クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 12 May, 2016  (追記 ;2016年6月8日、2017年6月5日、2019年1月11日、2019年12月15日、2021年11月20日)
33-2 (4)   2015年 北ロシア、ウラル山脈北西のコミ人たちの地方  (4)
    メゼニの首飾りのウードル地方(2)
           2015年7月20日から8月6日(のうちの7月25日から7月26日)

Путешествие по КОМИ 2015 года (20.07.2015−06.08.2015)

月日 目次
1)7/20 コミ共和国 S.ペテルブルク着 S.ペテルブルクの住宅事情 詩人・シュメール学博士
2)7/21-7/22 北ロシアに向かう ヴォログダからトッチマ スホナ街道 大ウスチュク アルハンゲリスク州 ゥイブ大村
3)7/23-7/24 コミ地図 スィクティフカル市 コミの鉄道 幹線と支線 コミ人のウードル地方へ ウードルの地理と歴史 メゼニ川のパトラコーヴォ村
4)7/25-7/26 大プィッサ村 郷土史家ロギノフさん 郷土芸能家アンドレーエヴァさん マーガレットの絨毯 ホロムイ・イチゴの沼 ムチカス村
5)7/27-7/28 先祖伝来の狩場 プーチキ 隣村のコンサート 天空の村 メゼニ川沿いの村々
6)7/27-7/30 菱形のコミの対角線 ロシア初の石油の町ウフタ ペチョラ川を渡る ヴクティル市 ペチョラ川を下る 国立公園『ユグィド・ヴァ』
7)7/31-8/1 ユグィド・ヴァ地図シューゲル川を遡る 『中の門』と『上の門』 リュブリョーヴァヤ停泊小屋 小パートク川 サーモン大漁
8)8/2-8/6 北ウラルを去る スィクティフカルからヴォログダ スターラヤ・ラドガ ブルーベリー
 大プィッサ村へ
 7月25日(土)。この日のイヴェントは、村役場があり、この辺の5村の中では最大のボリショイ・プィッサ(大プィッサ)村訪問だった。
 8時過ぎには家を出た。家の前にはディーナ・チュプローヴァさんが注文しておいたニーヴァ(ロシア製小型ジープ、田舎ではこれが一番)が止まっていた。私たちは滞在中に陸上は、10キロから20キロほど隣村へと移動したのだが、いつも車が用意されていた。旅行主催者のディーナ・チュプローヴァさんが村の中の車を持っている男性に有料で頼んであるのだろう。実は、この『タクシー代』が後で出された請求書ではかなり高価についた。タクシーは、普通は何人乗っても1台分の料金のはずだが、ここでは乗客の人数分の金額を(旅行主催者さんに)払わなくてはなくてはならなかったからだ。
 パトラコーヴォ村から隣のパリートヴォ村を通り過ぎ、メゼニ川右岸の砂道を小プィッサ村の手前で船着き場へ曲がるまで20分ほど走った。針葉樹に囲まれた森の中を通る道だ。道をつけるため伐採した両脇には、いち早く茂ってくるヤナギランが生えていた。森の中はトナカイゴケが茂り地面が薄緑になっている。
船着き場から出発
渡し船で大ピッサ村に近づく

