クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 26 January, 2014 (追記 2014年2月18日,2015年6月22日,2016年1月27日,6月27日)
トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (6)
    『王家の谷』古墳群つづき
           2013年6月30日から7月27日(のうちの7月13日から7月14日)

Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)

月/日 『トゥヴァ紀行・続』目次
1)7/2まで トゥヴァ紀行の計画 クラスノヤルスク出発 タンジベイ村 エルガキ自然公園 ウス川の上と下のウス村 ウス谷の遺跡 クィズィール着
2)7/3-5 クズル・タシュトゥク鉱山へ 荒野ウルッグ・オー 夏のツンドラ高原 鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場 ビー・ヘム畔 ミュン湖から
3)7/6,7 トゥヴァ国立博物館 ビーバーの泉、鉄道の終着点 聖ドゥゲー山麓 トゥヴァ占い 牧夫像
4)7/7-9 『王家の谷』へ 国際ボランティア・キャンプ場 考古学者キャンプ場 モスクワからの博士 セメニチ車 発掘を手伝う  『オルグ・ホヴー2』クルガン群
5)7/10-12 『王家の谷』3日目 連絡係となる 古墳群巡回 シャッピーロさん ショイグとプーチンの予定 パラモーター
6)7/13,14 地峡のバラグライダ 政府からの電話 盆地の古代遺跡捜索 自然保護区ガグーリ盆地 バーベキュ キャンプ場の蒸し風呂
7)7/15 再びクィズィール市へ 渡し船 今は無人のオンドゥム 土壌調査 遊牧小屋で寝る
8)7/16-18 オンドゥムからバイ・ソート谷へ 金鉱山のバイ・ソート 古代灌漑跡調査 運転手の老アレクセイ
9)7/19 エニセイ左岸を西へ チャー・ホリ谷 岩画を探す 西トゥヴァ盆地へ トゥヴァ人家族宅
10)7/20,21 古代ウイグルの城塞 石原のバイ・タル村 鉱泉シヴィリグ ユルタ訪問 心臓の岩 再びバルルィック谷へ
11)7/22 クィズィール・マジャルィク博物館 石人ジンギスカン 墨で描いた仏画 孔の岩山 マルガーシ・バジン城塞跡
12)7/24-27 サヤン山脈を越える パルタコ―ヴォ石画博物館 聖スンドークとチェバキ要塞跡 シャラボリノ岩画とエニセイ門 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 クラスノヤルスク

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)で国名はハカシア共和国。

地峡のバラグライダー、連絡係 
 7月13日(土)この日は、もう滞在5日目となり、半砂漠のような草原でのキャンプ生活や発掘にすっかり慣れた。顔見知りも多くなる。私のほうははみんなの顔と名前は一致しないが、私だけが変わった人種なので、みんなからは覚えられただろう。
 いつものようにピストン輸送の『セメニチ』車に乗って9時半ごろ出発、キルノフスカヤさん達と一緒にまず『オルグ・ホヴー2』へ行き、11時頃には『ベーロエ・オーゼロ5』へ。一度戻ってお昼を食べてから、また『ベーロエ・オーゼロ5』の国際ボランティア・キャンプ場へ。この日は4時からティムール・サディコフさんのレクチャーがあるからだ。『ベーロエ・オーゼロ3』クルガン群について説明していた。これは2012年の発掘だ。番号は発掘した順につける。『ベーロエ・オーゼロ1』と『2』は、今発掘の『5』と『6』よりやや南西にある。『3』と『4』は北にある。来年ベーロエ・オーゼロ(湖)付近で発掘されるクルガンは『7』となる。本当は、『アルジャーン2』も距離的には、アルジャーン村よりベーロエ・オーゼロ(湖)にずっと近いので、『ベーロエ・オーゼロ1』クルガンと名付けられるべきだった。しかし、アルジャーン村にあって巨大で有名だった1970年代発掘の『アルジャーン』クルガンにちなんで、発掘者が『アルジャーン2』と名付けたのだそうだ。それで、アルジャーン村にあった『アルジャーン』クルガンは『アルジャーン1』となった。
 『ベーロエ・オーゼロ3』には7基のクルガンが『へ』の字に並んでいる。(クルガンの位置についての地図はここ)

