up date | 18 December, 2015 | (校正・追記:2016年3月14日,6月17日,11月28日,2017年2月27日,2019年12月15日,2021年11月15日) |
33-2(6) 2015年 もう一度トゥヴァ(トゥバ) (6) ブグズン峠 2015年7月4日から7月20日(のうちの7月15日から7月20日) |
Путешествие по Тыве 2015 года (4.07.2015−20.07.2015)
年月日 | 目次 | ||||
1)7/04-7/8 | ソウル・インチョン空港 | ようやくインチョン発 | クィズィール市へ | 2通の許可証を調達 | |
2)7/8-7/9 | トゥヴァ鉄道建設(地図) | 考古学キャンプ場 | 最南のエルジン(地図) | 砂金のナルィン川 | 険道の食堂 |
3)7/9-7/11 | テレ・ホリ盆地 | 沼湖テレ・ホリ | ポル・バジン城 | 湖周辺の遺跡 | クングルトィグ村 |
4)7/12-7/14 | 砂漠と極寒のウヴス・ヌール盆地(地図) | ウヴス湖 | 国境線に沿って西へ | 再び考古学の首都サグルィ | アダルガン鉱泉 |
5)7/14-7/15 | カルグィ谷へ(地図) | カラ・スール鉱泉 | ブグズン峠計画(地図) | 地の臍ヒンディクティク湖 | モレン・ブレン川を渡る |
6)7/15-7/20 | 白い湖アク・ホリ | 峠、沈黙の美の世界 | ヘレル君を残す | ハイチン・ザム道 | クィズール・ハヤ |
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。 |
白い湖アク・ホリ | |||||||||
アク・ホリ(湖) | |||||||||
氷河によってできたアク湖にはジェトィ・テイДжеты-Тей(Гетедей)と言うブグズン峠近くからの川などが流れ込み、北岸から一本の川が流れ出てモゲン・ブレン(川)に注ぎこむ。道は、その流れ出る河口の方に続き、ここにも橋がかかっていた。先ほどよりずっと新しくて安全な橋だった。それで、橋のたもとで、先ほど雨と風で中断されたランチの続きを始めることにした。この湖の標高は地図によると2194.6mだ。厳しい気候の草原の草はおいしいと聞いたことがある。羊の大群がやって来た。アク・ホリ盆地は水もあって格好の遊牧地なのだろう。それは現代はもちろん、古代からそうで、湖の周りの斜面には古墳が多い。
湖は山(丘)に囲まれているので、湖岸でランチしている私たちは、湖に近づく羊たちや牧夫たちによく見える。仔馬を連れた母馬と、もしかしてその連れ合いかもしれない馬に乗った少年二人が近づいてきた。先ほどの道を聞いた少年たちには話しかけられなかったので、私は喜んで、この自ら近づいてきた少年に話しかけた。聞くと、彼らは普段はクィズィール・ハヤの学校に通っている。記念にと言って日本からのボールペンを差し出す。一人がジャンパーのジッパーを開けて胸ポケットにしまう。もう一人もジッパーを開けようとするが、スライダーの引き手が取れて入る。慣れた手つきでズボンのポケットからマッチ棒を取り出し、それでスライダーを引き下げ、澄ました顔でボールペンを胸ポケットにしまい、またマッチ棒の先にスライダーの先端をひっかけて引き揚げる。 ヘレル君が、私たちの横にべったりと座り込んでいる二人にジュースをご馳走する。コップが1つしかないが二人は分け合って飲んでいた。スラーヴァさんが、彼らの乗って来た馬に私が乗ってみてはどうかと提案する。と言っても、ちょっと乗って写真を撮るだけだ。 ヘレル君は川に釣り糸を垂れる。湖から川に流れ出る地点が一番良い漁場なのだそうだ。少年たちも釣りを始める。寡黙な少年たちだった。 結局ヘレル君の収穫がなく、私たちは6時半ごろ、橋を渡って、アク・ホリの北岸を進む。何と多くの古墳が、この高原にひっそりと残っていることか。