up date | 10 May, 2016 | (追記 2016年6月17日,2017年3月6日,6月1日、2019年1月9日,2019年12月15日、2021年11月16日) |
33-2 (1) 2015年 北ロシア、ウラル山脈北西、コミ人たちの地方 (1) サンクト・ペテルブルク経由 2015年7月20日から8月6日(のうちの7月20日) |
Путешествие по КОМИ 2015 года (20.07.2015−06.08.2015)
月日 | 目次 | |||||
1)7/20 | コミ共和国 | S.ペテルブルク着 | S.ペテルブルクの住宅事情 | 詩人・シュメール学博士 | ||
2)7/21-7/22 | 北ロシアに向かう | ヴォログダからトッチマ | スホナ街道 | 偉大なウスチュク | アルハンゲリスク州 | ゥイブ大村 |
3)7/23-7/24 | コミ地図スィクティフカル市 | コミの鉄道 幹線と支線 | コミ人のウドール地方へ | ウドールの歴史 | メゼニ川のパトラコーヴォ村 | |
4)7/25-7/26 | 大プィッサ村 | 郷土史家ロギノフさん | 郷土芸能家アンドレーエヴァさん | マーガレットの絨毯 | ホロムイイチゴの沼 | ムチカス村 |
5)7/27-7/28 | 先祖伝来の狩場プーチック | 隣村のコンサート | 天空の村 | メゼニ川沿いの村々 | ||
6)7/27-7/30 | 菱形のコミの対角線 | ロシア初の石油の町ウフタ | ペチョーラ川を渡る | ヴクティル市 | ペチョーラ川を下る | 国立公園『ユグィド・ヴァ』 |
7)7/31-8/1 | ユグィド・ヴァ地図、シューゲル川を遡る | 『中の門』と『上の門』 | ルブリョーヴァヤ停泊小屋 | 小パートク川 | 大漁のサーモン | |
8)8/2-8/6 | 北ウラルを去る | スィクティフカルからヴォログダ | スターラヤ・ラドガ | ブルーベリー |
コミ共和国 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コミ共和国は85の「ロシア連邦構成主体(*)」と呼ばれる地方行政体のうちの一つだ。それは連邦構成主体と言って、46の「州」、9の「地方」、3の(連邦) 市、22の「(民族)共和国」、1の「自治州」、4の「自治管区」がある。コミ共和国はトゥヴァ共和国やハカシア共和国と同じく22の「(民族)共和国」の一つだ。 (*)クリミア共和国とセヴァストポリ連邦市を含んだ場合。 コミ人はヨーロッパに多い印欧語族ではない。だからロシア人のようにスラヴ系でもない(しかし、同化されている)。ゲルマン系やラテン系やバルト系でももちろんない。シベリアや中央アジアの多くの民族のようにチュルク語族でもない。もちろんモンゴル語族でもない。コミ語は北東ヨーロッパ、北ユーラシアのウラル山脈麓の先住民と言われるウラル語族のなかのフィン・ウゴル語派の一つだ。フィン・ウゴル語派には、フィンランド語、エストニア語のほか、ロシア連邦内の、コミ語(現在コミ共和国の先住民のコミ・ジリャーン語やペルム州のコミ・ペルミャツキィ語)、ウドムルト語(ウドムルト共和国)、カレリア語(カレリア共和国)、マリ語(マリ・エル共和国)、モクシャ語・エルジャ語(モルドヴァ共和国)などがある。現在、ウラル山脈東のオビ川流域で話されているハンティ・マンシ語も、中部ヨーロッパのハンガリー語と共にフィン・ウゴル語派に含まれる。(*)
フィン・ウゴル族は、現在の北東ヨーロッパに紀元前3000年紀半ばごろから住んでいた。コミ人の祖先のものとみられる遺跡はヴォルガ川中流のオカ川やカマ川沿いで調査されている。その後、源コミ人(広くペルム人)は北部やカマ川上流へ広がっていった。紀元前1千年紀に現在のコミ共和国の地にもフィン・ペルム語の祖先が住むようになった。4-8世紀の北ロシアのヴァンヴィズディン文化の担い手はフィン・ペルム語の話し手とされる。紀元後1000年紀半ばごろまでに、フィン人、カレリア人、ヴェプシ人、エストニア人、チュヂ人(コミ人)(**)などに分かれたと考えられている。