クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 12 May, 2016 (追記 2016年6月17日,9月17日,2017年6月10日)
北ロシア、ウラル山脈北西コミ人たちの地方 (8)
    北ウラルを去る
           2015年7月20日から8月6日(のうちの8月2日から8月6日)

Путешествие по КОМИ 2015 года (20.07.2015−06.08.2015)

月日 目次
1)7/20 コミ共和国 S.ペテルブルク着 S.ペテルブルクの住宅事情 詩人・シュメール学博士ヴェロニカさん
2)7/21-7/22 北ロシアに向かう ヴォログダからトッチマ スホナ街道 大ウスチュク アルハンゲリスク州 ゥイブ大村
3)7/23-7/24 コミ地図スィクティフカル市 コミの鉄道 幹線と支線 コミ人のウドール地方へ ウードルの歴史 メゼニ川のパトラコーヴォ村
4)7/25-7/26 大プィッサ村 郷土史家ロギノフさん 郷土芸能家アンドレーエヴァさん マーガレットの絨毯 ホロムイイチゴの沼 ムチカス村
5)7/27-7/28 先祖伝来の狩場プーチキ 隣村のコンサート 天空の村 メゼニ川沿いの村々
6)7/27-7/30 菱形のコミの対角線 ロシア初の石油のウフタ ウラル山脈麓のペチョーラ川 ヴクティル市 ペチョーラ川を下る 国立公園『ユグィド・ヴァ』
7)7/31-8/1 ユグィド・ヴァ地図シューゲル川を遡る 『中の門』と『上の門』 ルブリョーヴァヤ停泊小屋 小パートク川 大漁サーモン
8)8/2-8/6 北ウラルを去る、(旧)最短の道 スィクティフカルからヴォログダ スターラヤ・ラドガ ブルーベリー
北ウラルを去る(北ロシアからシベリアへの最短のシベリャーコフの道)
 8月2日(日)。8時過ぎ、ヴァロージャさんは丁寧に小屋の後片付けをした。ゴミはゴミ穴に捨て、床は箒で掃き、火の気が全く残っていないことを確かめて、私たちは川下に向けて出発した。川の流れに沿って行くので、来た時より早いはずだが、シューゲル川はペチョーラ低地を緩やかに流れる川なので、速度のプラスにはあまりならない。セルゲイさんはここぞと言うところでエンジンを止めてもらい、釣り糸を垂れていた。小さい魚は捨てている。空が曇ってきた。空の色と川の色が同じになる。
 シューゲル川の名所『上の門』、『中の門』、『下の門』を通る時も、来た時と同じ儀式を繰り返していた。ヴォッカをただ飲むよりも、こうした口実、つまり、コミの川の主だか岩山の主だかのピシュガクПишгакに許可を求めて、飲む方がおいしいのだろう。酒の肴のサーモンの空揚げはたっぷりある。川に垂直にせり出している高い岩山の眺めは何度見ても飽きない。来るときには見落とした小さな滝にも寄った。

