クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 10 May, 2016 (追記 2016年6月15日,12月18日,2017年3月16日,6月2日)
北ロシア、ウラル山脈北西コミ人たちの地方  (2)
    北ロシアを行く
           2015年7月20日から8月6日(のうちの7月21日から7月22日)

Путешествие по КОМИ 2015 года (20.07.2015−06.08.2015)

月日 目次
1)7/20 コミ共和国 S.ペテルブルク着 S.ペテルブルクの住宅事情 詩人・シュメール学博士
2)7/21-7/22 北ロシアに向かう(地図) ヴォログダからトッチマ スホナ街道(地図) 偉大なウスチュク市 アルハンゲリスク州 ゥイブ大村
3)7/23-7/24 ウドール地図
スィクティフカル市
コミの鉄道 幹線と支線 コミ人のウドール地方へ ウドールの歴史 メゼニ川のパトラコーヴォ村
4)7/25-7/26 大プィッサ村 郷土史家ロギノフさん 郷土芸能家アンドレーエヴァさん マーガレットの絨毯 ホロムイイチゴの沼 ムチカス村
5)7/27-7/28 先祖伝来の狩場、プーチキ 隣村のコンサート 天空の村 メゼニ川沿いの村々
6)7/27-7/30 菱形のコミの対角線 ロシア初の石油の町ウフタ ウラル山脈とペチョーラ川 ヴクティル市 ペチョーラ川を下る 国立公園『ユグィド・ヴァ』
7)7/31-8/1 ユグィド・ヴァ地図 シューゲル川を遡る 『中の門』と『上の門』 リブリョーヴァヤ停泊小屋 小パートク川 大漁のサーモン
8)8/2-8/6 北ウラルを去る、(旧)最短の道 スィクティフカルからヴォログダ スターラヤ・ラドガ ブルーベリー
 北ロシアに向かう
 7月21日(火)。早朝6時にはジェーニャのフォード・モンデオ(韓国車)で出発。後部座席にはアンジェラさんが座っていた。彼女はそのためにわざわざスィクティフカルからサンクト・ペテルブルクに来ていたのだ。なぜならジェーニャには、未知の道程だし、何度も往復している彼女がついていれば心強いからだ。確かに、初めての道路を1500キロ走破は厳しいだろう。アンジェラさんはスィクティフカルから数日前に、飛行機でサンクト・ペテルブルクへ娘に会いに来ていたのだが、帰り道もこうして考えてあったのだ。セルゲイ・ガルブノフさんは、友達のジェーニャと妻のアンジェラさんの予定を、私の到着に合わせて調整してくれたのだ。カーチャはサンクト・ペテルブルクに残る。数日後に友達とフランクフルトに旅行するからだ。
 車で昨日の宮廷前広場や早朝でひと気のないネヴァ川岸通りなどを通って、たぶん30分ほどでサンクト・ペテルブルクの町を出た。大都市の道路事情は、私がよくここを訪れていた80年代後半より、格段に良くなっていて、便利で立派な自動車道が何本も交差している。きっとヨーロッパ規格になったのだろう。(石油や天然ガスを売って、資金がたまったな。地下資源を売っているアフリカにだって、外見はヨーロッパに劣らない大都市がある、と思いながら通行)。ソ連時代に造成されたような素っ気ない郊外団地を通り抜けて、A118と言う環状道路(当時70%が完成していてまだ完全に環状にはなっていない)を通って町の東へ出る。
S.ペテルブルク市郊外の自動車道
煙の町も迂回して連邦道は続く