 船着き場で渡し船に乗る。メゼニ川にはどこに何箇所渡し船設備があるのかわからないが、大プィッサ役場管区(5村がある)では、ここしかない。5村のうち3村が右岸にあり、2村は左岸にある。もっともウードルのようなコミの田舎では車を持っていなくてもボートは持っている。昔から河川は(河川だけが)交通路だった。後でわかったがコミ式ボートは河川ボートとして便利にできている。しかし、今は、公営の渡し船を利用して対岸へ移動する。公営なのは、渡し船運行ダイヤがあることだ、と思う。(渡し船設備のないところでは自分たちのボートで渡る。村から村へ陸上の道路があるとは限らない)。渡し船は、小さな船なのにちゃんとロシア国旗をはためかせている。(だから公営だろう)
 船内にあった運航表では、月曜日から金曜日までは、朝は7時から9時まで、夕方は7時から9時までしか運航しない。土曜日は、朝は8時から9時まで、夕方は7時から8時までだ。
 私たちは朝8時に家を出て、朝の便に間に合った。船着き場には1回で渡りきらないくらい車がたまっていると何度でも往復する。1回で渡れるのは小型車で4台ほど。だから4台たまるまで待つこともある。それも、この日は土曜日だから9時までだ。料金は10トン以上のトラックで2100ルーブル、中型で1000ルーブル、小型で850、軽自動車で500だ。ディーナ・チュプローヴァさんは、乗ってから500ルーブルを払っていた。
 対岸の大プィッサの船着き場には9時半頃着いた。航海士さんにとって超過勤務したことになる。
 大プィッサ村も道は砂地だった。私たちが向かったのはアリベルト・ロギノフ氏宅だった。彼は郷土誌家、エコロジスト、国際森林管理会の会員だと言う。ディーナ・チュプローヴァさんが道々話してくれたところによると、このメゼニ川上流に原子力発電所建設計画があったが、ウードル区会議の代議員の彼が反対したと言う。プィッサは国際プロジェクト『森の村』にも入っている。
 郷土史家ロギノフさん
 アリベルト・ロギノフさんの自宅前のベンチには女の子が本を読んでいた。ディーナ・チュプローヴァさんがおじいさんを呼んできて、と言う。そのおじいさんのロギノフさんと、ベンチに座って1時間近く話したかもしれない。彼はこの地方では名士らしい。しかし予備知識の乏しかった私は、内容をよく理解できなく、よく覚えていない。原子力発電所建設反対の話はほとんどしなかった。アリベルトさんの言うにはメゼニ川上流でボーキサイトの埋蔵量が調査されているとか。
 考古学的調査の結果から8000年ほど前にはウラル語族の祖先がこの地方に住んでいたこと、500年ほど前ぐらいから、ウラル語族で現在のコミ・ズィリャーン人の祖先が住んでいた(その頃、コミと言うグループが形成されたのかも)。村の初めの住人はヴァシカ川から移って来たロギンコとアンドリエンコと言った。だから村にはロギンコからできたロギノフとアンドリエンコからできたアンドレーエフという苗字やその派生語が多い。また、プィッサ村から広がった近郊の村々にもこの苗字が多い。(同じウードル地方のヴァシカ川沿岸の方がメゼニ川沿岸より古い。)
 17世紀からのシベリア開拓にはコミ・ズィリャーン出身者が大いにかかわっていたそうだ。・・・・
 それは、14,15世紀にモスクワ大公国に征服されたスィソラ川やヴィミ川、ヴィチェグダ川のウードル地方のコミ・ズィリャーン人が、モスクワ大公国(ロシア帝国)の行っていたウラル山脈のすぐ東のシベリア・カン国(*)や、当時ヴァグーリと呼ばれていたマンシ人(**)や、オスチャーキと呼ばれていたハンティ人(**)の征服に加担した、ということだ(***)。シベリア『征服』したモスクワ大公国のコザック隊に、すでに大公国の支配地の住民となっていたコミ・ズィリャーン人も編入されていただけだとしても、『自分たちがシベリア征服の先端を切った』などと誇らなくてもいいと、私はそっと思ったのだが。自分たちが先に征服されて、後からの征服に協力させられたと言うことだろうか。『征服』によってコミも富んだのか。
(*)有名な征服者エルマーク隊の道案内に40人のコミ人がついた
(**)ウラル語族フィン・ウゴル諸語のひとつ
(***)コミ人(ズリャーン人)は1586年チュメニの建設、1586年トボリスク建設に参加。17世紀トボリスク(当時はシベリアの中心地)にはズィリャーン通りさえあった。ヴィチェグダ出身者やヴィミ出身者がコサックに加わり、シベリア征服や拠点建設に動員されたのだ。コミ・ジリャーン出身者がいたことは年代記にある苗字でわかる。エニセイ・キルギスからクラスノヤルスク砦などを守ったコサックの中にもヴィチェグダ、ヴィミ、スィソラ出身者が多くいた。クラスノヤルスクの住民の中にもコミ出身のコサック、射手、商工業従事者、農民が多数いたとは後に知った。当時、ズィリャーンカとかズィリャーンスカヤと言う村もできたくらいだ。ヤクート・サハ探検や、極東の探検、ユーラシアの東端、アラスカとの対岸デジニョーヴァ岬 мыс Дежнёваを探検したコサック隊長のデジニョーフ隊の中にもコミ人がいた。