 レクチャーが終わった頃、国際ボランティア・キャンプ場の入り口に、昨日のパラモーターのパイロットがいた。ガードされているキャンプ場の中へは、部外者の彼は入れないようだった。グライダーを乗せたトレーラー付き車も囲いの外にあり、トゥヴァ人のガード・マンが興味深そうに周りを囲んでいる。シャッピーロさんが私をまた誘ってくれた。今日はペレシェイク・キャンプ場へ行くと言う。
 ペレシェイク・キャンプ場は『ベーロエ・オーゼロ6』クルガン群発掘のウラジーミル・アレクセイヴィッチ・ザヴィヤーロフ準博士指導で20人ほどのスタッフが生活している。ボランティア団が発掘している『ベーロエ・オーゼロ5』とは1キロほど離れているので『ベーロエ・オーゼロ6』と考古学的に名付けられている。クルガンが1基だけあることはまれで、たいていは鎖状につながって数基から数十基あり、例えば、『オルグ・ホヴー1』クルガン群なら約50基確認されている。
 国際ボランティア・キャンプ場から、ペレシェイク・キャンプ場までは近い。5時半過ぎに着くと、まずはテーブルに座ってご馳走になる。この20人くらいの規模では専任のコックはいなくて、スタッフが当番で食事を作っているらしい。ザヴィヤーノフさんとシャッピーロさんたちはウォッカの瓶を開ける。
 どのキャンプ場でもそうだが、スタッフの若い男性は辮髪だったり垂れ髪だったり結び髪だったり、個性的なファッション好きが多い。ペレシェイク・キャンプ場には、カリブの海賊のような三つ編みを何本もたらした若者がいた。オレンジ色のTシャツと同色のバンダナでなかなか雰囲気が出ている。彼らは、パラグライダーで滑走したがった。
 それでヴォッカ好きの年配者はテーブルに残して、私たちは昨日のパイロットの車に乗って小高い丘の上に移動したのだ。小さな車に、滑走希望の若者2人とそのお相手の女性2人も乗ったので一番体の小さな私は誰かの膝の上だった。
『地峡』からベーロエ湖への草原を飛ぶ
入り日の草原

 ここがいいと、降りたのは、ベーロエ・オーゼロ(湖)のすぐ近くにある国際キャンプ場と、彼らが発掘している『ベーロエ・オーゼロ5』クルガン群がすぐ下の方に見える小高い丘の中腹だった。ペレシェイクというのは『地峡』という意味だ。それは、大きくは、スエズ地峡やパナマ地峡のように大陸と大陸,大陸と半島などを結ぶくびれた狭い陸地だが、山と山、丘と丘にはさまれた小さな通路の様な谷間もさす。ここの地名のウローチッシャ(場と言う意味)・ペレシェイクは丘と丘が並んだところに峡間(はざま)のような通路があるので、この名がついた。狭間を抜ける手前にはベーロエ・オーゼロ(湖)があり、狭間を抜けたところにキャンプ場がある。私たちがパラグライダーで滑空しようとして車から降りたのは狭間をなす丘の一方だった。
 丘の斜面を吹き抜ける風に邪魔されないように、薄く広い羽(翼)を丁寧に広げ、折曲がらないよう、重しを乗せ、ハーネスを並べて、長い間準備をした。オレンジ色のバンダナのカリブの海賊ファッションの青年は、かいがいしく手伝っていた。しかし、飛んだのは別の青年だった。誰も、パラグライダーで滑空するのは初めてだった。何度も丘のてっぺんにあがり、風をとらえ、翼の向きを調整して、数秒でも足を地面から放そうとしていた。すぐ翼が絡まって地面に落ちてしまう。また一式を抱えて丘のてっぺんに上がり、ハーネスを広げて走り降りる。私は、地峡の横の草はらに座り、応援していた。下の方には『ベーロエ・オーゼロ5』と国際キャンプ場が見え、たまには滑空に成功したパラグライダーが見え、草原には黄色や紫の花が咲いていた。
 タチヤーナ・プルドニコーヴァさんはどうしているのか、連絡はさっぱりない。もう足は治ってバイ・ソートへ出発できるようになっただろうか。私ばかりでなくプロホディコ博士もいる。このとき暇だったので、携帯でかけてみると、いきなり、
「明日帰ってくるように」ということだった。彼女は『王家の谷』からクィズィールまでは頻繁に買い出しや連絡の車が出ていると思っている。しかし、私の滞在中は木曜日にエールベックなどの発掘場をまわったときだけだった。その時はクィズィールへ行き、まさにタチヤーナさんのアパートの前を通り過ぎたが、降りなかった。本当はアパートへ上がって行って、なくなりかけている常備薬や必要品をとってきたかった。というのも、2,3日と言う予定で、『王家の谷』に来ているのに1週間近くになるからだ。金曜日に、同じキャンプの年配考古学者さんから必要なものを少し分けてもらったし、薬は、国際ボランティア・キャンプ場の医務室からもらっていたので、何とかもったが。
 タチヤーナ・プルドニコーヴァさんは電話で、
「月曜日にバイ・ソート谷調査に出発の予定で車の手配もちゃんとしてあるからね。明日の日曜日は『王家の谷』からクィズィールに車が出るはずよ。それに乗って、博士と一緒にクィズィールに来るのよ」と断固とした口調で言う。
 あしたの日曜日は事実、車が出る。トゥヴァの祭日なのでボランティの若者たちがクィズィール見物するためだ。しかし、日曜日はキルノフスカヤさんたちがヴェルフネウシンスコエの『エルマーク』キャンプ場にお客に行くと言っていた。ウシンスコエ方面へはぜひ行ってみたいと思っていた。連邦道54号線で、ヴェルフネウシンスコエと標識の出ているのを何度か見て、是非ともそちらの方へも廻ってみたいと思っていたのだ。『エルマーク』キャンプ場は、もちろん村の中ではなく、針葉樹林の中、きっと、ウス川かその支流の畔にあるのだろう。彼らは遺跡調査で、クラスノヤルスク地方を担当している。スキタイ時代にはクラスノヤルスク地方とトゥヴァ共和国の境界などなかったが、クルトゥシビン山中(サヤン山脈の一部)以北は『エルマーク』キャンプ場が、以南のウユーク盆地(広くサヤン山脈の一部)は『王家の谷』キャンプ場が調査している。情報も交換しなくてはならない。『王家の谷』からはかなりの遠出となるが、若い考古学者さんたちの評判によると、キルノフスカヤさんたちはどこへ行っても、早めの時間には戻ってくる、夜遅く帰ることはないと言うことだった。
 どうしても、キルノフスカヤさんたちとヴェルフネウシンスクへ行きたかった。それで、
「日曜日に車が出るかどうか知らないわ、日曜日の夕方とか、月曜日の朝早くではだめなの?」と言ってみた。月曜日の朝、確かに考古学者キャンプ場からクィズィールへ車が出ると知っていたからだ。その車はクィズィールで修理が必要なので、修理場の開く月曜日朝には必ずクィズィールへ着いている。とにかく、ここ数日は、車の運行の情報には私は耳をそばだてていたのだ。運行情報は絶えず変化しているが、最新情報では、日曜日と月曜日の朝クィズィールへ車がでる。
 どうしても日曜日はキルノフスカヤさんたちとエルマーク・キャンプ場へは行きたかったので、日曜夕方、トゥラン市からタクシーで行ってもってもいいと思った。プロホディコ博士と同乗だが、彼女がタクシー代を出すとは思えない。
「月曜日、出発の手配してあるからね。むにゃむにゃ」ちょっと怒った声で言って、タチヤーナ・プルドニコーヴァさんの方から電話を切ってしまった。