 道路標識通りに進めば、連邦道R21(2017年まではM18)に乗り移り、100キロほどは東へ東へとラドガ湖の南岸を行くことになる(下の地図)。と言っても、道路から見えるのは森の中を走る舗装道だけだ。気候図的にはこのレニングラード州は針葉樹林帯に入るのだが、マツやトウヒより、白樺や、ヤマナラシ、ハンノキと言ったどうでもよい木々ばかりが生え残っているそうだ。この 連邦道R21(M18)はサンクト・ペテルブルクから、ラドガ湖の南岸を通り、オネガ湖の右岸のカレリア共和国の首都ペトロザヴォツクを通り、さらに北上して白海の西岸を通ってコラ半島のムルマンスクまで通じ、こんどは東進してバレンツ海のノルウェーとの国境にまで通ずる1592キロの主要道だ(国境に通じる道は連邦道となっている)。コラ半島方面へ行くので『コラ道』とも呼ばれている。(バイカル湖方面へいくR 258が『バイカル』道と呼ばれているように)。
 ラドガ湖は18,300平方キロ(島々を含む)の面積と容量908立方キロで、ヨーロッパで最も大きい(琵琶湖の面積は673平方キロ)。ラドガ湖南岸のヴォルホフ川岸にあるラドガは8世紀からあった町で、10世紀にはスカンジナヴィアからルーシの地(ロシア)を通ってビザンチンへ行く水陸交易路『ヴァリャーグからギリシャへの道』の拠点の一つとして栄えた。現在はスターラヤ・ラドガ(古いラドガ)と言われている。なぜなら1704年にヴォルホフ川のもっと下流のラドガ湖岸にノーヴァヤ・ラドガ(新しいラドガ)ができたからだ。現在スターラヤ・ラドガ村は主要道から離れ、遺跡の町、つまり観光名所(だけ)となっている。コミからの帰りに、ここへ寄った(後述
 『R21コラ』道はノーヴァヤ・ラドガ市を通って、ラドガ湖南岸を廻りさらに北へいくのだが、私たちはここでR21を出て、東へ延びる連邦道『A114』道に入る。
 ちなみに、新旧ラドガのあるヴォルホフ川はイリメニ湖から流れ出てラドガ湖に注ぐ延長224キロの川で、河岸には10世紀以前にできたヴェリーキィ・ノヴゴロドやラドガのような古代・中世ロシア史の主役だった地名が多い。イリメニ湖に流れ込む水はすべてヴォルホフ川を通ってラドガ湖に入る。ラドガ湖からも、そこから唯一流出するネヴァ川を通りバルト海に出る。
 連邦道『A114』は『ノーヴァヤ・ラドガ=ヴォログダ』道とも言って、全長531キロのうち、ノーヴァヤ・ラドガから200キロはまだレニングラード州を走り、331キロはヴォログダ州を走って、ヴォログダ市で終わる。これは、古くからあった道、つまり、交易拠点や修道院(これも交易拠点だ)を結ぶ道を元に作られたものだ。この533キロの道のりに、町はそれほど多くはない。道の両側は、たいていは森だった。町があっても現代の自動車道はすべて町や村を迂回して通じている。森が切れると野原が現れ、遮るもののほとんどない草原の向こうに町が見える。特に煙突が密集し煙の出ている町は目立った。そしてまた森になる。
 ラドガ湖やオネガ湖の地方は、フィン・ウゴル語族の地名が多い。連邦道A114号線も、フィン・ウゴル語族のバルト・フィン語系のヴェプス語の町々、同語族のフィン・ペルム語系のコミ語の村々など、または、古代スラヴ語にたどれる集落や川を縫って進む。元々はフィン系の土地だったが、10世紀前後ごろからスラヴ化していったそうだ。
↑左図のサンクト・ペテルブルク郊外からノーヴァヤ・ラドガまでのR21とそこからヴォログダまでのA114 (全1500キロのうち660キロ)
←モスクワ以北の北ロシア サンクト・ペテルブルクからスィクティフカル 1はチェクシノ(通過) 2はニコリスク(今回通過しない)
 ヴォログダ市からトッチマ市
 ヴォログダ州は南北に400キロ、東西に700キロと、横長の長方形で、私たちはサンクト・ペテルブルクのあるレニングラード州からこのヴォログダ州をほぼ西から北東に横断して進むことになる。ヴォログダ州は統計によると。住民の96.56%がロシア人であるというロシア連邦の中でもロシア人の割合が最も大きい地方だそうだ。それでも、バルト・フィン諸語のヴェプス語を話す人たちもいる。
ヴォログダ・バイパスのカフェにあったサモヴァールと輪に通した乾パン