 話の内容はよく覚えていない。アリベリトさんは、私だけにではなく、同行のディーナ・チュプローヴァさんやセルゲイさんも意識して話していただろうから、彼らの知っていることは説明を省いてある。後にセルゲイさんが私たちのウードル紀行を18分の動画にまとめてユーチューブに公開した。そこにプィッサ訪問の場面は写されているが、セルゲイさん流に編集され、彼のナレーションが入っていて、話の内容はほとんどわからないのが残念だ。私は自分ではほとんど動画を撮らない。
アリベルトさん(白シャツ)と制作中のボート
 アリベルトさんは、裏庭でボート制作途中だったらしい。手を止めて私たちの相手をしてくれたわけだ。製作中のボートも見せてくれた。コミの河川ボートは細く長く浅い。

 11時半ごろには私たち一行4人は、大プィッサ村をぶらぶら歩いていた。ジェーニャは店でビールなどを買っていた。店があったり家々の窓辺に花が飾ってあったり、子供が道を自転車で走っていたりするのは、さすが人口428人の大村だ。おまけにバザールもあった。つまり、道端で段ボールの中の品物を売っている人が2,3人いたのだ。その一人に近づいて写真を撮らせてもらった。中国製のハンドバッグや下着類、おもちゃのようなものが並んでいた。この売り場台の周りは何となく人が集まっていた。社交場にもなる。
 村の中心広場には役場や学校(病院と兼ねる)、文化宮殿(閉鎖中)もあり、戦没者慰霊碑もちゃんとある。この村出身の戦没者名が書かれた新しい掲示板が張ってあった。(後でわかったが160人が戦没し、70人が行方不明名だった)。苗字はアンドレーエフとロギノフで3分の2、あとはブシェネフとブキン、ウスチュノフ(先祖がヴェリーキィ・ウスチュク出身か)だった。同じ碑の側面には、戦場から戻ることのできた兵士の名前があった。こちらの方がもちろん多い。2倍ほどあった。つまり出征兵士の3人に一人は戦死したことになる。生還兵士の生没年を見ると、戦後すぐ没した人もいる。没年が未記載の長生きの人も数人はいる。
 郷土芸能家アンドレーエヴァさん
 プィッサと言う村名はメゼニ左岸支流のプィッサ川(164キロ)が合流するところにあるからだ。ちなみにプィッサというのはサーミ語(ラップ語ともいわれる。フィン・ペルム諸語の一つ)で『聖なる』と言う意味だそうだ。プィッサ村は、メゼニ川へ向かってなだらかに降りてくる斜面にあって、下から眺めると美しい。年輪が幾重にもありそうな丸太で建てられた古くどっしりした家々が斜面に立ち並んでいるようすは絵になる。このメゼニ川から見上げたプィッサ村を著名な画家ウラジーミル・スタジャロフ(Владимир Стожаров1926-1973)も描いたそうだ。スタジャロフは北ロシアの村々の風景画を多く描いた。大ピッサを描いた絵も数枚あって、ロシア各地の美術館に展示されている。(その絵がサンクト・ペテルブルクの美術館にあるとか、モスクワのトレチャコフ美術館にあるとか言われたが、帰国後、調べたところでは、トレチャコフではなく、ロシア各地の美術館やヨーロッパの個人蔵が多く、代表作はキエフの美術館にある)
メゼニ川から見上げた大ピッサ村
『春の大ピッサ村』スタジャコフ画
『パンと塩』儀式で迎えられる

