クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 December, 2015 (追記 2016年1月7日,5月4日,6月25日,2017年2月2日)
2015年 もう一度トゥヴァ(トゥバ)  (4)
最北の砂漠と、最南の凍土帯(ツンドラ)のウヴス・ヌール盆地
           2015年7月4日から7月20日(のうちの7月12日から7月14日)

Путешествие по Тыве 2015 года (4.07.2015−20.07.2015)

年月日 目次
1)7/04-7/8 ソウル・インチョン空港 ようやくインチョン発 クィズィール市へ 2通の許可証を調達
2)7/8-7/9 トゥヴァ鉄道建設(地図) 考古学キャンプ場 最南のエルジン(地図) 砂金のナルィン川 険道の食堂
3)7/9-7/11 テレ・ホリ盆地 沼湖テレ・ホリ ポル・バジン城 湖周辺の遺跡 クングルトィグ村
4)7/12-7/14 砂漠と極寒のウヴス・ヌール盆地 (地図) ウヴス湖 国境線に沿って西へ 再び考古学の首都サグルィ アダルガン鉱泉
5)7/14-7/15 カルグィ谷へ カラ・スール鉱泉 ブグズン峠踏破計画 地の臍ヒンディクティク湖 モレン・ブレン川を渡る
6)7/15-7/20 白湖アク・ホリ ブグズン峠を越える ヘレル君を残す ハイチン・ザム道 クィズール・ハヤ
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
 最北の砂漠と最南の極寒(ツンドラ)のウヴス・ヌール盆地に出る
 夕方6時にはセンギレン山脈からも降り、ウヴス・ヌール盆地(*)の端にあるエルジン村のガソリンスタンドで長い間かけて、車のタンク内ばかりか、ルーフのポリ・タンクにまで満タンにした。その間、ゾーヤさんとエルジンの寺院へ行ってみたが、やはり閉まっていた。
 エルジンから1時間ほど北へ行ったサマガルタイ村まではユーリーさんたちと一緒だったが、サマガルタイ村はずれで、北のクィズィール方面へ帰るユーリーさんたちと別れ、西のウヴス・ヌール(湖)方面へ私たちは向かった。

 タンヌ・オラ山脈南麓の、ウヴス・ヌール北を通る道は去年も通ったが、その時は治安があまり良くなさそうだった。目的地のムグール・アクスィまでは西へ西へと417キロある(トゥヴァ全図は1ページ目)。早朝出発してひとえに走れば、その日のうちに着けるかもしれないが、サマガルタイを出たのが夕方7時半では、まずは1泊しなければならない。旅館などはないので、人目につかない場所でテントを張る。先を急ぐだけの旅では面白くないから、もう1泊するだろう。
 暗くなってから宿泊場所を探すのは難しいので、明るいうちに見つけようと、サマガルタイから16キロのベルト・ダグ村を過ぎたころ、道路から見えない小山の陰を物色して、テントを張る場所を決めた。センギレン山中ではよく雨も降るから木も生えているが、ウヴス・ヌールは半砂漠(と言うより半土漠)にあるから、とげのある低い灌木がところどころ生えているだけだ。乾燥した家畜の糞も落ちている。動物の白骨や、毛皮の断片もあった。なるべく動物性の遺棄物は除けてテントを張った。
 小山と小山の間から見える地平線、そこはウヴス・ヌール盆地(*)で、夕日が本当に美しかった。(テントを張った場所もすでにウヴス・ヌール盆地かもしれない。またはタンヌ・オラ山麓か、どこかその境界)。
モンゴルとシベリア南部、緑の丸が大湖盆地
(*)ウヴス・ヌール盆地 убсунурская котоловина 中央アジアでは最も北にある内陸湖を中心とする盆地で東西が600キロ、南北が160キロ。トゥヴァ(ロシア)のタンヌ・オラ山脈の南で、北西モンゴルのハン・フヒィン山脈の北にある。ウヴス・ヌール盆地やハン・フヒィン山脈南の大小の内陸湖盆地を含めて大湖盆地と言う。ウヴス・ヌール盆地は大湖盆地の北部分と言える。
 世界でもっとも北にある砂漠と最も南にあるツンドラ(凍土帯)が併存する場所で、夏は47度、冬はマイナス58度にもなることがあり、盆地は『独特の自然研究室уникальная природная лаборатория』であるとウィキペディアなどにある。人口密度は低く、スキタイやチュルクの遺跡も多く発見され、絶滅危惧種のユキヒョウやアルガリなども生息している。
 1932年までは、全ウヴス・ヌール盆地はモンゴル人民共和国領だった。というより、当時のトゥバ人民共和国との間に国境を決めた正式の条約が無かった。1932年、国境条約で、ウブス・ヌール盆地北とテス川中流流域はトゥヴァ共和国領となった。1944年にトゥバ人民共和国はトゥヴァ自治州としてソ連に合併されたので、ウヴス・ヌール盆地北もソ連領となった。詳細は『国境線に沿って南西へ』を参照
 ウヴス・ヌール盆地の中心にあるのがウヴス湖(海抜753mで、モンゴル北西の大湖盆地中では最も低い。面積3350平方キロでモンゴル最大、後述)。ほかに、ウーレグ・ヌールУурэг-Нуур(1989年までロシア語の地図ではУрэг-Нурと表記、海抜1425m、面積300平方キロ)や、トレ・ホリ(1148m、面積42)などの多くの塩湖、淡水湖がある。湖はモンゴル語でヌールНуур、トゥヴァ語でホリХоль、ハカス語でクリкуль、コリколь、ロシア語でオーゼロозеро。
 世界自然遺産ウヴス・ヌール盆地 1993年にロシアがウヴス・ヌール北岸を含む8つの自然保護区(クラスター)を設定、2003年にはモンゴルがテス川周辺をはじめとする4つの保護区を設定した。これら12の保護区が2003年にユネスコの自然世界遺産『ウヴス・ヌール盆地』に登録された。
     
