クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 December, 2015  (追記:2016年1月10日,3月3日,6月22日,2017年2月15日、2021年11月15日)
33-(5)    2015年 もう一度トゥヴァ(トゥバ)  (5)
    アルタイ山脈へ向かう
           2015年7月4日から7月20日(のうちの7月14日から7月15日)

Путешествие по Тыве 2015 года (4.07.2015−20.07.2015)

年月日 目次
1)7/04-7/8 ソウル・インチョン空港 ようやくインチョン発 クィズィール市へ 2通の許可証を調達
2)7/8-7/9 トゥヴァ鉄道建設(地図) 考古学キャンプ場 最南のエルジン(地図) 砂金のナルィン川 険道の食堂
3)7/9-7/11 テレ・ホリ盆地 沼湖テレ・ホリ ポル・バジン城 湖周辺の遺跡 クングルトィグ村
4)7/12-7/14 砂漠と極寒のウヴス・ヌール盆地(地図) ウヴス湖 国境線に沿って西へ 再び考古学の首都サグルィ アダルガン鉱泉
5)7/14-7/15 カルグィ谷へ(地図) カラ・スール鉱泉 ブグズン峠踏破計画(地図) 地の臍ヒンディクティグ湖 モレン・ブレン川を渡る
6)7/15-7/20 白湖アク・ホリ ブグズン峠を越える ヘレル君を残す ハイチン・ザム道 クィズール・ハヤ
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
トゥヴァ南西地図
 トゥヴァ南西地図
 ツァガン・シベトゥ山脈も越え、カルグィ川谷に出る
 サグルィ川を遡って道は続く。川には、もう河原に石ころだけがあり、石の間を水がちょろちょろと流れている。こんな川なら、車で渡るのも容易だ。道は山の中に入って行き、タンヌ・オラ山脈系のサグルィ川からも去り、海抜2222mのアルザイトィ Арзайты峠を越えると、ツァガン・シベトゥ山脈系のバルルィク Барлык川(134キロ)の支流が現れる。バルルィク川は南のモンゴルとの国境付近から流れ出て、北のツァガン・シベトゥ山脈の中に入り込み、うまく通り抜けて、最後にはヘムチック川からエニセイ川に合流し北極海に流れ出る。近くを流れるサグルィ川とは運命が違う(サグルィ川は内陸湖ウヴス・ヌールに消える)。道は、まず、このツァガン・シベトゥ山脈の中を流れるバルルィク川の支流アルザイトィ川(16キロ)にたどり着き、この川を伝って続いている。日陰には雪が残っている。
ヤクの群れ
ユルタは水場のバルルィク川近くに張る
コゲ・ダヴァ(峠)から一気に降りる新道

 遊牧の夏営地(あるいは冬営地)になっているのか、ユルタが適度な距離を保って張られている。高山なので主要な家畜はヤクになる。アルザトィ川がバルルィク川に流れ込む合流点でオヴュール・コジューン(区)が終わって、モングーン・タイガ・コジューン(区)になる。すると、道は、今度はバルルィクを遡るように進むのだが、その合流点の広い河原の上には食堂がある。ここ数年の間に普通の車でも通行できるようになった156キロの『ハンダガイトィ=ムグール・アクスィ』道では唯一の食堂でもあって、やはりせいぜい3,4年前にできたようだ。ソ連時代にはムグール・アクスィ村へのような陸上での到達困難地には飛行機が運航されていた。車が普通に通れるような道路もなかったので、あるいはあってもトラクターなどしか通らなかったので、一般向け食堂のようなものはなかったのだ。陸路では、国境管理が厳しくなる前までなら、いったんモンゴル領に出て、ツァガン・シベトゥ山脈を南に迂回して再びトゥヴァ領に入った。
 カップ・ラーメンに飽きてきたスラーヴァさんはこの食堂でランチにした。メニューではボルシチが50ルーブル、肉入りパンが35ルーブル、砂糖入りコーヒーは15ルーブル、パン一切れが3ルーブルとあった。グヤーシ(濃厚シチュー)が90ルーブルで最も高い(当時1ルーブルは約2.3円)。しかし、メニューにあるものすべてが注文できるわけではない。メニューにはここで最大限準備できる料理が手書きで書かれているだけだから、普通はそのうちの何品かのみ提供できるのだ。