地下に副葬品(盗掘された残りの品)と一緒に眠っている古代人も、誰も墓参に来てくれる人がいなくてさびしかろうと思ってしまう。万年雪が残っているような山のすぐ麓で。 アク・ホリを過ぎ、小さな湖と万年雪の塊を左右に見て進んでいく。と、また雨が降って来た。まだ7時だと言うのに、山の空はどんよりと曇っていて暗く、もう晴れる様子もない(ように思えた)。ジェトィ・テイ川の沼地を避けて進む。山陰に立っている最後のユルタも過ぎる頃は7時半で、暗くなる前にテントを張る場所を決めなくてはならない。 雨は止まず、寒く、地面はぬかっているので、私はすっかり憂鬱になった。道なき草原沼地に迷っているのかもしれない。万年雪の塊もさらに近くに、さらに厚く広く見えてくる。これ以上は進めないと、ある小さな湖の上の高原にテントを張ることにした。見晴らしがよくてどこからでも見られるが、どこからも誰も見ていない無人の地だ。 雨の中、テントを建て終わると、ヘレル君は下の湖に魚がいないかと調べに出かける。変わりやすい高原の空では雨もやんだ。山のかなたがまぶしくなり、黒雲の向こうに太陽光線が見える。反対側の岩山草原には大きな虹が。 スラーヴァさんが、明日はブグズン峠までは行くが、当初の予定のクィズィール・ハヤへは廻らないで、今日来た道を戻って、ムグール・アクスィ村に帰らなくてはならない、と言う。なぜなら、かばんを忘れたからだ。パスポートも国境地帯通行許可証もお金も入ったかばんをチンチ宅のピアノの上に忘れてきてしまった、今気が付いた、と言う。大きく1周する予定が、またジグザグになってしまった。後で支払いの時、スラーヴァさんにガソリン代を少しまけてもらおう。 |
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ブグズン峠、沈黙の美の世界(と思われた) | |||||||||
7月16日(木)。朝は、やはり寒さのために5時過ぎには目が覚めた。テントの外に出てみると、この日は晴天だった。そのせいか明け方気温は下がり、夜中テントに降った雨滴が白く凍っていた。スラーヴァさんの車の温度計によると零下2度で、ナビでは標高2400m、東経89度23分583秒、北緯50度13分396秒、ブグズン峠まで直進で4キロの地点だった。(どの程度正確かは不明) 朝日の下、あたりを見回すと、ここは沈黙の美の世界(とは大げさだが私にはそう思えた)。冷酷で厳粛な世界。まだらに雪の残った山に囲まれた広い高原の沼地。丸い小さな湖に向かって地面が傾斜している。山々には半透明の薄雲がかかっている。山の端から登ってくる太陽がありがたい。高みに上ってみると、向こうにもっと小さな湖もみえた。ヘレル君によると、出口のない湖なのでよどんで半沼地化しているそうだが(ヘレル君の大好きな魚釣りに適していない)、真っ青な空を映して、ひっそりと無言でたたずむ姿が美しかった。 6時半頃には日の当たっている側のテントの氷は水滴になっていた。
いつもの朝食をとり、湖近くへ行ったり、小高い丘に上ったりして、ひと夜の御縁のあった草原の寂寞美にひたってから、9時頃出発した。また、自然保護区の標識を見かけたので、道は迷ってない。川も渡ったが、たぶんこれはジェトィ・テイ川だ。 出発して30分も行った頃、1台のウアズ(ロシア製ジープ)が追い越して行った。モングーン・タイガ・コジューンの村では、これとニーヴァ(より小型のジープ)しか見かけない。外車どころかロシア製乗用車のジグリ(ラーダ)やモスクヴィチすらない。それもそのはず、この地では、乗り心地、運転のしやすさなどは2の次、3の次ぎ。悪路に耐え、いくら故障しても直せる車でないと使いものにならない。 ヘレル君がクィズィール・ハヤのコルホーズ長(*)が乗っていたと言う。ソ連時代から、村ではコルホーズ長の決定に常に村長が従ってきたように、今でも、モゲン・ブレン国立単一企業長の彼女がクィズィール・ハヤ村を仕切っているらしい。コシュ・アガチで何か会議でもあるのだろうとヘレル君。