 シューゲル川は北へ南へと大きく蛇行して、おおむね東から西へ流れるが、1885年に貫通したという『シビリャーコフの道』(地図)(*)というのが、シューゲル川の川岸を通ってつけられたそうだ。と言っても川岸を通っているのは川がほぼ東西に流れている部分だけだ。『シビリャーコフの道』はシューゲル川岸のウスチ・シューゲル村から北ウラル山脈を越え、オビ川支流のリャーピンЛяпин川(**)のシシェクリヤ村(または現代でもマンシ人の首都と呼ばれているサランプーリСаранпуль)に通じていて、シベリアの物資を北ロシアに運ぶという東西の道だ。ヨーロッパ・ロシア、つまり北ロシアからシベリアに出るルートの一つは古代からコミを通る。『シビリャーコフの道』はシベリアのオビ川支流とコミのペチョーラ川支流を最短距離180キロで結ぶ道だった。コミへシベリアの安価な小麦を運び、コミから川魚や毛皮を運んで、商人は大きな利益を上げていたそうだ。
(*)『シビリャコーフの道』または『ジリャーンの道』。コミ人は現在のコミ共和国内に住む一派をコミ・ジリャーン人と言う。ちなみに、歴史的に分断されてカマ川流域(ヴォルガの支流)に住むコミ人をペルミ・コミ(コミ・ペルミャク)人と言う。
(**)リャーピン川 亜北極ウラルから南東の北ソシヴァ川の左岸に合流する151キロのハンティ・マンシ自治管区の川。北ソシヴァ川は北ウラルから流れ、西シベリアのオビ川の左岸に合流する753キロの川。(地図)
 何千頭ものトナカイに踏ませて均した道幅は6mもあり、沼地などには板を渡し、御者の宿場もあった。しかし、この陸上の道を(橇で)通行できるのは冬期間の沼地や河川が凍った時期だけだった。シビリャーコフは、通年通行可能でさらに車輪の通れるほどの道にしようとしていたが、19世紀末シベリア鉄道が開通して以来、道はすたれた。今では、一部の他は原始林に戻っているそうだ。シビリャーコフ(1849-1933)と言うのはイルクーツク出身の大商人だった。私たちの航路からは『シビリャーコフの道』は全く見えない。トナカイを何千頭も歩かせて作ったと言う道は、東西にほぼまっすぐ通じていたし、川は大蛇行して流れている。
 コミを通って東西を結ぶ道は実は古くからあった。ノヴゴロド時代、ウスチュグからヴィチェグダ川を下り、ヴィミ川に出てウフタ川に渡り、イジマ川をさかのぼってペチョーラ川に出て下流の支流ウス川を遡って北極ウラルを超えオビ川の支流に入るという『ユグラの道』があった。大遠回りの厳しい道だったが、この貿易路のあるユグラもノヴゴロド国の影響下に置かれていた。オビ川のハンティ・マンシ人の地はユグラと言われている。もともと、北ウラルは東西の山麓ともユグラの地だった。
 また18世紀には『北エカチェリーナ運河』と言うヴィチェグダ川下流の支流とカマ川の支流(ヴォルガの支流)を結ぶルートもあった。(50年以降泥土堆積のため閉鎖)
『ユグィド・ヴァ』出入り口の監視員の小屋
ペチョーラ川をさかのぼる。雨が降ったり止んだり
橙色の手袋と迷彩色のジャケット
ダニーロフさんの家で

 
 ゴムボートとカヌーで旅をしている3人グループを追い越す。
 小雨が降ったり止んだりしていた。2時ごろ、来た時にも寄った『ユグィド・ヴァ国立公園』出入り口のインスペクター詰所に着いた。ヴァロージャと同じベロルシア人のミハイロヴィッチさんが、また、待っていましたとばかりに歓迎してくれる。高台の見張り場から私たちのボートが近づくのを見ていたのかもしれない(それが仕事だから)。今回は他のグループもいなくてミハイロヴィッチさんと助手の二人だけだった。テーブルに食べ物、飲物を広げてくれる。医療用アルコールもある。私たちのサーモン空揚げもある。
 ストーブ横の物干し針金を見ると、来るときに乾かせてもらった私の靴下の取り忘れの片方がかかっていた。実はルブリョーヴァヤ停泊小屋で2泊した時、靴下が片方ないことに気づいていたのだ。それが、こんなところに忘れてきたのか。見つかってよかった。この先も旅は続くのだから、洗濯しながらはける靴下は持ってきただけあった方がいい。
 ミハイロヴィッチさんは
 「こんな小さい靴下、誰のかと思っていた。こんな小さいの、もし、妻が見つけたら、女がいるととっちめられるところだった」と、冗談を言って、みんなを笑わせていた。女がいてほしいような、女に言い寄りたそうな言い方だったので、みんなはもっと笑った。
 1時間ほど休んだ。雨が降っているが、出発しなければならない。ペチョーラ川へのシューゲル川の合流点のこの管理小屋(インスペクター詰所)から、3日前出発したヴクティルの船着き場まで80キロほどを遡らなくてはならない。ルブリョーヴァヤ停泊地から管理小屋までは川を下って92キロだから、ここはほぼ半分の道のり(川のり)だ。
 この先が5時間半ほどかかった。雨が降って、ボートの上なので風も当たり、まともな雨具のなかった私はかなり濡れてしまった。長い5時間半だった。ヴァロージャさんが自分のジャケットと手袋を貸してくれた。彼だって寒いだろうに、親切だなあ。救命具と同じ橙色の大きな手袋と迷彩色ジャケットだった。こうして私はますます民族不明、職業不明のいでたちとなった。