 州都ヴォログダ市はサンクト・ペテルブルクから東へ660キロ、モスクワから北に465キロのところ、州の中ほどよりやや南西にある。この地名のヴォログダ市(ヴォログダ川から命名)もフィン・ウゴル語族のヴェプス語などで『白い町』と言う意味だそうだ。人口31万人で、ノヴゴロド国の時代(12-15世紀)にはすでにその名が文書に現れていたと言う古い町だ。それ以前にも修道院が建っていた(ノヴゴロド=古名ホルムガルドの町ができたのは9世紀以前か)。ヴォログダ市には193か所もの文化財になっている遺跡があるそうだ。ヴォログダ州全体では224の自然や歴史、文化の記念物がある。日本からこんなに遠くへ来ているのだから、元フィン・ウゴル語族の地で、12-13世紀頃からスラヴ化した北の古都ヴォログダを見物してもよかったが、やはり目的地のスィクティフカルへ急がなくてはならない。市を迂回している114号線上のカフェで軽食を取っただけで通り過ぎたのだ。街へ入ると通り抜けるだけで数時間はかかるだろうから。
 A114号線『ノーヴァヤ・ラドガ=ヴォログダ』線はヴォログダで終わり、次は連邦道M8号線『ホルモゴルィ』道に入る(下の地図)。これはモスクワからヤロスラヴリ、ヴォログダ、アルハンゲリスクへと通じる1234キロの北へ向かう主要道で、『M』とつくのはモスクワを始発としているからだ(前述M18も同じ)。ホルモゴルィというのは12世紀に北ドヴィナ川下流にできた白海貿易拠点だった。当時のノヴゴロド国はホルモゴルィなどを拠点にイギリスなどと白海を通じて毛皮取引もしていた。毛皮(柔らかい金)は古くからロシアの主要輸出品だった。その後、ホルモゴルィのより下流に新ホルモゴルィ(現アルハンゲリスク)ができるまで最北の交易拠点だった。その歴史的な地名が、M8号線の名称となっている。私たちが通ったのは全1234キロのうち、ヴォログダからチェクシノまでのたった58キロだが。
 チェクシノで地方道R7に乗り換えトッチマまで行く。地方道R7は『チェクシノからニコリスク』という1995年にできた延長345キロの連結用自動車道だ。R7は、始発のチェクシノでM8に連絡でき、トッチマを通り、ヴォログダ州の南東の端のニコリスク市でR157に連絡できる。
 チェクシノからトッチマまでの143キロだけR7を走る。この143キロでヴォログダ州の中央を西から東にかなり移動できる。大都市サンクト・ペテルブルクに近い道路に比べると舗装は傷んでいるが、交通量も少ないのでジェーニャはスピードを出す。クラスノヤルスク地方を行く時は道路網が粗いから、ただ道が導くままに走ればいいが、ロシア連邦ヨーロッパ部は道路標識をよく見ていないと、曲がり角を見過ごしてしまう。傷んでいてもアスファルト舗装の道があるおかげで、時速120キロでも走れるのだ。140は出さないでほしい。(この旅行の前半に訪れた遊牧の国トゥヴァでは草原の中、道路があるとは限らなかった。そんな土地をゆっくり走るのも本当は、いいものだが)。
 標識にある『トッチマТотьма』と言う不思議な響きの地名がどこから来たのか、ジェーニャに聞いても、後部座席のアンジェラに聞いてもわからない。帰国後調べてみると、やはりこれはコミ語から来ていて、トッド ≪тод≫と言うのはトウヒや灌木の繁っている湿った場所 ≪сырое место, поросшее елями и кустарниками≫,マ ≪-ма≫と言うのは地 ≪земля≫と言うのだそうだ。元々はフィン・ウゴル族のコミ人が住んでいたところにスラヴ人も住むようになったのだろう。北ロシアには、こうした地名が多く残っている。12世紀後半の地図には、ノヴゴロド国の勢力の及ぶ地として、”пагост (村落から離れた沿道の旅宿、貢物納入所)Тотьма”と、載っている。
 ロシアの北半分(モスクワを含む)の先住民はフィン・ウゴル人だった。モスクワ南ですら例えばムーロマのようにフィン・ウゴル語の地名が残っている。『モスクヴァ』という地名も、フィン・ウゴル語系と説明できる。ルス族の年代記には、ヴォルガ沿岸にすんでいたフィン・ウゴル族の名前が多くみられる。11世紀くらいになるとそれらフィン・ウゴル族の名前は言及されなくなってくる。10世紀前後から東スラヴ人(後のロシア人など)が現在のヨーロッパ・ロシアの北西と中部の地に移動してきたと言われている。が、『ロシア人と言うのはスラヴ人ではない、ロシア語を話すフィン・ウゴル人だ』という説があるくらいだ。ヨーロッパ・ロシアの北東(スホナ川岸、当時ウラジーミル・スズダリ侯国の北東)へスラヴ人が住むようになったのは13世紀、モンゴルの侵攻から逃れて北へ移った時代からだそうだ。モスクワ大公国領になったのは15−16世紀だ。
 1137年のノヴゴロド国の文書にスホナ川岸のトッチマの名が初出しているそうだ。15世紀ごろの塩の産地の一つであり、修道院や大商人が経営していた。中世にはカザン・ハン国(*)の襲撃や大動乱期のポーランド軍の侵攻で荒れたが、17世紀にはロシア中央部と白海を結ぶ北ドヴィナ川航路の拠点として栄えた。当時バルト海への出口のなかったロシアは、北ドヴィナ川水系(スホナ川とユク川が源流)を利用して、白海に出て、イギリスやオランダと海外貿易をおこなっていた。ヴォログダからスホナ川を下り、トッチマとヴェリーキィ・ウスチュク(偉大なウスチュク)を経て北ドヴィナ川の河口アルハンゲリスク(新ホルモゴルィ)へと通じる航路だ。トッチマには年間500から1000艘の商船が寄港していたそうだ。イギリス(のロシア会社)やオランダからの商人も訪れ繁栄した。
*)カザン・ハン国(カザニ・ハン国とも) 15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域を支配したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、国名は首都をカザンに置いたことに由来する