つまり、紀元後千年紀のノルマン系やスラブ系の進出のころの中部ロシアの主な先住民だった。 1千年紀末には、ヴォルガ中流のカマ川岸にすんでいたペルム人が、北のヴィチェグダ川岸へも広がったコミ人と、現在カマ川岸にウドムルト共和国の先住民として残っているウドムルト人に分かれたとされる。ヴィチェグダ川に移動したペルム人(コミ)はヴァンヴィズディン文化の担い手と同化、9-14世紀にはヴィム文化の担い手となり、バルト・フィン系の民族や、ヴォルガ中流のブルガール国、古代ロシア諸国、草原のイラン系民族などと交易して栄えた。 北ロシアにあったとされるヴァイキングの(伝説上の)国、ビャルマランド にはフィン・ウゴル族が主に住んでいたとも言われている。12世紀ごろにはビャルマランドはノヴゴロド国に含まれるようになり、12から14世紀にはチュヂ人(当時スラブ人がフィン・ペルム系民族をさした総称)は、より東へ、ウラル山麓西に去った(それまではアルハンゲリスク州東部などにも住んでいた。またバルト・フィン諸語担い手は、バルト海からヴォルガに広く住んでいた)。14世紀にはロシアの諸公国に対してチュヂの中でも最強のコミ・ペルミ族が大ベルミ国を作り、当時のヴォルガ川中流のブルガール国やモスクワ公国、ノヴゴロド国の間で独立を保っていた。しかし、16世紀初めには大ペルミ国はモスクワ公国に併合された。 現在のヨーロッパ・ロシアの北半分は、先住民のチュヂ(フィン・ペルミ系)の地に、スラヴ人が10世紀ごろ移住してきて、16世紀にはほぼロシアの地になったわけだ。しかし、ロシア人とはロシア語を話すフィン・ペルム人かもしれない。(ウラルより西の現代ヨーロッパ・ロシアの北半分はモスクワ公国が膨張する16世紀ころまで、フィン・ペルミの地だった。) ロシア革命後の1921年にコミ(ジリャーン)自治州が作られるまでは、現在のコミはアルハンゲリスク県やヴォログダ県、ヴャトカ県の一部だった(地図)。1936年にはコミ・ソヴィエト社会主義自治共和国となり、ほぼ現在のコミを含むようになった。ソ連崩壊後の1992年にはコミ・ソヴィエト社会主義国となり、1993年にはコミ共和国となった。1990年から2007年の恐慌期に人口は22%減って、2015年の人口は86万人余、人口密度は平方キロあたり2人。全コミ・ジリャーン人は35万人、うち23万人がロシア連邦内に住み、そのうちでも20万人がコミ共和国に住む。
フィン・ウゴル語派と同じウラル語族のサモディーツ語派は、現在はネネツ語など極北の民族の言語だが、20世紀か19世紀まではサヤン山脈麓にもマトル語やカマシン語の話し手が住んでいた。今は死語となっている。サヤン山脈のハカス人やトゥヴァ人は今ではチュルク語族の一つだが、サモディーツ系チュルク語族とも言われている。(先住のサヤン山脈麓のサモディーツ人が、チュルク語化して現在のトゥヴァ人になったのか、先住のサモディーツ人が、渡来のチュルク語系民族に融合したのか)。 トゥヴァで車の運転をしてくれるスラヴァ・オーヴァドフ Оводов Святслав Алексеевичさんと、コミへ招待してくれたセルゲイさんの都合を調整して、7月5日、小松空港発、ソウル経由でクラスノヤルスクに着き、翌日トゥヴァに向けて、スラヴァさんの車で出発し、2週間後にクラスノヤルスクに戻り1泊、そこからサンクト・ペテルブルクへ飛んで1泊後、車で1500キロものコミのスィクティフカルへ行くことにした。2週間後、サンクト・ペテルブルクに戻り、また1泊して日本へ帰国と言う計画を立てた。 計画の前半、ソウルからクラスノヤルスクへ飛行機で移動することだけは予定通りにはいかなかったが、それ以外は計画していた場所を廻れた。7月19日の夕方には予定通りトゥヴァからクラスノヤルスクに戻り、翌朝のサンクト・ペテルブルクへの飛行機に乗るため、『ドゥーム・オテリ』に宿泊した。『ホテル家』と訳せるホテルだ。 |
