クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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34-1 (1)    2016年 トゥヴァ(トゥバ)からペテルブルク (1)
    トゥヴァ古墳発掘調査キャンプ場へ
           2016年8月2日から8月10日(のうちの8月2日から8月3日)

Путешествие по Тыве 2016 года (2.8.2016−10.8.2016)

1)8月2日から8月10日  トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
  8/2-8/3 ハバロフスク経由(地図) クラスノヤルスク クラスノヤルスクからトゥヴァ(地図) 考古学キャンプ場
  8/4-8/6 匈奴のカティルィク遺跡 スグルク・ヘムの岩画 陰のない半砂漠草原で 救助される
  8/7-8/10 巨大古墳チンゲ・テイ遺跡 ダム湖から現れた遺跡 トゥヴァからクラスノヤルスク サンクト・ペテルブルク
2)8月11日から8月20日  コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3)8月20日から9月6日   北カフカスのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
 前年の2015年夏の旅行では、ロシア連邦のコミ共和国へ行き、コミ人の多く住むウードル地方とヨーロッパ最大の原生林を含む国立公園『ユグィド・ヴァ』の北ウラル山麓を訪れたのだが、もう一度行きたいと思った。北部のイジマ川のイジマ・コミ人の地方も訪れたい。また、北オセチア・アラニア共和国出身のアレクサンドル・ウルイマゴフさんが秋のカフカスは素晴らしいと言って誘ってくれている。彼とは、2013年トゥヴァの古墳発掘で知り合ったのだ。コミも北オセチア・アラニアも、ヨーロッパ・ロシアと呼ばれるウラル山脈の向こうで(日本から見ると)、おまけにロシア連邦の北と南で方向が逆。もちろん、直通便もないが、サンクト・ペテルブルクを中継点にして訪れることにした。その後、これまで毎夏のように行っているトゥヴァの考古学キャンプからも、ぜひ今年も来てくださいと招待されたので、南シベリアにも足を延ばすことにして、
 8月2日(火)成田からハバロフスク着、その日のうちにクラスノヤルスク(こんな便があって喜んだ)
 8月3日(水)クラスノヤルスクから車でトゥヴァへ。
 8月9日(火)クラスノヤルスクに戻る
 8月10日(水)クラスノヤルスクからサンクト・ペテルブルク着、その日にコミのスィクティフカルへ
 8月18日(木)スィクティフカルからサンクト・ペテルブルク
 8月20日(土)サンクト・ペテルブルクから北オセチアのウラジカフカス
 9月3日(土)ウラジカフカスからサンクト・ペテルブルク
 9月5日(月)サンクト・ペテルブルクからモスクワ、その日にモスクワ発
 9月6日(火)成田着
トゥヴァは南シベリア(モンゴルの北西)、コミはウラル山脈北西、ウラジカフカスはコーカサス(カフカス)山脈北麓にある

 という5週間の予定を組んで、いつもの旅行会社にビザ代行とチケットの予約を頼んだ。ビザは数年前から在新潟ロシア領事館が郵送を受け付けなくなった以上、手数料を出して旅行会社に頼んだ方が領事館に持参するより安い。チケット代はネットで買うより、その旅行会社の格安航空券のほうが、数年前調べた限りでは、安かった。しかし、今、調べてみると、例えば、モスクワの旅行会社のネットで購入すると、サンクト・ペテルブルクからウラジカフカスのUTエアー社のチケットが、20%以上安い。が、ロシア語のネットでeチケットを、カード決済で購入することはためらわれた。搭乗手続きをしようとして「これは有効なチケットではありません」などと言われたら困るではないか(そんなことはないだろうが、しかし…)