今の時間、峠近くを走っていると言うことは、今朝かなり早くクィズィール・ハヤ村を出発したのだろう。ウアズは、草原のなかに踏み固められた茶色の道を、私たちを追い越しスピードを上げて去って行った。運転手には、この『クィズィール・ハヤ=コシュ・アガチ』道を何度も往復して、勝手知った道なのだろう。 (*)コルホーズはソ連崩壊後に崩壊したが、運営されている元コルホーズは国立単一企業государственное унитарное предприятиеと改名2,3分も行かないうちに道端にオヴァーが見えてきた。峠の一つだと思った。オヴァーの隣にはウヴス・ヌール自然保護区のうちの一つ『モングーン・タイガ』クラスターを示す標識と地図があった。と言っても錆びていたり落書きがあったりして読みづらい。モングーン・タイガ・クラスターは面積15,890ヘクタール、その緩衝地帯が125,600ヘクタールとある。後でわかったが、この場所こそがブグズン峠だった。この先はアルタイ共和国となるから、モングーン・タイガ・クラスターの緩衝地帯もここまでと言う意味だった(アルタイから来る人にとってはここから、と言う意味)。 私の国境地帯通行許可証も本当はここまでが有効だ。しかし、ブグズン峠はまだこの先だと思って、車を進めた。川岸を行く道は下っている。峠を越こえたのに、この川がジェトィ・テイ川のはずはないが、モゲン・ブレンの支流のひとつの山川かと思っていた。はじめは細く、川岸に雪も残っていたが、進むにつれて、川の流れはしっかりしてくる。先ほどの峠から30分も行かないところに、すっかり廃墟となったコンクリートの直方体の小屋と遮断機がかかっていた柱がある。何年も前には、ここでパスポートなどを検問していたのか。イミグレーション・ゲートかもしれない。現在のモンゴルとの国境は確定しているが、20世紀前半はあいまいで移動もしたようなので、これは一時的なゲートかもしれないと思った。ゲート跡ならトゥヴァにも何か所もある。それに、20世紀前半までは国境地帯では、国境線にかかわりなくかなり自由に遊牧していた。 私は、まだ、トゥヴァ内を走っている、ブグズン峠はこの先だと思っていたが、スラーヴァさんは車を止めて、 「これ以上は進むのはやばい」と宣言した。自分たちはすでにアルタイ共和国内のロシア・モンゴル国境地帯に入っている。許可証なしで国境地帯に入ると罰金がとられる。場合によっては拘束される。外国人の私にはアルタイ共和国内の許可証はない。スラーヴァさんにはパスポートさえない(チンチ宅のピアノの上に忘れてきた)。ヘレル君は、 「大丈夫だよ、みんなこの道を通ってコシュ・アガチ(*)へ行っている」と言ったが、やはり、引き返すことにした。当初の予定でも、ブグズン峠までだったから。 峠に検問所はなく(当たり前だ、あんな無人のところに職員は常駐できない)、そこから30分も進んだところの検問所も廃墟になっていて、たぶんココリャ村近くまで(この峠から50キロ)無事通過できるとは思った。それどころか、コシュ・アガチ村までも検問なしで行けるかもしれない。コシュ・アガチ村でさえも無事通過できるかもしれない。トゥヴァ領内でも、検問されたのは、たまたまだったではないか。
分水嶺でもある峠を越えてから、私達が伝って来たのは、それではブグズン川ということになる。ブグズン川はチュヤ川(320キロ)左岸支流のクィズィール・シンКызыл-шин(79キロ)の源流、または別名になる、別名はまたコシュタルとも言う。オビ川(5570キロ、または3650キロ)の源流ビヤ川(688キロ)とカトゥニ川(688キロ)のうち、カトゥニ川の方の左岸支流がチュヤ川。カトゥニ川の水源はアルタイ山脈最高峰のベルーハ山(標高4,506m)の南麓のカトゥニ氷河。(地図) アルタイ共和国は、トゥヴァ共和国(モングーン・タイガ・コジューンとバイ・タイガ・コジューン)、ハカシア共和国、ケーメロヴォ州、アルタイスキィ地方(以上ロシア連邦内)、モンゴル国、カザフスタン国、中国と接しているが、境界線はすべて分水嶺となっている。