クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 12 May, 2016 (追記 2016年6月8日、2017年6月5日)
北ロシアウラル山脈北西コミ人たちの地方 (5)
   メゼニの首飾り、ウードル地方(3)
           2015年7月20日から8月6日(のうちの7月27日から7月28日)

Путешествие по КОМИ 2015 года (20.07.2015−06.08.2015)

月日 目次
1)7/20 コミ共和国 S.ペテルブルク着 S.ペテルブルクの住宅事情 詩人・シュメール学博士
2)7/21-7/22 北ロシアに向かう ヴォログダからトッチマ スホナ街道 大ウスチュク アルハンゲリスク州 ゥイブ大村
3)7/23-7/24 コミ地図 スィクティフカル市 コミの鉄道 幹線と支線 コミ人のウドール地方へ ウドールの地理と歴史 メゼニ川のパトラコーヴォ村
4)7/25-7/26 大プィッサ村 郷土史家ロギノフさん 郷土芸能家アンドレーエヴァさん マーガレットの絨毯 ホロムイイチゴの沼 ムチカス村
5)7/27-7/28 先祖伝来の狩場プーチキ 隣村のコンサート 天空の村 メゼニ川沿いの村々
6)7/27-7/30 菱形のコミの対角線 ロシア初の石油の町ウフタ ペチョラ川を渡る ヴクティル市 ペチョラ川を下る 国立公園『ユグィド・ヴァ』
7)7/31-8/1 ユグィド・ヴァ地図
シューゲル川を遡る
『中の門』と『上の門』 ルブリョーヴァヤ停泊小屋 小パートク川 サーモン大漁
8)8/2-8/6 北ウラルを去る スィクティフカルからヴォログダ スターラヤ・ラドガ ブルーベリー
 先祖伝来の狩場
 7月27日(月)。ディーナ・チュプローヴァさんの家も、ジェーニャによるとコミと言うより全くロシアの田舎家だと言う。家の真ん中に大きな暖炉・ペチカがあり、それを囲んで部屋や台所があると言うような典型的なロシアの田舎の家だった。『ロシア・ペチカ』と言うらしい。その中央暖炉に接していない部屋があるとそれは物置だ。ペチカの出入り口は台所に向いていて、そこで調理ができる。ペチカは2m四方はあって、ペチカの延長のような太い煙突がついている。その太い煙突は階段状にすぼまっていくのだが、途中にある仕切りの板を出し入れして火力の調節ができるらしい。高さ2m以上はある暖炉の上ははしごで上がると小部屋になっていて、そのまま特等寝台だ。暖炉の穏やかな暖かさに包まれて寝ると、どんな寒がり屋さんでも熟睡できる。ただ、ペチカは煉瓦でできているので、分厚いマットレスがないと背中が痛くなる。ペチカの上のその小部屋には、周りに棚がついていて、何でも乾燥させたいものが置いてある。ロシア・ペチカは厳寒の地にあって暖かく快適に暮らせるように、よく工夫されたもので、シベリアの他の民族の伝統的暖房は、これほどは便利ではない。たとえばトゥヴァ人のユルタは真ん中に炉があって天井の中央に煙突が向かっているだけだし、煙突もない場合は天井のフェルト布をずらすだけだ。丸太を円錐場に立てて木の皮やフェルトで覆うだけのチュムはもっと簡単だ。サハの暖炉も近づくと熱すぎて、ちょっと離れると寒い。
先祖伝来の狩り場プーチク
リュツィアさんが仕掛けている罠
蒸し風呂用の白樺の束を作る
 蚊よけのネッカチーフのジェーニャ
アリ塚
 ディーナ・チュプローヴァさんはナターシャに手伝ってもらって、滞在客の食事を準備している。メニューは魚。