 7月13日(月)。朝起きて、下方のウヴス・ヌール盆地の方を眺めると、もちろん昨夜のような夕日はなかったが、真っ青な広い空と、遮るもののない土砂漠の地平線が見えた。
ウヴス・ヌール北岸の盆地
古墳

 テントをたたみ、下の道路に降りて西へ進む。この417キロの道をもう一度通りたくて、トゥヴァに来たのだ。(ポル・バジン遺跡への道、モングーン・タイガ南麓のモンゴルとの国境の『ハイチン・ザム』道、タンヌ・オラ南麓でウヴス・ヌール北岸の道、この3道を通りたくて、またトゥヴァへ来たことは前出)
 道筋には、至る所に古墳が見える。墳丘になっているのはまれで、長い年月の間に平坦になったのか、石で囲ってあるだけのものが多い。かなり大きな古墳もあった。スキタイ時代やそれ以前の権力者たちは、古墳がつくられたとほぼ同時代に副葬品などの盗掘にはあったが、たぶんそのまま2000年以上も地中で眠ったままだろう。現在、発掘調査されるのは、古墳の上に道路を作るとか、建物を建てるとか、ダム湖に沈むとか、このままでは何かの理由(例えば川の流れに流される)で崩壊してしまうという場合に限るから。その場合、まずは古代の盗掘穴を見つけ、それを手がかりに発掘を進めていくそうだ。
 半枯のオルク・シナーОрку-Щинаа川周辺には50基の古墳群があるそうだ。『シナー8』から『シナー12』でおもにスキタイ時代
 35キロほど行くと、『ホリ・オージュ村 右10キロ』と書いた立て札があった。そのあとオー・シナー村までの45キロ、つまり、ベルト・ダグから合計80キロほどは、半砂漠反草原のなかに続く道と、両側の半乾燥草原とその中に点々と続く古墳しかない。道の右側遠くにはタンヌ・オラ山脈南麓、左側遠くにはウヴス・ヌール低地が遮るものなく見わたせる。
 去年はこの辺で4人のトゥヴァ人に車を止められて、彼らの車をけん引することを頼まれた。その一人は顔から血を流していた。みんな酔っていたようだ。ロープがないからできないとスラーヴァさんが断ろうとしても、一人が草原の中に入って行って、電線だった断片を引いてきた。そのリサイクル電線で引いたおかげで彼らの車にうまくエンジンがかかり、私とスラーヴァさんは逃れられたものだ。
 『去年のこの辺』らしいところで車を止めて降りてみると、電線の断片があった。トゥヴァでは今、遠隔地の村々には送電していない。僻地の村々は自前の自家発電で賄っている(ディーゼル発電)。ソ連時代には『国土の津々浦々にまで』電柱を建て送電線を伸ばした。その送電線の残骸だ。ちなみに、電柱の残骸もたまには残っていて、遠くから見ると古墳の石柱ではないかと間違える。
 やがて道路の左側、つまり、ウヴス・ヌール盆地側に『ウヴス・ヌール自然保護区のオルク・シナー地区(クラスター)』と書いた標識が建っていた。許可証なしで保護区内へ入ってはいけないのだ。しかし私たちにはクィズィールで交付された許可証がある。保護区所長のカンザイさんが書いてくれた各クラスターの責任者の電話番号まである。『オルク・シナー』ではなく、次のその名も『ウヴス・ヌール・クラスター』に入ろうと思っていた。モンゴル領に入らないでウヴス湖を見るには、そこしかない。
 サマガルタイから96キロのオー・シナー村には『関所』、つまり、国境地帯通行検問所(国境哨所)がある。しかし現在は、遮断機は下りてなくて開いたままだ。そこから、新築らしい橋のかかった枯れ川も過ぎて37キロ行くと『アク・チラー村』と言う標識が出てくる。カンザイさんが書いてくれたメモによると、この村にウヴス・ヌール地区(クラスター)の責任者、つまり国家検察官(インストラクター)がいるのだ。
 スラーヴァさんに頼んで村に入ってもらった。彼は、そんな検察官に頼んでも、いっこうに事が進まず、夕方になってしまうだろうとぶつぶつ文句を言っていた。しかし、去年自分たちだけで湖岸へ行こうとしたが、見えているのに行きつけなかったではないか。