 私たちはそれらの家々の中でも白く塗った窓枠にレリーフまである手入れの行きとどいた家に案内された。(シベリアの大商人がかつて住んでいた家にはレースのような繊細で美しいレリーフを施した窓枠があるが、ここのは控えめだった)。近づくと、玄関先でパンと塩をささげたこの家の年配の女主人に迎えられる。エカチェリーナ・アンドレーエヴァと言うフォークロアリスト、つまり、民俗学に詳しい女性、民族誌家。村では著名な女性だそうだ。
 私たちは用意された食卓に招かれ、ご馳走になる。ディーナ・チュプローヴァさんはエカチェリーナさんと私達の観光日程の合意ができているようだ。テーブルにはメゼニ川の魚のほか、この季節の沼地に自生するホロムイイチゴ(クラウド・ベリーとも、ロシア語ではマローシカ морошка、エスキモーは貴重なビタミンC源という)がいっぱい入った鉢もある。魚を詰めたピロシキもある。しばらくすると、先ほど村の広場で品物を並べて売っていた女性が、やってくる。村ではみんな知り合いだし、誰が誰の所へ来たかは、みんなが知っている。エレーナ・パヴロヴァさんと言う。すでに村中周知の日本からの旅行者の私にプィッサのパンフレットを渡すためにやって来た。エレーナさんの高校生の娘さん(今は大学生)のつくったコミ語で書かれたピッサの特産物か地名の小辞書だと思う(私は読めない)。
 エレーナさん、エカチェリーナさん、彼女の夫さん、私たち7人は食卓を囲み、出されたブランデーで私以外は乾杯し、エカチェリーナさんは得意のフォークソングを歌い、みんなで写真も撮り、私はいつものようにエカチェリーナさんとエレーナさんに住所(か、メールアドレス)を書いてもらった。ちなみに、帰国後、秋も深まってからエカチェリーナさんに航空便で写真を送ったところ、私が手紙を書いたその日に、彼女がなくなった、と言う返事がきた。夫さんとアリベルトさんの連名だった。エレーナさんの方は電子メールに添付して写真を送るとお礼の返事がきた。
 午後1時には急いでお暇して、船着き場に走った(運行時刻がある)。そこには順番待ちの車も人もいなくて渡し船が舫いであるだけだった。メゼニ川を見晴らせるいい場所だ。主催者のディーナ・チュプローヴァさんにお任せの私はぶらぶらしていた。近くの原っぱで草刈りをしていた3人の男性が、鎌を置いて急いで近づいてくる。この3人の一人が船頭さんで、渡航者がいない時は草刈りをしているが、私たちを見て、船を運航するために中断してくれたようだ。しかし、土曜日は夕方7時から8時に運行があるはずなのに、私たちが渡ったのは2時だった。田舎のダイヤはよくわからない。
 マーガレットの絨毯
 この日のプログラムの大ピッサ訪問は、渡し船の運行時間のせいか、早い時間に終了してしまった。それで、大ピッサ村対岸からパトラコーヴォ村まで、私たちはロシア北の森を堪能しながらゆっくり行くことにした。途中で車を降りて、森の中に入ってみた。薄緑色のトナカイゴケが、つやつやした緑の葉っぱの若い灌木のあいだにはえている。木々は太いのも細いのも、見事に直立している。ディーナ・チュプローヴァさんがこの森の中にラーゲリ(青少年のキャンプもラーゲリと言うが、強制収容所のこと)があったと言うので行ってみた。ロシア南の、たぶん、もっと暖かいところから政治的な理由で強制的に移住させられた人たちの収容所だ。1953年スターリンの死の後には閉鎖されたラーゲリは、ほとんど跡も残っていなくて、森の中の空地になっている。日当たりのよい空地には一面にマーガレット咲いていた。森に囲まれた、広い、広い大広間に白と緑のマーガレットの絨毯が敷いてあるかのようだった。
 もっと何年もたてば、木が生え、林になり、日を好むマーガレットは生えなくなるのか。
一面のマーガレット

 3時過ぎには、ディーナ・チュプローヴァさんのゲスト・ハウスにもどった。
 家の中で、ぶらぶらしていると、孫のアンドレイとナターシャに呼び止められた。彼らはまたいとこ同士と言うことになり、19歳と20歳のとても感じのよい若者だ。夏休みに祖母や大伯母の手伝いに田舎に来ているのだが、旅行者の一人が日本人だと言うので、話しかける機会を待っていたようだ。
 ナターシャの両親はムルマンスク市に住んでいる。と言うのも、ディーナ・チュプローヴァさんの姉妹にあたる祖母のリュツィアさんは若い時、故郷を出てムルマンスクに行った。そこでトラックの運転手として長年働いていたそうだ。定年になり、すっかり過疎化が進んだ故郷に戻り、先祖代々の狩場(プーチキ путикиと言って自分だけが罠を仕掛けられたりできる森や沼地内のテリトリー)を守って伝統的なコミ・ウードル人風に住んでいる(後述)。パトラコーヴォ村に通年住んでいるのは今ではリュツィアさんのほか3人しかいない。
 リュツィアさんはムルマンスクでロシア人と結婚してイリーナと言う娘が生まれた。夫はロシア人と言ってもその父親はドイツ人だった。つまりドイツ系ロシア人。イリーナはローマと言う男性と結婚してナターシャが生まれた。ローマの父親はロシア人だが母親はネネツ人(ウラル語族サモディーツ語派の一つ、近世以後は極北に住む)。つまり、ナターシャは4分の1がコミ人、4分の1がネネツ人、2分の1がロシア人(曾祖父のドイツ人をカウントしない)と言う訳だ。
 またいとこ同士のナターシャとアンドレイ

