クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 06 April, 2017 (追記・校正: 2017年5月8日、6月1日、11月22日、2019年1月14日,2019年12月16日、2021年11月26日)
34-2 (3)  2016年 北ウラルからペテルブルク (3)
    亜北極圏の町
           2016年8月11日から8月20日(のうちの8月16日から8月17日)

Путешествие по Коми и Петербурге 2016 года (11.8.2016−20.8.2016)

1)8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2)8月11日−8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
  8/11-8/12 スィクティフカル着 ミクニ駅から北へ(地図) 超高駆動車 ユグィド・ヴァ国立公園(地図) 水晶の道
  8/13-8/15 北ウラルのクォーツ(地図) 坑道 ツンドラ草原 亜北極圏だが 若返りの湖
  8/16-8/17 インタ市 華麗な貯水塔 市役所パーキング コミ人の古都ィエムディン 大学博物館
  8/18-8/19 ペテルブルクの双子姉妹 エルミタージュ シュメール学博士 噴水のペテルゴフ 深夜、ネヴァ川の橋
3)8月20日から9月5日 北カフカスのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
 かつての強制収容所と囚人たちのインタ市
 8月16日(火)。この日はジェランナヤ・ペンションを後にする。実は昨夕、帰りのバルバニユ川を渡してくれたトゥレコル(車名)は、私たちを迎えに来てくれたイーゴリ運転のトゥレコルだったのだ。イーゴリは私たちをインタ駅まで送り届けるために、前日のうちにジェランナヤまで来てくれた。
 朝8時前にジェランナヤを出て、昼の12時にインタ駅前に到着した。4日前も逆方向に通った120キロ(140キロかもしれない)の休憩を入れた4時間半のこの道のりは、ペンション滞在の4日間と同じくらい興味深い。できることならトゥレコルの運転手になって、ツンドラ草原や沼地や灌木の道を毎日のように往復したいものだ。
 帰りの列車は16時21分発だ。わざわざインタ市で時間を過ごせるようにと早朝に出発したのだ。(イーゴリの都合もあった)。インタ市は北緯66.02度で、66.33度以北の北極圏まで直線では60キロという極寒の町だ。ロシアの極北にある町は先住民の遊牧基地が大きくなったか、先住民とロシア商人やコサックとの毛皮取引所からできたのでなければ、すべてスターリン時代の地下資源産地に囚人労働でできたと言える。(1953年のスターリン死後にできた新開発の産地は囚人労働の分は少ないかも)
 前記のように、列車の出発時間よりかなり早く着いたのは、数時間のインタ市見物をしようとみんなで決めていたからでもある。4人ともインタ市は初めてだ。インタ市はインタ駅より北に12キロも行ったところにあり、トゥレコルはそこまではサーヴィスしてくれない(市内を走行するような車でもない)。
 堂々たるインタ駅。
石炭採掘のため第2次大戦中にできた

