クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 21 January, 2014 (追記 2月18日,4月5日,7月4日,2015年6月10日,2016年7月6日)
トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (4)
    『王家の谷』古墳群
           2013年6月30日から7月27日(のうちの7月7日から7月9日)

Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)

月/日 『トゥヴァ紀行・続』目次
1)7/2まで トゥヴァ紀行の計画 クラスノヤルスク出発 タンジベイ村 エルガキ自然公園 ウス川の上と下のウス村 ウス谷の遺跡 クィズィール着
2)7/3-5 クズル・タシュトゥク鉱山へ 荒野ウルッグ・オー 夏のツンドラ高原 鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場 ビー・ヘム畔 ミュン湖から
3)7/6,7 トゥヴァ国立博物館 ビーバーの泉、鉄道終着点 聖ドゥゲー山麓 トゥヴァ占い 牧夫像
4)7/7-9 『王家の谷』へ(地図) 国際ボランティア・キャンプ場 考古学者キャンプ場 モスクワからの博士 セメニチ車、カシュペイ 発掘を手伝う  『オルグ・ホヴー2』クルガン群
5)7/10-12 『王家の谷』3日目 連絡係となる 古墳群巡回(地図) シャッピーロさん ショイグとプーチンの予定 パラモーター
6)7/13,14 地峡のバラグライダ 政府からの電話 ウユーク盆地北の遺跡 自然保護区ガグーリ盆地 バーベキュ キャンプ場の蒸し風呂
7)7/15 再びクィズィール市へ 渡し船 今は無人のオンドゥム、地図 土壌調査 遊牧小屋で寝る
8)7/16-18 オンドゥムからバイ・ソート谷へ 金鉱山のバイ・ソート 古代灌漑跡調査 運転手の老アレクセイ
9)7/19 西トゥヴァ略地図 エニセイ左岸を西へ チャー・ホリ谷 岩画を探す 西トゥヴァ盆地へ トゥヴァ人家族宅
10)7/20,21 古代ウイグルの城塞 石原のバイ・タル村 鉱泉シヴィリグ ユルタ訪問 心臓の岩 再びバルルィック谷へ
11)7/22 クィズィール・マジャルィク博物館 石人ジンギスカン 墨で描いた仏画 孔の岩山 マルガーシ・バジン城塞跡
12)7/24-27 サヤン山脈を越える パルタコ―ヴォ石画博物館 聖スンドークとチェバキ要塞跡 シャラボリノ岩画とエニセイ門 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 クラスノヤルスク

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。

『王家の谷』のあるウユーク盆地(広い意味では西サヤン山中に含まれる)
1トゥラン市 2アルジャーン村 3ハディン村 4チカロフカ村 5タルラック村 6マリノフカ 7ガグーリ 8ヴェルフネウシンスコエ村 9ウスチ・ザラタヤ村 10エールベック村 11アジック・ホル谷 12チンジャシ丘 13カシュペイ岩山 14ペレシェイエック地峡
黒線はクラギノ・クィズィール鉄道敷設予定地 @マラリスキィ待機線 Aクルトゥシビン待機線 Bアルジャーン駅 Cアルザック待機線 Dウユーク待機線 Eカラ・チョーガ待機線 Fクィズィール貨物駅 Gクィズィール乗客駅

クルトゥシビン山脈北はクラスノヤルスク地方で、別の発掘調査隊が担当している。
7月8日(月)『王家の谷』へ
『王家の谷』上記地図の
11(クルトゥシビン・トンネルを出たところ)から
C待機駅の拡大図、鉄道線路上の古墳
 テス・ヘム方面への調査旅行から帰って2日間休息したタチヤーナさんはセルゲイやナターシャさんたちと、前々から計画していたエルガキ自然公園トラッキングに出かけるそうだ。
「登山が難しいなら、私と一緒に麓のテントにいましょう。そこも美しい自然が見られるから」と言う。だが、私がここへ来たのは、美しい自然を見るのもいいが、トゥヴァの古代遺跡やトゥヴァの地を訪れるためだ。一方、トラッキングの目的地はクィズィールの北ウユーク山脈を越え、ウユーク盆地を突っ切ってクルトゥシビン山脈に上り、クラスノヤルスク地方に入ってウス街道を遡り、アラダン山脈も回った西サヤン山脈のエルガキ自然公園の中にある。要するに、7月2日に、クラスノヤルスク市からクィズィール市へパーシャの車で来た行程の途中にあって、クィズィールから200キロばかり戻ったところだ。
 一方、『アルジャーン2』古墳でも有名なウユーク盆地では、ここ数年、新鉄道建設のため大々的に考古学調査が行われていて、今回の旅行でも、タチヤーナさんとぜひ訪れたいと計画していた場所だ。7月8日は、みんなでエルガキへ行くのだが、私だけ途中のウユーク盆地で降りて、2,3日、つまり彼らがエルガキ登山をしている間、発掘させてもらえないだろうか。私は、発掘には全く部外者だから、タチヤーナさんによると、いきなり行っても断られる可能性もある。