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サンクト・ペテルブルク着 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7月20日(月)。クラスノヤルスクのホテル出発は早朝3時半で、注文してあったタクシーに乗り、エメリヤノヴォ空港に着く。空港は市の中心にある『ドゥーム・オテリ』から30キロ程は離れている。エメリヤノヴォ空港出発は5時半、サンクト・ペテルブルクのプルコヴォ空港に着いたのは定刻の7時10分(モスクワ時間のサンクト・ペテルブルクとクラスノヤルスクとの時差は4時間、ちなみに、日本とは6時間)より早かった。荷物をうけとって到着出口を出たのが7時5分ぐらいだった。そのせいか、約束のカーチャとジェーニャはまだ来ていなかった。シベリアから来た私には、プルコヴォ空港はロシア文字もあるヨーロッパに見えた。明るくて床はすべすべだった。
カーチャは私を招待してくれたセルゲイ・ガルブノフСергей Горбуновさんの娘さんでサンクト・ペテルブルクの大学に通っている。コミ共和国のスィクティフカル市に住むセルゲイさんは、数年前、サンクト・ペテルブルクにアパートを購入した。それは娘が寮に住んだり間借りをしたりしないためにでもあるが、自分たちがサンクト・ペテルブルクに行った時の拠点にするためでもある。モスクワやサンクト・ペテルブルク以外の僻地(両都市以外の地方都市はすべて僻地と思うロシア人も多い)に住む余裕のあるロシア人は、これら二大都市に不動産を持ちたがる。大都市の不動産は必ず値上がりする。貯蓄より有利だし、自分たちの娘や息子の今と将来のためになる。これら大都会の不動産は普通ではちょっと手が出ないくらい高額だが、自分たちの子供に都会の居住許可証(持ち家・アパートがあれば容易に取得できる)があれば、結婚も就職も有利だ。また、自分たちが老後、僻地(たとえばシベリアやウラル、南ロシアや北ロシア)で働かなくてもよくなった時は、モスクワやサンクト・ペテルブルクのような都会で暮らす方が快適だと思っている。スィクティフカルに住んでいながら、サンクト・ペテルブルクに娘のための不動産を持っていると言うだけでも、セルゲイさんは経済的に余裕があるとわかる。 彼の母親のクララさんがスィクティフカルで、たぶんソ連時代から力を持っていたのだろう。そのクララさんとは1987年頃、彼女がソ連船のツアーで日本へ来た時知り合ったのだ。当時、ロシア人が外国に観光旅行するのは容易ではなかっただろう。ソ連船で日本へ来て、いくつかの港を廻って観光する。宿泊は自分たちの船室だった。各寄港地では、船内で地元の日ソ協会員(当時はそう言った)や希望者たちとの交流会があり、私も参加した。こうして、クララさんと知り合い、それ以来、文通が続いた。実は私の文通相手は当時かなり多かった。ロシア語作文の練習のためにも、せっせと返事を出していたのだ。クララさんは、私が1988年サンクト・ペテルブルクへ旅行した時も、宿泊のホテルにわざわざスィクティフカルから会いに来てくれたものだ。その後、1992年ぐらいからは、私はそれまでの文通相手には書かなくなってしまった(ロシアに滞在することになったからでもある)。クララさんとの文通も途絶えていたが、2013年2月に息子だと言うセルゲイさん(1953年生まれ)から郵便で手紙が来た。10年以上前の私からの手紙が保存してあったのだ。 母親のクララさんは今では、寝たきりだ(*)。認知症も進んでいる。妻のアンジェラは保育園の経営や、コンサルタントをしている。彼自身は年金生活者で、世界中を廻っているが、日本にはまだ行ったことがない、と言うような文面だった。日本へも行きたいと思っているそうだ。だが、日本へ行くためにはビザが必要で、そのためには招聘状がいる。つまり、日本に身元引受人になってくれるような知り合いがいなくてはならない。何度かの、今や郵便ではなく電子メールでの文通の後、私は古い文通友達の息子さんを日本に個人招待することにしたのだ。これも何かの御縁。