 窓枠を見ると蝿の死骸がびっしり落ちていた。暖かい時に生まれて、明るいところに行こうとして窓の近くで冷えて凍え死んだのだろうか。食堂で食べ物を注文する時、私はたいていボルシチにしている。間違ってもサラダは注文しない。よくよく火を通した料理の方が安全だと思うので。
 こうして私たちはバルルィク川に沿った道を遡って行った。バルルィクの右岸へ行ったり、左岸へ行ったり、バルルィクに注ぐ小さな川を渡ったりしてツァガン・シベトゥ山脈を上って行った。道が川を渡るところにはすべて橋がかかっている(驚いた!)。先日通ったテレ・ホリ(湖)への道より古くからできていて、整備もされている。ちなみにシベリアは悪路で有名だが、トゥヴァはそれに輪を掛けている。コジューン(区)の行政中心地に通じる道で、最も通行困難道はテレ・ホリ・コジューンのクングルトゥグ村への道で、最も未整備。トッジャ・コジューンのトーラ・ヘム村への道はほんの最近整備された。ムグール・アクスィ村への道はその3悪道の中で最も古くからあり、だからより多くの車が通っているので、より通りやすいのかもしれない。1970年代作成の地図でも、馬道として、ほぼ一続きの道が載っている。その一続きの馬道を車輪の通れるようにするこ道路計画は、1950年代末から実行に写され、まず、道路敷設付近の考古学調査から始まった。だから、この道路沿いには1950年代調査の遺跡が多く登録されている。遺跡はほかにもあるに違いないが、古代人も現代人も通行に便利なところ、住むのに便利なところは似通っている。そんなところに遺跡は多い。
 1時間半ほどバルルィク川に沿った道を遡ると(途中でバルルィクの源流・支流に入ったかもしれない)、コゲ・ダヴァ Коге-Даваa(*)にたどり着き、そこからは、つづら折りの坂道をカルグィ川谷 Каргы(高度1700m)まで一気に下りる。10分もかからないが、斜面を削って車が安全に通れるようにした新道で、崖側には珍しくガードレールさえある。もちろん、カルグィ谷の素晴らしい眺めが満喫できる。
*コゲ・ダヴァの『ダヴァ』はモンゴル語で峠。海抜2400m、この峠はトゥヴァ領。一方、2キロほど東の峠はモンゴル領。間に国境線がある

 ツァガン・シベトゥ山脈南麓の西端から南東へ南東へと流れ、モンゴル領のウヴス・ヌール盆地の湖ウーレグ・ヌール Уурэг-нуурに注ぎこむカルグィ川を渡る。カルグィ川は延長92キロ、源流から河口まで、律義にツァガン・シベトゥ山脈の南麓を流れると言うとてもわかりやすい川だ。100万分の1(1センチが10キロ)の地図でも名前が載っているくらいの中程度の川だ。
モンゴルとの国境(今は閉鎖中)に向かう道

 川を渡ると道は分かれ、私たちは主要道の北西方向へ行く。左折の南東方向への道には遮断機が下りている。今は稼働していないが、臨時的には稼働する国境ゲートのひとつに向かう道だ。『ムグール・アクスィ=ハリギィン・ゴル』検問所と言って、かつては越境ができたゲート。2003年6月4日から一時閉鎖されている(『ロシア新聞』のアーカイブ参照)。トゥヴァには稼働している国境ゲート、つまり税関のあるエミグレーション・ゲートは連邦道54号線の終点のツァガン・トロゴイ Цаган-Тологойとハンダガイトィと、シャラ・スール Шара-Сурのみで(前2カ所は見て確かめたが3つめは未踏)、サグルィやムグール・アクスィなどの検問所は、現在は閉鎖されている。ツァガン・シベトゥ山脈越えができるような『ハンダガイトィ=ムグール・アクスィ』道がなかった時代には、ムグール・アクスィ方面へ陸路で行くには、いったんモンゴルに出て、このムグール・アクスィ検問所から再入国する以外にルートはなかった(前述)。モンゴルに越境しなくてもモングーン・タイガ・コジューンと繋がれるようになって、国境検問所は(一時)閉鎖されたのかもしれない。もっとも、国境地帯の牧民は最近まで国境線にかかわりなく遊牧していた。(つまり、昔ながらの牧草地の遊牧)。国境を越えて家畜が迷い込んだり盗られたりすることが、問題になるような時代になったので鉄条網と検問所ができたそうだ(家畜だけではない)。