 2012年は、トゥヴァ大学歴史学部のアンドレイ先生の案内で、ウユーク盆地の発掘基地を訪れた。その時、サンクト・ペテルブルクからの調査団を指揮しているセミョーノフさんやクリノフスカヤさんと話し、クリノフスカヤさんからはメール・アドレスももらった。それで、今回、前日の7月7日に
「去年、エールベック(キャンプ地の一つ)でお会いしました。またあなたにお会いできるでしょうか」と言うメールを出したが、意外なことに、すぐ
「今年は『アルジャーン2』の近くで発掘をしています。キャンプ場はウユーク川の畔です。私はここに9月中ごろまでいます。お会いできたらうれしいです」と言う返事が来て、喜んでタチヤーナさんに見せた。「お会いしたい」と言うのは、発掘キャンプ場に住んでもいいと言うことではない、と彼女は慎重に言う。
 だから、4人で、ウユーク盆地経由でエルガキへ出かけ、もし、私が断られたら一緒にエルガキへ、もし、受け入れられたら、私だけそこに残る、と言う予定で、昼食後、セルゲイさんのニーヴァに荷物を積んで出発した。午前中はセルゲイさんの研究所での仕事があるからだ。出張手続きもしていたのかもしれない。
 私は午前中、近くのスーパーへ行って、クリノフスカヤさんたちへの手土産をどっさり買いこんで来た。タチヤーナさんが言うには、突然来て、お邪魔しますと言うからには、せめて何か手土産を持って行かなければならない。彼らはキャンプ生活をしているのだから、すぐ食べられるようなおいしいものがいい。缶詰とかマカロニとか、乾パンとか、クッキーとかを買って行った方がいい、と言われる。マカロニや乾パンは買わなかった。缶詰や、菓子類などをどっさり買った。チョコレートの詰め合わせなども買ったが、それは正解だった。彼らは、食料はスポンサーからふんだんに供給される。チョコレートの詰め合わせはプラスチックの浅い箱に入っていて、その透明な箱が、クルガン(古墳)からの小さな発掘物(矢じりとか)を入れるのにぴったりだったからだ。
 1時半には私たち4人はウユーク山脈の峠の仏塔のある見晴らし台で写真を取っていた。チベット仏教の国トゥヴァには、村の入り口や、どこか神聖な場所にはこの仏塔が建つ。ロシア正教ではなく仏教の国であると言う民族性を強調できる。    
ウユーク盆地 キャンプ場を探す

 2時半にはトゥラン市も過ぎて、今年の発掘現場だと言う『アルジャーン2』遺跡近くへ行く道へ曲がった。見晴らしのよい草原なので、調査キャンプ場が見えないか、発掘現場が見えないかと目を凝らしながら走った。草原の中、すぐ青シートのテントらしいものが見えて、そちらへ車を向ける。ジープが1台、青シートに近くを走っているので、
「あ、クリノフスカヤが乗っているわ、彼女はああやって車で幾つかの発掘現場を回っているのよ、ほら、助手席に座っている人、髪形がクリノフスカヤに似ているわ」とタチヤーナさんが言う。追いついてクラクションを鳴らして止めた。キルノフスカヤさんはいなかったが、同じくサンクト・ペテルブルクからの考古学者たちだった。主な発掘現場はここではなくて『ベーロエ・オーゼロ』だと教えてくれる。後でわかったことだが、今年は、『ベーロエ・オーゼロ(白い湖)5』、『カラ・オルガ』、『オルグ・ホヴー(平たい野原)2』、『バイ・ダック』クルガン群の4か所で発掘している。キャンプ場は4か所あって、そのうちの一つが国際ボランティア用の大規模なキャンプ村で100人くらいも若者が住んでいる。
 その近くにあるのが『ベーロエ・オーゼロ5』クルガン群で、そこに今頃、キルノフスカヤさんがいるはずだと言う。すぐに、セルゲイさんはそちらに向かう。見晴らしのいい草原だから、道もとりやすい。エルガキはまだ100キロ以上先にあるので、私を早く降ろして、日の高いうちに到着しようと、セルゲイさんは急ぐ。
(後記)新鉄道クラギノークィジール線は400キロ余だが、クラスノヤルスク地方の200キロ余は『エルマーク隊』、トゥヴァの100キロ余はキルノフスカヤさんたちの『王家の谷隊』が担当している。『王家の谷隊』の発掘は北から、『カラ・オルガ』『ベロエ・オーゼロ』『オルグ・ホブー』『テティルィグ』『サウスケン』『エキ・オトック』『カラ・チョーガ』『バイ・ダッグ』『アク・ダッグ』『エールベク』とある。
『カラ・オルガ』はベーロエ・オーゼロを北からとり囲むような低い山で、土器の見つかった石器時代や青銅器時代の住居跡、石器を製造していた工房などが調査された。また、近くの石材を初期石器時代のウユーク盆地の大古墳(たとえば『アルジャン2』)製造のために運んだ。オクネフ文化期(ハカシア南野地名から。紀元前2000年紀前半)の岩画もある。
『ベーロエ・オーゼロ3』、ベーロエ湖(現在は沼地化していて塩湖、古代では淡水湖)北西に、初期鉄器時代の巨大な古墳と祈祷所がある。その近くには9世紀ウイグル時代の古墳や馬具、よろいが発掘された。
『ベーロエ・オーゼル4』、ベーロエ湖北で古墳は紀元前5-4世紀、祈祷所は2-4世紀のコク・エリ文化期