2014年4月にセルゲイさんは4週間ほど日本に来た。そのうち1週間ほど私の家に宿泊していた。旅慣れたセルゲイさんはジャパン・レール・パス(外国人用JR乗り放題チケット)をソウルで購入していて、広島から根室まで自力で回っていた。東京のカプセル・ホテルも自分でネット予約して宿泊していた。最近はロシア連邦のパスポートを持つ人が個人招待ビザで来日しても、かなり自由に動いている。その後、セルゲイさんは自分の旅行記をユーチューブに投稿している。 私の家に滞在中の1週間は、私が予定を組んであげて、お花見などに出かけた。セルゲイさんからコミに招待されたが、シベリアにしか興味のなかった私は、曖昧に返事をしていただけだった。その年の2014年はクラスノヤルスクからトゥヴァだけを廻った。しかし、コミと言うのは未知の僻地ではないか。コミ共和国はウラル山脈の西にある。シベリアではないが、ヨーロッパ・ロシアの最も東北にある『秘境』ではないか。(ヤマロ・ネネツ自治区の方が北だが、そこは北の国境地帯なので外国人には難しい)。次の年の2015年にはコミと言うところへ行ってみようと思った。セルゲイさんも迎えてくれることだし。 クラスノヤルスクからスィクティフカルまでの直通便はないので、いったんはサンクト・ペテルブルク、またはモスクワへ出なくてはならない。そこからスィクティフカルまで列車で行っても飛行機で行ってもいいが、車で行けるともっと楽しいと、とセルゲイさんに書いたところ、彼の友人のジェーニャという青年が、サンクト・ぺテルブルクから私の到着に合わせて車で片道1500キロの道を踏破してくれる、と返事をくれた。ジェーニャはその車でまたサンクト・ペテルブルクまで帰ってくるので往復3000キロを運転してくれることになる。それは素晴らしいチャンスだ。東ヨーロッパ平原の北部をつぶさに見ることができる。それはロシア人が『セーヴェル(北)』と呼び、15世紀ごろから勢力を伸ばしてきたモスクワ大公国(後にロシア帝国)とも伝統的には違う国のはずだ。(しかしロシア人はここが故郷だとも思っている)
サンクト・ペテルブルクのプルコヴォ空港に飛行機が定刻より早く着いたせいか、ぴかぴかの床のロビーに出ても、そのジェーニャとカーチャの姿は見えなかったので電話してみる。カーチャは20歳くらいで、セルゲイさんが送ってくれた家族写真で知っている。カーチャやセルゲイさん、ジェーニャの携帯電話番号は前もってメモしてあった。前日にはカーチャとセルゲイさんに確認の電話をしておいたものだ。 後でわかったことだが、遅れたのはカーチャが寝坊したからだとか。 7時半にはジェーニャの韓国製フォード・モンデオに乗ってサンクト・ペテルブルクの道を走っていた。ジェーニャはガイド精神旺盛で、市の南にある空港から中心にあるカーチャの家まで観光をしながら走ってくれる。カーチャのアパート、つまりセルゲイさんたちのペテルブルクでの拠点は、市の古い中心にある古い家の2階だった。 |
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サンクト・ペテルブルクの住宅事情、ペテルブルク観光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ソ連時代からの住宅は、シェアハウス(共同フラットкоммунальная квартира)が多い。特にサンクト・ペテルブルクの中心部では1980年代は、住宅の40%がシェアハウスだった。これは、例えば5DKのマンションに各部屋に5家族が住み、入り口、台所やトイレ・バスなどを5家族が共有すると言うエコな住み方だ。大家族でも一部屋だけに住まなくてはならないこともあるが、住宅難の都会により多くの労働者家族が住むことができるので、ソ連時代には多くみられた住宅のタイプだ。人口が急増する都会に、できるだけ多くの住民を住まわせるには手っ取り早い。また、革命前からの屋敷(貴族や大商人の邸宅は没収された)もそのままシェアハウスにすると、住民を増やせた。当時、土地や住宅はすべて国有だった。かつては、こうした一部屋に住めるようになるにも長い順番待ちだった。もちろん、郊外にも団地はどんどんできて、人口増加分は郊外にも広まっている。だが、今でも、サンクト・ペテルブルクの全地区にこうしたシェアハウスがあり、地方から出てきてサンクト・ペテルブルクに住もうとする家族は、比較的安価な5家族シェアハウスの一室などを購入したりする。(一人住まいで経済的に余裕がなければその1室をまた同性の他人とシェアすることもある。)統計によるとサンクト・ペテルブルクではまだ10万戸以上の共同フラットがあり66万人が住んでいて、『共同フラットの都』と言われているそうだ。 最近は都心に裕福な層が集まってきている。中心部の旧市内に住むのは権威、体面のあることだとされている。シェアしていた階を一家族だけで住むようリフォームしたり、専用の台所トイレ・バスのなかったシェア住居を個別住居に改造し、各戸に専用の台所バストイレをつけたりしている。 カーチャのアパートはそんな元シェアハウスで、改築して専用の台所とトイレを設置したものだった。バスだけはない。シャワー・ボックスが台所の隅に設置されてはいる。