 やはり、チケットは一応日本の旅行会社から、1枚(同一航空会社での往復や乗り継ぎは1枚とされる)につき4000円の手数料を払って購入することにした。それでも、サンクト・ペテルブルクからスィクティフカルの往復チケットだけはネットで購入することにした。万一、スィクティフカルへ行けなくてもサンクト・ペテルブルクに1週間余計に滞在するだけでいいから。
 それはアエロフロート航空のチケットで、OZENという旅行社で買うとロシアの18%消費税と手数料428ルーブルを含んで9928ルーブルだった(*)。カード引き去りの銀行ルートで決算すると16,602円だった。(ロシア中央銀行などの為替ルートではそのとき9928ルーブルは15950円だったので、この場合の銀行手数料は652円に過ぎない。ロシアのOZON旅行社の手数料も428ルーブル=715円に過ぎない。これからは、よく比較して買おう。
(*)実はわずかに安い旅行会社tutu.ruもあったが、そこは日本発行のカードは受け付けなかった。それで、ozon社の予約場面を開いたのだが、日付を間違えて注文してしまった。予約確認のページというのもなく、すぐeチケットが送られてきてしまったのだ。どうしたら「間違えたので取り直します」と伝えられるだろう。会社のサイトにはモスクワの連絡先しかない。このときモスクワ時間ではまだ昼間だったので、電話をかけてみる。親切な声の青年が予約を無料でキャンセルしてくれて、「これからはよく注意して入力するように」という挨拶までしてくれた。一息入れてから、よく注意して入力し、無事取り直すことができた、と言うハラハラしたおまけ付き。

 サンクト・ペテルブルクからスィクティフカル往復便以外の、日本の旅行社から購入したチケット5枚の(手数料など込みの)代金は179,500円で、ビザ代行手数料が5,400円。合計すると196,162円だった。
 ロシア国内旅費用に、前回のルーブルの残りなどが26000ルーブル(約4110円)と、クラスノヤルスクでディーマさんからロシア中央銀行のレートで両替してもらった31500ルーブル(5万円)、それに出発前に買ったお土産が1万5千から2万円。最後にはプレゼントがなくなったので2週間近くも滞在させてもらった家族の娘さんにと50ユーロと50ドルを贈呈したので、全出費の合計約32万で、成田発で成田着の5週間の旅行ができたことになる(毎年旅費が高騰する)。
 しかし、最後の日に、6500ルーブル(10500円)余ったのでサンクト・ペテルブルクで日本へのお土産を買う。またウラジカフカスでオセチアに関する本やカフカスの地図など2760ルーブル(約4400円)の買い物。これらは旅行に必要な経費でないので全出費32万円から引いて、旅費合計は約31万5千円。
 また、成田までの新幹線往復代と自宅から駅までのタクシー代の4万円弱(国内は高いな)を合わせると、約35万5千円ということになる。(つまり、各地のホームスティ先へのお土産料は含むが、自分へのお土産は含まない)
 成田からハバロフスク経由クラスノヤルスク
 8月2日(火)の成田発のs7航空便は14時25分発で、ハバロフスク着18時15分(時差は日本より1時間プラス)で、ハバロフスクでは2時間20分後の20時35分発のクラスノヤルスク行きの便に乗らなくてはならない。入国審査を合わせても、乗り換えに最低1時間半あれば間に合うことになっているが、それは素早く行動した場合だと思った。できるだけ早く機内から出てこられるような座席をとるために、早めに成田に着く(搭乗窓口で座席をとらなくても、ネットで前日とれることは後から知った)。搭乗カウンターで、乗り換えに時間が少ないので荷物は早めに出てくるように頼んでみた。出発は定刻なので、時刻に遅れずゲートに行くようにと言われたものだ。