『オルグ・ホブー2』ウユーク川の右岸(南)でスキタイ時代、紀元前4-3世紀。ここからはインド洋名また太平洋産の子安貝の装飾品が発見された。
国際ボランティア・キャンプ場『ベーロエ・オーゼロ』
 『ベーロエ・オーゼロ5』クルガン発掘場は広大なものだった。これが1基のクルガンなのか、それとも鎖状につながった数基のクルガンなのかその時点ではまだ不明だ(少なくとも2基はあるらしいと、あとで学生が教えてくれた)。低い山の斜面が平らになったところからやや傾斜しながらベーロエ・オーゼロ(湖)に拡がる遮るもののない草原に、『ベーロエ・オーゼロ5』クルガン群がある。クルガンに沿って草原の土が掘られ、何本も目印のロープが張ってある。トロッコを運ぶ半裸の若者たち(高緯度からきているから、肌を焼くためだ)や、シャベルで土をほったり、刷毛で石の周りをなぞったりしている女の子たちが何十人と働いている。若者たちは世界中からのボランティアの学生たちだと、ネットに載っているが、サンクト・ペテルブルクからの学生、院生が多い。機器で測量をしているやや年配の男性に、タチヤーナさんは事情を話す。キルノフスカヤさんは、今ここにはいないそうだ。電話をかけてくれた。電話口に出てタチヤーナさんが
 「日本から来たタカコって言う女性が仕事をしたがっているが、受け入れてはくれないでしょうか。昨日、メールを出したそうですよ。彼女は自分の寝袋も持っていますよ」と、頼んでくれた。幸い承諾されたので、セルゲイさんの車から、私のリュックや寝袋、塩ビのマットを下した。キルノフスカヤ先生たちは今、17キロ離れたキャンプ場にいるが、そこまで私を送って行っては、エルガキ到着が遅くなり、ここからその場所へは、後で私を送って行く車がある、と言って、彼らは急いでいて去って行った。私はと言えば『王家の谷』に眠る古代の族長たちの墳墓の発掘現場に感心して、写真を撮りまくっていた。
私のグループの発掘場所 
遠くにベーロエ湖の水面が白く見える
国際ボランティア・キャンプ場
喉歌のレクチャー
 仕事と言っても、何をすればいいのか、先ほどの測量をしていた男性に聞いたところ、発掘をしている一角に連れて行ってくれて、この部分をやっているグループのリーダーに紹介してくれた。珍しくトゥヴァ人で、全露文化遺産保護協会のトゥヴァ支部副議長ウラジミル・タムバさんと言う。このグループにはもう一人トゥヴァ人がいてアイ=ベック・オンダールと言う本職はホメイ(喉歌)の先生だった。それにロシア人の学生たちが10人余いる。これから先、私はこのグループで発掘の仕事をするらしい。
 しかし、タムバさんの言うには、
「今日はこの辺でぶらぶらしておってくれ。4時になったら引き上げて、向こうのキャンプ村のインフォーメーション・センターでフィルム上映とホメイ(喉歌)のレクチャーがあるから、興味があるなら出席したらどうか。キャンプ場へ戻るのは、そのレクチャーが終わってからだ」と言うことだった。「インフォーメーション・センターへは、あなたと荷物をアイ=ベック・オンダールの車で運びますよ」と言われる。
 周囲より低地にある場所に水分が集まってできたのがベーロエ・オーゼロ(湖)で、流れ出る水路(川)がないため塩湖だ。(古墳の時代は今よりずっと大きかったそうだ。今は周囲が半沼地)。たぶん湖の底からの湧水もほとんどないのだろう。『ベーロエ・オーゼロ5』遺跡は、塩湖のベーロエ・オーゼロ(湖)と周囲の丘の中間にあり、土地は湖に向かってゆるく傾斜しているので、発掘場所から水面の白っぽい湖がよく見える。湖の手前に、大規模なテント村も見える。この辺でぶらぶらしておってくれ、と言われ、半砂漠のような草原で発掘している若者たちの横でぶらぶらしていた。目印に残してある現在の地表の上を歩いたり、写真を撮ったりしていたのだ。アイ=ベック・オンダールさんのチャトハンと言う民族楽器も写した。みんなが宿泊している国際ボランティア・テント村はここから見えるような近いところにあるが、それでも往復に数十分もかかるので、発掘現場のすぐ横で一休みできるようなブルー・シートの仮小屋もあり、そこには給湯施設もある。珍しげに眺めていると、女子学生が愛想よくお茶でもいかがと言ってくれる。
 4時近くになり、私の荷物をアイ=ベック・オンダールさん(喉歌教師)の車に積んで、タムバさんと一緒に、国際テント村へ行く。今年が第3回開設となるテント村には、10人分のベッドが配置できるような大型テントが十数基も整然と並んでいて、食堂テントや医務テント、遊戯テント、イベント用広場、スポーツ広場、大勢が同時に使えるような仮設の洗面所、雰囲気をもりあげるようなイラストなどもある敷地内を柵で囲み、入り口にはトゥヴァ人のガード・マンが立っている。外国人も住んでいるから警備、保全する必要があるそうだ。確かに、半砂漠の草原の真ん中だから、羊がテントの中に入っておいしいものを食べてしまうかもしれない。アイ=ベック・オンダールさんは入口の警備員に、
「通訳を連れて来たんだ」と言って通過する。