 12時前ぐらいに、リュツィアさんの車で、先祖伝来の狩場に出かける。若い時はムルマンスクで運転所として働いていたリュツィアさんが自分のニーヴァ(ロシア製小型ジープ、田舎ではこれしかない)で、迎えに来てくれたのだ。昔はもちろん、歩いて回っただろうし、今でも狩猟シーズンなら徒歩だろう。村は森に囲まれていて、先祖代々の狩場も近くにあるのだが、歩いて案内するのは面倒なのでまとめて車で運んだのだ。車に乗りきらないナターシャは歩いて合流した。前述のように、北ロシアの狩場はプーチクпутикと言う。森は誰のものではないが、先祖伝来のテリトリーと言うのがあり、そこには自分だけが罠などを仕掛けたりできる。プーチクとは、『森の中を切り開くか、踏み固めてできた猟師の道』とロシア・アカデミア版事典にある。『プーチ・путь・道』の意味からできた北ロシア、シベリアの方言らしい。
 プーチクは別の専門語辞書には『深い森の中のベリー類の豊富な場所、水場、野禽などが好む場所に延びている。長さは数十キロになることもある。猟師の仕事場であるから、先祖代々受け継がれている。主な獲物はエゾヤマドリ、白ライチョウ、大ライチョウなどの野禽や獣であり、北ロシアの広大な森には、至る所、このようなプーチクがある。所によってはシベリアにもある。夏場にはプーチクの整備と準備が行われ、狩りのシーズンは秋から始まる。猟師は常に自分のプーチクを巡回し、罠を仕掛けたり、罠にかかった獲物を集めたりしている。プーチクが広すぎて廻りきれない時は、罠にかかった獲物がだめになったり、獣の餌食になったりしてしまうことがある。獣も罠を定期的に見回っているのだ…』とある。わかりやすい。

 最近のプーチキは車でも通れるくらいの道幅のもある。
 リュツィアさんは頭と首元にスカーフを巻き、白樺の皮で市松模様に編んだかごを背負い、手ごろな枝を拾って杖にしている。杖は歩行の補助と言うより、森に中を見回る時の重要な道具だ。長い指先だ。
 罠を仕掛けてある場所で立ち止まる。このシーズンでは罠は稼働していないが、枯れ木や草、落ち葉で巧みに作ってある罠の仕掛けを見せてもらった。なるほど、えさがあると思って、こうやって近づいてきた野禽は、こうやってあっという間に挟まれてしまう。実演する時はディーナ・チュプローヴァさんがナターシャに
 「ちょっと遠ざかっていなさい」と声をかけたくらい鋭いものだ。
 リュツィアさんはシラカバの枝を束ねて地元風に運ぶ方法も実演してくれた。秋には黄金色となって輝く白樺も、今は美しい緑色。緑の葉をつけた手ごろな枝を束ねて干しておくと、冬、寒い時の蒸し風呂で使える。乾燥白樺の束を盥の熱湯にしばらくつけ、それで背中や体中をたたくと、白樺のいい匂いが立ちこみ、多分、体中から垢もはがれ、皮膚も丈夫になる。血管にもいいらしい。腹ばいになって背中を誰かに叩いてもらうのが、ロシア風蒸し風呂に入り方だ。極楽の気持ちになれる。枝からはがれた葉っぱも肩に張り付いていることもある。もしかして、ゆず湯や菖蒲湯と同じような効能があるのかもしれない。アロマセラピー効果は確かにある。
 しかし、それも夏の間に手ごろな白樺の枝を手ごろに束ね、干しておくという手間がいる。

 森の中は私の大好きなトナカイゴケの絨毯が至る所広がっていた。大きなアリ塚もあった。ヤナギランの生い茂る林間空地もある。2時間余りリュツィアさんのプーチク内の散歩をした。それはリュツィアさんとディーナ・チュプローヴァさんたち姉妹共通のもので、先祖から受け継いたプーチクの不文律の占有権を持っている。しかし、最近自分たちのプーチクの材木を切っている隣人がいるとか。
 隣村のコンサート
 この日は夕方から2キロほど離れたパリートヴォ村でコンサートがあると言う。人口56人のパリートヴォ村は立派な集落で、店まである。ジェーニャとセルゲイさんは時々歩いてパリートヴォ村まで行ってビールを買っているのだが、1種類しかなくて、まずいのだそうだ。
パリーとヴォ村女声合唱団
高台にあるペトロパヴロフスカヤ教会