 今回、スラーヴァさんと私の意見はたびたび分かれた。どちらかと言えば私の意向の方にしてもらった。そんな時は、彼はむっとしてあまり協力してくれない。彼は自分の改造車で悪路を走るのが趣味らしいが、主催者は私なのだから、危険でない限りは私の行きたい所へ行ってほしい。
 モンゴル最大の塩湖ウヴス
 アク・チラー村に入った。だいたいは村の中心にあって、ロシア国旗がはためいている建物が役場なので、そこで、国家検察官のスィルグィス・バーザノヴィッチ・ドンガクさんはいますか、と聞いてみる。たった今帰りましたと言うので、ドンガクさんの家を教えてもらう。その女性は
「トゥマート通りにあるわ。近いから案内してあげましょう」と言ってくれた。後で知ったことだが、彼女は役場の掃除なんかをやっているそうだ。
 角を曲がるとトゥマート通りと書いてあった。ドンガクさんは在宅で、カンザイさんに教えてもらった事情を話し、ウヴス湖を見たい、と言うと承知してくれた。アク・チラー村は湖から20キロのところにある。スラーヴァさんの車に乗って出かける。やはり、自分の庭のように熟知している案内人なしでは、この20キロは行きつけない。湖は見える。草はらには車輪の通った跡、つまり道はあるが、どの道を伝って行けば、沼地にはまり込まずに湖岸までたどり着けるのか難しい。去年は、たどって行った道が消えてしまったり、湖からいつの間にか遠ざかっていたり、ぐるぐる回っていたりして、どうしても、湖岸へたどり着けず、そのうち日が沈んでしまったのだ。
 今回も、一面の草はらで、全く目印がないように見えるが、ドンガクさんによると、
「あの遠くに見える青色の建物がモンゴルの国境警備所」だそうだ。前述のオルク・シナーとの下流が国境になっていて、その周囲はオルク・シナーの支流や側流、枯れ川の湿地帯だ。
 ウヴス・ヌール(湖)は長さ約85キロ、幅約80キロの角の丸いひし形の形で面積3350平方キロ(琵琶湖は670平方キロ)あるがそのうち0.3%(12平方キロ)のみがロシア領(トゥヴァ)で、湖岸では北の10キロしかない。その湖岸でも南東2キロが保護区となっている。保護区は南がモンゴル国境に接し、東西に細長い4490ヘクタールで、9のクラスターの中でも2番目に小さい。
 湖名は、モンゴル語ではオヴスУвсと言い、モンゴル語の湖の意のノールНуурを添える。元々トゥヴァ語ではУспа-Хол(この“o”はトウヴァ語特有の文字で、本当はoの中央に横線が入る)と言っていたが、そこからロシア語の『オーゼロ・ウープス・ヌルоз.Убсу нур』と言う地名が正式のロシア地図では表記されている。しかし、これは穴語(剰語)で湖の語がロシア語とモンゴル語で繰り返されている。最近の地図ではかっこしてモンゴル語表記も記入されている。ちなみにモンゴルもトゥヴァも1940年代初めには自国語をロシア文字(キリール文字)で表記するようになったが、“y”はロシア語では“ウ”と読むのにモンゴル語では“オ”と読む。そこで、この湖をУвс Нуурと記載しても、モンゴルではオヴス・ノールと発音し、ロシア語圏ではウヴス・ヌールと発音することになる。日本語の地図ではロシア語発音のウヴス湖、またはモンゴル語の発音に近いオヴス湖と記載。ロシア語正式表記のウープス・ノルとはあまり呼ばない。また盆地名もロシア語ではウープスノル盆地Убсунурская котловинаだが、日本ではウヴス・ヌール盆地となっている。つまり、盆地名の方はモンゴル語表記のつづり字をロシア語風に発音しているのだ。
ウヴス・ヌールの北西岸保護区
湖岸、これ以上はぬかって近づけない。ドンガクさんと
猪が食べるというアシの根