 テント群の近くまで来ると、ここを管理している女性が近づいてくる。リュックや寝袋、塩ビ・マットを持った私は新参者に見えたからだ。宿泊手続きをしなければならない。アイ=ベック・オンダールさんがまた
「通訳を連れて来たぜ」と言う。管理人の女性は、不審そうに
「何語の通訳?」と聞く。私は通訳ではないが、何語と聞かれれば「日本語」と答えるしかない。
「日本語ですって?!」と目を丸くして、考え込む管理人の女性。このテント村で日本語の通訳が必要ないことはよくわかる。
「キルノフスカヤさんに連絡済みなの」と助けてあげる。それで、彼女はすぐキルノフスカヤさんに電話して、
「ああ、あなたは考古学者たちのテント村の方に泊まるのね、ここは空席が2人分あるけど、明日到着するボランティアさんがいるのよ」と、納得してくれる。私は、その時は事情がさっぱり分からなかった。4時から、『トゥヴァの祈り』と言うビデオ上映とアイ=ベック・オンダールさんの喉歌に関するレクチャーがあり、それが終われば、その17キロ離れた考古学者キャンプ基地に送って行ってもらえると言うことだけしかわからなかったのだ。
 ホメイのレクチャーがあるインフォーメーション・センターと言うのは、大きな画面のテレビが1台あるあずまやのような小屋だった。食堂から椅子を持ってくれば50人近くが視聴できる。毎日4時からここで何かのレクチャーがあるそうだ。喉歌学校の教師だと言うアイ=ベック・オンダールさんは、以前自分の生徒にマオと言う日本人女性がいて、彼女はトゥヴァ人と結婚し、子供が生まれたが、知っていないかと私に聞く。日本女性も世界中で活躍しているな。
 4時からのビデオ『トゥヴァの祈り』はスタニスラス・シャピーロさんというサンクト・ペテルブルクにあるロシア最古の博物館クンストカーメラからのカメラマンが作ったものだ。伝統的には、つまり、博物館創始者のピョートル大帝の時代(1714)からクンストカーメラ(希少なものの陳列所の意、現在は人類学民族学博物館)がシベリアの発掘物を保管してきた。だから、サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館と同様に南シベリアの発掘にはクンストカーメラもかかわっているらしい。そのシャピーロさんも、インフォーメーション・センターにいて、レクチャーの後、基地へ帰る時、彼は私やタムバさんと同じ車に乗った。
考古学者キャンプ場
 6時近くに、17キロ離れたキルノフスカヤさんたちの考古学者キャンプ基地に着く。そこは草原の中でも、ウユーク川畔にあるので、木も生えている。大型の国際ボランティア基地は、新鉄道建設プロジェクト(たぶん政府や学術機関、大企業)のスポンサーがついている。キルノフスカヤさんたちの考古学専門家(ボランティアではない)のキャンプ場も、プロジェクト・グループがスポンサーになっているが、10人用のテントの並ぶ豪華キャンプ場ではない。考古学者たち数十人が、それぞれ自分のテントを思い思いの場所に張っている。
考古学者キャンプ場  左端にウユーク川が流れている
 キルノフスカヤさんから、どうぞと言われてブルー・シートの小屋に入る。真中にテーブルがあり、セミョーノフさんが常駐している。彼とキルノフスカヤさんとは夫婦で考古学者だ。後でわかったことだが、一人息子のアナトーリーもサンクト・ペテルブルクの考古学部を出て、今、同じキャンプ場の若者専用エリアにキャンプを張っている。このブルー・シート小屋付近にテントを張っているのは年配者、つまり、私がいた時には、セミョーノフ・キルノフスカヤさん夫妻の大きめのテントの他、サンクト・ペテルブルクからの年配の女性考古学者2人のテント、モスクワからのプリホディコ博士、クンストカーメラのカメラマンのシャッピーロさんたちのテントが張ってあった。もちろん、それは後でわかったことだ。その時は、小型テントを持ってきてくれた若者が、どこに張りますかと言うので、キルノフスカヤさんの近くがいいと、すぐ隣の平たんな場所に張ってもらった。張るのを手伝ってくれていたキルノフスカヤさんから、
「どのくらいいるの?」と聞かれたので、
「2,3日です」と答える。それくらいで、タチヤーナ・プルドニコーヴァさんがエルガキから戻り、帰り道には私を拾ってクィズィール市に戻り、一緒に次の調査地バイ・ソート方面に出かけると思ったからだ。 
 セミョーノフさんたちのいるブルー・シートのテント小屋が、今年の『王家の谷』全域の指導部テント、しかし談話とたまり場テント、つまり情報センターらしい。ここにくれば、誰かが座っているし、電源もお茶もお菓子もある。仕事が終わって夕方は、みんな、と言ってもキルノフスカヤさんたちや年齢の人たちはここに集まってお茶を飲むらしい。若者も、何か用事があれば、ここへ来る。地面に角材を立て、骨組みを作り、ブルー・シートで覆った仮小屋は、この情報センターのほか、食堂や、作業小屋、トイレなどあるが、考古学の研究ができるような全天候型で諸設備が整ったユルタも別にある。ブルー・シート小屋よりユルタの方が頑丈で安全だ。これらブルー・シートやユルタの周囲に考古学者たちのテントが数十張り並んでいる。半地下にブルー・シートを張った発電コーナーもある。発電機が、その半地下にあり、ここからコードが伸びて主要テントに電力を供給しているわけだ。もちろん終日は稼働していない。たぶん夕方の数時間だろう。だから、いくらセミョーノフさん常駐のテントのコンセントに携帯やカメラの電池の充電器をさしても、昼間は充電されない。
