグン1』から『ドルグン4』と命名。そこには、スキタイ時代(この場合は前6−4世紀)の儀式用の立て石のある大規模古墳と、直径8mの3基の古墳。さらに、古墳群が2か所あり、ひとつは7−11世紀の中世の古墳が5基。もうひとつは前8−5世紀のスキタイ時代の12基の古墳からなる。その中には初期スキタイ時代のヘレクスル(古墳)もある。さらに『ドルグン3』には、前6−4世紀スキタイ(全盛)時代のパズィルク様式(*)で、直径が23,5mもある古墳や、儀式用の装飾のある古墳が1基ずつと、その周囲に直径1−3mの塚が14基ある。・・・     
(*)パズィリク文化 トゥヴァ西のゴルノ・アルタイ共和国ではじめに発掘調査された紀元前6−2世紀のスキタイ文化の一つ。寒冷な気候と古墳の構造のため営造直後から永久凍土帯につかり、遺跡は良好な状態で毛織物をはじめ入れ墨のミイラなどが発掘された。中でも『ウコックのプリンセス』が有名。
 『ドルグン』の1.5キロ北の西岸のウローチッシャ・アルタシュには、『チンギスハンの門』と後世に呼ばれている2基の石柱(チンギスハンは13世紀だが、これらは時代がずっと早い。後世の住民は立派な遺跡にはチンギスハンの名をつけた)や、初期スキタイ時代の高さ1,2m、幅30cmの鹿石を含む21基の古墳がある。その中には、突厥文字が刻まれている石柱もある。(紀元後7世紀の突厥文字が紀元前7世紀のスキタイ時代の古墳の石柱と並んでいることもよくある)。
 東岸には、クングルトゥグ村建設で大部分は破壊された古代の墓地があった。つまり、クングルトゥグ村は古墳群の上につくられた。古墳に使われていた石などは村の建築用に使用された。さらに、クングルトゥグ村東からバルィグトゥグ・ヘム(川)までの5キロの間にスキタイ時代および中世の約100基の古墳がある』(トゥヴァの集落は、古代の古墳軍の上にできていることも多い、と言うのは古墳群は現代の村を作るのにちょうどよいところ、平地で沼地でない、川のそばなどの住居地の好条件のところに造営されていることが多いからだ)。
 サイトの論文には、これら遺跡のGPSで測った緯度経度が記入されてあるので、スラーヴァさんは自分のナビにその数字を入れて、10時過ぎ私たちは出発した。
 論文に載っているGPSとスラーヴァさんのナビのGPSのどちらも秒のコンマ100分の1以下まで正しいとは限らないので、だいたいの場所しかわからないが、立て石が2対並んでいるので『チンギスハンの門』と呼ばれている遺跡は見当がついた。この辺がウローチッシャ・アルタシュだろうか。
 湖岸へ向かう斜面には実に多くの遺跡があった。大小の方形の古墳や円形の古墳、土に埋もれかけているヘレクスル(と思う)などで、どれが、論文にある『ドルグン』の何番か『アルタシュ』の何番かは、GPSを出してみてもわからない。
 斜面が湖面に降りたところにチャラマが結んである岩場があった。こちらが『アルジャーン(湧水)・ドルグン』だろうか。降りてみると水は枯れていた。今は枯れていても時期によってはわき出ているのかもしれない。
 テレ・ホリ・コジューンの行政中心地クングルトィグ村
 トレ・ホリの南岸をぐるりと回って南東岸のクングルトゥグ村に再度行ってみる。道は鶴たちがえさ場にしているテレ・ホリの湿地帯を抜けて通じている。
 1949年にできたと言うクングルトゥグ村は、住民が1600人ほどでテレ・ホリ・コジューンの全人口の4分の3が住んでいる。と言っても、前述のように、テレ・ホリ・コジューンには他に3個の100人前後の小さな集落があるだけだ。コジューンとしては2003年にできた新しい自治体だ。それまでは、あまりに遠隔地(と言うより、交通困難地)にあったので、中心にあるクィズィール・コジューンの飛び地の地区だった。2003年に新しくできたコジューンの行政中心地になっても、行政中心地らしい機関や設備が整わなく、遠隔地のため無法地帯のようだったそうだ。確かに住民は自己流に生活している。昨日の金曜日に廻った時には、どの公共機関も鍵がかかっていた。まして、土曜日は、何の動きもないだろう。
 車で回ってみると、一つだけ石造りの立派な建物があった。地方裁判所だった。サイトには、コジューンの行政中心地なのに裁判所が今までなかったが、やっと最近できた、とある。ほかの公共機関はすべて木造だ。
 仏教寺院もあった。こちらも鍵がかかっていた。木造だが新しそうだ。1949年にできた村に、古い寺院(1990年以前)があるはずもない。
湖畔の草原の鶴のつがい
パン焼き場兼パン屋の窓口
今日のメニューは湯だけだった食堂で。
カウンターの向こうのウエイトレスさん