 モンゴルの国境警備隊の青色屋根の監視所を左に見ながら進むと、湖岸に出られるわけだ。アク・チラー村からゆっくり50分も走ってきたところでドンガクさんは車を降りた。これ以上は車で行けないと言う。地面が柔らかいからだろう。5,6分もドンガクさんの後について歩くと、ウヴス湖の青い水面のロシア領の一部が見えてきた。一帯が低地なので、数十メートルにわたって、岸辺を湖面の境界が移動する。春には水がここまで来ていたのだとドンガクさんが指さしてくれた。地面が柔らかいので、ウヴス・ヌール湖の水を触れるくらいには近づけない
 ドンガクさんがイノシシの足跡があると指さす。葦の根を掘って食べるそうだ。保護区はちょうど渡り鳥の中継点に当たる。ウブス・ヌール盆地にある大小の湖が内陸の渡り鳥の休憩地点になっている。クィズィールのカンザイさんが、鳥インフルエンザが流行っていて立ち入りが制限されているかもしれないと恐ろしいことを言っていたが、ドンガクさんに聞いてもそれらしいことはなかった。ドンガクさんは私たちを案内しながらも、遠くの鳥の飛ぶ様子などを注意深く眺めている。
 ウヴス・ヌールは、直径80キロほどのほぼ円形(丸いひし形)の形をしているから、どの湖岸からも対岸は遠すぎて見えない。湖へ流れ込む川の近くでは塩分濃度は低いが、平均すると、黒海の塩分濃度くらい、つまり世界大洋の半分くらいだそうだ。水面の標高は759メートルと一帯では最も低いので流れ出る川はない。砂浜に立って眺めると湖岸と言うより海岸にいるようだった。真っ青で真っ直ぐな水平線が見えた。見渡す限り、人と言えば私たち3人だけ。

 帰りの車の中で、ドンガクさんの差し出す書類にサインした。訪問者を記名しておかなければならない。今年になってからは、外国人は私たちの前にはスウェーデンからの生物学者(環境保護?)が訪れていると言う。
 突然訪れた私たちのために2時間以上も時間を割いてくれて、ドンガクさんには本当にありがたい。保護区のガイドは無料と言われた。だが、子どもが4人いるそうなので、日本から持ってきた可愛いボールペンを4本お礼に差し上げた。

 1時半には元の道路に戻り、西へ向かう。
 タンヌ・オラ南麓を流れて、ウヴス・ヌール湖に注ぐはずのイルビテイ川 Ирбитей(46キロ)の畔でランチにする。山川イルビテイ川は盆地まで流れてくると扇状地をつくり何本にも分かれる(地形が緩やかになったので何本にも分かれ扇状地を作り、それが盆地の一部になった)。それらの分流はウヴス・ヌール湖に合流する先に沼地帯で消えてしまうか、半砂漠で枯れ川になる。ランチにした場所にはまだ石の河原をちょろちょろと流れる水があった。水がないと食器が洗えないし、お茶も沸かせない。川下を見ると、遠くに湖が見えそうだった。やはり、こんな川では流水はこの半砂漠を流れ下り湖までたどれないだろうと思える。土管で水路を作って半砂漠を灌漑しようとしたらしいが、例によって破れていた。土木計画は不成功な場合が多いのかと、ちょっと失礼なことを考えてしまう。トゥヴァを回っていると、ここだけではないのだから。
 扇状地を走る道の両脇には、行っても、行っても石を積み重ねた大小の古墳が見える。
 国境線に沿って西へ
 