 ナターシャは今フィンランドの専門学校に在籍している。そのカレッジは中部のヤムサという小さな町にあるそうだ。スカンディナヴィア半島の最北の東に突き出ているコラ半島にあるムルマンスクよりフィンランドのヤムサはずっと南だ。ムルマンスクではオーロラが見られる。
 アンドレイは、前述のようにウードル区行政中心地のコスラン村(正しくはその隣のウソゴルスク市)に住んでいるディーナ・チュプローヴァさんの息子ドミートリーさんの息子で、今モスクワ大学で数学を専攻している。コスランの学校からモスクワ大学へ入学したわけではなく、高校はコミ共和国首都のスィクティフカルのギムナジウム(この名は、帝政時代エリートの中等教育機関を連想させるように名付けられた)に入っていた。アンドレイはここでは力仕事の手伝いをしている。例えば蒸し風呂を焚いている。暇さえあれば、タブレットでチェスをしていた。

 ディーナ・チュプローヴァさんは旅行者が退屈しないよう、室内プログラムも用意してあった。彼女は児童会館の指導者だけあって、郷土の遊びについては詳しいのだ。白樺の皮で小さなお守りの人形を作ると言うものだった。材料も道具も箱に入れて用意してある。50代のセルゲイさんも30代のジェーニャも子ども時代に戻ったつもりで何とか作り上げたが、私は未完で終わった。アイディアが尽きたのだ。
 夕食はいつもの通り、ジャガイモと魚だった。ホロムイイチゴ(クラウド・ベリーморошка)のジュースもいつも用意されていた。
 9時頃、私たち旅行者は外に出て、各自のカメラで、ここではほぼ南北に流れているメゼニ川の対岸に沈む入り日を撮った。パトラコーヴォ村は約北緯64度で、カムチャッカ半島の付け根くらい、東経は約50度でペルシャ湾ぐらいだ。
 ホロムイイチゴの沼
 7月26日(日)。朝起きたら起きたで、私たちは朝のパトラコーヴォ村を撮っていた。10時頃には迎えの車が来て、ムチカスの塩湖へ出発する。蚊が多いと言うので、頭や首に手ぬぐいを巻き、フードをかぶった上から養蜂業者のようなネットの帽子をかぶり(前述)、蚊よけのスプレーやクリームを持って出発した。川の上は寒いかもしれないのでディーナ・チュプローヴァさんがジャケットを貸してくれた。ジェーニャもそれなりに武装している。自然派のセルゲイさんは、頭に手ぬぐいを巻いただけ、釣りの道具を忘れなかった。地元のディーナ・チュプローヴァさんは、白樺の皮で市松模様に編んだ大きなかごを背負っている。ムチカスの沼地でベリー類を摘んでくるのかな。
『氷上通行禁止』の船着き場
斧を手に、白樺製のリュックを背に、
仕掛けた罠を見回るロバノフさん
先頭のボートにのみエンジンがついていて、
後ろのボートを曳く
サリョーノエ湖(塩の湖)
 北ロシアの森は美しい。森を開いて車の通れる道がついている。ずっと気になっているのだが、この辺の道は砂地だ。メゼニ川が川床を換えては流れていたので、川が運んできた砂が堆積しているのだろうか。ウードル区には山はない。川は、沼地を避けて(沼地に入った川は消えてしまう。沼地を水源とする川はある)、湾曲して流れる。例えばメゼニ川は北から南に流れ、ぐるりと曲線を描いてまた北に流れる。川床は大きく移動したに違いない。元の川床は海岸の砂浜の様になったに違いない。
 森の木々は太いのはまれで、たいていはほっそりしている(寒冷地のせいか)。地面は薄黄緑色のトナカイゴケで見事に覆われている。30分ぐらい行って、前日とは違う船着き場らしいところに出る。『ストップ』と書いてある新しい標識が立っていた。『氷上通行禁止』と書いてある。