食堂テントからユルタを見る。
ユルタの手前の小屋は発電コーナー
キルノフスカヤさんとセミョーノフさん


 トゥヴァ(だけではないが)の地に新しく何かを建造する時は、考古学調査を行わなければならないと決まっているそうだ。新鉄道を敷設するため、彼らは考古学調査をしているのだが、実際に建設にとりかかる時には、これら貴重な遺跡群はすべて消えている。発掘漏れ、調査漏れがあるかもしれない。古代から残されてきた風景が一変する。トゥヴァも変わる。トゥヴァ人は鉄道建設に否定的だ。最近、結局は、鉄道は建設されないといううわさも流れている。セミョーノフさんたちは、鉄道が建設されてもされなくても自分たちは、スポンサーからの依頼で仕事をしているだけだ。どちらかと言うと建設されない方がいい、と言っている。建設計画がなければ、資金もなく、資金がなければ、発掘調査はされない。調査されなければ、これらクルガンができたスキタイ時代のこともより詳細にはわからない。自分たちの関心は、考古学にあって、鉄道建設にはないのだ。
 また、セミョーノフさんは、ほかのサンクト・ペテルブルク出身者もそうかもしれないが、モスクワに対抗意識を持っていて、「モスクワは大きな村です」というような私の陳腐な表現にも喜んでくれた。
 夕食も、キルノフスカヤさんが食堂から運んでくれて、この情報センター(たまり場テント)で食べた。この日、このテントの常連さんたちと知り合いになり、セミョーフフさんとは発掘のことをたっぷり話せた、と言っても私の語学力の許す範囲だが。10時を過ぎると日は傾き、11時前に浅く落ちる(緯度が高いので深くは落ちない、だから西の空は真夜中でも漆黒にはならない)。すると急に寒くなるのだ。急いで自分のテントに入って寝る準備をする。キルノフスカヤさんが貸してくれたのは、新品の2人用テントだった。後から男の子が寝袋の下に敷く綿入れマットを持ってきてくれた。薄い塩ビ・マットの上にこれを敷き、寝袋に潜ると、翌朝あまり体が痛くない。だが、夜中は寒かった。体を縮こめて寝たので、翌朝はやはり節々が痛かった。後日のことだが、私の寝袋はあまり暖かくないので夜中は寒いと訴えると、キルノフスカヤさんは自分たちの予備の毛布をかしてくれた。親切な先生だなあ。
7月9日(火)モスクワからのプロホディコ博士 『王家の谷』発掘2日目
 朝早くに目が覚めて、テントからはみ出てみると、まだ誰も起きていなかった。食堂は7時半ぐらいから厚着の青年たちが集まりだした。早朝は霜がおりそうなくらい寒い。食器を持って大きなお鍋からおかゆをよそってもらう。テーブルの上にはチーズやサラミを盛りつけたボール、バナナやリンゴのフルーツの大皿、バター壺、レモンや各種調味料、パンかごなどが載っている。コックは、昨年同様ビーバーというあだ名の男性だ。コック助手は、いろいろなコネで雇われてくる。
 ベンチに座って食べ始めると、昨夜紹介されたモスクワからの博士、ヴァレンチーナ・プロホディコさんが自分の食器を持って隣に移動してきた。実は、モスクワの博士についてはタチヤーナ・プルドニコーヴァさんからも聞いていた。
 プロホディコ生物学博士は土壌が専門で、2012年ウブス・ヌール(湖)周辺の発掘で、タチヤーナさんと土壌に関する共同研究をしたそうだ。2013年も博士はトゥヴァに来て、土壌の研究を続けている。タチヤーナさんがテス・ヘムに行っている間、この『王家の谷』にとどまって地層を調べていた。次にタチヤーナさんが地質調査旅行に行くバイ・ソートに同行する予定で、タチヤーナさんから声がかかるのを待っている。バイ・ソートを共同調査地とタチヤーナさんが決めたのか、プロホディコ博士かは知らないが、たぶん、トゥヴァでの研究はタチヤーナさんが主導しているのだろう。まだ、私が『王家の谷』へ来る前から、タチヤーナさんは、
「そこには、私に苦手なモスクワからの博士のヴァレンチーナ・エヴゲイェブナ・プロホディコさんがいて、私と一緒に調査したがっているのよ。いやだわ。ちょっと意見が合わないの。彼女を調査に連れて行きたくはないわ…。博士はすごく猫背だからすぐわかるわよ」と、入れ知恵してくれていたのだ。

「どうしてタチヤーナ・プルドニコーヴァナさんは日本からのお客さんをエルガキに連れて行かなかったの?」と食堂のテーブルの横に来たプロホディコ博士は私に話しかける。登山は苦手だからと答える。彼らはエルガキからの帰りに、『王家の谷』を通って、私と博士を連れてクィズィールに戻ってくれるかもしれない、と私。そして、たぶん一緒にバイ・ソートの調査に出かけるだろう、と博士。
食堂の博士、横向きはキルノフスカヤさん