7.オヴュール 12.テス・ヘム 
6.モングーン・タイガ 17.エルジン 
11.テレ・ホリ (各コジュ―ン)
青ーロシア帝国保護領ウリャンハイ地方時代
  (1914−1921)
赤ートゥヴァ自治州時代以降(現代)の国境線
ショルク-ホヴの古墳群にあった石柱
この先、オヴュール・コジューンの行政中心地ハンダガイトィ村まで国境線はくねくねしている。(ドンガクさんのアク・チラー村はテス・ヘム・コジューンだが、トゥヴァ領ウヴス湖北岸はオヴュール・コジューンとなる)。1932年、モンゴル人民共和国と当時のトゥヴァ人民共和国がウヴス・ヌール盆地北部はトゥヴァ領であると国境線を定めるまでは盆地すべてはモンゴル領だった。だからオヴュール・コジューンができたのは1941年。コジューンは東西に長く6個の村はすべて国境線から近くにある。1944年トゥヴァ人民共和国がトゥヴァ自治州としてソ連に合併されると、トゥヴァ領になっていた盆地北部はソ連領となった。その後、ソ連とモンゴルとの国境条約は1958年と1976年に結ばれた。20世紀前半まではこの地方の詳細な地図はなく、地図を作製しながら正確に国境線を引いて行った。たとえば、今は国境線がひかれて2分されているトレ・ホリ湖も、例えば1932年までの地図には記載がなかった。正確な地図が作成されると、以前国境線を引いたところに、実は湖があったので、(くびれたところに)ラインを引いた。両国の政治的な力関係から、こんなにくねくねした国境線が引かれているのか
 イルビテイ川扇状地を過ぎると、国境は一気にウヴス・ヌールから15キロ以上遠ざかり、国境に沿った道もそれに合わせて遠ざかり、何だか山に入る。カドゥィ川(27キロКадый)と言う、やはり、タンヌ・オラからウヴス・ヌールへ注ぐ川を越えると、去年も美しさで息をのんだ『ショルク‐ホブ・バジШолук-Хову Бажы』と標識のある高原に出る。そこでしばらく休憩した後、5分も高原を走ったところに遺跡群があった。大きな円形の古墳が散らばっている。黒石柱が立っている。3本の腺を彫った(これは儀式用香炉だと言う説がある)傾いた灰色の石柱もある。南シベリアの古代人はいつでも絶景の場所に記念碑兼墓地を作ったといつも私は思う。
 高原を過ぎると、チャー・スール村Чаа-Суурと、そこから8キロ離れたドゥス・ダグ村Дус-Даг(*)のある草原を通り抜け、トルガルィク川(Торгалыг 66キロ、ウヴス・ヌールに注ぐこの川の峡谷で、タンヌ・オラ山脈を東西に分ける)を渡ると、『国境に近いこと』を注意する標識が出てくる。ドゥス・ダグ村から8キロのチョザ川Чоза(27キロで、トルガルィクの右岸支流)を渡るころには国境まで1キロ以内に接しながら伸びる。国境線の鉄条網も見える。そして、モンゴル領を通過する直進では23キロのところを、国境沿いにぐるりと46キロ迂回しなくてならないと言う標識が出てくる。この迂回道はチョザ川に沿ってアルガルィク・コジャガルと言う2600mほどの山を登って行き、今度はウラタイ川(Улатайモンゴル語、62キロ、ウヴス・ヌール湖に注ぐ)に沿って下り、直進道につながるという46キロの迂回道だ。
(*)ドゥス・ダグ村の南14キロに岩塩産地がある。その岩塩採掘の山(ドゥス・ダグ山)がモンゴル領の中に深くくびれてロシア領となっている。国境が確定された1958年や1976年のソ連邦とモンゴルの力関係を想像させるそうだ。上の地図
 
チョザ川を上る。トゥヴァ人の遊牧地
迂回路アルガルィク・コジャガル山の峠
峠などには必ず建つオヴァーとチャラマ
ここにはチベット仏教の旗も並ぶ
迂回路からウラタイ川を見下ろす
昔のように草原のなかにひかれた形ばかりの国境を越えて遊牧することが厳禁になり、国境線に鉄条網が張られるようになったので、アルガルィク・コジャガル山を越える迂回路ができたのだろう。鉄条網がなければ、こんな遠回りの不自然な迂回路は通らず、みんな昔からの(馬道の)直進の道を通っていただろう。1986年発行の地図には迂回路はなく、直進道しか記入されていない。現在迂回路の折り返し点になっているアルガルィク・コジャガル山から流れるモンゴル領のテリイン・ゴール(30キロ、ウラタイ川の左岸支流)と言う川の畔には、1986年発行の地図には実に多くの遊牧基地が記入されている。多くのモンゴル人が占有する遊牧地があったので、モンゴル領にするように国境線が引かれたのかと思うくらいだ。
 つまり、東から順番にチョザ川、テリイン・ゴール(テエール川)、ウラタイ川とほぼ平行して南流し、中央のテエール川畔の斜面が特にモンゴル人の先祖代々の遊牧地だったので、最終的にトゥヴァ側には渡らなかったのかもしれない。チョザ川畔、ウラタイ川畔は、現在はトゥヴァ人(だけ)の遊牧地になっていて、通ってみると、幾つもの遊牧基地があり、家畜の大群が草を食んでいた。
 トゥヴァ考古学遺跡リストによると、ウラタイ川谷にもチョザ川谷にも実に多くの遺跡、古墳や石柱がある。西タンヌ・オラ山脈南麓は今も昔も豊かな草原で、古代から牧畜民が活動していたのだろう。彼らが残した遺跡は、この地方では昔と変わらない生活をしていたため(耕作地のために自然の形を変えなかった、つまり昔からの土地を破壊しなかったため)、現代にまでそのまま残っているのだ。