 しかし、冬期、氷上を渡らなかったら、どうやって対岸へ行くと言うのか。シベリアでも、冬期は渡し船ではなく、氷上通行路を渡る。冬、凍った川の上ならどこでも渡れるのだが、安全のため、一定の氷上場所を特に厚く凍らせて、そこだけを渡ることになっている。間違えてはみ出さないように、氷上路の両側にポールが立っていて、両岸には救助用番小屋もある。こういうところは安全が保障されているから渡れるが、ここ、メゼニ川のムチカス村への冬期氷上路は廃止されていて、夏場の渡し船設備もない。夏は自家用のボートで渡ればいいが、冬期は禁止標識を無視して車で渡るのか(過疎地帯だから)。
 私たちは打ち合わせておいたらしい迎えのボートが来るまで待っていた。その短い間にもセルゲイさんは釣り糸を垂れていた。漁獲なし。
 私たちはディーナ・チュプローヴァさん、運転手さん(地元の人)、ムチカスからの迎えの男性のロバノフさんと総勢6人もいるので、ボートは2艘に乗りこんだ。橙色の救命ジャケットを渡されたので安心だ。地元の男性2人は、そんなものは着ない。
 ボートに乗ってもセルゲイさんは釣り糸を垂れていた。エンジンはニッサン・マリーナで、2艘目のボートはロープで曳かれてゆく。
 10分ほどで対岸に到着。これから行くと言うサリョーノエ・オーゼロ(塩の湖)のある森だか沼地だかの近くらしい。
 「さあ、ここから歩くからね」と言われる。そして、まばらな森のなか、厚く生えた苔の上、沼地をゆっくり、北ロシアの自然を味わいながら1時間ほど歩いたのだ。この森はロバノフさんのプーチキ(専用の狩場、前述)らしかった。時々仕掛けた罠を調べながら進む。足元にはもちろん薄緑色のトナカイゴケと、濃い緑の厚く小さな葉を茂らせる灌木の枝々が地面を覆う。これら灌木にはベリー類が成るのだろう。琥珀色のホロムイイチゴ(クラウド・ベリーморошка)もたくさんなっていて、ジェーニャが喜んでいた。サンクト・ペテルブルク辺りでは貴重なベリーなのかもしれない。松類の幼木も生えている。
 ロバノフさんが途中で枝を削ってつえを作ってくれた。ナタや斧などは背中に背負った白樺の皮を市松模様に編んだランドセルと同様、森に入る時はいつでも持っているのだろう。杖があった方が、森・沼地は歩きやすい。
 木々がすっかり疎らになって遠くまで見晴らせる場所もある。木々が疎らなのは、そこが樹木の生えないような土壌、広い沼地なのか。とはいっても、この地帯一帯は断続的に広大な沼地だ。苔が生え、ベリー類の繁っているこの足元も沼地だ。これらベリー類は沼地を好むものだ。所々、苔も生えないぬかるんだ地面のむき出しのところもあった。そこは『超』沼地と言うものだ。そんなところには、大きな蹄の跡がついている。トナカイが沼地にはまりそうになったのだろうとロバノフさんが教えてくれた。
 トナカイは、木々がまばらになって遠くまで見晴らせる沼地の向こう側にもいると、私以外の視力のよいロシア人は言う。ほらあそこに、と指さしてくれる。あっ、もう見えなくなった、と言われるが、私の視力では、空と草しか見えない。
 この向こう、遠くにトナカイが見えたそうだ

 やがて、森の中の小さな湖に出る。ここがサリョーノエ湖だ。塩分が濃いため、昔、どこかの外国の企業が塩の採集をしようとしたが、中止したとか。岸から湖の中へ向かって足場があり、そこからボーリング孔もあるとか。塩湖岸近くの泥は薬効があるとかで、ロバノフさんは袋に詰めていた。