 パリートヴォ村には集会所(文化宮殿)のようなところがあり、20人ほどの村の多分すべての成人女性がコーラスの練習をしていて、この日は一応発表会なのだ。私たち旅行者に合わせたものかもしれない。みんな集まってコーラスと言うのは、健全な娯楽だ。
 私たちは車で通り過ぎたことは何回かある隣村に、歩いて出かけた。集会所に民族衣装をつけた村の女性たちがもう集まっていた。私には、みんなかなり年配に見えた。
 この地方の文化担当のディーナ・チュプローヴァさんがはじめに長々と挨拶していた。またパリートヴォ村の長老女性も長い挨拶をして、やっとコーラスが始まった。歌はコミ語で歌われていたと思う。独唱もあった。また、この時のために、セルゲイさん、ジェーニャと私はコミ語でボタンの花(マリヤモリмаръямоль)と繰り返した短い歌も覚えてきていて、御披露した。私は覚えてきたというより、メモした紙きれを見ながら歌ったのだが。
 歌の後には、輪舞が始まった。音楽は踊るためにこそある。私達外来者も輪に入って踊った。歌ったり踊ったりして喉が渇いたので、次はもちろんテーブルを出してきて、丸く座ってお茶が始まる。外来者には感想などが述べさせられる。皆、聞くより話す方が大好きそうなので、私のスピーチはごく短く、3語ほどにした。
 7時頃には皆と別れて文化会館を出る。パリートヴォ村は、かつては大村だったのか、ペトロパヴロフスカヤ(ペトロとパーヴェルの)教会があった。教会がある村は大村селоで、ないのはただの村деревняだ。1894年に建てられたが、ソ連時代に放置され、今でも草で覆われている。村の高台に、それでもそびえている。ここからは家々の屋根の向こうに流れるメゼニ川も見晴らせる。ジェーニャとナターシャが元教会に入ってみる。教会の中には干し草が積まれていた。祭壇があったのか1段高くなったところもある。
 村の通りには牛が遊び、時々馬の一団が闊歩して通り過ぎる。ジェーニャ達が、まずいけれどほかにないからビールを買おうと言う。店はもう閉まっているが、村ではみんな知り合いで、鍵を開けてもらう。マカロニや缶詰シャンプー、乾パンなどわずかな売り物の棚があった。
 この日の夕食は9時頃。寝る前の12時頃メゼニ川に沈む入り日の写真を撮る。夜中の3時頃目覚めたので、メゼニ川の方を見ると、明るくなってはいたが、朝霧のため川面は見えなかった。
 パトラコーヴォの伝説 天空の村
聖キリルと聖ウリトの十字架前
ウードルの『ムツヘタ』へ行く途中
途中で摘んだマーガレット
お別れ会
 7月28日(火)。パトラコーヴォ村滞在の最後の日。深夜(正しくは翌朝)の1時20分にコスラン駅から出発する列車に間に合うように、その3,4時間前にこのゲスト・ハウスを出発しなければならない。夕方遅くに出発なので、ほぼこの日いっぱいは滞在することになる。
 パトラコーヴォ村は17世紀に集落ができた時はСiсьтыдiн、コミ語で「朽ちた・じめじめした湖の側」と呼ばれていたが、最初の定住民(開拓者)パトラコフの名からパトラコーヴォ村と正式には呼ばれることになった。雅号としては『天の下の・天空』とも言う。村が天空に近いからだ。
 伝説によると、19世紀、丘や泉や沼に囲まれたこのパトラコーヴォ付近にクマが住むようになった。近くの沼や森にはクマの喜ぶベリー類がたくさんなっているからだ。ところがある不作の年、熊たちは村に出て家畜を襲うようになった。多くの牛や羊を襲い、村には大損害となったので、村人は集会を開き、十字架を立て、家畜を守る聖人のキリルとウリトに、熊の襲撃から家畜を救ってくれるように願った。村人は仕事を休んで聖人の十字架に参拝していると、聖人は村人の祈りを聞きいれ、クマの害から救ってくれたのだ。それ以来、村人は、7月28日には仕事に出ないで、聖キリルとウリトの十字架に祈ることにした。そして、聖人への感謝から村人は村の最も高台に聖キリルとウリト礼拝堂を立てることにした。しかし、1930年代の反宗教活動のため実現しなかった。
 という謂れのある日なので、私たちも、数少ない村人(ディーナ・チュプローヴァさん一家以外はその時一人のみ参加)とともに、高台にある聖キリルと正ウリトの十字架にお祈りすることになった。新しい十字架のようで、たぶんソ連崩壊後にできたのだろう。
 『天空の村』とはよく言ったものだ。この村ほど天空が広く見えるところはない。丘からはメゼニ川の流れが見晴らせる。十字架の前で、ディーナ・チュプローヴァさんが長々と話し、私たちは神妙に頭を垂れて聞いていた。私は蚊よけのネッカチーフや帽子をかぶっていたし、ナターシャたちは蚊よけではなく、ロシア正教の規則に則って、頭髪を覆っていた。
 午後から、また、みんなで散歩に出かける。マーガレットが一面に咲く林間地を抜けて、針葉樹林の中を流れるアラグヴィ川Арагви(*)言うミハイル・レールモントフ(1814-1841)の詩から取った小川が、これまたレールモントフの詩からのクーラ川と合流するところの近くを渡り、洗うと眼病にならないと言う泉に行き、パトラコーヴォ村の墓地を通り、床から雑草が生えているが屋根も壁もある廃校になった校舎の中も探検して、廃品の蓄音機の写真も撮って、1時間半ほどで帰って来た。