 しかし、機内に全員が乗り込んで、いくら待ってもs7便はその場を動かなかった。離陸したのは15時50分だった。これでは、乗り換えに間に合わない。1日で日本からクラスノヤルスクまで行けると思ったのは無理だった。6月に同じコースを利用した知り合いは、間に合ったとは言っていたが、ダイヤ通りに飛ばなかったら危ないとも言っていた。
 30分で、国際便から入国審査を通って国内便に乗り換えるのは絶対に不可能だから、ハバロフスクで1泊し次の日の便をとろう、どこか、ビジネス便でも空いていればこの際やむを得ない。こんなことがあるから、はじめからウラジヴォストックで1泊して丸々24時間後とかに着いたほうが良かった。そのほうが、かえって安かった。1日分旅行が増えても減っても、間に合わないよりはいい、と機内でつくづく後悔していた。
 隣のシートに座っていたロシア人に、空港近くのホテルは知らないか聞いてみた。確か、数年前にはなかった。最近できたかもしれないと思ったが、やはりないといわれた。というより、彼女はブラゴヴェーシェンスクから来ていて、ハバロフスクのことはよく知らないそうだ。ブラゴヴェーシェンスクまでは鉄道で帰るが、空港まで母親が迎えてくれているそうだ。その母ならホテルのことは知っているかもしれない。彼女はよく来るから、とのこと。
 自力でホテルを見つけ、次の便のチケットを買うほかなさそうだ。うまくいくかどうかはわからないが、と覚悟を決めたものだ。
 しかし、遅れて出発した飛行機はなんだか速度を上げているようにも思われた。スチュワーデスさんに聞いてみると、「大丈夫よ」というなんとなく軽々しい返事。だが、もしかしたら、と思う。
 19時5分に着陸する(50分の延着)。できるだけ素早く行動したが、パスポート審査窓口には、すでに数人の順番待ち。私の前に並んでいたロシア人グループに頼んで順番抜かしをさせてもらう。ロシアでは入国審査に、自国人でも外国人でもどうしてこんなに審査に時間がかかるのだろうか。パソコンの速度が遅いのだろうか。
 荷物が出てくるターン・テーブルの前に走ったが、まだ動いてもいない。動き始めると、2周目ぐらいに自分のスーツケースが出てきた。「あ、これだわ」というと、重いスーツケースを持ち上げてくれたロシア人男性がいた。ありがとう。これからがたいへんだ、この国際ターミナルから国内ターミナルまで走らなければならない。舗装されていないでこぼこの道を、重いスーツケース2個を引きずってだ。多少いい道は建物に沿って続いているがそれでは遠回りになる。
 日本の旅行会社のサイトではこの距離は10−15分と書いてある。500メートルくらいだろうから、普通に歩けば5分もかからないで行けるが、今の私には無理だ。私は国内ターミナルの、まさに入り口に向かっているのだろうか。ずれたところに向かっていると大変だ。1秒でも早く着きたいのだから。途中で若いアベックに確かめてみる。
 そのアベックの若い男性が穴ぼこだらけの道をよろけながらスーツケースを転がそうとしている私を見かねて、追いついてきて持ってくれた。
「8時35分なの。間に合うかしら」といっしょに走りながら聞いてみた。
「搭乗手続きが8時35分までかい?」
「いいえ、離陸が8時35分よ」。彼は時計をちらりと見て黙っていた。もう8時を回っていた。が、それでも一生懸命走ってくれて、国内ターミナルの入り口まで着いた。中はなんだか人気がなく、本当にここがターミナル入り口かと思った。
「でも、ほら、『国内ターミナル』と書いてある」と青年が言う。ロシアでは空港の中に入るには持ち物検査がある。先ほどの青年はスーツケースをレントゲン台に乗せると、
「この先は自分で行けるね」と言って去っていった。
 自分の相手の女の子を待たせてまで、私と一緒に重いスーツケースを持って走ってくれた親切な青年に、懇ろにお礼さえいう時間がなかった。というのも、空港入り口検査のレントゲンを見ていた職員の女性が、
「開けてください」と言ったからだ。何が問題なのだ?