 しかし、バルト海への出口サンクト・ペテルブルクができると、スホナ・北ドヴィナ川航路はすたれたが、トッチマの毛皮商人は毛皮を求めて遠くシベリアや太平洋、アラスカやカリフォルニア(*)にまで進出したそうだ。トッチマからは数多くの探検家や航海者を輩出している。シベリアの毛皮とともに、北アメリカからの小麦貿易からも莫大な資本を築いた商人たちは、トッチマに豪華な聖堂を立てた。(ヴォログダ市迂回路のドライブインにあった観光パンフレットによる)しかし、トッチマは、既に17世紀から帝政ロシアの終わりごろまで、政治犯の流刑地となっている。1871年、中央アジア探検家で民族学者グレゴリー・ポターニンも流されている。モロトフやコロレンコ、ジュガシェヴィリ(スターリン)、ルナチャルスキーたちの流刑地の一つでもあった。
(*)カリフォルニア州の『フォルト・ロス』は1812年トッチマ商人が建てたロシア・アメリカ会社の最南の拠点だった。

 トッチマは州都ヴォログダ市から215キロも離れている。現在の人口は1万人を切るが、ロシアの41古都のうちの一つで、18,19世紀の大商人の建てた壮麗な寺院は、『トッチマのバロック』様式と言われているくらいだ。日本からはるばるここまで来たのだから、トッチマの町を見てもよかったが、最近の自動車道は町を迂回している。次回、機会を作って。
 スホナ街道
北ドヴィナ川流域  ドゥヴィナ湾はバレンツ海の一部白海にある。
ヴォログダ市からのスィフティカル市まで
(全行程1500キロのうち後半842キロ)、↑←は川の流れ
 スホナ川岸にあるトッチマから、私たちはさらに東北へ、東北へと進んだ。ヴォログダもスホナ川の源流の一つヴォログダ川岸にあるが、一旦は遠のいたスホナ川にトッチマでまた近づくことになった。そして、トッチマからヴェリーキィ・ウスチュク(偉大なウスチュク)までは『スホナ街道』をいく。これは番号なしで慣習的に『スホナ街道』と言っている。昔からの道路がスホナ川に沿って通じていて、それを元にできたアスファルト舗装道だからだ。
 上記のようにスホナ川は北ドヴィナ川の源流のひとつだ。その北ドヴィナ川は北極海の一部バレンツ海に流れ出す大河だ。バレンツ海に流れ出す川はペチョーラ川(1809キロ)と北ドヴィナ川(1302キロ)が最も大きい。ちなみに、ヨーロッパ最長のヴォルガ川(3645キロ)はカスピ海に注ぎ、ドナウ川(2850キロ、ヨーロッパ2位)は黒海に注ぐ、1233キロのライン川(ヨーロッパ7位)は北海に注ぐ。
 狭い意味の北ドヴィナ川はユク川(574キロ)とスホナ川(558)の合流点ヴェリーキィ・ウスチュク市から、白海(バレンツ海の大湾)への河口まで(744キロ)だが、源流のスホナ川も含めて北ドヴィナ川とすることもある。スホナ川のさらに源流のクベナ川(368キロ)も含めると北ドヴィナ川は1683キロとなる。クベナ川、スホナ川、北ドヴィナ川と1本の流れでも名前が変わるのは歴史的によく利用されていたからだろう。
 またコトラス市で東から合流するヴィチェグダ川(1130キロ、その流域は、昔はロシア人の居住地ではなかった)を北ドヴィナの源流とすると1803キロとなる。
 北ドヴィナ川の流域面積は357 700平方キロ(参考:日本の面積は377 815平方キロ)とシベリアの大河程ではないが、ウラルの西では、超1級の大河だ。北ドヴィナ川流域は南ではヴォルガ流域と分水嶺で分かれ、東(その方面は支流のヴィチェグダ流域になる)では湿地帯でペチョーラ川と分かれている。北ドヴィナ川の源流をクベナ川とすると、クベナ川は北から南に流れ、クベナ湖に入る。そこからスホナ川が流れ出てヴェリーキィ・ウスチュク市でユク川と合流するまで、ほぼ東北東に流れる。ユク川と合流して名前も小北ドヴィナとなり、コトラスでヴィチェグダ川と合流するまで小北ドヴィナの名で74キロを北へ流れる。コトラスからは(狭い意味の)北ドヴィナとして北西に744キロ流れてバレンツ海の一部、白海のドヴィナ湾に流れ出る。螺旋形に流れる川だ。北ドヴィナ川の源流をコトラス市で合流する東からのヴィチェグダ川だとすれば、ぺチョーラ川との分水嶺となる湿地帯から流れ、コトラスで合流後は北西に流れることになってよりわかりやすいが、地理ではこちらを取らない。スホナ川の方がロシア人になじみが深いからだろうか。ヴィチェグダ川の方は長い間、前記のように、コミ人の地だった(*)。だからロシア人の作った地図では、スホナ川より長かったのに(上記)、北ドヴィナの源流とは習慣的にされてこなかったのだろう。
(*) コミ人の地  しかし、ヴィチェグダ中上流や、ヴィチェグダと湿地帯の分水嶺で別れる東のぺチョーラ川流域にはオビ・ウゴール族(語族)のマンシ人が住んでいた。現在オビ・ウゴール族はウラル東のハンティ・マンシ民族区(チュメニ州の一部)にわずかに住む。一方、コミ人はより西の現在のアルハンゲリスク州東部に住んでいたが、後のロシア人に追われて東進してぺチョーラ川流域へ、それで、そこにいたマンシ人はウラルの東へ去ったのか。