 この分かれ道は南東へ行くと、モンゴルの国境まで6キロだ。北西のムグール・アクスィ村へ行く道筋には、ゲートが稼働していた時に建てたらしい『ソ連邦は平和の砦』とレリーフされた古いが、立派な柱が建っている。モングーン・タイガ・コジューンは南がモンゴルと国境を接しているので、ゲートは稼働していなくても、近くに国境軍(ロシア連邦保安庁国境局)の駐屯地がある。他のトゥヴァ内の国境軍駐屯地と同じ緑色の2階建ての建物だ。(後で、ここへ電話しなければならないことになった)
 モンゴルへの分かれ道から数キロも谷間草原を進むと、また分かれ道があって、『ムグール・アクスィ直進16キロ。クィズィール・ハヤ左折73キロ』とある。直進すると山に入る。オヴァーやチャラマ、『牧民の国』と書いた標識も過ぎると、正面にツァガン・シベトゥ山脈の高峰、右にはカルグィ川が見え出す。ムグール・アクスィ村の入り口にはタルバガンтарбаган (シベリア・マーモット)の彫刻がある。もちろん。国境地帯であることを示す注意書きもある。
 ムグール・アクスィ村のカラ・スール鉱泉
 3時過ぎにはムグール・アクスィ村の、去年と同じチンチさんの実家に着いた。今年、チンチの母と妹はサンクト・ペテルブルクの長女宅へ行っていて不在、チンチ夫婦と1歳の息子、父親だけなので、去年のようにチンチ夫婦の新居ではなく、みんなで実家に泊まる。チンチ夫婦の新居にはベッドとテーブルしかなく、調理もできない。トムスクの音楽大学を優秀な成績(だそうだ)で卒業したチンチは、村に帰ってきたが、仕事がない。知り合いの店で店員のバイトをしている。夫はモンゴル相撲のトレーナーで、今はピオネール・キャンプ(青少年の家)『アク・ホリ』に住みこんでいる。
 まだ、3時過ぎの明るい時間だが、この日の予定は特になかったので、去年『アク・ホリ』青少年の家で知り合って、ずっと文通していたオクサーナの妹に電話してみる。オクサーナはハバロフスク大学の学生だが、去年の夏は実家のあるムグール・アクスィ村近くの『アク・ホリ』でバイトをしていたのだ。今年、彼女はまだ村に帰省していないが、妹のアイギーナがいるからとメールに書いてくれた。アイギーナはウラン・ウデ大学の学生で、夏休みに帰省している。電話をかけて、どこかへ案内してほしいと頼むと、姉のオクサーナからも前もって連絡があったのか承知してくれた。
村はずれのペスト防疫センター
カルグィ古墳群の一基
樋を伝って流れてきた鉱泉を浴びる小屋
鉱泉治客
アイギーナの友達の青年

 5時過ぎには待ち合わせの場所でアイギーナと彼女の友達(同じくウラン・ウデ大学で学ぶ同郷の青年)を乗せて、出発する。アルジャーンへ行くと言う。トゥヴァで名所と言えばアルジャーン(薬効ある湧水の出るところ)しかなく、ムグール・アクスィ村の比較的近場の名所と言えば、村のすぐ近くのカルグィ川向こうの『アルジャーン(固有名詞はなくただアルジャーンと呼ばれている)』、『アク・ホリ(湖)』とその近くにある『アク・ホリ・アルジャーン』と、今回彼ら若者の案内で行った『カラ・スール Кара-Суурアルジャーン』ぐらいで、他は、高く美しい山への登山となる。それは装備も体力もない私には無理だ。
 『カラ・スール・アルジャ―ン』は村から20キロも離れていないかもしれないが、悪路を行ったのでかなり遠くに感じた。ゆっくり行って45分はかかった。村を出るとカルグィ川下のほうへ進む。村の3つある出入り口の一つで、タルバガンの彫刻のある方は正面、カルグィ川上は出口、しかし川下のこちらは裏口らしい。シベリアでは村の裏口から出たところにはたいていゴミ捨て場がある。ムグール・アクスィのゴミ捨て場も延々と続いている。発酵して煙の出ている所もあり、家畜もうろうろしている。ゴミ捨て場も牧草地の続きか。野良犬もいそうだ。シベリアはいくら地面が広いといっても、これでは…、最近のゴミは自然に戻らないものが多い、ということはみんなわかっていると思うのだが…
 ゴミ捨て場を過ぎたところに板塀で囲った新しい建物が見えた。ウィキマップから、これはペスト防疫センターだと思う。入院患者もいるのかもしれない。モンゴルを中心として高地の半砂漠、草原、低木森林地帯に生息するタラバガン(シベリア・マーモット)の中にはペストに感染したものもいる。罠にかかったタラバガンのうち何頭が感染しているか、毎年報告されている。