 帰国後、ウィキマップを見るとこの辺はライディニュル Лайдынюрとか ヴァディヤニュル Вадьянюрとか言う苔沼地が記載されている。なんと素晴らしい苔沼地だったことか。帰り道、倒木に腰掛けて北ロシアの自然に浸った。ロシア自然派作家と言われるプリーシビンは北ロシア紀行に『愕かざる鳥たちの国』と題をつけている。ここにもっと長い間座っていれば、リスやウサギやキツネ、クマからまでもじろじろ見られ、ライチョウの親子なんかは私たちを無視して通り過ぎたかもしれない。『四方八方が数十露里も原生林の続くチャルサ чаруса(北ロシアの草のある沼地)』だ。地元の人たちと一緒なのがいい。ロバノフさんにとって、ここは彼の仕事場だ。裏庭だ。サンクト・ペテルブルクからのジェーニャにとっても、ホロムイイチゴを歩きながら食べられる森はエキゾチックに違いない。
 2時ごろには、元のボートを舫いでおいた場所に戻り、また2艘に分かれて乗った。橙色の救命ジャケットもつける。
 水草が延び、揺らいでいる川岸に仕掛けてあった網かごを引き上げると、大きな魚がどっさりかかっていた。無慈悲にボートの底に上げられ、のたうちまわっている魚を連れて、ムチカス村の岸辺に到着する。
 ムチカス村
 ボートから下りて坂道を登って行くとロバノフさんの家がある。統計によると2010年の村人は21人だそうだ。ロバノフさんの家にはムチカスのことを書いたパンフレットがあったので読ませてもらったが、それによると、ムチカスの名はメゼニ川にムズと言う川が注ぐところにできたからだと言う。ムズと言うのは石ころ、穴ぼこ、浅瀬と言う意味。つまりムズ川は浅瀬のある難所だった。

 ムチカス村は、また、メゼニ川が、ここだけループ状に湾曲して半島のようになったところにある。つまり、3方がメゼニ川に囲まれている。ムズ川もここへ流れ込む。それで、春の雪解け水の氾濫のときには、村自体は高台にあるから、島になってしまう。ムチカスは16世紀中ごろにムズ川の名からできたムズィンと言う小さな村が始まりで、1922年には20家族122人の村になり、1930年には学校と船着き場ができたそうだ。この辺の学校の建物は、どこでも半分がクリニック施設で、残り半分に教室が1部屋と小さな教材室(書庫)がある。
 1995年には人口は62人。ソ連崩壊でコルホーズなどが閉鎖されると、昔の自給自足経済に戻ったそうだ。2001年には児童が4人になっていた学校も閉鎖され、その4人は役場のある大村チェルヌチエヴォ(2010年に259人)に移った。幼稚園もあったが1997年に閉鎖された。村には材木工場もあったがペレストロイカの時期に閉鎖され、今は、その建物は木イチゴや野バラに覆われている。
 村の歴史で最も重要なことは(と、ロバノフ宅で見せてもらった冊子には書かれている)、1913年ムチカスに『天使ガブリエル礼拝堂』が建てられたことだ。しかし、1930年代のスターリン時代に破壊されてしまった。『イコン・聖画は沼に沈められ、拾い上げることは禁止された。2個の鉄製の十字架も沈められたが、住民の一人が密かに引き上げ、物置に隠しておいた。今、その十字架のうち小さい方は、村の戦没者慰霊碑の側に立てられている。かつて、礼拝堂を破壊した者たちは、独ソ戦開戦の翌日には行方不明になったり戦死したりした』のだそうだ。
 ロバノフさんの家は、玄関の間(外からの冷気を和らげる)と住居兼台所のほか、干し草や家畜の場所まである大きなものだった。農家はどこでも、住居はただ住居だけではない。長く厳しい冬の間は、そこが世界となれるくらい、物がそろっていなくてはならない。主婦のニーナさんが食卓の用意をしてくれた。ゲーナと言う小さな男の子、孫もいた。食卓には、塩漬けの魚、炒めた魚、生の魚、魚のピロシキ(肉まんじゅうではなく魚まんじゅう)、苔沼地で取れたベリー類、そのジャム、そのジュース、トマトときゅうりのサラダなどが並ぶ。ロバノフさんにはウードル区の中心コスランに息子と娘がいて、ゲーナは息子の子供だ。夏休みに祖父母の田舎に滞在に来た。娘のアナスターシアさん(後述)にも小さな子供が二人いる。
 アナスターシアさんによると、夏場はたびたびムチカスに行くと言う。私たちは、彼女のたまたまの不在中に訪れたわけだ。メゼニ川左岸のムチカスは苔沼地に囲まれているうえ陸上の道路がない。右岸には砂道があるから、対岸まで来てボートで渡って来られる。インターネットはまさかつながっていないだろうが、電話もあるとは思えない。郵便物などは届くのだろうか。どうやって、届けるのだろうか。配達は年に何回あるのだろう。食事の後、みんなで写真を撮ったのだが、これを郵送するために住所を書いてもらった。コミ共和国ウードル区ムチカス村ニーナ・ロバノフとだけ書いてあった。これで届くのかなあ。
小麦粉のほかは自家製の材料で
地下倉、雪もある、
だいだい色の大瓶はホロムイイチゴ
廃校にあったレーニンの肖像画
夕方、ゲスト・ハウスに戻ると