 やっと、夕方の8時少し前、出発点のヴクティルの船着き場に着いた。来るとき見送ってくれたセルゲイさんの元同僚のニコライ・ダニーロフさんが車で迎えに来てくれていた。来るときに荷物を運んだジープ(オアジス)も来ていた。ジープには荷物を乗せ、私たちはダニーロフさんの車に乗って、ヴクティルの彼のアパートに案内された。ダニーロフさんとセルゲイさんが荷物の積み替えなどにガレージへ行っている間、暖かいアパートで一休みできた。長靴を脱ぐと、2枚重ねの靴下もぐっしょり濡れていたので、はだしで部屋に上がった。ダニーロフさんのとても愛想の良い奥さんのアンナさんが「まあ」と言って、母が編んでくれたと言う新品の毛糸の靴下をくれた。これがありがたかった。帰りにまた濡れた長靴をはいても毛糸の靴下に包まれた足は乾いたままで暖かかったのだ。その靴下は日本にまで持ち帰った。
 アンナさんはテーブルにご馳走も並べてくれた。きっと、私達がスィクティフカルへ出発前に休憩に寄るからと、待っていてくれたのだ。だが、ゆっくり食べている時間はなかった。10時半が最終便のペチョーラ川の渡し船に乗らなくては、明日早めにスィクティフカルに戻れない。明日中には、スィクティフカルからサンクト・ペテルブルクへの1500キロの道の半分は行かなくてはならない。
 アンナさんは食べきれなかった料理を、容器に入れてくれた。このご馳走と靴下のお礼の手紙を帰国後出した。インターネットは使わないとアンナさんが言っていたからだ。残念ながらその返事はなかった
 ヴクティルからペチョーラ川の渡し場までは50キロ、最終便に間に合った。ここからウフタを通りスィクティフカルまでは480キロ。夜中運転しているセルゲイさんには悪いが、私は寝ていた。
 スィクティフカルからヴォログダまで
 8月3日(月)。朝、スィクティフカル着。セルゲイさんはビデオの整理にパソコンに向かい、ジェーニャはこの先1500キロの道のりを一人で運転するため、寝室で横になり、アンジェラはお別れ昼食会の準備をする。私はコミの歴史博物館にどうしても訪れたかった。8月2日まで休館だったからだ。
 それで無理を言って、アンジェラさんに通りの向かい側にある歴史博物館まで一緒に行ってもらった。10時頃から11時半までいたのだが、アンジェラさんはガイドを頼んでくれて、一緒に廻ってくれたが、30分程で、食事の用意があるからと、私をガイドさんに預けて帰って行った。人口23万人とは言えコミ共和国首都なので、それなりに立派な博物館だった。先史時代から現代までの時代別テーマ別の展示ホールがあった。考古学と中世のホールが最も興味深い。ガイドが説明したいことと、私が知りたいことは少しずれるのが、これも、博物館でガイドを頼んだ時の興味深い点の一つだ。ガイドがどんなことを説明したがっているのかよくわかる。
 ロシアはどこでも郷土博物館と言うのは、児童に『愛国心』を鼓舞する視聴覚教室なので、ドイツと苦しい戦いをして遂に勝利を得た、と言うホールがもっとも力(りき)が入っている。私は、先史時代と中世のホールだけをゆっくり見たかった。しかし、ガイドは、多分、ガイドのマニュアルがあるからその通りに、先史時代と中世の展示は早口(と私には思われた)で説明し、20世紀の展示室を、感動をこめて説明しようとする。(相手を見て配分してほしい)。しかし全部は私に見せられないうちに、アンジェラさんから電話がかかってきた。昼食がもう用意できているから、早く帰ってきてほしいという。説明のコースが先史時代展示ホールからでよかった。