 46キロの迂回路にも、『注意。ここは国境地帯』と書いた標識がいくつも立っていた。後半は、山を削って作ったような新道で、周囲にはさすが古墳は見えず、急坂だった。ウラタイ川に沿って下ると直進道に合体する。アクスィ・ドゥルグАксы-Дуругと言う湧水(鉱泉場)の畔を通る。ウラタイ川畔には有名な光線が多いそうだ。ここからハンダガイトィ村までは16キロで、再び古墳群の中を行く。
 ハンダガイトィは、全人口6800人のオヴュール・コジューンの行政中心地なので、村の人口は約3000人。オヴュール・コジューンは東西に細長く6個の集落はすべて国境付近にある。ハンダガイトィ村から5キロ離れたところに『ハンダガイトィ=ボルショー』税関があって、モンゴルへ入国できる。しかし、第3国人はできない。私がネットで調べた限りではロシア連邦かモンゴル国のパスポートを持っている場合だけ出入国できる。
 ハンダガイトィからさらに西に13キロ行ったところで、道は北へ行く(しかし直進に見える)アスファルト舗装の地方道163号線(今は『チャダン=ハンダガイトィ』線と言う)と、西へ行く(左折するように見える)砂利道にわかれる。『直進はチャダン75キロ、クィズィール305キロ。左折はサグルィ65キロ、ムグール・アクスィ156キロ、クィズィール・ハヤ200キロ』とあった。
 左折してセップ峠(1818m)を越えたあたりで20時も過ぎたので暗くなる前にテントを張ることにした。ちなみに新しい地図では『пер Сап サップ峠』と峠の意味のперはロシア語だが、1986年発行(1971年作成)では「Сап давааサップ・ダヴァー」と峠 давааはモンゴル語だ。その横には古い地図ではモスト峠Мост Давааがあるのだが、新しい地図では『モスト・ダヴァー峠 пер.Мост-Даваa』とモスト峠・峠とダブっている。先にあった地名に後から来た民族が自分たちの言葉の『峠』や『川』をつけて地名とする冗語の一つだ。(シベリアには多い。2重3重の冗語になっている地名もある)
 峠を越えると8時も過ぎていたのでテントを張る場所を探す。まばらな林に入って行って小山の陰の木の下でテントを張った。10時前、空は真っ青だったがあたりが薄暗くなった頃に寝た。
 再びボラ・シャイ盆地と考古学の首都サグルィ
 7月14日(火)。6時前に起きて、昨夕テントを張った疎らな林で、茹でたソバ粒とお茶の朝食を食べ、8時過ぎには、元の道に戻っていた。
 モンゴルではボルシーン・ゴル Боршиин-голと言い、トゥヴァではボルショー・ゴル Боршоо-Гол、またはボラ・シャイ Бора-Шайと言うウヴス・ヌール西岸に注ぐ114キロの川の本流や支流、側流がこの盆地(ウヴス・ヌール盆地の一部)を流れている。タンヌ・オラ南麓とモンゴルとの国境をなす低い山々の連なり(と言ってもどちらも2000m近いが)との間に草原がつづいている。
ボラ・シャイ遺跡かもしれない

 私たちが宿泊した林から道に出て10分も行かないその盆地に、見事な遺跡の草原があった。トゥヴァでは絶景の場所、または穏やかな草原広場(河岸段丘や盆地)には古代スキタイ時代の古墳と並んで8世紀ウィグルの古墳や石柱が立っている。考古学の遺跡リストにある『ボラ・シャイ遺跡』は、ここかもしれない(ハンダガイトから40キロとある)。タムガ(ウイグル時代の印)の彫られた大きな石柱とそこから一直線に延びる石柱群、大型の円形古墳など、道路のすぐ横にある。トゥヴァにはこのような遺跡の残る草原が多い。トゥヴァではおそらく、大小を問わずどんな草原にも、古代人の記念碑(墓地かもしれない、神殿跡かもしれない)が残っていると思う。ハカシアもそうだ。あるいはそうだった(ハカシアではロシア人の耕地も多いから、昔からの草原は均されたりしている)。

 現地の道路標識の記名ではモールドゥク・ヘム Моолдук-Хем、しかし、1971年作成の10万分の1の地図ではモルドィ・ヘム・ゴル Молды-Хем-Голл(ヘムはトゥヴァ語で川、ゴルはモンゴル語で川、これも冗語だった)、また、最近の20万分の1の地図ではモルドィ・ヘム Молды-Хемとある川を渡ると、かつてのアルィグ・バジ Арыг-бажи村、現在はメスティチコ・ボラ・シャイ местечко Бора-шайという集落を過ぎる(メスティーチコとは集落の一つの呼び方だが、トゥヴァでは村より小規模、定住地とは限らない)。ここはトゥヴァ近現代の歴史的場所でもあったそうだ。
 この先、昔は国境地帯通過を管理していたような遮断機のついた峠も通り過ぎた。今は遮断機も開いたままで直方体の管理小屋は骨組みだけ残った廃墟だが、峠なので、オヴァーやチャラマが張ってある。ここが地図に載っているカルチャン峠Калчан(1968m)かもしれない。