  (*)アラグヴィ川 
カフカス山脈(アルメニア高原)から流れ、グルジアの中央を通り抜け、アゼルバイジャンに抜け、カスピ海に注ぐク―ラКура川(1364キロ)の左岸支流がアラグヴィ川(66キロ)。合流点に紀元前5世紀にできたと言うムツヘタ市(2014年、1万人)がある。ムツヘタはイベリア王国(紀元前3から6世紀、現在の東グルジアやトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンの一部を占めていた)の首都だった。5世紀、首都は数キロ南(下流)のトビリシ(現在もグルジアの首都)に移る。ムツヘタ市近郊には6世紀のジワリ修道院もある。また、北オセチアのヴラジカフカスからグルジアのトビリシへの『軍事グルジア道』208キロ(旧道は18世紀末開通)が通り、カフカスで軍務についていたレールモントフが“Мцыри”と言う抒情詩を生前の1840年発表。アラグヴィ川とクーラ川がざわめいて合流する様子が二人の姉妹が抱き合うよう、と歌っていてロシアでは有名。学校の教科書には必ず載っている。https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9C%D1%86%D1%8B%D1%80%D0%B8
コミの民族衣装

 この日の夕食は、私たちをパトラコーヴォ村からコスラン駅まで車で、送ることになっているドミートリーも来て、お別れパーティーとなった。ディーナ・チュプローヴァさんは手伝ってくれた孫のアンドレイや姪孫のナターシャにプレゼントを進呈。私にはコミの民族細工の細い白樺の皮を丸めてつないだネックレスが贈呈された。やはり、コミの民族衣装を着て記念写真を撮ることになった。実はこれは私にはとても苦手だ。私にはコミの民族衣装は似合わない。しかし、うれしそうに被写体になった。下手なロシア語で話している私のこのビデオをセルゲイさんはユーチューブに出したのだから本当に嫌になる。いくら日本では誰も見ないとは言っても。
 メゼニ川沿いの村々
 20時過ぎには、来た時には半眠りでよく覚えていないドミートリーさんの車に乗り、帰途に着いた。出発の前にセルゲイさんはディーナ・チュプローヴァさんに滞在費と観光代を支払おうとしたのだが、足りなかった。滞在費は1日1500ルーブルで5日間7500ルーブル、3人で22 500ルーブルだが、観光代が10 000ルーブルで合計32 500ルーブル。その持ち合わせがなかった。一人分は約11 000ルーブルで、私は自分の分はあったので、残った分をセルゲイさんに貸してあげたが、それでも足りなかった。コスランのATMで下ろして、ドミートリーさんに渡すことにした。
 帰りの車の後部座席にはアンドレイも乗った。祖母の観光業の手伝いが終わったのでコスランの両親の家に帰るためだ。モスクヴァ大学の夏休みはまだまだ続いている。
出発前
薄緑色のトナカイゴケに地表が覆われた森