 午後1時にはジェーニャ運転の車で、帰途についていた。ジェーニャのフォード・モンデオ(韓国車)は改良して燃料がガスでもいい(ガソリンとのハイブリッド)。普通のガソリンスタンドではその燃費の良いガスが売っていないので、スィクティフカルの町のスタンドをかなり廻ってから出発できた。それで、連邦道R176号線『ヴャトカ』道に出たのはやっと2時半頃だった。
 スィクティフカルからサンクト・ペテルブルクまでは1500キロだ。来るときは、早朝に出発したので、サンクト・ペテルブルクから1100キロのヴェリーキィ・ウスチュク(偉大なウスチュク)まで行って、そこのホテルに泊まった。往路の2日目は400キロの行程だったが、悪路もあって、夕方スィクティフカルに着いた。スィクティフカルと言うより、セルゲイさんのダーチャ(別荘)があるゥイブ村だが。
ヴェリーキィ・ウスチュクの赤軍通りの終点にあるレーニン像

 帰りはスィクティフカルから850キロのヴォログダまで行く予定だ。途中の北ドヴィナ川を渡ったところのヴェリーキィ・ウスチュクを通ったのは夕方の6時半頃だったが、ここのカフェでお茶を飲んで休憩する。雨が降っていた。中央の大通りの突き当たりにあるレーニン像の写真も撮る。古い立派な教会の横にある。(前述
 ヴォログダ市に近づいたのは夜の11時も過ぎていた。ジェーニャはずっとスピードを出していたが、ここで緩めなくてはならないところを気がつかなかったので、交通警察に止められてしまう(*)。罰金となった。ヴォログダ市を迂回するバイパスだった。ホテル『ドーム・オテル』はデラックスしかなかったので、普通のシングルの『ウサジバ』に決める。1泊1部屋1800ルーブルだった。(運転ご苦労様なので私がジェーニャの分も支払う)
   (*)ホテルを探してバイパスを走っている時だった。スピード違反500ルーブル
 スターラヤ・ラドガ
 8月4日(火)。7時に朝食を食べる。朝食は宿泊費に含まれていて、メニューは目玉焼き。
 ヴォログダからサンクト・ペテルブルクまでは、来るときも通ったが林を切り開いてできた快適な(しかし、つまらない)道路だ。現代的な便利な自動車道は、『北ロシア』の村々を除けるようにまっすぐ通じている。言うまでもなく、各村を廻っていると道路も真っ直ぐにつけられないし、村中を主要道が通るのは安全ではないからだ。大都市間の最短距離を結ぶためには小さな村や、小さな市には寄らない。が、主要道から、各村々へは細い道路が通っている。そうした村に近い交差点の道端では、農家のおじさんがジャガイモや自家製瓶詰やベリー類を売っているものだ。今の季節はブルーベリーだ。紫のブルーベリーを大小のバケツを並べて、おじさんが家から持ってきたいすに座っていた。その後ろには自転車が止めてある。小のバケツ一杯のブルーベリーが700ルーブル(約1500円)だった。なんと安いのだろう。もちろん購入。車の中で食べられるだけ食べて、あとは日本へ持って帰ろう。
バケツ一杯のブルーベリーを袋に詰めてくれる
スターラヤ・ラドガの16世紀の砦
巡礼団
ヴォルホフ川下から見たスターラヤ・ラドガ
手前丘がオレーグ公の古墳と言われている
プーシキン市エカチェリーナ宮殿前のレヴァン君