アルタイ共和国内の水分は境界外には出ないで、すべてビヤ川かカトゥニ川に流れ込む。すっきりしていてわかりやすい。(ただ、アルタイ共和国とアルタイスキィ地方との境界線は分水嶺になっていない)。 引き返すことにした道からはブグズン川(と今や、わかったのだが)の河岸段丘に建っているユルタも見下ろせた。ヘレル君たちのようなトゥヴァ人のユルタではなく、アルタイ人のユルタだ。モンゴル人のユルタでもアルタイ人のユルタでも、ユルタの外見は皆同じように見えるが、文化がやや異なるように住居もやや異なるに違いない。アルタイ人の家畜の群れも川を渡っている。ほんとうにこのまますすんでも何のお咎めもないように思えたが。 先ほどのゲート跡をまた通る。来るときには気がつかなかったが、『国家地理ポイントГеографический пункт охраняемым государством』と言う小さな金属製レリーフが建っていた。もちろん落書きだらけだった。今まで通って来たブグズン川を引き返す。これが、オビ川に流れこむ川とわかると、何だか川岸の景色もオビらしく見えてしまう。 |
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ヘレル君を残す | |||||||||
ブグズン峠も越えてトゥヴァ領内に入った頃、また1台の車がコシュ・アガチをめざしていた。午前中はこの方向、夕方は逆方向の通行となるらしい。 スラーヴァさんが書類一式を忘れたために、もうどこへも行かず、元来たムグール・アクスィ村へ戻ることになるが、同じ道でも逆に通ると景色の見え方も違ってくる。アク・ホリを小高い崖の上から眺めながら通ることになった。半枯れで麦色になった草原の窪地には大きなアク・ホリのほか、幾つもの小さな湖がある。家畜の大群も進んでいる。崖を降りて湖に近づくと古墳群が見える
アク・ホリの橋のたもとでヘレル君がまた釣り糸を垂れたが、またもや不漁だった。モゲン・ブレンの危なっかしい橋を渡ったのは2時半、ヒンディクティク・ホリが見えだしたのは3時過ぎ、湖岸に着いたのは3時半ぐらいだった。ここでもヘレル君は釣り糸を垂れる。コシュ・アガチへ行くのかと道案内に同乗してくれたヘレル君の期待を裏切って申し訳ない。初めからチンチにはブグズン峠へ行くと言ってはいたが、ここで「ブグズン峠へ行く」とはコシュ・アガチへ行くことを意味するのだろう。せめてヒンディクティク・ホリで思う存分魚釣りをしてもらいたいと、私は思った。後で知ったことだが、ここで釣竿で漁をしてもめったにかからない。元漁業コルホーズ員たちは網を張って捕まえているそうだ。6時半には引き上げる。 去年も感動したカルグィ川左岸のコプ・コジェ遺跡に寄る。ウィグル人の遺跡で、ひげがあり盃を手にした戦士(支配者か)が、真っ直ぐ縦に一列に並んだ石柱と向かい合っている。列柱の先頭に戦士が立っているように見える。 ヘレル君が川岸を見はらして、チンチのパパの車があると言う。「僕には双眼鏡は要らない」と言っているくらい視力のいいヘレル君だ。先祖代々遊牧をしてきたトゥヴァ人の視力は2.0以上なのかもしれない。 遺跡の間を歩き回っている私を残してヘレル君はカルグィ川の方へ行ってしまった。後で私たちも行ってみると、チンチのパパと一緒に喜々として魚釣りをしているヘレル君がいた。彼の荷物を残して、ムグール・アクスィの家路に着く。7時半頃だった。 ところが、家まであと15分と言うところで国境警備隊員のジープとすれ違った。スラーヴァさんの車はクラスノヤルスク・ナンバーだったので、手を振って止められる。スラーヴァさんは、パスポートも許可証も家に置いて、ちょっと川岸まで魚釣りに来ただけだと、熱弁をふるう。ムグール・アクスィ村では自分の元教え子の家に泊まっている。ほんのすぐ近くまで行って帰ってくるつもりだったのでカバンを置いてきてしまったのだと、陽気な声で(悪気がないように)繰り返す。