 ちなみに西ドヴィナ川(1020キロ)はロシア連邦を325キロ流れ、ベラルーシ国を328キロ、ラトヴィアを367キロ流れてバルト海のリガ湾に注ぐダウガヴァДаугава川のことだ(ロシアではダウガヴァ川とは言わない)。南ドヴィナや東ドヴィナはない。
スホナ街道を行く

 トッチマからヴェリーキィ・ウスチュクまでスホナ街道を行くと言っても、特にスホナ川が見渡せるわけではない。ただ、ニュクセニツァ町近くで左岸から右岸にわたり、ヴェリーキィ・ウスチュク近くで右岸から左岸にわたった時だけはこの有名な川を見おろせた。2度目に河を渡る直前に、スホナ街道はR157号線に合体する。
 R157は南のニジニ・ノヴゴロド州のウレニ市から、ヴォログダ州のニコリスク市を通り、北のアルハンゲリスク州のコトラスまでの412キロの連絡用道路だ。
 たびたび、娘のいるサンクト・ペテルブルクとスィクティフカルを往復しているアンジェラさんが、後部座席に座って、ずっと道案内をしてくれた。ジェーニャはナビをセットしているが(ロシアではスマホくらいの大きさの外付けをよく見かける)、何度も往復しているアンジェラさんがいてくれた方が心丈夫だ。1500キロを1日で走破するのは難しいから、彼女は途中で宿泊する時の手ごろなホテルを幾つか知っている。たいていはヴェリーキィ・ウスチュクまでは一気に行って、そこの『アイスヴェルク(氷山)』と言うホテルで泊まるそうだ。
 ヴェリーキィ・ウスチュク(偉大なウスチュク)
 ヴェリーキィ・ウスチュク(力点はウにある)近くのスホナ川を渡る。「これがスホナ川だわ」と国粋派のアンジェラさんが感慨深げに言う。学校で習うロシア史にはスホナ川が必ず出てくるのだろう。
デジニョフの像が建つ広場で祭り
スホナ川に面する聖堂

 ヴェリーキィ・ウスチュクは人口3万人余で州都ヴォログダから623キロ東北東にある、と言うよりヴォログダ州の最も東北にある町と言える。ロストフ・スズダリ候国によって1212年砦(柵)が築かれたと古文書にあるそうだ。その後、チュヂ族(下記、フィン・ウゴル語族)やビャト族(フィン・ウゴル語族)のテリトリーはノヴォゴロド国の勢力下に置かれていたが、15世紀前半にはモスクワ大公国領となり、16,17世紀には北ドヴィナ水系の交易路スホナ川とユク川の合流点として栄えた。町は合流直前のスホナ川に面する。『偉大な』の前綴りがつくのは、イヴァン4世(1530-1584)がオプリチナ(ツァーリの私的な領地)の市の一つにしたからだそうだ。ウスチュクと言うのはユク(ウス)川の畔にあるから。北ドヴィナ水系にある偉大なウスチュクはトッチマと同様、サンクト・ペテルブルクがバルト海の出口にできてからは、交易の拠点として繁栄することはなかった。
 今は寂れた町だが、この町が有名なのは、往時をしのばせる立派な聖堂などが残っていることと、元モスクワ市長やヴォログダ県知事などの主導で『大ウスチュク、マローズ爺さん(ロシア版サンタクロース)の故郷』企画が立ちあがり、1999年12月25日『マローズ爺さんの家』の開所式が行われたことだ。マローズ爺さんはロシアで人気があって、1991年代にはアルハンゲリスク市が『マローズ爺さんの郵便局』を作り、ムルマンスク州でも、『おとぎの国ラップランドはマローズ爺さんの領土』企画があったそうだ。ジェーニャによるとサンタクロースがフィンランド出身というのは1970年代にコカコーラ社が考え出したこと。
 スホナ川を渡ったのは、夕方の7時半。ヴェリーキィ・ウスチュクに着いて、ホテルに部屋を取ると、まだ明るいうちにと、私たちはウスチュク観光に出かけた。アンジェラさんは町をよく知っている。修道院や鐘つき堂、大聖堂を廻る。半壊の聖堂もある。どの聖堂も古びた色をして、無人のようなのに、丸屋根だけは金色に輝いている。
聖レオンチィ・ロストフ教会
復興への寄付を集める