 私たちはサンクト・ペテルブルクに急いでいるのだが、ちょっと寄り道をした。
 ヴォログダからのA114道からサンクト・ペテルブルクへ行くR21道の接点では、北へ行くとノーヴァヤ・ラドガ(新ラドガ)、南へ行くとスターラヤ・ラドガ(旧ラドガ)だ。スターラヤ・ラドガはヨーロッパ最大の湖ラドガ南岸の、ヴォルホフ川岸にある8世紀にできたと言う『ヴァリャーグの道』の拠点の一つだ。スカンディナヴィヤからバルト海を航行してきたヴァリャーグ(*)たちの船は、ネヴァ川などからラドガ湖を経て、ヴォルホフ川を遡り、現代のスターラヤ・ラドガに海洋船を停泊させる。さらにヴォルホフ川を遡りノヴゴロド(古ノルド語、つまりスカンディナ・ノルウェー語ではホルムガルド)に着き、水系から水系の間の最も距離の縮まる地点で、川船や荷物を川から上げて低い分水嶺を超えて運び、隣の川へおろして進んだ。(2河川を結ぶ陸路はヴォログвологと言って、後の15世紀には、このような水陸路を伝ってウラルから太平洋岸まで出たのだ)。こうして川伝いに南を目指し黒海やコンスタンティノープルへ、あるいはカスピ海へ至っていた。この交易路が『ヴァリャーグからギリシャへの道』と呼ばれる水陸交易路である。カスピ海方面へ行くとハザール・カン国と交易できた。
(*)ヴァリャーグ 一般的に東スラヴ人による呼称でゲルマン人の一派を指し、スカンディナヴィアから出てロシア平原に出現したヴァイキングの事とされている。

 現在はスターラヤ・ラドガ(旧ラドガ)と言われている。なぜなら1704年にヴォルホフ川のもっと下流のラドガ湖岸にノーヴァヤ・ラドガ(新ラドガ)ができたからだ。現在スターラヤ・ラドガ村は主要道から離れ、遺跡の町、つまり観光名所と(だけ)なっている。

 この交差点(A114とR21)からサンクト・ペテルブルクまではまだ110キロもあるが、せっかく近くへ来たのだから、ちょっとだけでも寄ってみようと、南へ折れたのだ。
 旧ラドガ町はモスクワからかなり離れているし(700キロ)、ノヴォゴロドからも200キロ、サンクト・ペテルブルクからも110キロと離れているので、それほどは観光客がいない。モスクワ大公国以前の古いロシアが残っていて、紀元後1千年紀後半の考古学の村ともいえるくらいだ。と言っても、帰途を急いでいた私たちは30分ぐらいしか町を見なかったが。

 8世紀頃(753年と言う)にできた町は、はじめは、古代スカンディヴィナ語のアリデイギヤ、アルディギュボルグと呼ばれていて、『サガ』にも言及されている。ラドガとは古代フィン語から出ている。8世紀後半からのラドガに住んでいたのは、古代スカンディナヴィヤ人(主にノルウェー人)、地元のフィン人、後にはスラヴ人だった。誰がここで支配的だったのか、ルーシ族と言う説が有力だ。しかし、ルーシ族については、北欧、西欧の歴史家はノルマン説を支持し、ロシアの歴史家は非ノルマン説を支持している。どちらにしても、ルーシ族の活動は歴史にあらわれているヴァリャーグの活動そのものだった。
 最近の発掘でフランスのメロヴィング朝の櫛も見つかっている。つまり、先住のバルト・フィン族や古代ゲルマン・ノルマン人、イリメニ湖のスラヴ人たちの交易の場所だったのだ。アラブ人も小麦、ガラス玉などの交易に来ていた。発掘で見つかった8世紀の倉には7世紀のアラブの銀貨もあった。
 コストロマの修道院から発見された『原初年代記』のイパーチー写本によれば、ルーシ族の首長リューリック(830頃ー879頃)が862年スターラヤ・ラドガを自分の都と定めた。リューリックはリューリク朝の(伝説の)初代王で、リューリクの後継者たちはその後、イリメニ湖岸のノヴゴロドへ、さらにキエフへ移り、強大なキエフ・ルーシの礎を築いた。ラドガの周囲には巨大なクルガン(王族の古墳)がいくつか現存するが、そのうち一つはリューリクの陵墓であるとされている。他にリューリクの後継者オレーグのものとされるクルガンもあるそうだ(オレーグのものとされるクルガンはキエフにもある)。
 10世紀頃までの古代ロシアは、北からのヴァイキング(つまり、ヴァリャーグ、スカンディナヴィヤ人)がバルト海、ラドガ湖、ヴォルホフ川、ドニエプル、ヴォルガなど沿いに武装船団を繰りだして、スカンディナヴィヤからギリシャへの交易路をおさえ、また、ハザール・カン国とも交易していた。11世紀ラドガはヴァリャーグの町だった。しかし、(ドニエプル方面では)数の上で多かったスラヴ人に融け込んでしまい、初代リューリックから3代目のスヴァトスラフСвятослав公(ノヴゴロド公945-969、キエフ大公945-972)は、すでに後半がスラヴ語の名前だ。ヴァイキングは定住し、国家の創設にかかわり、それぞれの国・地域に同化していったのだ。(しかし、北ロシアの先住民はフィン・ペルム人だった。だから、ロシア人と言うのはスラヴ人の一派ではなく、ロシア語を話すフィン・ペルム人だという説もあるくらいだ。スラヴ人もゲルマン人と同様、人種的共同体ではなく、言語的共同体であっただろうから。)。
 1595年のロシア・スウェーデン戦争の後、ラドガはロシア領となったが、その後も両国間の係争の地だった。1617年のロシア・スウェーデン戦争の後は最終的にロシア領となり、1704年には、前記のように、ピョートル大帝がヴォルホフ川の河口にノーヴァヤ・ラドガ(新ラドガ)を作り、旧ラドガは、古代ロシアの遺跡の町になったのだ。