「乗り遅れるわ、乗り遅れるわ」と言いながら、スーツケースを開ける。職員は私にレントゲンの画像を見せて
「ほらこの丸いもの」という。それは蚊取り線香の携帯ケースだ。
「これですか。ほら、蚊除けです。ああ、アエロフロートのクラスノヤルスク行きに乗り遅れそうです」。
「アエロフロートはあそこよ、まだ大丈夫かもよ」。
 誰もいないホールを横切って、唯一ランプのついていた窓口に走る。そこはアエロフロート窓口だが『イルクーツク』と書いてあり、前に1人だけ男性乗客がいた。
「クラスノヤルスク。前の飛行機が遅れたの」と、その乗客を無視して飛び込んだ。順番抜かしをされた男性乗客は何も言わず、私の重いスーツケースを秤付きのコンベア台に乗せてくれ、職員の女性は私のパスポートを見て電話をかけて、素早く搭乗券を渡してくれた。
 ハバロフスクからクラスノヤルスクへ
 間に合ったのは先ほどの青年が運んでくれたからだ。入国審査で順番抜かしをさせてくれたロシア人グループのおかげだ。今まで、「そんなにたびたびロシアに行くなんて、よっぽどロシアとロシア人が好きなのでしょう」と言われて、「ロシアは、本当はあまり好きではない」などと生意気なことを日本では言っていたが、これからは言わないことにする。
 成田のタックス・フリー・ショップで私は清酒の小瓶を買っていて、ハバロフスクでそれをスーツケースに入れるつもりだった。液体を機内持ち込みにするのは面倒だ。しかし、もちろん、その暇もなかったので、搭乗口の検査では、透明なケースに入れた3本を手持ちして、身体検査の職員に見せてパスした。そのほかに手持ちバッグに化粧水など持っていたが、ロシアでは最近、液体物検査が厳しくないらしく、この時ばかりか、いつでもパスした(飲み残しのペットボトルも、まだ開けてないペットボトルもパスする)。
 搭乗待合室も人が少なかった。私が入っていくと「クラスノヤルスク出発」とアナウンスがあって、数人でバスに乗って、タラップまで行き、乗り込むとすぐ「搭乗終了посадка кончина」と聞こえた。時計を見ると20時10分だった。驚いたことに、s7便と違いアエロフロート便は20時35分きっかりには、すでに1メートルほどは地面から浮いていた。正確に飛ぶ場合もあるが、飛行機は、2時間くらいは遅れることがあるもので、余裕をもって決めなくてはならないということだ。
 ハバロフスクからクラスノヤルスクまでの4時間半は長かった。初めの1時間くらいは間に合った喜びに包まれていたが、やはり『19E』という3人掛けで真ん中の席で4時間半は長すぎるなどと、罰当たりなことを考えていた。
 クラスノヤルスクにはもちろん定刻の22時05分に着いて、出てみると、パーシャの姿があった。ディーマさん(社長)のメールでは、彼は中国に旅行するから出迎えにはいけないが、代わりの人が行くということだった。パーシャ(社員)は、この日も含めて8日間の私の運転手をしてくれることになっているので、彼が妻のナージャと出迎えてくれたのだろう。私がクラスノヤルスクからトゥヴァへ行って帰ってくるまで、パーシャの出張代や燃料代を含めて、ディーマさんの会社がすべて支払ってくれることになっている。(彼や彼の会社のスタッフが日本に来たときは、私が必要に応じて通訳や連絡係になる)
 トヨタ・ハイラックス・ピックアップの古いが、一応馬力のありそうな車だった。道路の特に悪いトゥヴァへ行くため、ディーマがこの車をパーシャに貸したのだろう。
ホテルの窓からエニセイ川にかかる橋が見える

 予約してくれたホテルは『アグニ・エニセヤ(エニセイの燈)』で、普通のシングル・ルーム。トイレとシャワーがあればそれで十分だ。(2013年にも泊まった。)湯沸ポットはなく、廊下にあるヴォーター・サーバーからお湯を汲んでこなければならないのが不便だが、窓はエニセイ川に向いていて、懐かしい眺めだ。今は、改築して、たぶん1泊2500ルーブルくらいで、それはディーマさんの会社が支払ってくれた。この場所にこの名で、昔は廊下の端に共同のトイレとシャワーがあるようなソ連時代の大衆ホテルがあったが、数年前にはシティ・ホテル風に改築され、市の中心にあって、安くて便利になった。が、WFが通じにくい。一応、設置してあるそうだが、パスワードを入れてもめったに通じない。おまけに、私のロシア携帯電話も、まったく通じなかった。(この携帯のシムカードはディーマさんの会社が管理しているものだ。後日ディーマさんから、セットアップの時機を逸したので番号が無効になってしまったこと、だから、使い続けるために新番号にした、という事情を利かされた。使えるようになったのは再びクラスノヤルスクに戻った8月9日からだ)