ジープは隊員で満席だった。もしかして勤務中ではなかったのか、何人かはほろ酔いのようだった。彼らは許可証の有無より、スラーヴァさんの車に興味を示す。1950年代の車でどうして走れるのか。スラーヴァさんはいかに改造してきたか、私はすでに20回以上は聞いているが、得々と語りだす。最近加えた改造としては、トゥヴァ旅行には必須の浅瀬渡り用に車体をエアで持ち上げる装置もあると実演してみせる。横に座っている私の許可証にはあまり関心がないようだったが、若い隊員が一応聞いてくれた。それでやっと日本国パスポートと許可証を見てもらえた。一杯機嫌の隊長は、ではここへ必ず電話して指示を仰ぐようにと電話番号を書いた紙きれをスラーヴァさんに渡して去って行った。『状況を説明し、パスポートと許可証を見せに行くこと』と電話番号の下に書いてあった。後で、スラーヴァさんは電話して状況を説明したが、それ以上は何事もなかった。電話先はコゲ・ダヴァ峠から降りたところにあるカルグィ川国境警備駐留隊地(哨所)だろう。 チンチの家に帰ると、 「私の夫をどこに置き去りにして来たの?」と聞かれる。いいえ、チンチのパパをカルグィ川で見かけたので、一緒に魚釣りをすると言って自分から残ったのですよ、と言い訳する。 |
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ハイチン・ザム道 | |||||||||
7月17日(金)。昼食は、昨日釣ったヒメマスのムニエルだった。遅めに起きてきたヘレル君もモリモリ食べる。彼らは手で食べ、スラーヴァさんはフォークで、私は特別に出してもらった古い箸で食べる。 この日は、昨日ブグズン峠の帰りに行けなかったクィズィール・ハヤへ出直すことにする。去年も行ったところだがモンゴルとの国境の巨大な岩石の高原のハイチン・ザム道をもう一度通りたいと、思っていたのだ。これは昨日スラーヴァさんが自分のパスポートや許可証の入ったかばんを忘れてきたため、ムグール・アクスィからブグズン峠で折り返し、クィズィール・ハヤを廻ってムグール・アクスィに帰ると言うコースをとれなくなって、クィズィール・ハヤ村へだけもう一度出直すことになったからだ。 ムグール・アクスィから南へ2,3キロ行き、古墳群の草原の分かれ道で西へ曲がる。その草原にも無数の古墳が、円形や、方形、楕円、対角線を引いたような正方形のと、様々なのがある。同じ場所に時代の異なる古墳ができたのか。考古学者と一緒に見れば、詳しく説明してもらえただろう。私にはハカシアのタガール文化の古墳に似ているとか、ウヴス・ヌール北岸で見かけた古墳と外見が似ているという程度にしかわからない。ここからは、頂上が真っ白なモングーン・タイガ山が見えた。 スラーヴァさんは南西へ南西へとモングーン・タイガ山塊(3970m)へ向かう。モングーン・タイガへは車で登れるはずはないが、行けるところまで行こうと言う。彼は、去年は行かなかったところへ行きたいのだ。遠くにユルタを見かける。もう近くの山に隠れてモングーン・タイガが見えない。行っても、行っても山に囲まれた草原だった。
東シベリア最高峰のモングーン・タイガも山麓は遊牧地だが、車輪の通れる道は遊牧基地をつないでやっと通じているだけで、道なりに進んでも決して頂上には近づけない。ここまで来ると古墳もなさそうなので、クィズィール・ハヤへの道に戻ってもらう。10キロほどでモンゴルとの国境にもなっているハプシ峠(2684m)に出る。この峠をモンゴルに出ないように、越えると道は国境を示す鉄条網と並んで通じている。 鉄条網は、最も高いラインでも2mくらいで、その下に30センチ間隔ぐらいで5,6本張られている。これで家畜なら通り抜けられない。一定の距離を置いて国境を示す長い柱が見える。遠くからでもわかるように目立つ色の縞々模様に塗られている。場所によっては、モンゴル側の鉄条網ラインと近づき、中立地帯がほんの数mくらいの場所もある。