背後にはコック長のビーバー君

 この日、朝食のテーブルで、彼女が私の方へ移動して来たのは、日本のことを話すためだった。数年前、千葉大学の招待で日本へ行き、琵琶湖、京都などを廻ったと話していた。日本の夏はモスクワ人の博士には暑すぎるからと、11月に招待されたそうだ。その前年には千葉大学や京都大学の土壌学者を、ウラル山脈南の中期青銅器時代(紀元前2000年前後)の都市遺跡アルカイムに案内したそうだ。博士は、日本は素晴らしかった、ぜひもう一度行きたいと言っていた。日本へ行くのは難しいが、大学招待だったから『緑の道』だった、そうだ。つまり、ビザ取得は険しい山道ではなく、柔らかいグリーン・ロードを行くようなものだった、という訳だ。大学招待でなくとも、誰でも保証人となって個人で招聘状は書けるし、その方法で私も何人かのロシア人を迎えたのだが。
 自分が使った食器は、一応自分で洗うことになっている。食堂テントの横を流れるウユーク川には、川岸に降りて洗いものなどができるような足場が作ってある。洗剤とスポンジが置いてあるので、自分で洗って川の水ですすぎ、テント内の 薄紫色の洗面器につけてから、食器用テーブルに戻す。薄紫の液体はマルガンツォーフカというそうだ。消毒液だとわかるが、辞書を繰ると過マンガン酸カリウムだった。洗口剤や手指の消毒に使うと書いてあるが、食器テーブルの茶碗の底には紫色の液体が残っていることがあり、やかんの水でゆすいでから使うことにした。
 食堂テントの横には、半地下の土蔵が作ってある。日中気温が上がっても、夜間氷点下近くになっても、おおむね一定の低温で、食料が保存できる。人里離れた地に調査などで長期にキャンプする場合は、自家発電、トイレと並んで厨房と食堂横に必ず設置される。
 セメニチ車で発掘現場(ベーロエ・オーゼロ)へ
 現場への出発は第1陣が8時半で、私は少し遅れて、キルノフスカヤさんたちの『セメニチ』と派手なシールの張られたウアズ(ウリヤノフ自動車工場製で10人乗り程度の高駆動車)に乗った。運転手はユーリー・セミョーノヴィッチ・ピシィコフさんと言う。トゥヴァでは男性年配者は名前より父称で呼ばれているそうだ。父称は父親の名にヴィッチという語尾を付けるが、長くなるので、セミョーノヴィッチはセメニチと縮めて発音される。ユーリーさんは自分の愛車の『セメニチ』号で、考古学調査期間の3ヶ月、スポンサーに雇われている、冬期も自分の車で個人営業をしている。彼は元刑務所管理局の幹部職員で、今は年金生活者。高駆動の車を3台持っていて、これで稼いでいる。毎日、考古学者キャンプ場から『ベーロエ・オーゼロ5』遺跡などに発掘グループをピストン輸送したり、キルノフスカヤさんたちが発掘現場を廻る時や、食料の買い出しなどにここから一番近いトゥラン市に出かけたりするときに用立てている。スポンサー雇い上げ交通機関の数台のうちの、サンクト・ペテルブルク歴史文化遺産研究所のキルノフスカヤさん専用車だ。期間中彼はキャンプ場の片隅に車を止めて車内で寝ている。
セメニチ車、後ろ向きはセメニチさん
キャンプ場専用車3台。後方にセメニチ車

 国際ボランティア・キャンプ場は、『ベーロエ・オーゼロ5』クルガンの近くにあるのに、キルノフスカヤさんたち考古学者のテント場は、なぜ17キロも離れているのか。実は、直線距離では近いのだ。ただ、アルジャーン村近くやホディン村への比較的状態のよい道を通るので、17キロとなる(これは、ここではたいして遠くはない)。また、キャンプ場は、食器を洗ったり、蒸風呂をたいたりできる川の近くで、沼地化されていない比較的平坦な広場でなければならない。
 このキャンプ場から『ベーロエ・オーゼロ』遺跡へは、滞在中、何度も往復した。ウユーク川右岸畔のキャンプ場から出ると、途中にカシュ・ペイ(*)と言う草原と湿地帯の中に突き出た岩山を迂回し、いつも犬が出てきて全速力で車の後を追いかけてほえまくる1軒の農家(ユルタもあるが、木造の小屋や、家畜小屋などを囲ってある)の横を通り、アルジャーン村へ通じる舗装道に出て、そこからトゥラン市の方へ進み、『アルジャーン2』クルガン跡を過ぎると、ベーロエ・オーゼロ(湖)の方へ右折する、と言うコースだ。ちなみに、キャンプ場の食堂はカシュペイ麓のその農家でサワークリームなどの乳製品や肉などを購入し、残飯を犬の餌用などに引き取ってもらっているそうだ。
   (*)カシュ・ペイ岩山にも遺跡がある。ユーラシアの草原地帯に多く見つかっている『鹿石』だ。イノシシ、馬、表、鹿などが打刻され、カシュ・ペイの『鹿石』は紀元前8,7世紀とされている。ちなみに、鹿石に見られるすべての動物や物が打刻されているような『古典的な鹿石』が見つかるのは中央アジア、特にモンゴル北西とトゥヴァだけである。(キルノフスカヤ『トゥヴァの岩画』)
また、カシュ・ペイ岩山とその東に広がる古代は淡水湖だったベーロエ・オーゼロが、巨大古墳の多いウユーク盆地のランドマークだとも言えるそうだ。