 それで、アイフォンのモバイルデータ通信を入れてローミングしたので、それだけで4000円ぐらいは、余計にかかったと思う。(帰国後、請求書を見ると20日締めの8月分は7000円、9月は5000円がいつもより余計に請求されていた。これは国際ショート・メールを使ったせいだ。)
 クラスノヤルスクからトゥヴァ
 8月3日(水)。この日のうちに800キロ南のトゥヴァ共和国のクィズィール市まで行くので、早朝6時出発の予定だ。途中、山越えもあるが12時間程度でたどり着けると、パーシャは言う(だから、私が5時出発といったのに、6時になった。ここはパーシャに譲っておいた)。今までは、クラスノヤルスクからクィズィールへ行くときは、途中のチェルノゴルスクで1泊していたが、それはこの連邦道54号線を南下する途中に、寄りたい所(クルタック石器時代遺跡、アバカン博物館、タンジベイ村など)があったからで、今回はできるだけ早く、日の暮れないうちに行き着きたい。
 というのは、私を招待してくれた 『クラギノ・クィズィール鉄道建設予定地』考古学調査隊の指揮者キルノフスカヤさんが、4日からモンゴルとの国境に調査に出かけてしまうからだ。私の旅行日程はかなり前から決まっていて、彼女に知らせてあり、「お待ちしています」というメールが何回か来ていたが、7月後半になって、8月4日からのモンゴル国境の調査が急にモンゴル側の都合で決まったという。会えないかもしれない。申し訳ないというメールが来ていた。彼女はいないが、ナターリア・ラザレフスカヤさんが私の案内をする、とあった。しかし、できたら、4日の出発前に会っておきたい。
 調査隊のキャンプ場は、クィズィール市近くのエールベック川岸だと聞いていた。前年とほぼ同じ場所で、やや上流だそうだ。前年の場所も実は行き方があまりわからないのだが、パーシャの運転で私がナビをして、まだ明るいうちならたどり着けると思っていた。だが、キルノフスカヤさんからのメールには、クィズィールまで迎えの車をよこすから、時間と場所を教えてほしいとある。迎えに来てくれるのは、調査隊の経理を担っているアレクセイ・カラムィシェフ Алексей Карамышевさんで、電話番号も教えてもらった。
 考古学キャンプ場へ行くなら、クィズィール市に入らないほうがいい。市の7キロほど手前のセセルリク Сесерлик村への分かれ道のロータリーの駐車場で待っていてもらうようショート・メールを出しておいた。そこには何か家畜の母子の像があったので、場所を間違えないよう羊の像(アレクセイさんは赤鹿の母子と訂正してくれた、そういえば、何年か前に見た像を思い出してみると、丸々していなくて、ほっそりしていた)のある駐車場と書いておいた。それはアイフォンのショート・メールで7月末のことだった。
 昼の2時頃、パーシャ運転のトヨタ・ハイラックス・ピックアップがアバカン市を通過したので、アレクセイさんにショート・メールで知らせる。アバカンはクラスノヤルスクとクィズィールのほぼ真ん中にあるので、まだ明るい7時ごろには到着できると連絡したのだ。アレクセイから、4時ごろ「自分はいま用事でクィズィールにいる、必ずシカの母子の像のある駐車場広場に迎えに行くから」とメールが来た。

 サヤン山脈越えのスノーシェイドで
写真を撮るパーシャ(黒い服)