 イーゴリ運転のトゥレコルは駅前の広場(駐車場)に私たちと荷物を下すと去っていった。荷物は駅の一時荷物預かり所に預け、駅の食堂でランチにし、駅員さんに町への行き方を聞いて、私たちは駅前のバス停からバスに乗った。
 ガリーナさんの知り合いがインタ市に住んでいるという。連絡を取り、町の広場で待ち合わす。
 どの町の広場にも必ずある第2次大戦の戦没者記念碑とレーニン像の見えるベンチに座って待つ。レーニン像のあるのは市役所前広場と決まっている。インタ市は現在人口が27,000人、1996年から減り続けている。ソ連邦崩壊直後の1992年にはまだ60,700人もいた。
 インタ区とは、ロシア連邦内の主体(共和国、地方、州など)のコミ共和国の下の行政単位が『区』でインタ市がその行政中心地。同区はその他、上インタ町やアベジ町などを含む。全体でも29,000人の人口しかなくて、2002年はまだ46,000人いたが、減り続けている。
 インタ区は、昔は先住民のネネツ人や、ネネツ人に影響を受けたコミ人のコミ・イジマ人(サブ・エトノス)などのトナカイ遊牧地だったが、石炭の産出地として戦中に発展した。ペチョーラ炭田の一部であるインタ炭田は、20世紀初めに発見されている。インタ市は1940年代から炭田の調査や開発基地として、ウス川左岸支流系のボリショイ・インタ川(1809キロのペチョーラ川の左岸支流がウス川。その延長565キロのウス川の左岸支流がコシユ川。その延長259キロのコシュ川の右岸支流がボリショイ・インタ川。その105キロのボリショイ・インタ川)の左岸にできた集落だ。インタというのはネネツ語で豊富な水・湿地という意味。つまり川の流れは上流からペチョーラ川(1809キロ)→左岸支流のウス川(565キロ)→左岸支流コシュ川(259キロ)→右岸支流ボリショイ・インタ川(105キロ)となる。
 インタ特別収容所(ミネラル・キャンプ場という暗号名)は1948年にできた政治犯収容が主な監獄で、1952年には34,500人の囚人がいた(うち、957人は外国人)。インタ・コンビナートや炭坑、新炭坑建設、道路建設、建設機材工場、森林伐採などに従事させられていた。
 特別収容所とは『祖国への裏切り』罪、つまり、スパイ、テロや、トロツキスト、右派、メンシェヴィッキ、エスエル、アナーキスト、民族主義者、白系亡命者、反ソ連組織参加者などの『特別コンチンゲントособые контингенты(コンチンゲントの元々の意味は要員・割り当て)』たちを収容する厳重な収容所のことだそうだ。つまり、刑法で裁かれた『一般コンチンゲントобщие контингенты』(つまり刑事犯)とは異なる。1948年のソ連に特別収容所が、まず5カ所できた。ミネラル・キャンプ場という暗号名のインタはそのうちの第1番目で、第2は「ゴルヌィ(山、つまり鉱山業の)・キャンプ場」という暗号名でノリリスクにできている、その後第12までもできた。第6はインタより北のヴォルクタに、第7はイルクーツクなどに。
 華麗な貯水塔
ウィキペデアから、貯水塔
インタ市の紋章
 インタ市の一番の名所は貯水塔だという。貯水塔なんかが名所になるのだろうか。後でわかったことだが、これはヨーロッパのお城にある塔のように華麗な、しかし頂上にはソ連の赤い星があると言う、貯水塔などとは思えない見事な外観の建築物だ。1950年代半ばにスウェーデン人の政治犯が設計したという。現在は収容所政治犯犠牲者の博物館となっているそうだ。実はこの貯水塔は私達が待ち合わせをしていた広場のすぐ近くにあった。ガリーナさんの知り合いが現れて、どこを案内しましょうかと言われたが、だれも貯水塔とは言わなかった。なんとなく郷土博物館ということになり、インタ市のメイン通りのナナカマドの赤い実を見ながら、15分ほど歩いて到着した。1942年に基礎ができて、1954年にはもう市に昇格したというインタ市は、道幅は広いが人通りは多くない。人口減で、両脇のアパートも空き部屋が多いに違いない。
 セルゲイさんは、博物館が好きではない。私たち4人(ガリーナさんの知り合いも)は見物したが、彼は街を歩き回っていた。どこの郷土博物館でもそうであるように展示物(実物とは限らない)は石器時代から現代まであって、第2次世界大戦(大祖国戦争という)でファシズムと戦い勝利したことが強調されていた。収容所に入れられた著名な人物の写真もあったし、炭坑の展示物もあった。
 ちなみに、インタ市の旗(紋章)には貯水塔とトナカイ、鉱山らしい黒い山とオーロラが描かれている。ロシアでは大概の自治体が自分たちの土地を象徴するような紋章を持っていて、中には「これでもかっ」というしつこいのもあるが、インタ市の紋章は美しい。

 3時過ぎには博物館を出て、タクシーでインタ駅まで戻る。市と駅の間の12キロには黒い煙を出す工場と荒野しかない。
 時間表通りに列車は出発して、特別収容所の囚人たちの建設した鉄道を南下する。ちなみに、インタ駅より数10キロ北の、現在はアベジ町(ウス川岸)にも、1932年から1959年まで収容所があった。そのうち1948年からは、インタに本部のある特別収容所の支部となり、多くの著名の文化人が『人民の敵』罪で収容され、労働させられたそうだ。その中には作曲家プロコフィエフの妻のスペイン人ソプラノ歌手リナ・プロコフィエヴァ Лина Ивановна Прокофьева(1897−1989)もいた。
 また、旧石器時代末の約37,500年前の人類の遺跡 Мамонтова Курья(ウス川岸)が発見されている。これは今のところ、最も北にある中で最も古い遺跡だ(2001年発見のサハ共和国のヤナ川の遺跡は北緯71度と、もっと北だが32,500年前とやや新しい)。
 ミクニ市役場のパーキング
 8月17日(水)。6日前出発したミクニ駅には5時11分に到着。セルゲイさんが、6日前に車を駐車させた場所へ行ったが、なかなか戻ってこない。安心して止められるところは、守衛のいる市役所のようなところなので、頼んで(有料で)止めさせてもらったはずだ。駅からは少し離れてはいるが。その守衛が駐車場の門を開けてくれないのか。30分以上待っても車もセルゲイさんも戻ってこないので、「私の出る番ね」とガリーナさんも、その市役所の駐車場に向かう。
ミクニ駅着