また、かなり離れた尾根にモンゴル側ラインが張られていることも、岩山の向こう側(らしい)になっていることもある。 国境があるからと言っても、ここにはおいしい草が生えているから、トゥヴァ人もモンゴル人も近くまで遊牧している。羊の大群が鉄条網のすぐそばで草を食んでいた。馬に乗った牧童もいる。ハイチン・ザム道からも、モンゴル側のユルタが見える。 国境のトゥヴァ側にはハイチン・ザム道があるように、モンゴル側にも車輪の通れる道が延びているようだ。後ろに女の子を乗せたバイクが走って行った。手を振ると向こうも手を振る。鉄条網なんてなければいいのに。 シャラ・ハラガイ川 Шара(Хара)-Хорагай(33キロ、モングーン・タイガから流れトライトィТолайты川に合流、またはアチト・ヌールに流入、その場合は延長78キロ)を渡ると、しばらくは湖水地帯の国境線と並んで走ることになる。と言うのもモングーン・タイガ山の真下で急に斜面が緩やかになったここには、川が膨らんでできた湖が多いのだ。モングーン・タイガ山から何本もの川が流れ下り(北から南へ)、モンゴルの大湖盆地にある湖に注いでいる。そうした川や途中の湖を横切って国境線(東西に)が続いているからだ。幾つかの湖はトゥヴァ領で、またいくつかはモンゴル領になっている。去年ここを名漁師のチンチのパパと通った時、 「魚を食べないモンゴル人になぜ湖を分けてやったのか」と憤慨していた。モンゴル側の湖の方が、魚が多いのだそうだ。だが、歴史的にはトゥヴァがモンゴルから分けてもらった湖だ。 鉄条網は湖岸ぎりぎりに張られている。そして道路も湖岸と鉄条網ぎりぎりに続いている。 トライトィ川の端の麓には国境警備検問所があった。今はその直方体の小屋は廃墟で、外壁に大きく書かれた国境哨所 ПОГРАНИЧНЫЙ ПОСТの文字が読めた。 アク・ホリと言う小さな川とオルター・シェゲテイ Ортаа(Арта)-Шегетей(28キロ)の間は険しい山道になっているが、道路工事なんかやっているには驚いた。1日に何台車が通るのかどうか知らないが、橋もかけられ、道路上に巨石がなく、均されているのは、もちろん、こうやってメンテナンスがされているからだ。 オルター・シェゲテイ川を渡ると、『石ヶ原大高原』(と私が名付けた)に出る。氷河が運んだのか大小の石がどこまでも敷き詰められた無情な高原が広がっている。そこをモンゴル側とロシア側の2重の鉄条網ラインが走っている。この高原はウムヌ・フレム Умну-Хурэмと言うそうだ。ウムヌ・フレム荒野はハイチン・ザム道がムグール・シェゲテイ Мугур-Шегетей川(16キロ、モゲン・ブレンの左岸支流)を渡るまで続く10キロほどの絶景だ。 ムグール・シェゲテイ川の橋を渡るとさらに10キロ余り穏やかな草原カラ・タグ・ベリ Кара-Таг-Белиまたはカラ・ツザムКара-Цзамが続き、途中にはユキヒョウの像の横に『モゲン・ブレン』とトゥヴァ語で書いた標識やあずまや、オヴァーやチャラマ、さらに国境地帯を示す標識(ロシア語)も立っている。小さな丘を一つ、頂上に残雪のある山の方へ越えていくとクィズィール・ハヤ村に着く。午後1時だった。 |
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クィズィール・ハヤ村 | |||||||||
クィズィール・ハヤのどこへ行けばいいのか、スラーヴァさんと二人では、実は、さっぱりわからなかった。まずは、郷土博物館へ行ってみたが閉まっていた。村役場も誰もいなくて、元コルホーズ事務所も玄関以外は閉まっていた。スラーヴァさんは非協力的で、電話することを渋った。職員は夏期休暇中だから、そんな場合、直接の知り合いでもないのに電話するものではない。ロシア人の自分がついているのに、自分が非常識と言われる。と反対する。もっともだ。だが私には、機会はこの日しかない。 ひとまず去年も行ったモゲン・ブレン川段丘の岩画を訪れる。そこから古墳と石柱群の河岸段丘を通り、廃墟となっている水力発電所の空地に行く。ここでランチにする。 2度目の訪問で私は何か新しいものを見たかった。だが、探せない。クィズィール・ハヤは遺跡の上に立っていると言われているはずだが。確かに、村中に古墳が残っている。さすが古墳の上には家を建てず、石を避けて板塀が立っている。だから古墳は道路の脇にある。