 パーシャへの不満は既に溜まっていたが、黙っている。ホテル出発も約束より20分遅れの6時20分。それに対していかにも口実と思われるような、パーシャの言い訳。昼食はミヌシンスクの屋外カフェで、これはパーシャの好み。ここへ入るときに、黙って駐車場に止めた。ここで昼食はどうですかとぐらいは、聞いてほしかったが。彼は、常に黙って、方向転換する「なぜだ、どうしたのだ」と乗客に気をもませて優越感に浸るのが好きなのかと思うくらいだ。また、サヤン山脈越えのスノー・シェイドの近くでは、車から出て、懇ろに写真を撮っていた。彼が、ディーマ社長に提案されて承知したこの出張(私とのトゥヴァ旅行は彼にとって仕事だ)の最大の目的は、自分の自慢の1眼レフで撮ることか、と思うくらいだ。私は、サヤン山脈の景色は、今回はパスして先へ急ぎたかった。
 運転手のパーシャとの関係は、この日はそれでも、悪くなかった。彼はナージャと結婚式を挙げて、新婚旅行の費用も稼ぎたかったし、日本へ車関係の出張に行く(手当がよけいもらえる)という話もしていた。帰りはアク・ドヴラク経由にしようかなどと私に提案して、自分でも小旅行気分だったようだ。2012年には、アク・ドヴラック経由で帰った。2012年のパーシャとの不快な関係を思い出す。ディーマによれは、今ではパーシャも成人して(30歳)、物分かりが良くなってきたとか。しかし、人当たりは以前と同じで、自慢好きで、もったいぶっていて、都合の悪いことは人のせいにして、言動の裏側が見えてしまうような薄っぺらなことは変わりない(と、私の評価は厳しい)。しかし、1日目は、気にならなかった。日が暮れるまでに目的地に着けばいいとだけ思って、パーシャのご機嫌を取っていたものだ。
 素晴らしい景色のアク・ドヴラック経由で帰ろうとは私は全く思わない。これまで何度もトゥヴァ周遊をしているから、今回は発掘現場に直行の往復だ。アク・ドヴラック経由では連邦道54号線を通るより1.5倍の距離だと教えてあげる(地理には疎いパーシャが尋ねてきたからだ)。
2014年の地図。黒線は鉄道敷設予定地。オレンジ三角は2014年の考古学キャンプ場。2016年は国際キャンプ場がなくて、ほぼその場所に唯一の考古学キャンプ場ができた。P は2016年アレクセイとの待ち合わせ場所。Aは事故があった場所(後述)。Bは『ウシュ・コジェ』(後述)

 6時25分には、目的のシカの母子の像のある駐車場に着いて、アレクセイと再会できた。すぐ、パーシャは「ガソリンを入れてくる」と、クィズィールへ去った。私は一刻も早くキャンプ場に行きたいと思っていたが。
 7時ごろ、パーシャは戻ってきたのでやっとアレクセイのジープとピックアップで出発できた。そこからキャンプ場まで、昨日は大雨だったという草原の道を通るので大きな水たまりばかりか、急坂や崖っぷちなどが多く、スピードは出せない。やはり、私のナビではたどり着けない。迎えに来てもらってよかった。
 夕方8時ごろ、まだ明るいうちにキャンプ場に着いた。キルノフスカヤさんやラザレフスカヤさんが、迎えてくれた。トゥヴァ発掘のリーダーはキルノフスカヤさんで、彼女とは2012年に初めて会い、2013年、2014年、2015年と発掘現場で会い、2016年春には二人が日本に来ている。
 サウスケン考古学キャンプ場
 この年は、考古学発掘調査にスポンサーがついてない。だから国際ボランティア団もいない。キャンプ場は一か所しかなくて、人数も30人ほどと小規模だ。サンクト・ペテルブルクやクィズィールからの専門家、それにアルジャン村からの炊事係さんたち、キャンプ場のたいていの住人は顔見知りだった。みんな集まってくれて歓迎してくれた。私は、顔と名前が一致しないが、彼らの専門(発掘物修理係りや、骨の鑑定係りなど)は覚えている。
ラザレフスカヤさん、キルノフスカヤさんと
キャンプ場、ブルーシートをかけられたユルタも

 後で知ったことだが、調査は、キルノフスカヤさんの自費で行っているそうだ。今まで5回スポンサー付きで発掘調査した時(2010年から毎夏)の収入をやりくりして出したとか。物品の調達にかなりの支出を充てなければならない。専門家たちは報酬なしで働いている。サンクト・ペテルブルクからクィズィールまでの旅費は出る。報酬を出している地元からのスタッフもいる。親が考古学者で、その息子や妻と来ているという場合もあって、息子たちにはわずかな報酬が出ているのかもしれない。