 ゾーヤさんが店で買い物がしたいと言ったので、探してみた。簡単には見つからない。灰色と茶色の町に明るい色の看板があれば店だろうが、閉まっている。やがて順番ができている古びた建物があり、そこはパン焼き工房だった。きっと1日のうちでパンの焼きあがる時間が決まっていて、順番ができているのだろう。ゾーヤさんと順番につく。客の立ち入れる場所と焼けたパンを手渡す場所(奥にかまどもあるか)は小さな窓口の開いた板で区切られている。買い物客はその窓口から代金を支払い、パンを受け取る。直方体の食パンは1種類で選択の必要もない。決して包装はされていない。複数個買って持ち切れなければ手持ちの網袋に入れる。ソ連時代は大都市でもこんなパン屋さんだった。クングルトゥグはノスタルジックな村なのだ。
 しばらくすると焼きあがったらしく、順番が進みだした。ゾーヤさんの買った焼き立てのパンを、車の中で少し分けてもらった。耳のところが香ばしくておいしいのだ。
 村内には確かに、古墳は全く残っていなかった。村から東へバルィグトゥグ・ヘムへの5キロまでの森林草原に、古墳が100基以上あるはずだ。が、スラーヴァさんのGPSでいくら探しても、1基も見つからなかった。ただ、村の背後は、たいていはゴミ捨て場になっている。ゴミ捨て場を過ぎたところで、ランチにして、引き返した。

 4時過ぎには、こうして到達困難地のテレ・ホレ(湖)からも去ることにした。村外れのチャラマの近くの草原では少年たちが馬に乗っている。その一人が私たちの車と競争するように横に走ってくれた。馬に持久力がもっとあれば、こんな道では車より速いだろう。しばらく走ったところで少年は車に近づき、窓の横まで来た。少年はとても感じの良い表情だった。白い歯を見せて、ほほ笑みながら別れのお土産をねだる。スラーヴァさんはにべもなく断ったが、私は、こうして車と並んで帰途の道を送ってくれたことで、何か記念品を贈呈してもいいと思ったのだが、馬上の少年はすぐに去って行った。
 7時半ごろ、2日前にテントを張ったカルグィ川の畔に着いた。途中の道には、行く時は気がつかなかったがユルタ基地(ユルタはトゥヴァ盆地では普通に見られるが、テレ・ホリ盆地ではまれ)や、家畜小屋が数か所あった。夏営地には牧人もいる。
 2日前と同じカルグィ川畔にテントを張り終わると、夕食にはゾーヤさんがとてもおいしいスープを作ってくれた。ユーリーさんに日本の事を思いっきり宣伝すると、今夜は日本の夢を見ると言ってくれる。次男の嫁は日本からもらいたいと言うのも、彼のお世辞だ。ロシアではどこへ行っても、日本から来たと言うと暖かく接してくれる。

 7月12日(日)。この日、起きてみると雨が降っていた、テントの外側のロープにつるしてあった洗濯物もぐっしょりだった。雨の中、テントをたたんで9時頃出発。川の水は晴天だった2日前より、特に増水はしていなかったから、川床についている道も難なく通行でき、往路にも寄った食堂に着いたのは11時頃だった。
 この日のメニューはマカロニも茶もなくて、お湯だけだった。整った顔立ちの若いトゥヴァ女性がウエイトレスをしていて、この近くで遊牧している人と結婚していて子供もいると言っていた。記念に一緒に写真も撮る。
 雨は激しく降ったり、ふと、止んだりしていた。雨上がりのセンギレン山脈麓も美しい。ナルィン砂金場への分かれ道に着いたのは午後1時半。そこからさらに1時間半ばかりのところの道路脇に立派な立て石があった。来るときは見逃したのかもしれない。車から降りて写真にとる。帰国後ネットを調べても、この立て石については、何の説明も見つけられなかった。私の見立てでは、中世ウィグル時代のもの。
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