 やがて、カルグィ川を渡り左岸へ出ると、道は河岸段丘の上に続いている。かつての馬道を無理やり車輪が通ったような道で、よく目を開けて運転しないと窪地に落ちる。道は悪いが、河岸段丘の草原には古墳がたくさんあった。『ムグール・アクスィ村から東4.5キロ、カルグィ川左岸、涸川ハチルィグ・ヘムの合流点より上流』と考古学発掘リストに載っている『カルグィ9』古墳群と、6キロの『カルグィ10』古墳群だろうか。どちらも気持ちの良い高原(河岸段丘の草原)にある。私には古墳群が2個ではなく4個あるように思われた。
 古墳群はまだ先にもありそうだが、山の斜面から湧水が道路を横切って下へちょろちょろと流れているところに出た。これが『カラ・スール』らしいが、これでは浴びられない。アイギーナの友達の青年が、場所を知っているらしく、彼の言う通り、この清い流れをタイヤで踏んで先に進み、坂道をぐるりと廻って下に降りる。この坂道の途中にある段丘にも古墳があった。カルグィ川の岸辺近くまで降りたところに、シャワー小屋があり、テントも1張り張ってあった。男性が一人と女性が3人焚火を囲み、草の上に座ってお茶を飲んでいる。蚊が群がって襲ってくるのも、現地の人は気にしない。
 さきほどの湧水は、真っ直ぐ坂を下って流れ落ちてきたところから木の樋を伝ってシャワー小屋に入るようになっている。湯治(と言っても冷水)シーズンなのに湯治客が1組しかいないのも、『カラ・スール』はよほど不便な場所にあるからだろう。
 岸辺から見上げると、私たちの通って来た河岸段丘はかなり高いところにある。カルグィ川が太古から鋭く削って流れてきたのだろう。(太古と言っても、サヤン山脈やその支脈のツァガン・シベトゥ山脈のできたのは地球史から言えば最新)。
 去年は行けなかったムグール・アクスィ村より東の『カラ・スール』へ、私の大好きないわゆる悪路を伝ってたどり着け、古墳群まで写真に撮れて、私は大満足だ。
 元来た悪路を伝ってムグール・アクスィ村に戻ったのは7時過ぎで、アイギーナさんの家の前で写真を撮って別れた。友達の青年の腕には文字らしい入れ墨があった。チベット語の経典らしい。
 『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道のブグズン峠まで行く計画
 7月15日(水)。ムグール・アクスィ村のチンチ宅に再度滞在させてもらうことになったのは、トゥヴァ共和国から西のアルタイ共和国へ抜ける『悪路』を通るためだ。トゥヴァからアルタイへ抜けるにはエニセイ川系とオビ川系の分水嶺、またはモンゴル北西の内陸盆地系の川(そのうちトゥヴァを流れるモゲン・ブレンやカルグィ川系)とオビ川系の分水嶺となっている険しい山脈を越えなければならない。川の上流を伝い、峠を越えて行き来できる馬道(車輪は通行不可)は何本かあって、スキタイの時代から(それ以前からも)行き来してはいただろうし、遊牧していたかもしれない。
 しかし、スキタイ時代からの古墳などが発見されているのは、つまり、古代から人が行き来し、住んでいたのは、そうした分水嶺ともなっている険しい山々の馬道の中でも、トゥヴァの南、モングーン・タイガ・コジューンからアルタイのチュイ草原に出るコース沿いが断然多い。トゥヴァ側にもこのコース沿いには実に多くの古墳など遺跡が残っているし、アルタイ側にも多い。
 (アルタイ共和国の遺跡は世界の考古学上では有名だ。遺跡の多くはオビ川の源流カトゥニ川とその右岸支流チュヤ川沿いにある。現在の連邦道52号線も、ビイスク市からモンゴル国境まで、カトゥニ谷とチュヤ谷を利用してできている。文明の手が入ったところは調査されたが、未調査の現在無人に近いところにも遺跡は無数にあるかもしれない。ただ、発見されていないだけかもしれない。だが、古代人も現代人が利用するような便利なところにだけ住んだのかもしれないが。)