去年のように、手立てを考えてくれるチンチの両親はいないし、スラーヴァさんは非協力的なので自分で探すしかない。 クィズィール・ハヤは遠近の遊牧小屋の住民も入れて4000人の人口なので、店が幾つかある。通行人に聞くより店員に聞いた方がまだわかるかと思って、村役場近くの店(専門化していない)に入ってみた。スラーヴァさんは外の自分の車の中で知らん振りしている。 今は閉まっているが、博物館関係者に連絡をつけることはできないだろうかと尋ねてみた。村人はお互い知りあいなのだ。親切な店員さんはどこかへ電話してくれた。何箇所か電話してくれたが、通じなかった。別の店に入って聞いてみたらいいと言われる。その店がどこにあるか、通りまで出て指さしてくれた。スラーヴァさんを促して、そこへ行く。 結局、元畜産コルホーズの玄関ホールに座っていたカラ=キット・サルィグラルさんと言う女性が私の相手をしてくれた。彼女はそこに座って、数日後の自分の結婚式の招待状を配っていたのだ。遺跡について知りたいのだと話すと、村の学校に石柱が保存されているという。案内してもらった。トゥヴァでは現在の人の住んでいるようなところになら、必ず、古代の遺跡があるものだ。遠くから来た私に親切にしたいと思ったのか、自分の家に考古学の本があるから持って来て見せてあげると言う。家はすぐ近くにあると、去った。その5分ほどの間、玄関ホールに座って待っていると、馬がのぞき込んで来た。外で止まっているスラーヴァさんの車が、牛に舐められたそうだ。 彼女が持ってきた本は、ТЫВА ДЕПТАРというシリーズの第1巻だった。2013年タチアーナ・プルドノコーヴァさん宅の本箱に全巻が並んでいて、できる限りコピーしたが、今、彼女が見せてくれたページがコピーしてあったがどうかわからないので、ありがたくアイ・フォンで撮らせてもらった。なぜ、こんな貴重な本(発行部数が少なく、書店には並ばない、すべて贈呈本)を持っているかと言うと、彼女の夫が郷土史関係者だからだ。 クィズィール・ハヤのことをもっと聞きたかったが、40分くらいで、感謝して別れを告げた。5時前だった。
ハイチン・ザム道はもう自分の家の裏庭のように感じられる。来るとき見かけた道路工事現場では、ダンプ・カーがまだ働いていた。近くではトゥヴァ人男性が4人座って休んでいた。もう少し行くと道路脇に一人立っていて、手を上げている。ムグール・アクスィ村まで乗せていってほしいそうだ。きっとほかの作業員は逆方向だったので手を上げなかったのだろう。オート・ストップの若者はロランと言って、村の消防署で働いたこともあるそうだ。 もう勝手知ったこの道のハプシ峠近くでは、国境ラインの鉄条網が道にすれすれになる。そこで鉄条網を触っている自分の写真を撮ってもらう。峠を過ぎると雨が激しく降って、すぐ止んだ。 7時頃、家に着いて、元消防所所長のチンチのパパにロランのこと、彼を村のどこで下したかを話した。ムグール・アクスィ村もみんなお互いに知り合いなのだ。その日、10時頃寝るまで1歳のアビルガちゃんのお守をしていた。私の腕の中でうんちをされて、急いでママのチンチにズボン一式を着替えさせてもらった。ロシアではおしめと言うものをしないのだ。その方が子どもは快い。紙パンツは、遠くへ外出などの時のみ、はかせる。 |
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クラスノヤルスクへ | |||||||||