 やがて、車とセルゲイさんとガリーナさんが戻って来た。教えてもらったことだが、守衛は早朝にもかかわらず起きたが、自分には駐車場の門の鍵がないと言ったそうだ。鍵は上役が持っているが、こんな早朝にその上役に電話して鍵を持ってきてもらうわけにはいかない、と言う。市役所の開く9時まで待てと。新たにセルゲイさんの応援に来たガリーナさんが、そのカギを持っている上役に電話するように言っても、守衛はできないという。それなら、首都スィクティフカルの役所に電話して開けてもらう、と言ったそうだ。ガリーナさんは元文化相だったから早朝でも電話できる現役関係者は多いというわけだ。門番は、ガリーナさんの態度を見て納得。そのカギを持っている上役さんは、守衛から連絡を受けて時間外でも来た方が、コミ共和国の首都の文化省とかから電話を受けるよりいいだろう、と判断したか。ガリーナさんのおかげで、どこでも縁故社会のここでも門の鍵は持ってこられたということだ。
 公共の機関が、特に田舎では(有料で)安全な駐車場となっている例は多い。駐車場はふつう24時間車の出し入れができるものだ。もし、そこがそうでないなら前もって教えてくれればよかったのだ。
 6時半には私たちは、ミクニ駅からスィクティフカルへの快適な舗装道を走っていた。ミクニから15分も行ったところでヴィミ川を渡る。ヴィミ川は、北から500キロ流れてきてヴィチェグダ川に注ぐ。(地図は前年のコミ紀行)
 コミ人の古都ウスチ・ヴィミ
 ヴィミ川は、コミ共和国の20の地方自治体のうちでも最も面積が広くもっとも人口の少ないウスチ・ツィリム区との境から500キロも流れてくる。北の上流は沼地だが、中流には石器時代や、スキタイのペルム版動物意匠の見られる青銅器などが発掘される有名な遺跡も多い。下流にのみ、現在は集落がある。最も下流のヴィチェグダ川に合流するところにあるのがウスチ・ヴィミ村だ。ここは、中世コミ人のペルミ・ヴィチェグダ国の中心だった。モスクワ公国に滅ぼされるまでは北東の大勢力だったノヴゴロド公国(共和国)に貢納はしていたが、主権国家だったと言えるらしい。ここに、14世紀ごろまでイェムディン(ィエムディン)≪Йемдын≫(*)というコミ・ジリャーン人の大寺院が立っていた。コミ人の固有の宗教だったから、モスクワのキリスト教から見ると異教だった。だから、ベリーキー・ウスチュクからきたステファンの布教団は、イェムディンにあった異教の神殿を燃やして、コミで最初のロシア正教のミハイロ・アルハンゲリ修道院を建てた。14世紀末(形式的には)から200年間は、ィエムディン(ロシア語ではウスチ・ヴィミ)はロシア正教のペルム主教座の町、つまりペルム(コミ・ジリャーン人)の宗教と行政の中心だった。モスクワ公国がペルムに勢力を伸ばせたのも、つまり、現在の東北ロシアをモスクワ公国の領土にできたのも、この主教座による。ロシア正教に改宗したくなかった(つまり、モスクワ公国の勢力下にはいりたくなかった)コミ人は北のウードル地方などに移住した。モスクワ公国がウラル東を征服すると、ウスチ・ヴィミの重要性は薄れ、主教座も西のヴォッチナに移ったそうだ。
(*)ィエムディン ロシア語の地図ではウスチ・ヴィミ村だが、今でもコミ語の地図ではエムヂンとなっている。
2015年コミ紀行文の(3)の4を参照
 