 前記のように、峠越えの馬道は幾つかあるが、車の通れそうな道はブグズン Бугузун峠経由しかない。ブグズン峠越えがチュヤ街道沿いの大村に出るのに最も近いからだ(上の地図)。人々がその険道をよく利用するのは、トゥヴァ南西端のモングーン・タイガ・コジューンのクィズィール・ハヤ村は首都のクィズィールからは502キロも離れているが、アルタイ共和国のチュヤ街道沿いのコシュ・アガチКош-Агач(9000人アルタイ共和国では第3位の人口)まではブグズン峠越えだと160キロで到達できるからだ(『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道という)。モングーン・タイガ・コジューンの年配の住民なら、必要なものを買うためには、ブグズン峠を越えてアルタイへ行ったと覚えている。『ハンダガイトィ=ムグール・アクスィ』道が整備されてからは、行政中心地ムグール・アクスィ村のほうは遠距離でもトゥヴァの首都と、不定期の個人乗り合いタクシーもあって、往来が少しは便利になった。しかし、ムグール・アクスィ村よりさらに奥のクィズィール・ハヤ村はアルタイとのつながりが強そうだ。『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道の整備のために予算が組まれるという記事もサイトには載っている。クィズィール・ハヤの住民は、もし、車も故障しなくて、天候さえよければ日帰りでコシュ・アガチまで買い物に行って来られるそうだ。
 ちなみに、トゥヴァの北西部の他の馬道を越えてアルタイ共和国側に出たとしても、広いチュルィム高原(自然保護区になっているくらい)が続くだけで、物を調達できるような大村なんて全くない。
『クィズィール・からコシュ・アガチ』道160キロ
クィズィール・ハヤからアルタイとノヴォシビリスク経由クラスノヤルスクへは1600キロ。ハンダガイトィ・アバカン経由では1133キロ

 『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道は去年、ヒンディクティグ・ホリ(湖)からクィズィール・ハヤへ行く時に一部だけ(50キロほど)通った。いつかは全線(160キロほど)通行してみたいと思った。この道で、コシュ・アガチ村まで出ると、前述のようにチュヤ街道(チュイ川沿い)に行きつく。コシュ・アガチはチュヤ街道の最後の大村なのだ。この街道は、ノヴォシビリスクからチュイスキー草原(チュイ川沿い)を横切ってモンゴル国境までの連邦道52号線の一部なので、ここまで出れば、アルタイ共和国の首都ゴルノ・アルタイスク市ビイスク市経由でクラスノヤルスクまで、アスファルト舗装道で1600キロの道のりだ。ちなみに、ムグール・アクスィ村から元来た道を戻れば、クラスノヤルスクまでは1133キロだが、一部険しい山道を通る。
 1600キロのアスファルト道を通ってクラスノヤルスクに戻るのも悪くはない。が、そのためにはトゥヴァからアルタイのコシュ・アガチへ抜ける道『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道を全線通過しなければならない。ところが、外国人の私には難しい。トゥヴァとアルタイとの堺ブグズン峠までしか行けない。この地帯はすべてモンゴルとの国境地帯(*)であり、通行するには連邦保安局の許可が必要だ。トゥヴァ共和国側の国境地帯なら、オンダールさんの助力で、クィズィールで入手できているが、アルタイ共和国内となるとアルタイ共和国の連邦保安局の支部から入手しなければならないが、そこには知り合いがいない。インターネットで調べたところによると、ロシア市民は国境線から5キロ圏まで許可証なしでも通行できるが、外国人は25キロ圏内には入れない。コシュ・アガチは25キロ圏外だが、『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道を、ブグズン峠を越えてアルタイ共和国側に出て進むと、どうしても、通らなければならないココリャ村が25キロ圏内にある。
 と言う訳で、内陸湖のモゲン・ブレン川系とオビ川系の分水嶺の、標高2580mのブグズン峠までなら行ってみることにしたのだ。ここがトゥヴァとアルタイの境でもある。
 モングーン・タイガ・コジューンには2つの村のほかは、ところどころ遊牧小屋はあるが、ほぼ無人の地帯で、道に迷っても聞く人もいないし、私やスラーヴァさんには土地勘もない。だから、チンチのパパに道案内を頼んであったのだ。または、チンチのパパを通じて、誰か地元の知り合いに頼みたい。
 今回、チンチの夫のヘレル Херел(-луч)君が道案内を引きうけてくれた。スラーヴァさんはナビで道(と言えるかどうか、方向と言ったらいいか)はわかるそうだが、トゥヴァ語のわかる地元のモンゴル相撲力士のヘレル君が一緒だと心強い。