私たち3人が入って行くとカーチャのママのアンジェラがまず歓迎してくれる。室内には他に2人の女性がいて、にこやかに迎えてくれた。その一人のラリサさんには後でお世話になった。彼女たちはセルゲイさん一家の同郷人で、所用でサンクト・ペテルブルクに来ている。そんな時はここに宿泊しているらしい。ここは彼女たちみんなのサンクト・ペテルブルクでの基地でもあるのかもしれない。 日本からきた私までこの基地に入れてもらえてありがたい。皆で朝食を食べた後、私は奥の部屋で一休みした。と言うのも、4時間の時差はともかく、この日はクラスノヤルスクをサンクト・ペテルブルク時(モスクワ時も同じ)では、早朝の(夜中の)1時半に出ているのだから、あまり寝ている時間はなかった。また午後からシュメール学の歴史学博士、エルミタージュ博物館の上級研究員ヴェロニカ・コンスタンチーノヴナ・アファナーシエヴァさんに会うことになっている。 ヴェロニカ・アファナーシェヴァ博士は私がサンクト・ペテルブルクへ行くと言うことをオセチア出身のアレクサントル・ウルイマゴフさん(トゥヴァの発掘現場で3年前から知り合い)から聞いて、滞在中は自分の家に泊めてあげようとまで言ってくれたのだ。博士の自宅に泊まることは遠慮したが、ぜひお目にかかりたいと返事しておいた。サンクト・ペテルブルク到着の翌日にはコミに発つので、この日の午後から会おうと打ち合わせをしておいたのだ。シュメール学の博士に会うと言うので学生のカーチャも同行したがった。アファナーシエヴォ博士の家までこれで無事行きつくことができるだろう。 一休みしてから、お昼の12時少し前、カーチャと家を出た。家を出てみると、ここは裏通りだが本当に市の中心にあることが分かった。数分でネヴァ川岸通りと宮殿橋に出た。カーチャはとても親切に案内してくれた。フィンランドなどからはビザなしでも観光に来られるそうで、サンクト・ペテルブルクも観光都市として昔にも増して賑やかだ。観光客が多いばかりか、ヨーロッパ製の背の高い観光バスが多くなっていた。裏通りにはぎっしりヨーロッパ・ナンバーの乗用車が駐車していた。陸続きだからね。 宮殿広場ではピョートル大帝やエカチェリーナ女帝にふんしたモデルから、一緒に写真を撮らないかと勧められる。ポーズをして並んでくれて200ルーブル(600円)と言う観光客用値段だったが、私も珍しげな顔をして一緒に撮ってもらった。ピョートル大帝は、後で同行のカーチャに私がどこから来たのか聞いていたそうだ。 サンクト・ペテルブルクの観光地は、ヨーロッパからの観光グループが断然多いが、『地球の歩き方』の本を持ったおじさんもカザン寺院の前で見かけた。 |
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女流詩人・シュメール学博士ヴェロニカ・コンスタンチーノヴナ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゆっくり観光しながら行ったので、ヴェロニカ・コンスタンチーノヴナ・アファナーシェヴァさん宅に着いたのは2時半ぐらいだった。1933年生まれの博士は天井の高い古いアパートに本や様々な記念物に囲まれて一人住んでいる。娘さんとは別々に住んでいるのだそうだ。 私がサンクト・ペテルブルクからコミのスィクティフカルへ行くと聞いて、自分は少女時代、そこにいたのだと話してくれた。もちろんスターリン時代の強制移住で両親に連れられて行ったのだ。もう少しで飢えと寒さで死ぬところだったと。 後に、ネットでヴェロニカ・アファナーシェヴァさんのインタビュー記事を読んでわかったのだが、彼女の父が1933年にマンデリシュタムの詩の会に出席したことで逮捕された。