 その、もっとも古いペルム人(コミ・ジリャーン)のかつての中心村ウスチ・ヴィミを見てみたいものだ。当時のものは何も残っていないにしても。信心深いセルゲイさんやアンジェラさんは伝道師聖ステファンが創立したというミハイロ・アルハンゲリ修道院ぐらいは訪れることに賛成してくれるだろう。ミハイロ・アルハンゲリ修道院には、15世紀初めコミ語で教える学校もあり、コミ語の宗教者を育成していた。当時文字がなかったコミ語の文字をステファンが考案したくらいだ。彼は、9世紀スラブに伝道に来てまだ文字のなかったスラブ人たちにグラゴル文字(キリル文字の祖、ロシア文字もキリル文字の一つ)を作ったキリル(キュリロス)とメフォディ(メトディオス)に倣ったのだろう。この修道院でコミ文字でコミ年代記も作られた。グラゴル文字(のちにはキリル文字にとってかわられたが)は普及したがコミ文字は普及することなく、コミ語はロシア文字(キリル文字)で表すようになった。
 コミは、14世紀はノブゴロド国とモスクワ公国の争奪の地だったが、モスクワ公国が北部ロシアのヘゲモニーを握った15世紀にはコミのロシア正教化(モスクワ公国化)は進み、ウスチ・ヴィミの重要性は薄れた。17−19世紀はウスチ・ヴィミはそれでもかつての礼拝堂や教会は建っていたがさびれていった。木造の教会は一度ならず焼失した。ミハイロ・アルハンゲリ修道院は18世紀エカチェリーナ2世時代に閉鎖。20世紀ソ連時代30年代には他のソ連領内同様ウスチ・ヴィミに残っていた教会群は、閉鎖、破壊されるか転用された(強制収容所職員の食堂など)。その後は放置され廃墟になったが、1980年代になって修復され、1996年スィクティフカルの大主教によって復活されたという。ミハイロ・アンゲリ修道院の入り口には「1980年は創立600年」と言う標識が出ていた。
ミハイロ・アルハンゲリ修道院

 敷地内に入っていくと黒い法衣の修道女さんが数人、日向のベンチに座って小さな本を広げていた。祈祷書のような本だろうか。一応、その一人に敷地内を見せてほしいのだと断る。修道女さんのうち小柄な人が、「どこから来たのですか」と尋ねる。その時はガリーナさんと私がいたので、スィクティフカルからと日本からですと答える。まあ、日本、と驚いて、彼女はちょっと待ってください、今鍵を持ってきますからと、修道女詰所のような小さな建物に入る。
 その修道女さんは1時間近くも案内してくれた。鍵を開けて教会内も見せてくれた。この男子修道院には私たちが見た限りでは、修道士さんはいなかった。女子修道士さんは入り口近くの建物に住んで雑用など行っているのか。高台に建つとヴィミ川を見下ろせる。建物はすべて新しくロシアのほかの場所にある正教の教会と外見も内部も変わりない。
 案内してくれた修道女さんから、また機会を作って訪れてくださいと言われる。彼女はコミ人かと思ったが、グルジアから来たウクライナ人だそうだ。
 コミ大学博物館
 7時半過ぎにはヴィミ川を渡り、8時近くにはヴィチェグダ川を渡って、9時前にはセルゲイさんたちの家に帰る。
 コミのことはエレオノラがよく知っていると言っていたガリーナさんが、そのエレオノラさんに紹介してくれるからと時間を決めてくれた。午後2時だったが、その前に近くの公園で、去年の『日本人のシューゲル川紀行』の記事を書いた国営機関紙『コミ共和国誌』の記者のアルトゥールに会う。『シューゲル川紀行』を書いた後、アルトゥールは、ネットで私に日本についてインタビューもしてきた。彼はイジマ村出身なので、次回はそこへ行こうと言っていたものだ。だが、セルゲイさんの予定変更でジェランナヤになった。ネットでだけの知り合いだったが、実際にあってみることにしたのだ。ジェランナヤ紀行は機関誌に彼の記事は出なかった。写真もなかったからだ。…