 町の中心をスホナ川に向けて大通りが通っている。その名も赤軍通り。スホナ川を背景に立つ大きなレーニン像で大通りは終わっていて、その近くのスホナ川の高い河岸段丘には鐘楼のいくつもあるロシア正教のかつては立派な寺院が数軒建っている。スホナ川の対岸にもロシア正教の堂々とした寺院が立ち並んでいる。地方の商業資本家にもかなりの富が集まるものだ。
 街角には1147年建立と書いた石柱や、この町出身の(つまり、この町の大商人に援助された)探検家の像が立っていた。探検家はシベリアからアラスカを探検し、町に富をもたらしたわけだ。アムール川を探検したエロフェィ・ハバロフはその名が極東の大都市ハバロフスクに残っている。カムチャッカ半島探検のウラジーミル・アトラソフ、ユーラシア大陸の東端となる岬を回航して、アジアとアラスカが陸続きでないことを発見したセミョン・デジニョフ(ユーラシア大陸最東端の岬はデジニョフと言う。ベーリング海峡を挟んで反対側はアラスカのプリンス・オブ・ウェールズ岬)達が、この町、または近郊出身だそうだ。
 この日は町の祭日なのか、広場では優雅な服装をした男女がダンスを踊っていた。往時の寺院に囲まれている町の中心の広場にはデジニョフの像が建てられている。
 『アイスベルグ』ホテルでは、私とアンジェラさんがツィン・ルームで、ジェーニャはシングルをとる。
 アルハンゲリスク州も通る(ヴェリーキィ・ウースチュクからコミへ)
 7月22日(水)。朝は8時半ごろホテルを出発して、『マローズ爺さんの故郷、偉大なウースチュク』と大きな看板のある通りをゆっくりぬけて、郊外のスタンドに寄る。ジェーニャの車は燃料がガスに改良してあるので(ガソリンとハイブリッド)、燃料補給スタンドを見つけるのはちょっと難しい。ガスの方が燃費がいいので、できるだけガソリンを使わずに走りたい。しかし、サンクト・ペテルブルクからスィクティフカルの1500キロにガスが補給できるスタンドは数軒あっただけだ。この偉大なウスチュクの郊外で、ガスを満タンにできる。
 偉大なウスチュクからコトラスまで北ドヴィナ川左岸を走る。まだR157線だ。25キロほど走ったところでヴォログダ州は終わりアルハンゲリスク州に入る。
アルハンゲリスク州に入る