 この峠から、西タンヌ・オラ山脈がツァガン・シベトゥ山脈にぶつかるアルザイトィ Арзайты山麓までの、モンゴルとの国境北で、東西に細長い40キロをサグルィ Саглы草原、またはジュゼルリク Дужерлик草原と言って、遺跡がとりわけ多い場所だ。サグルィ草原と言うのはサグルィ川(121キロ)が草原北端を西から東にながれてくるからだ。サグルィ川はアルザイトィ山麓から東にながれ、クィズィール・テイ(現サグルィ村)から南に折れ、ウヴス・ヌールに注ぐ。ジュゼルリク草原と言うのは草原南端の国境をジュゼルリク川(サグルィの右岸支流)が、北のサグルィ川とほぼ平行に流れてくるからだ(上流はモンゴルとの国境の山の向こうに)。ジュゼルリク川の向こうはなんだか別の文化の地のように思えるが、現代のような国境のなかったスキタイの時代では、サグルィ谷は、内陸の大湖盆地の北端にあたる。トゥヴァに残っている遺跡の豊富さとしては、モングーン・タイガや、ウルック・ヘム右岸、ウユーク盆地に劣らない。
 『考古学の首都』サグルィ谷は去年に続いて2度目だが、ここでは自力で遺跡を見つけるのは難しいと、知り合いのサンクト・ペテルブルクの考古学者からも言われていた。石器時代からの遺跡はあるが、大規模で有名なのは『ウルグ・ホルム』と言う古墳群で1968年グラーチ Александр Данилович Грач (1928―1981)が発掘調査した。当時の白黒の写真もアイフォンに入れておいた。この日はまだ午前中だから、サグルィ(旧クィズィール・テイ)村のどこか、もしかして『文化宮殿』でも開いているかもしれない。と、村をぐるりと回ってそれらしい建物の前に車を止めて入ろうとすると、出てきた女性がいる。遺跡について聞いてみたが、よく知らないようだった。
「かなり前だが大がかりな発掘調査をしたはずだが」とアイフォンの白黒写真も見せた。
「あ、その山の形は見覚えがある」と言ってくれる。そこは、たぶん、そこの道を行って…と説明してくれようとする。
「地図を書いて説明してもらえないだろうか」と手帳を差し出す。
文化宮殿の所長を撮るようにして哨兵も撮る
私「地図まで書いてくれてありがとう」
警備隊員「道中御無事で」

 その時、文化宮殿前にいる私たちの方に軍用ジープが近づいてきた。これは、村の入り口にあった国境警備管理所から出てきたものに違いない。私たちのように堂々と、クラスノヤルスク・ナンバーの車が国境地帯5キロ内を走っていれば、検問しなければならない。
 去年は、サグルィ村に入る前の道路で2名の警備隊員の乗ったジープに止められたが、今年は朝早かったので、サグルィ村中を廻っているところで、検問されることになったのか。ジープには4人以上の警備隊員が乗っていた。私たちはもちろん国境地帯通過許可証は持っているから、問題はない。それより、地元サグルィ部署に勤務している警備隊員の方が、車で巡回しているから遺跡の場所をより知っているのではないか。
 今回は、去年のように自動小銃を持った警備員が横について検問される、と言うものものしさはなかった。村の中だったからかもしれない。ジープから3,4人がおりてきて、がやがやと質問されたという感じだった。目的も聞かれたし、彼らの帳面に署名してほしいとも言われた。検問された市民の名前や許可証の番号などが書き込まれている。彼らにとっても中央に対して職務を果たしていると言う証明にもなることだろうし。目的は観光だが、考古学の首都と呼ばれているサグルィ谷の『ウルグ・ホルム』という遺跡の場所は知らないか、とアイフォンの写真も見せて尋ねてみた。一人の隊員は詳しく知っていて、私の差し出す手帳に地図も書いてくれた。ありがたい。もしかしてその隊員は考古学に興味を持っているのかな。彼の書いてくれた地図は、文化宮殿の女性の地図より正確そうに、スラーヴァさんは思えたらしい。
「さすが男性の地図」と感心してくれるのはいいが、「女性の地図はだめだ」などと失礼なことも言っている。しかし、彼女はこの近辺の名所(トゥヴァで名所と言えば、薬効ある湧水を浴びられる場所だが)を教えてくれたし、親切に対応してくれたので、写真を送ろうとメールアドレスを聞いてみた。もしかしたら、ネットもサグルィ谷まで通じているかもしれない。しかし、彼女が答える先に、先ほどの若い隊員が、
「ここにはインターネットはない。やっと最近メガフォン社の携帯が通じるようになったばかりだ」と横から教えてくれる。ロシアのどこかから配属されてきているらしいその隊員も、他の駐屯地では使えたネットが、ここでは使えないのが残念らしい。
 文化宮殿の親切な女性には普通の住所を書いてもらう。帰国後写した写真数枚を郵便で送ったが、こうした僻地からは、普通は、返事は来ない。国際郵便なんて、サグルィ村の郵便局では受け付けていないのかもしれない。
 若い隊員が書いてくれた通りに、橋を渡って、短くて緩い坂道を下ると、国境側に曲がる道があり、そこへ入って1キロも行くと古墳群が見えてきた。
古墳の一つ。背後の緑の帯はサグルィ川。
その向こうの山はすでにモンゴル領