7月18日(土)。朝、出発前に、家の前や車の横でチンチや、アビルガ、アビルガの祖父、私と、何枚も写真を撮ってから、9時頃、村を後にした。カルグィ川を渡り、コゲ・ダヴァ(峠)を通り、バルルィク川沿いの道を通り、アルザイトィ峠を越えて、西タンヌ・オラ山脈南麓のサグルィ草原に出る。4度目に通る道なので、どこを通る時に、何があって、これは念のために写真に撮っておいた方がよいかどうか、この先にもっと貴重なものがあるかどうか、と言うことも前もってわかる。前回と違うものがあれば、注目する。こんな山奥にも羊の大群が道を横切って行く。サグルィ谷に出ると、見晴らしがいいので遠くの古墳も見える。来るときの景色も帰りの景色も、見慣れたものに感じられて、他国にある我が家のようだ。
ボラ・シャイ遺跡ではもう一度丁寧に写真を撮る。12時半頃にはハンダガイトィ近くの地方道163号線への分かれ道まで来た。ハンダガイトィも遺跡の宝庫だ。前述のように、現在の人がすむような所には古代人も住んだからだ。ここからはアスファルト道になる。163号線は、西タンヌ・オラの分水嶺を越えると、エニセイ水系のウルグ・ホンデルゲイ Улуг-Хондергей(60キロ) 川を下るように続いている。ホンデルゲイ谷もよい牧草地だ。つまり、古墳が多い。1時間ぐらいで幹線の地方道162号線に出て西へ進む。163号線と162号線が交わるところにも食堂があった。そこでまたボルシチ。アク・ドゥヴラクで地方道161号線に乗り、サヤン山脈を越えてクラスノヤルスクに戻る道をとる。 サヤン峠への道でスラーヴァさんの車の調子が悪くなった。何とか修理して5時過ぎにはサヤン峠を越えたが、オナ川を渡り、アバカン川を渡り、9時頃、アバザ市を過ぎたあたりで、もう一度車を止め、下にもぐりこんだスラーヴァさんは、このままでは車は動かせない、今晩は近くの森で泊まって、明日朝、車の修理を続けてみる、クラスノヤルスクまでは何とかゆっくり行きつけるだろうが、翌朝空港まで私を送ることはできないと言う。 そこで、私はクラスノヤルスクのディーマさんに電話して事情を説明し、翌日はホテルに泊まり、次の日の早朝、サンクト・ペテルブルクへ立つ飛行機に乗るよう送ってほしいと頼む。ディーマさんはその時、空港で中国行きの飛行機の搭乗手続き中だったらしいが、かけ直してくれ、自分の留守中は代理をしてくれているミハイル・ミハイロヴィッチさんにすべて頼んでおくからと言ってくれた。 7月19日(日)。森の中に張ったテントから出る。車の調子を見ながら朝8時前には出発する。ここはもうハカシア共和国のハカス・ミヌシンスク草原。サヤン峠を越えると急に気候が穏やかになり、農耕民のロシア人の手入れの跡がみえる牧草地が広がっている。ハカシア共和国は18世紀初めからロシア帝国領で現在ハカス人は人口の12%しかいない。 午後1時過ぎ、ハカシア共和国とクラスノヤルスク地方との境にあるカフェで、ランチにする。もう本格的にカップ・ラーメンともお別れだが、ボルシチとは別れられない。 6時にはディーマさんの会社に着き、この日は休日だったので閉まっていたが、ミハイル・ミハイロヴィッチさんに電話して、来てもらい彼の車に私の荷物を全部移して、スラーヴァさんと別れ、いつものホテルに向かった。この日、スラーヴァさんの奥さんは、去年のように私が泊まって行くものと思いと、食事やデザートを準備して待っていてくれていたそうだが、翌朝の早い出発を考えるとホテル泊にしてタクシーを予約しておいた方がいい。 12日間の運転代とガソリン代の合計46,507ルーブル(1ルーブルは1.93円として89,842円)は、数日後ディーマさんからスラーヴァさんに銀行振り込みしてもらった。ディーマさんと私は後ほど円で決算する。 翌朝、ホテルを出発したのは朝の3時半。クラスノヤルスク空港を出発したのは5時半、サンクト・ペテルブルク着は7時10分(現地時間、クラスノヤルスクとの時差は4時間、日本とは6時間)だった。(「ウラル山脈北西コミ人の地方」へ続く) |
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