 いつものユルタのほかに、2人は楽に住めて、立って歩け、テーブルもおけるような大きめのテントが5張りあった。人数が少ないうえ、国際ボランティア隊もいないので空いているテントがあるという。私が暗くなる前にスーツケースを運び込みたいといったので、「今日だけ臨時にここで寝てください」と言われて案内されたのも大きめのテントだった。若い女性がテーブルと椅子を運び込んでくれた。ベッドと寝袋は既にテント内にある。「臨時のテントですみません」と言われるように、テントの隅には備品があった。
 団らんのテントに行く。いつも夕方から寝るまで年配者(普通のスタッフはみんな若者、指導部は年配。ちなみに若者たちは自分たちのたまり場がある)はここに集まってお茶を飲んだりコニャック、ヴォッカなども飲んだりすることになっている。キルノフスカヤさんとその夫のウラジーミル・アナトリヴィッチ・セミョーノフさん、ラザレフスカヤさんとその友達のタチヤーナ・エルショワさん、経理主任(運転もする)の、アレクセイ・カラムィシェフさんと奥さんのオーリャ、エヴゲーニィ・リヴォヴィッチ・キリーロフЕвгений Львович Кирилловというサンクト・ペテルブルクからの考古学者、エルミタージュからのカメラマンのシャッピーロさんのほかにパーヴェル・ミハイロヴィッチ・レウセ Павел Михайлович Леусという現在はドイツに帰化したが、以前はロシアに住んでいたというドイツ系ロシア人の40歳くらいの男性がいた。キルノフスカヤさんの留守中、彼も私の案内をしてくれるそうだ。
 そのパーヴェルの両親は旧ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国(*)に住んでいたが、1941年スターリンによって同自治共和国内のドイツ人全員がカザフスタンやシベリアへ強制移住させられた。スターリンの死後、一応元の場所に帰還したが、90年代のソ連崩壊後、多くのドイツ系ロシア人はドイツに移住。パーヴェルも移住して、家族とベルリンに住んでいるが、大学はサンクト・ペテルブルクなので、たびたび発掘隊に加わっている。いつもは5月ごろ来ているので、私とは今まで出会わなかった。春の終わりの渇水期にはエニセイ川の水量が減るので、サヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖(トゥヴァ海)の水面が下がり、水没していた遺跡の調査ができるからだ。
(*)ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴェト社会主義共和国 前身は1918−1923年のソ連で最初にできた自治州で、沿ヴォルガ・ドイツ人自治州。18世紀からの(特にエカチェリーナ2世が奨励した)ドイツ移民が住み着いていたヴォルガ沿岸地方にできた民族自治共和国として1924年から1941年まで存在。ドイツ人入植者の末裔が数多く居住し、20世紀初めには40万人を超えていた。1941年ヴォルガ・ドイツ自治共和国と隣接のサラトフ州やスターリングラード州から強制移住させられた全ドイツ系ロシア人は44万人。(19世紀末、全ロシアには180万人のドイツ系ロシア人がいた)
 臨時のテント内(はじめの1泊目)

 キルノフスカヤさんたちが私にトゥヴァの民族衣装とトゥヴァの茶をプレゼントしてくれて、私は、4月末の彼女たちの来日中、好んでいた紅茶の数箱と成田で買った東京バナナの菓子箱を贈呈。民族衣装を試着した写真を撮るも、フラッシュなしで失敗。キルノフスカヤさんが、私の4日間の予定を立ててくれた。アバカンの博物館が改装して開館したので、帰り道に寄ったらどうかと進めてくれる。セミョーノフさんから、モンゴル国境の調査旅行のコースを聞く。
 今年は、テントに電線を引いてくると明かりがつくことになっていた。ディーゼル発電機が余分にあるからだろう。しかし、この日は発電機の故障で明かりはなし。計理のアレクセイが長い蝋燭をくれた。
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