 アルハンゲリスク州の名は、北ドヴィナ河口近くの州都アルハンゲリスク市(36万人、旧名は新ホルモゴィ)から来ている。そのアルハンゲリスク市は12世紀にできたミカエル大天使(ミカエル・アルハンゲル)修道院から来ている。両州の境界に立っている道票はミカエル大天使ではなく軍人の守護聖人(ともされている)ゲオルギー(ゲオルギウス、ジェオルジオ、ドラゴン退治の伝説で有名)だった。写真を撮る。
 そこから40キロも行くと北ドヴィナ川を渡りコトラス市に出てR157は終わる。コトラスは州都アルハンゲリスク市から600キロも南のアルハンゲリスク州の最南で、人口は同州で3番目の7万人余。最大の支流ヴィチェグダが北ドヴィナ川に合流する場所にあって、北ロシアの東半分はどこでもそうだが、もともとはコミ・ズィリャーン人が住んでいた。9-11世紀の歴史地図には、スホナ川の源流からとヴォルガ流域より北はペルミ族、つまり、コミ族、チュヂ族のテリトリーだった。12世紀の地図では、ノヴゴロドの勢力が北ドヴィナ川まで及び、13世紀はペチョーラに及んでいる(つまり北ロシアの東半分にも)。
 コトラスからはヴィチェグダ川の左岸をしばらく走り、その支流に入り、山道をシベリア並みの悪路を行かなくてはならない。広いロシアでは、乗用車でも通れる道路は断然少ない。地方の中心地から僻地の集落まで陸路は何とかあっても、それら僻地を結ぶ道路網はないのが普通。(シベリアでは、通年通行可の陸路があるのは南部だけ)。もちろん、ここ十数年、幹線道路は整っていて、その幹線道路に連結する道路も大都市近くでは整っている。大都市の道路は全く現代的な景観だ。都市から離れるほど、当然、道路網は疎になり、消えてしまう。コトラスまで来ると、物資の輸送は鉄道が主になるのだろう。ここでR157号線は終わり、この先は地方道が北と東に延びている。北は北ドヴィナ川に沿って走り、何とかホルモゴルィ道(前記のM8とも言う、モスクワからアルハンゲリスクの大幹線道)につながる。東はヴィチェグダ川に沿ってスィクティフカルへ向かう新道、つまり未整備道。
 コトラスからスィクティフカルへ向かうと、R176道(後述)に出るまでの100キロのうち50キロほどはスピードの出せない森と山の道だった。アスファルト舗装すらない道もあり、これが、アンジェラさんの予告した悪路だった。私はこんな無人の道の方が好きだ。
 アルハンゲリスク州からコミ共和国に入ったのは午後1時。この辺からは新しいアスファルト舗装の道を行き、R176号線に合流する。連邦道R176号線は、ヴォルガ中流にあるチュワシ共和国首都チェボクサリから、そのヴォルガ対岸のマリ・エル共和国の首都ヨシュカル・オラを通り、キーロフ州の州都キーロフを通り、コミ共和国の首都スィクティフカルまでの、地方自治体の行政中心地を結ぶ南北に872キロの主要道だ。キーロフ州ではカマ川の最大支流ヴャトカ川に沿って走るので、R176は『ヴャトカ道』とも言われている。ちなみに、1934年までキーロフ市はヴャトカ市と言った。州名もその州都名からヴャトカ州といった。ヴャトカ道はコミ共和国に入って終点のスィクティフカルまでの60キロほどはスィソラ川の左岸を下る。
 スィソラ川は北ドヴィナ川の最大支流ヴィチェグダの左岸支流で487キロ、スィソラ川のヴィチェグダ川への合流点にあるのがスィクティフカル。『スィクティフ』川のロシア風発音がスィソラ。『カル』とはコミ語で町。つまり、スィクティフカルはコミ語の発音とコミ語に基づいて、名付けられた地名。1930年まで、スィクティフカルはウスチ・スィソラ(スィソラ川が合流するところ)とロシア風に呼ばれていた。ちなみに、川の方は相変わらずロシア語読みでスィソラ川と呼ばれている。
 ゥイブ大村
ゥイブ大村の教会の一つ
ジュラ紀のカルゴルト断層が見えるスィソラ川岸(上)
とその説明看板(下写真)
ダーチャの蒸し風呂小屋と
その向こうはトイレ小屋
ダーチャ玄関テラスで。セルゲイさんが日本旅行
の時、買った鯉のぼりもあった
ダーチャのペチカの上で寝てみる
 『ヴャトカ』道を数十分走ったところの道路上で、車を止める。小さな分かれ道があって、交差点に私たちを迎えに来たセルゲイさんが立っていたからだ。私たちはセルゲイさんの車と2台でゥイブ村へ向かう。ゥイブ村にセルゲイさんの別荘(ダーチャ)とテーマパーク『フィン・ウゴル民族』があるからだ。
 『フィン・ウゴル民族パーク』は2011年にゥイブ村に開園した。野外舞台、野外博物館、スポーツ広場、芸術通り、歴史村、キャンプ場、民俗展示館、売店などのある広大なテーマパークで、コミ共和国肝いりでできたようだ。「コミには、テーマパークを作れるような風光明媚な場所は多いが、交通のアクセスがいいとは言えない。一方、ゥイブ村なら、首都スィクティフカルから45キロほど南で、連邦道R176を少しはいったところにあり、交通の便がいいだけでなく、コミでも最も古い村の一つであり、スィソラ川も見渡せ、岸壁には中生代ジュラ紀の化石、魚竜や首長竜が発掘されたカルゴルト自然保護区(後述、2012年制定)もあって客寄せには最適だ」からここが選ばれたそうだ。
 テーマパークはこの日、管理人の他はほぼ無人だった。何かイヴェントか、団体客が来ない時は無人のようだ。広い面積で、昔のコミ農家が再現されている小屋に入ったり、スィソラ川を見張らせる広場を廻ったり、野外展示場を廻るだけでもそれなりに見応えがあるが、未完のようでもあった。屋内の民族展示ホールには、コミ、ハンガリー、マンシ、ウドムルトなどフィン・ウゴル語族系の民族衣装をつけた数体のマネキンがあった。マネキンの横には各民族の説明書きの掲示がある。
 この、何だか寂しいテーマパークにいたのは40分ほどだった。コミに到着して初めの観光だったが、空もどんより曇っていて、ここはあまり印象に残らなかった。観光客とイヴェントのため最近できた施設だった。

 住民500人余(20世紀初めは4000人だった)のゥイブ村はゥイブ大村(село)と言ってスィソラ川左岸の7つの丘に立つ13の村(деревня)からできている。ここに4-5世紀ごろからチュヂ族(*)が住み始めたそうだ。