マンデリシュタムは1910年代のアクメイズムの詩人だが、1938年2度目の逮捕で、ウラジヴォストックの一時収容所(強制収容所の中継地)で衰弱死した。アファナーシェヴァさんの父は、反ソ連的詩人マンデリシュタムへの傾倒と若者のファシスト組織を作ったという罪名で、10年間のスィクティフカルへの流刑となった。彼の妻も逮捕されるところだったが、妊娠中(出産休暇に入ったばかりだった母からヴェロニカさんは父の逮捕の2カ月後生まれた)のため免れた。(妊娠中だからと逮捕されなかったのは、まだ1933年だったからだ、と言う注がある。1937年ならそうはいかなかった)。当時スィクティフカルはそうした知識人の流刑者であふれていたそうだ。また、地下資源の開発が急速に行われ、1930年代から50年代にかけて現在のコミ共和国の人口は著しく増えた。母は娘のヴェロニカを連れて夫の住むスィクティフカルに向かったが、後にヴェロニカはレニングラードの学校に通っている。しかし、ドイツ戦が始まるとスィクティフカルに疎開している。 ヴェロニカは1957年レニングラード大学東洋学部古代東洋史科アッシリア学を卒業した。エルミタージュ博物館の研究員であり、『ギリガメシュ叙事詩』等の翻訳者であり、詩人でもある。 私たちはまずアファナーシェヴァさんの用意してくれた昼食を食べた。キノコのスープだった。エルミタージュの劇場で最近上演された金剛流能楽公演のパンフレットも見せてくれた。アファナーシェヴァさんは、能楽にはあまり興味は惹かれなかったそうだ。ロシア語で書かれたそのカラー版パンフは贈呈された。彼女は私の来訪に合わせて特別にブラウスの上に小紋の羽織を着ていた。しかし、そう言われるまで気がつかなかったものだ。
私はメソポタミヤ文明や詩について、ロシア語で話すことが難しいので博士との話題が続くかと心配していたが、同行のカーチャが博士に学生らしい質問をしてくれて、場が持った。初対面での会話はそれほどうまくいかないものだ。 博士は自分の詩が載った雑誌や本、昔の写真などを見せてくれた。彼女は歴史学博士としてではなく、詩人としてしか話題を進めなかった。彼女がロシア語で書いた短歌(俳句)を日本語に訳してみたらどうかと言われたので、私は素直にメモ帳に書き写した。『風と藻についての思い』と言う題で、内容は『憂愁が吹きつけ、風が藻の毛を物哀しく揺する』と言う大意だと思うが、私はここから翻訳短歌または俳句を作れない。だから約束を果たしてない。 博士の家で撮った写真は、紹介してくれたウルイマゴフさんに電子メールで送った。博士はパソコン関係のものは使わないからだ。その後、郵便でも送った。ウルイマゴフさんとはこの3年文通が続いている。(後記:最近の文面には、「ヴェロニカ・コンスタンチーノヴァからよろしく」の句が付け加えられるようになった。ずっと後になって、ウルイマゴフさん代筆の博士からの電子メールでの礼状が届いた) カーチャのママのアンジェラさんから何度か電話があって、6時頃、ヴェロニカさんのアパートを出た。が、アンジェラさん達が待つ元シェア・アパートに帰って間もなく、私がメモ帳を忘れて帰ったと博士から電話があった。次の日は早朝6時前にはジェーニャの車でスィクティフカルに立つことにしている。では、早めに出て、メモ帳を受け取るために博士宅に寄ろうかと、アンジェラさんが言っていたところに、同郷で、この日泊まっていたラリサ・パポフツェヴァさんが車を持っている息子さんに連絡してみると言ってくれたのだ。息子さんは、今すぐ受け取ってきてあげると言ってくれた。メモ帳にはそれまでのトゥヴァ旅行の記録があった。ロシアで必要な電話番号や、必要なサイトのアカウントとそのパスワード、銀行カードの番号やそのパスワードも控えてある(全部はスマホにコピーがとってない)。アンジェラさんが博士に電話してセルゲイ・パポフツェフと言う青年が受け取りに行くからと伝える。9時過ぎには、セルゲイ青年が届けてくれた。アンジェラさんはその親切な青年セルゲイに夕食をご馳走する。 |
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