 (*) 国境地帯 モンゴルは1000mから3000mと海抜の高い国土だ。その中でも北西が最も高く、ロシア・アルタイから続くモンゴル・アルタイ、さらにゴビ・アルタイと、北西から南東に2000キロにわたって延びるアルタイ山脈系があり、幅は600キロ。最高峰ベルーハ山4509mはロシアのアルタイ共和国にあり近くにカザフスタンとの国境もある)。
 再び、『地の臍』の湖 ヒンディクティグ・ホリ
 この日、朝食はチンチのパパが釣ったます類のムニエルだった。去年もこのメニューでとてもおいしかったのだ。
カルグィ川岸のユルタとその家族の女の子
ツァガン・シベトゥ山脈から流れ来る
ウズン・ヘム(ヘムはトゥヴァ語で川)
バイクの後ろの男性が羊を抱えている
ヒンディクティグ湖が見え出す
湖岸のヘレル君とスラーヴァさん
高原草地には無数の古墳

 道案内のために特別に、青少年の家『アク・ホリ』でのトレーナーを休んできてくれたヘレル君を後ろの座席に乗せて出発。9時頃にはカルグィ川を遡る河岸段丘の上を走っていた。ここにも多くの古墳があるのだ。真っ青なトゥヴァ晴れの下、東シベリアの最高峰3970mのモングーン・タイガ山塊の真白い頂上と草原の古墳群を見ながら、西へ進む。去年感動したアク・ホリ近くの石柱群や、ドーナツ古墳群などへは、再度寄った。カルグィ川谷には11個のクルガン群があると考古学リストには載っている
 道はカルグィ川左岸の段丘を通っているようだ。川近くには、たまにユルタが見える。
 ムグール・アクスィ村からカルグィ川谷を35キロほど行ったところに、ウズン・ヘム Узун-Хемと言う半枯れ川(左岸)がツァガン・シベトゥ山脈から合流してくる。この川を遡って行くとウズン・ヘム峠(3024m)に出る。そこは大湖盆地流域(トゥヴァ南部からモンゴル北西の内陸湖の流域)のカルグィ川と、北極海に流れ出るエニセイ流域のシュイ川(ヘムチック支流)との分水嶺となっている。ウズン・ヘム峠を越えると、また同名だが別のウズン・ヘム川の上流にたどり着く。つまり、カルグィ川左岸支流の半枯れ川の上流と、シュイ川右岸支流の22キロの川の上流が近くて、いかにも一本の川のように思えるが、実は全く違う水系の2本の川が『ウズン・ヘム』と同名なのだ。シュイ川支流の方のウズン・ヘムの川岸を下って行くとシュイ村などバイ・タイガ・コジューンの村々に出られる。馬道だが、この峠越え道があるおかげで、ムグール・アクスィ村はバイ・タイガ・コジューンと近道で繋がっている。昔からのツァガン・シベトゥ山脈越えの馬道になっているのだ。
 全く水系の違う流れが、お互いの上流が近いせいで同名となっている例は、トゥヴァでは幾つかある。たとえば、タンヌ・オラ山脈北斜面から流れるエニセイ左岸支流のトルガルィグТоргалыг川と、同南斜面から流れてウヴス・ヌール(湖)に注ぐトルガルィグ川。

 カルグィ川の石ころだらけの広い河原のウズン・ヘム周辺にも古墳が多い。ここを過ぎると、カルグィ川に浅瀬があって、右岸へ出られる。去年通ったこの浅瀬も私は好きだ。ツァガン・シベトゥ山脈とモングーン・タイガ山塊に挟まれているのに、カルグィ川はまだ広い河原を流れている。ここで降りて写真を撮る。と、バイクが近づいてきて私たちの先に浅瀬を、波を蹴立てて渡る。二人乗りのバイクだったが、後ろの男性が生きた羊を1頭抱えていた。家畜の運び方としてはずいぶん近代的だ。ヒンディクティグ・ホリ(ホリはトゥヴァ語で湖)で漁をしている仲間に食料の差し入れにでも行くのかと思う。去年、ヒンディクティク・ホリへ行った時も途中で出会ったのは村の救急車1台だけで、今年はこの羊のバイク1台だけだった。
 この浅瀬を渡ってヒンディクティグ・ホリへの小山越えの途中に立派な石柱(石人)がある。この石柱は顔を下にして倒れていたそうだ。だから、ただの石のように思われたが、ムグール・アクスィのある村人が起こしてみると顔や手が掘られたウィグル時代(突厥時代)の石柱だったので、自分たちの先祖の記念物として大切に立て直したのだそうだ。草原荒野の中にぽつんと立っているように見えるが、周囲を立て石で囲ったような跡もあるし、もっと坂道を登ったところにも石柱らしい記念物がある。こんな厳しい気候のところにも古代人は住み、遊牧を営んでいたのか。そして権力者のために石柱まで建てていたのか。