 パトラコーヴォ村からコスラン駅までは約130キロあり、途中メレンチエヴォ、チェルヌチエヴォ、エリクィブ村を通り過ぎる。来るときは半分眠っていたが、帰りは、森を抜け、川を見下ろす高台を走り、村に入り、また森を抜け川岸を走るメゼニ右岸の景色をゆっくり眺めていたのだ。どの場面も美しい。暗いトウヒ(エゾマツ)の森もあり、薄緑色のトナカイゴケに地上が覆われた森もある。砂地の道路からまばらな木々を通して川面が見えたり、赤く染まった地平線近くの空が見えたりする。
 40,50分も走るとメレンチエヴォ村にさしかかる。この村に限って家々は川岸近くに建っている。つまり道は川岸近くを通るので、メゼニ川の入り日が見える。来るときは朝霧のメゼニ川の写真を撮った。ここを通る時だけ目が覚めたのだ。
 チュヂ人(ロシア側から見てフィン・ウゴル系民族のこと。フィン人、エストニア人、カレリア人、ヴェプス人、コミ人など。ロシア人から見て異教の、だから未開の民族、初めは恐れられていた。後には蔑称)の伝説によれば、メレイキと言う魔法使いがいて、川岸を見張っていた…ステファンの従者…
 チェルヌチエヴォ村(人口400人で中等教育機関もある)で、森の中の泉を訪れる。アンドレイが、祖母に頼まれたのだとか。泉はパトラコーヴォ村近くにもある。アンドレイ君が知っている限りでは4か所ある。しかし、チェルヌチエヴォ村のこの泉は、特別に有名なのだそうだ。昔、村のある若者が外ものの娘が気に入り妻に迎えたいと思った。それで娘をその泉に連れて行き、手で水をすくって差し出した。その魔法の力を持った湧水を若者の手から飲んだ娘は、若者が好きになった。という伝説から、村の若者たちの手から、もし、この湧水を飲めば、娘たちは、その若者と結婚を承諾したと言うことになる、もし、そうでないなら、求婚は断られたことになる。という慣習が生まれた。
 また、チェルヌチエヴォ村で集められた伝説によると、昔、ここにチュジ(ここではヴェプシ)が住んでいた。洗礼を受けるとコミになり、受けなかったものはチュヂのままだった。チュヂは人々(つまり、キリスト者)には見えなかった。人々に悪さをしたが、十字架を建てておくとそれ以上は入ってこんかった。別の伝説によると、チュヂは宝物を隠して逃げて行った。チェルヌチェヴォ村近くには夜になると光る金の宝箱が隠されている、とかジュチと一緒にそれは湖に沈んとかと言う伝説があるそうだ。
 また、エリクィブ村(人口5人)の戦没者記念碑の横に建っている地元のコミ人の系譜碑にも訪れる。100歳まで生きたと言う一族の家系だった。ディーナ・チュプローヴァさんも、その一族出身だとか。アンドレイは、これでおばあさんからの依頼を果たしたとつぶやく。
 コスランではATMを探し、2つ目のATMで現金を引き出す。2つ目は、ウソゴルスク町にあった。
 スィクティフカル行きの列車が出発するまでまだ2時間の余裕がある。
 ウードル区の行政中心地は16世紀から歴史資料に名前が載っていると言うコスラン村(人口2000人余)だが、そこから西へ15キロほど離れたメゼニ川左岸にあるウソゴルスク町は人口が5000人余で、コスラン駅は、コスラン村にはなく、ウソゴルスク町にある。
 1967年ソ連邦とブルガリア人民共和国(1946年から1990年までのかつてのブルガリアの正式国名)は、ウードル区の材木伐採条約を結び、数カ月後、ブルガリアの移民が自分たちの町として森の中につくったのがウソゴルスクだった。材木工場もブルガリア人の手で建てられ急激に発展。1979年には人口9000人、1989年には11,259人となったが、ソ連崩壊後は、半減。出稼ぎブルガリア人のほとんどは去った。現在は5000人余だが、それでも、ウードル区では最も人口が多い。当時のブルガリア人移民町としては、50キロほど西のブラゴエヴォ村(現在2000人)と30キロほど南のメジュドレチェンスク町(現在1700人)がある。どれも、ソ連崩壊後、人口は半減している。ウードル区で『町』はその3個、あとはすべて『村』だ。(3のウードルの地図参照)
 モスクワ(ヤロスラヴリ)からアルハンゲリスクやヴォルクタへ延びる北部幹線鉄道のミクニ駅から1974年にコスラン(方面)へ支線を伸ばしたのも、ウードル区の材木輸送のためだった。つまり、ブルガリアからブルガリア人が来て、ウードル区の材木を伐採し製材して、ブルガリアに運び出すためだった。1977年にはコスラン飛行場すらできた。(現在は閉鎖)。コスランからスィクティフカル経由ブルガリアの首都・ソフィアへの直行便が飛んでいた。ちなみに、当時、ソ連邦労働者の平均賃金は245ルーブルだが、ブルガリア人は580ルーブルだったそうだ。
 現在の5000人の町民は行政から出ているサイトによるとロシア人、コミ人となっていて、ブルガリア人で残っている人はわずからしい。ムチカスのロバノフさんの家族もそこに住み、ディーナ・チュプローヴァさんはそこの『文化の家』で働いている。

 スィクティフカル行きの列車が出発するまで、1時間ほどウソゴルスク町にあるドミートリーさんたちのアパートで待つことになった。それは予定していたらしく、アパートにはアンドレイのママがお茶を用意して待っていた。アンドレイにはお転婆な妹がいるそうだ。
 帰りの列車はやはり、プラツカルタ。私たち3人は同じ区画を占有できたのはよかった。深夜1時20分に出発し、9時15分に到着した。(それは、もう7月29日だ)
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