 帰国後の事だが、ディーナ・チュプローヴァの姪孫のナターシャさん(ムルマンスク出身、フィンランドのカレッジで学ぶ。電子メールアドレスあり)に、ムチカス関係者で電子メールを持っている人を探してもらったのだ。それでコスランに住んでいると言うアナスターシアさんの電子メールアドレスがわかり、文通できることになった。さらに、12月15日と1月5日に普通の航空便で、写真と手紙を送った。分厚い封筒を1度に送って迷子にならないよう、何枚かの写真を分けて送ったのだ。アナスターシアさんから『最近パパとママがうちに来た、あなたからの2通の手紙を受け取ったと言っていた。ありがとう』と1月31日付のメールが届いた。ロシアの田舎だから配達されたのではなく、きっと支局までとりに行ったのだろう。

 食事の後、家を見せてもらった。ニーナさんたちの祖父が建てた家は仕事場でもあるから広い納屋がある。ここでも蚊帳付き寝台があった。納屋の天井には白樺の束がたくさん干してあった。段ボールも摘んである。自給自足と言っても町から必需品を買ってきているのだろう。地下倉も見せてもらった。雪が解けずに積まれている。チルドの温度か。ここにホロムイイチゴ(クラウド・ベリーморошка)の5リットル瓶は幾つも貯蔵してあり、ジェーニャが1瓶を1000ルーブルで買っていた。ちなみに数日後、レニングラード州の田舎道ではブルーベリーが売られていた。ブルーベリーはもう時期がやや遅かったので熟れすぎていたのか3リットルのバケツで700ルーブルだった(後述)。
 ロバノフさんの家には伝統的な道具が保存されていて、ロバノフさん自身何に使うのかもわからないそうだ。漁労用ネットも干してあった、温室があってトマトやキュウリが成っている。

 廃校になっている学校兼クリニックに行ってみる。川岸近くに建っているので春の雪解け氾濫時期にはいつも水がついたという建物も、洪水に負けずしっかりと建っている。教室にはいすや机はなかったが、レーニンが赤の広場前に立っている威厳のある立派な肖像画があった。レーニンの表情がよかったので並んで写真を撮る。教材部屋には、古い教科書などが積んであり、1997年版と言うコミ共和国地図帳なんかもあるではないか。廃品だと言うので地図帳のほか2,3冊の教科書をゲットする。
 こうして、私は何より地図帳に、ジェーニャはホロムイイチゴの瓶詰に満足して、5時頃、ニーナさんに見送られてボートで去る。対岸には、迎えの車が待っていた。
 帰り道、メゼニ川に突き出た絶壁の景勝地と言うところに寄る。乾季のメゼニ川には幾つも中州ができていた。川岸近くから苔沼地が始まっていた。北ロシアもシベリアも、ユーラシア大陸と言うより、ユーラシア大沼地と言った方がいい。沼地の中のわずかな硬い地面に集落ができているのだ。『森と水の北ロシア』と言うのは『森林沼地、灌木沼地、苔沼地、湖沼の北ロシア』と言える。残念ながら、20世紀後半には、ロシア北部のウラル語族のフィン、ペルム、ウゴルやサモディーツの故地に地下資源開発の近代的な工業都市ができ、沼地も固めて道路ができてしまった。(後述、コミの炭田、ガス田。シベリアの石油、ガス。コミの原生林を守るための国立公園は一応ある)。
 元気いっぱいのジェーニャは、メゼニ川にそそり立つ絶壁を駆け下りて駆けのぼってくる。
 6時頃、パトラコーヴォ村のゲスト・ハウスに戻ると、近くの草はらにヤギの家族が散歩していた。
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