 エレオノラさんと言うのはコミ大学の歴史学博士のエレオノラ・サヴェリエラ Севельева А.Элеонораで、今は休暇中だった。が、ガリーナさんの依頼で、大学博物館で私と会って博物館の説明に1時間以上も時間を割いてくれた。大学博物館の展示は、市の郷土博物館の歴史分館よりはるかに充実している。それは当然のことだ。大学博物館の方には、児童生徒用の愛国教育の視聴覚教材としての大祖国戦争のホールなんてない。この大学の考古学博物館は、旧石器から中世終わりころまでの展示がある。
 一通りの説明が終わると、博士執筆の『アトラス』と言う図がたくさん載った厚い本を見せてもらった。新石器時代住居跡の地図など、博物館にあったものと同じだ。つまり、博物館を作った人とこの本の編集者は同じなのだ(エレオノラさん)。2001年刊のものだが、こんなわかりやすい本があったとは知らなかった。去年購入した『コミの歴史』2巻本は地図もなく、とても分かりづらく、読んでもコミの歴史がわからない。『アトラス』の方はもう売っていないから、コピーする。1ページずつ写真を撮っていく。25ページほど写せた。横で見ていたガリーナさんに「全部はやらないでしょうね」と言われたので、これくらいで止めたのだ。(後記:翌年2017年にもコミへ行ったがその時はガリーナさん所蔵のこの本を無理を言ってもらってしまった)
 休暇なのに大学に出てきて、規則違反して博物館を開け、私一人のために説明をしてくれエレオノラさんに念入りにお礼を言って、大学を出たのが、3時40分ぐらいだった。外ではセルゲイさんが待っていてくれ、市の中央にある14世紀末のロシア正教伝道師・聖ステファンが考案したペルム文字広場に案内してくれる。そこにはロシア文字とペルム文字でスィクティフカルと書いてある。
ロシア文字とペルム文字のスィクティフカル
カーチャの同級生とカーチャ
 コミ語をロシア文字で表すと(今では地名が主だが)、子音が並んで発音しにくく、読みづらいが、ペルム文字なら簡潔に表せる。

 その後、ガリーナさんとたまにメールで文通している。「エレオノラさんによろしく」と書いた。10月にはエレオノラさんは忙しくなったそうだ。なぜなら、1970年代、若かった彼女がヴィミ川中流のヴェスリャン Весляна住居跡で発見したペルム動物意匠の銀製リトン ритонは、当時の常としてエルミタージュに運ばれ、保管されていたのだが、発見地のコミに戻され、郷土博物館や大学博物館に展示されることになったからだ(コミの博物館では写真が展示されるだけだった)。ペルム動物意匠はスキタイの動物意匠に影響を受けたと言われていて、紀元前7世紀から紀元12世紀の、西シベリアからウラル中部にかけての森林地帯や森林ツンドラ地帯の遺跡から発見されている。(遊牧のスキタイはユーラシア草原地帯のみで活躍。草原地帯の北には森林地帯(針葉樹林)とその北はツンドラ凍土地帯が続いている)。あとで、前記のアルトゥール記者のインターネット記事で読んだのだが、ヴェスリャン遺跡などのあるヴィミ中流や、コミ中央のウフタやペチョーラ川上流の遺跡(地下の「財宝」と呼ばれている)などからの発掘物36点が展示されるそうだ。
 「財宝」と名がつくのは、遺跡としては、古墳、住居跡(石器や、食料にした動物の骨などとともに)、集落跡など多くあるが、価値のある遺跡には「клад 埋蔵財宝」という通称がつくからだ。
 コミにはスキタイ時代ばかりでなく、旧石器時代からの遺跡が多い。古さと北限ではコミはサハ・ヤクーチアに勝っているそうだ。

 サンクト・ペテルブルクに住んでいるセルゲイさんたちの娘カーチャが、1週間ほどの予定で、就職前の休暇を利用して帰ってくるというので、セルゲイさんは駅まで迎えに行く。私も同行。駅と言うのは何度見ても興味深いではないか。
 サンクト・ペテルブルクからスィクティフカルへはミクニ駅で別の機関車(支線専用の)に連結される。サンクト・ペテルブルクを10時20分に立つとミクニ駅での2時間近くの連結待ち時間を合わせて、1日と7時間27分後の翌日17時47分にスィクティフカルに到着する。(これがモスクワからだと、直通で連結しないので1日と50分の乗車時間になる)。
 列車から降りてきたカーチャは、乗車が長くて疲れたと言っていた。7時ごろ、アンジェラさんがご馳走を作って、隣人のラリサさんとカーチャの友達も呼んだ。カーチャも美人だが、その友達は目も覚めるような美人だった。抜けるような白い肌で目鼻立ちがはっきりしている。カーチャの同級生で、今度中国の会社に就職するそうだ。カーチャはサンクト・ペテルブルクの会社に就職が内定。
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