 スターラヤ・ラドガの村に入ると、まず、売店兼チケット売り場で観光案内所のような店に入り、チケットと『考古学野外博物館スターラヤ・ラドガ』の小さな写真集を購入。30分しか見物時間がないからと、スターラヤ・ラドガの城壁へのチケットだけを買った。現在の城壁は16世紀のものらしいが、もともとは重要拠点ラドガの中心であり、村の象徴でもあり、歴史考古学博物館もそこにある。城壁の近くでは発掘も行われていた。生神女就寝教会(カトリックでは聖母被昇天教会)Церковь Успения Богородицыと聖ゲオルギィ教会は当時のものとされている。聖ゲオルギィ教会祭壇北側のフレスコ画は有名だ(そうだ)。
 スターラヤ・ラドガ村の中心地のカフェ前の広場には観光バスが1台止まっていた。スターラヤ・ラドガは東スラヴ人の故郷でもあるとなっているから、巡礼に訪れたのだろう。ウクライナ・ナンバーだった。ウクライナからのロシア系の人々のグループなのか、ウクライナ人のグループなのかわからないが、ジェーニャによると、もし、ロシア・ナンバーの車がウクライナに行けば襲撃されるだろうとのこと。

 ヴォルホフ川を見下ろす丘の麓には8-10世紀考古学記念碑と彫られた新しい直方体の石が立っていた(プーチンの訪問に合わせて建てたのだろう)。その裏には『オレーク公の支配地』と書かれ、キエフ公国の地図とノヴゴロドからビザンチンへ遠征したオレーク公(リューリック朝2代目で、初代リューリックの子と年代紀にはあるが実は不明の3代目イーゴリの摂政)の行路が描かれた板がはりつけられていた。