 キルノフスカヤさんたちのキャンプ場はカシュ・ペイと言う目立った岩山とウユーク川の間にあるので、国際ボランティア・キャンプ場と区別して、『カシュペイ・キャンプ場』とも呼ばれている。他に小規模キャンプ場があり、近くの地名を取って『ペレシェイエック』キャンプ場と『バイ・ダック』キャンプ場と呼ばれている。国際ボランティア・キャンプ場のほかは、考古学専門家とバイトが住んでいる。バイトは考古学者がサンクト・ペテルブルクから連れてきた非専門家が多い。
    (追記:2014年はこの『ベーロエ・オーゼル』古墳群が最も大規模な発掘だった。この場所にはアルジャーン駅建設の予定だ。紀元前7-6世紀。ここのの古墳の作り方は、4m四方ほどを4-5m掘り下げる。底に落葉松で作った小屋を建て死者や副葬品んを安置し、儀式の後、掘りあげた土ではなく、ベーロエ・オーゼロ(湖)の泥で埋める。その上に巨大な石を積み上げ、さらにその上に表面となる石を積み上げる。
 大部分の古墳は、古代からの盗掘にあっている。盗掘ばかりか、わざわざ暴かれている場合もある。それは、その古墳を作った民族(
族)を追って別の民族が入ってきた場合、この土地は自分たちのものであると示す儀式でもあった。
 発掘を手伝う
 9時半ごろ『ベーロエ・オーゼロ5』クルガンに着き、私は、前日、ぶらぶらしておってくれと言われた辺りに行った。タンバさんは、今日はバケツとシャベルと刷毛をくれて、
「あなたの場所は、ここからここの範囲です」と、教えてくれる。私専用の発掘場所の隣には若くて美人でほっそりとした女の子が黙々と刷毛で石を掃いたり、土をシャベルですくってバケツに入れたりしている。話しかけてみたが、予想通り通じなかった。すぐにぽっちゃりした女子学生が飛んできて、
私の向こう側で地面をかいでいるのがサラ
サラ

「彼女はフランス人で、サラと言うの。ロシア語が分からないのよ、聞きたいことがあったら私に言って」と嬉しそうに言う。サラはにこにこしている。他のロシア人の女子学生も寄ってくる。彼女たちはフランス語にかけては腕(舌)に自信がありそうだ。
 10時も過ぎると日も高くなり、半砂漠の草原は暑くなる。みんな服を脱ぎ出す。10時半ごろタムバさんが、
「休憩!」と言うと、みんな近くのブルー・シート小屋に入る。影もあるし、木のベンチもあり、飲み水が置いてある。ここで手持ちのおやつも食べる。フランス人のサラはパリ出身、フランスでは考古学の勉強をしているそうだ。道理で、刷毛で石を掃いたり、ポケットから折りたたみナイフを出して木の根を切ったりする手つきがよかった。10分ほど休憩して、また各自の持ち場に戻る。私の掘っている所からは古代人の骨も、黄金の装身具も青銅製の矢じりも、土器もお供え物の羊の骨も、後世にたまたま迷い込んだ牛や犬の骨すら現れてこなかった。だが、何かが見つからないかと、バケツに何杯もの土を除けていった。横を通ったタムバさんに、
「あ、そんなに深く掘らなくてもいいです」と、言われたくらいだ。
 1時間近く働いて10分ほど休むらしい。2度目の休憩でブルー・シート小屋に来た時、タムバさんに、
「あなたは、今日の分はこれでおしまい」と、言われた。それで、またその辺でぶらぶらすることになった。キルノフスカヤさんも、地面がはがれ、クルガン石があちこちに現れ、発掘品があったところには赤いリボンで印のしてある現場を回っている。彼女はこれから『セメニチ』車で別の発掘現場に行くと言う。乗せてもらった。同行したのは私の他にプロホディコ博士もいた。
『オルグ・ホヴー2』クルガン群 キャンプ生活
 ウユーク川を渡り、草原と丘陵の間を通って30分ほども走ったところには、『ベーロエ・オーゼロ』ほど大規模ではないが、20人ほどの人が発掘している2,3基のクルガンと、除けた土の山があった。太陽も南中する時刻で暑いのか、ビキニの女の子や半裸の若者たちもいる。こちらで発掘しているのは、『ベーロエ・オーゼロ5』のようなボランテイアではなく、サンクト・ペテルブルク歴史文化遺産研究所からの考古学者や、サンクト・ペテルブルクなどからのバイトの若者たちだ。地元出のアルバイトもいる。前日の夕方、センター・テント小屋で紹介されたサンクト・ペテルブルクからの二人連れ年配の女性考古学者も軍手をはめて、クルガンの石の配置を調べていた。ここで仕事をしている人たちは、私たちの『カシュペイ』キャンプ場に住んでいるらしい。彼らは『セメニチ』車ではなく、トラックで資材と一緒に毎朝ここに通ってくる。そのトラックも近くに止まっていた。おなじみのブルー・シートの休憩用キャンプもあり、少し遠い場所には3方だけブルー・シートで囲った、やはりおなじみのトイレ小屋がある。
『オルグ・ホヴー2』
白いポールが遠くに見える

 この遺跡は『オルグ・ホヴー2』と言うのだと教えてもらう。『平坦な草原』という意味だそうだ。『ベーロエ・オーゼロ5』遺跡と私たちのキャンプ場と『オルグ・ホヴー2』遺跡の位置関係がさっぱり分からない。いったい、クィズィール市はどちらで、クラスノヤルスク地方との堺のクルトゥシビン山脈や、エニセイ川はどこにあるのだろう。近くにいた若者に、