  (*)チュヂ族 10-13世紀のキエフ大公国時代の史料にも言及されているフィン・ウゴル系の民族で、ロシア人からの他称。ロシアでも最も古い町の一つプスコフの近くのチュヂ湖も岸辺にチュヂ族が住んでいたから。しかし、エスト族(エストニア人の祖)は自分たちのことをチュヂとは言わない。当時のロシア人から見て異教の蛮族。北ロシアの原始林に住んでいてやや伝説的でもある。後代にはロシア人が侮蔑的に呼ぶ

 しかし、1383年、ステファン(1330年代ー1396)と言う大伝道師が、ヴェリーキィ・ウスチュクから異教徒コミ人の地に布教にやって来た。ステファンは後にペルム管区の主教となり、コミ(ペルミ)がキリスト教化したのは彼の業績によるとされ、ステファン・ペルムスキーと呼ばれるようになる。1549年聖列に加えられたくらいだ。
 ステファンはウスチュクから北ドヴィナ川を下ってコミ人のプィラスПырас(現在のコトラスともされている)まで来て布教、さらに、そこに合流してくるヴィチェグダ川に渡り、ヴィチェグダの右岸支流ヴィム川の合流点にあるィエムディン(現在のウスチ・ヴィム。ここへは2017年8月に訪れた)へ来て布教した。当時、ィエムデンにはコミ人の大聖堂があり、つまりモスクワから見て異教の中心だった。現地の首長は「モスクワから来たステファンの言う事を聞いてはならない。モスクワは我々に何をもたらすか。重い税を課しているのはモスクワではないか」と反対したが、ステファンに負けたそうだ。ステファンは異教の聖堂を破壊してコミで最初のキリスト教の教会を建てた。事実、ステファンのペルム・ヴィチェグダでの布教は、後のモスクワ公国のペルムの地の合併を容易なものにした。
 ステファンはさらにヴィチェグダ川を遡り、左岸支流スィソラ川も遡り、ゥイブ大村の丘の一つカルゴルト村の河岸段丘に上陸しようとしたが、ゥイブ大村のカルゴルト村人は石を投げて妨害した。ステファンは『不信人』のカルゴルト村を『悪村』と呼んで、村では収穫が途絶え、村人が死に絶えるようにと呪ったと言う。カルゴルトКаргортは文字どおり墓の町の意だ(今の村人は、その後の移住者だそうだ)。ロシア正教を受け入れること、つまり、モスクワ公国の勢力下・支配下に住み、税を納めることを拒んだコミ人は、北のウドール地方(後述)に移住したそうだ。
 1896年、悔いたコミ人(または元のカルゴルト人が死滅した後の他所からの移住者)はここにコミ人洗礼の栄誉として木造の教会を立てたのだとか。後に聖ペルム大司教礼拝堂となったそうだ。
 ロシア人のアンジェラは信仰心が篤く、ゥイブ村にある教会や修道院を敬虔に廻っている。歴史や由来については、説明がなかったので、後にサイトで調べたことだ。現在は寂れたこの小さな村に教会、礼拝堂、修道院が11もある。11の中には聖水の湧き出る泉のほとりに建っているものもある。その泉の水を引いて沐浴ができるようになっている礼拝堂もある。ゥイブ村は、コミ共和国のロシア正教の中心とも言われ、巡礼に訪れる人も多い。
 私は、ゥイブ村観光では、ジュラ紀の断層が現れていると言う『カルゴルト自然地形』が興味深かった。かつてのスィソラ海に生息していた古代魚や、魚竜、首長竜の化石などが発見されているそうだ。スィソラ川を見下ろす段丘に『自然地形保護区、カルゴルト』と書いた看板が立っていて、面積は7.39ヘクタール、2000年から2007年に調査し、魚竜や首長竜の背骨、中生代のギンザメ目、アンモナイト、白亜紀末絶滅のイカに似たベレムナイトなどの化石が見つかったと、絵入りの説明文もあった。

 ゥイブ大村の一つ、ザハロヴァ村にセルゲイさんの別荘がある。ザハロヴァ村は地図では無人となっている。セルゲイさんたちはここに住んでいるわけではない。ゥイブ大村は過疎化が進んでいるのだ。かなり以前にセルゲイさんは過疎地の村の家を安価で購入し、自分流に住みやすく整備したのだ。大きな暖炉があり4部屋はある家と、あずまや、蒸し風呂小屋、トイレ小屋、菜園ができるちょっとした土地つきの物件だった。アンジェラさんが花壇を作っているが、夏でも戸外は寒い。
 男性たちは戸外のバーベキュー網で肉を焼いてくれ、みんなで暖炉のある食堂で食べる。ロシア・ペチカ(暖炉)は大きく、ペチカの上は特等ベッドとなっている。その日の晩はそこで寝てみたが、夜中に蒸されすぎて、下の長椅子に移り、寝なおした。
HOME  ホーム 2015年夏旅行前半のトゥヴァ BACK 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