 3時頃にはスターラヤ・ラドガを出て、元の道へ戻り、サンクト・ペテルブルクへ急いだ。ジェーニャのグルジアからの友人は、すでにサンクト・ペテルブルクに到着して、今頃は自力でエルミタージュなどを廻っているらしい。
 4時半過ぎにはサンクト・ペテルブルクの町に入り、モスクワ広場の近くで、そのグルジア人の友人レヴァンと合流する。すぐにプーシキン市へ向かう。ジェーニャの家(アパート)はサンクト・ペテルブルクのモスクワ広場の近くにあるが、プーシキン市にも祖父からの遺産の家があり、そこに私が一人で1泊することになっていたからだ。
 プーシキンでは、もちろんエカチェリーナ宮殿も外からだけだが見る。もう夕方の5時半だったし、中に入ってゆっくり見る暇はない。それに、ドイツ軍に破壊されて、まだ完全には復興されてはいなかった1980年代、私は中を見たことがあるからだ。
 プーシキンの学んだツァールスコエ・セロも外から急いで見て、写真に撮る。6時過ぎにはジェーニャの亡き祖父からの遺産の家のキッチンで、私とレヴァンがグルジアのことを話している間に、彼の手料理のロシア風極東料理(作った人は日本料理と言う)を3人で食べ、8時頃には、このアパートの鍵の掛け方と開け方を私に教えて、ジェーニャはレヴァンと去って行った。私は、帰途に道端で買ったバケツ一杯のブルーベリーをジェーニャが用意してくれた2つの容器に詰める。スプーンで押し入れて砂糖をまぶし、また押し入れて砂糖をまぶしふたを閉め、ポリ袋で何重にも包んで漏れないようにする。残ったブルーベリーは冷蔵庫へ。この作業に手間取って、用意されていたベッドに寝たのは10時過ぎ。
 ブルーベリー
 8月5日(水)。この日は、サンクト・ペテルブルクからモスクワに飛び、さらにヘルシンキへ飛び、そこから関西空港へ向かうと言う遠回りのジグザグ行程の空港と機内の日だ。ヘルシンキ経由にしたのは、その方がモスクワ成田の直行便より安かったからだ。前述のように、チケットを取ってから、コミからいったんはサンクト・ペテルブルクに戻るとわかった。それならモスクワに行かずに、サンクト・ペテルブルクから直接ヘルシンキに飛んだ方が時間も費用も節約できる。しかし、チケットの買い替えにはもっと費用がかかったため、結局ジグザグのコースになってしまったのだ。

 サンクト・ペテルブルク出発は5時10分と言う早朝の時間。6時や7時にも便はあるが、それだと倍近くの値段になる。また、サンクト・ペテルブルクのネヴァ川の橋は夜間と早朝6時まで船を通行させるため開いているので通行はできない。それで、ネヴァ川を渡らなくても空港に着けるジェーニャの家に1泊を頼んでおいたのだ。
 早朝の3時に打ち合わせ通り、ジェーニャが迎えに来て、プルコヴォ空港まで送ってくれる。グルジアからの友達も来ているのに、本当にジェーニャには感謝しても、感謝したりない。
 サンクト・ペテルブルクからモスクワ・シェレメチェヴォ空港までのアエロフロート・ロシア航空便はロシア航空とも思えないサーヴィスの良さと、ほっそりしたスチュワーデスに驚いた。残念ながら、たった1時間15分後の6時25分には到着。 シェレメチェヴォ2空港では外へ出なくてもよい。国内着から国外発のゲートに移るだけでいい。空港にはヨーロッパからの若者が、リュックを背に床に直接座ったり横になったりしている。ミネラル・ウォーターを買ったが、値段は空港用特別価格。店員さんは私がロシア語を使ったので喜んでくれる。10時40分発で、ヘルシンキのヴァンダ空港へは12時30分着。
 ここでは、フィンランド航空の関西空港行きの便を17時20分まで待たなくてはならない。到着してみると、空港は静かで人が少ない。次の便の搭乗手続きはどこでするのだろう。職員にたずねてみるとロシア語が通じない。ちょっと待ってといわれて、日本語を話す男性がわざわざ出てきてくれた。
 後でわかった事だが、登場手続きはまだ始まっていない。だから、教えられた窓口へ行っても座席指定はできなかった。では、いつどこでするのか、その窓口の女性にはロシア語が通じなかった。
 出国手続きをする。保安職員もロシア語が通じない。機内持ち込みキャリー・バックの中味に問題があるらしい。怪しいものは入っていないはず。すぐにロシア語を話す職員が来て、開けてほしいと言う。昨夜積めたブルーベリーが液体とみなされたのだ。容器は残してもいいが中身は捨てるように言われた。砂糖漬けのアントシアニンは栄養があっておいしそうだった。一粒だけ食べてあとはやむなく捨てた。あずけるほうの大きなトランクに入れておけばよかったのだが、それはスィクティフカル出発の直前から整然と詰めてあって、開けようとも思わなかった。ブルーベリーの砂糖漬けを捨てさせられたことは、この先長く、悔しさいっぱいで思い出される。
 免税店を見て廻る。フィンランドに来たらムーミンのグッズを買おうと思っていたが、値段が高い。日本より高いので断念。カフェのテーブルにはキッコーマンの小瓶や割り箸が置いてあった。(私が最近通過した限りでの)どこの空港でも見たこともない寝椅子が5脚ほどあって、これからもこの先も長旅になるので、少し休む。3時頃になると、混んで来た。ここまで来ると、日本人グループや、個人旅行者も見かける。日本への直行便が出る時刻だからだ。そうでなかったシェレメチェヴォ2やプルコヴァではほとんど見かけなかったし、シベリアやコミでももちろん見なかったが。
 先ほどの窓口ではたぶん、仮の搭乗手続きだけしかできず、座席の記載がなかったので、もう一度、窓口に行ってみる。フィンランド人と結婚しているらしい日本女性が通訳してくれた。と言うのは、私は英語が苦手なので。登場手続きは機内へ入る各ゲート前で行っているとわかった。私の希望通り通路側の席が取れていた。
 定刻どおりに運行して、翌日8月6日8時55分には暑い日本に到着。