 もう枯れかかった草原、しかし種をつけようと最後の花が懸命に咲いている草原を通り、枯れ川(泥川)を渡り、小山の峠を越えると眼下にヒンディクティグ・ホリ(湖)が見えてくる。長さ15キロ、幅8キロほどの湖の真ん中に大きな島があって、それが臍のように見えるのか、ヒンディクティグと言うのは地の臍(古代チュルク語)と言う意味だそうだ。(ヒンディクティグ・ホリの高度2305m、面積66平方キロ。参考に浜名湖は65平方キロ、諏訪湖14平方キロ)
 四方を山脈に囲まれて、トゥヴァ晴れの下、透き通るような湖水をたたえたヒンディクティグ・ホリや、小さな湖がまだいくつかあるヒンディクティグ・ホリ盆地に人影も、人の手の跡も見えない。道(らしい)は南岸の沼地に通じている。ヒンディクティク・ホリを通り過ぎるにはここにしか道がない。道(らしい)は沼地の中でも上手に硬い地面を選んで通じている。車から降りて湖の水に触る。冷たく透明で、生き物の姿も見えない。空の白い雲が映っている湖面は細かく波だっている。臍島の影も映っている。
 この先はモゲン・ブレン川(*)まで高原草地の中を進む。モングーン・タイガ山塊麓で高度が2400mはある高原だ。同山塊はユネスコのウヴス・ヌール盆地自然保護地帯のクラスターの一つなので、注意を促す標識(許可証なしでは入場禁止ですよ)も立っている。標識は道端に立っているものだから、この標識があると、私たちは正しい『道』を通っているとわかるのだ。山の形はどれも同じだし、広い草地の中には何も目印がない。草の上に薄いタイヤの後はあるが、これは道としてはあまりあてにできない。途中で消えてしまうことがあるし、どこかのユルタで終わるかもしれないからだ。
(*)モゲン・ブレン川 Моген-Буренはヒンディクティグ・ホリ(標高2305m)からモンゴル領の淡水湖アチト・ヌール(海抜1435m)まで流れる。延長126キロ。モンゴル領ではブフ・モレン・ゴル(ゴルголはモンゴル語で川)と言う。モゲン・ブレンの水はアチト・ヌールからホヴド川などを通じて海抜1028mのヒャルガス湖に流れて終わる(蒸発する)。

 去年も通った冬営地の側を通る。小屋の周りに家畜の乾燥糞が積んである。草のない草原ではこれが燃料になるのだが、乾燥するとにおいもしないし、燃やしてもにおわないそうだ。
 こんな高地の草原も、遊牧地になっているのは現在だけでなく、古代もそうだったらしく、古墳や石柱が、あちこちにある。古墳の数は現在のユルタ数よりずっと多いようにさえ思われる。
 モレン・ブレン川を渡る
モレン・ブレン川(左に流れが見える)の河岸段丘の古墳群
 『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道はクィズィール・ハヤ村からモゲン・ブレン川を北へ40キロほど遡り、西へ曲がってアク・ホリを通過してブグズン峠へ出るはずだが、草原の中には何も目印はない。同乗のヘレル君の勘と、スラーヴァさんのナビを頼りに進む。ヘレル君は、いやこっちではない、少し引き返そうなどと言っている。するとナビを見ているスラーヴァさんが「行ったり来たりではナビに残した記録がわからなくなる!」と疳癪を起す。
 途中、古墳もない広い草原があり、ヘレル君によるとここでクィズィール・ハヤの村人は夏にナーディム祭を催しているのだとか。ナーディム祭はスポーツと民族音楽の祭りだが、ここではきっと競馬がメインだろう。
 モゲン・ブレン川までは来たが、この川のどこを渡ればいいだろうか。川岸まで降りて浅瀬を探す。1度目は川が深すぎる。次は、川床の石が大きすぎて車の底部に当たる。スラーヴァさんとヘレル君が歩き回って川の研究をしている間、私は河岸段丘にある古墳群を見て廻っていた。岩陰のほどよくまとまった古墳群だった(上の写真)。