 遠くの山々に囲まれた草原に幾つもの古墳や石柱があった。発掘して大きな穴の開いている元古墳もある。…写真に写っていた山はどれかわからない。山々には木は生えていない、草原にも、もちろん、木はない。10万分の1の地図ではサグルィ村から10−15キロ西と南西に『古墳』、『古墳』と幾つも記載されていて、私たちが訪れたのはそれらだと思うが、グラーチなどの文献にある『ウルグ・ホルム』か、どうかはわからない。文献には32本のスポークのある巨大な輪の写真や略図が載っている。…
 アダルガン鉱泉
 12時ぐらいには元の『ハンダガイトィ=ムグール・アクスィ』道に戻り、ムグール・アクスィ村に向けて西へ進む。サグルィ谷の西はタンヌ・オラ山脈とツァガン・シベトゥ山脈が接し、高度は2000mくらいもあるが、まだ草原谷間が続いている。そして、この寒暖の差の激しい、厳しい気候のサグルィ谷草原にこそ、実に多くの遺跡がある、とグラーチの論文には書かれている。サグルィ草原西で『サグルィ・バジ』http://wysotsky.com/0009/538.htmは、アルタイ地方の有名なパズィルィク古墳時代と同時代の古墳もあるが、アルタイの古墳(*)とは違って盗掘を免れていたそうだ。ここでも古墳が冷凍状態になっていた。出土品はサンクト・ペテルブルクのエルミタージュ博物館にある。グラーチ達は1950年―70年代に『ハンダガイトィ=ムグール・アクスィ』道建設前の考古学調査をしたそうだ。それまでサグルィ谷は考古学の未踏査地(白い斑点)だった。
『サグルィ・バジ1』古墳群は、10世紀前後のエニセイ・キルギスのもの  http://kronk.spb.ru/library/grach-ad-1968a.htm
『サグルィ・バジ2』古墳群は紀元前5,4世紀のスキタイ時代  http://wysotsky.com/0009/538.htm
A.D.グラーチ『中央アジアの古代遊牧民』は А.Д. Грач Древние кочевники в центре Азии.
(*)アルタイのプリンセスと呼ばれることになったミイラが永久凍土のため保存状態のよかった古墳の一つから発見されたことでも有名

 『サグルィ・バジ』は捜さなかったが、サグルィ村の文化宮殿の女性が書いてくれた名所、薬効ある湧水の『アダルガンАдарган』へ行くことにした。と言うのも道端に『アルジャーン・アダルガン右折3キロ』と手書きで書いた標識があったからだ(アルジャーンは鉱泉)。彼女の書いてくれた地図によるとタンヌ・オラ南麓のウルッグ・ダグ(山)の隣の山アダル・ダグの裾野にあることになっている。彼女は山の形と名前も丁寧に書いてくれた。それは、10万分の1の地図で見ると全く正しいが、現地では山に名前を書いた標識なんてない。
アダル・ダグの裾野にある鉱泉
宿泊ゾーンにはユルタや小屋のほか薪や家畜も。
上手には湧水ゾーンを示すチャラマ

 スラーヴァさんは気が進まないようだったが寄ってもらった。そこは、トゥヴァによくあるような湧水場で、小屋が1軒とユルタが1張り、テントが幾つか建っている。草原に木はないから湯治客は車で薪を運び、小屋の横に積み上げる。離れたところにトイレ小屋も立っていたし、近くに家畜も草を食んでいた(湯治客の食用か)。宿泊ゾーンより斜面上の湧水ゾーンにはチャラマも張ってあり、水を引く木製の樋、樋の先から落ちてくる水を浴びるための布で囲ったシャワールームもある。
 手足が麻痺したようなおばあさんが車椅子を押してもらって湧水ゾーンから降りてきた。薬効ある(聖なる)湧水は様々な難病に効くと言われている。宿泊ゾーンの真ん中にごついテーブルとイスがあり、年配の女性と子供が休んでいた。湯治中は1日に2回ほど湧水を浴びるほかにはすることがない、と言うのが湯治客にはいいらしい。話しかけてみた。サグルィ村から来ているそうだ。彼女たちに勧められて、湧水にも手を浸してみた。
 たぶん、この湧水から遠くないところにあるのが『サグル3』クルガン群で、下の道路近くにあるのが『サグルィ2』だろう。あるいはその反対か。山麓にあるのが、考古学地図に載っている『石器時代の住居跡』かもしれない。
 東西の主要道『ハンダガイトィ=ムグール・アクスィ』道にあった『右折3キロ アルジャーン・アダルゲン』と手書きの標識を曲がってから、また元の道に戻るまで30分ほどのより道だった。
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