 セルゲイさんはその後、ビデオを編集してユーチューブに載せた。題は『コミの日本人』と言うので、私が下手なロシア語でコミの感想を述べている。11月になって、コミの新聞記者から私にネットでインタビューされた。その記者はコミ北部のイジマ村出身だ。コミ人がコンパクトに住んでいるのはウドールの他にイジマ区もある。イジマ区はコミの北西にあって、コミの中央から北へ流れてペチョーラ川に合流するイジマ川の下流にある。19あるコミ共和国内の地方自治体の中でイジマ区は最もコミ人の割合が多くて、88%と統計にある。ウドール区でも43%だ。スィクティフカル市では25%。ウフタのような新興の天然ガスの町ではわずか7%。
 イジマ・コミ人は、そのイジマ川沿いやペチョーラ川中流、それに、コミとネネツ自治管区との間にあるボリシェゼメリ・ツンドラ(「大地凍土」帯)などでトナカイ放牧などに従事している。(トナカイの頭数の減少はほかの地方より緩やかで、1990年は12万4千頭で、2010年は8万2千頭。)16世紀ごろ南のヴィム川からの移住者とウドール地方からの移住者(モスクワ公国からのキリスト伝道から逃れたてきたのか)、白海沿岸に植民していたプリモリエ(ノヴゴロド人か)、それにネネツ人(*)などから、ほかのコミ人(コミ・ジリャーンなど)とはかなり異なるイジマ・コミ人ができたとある。16世紀、17世紀と言うのは、南流してヴィチェグダ川に合流するヴィム川の上流から、北流してペチョーラ川に合流するイジマ川の上流を通る『ヴィム・イジマ水路』で交易が盛んになり始めたころだった。
(*)ネネツ人 現在は北極海岸のコラ半島からタイムィール半島にかけて住むネネツ人(4.5万人)だが、17世紀ごろは現在のコミ共和国のペチョーラ川中下流にも住んでいた。中上流の支流イジマ川やウス川岸に住んでいたネネツ人は『イジマ・サモエード』と呼ばれていた。サモエードとはサモディーツの旧称。フィン・ウゴル語派と同じウラル語族に含まれる。

 機会を作ってもう一度訪れようと思う。コミ語と日本語は同根だと推測・吹聴しているコミ人もいる。コミの原生林ももう一度見たい。スィクティフカルのセルゲイさんは、自分の別荘のあるゥイブ村から親友のいるヴクティル市までならどこでも案内すると言ってくれている。イジマはかなり僻地だ。炭田も油田もないので鉄道も通っていない。セルゲイさんはイジムの村役場と話をつけてみると言ってくれている。
 2016年はトゥヴァコミ、それにカフカスの北オセチア共和国アラニアにも訪れる。3か所に訪れるというのは印象が弱まりそうに思えるが、出直して出かけるのも不便だから。コミのセルゲイさんも、オセチアのウルイマゴフさんもトゥヴァの考古学グループも私を招いてくれている。途中のクラスノヤルスクやサンクト・ペテルブルクでも、迎えてくれる知人がいてくれるのでありがたい。
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