 どこでこのモゲン・ブレンを渡ったらいいのか、車に乗ってまた探しまわっていると、ユルタを見かけた。地元の人に聞いてみるのがいい。トゥヴァ人はロシア人を好きではないと言う。特に田舎ではロシア人などの外部の者には敵愾心を持つ。だから、スラーヴァさんは遠くに車を止め車内にいて、ヘレル君がゆっくり(急いではいけない)ユルタに近づいて行った。私は、トゥヴァ人のような顔をしてヘレル君に付いて行った。ユルタの周りで遊んでいた子供たちがたちまち姿を消す。ユルタの中からも、未知の私たちの行動を眺めているのだろう。ヘレル君がさらにゆっくりと近づいて行くと、ユルタから大きめの少年が出てくる。続いてやや年少の男の子、さらに続いてもっと小さい男の子たち、7,8人ほどの年齢の異なる少年たちが、それなりに厳しい表情で、自分たちのユルタを目指してくるヘレル君や私にゆっくりと向かってくる。『荒野の決闘』場面のような緊張感がある。いくらトゥヴァ人のふりをしていても服装からして全く違う自分は場違いだ。時代違いでもある。ヘレル君は、彼らがユルタから出てくるのを見ると、歩みを止めた。自分たちの仲間ではないユルタにあまり近づいてはいけないのだろう。
 少年たちは私たちと5mくらいの距離まで来ると横一列に並んで、ヘレル君とトゥヴァ語で話し始めた。一番年かさの少年が話し、あとの少年たちは友好的ではない表情で私たちを見ている。私もまじまじと彼らを見た。10歳くらいの年少の2人は1足の靴を、一人は右足のみ、もう一人は左足のみに履いていた。全員がそろって外に出ることはないので、一人分足りなかったのか。それでも最年少がどうしても出たいと言ったので片足を分けてやったのか。年かさの少年が、全員出た方が戦力になると、片足ずつでも出てくるように言ったのか。
 対話はむろんトゥヴァ語なので全くわからなかったが、後でヘレル君に聞いたところによると、今、大人がいないので、何もわからない。どこで川を渡ればよいかよく知らない。たぶんxxxの方だろう、とのことだ。ユルタには男の子達しかいなかったのだろうか。片足靴の少年に話しかけてみたかった。ためらっている間に対話は終わってヘレル君が遠ざかる。ヘレル君に続かなくてはならない。

 モゲン・ブレンの川岸をもっと探してみると、何と、橋があった。先ほどの少年たちがだいたいの場所を教えてくれたのかもしれない。それをヘレル君がスラーヴァさんに言ったのだろう。実は私とヘレル君はロシア語で話しているのだが、彼のロシア語をよく理解できない。スラーヴァさんなら母国語だから理解できるのだろう。時々ヘレル君のロシア語をスラーヴァさんがロシア語に訳して伝えてくれることもあるくらいだ。
モゲン・ブレン川にかかる橋を注意深く渡る

 標高の高いここでは天候は変わりやすかった。橋をやっと見つけた3時半頃には小雨が降りかけていた。橋がかかっているからには、ここは間違いなく『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道なのだろう。しかし、シベリアの奥地には普通だが、なかなかくせ者の橋で、ハンドルやペダル次第では橋のくぼみに落ちたり、タイヤが橋からはみだしたりしそうだった。ヘレル君とスラーヴァさんはまずは下見をしてから、慎重にわたる。ヘレル君は前方の橋の上に立って車輪の行方を注目し、身振りで安全走行を促し、私はこの人気のない自然の中のありがたい橋に近づいたり離れたりして写真に撮っていた。ここが道の証拠に、近くに粗大ゴミ、大錆に錆びた機械の一部さえもが転がっていた。
 無事、橋も渡り、道に迷ってないとわかったところでランチにする。風が強くて、いくらシートで囲いをしても、スラーヴァさんのガス・コンロの火はすぐ消えるし、雨もまたぽつぽつと降って来るので、早々に片付けて車に乗る。激しく雨が降る。15分くらい進むと山に囲まれた静かな湖が見えだした。道はその湖の方へ山道を下るように続いている。氷河が削ってできた湖はたくさんあるが、この辺で、ヒンディクティク・ホリの次に大きいのはアク・ホリ(湖)だ。『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道もアク・ホリを廻って通じている。トゥヴァにはカラ・ホリ(黒い湖)やアク・ホリ(白い湖)と名付けられた地名が多い。湖は冬には必ず白く、夏には方向によって黒く見えるのではないか。だが、夏の今も、空の白雲を映して、湖面は白く光っていた。雨は上がっていたのだ。
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