「ちょっと略図を書いて」と、頼んでみた。彼は私の手帳に書き始めたが、
「クィズィールはこの地図ではどこにあるの?エールベック川は?」と尋ねると、
「ううん、僕、ちょっとわからない」と言う。それでキルノフスカヤさんに書いてもらう。彼女は鉄道予定線路も書き入れてくれたので、その『オルグ・ホヴー2』クルガン群も『ベーロエ・オーゼロ』クルガン群と直線距離では近くにあるとわかる。これらすべての遺跡は新鉄道の線路上にあるクルガンだから、開通すれば数分で行けてしまうのだ。しかし、今は、アルジャーン村やハディン村に通じる道を通り、ウユーク川を渡って、大回りしてたどり着かなくてはならない。
「ほら、向こうに白いポールが立っているでしょう。鉄道線路がそこを通るのよ」と、キルノフスカヤさんが指さしてくれる。『オルグ・ホヴー2』クルガン群も確かに線路の真下になりそうだ。
 2500年くらいも前に作った古墳だから、棺のあった地下の天井も落ちてくる。積み上げてあった石も周りに落ちる。クルガンだった石の境界を、まず確認しなければならない。『オルグ・ホヴー2』遺跡にはクルガンが50基ほどあるそうだが、鉄道線路にかかわる場所のクルガンのみ2基を発掘する。
   追記:そのうち第1古墳は3mの深さで、3体が埋葬されていた。副葬品として登記の食器、子安貝の貝殻、骨製の矢じり、金箔をはったミニチュアのシカ像品。サグルィ時代(後期スキタイ時代、紀元前5世紀から紀元前2世紀)(T.P.Садыковの報告書による)

 ここで撮った写真の中に、猫背でクルガンの中を歩いているプロホディコ博士の姿もある。分析する土壌の場所を吟味しているのだろうか。

 2時半ごろ、私たちは『セメニチ』車で『カシュペイ』キャンプ場に戻り、昼食の後、また国際ボランティア・キャンプ場に行く。4時から『スキタイ時代アルタイの遺跡』というレクチャーがあるためだ。レクチャーは昨日のように専門家が読むこともあれば、院生の場合もある。昨日のホメイ(喉歌)のレクチャーの時は、インフォーメーション・センターは食堂から持ってきた椅子が入りきらないほど満員だったが、今日は数人しか聴講生がいなかった。院生のレクチャーだったせいもあるが、テーマがアルタイだったからかもしれない。ロシア連邦のアルタイ共和国(行政中心地がゴールヌィ・アルタイ市、その北に同ケーメロフ市のアルタイ地方)はトゥヴァの西隣で、同じく遺跡が集中しているので『アルタイ・サヤン地帯』とも呼ばれる。アルタイの遺跡の方が有名かもしれない。南シベリアを全般的に見た方がいいので、このレクチュアーも聴講した方がいい。しかし、みんなは、自分たちはサヤンの方のウユーク盆地のスキタイ・クルガンを発掘しているのだからと思っているのか、聴衆は少なかった。(アルタイ山脈はロシア、モンゴル、中国、カザフスタンの国境にまたがっている。最高峰ベルーハ山4509mはロシアとカザフスタン国境にある)。
 レクチャーが終わると、また『カシュペイ』キャンプ場に戻らなくてはならない。『セメニチ』車が来たが、彼らはトゥラン市に買い出しに行くと言う。その帰り、6時過ぎには、また国際キャンプ場経由で『カシュペイ』へ行くから、その時乗せてあげると言って去って行った。だから、手持無沙汰で、キャンプ場内をうろうろしていたが、別のウアズが入り口近くで、若者たちを乗せていたので、それに便乗して帰ることにした。私が乗ったために誰かが床に座ることになった。若者たちは老若を問わず女性に対してとても慇懃なのだ。私の向かいに座っていた青年はバルザックの『幻滅』を読んでいた。 
 彼らは運転手に頼んで、ちょっと遠回りしてアルジャーン村に寄り、店でビールのつまみのようなものを買っていた。サンクト・ペテルブルクから来た若者たちは、田舎の村では何が売っているのか興味深かったらしい。私も機会があれば必ず中に入って陳列棚を見ることにしている。
 アルジャーン村では、1970年代発掘された南シベリア最大古墳があったのだが、そこへは数日後行くことになる(何も残っていないと確認しただけ)。
 この日も夕食後、いつものセミョーノフさんのテントに皆が集まって、蚊取り線香をたきながらお茶を飲んでいた。セミョーノフさんはウォッカかブランデーを飲んでいる。かなり酔っていた。昼間、私たちがいない時から飲んでいたようだ。キルノフスカヤさんによると、彼は歳なので、あまり遺跡を廻らなくなり、キャンプ場にいても暇なので飲んでいるとか。みんな、これまでのセミョーノフさんの実績を知っているので尊敬はしている。キルノフスカヤさんは悲しそうだ。総指揮はセミョーノフさんかもしれないが、事実上キルノフスカヤさんが仕切っている。私は酔った人の話し相手はあまりしたくないが、この時は、セミョーノフさんのサンクト・ペテルブルク市自慢をたいそう興味深く伺うことにした。なぜなら、その場には私しかいなかったからだ。しばらくして、いつもの仲間がテントに入ってきてくれたのでほっとした。
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