 かなり酔ったシャッピーロさんや、明日は日曜日なので私たちのキャンプ場へ遊びに来たいと言う若者を乗せて、もどったのは10時過ぎだった。いつものように草原に傾く入り日をゆっくり眺めてから寝た。
ガグーリ出発の朝、政府からの電話
 7月14日(日)朝起きて、キャンプ場をぶらぶらしていると、ユーリー・セメニチさんがキルノフスカヤさんのキャンプの外から
「マリーナ・エヴゲェヴナ(キルノフスカヤさんの名前と父称)、トゥランに買い出しに行ってきます」と声をかけている。肉を買ってくるそうだ。彼の最新情報によると、『エルマーク』キャンプ場には行かないで、ただ、針葉樹林帯(タイガ)、つまり森へ行ってへ行って、自然の中でバーベキューなどして楽しんでくるそうだ。あわてた私は、テントから出てきたキルノフスカヤさんに確認する。
「そうなの。ヴェルフナヤウシンクコエの連中は、今日は、みんなどこかへ出かけるそうよ。だから行っても誰もいないの。私たちはウユーク川上流の針葉樹林帯にピクニックに行くのよ」と言われる。針葉樹林なんて、ここは草原でなければ針葉樹林帯で、珍しくもないのだが。
 ちょっとがっかり。彼らは考古学者なので、針葉樹林帯に未発見の古代遺跡がないか調査に行くと言う名目なのだ。その針葉樹林帯の場所はガグーリ谷と言う。はじめて聞く地名だ。そんなところは今でないと行かれない。事実上は、自然の中でバーベキューをしてヴォッカなど飲んで楽しむわけだが、それもいい。
 朝早く、若者たちを乗せ、クィズィールへ行く車が出発したようだが、私は断固、キルノフスカヤさんとどこへでもいいから出かけるつもりでいた。もし、クィズィール見物に行く場合は、前もって、責任者のキルノフスカヤさんや運転手に言っておかなくてはならない。私は、バーベキューのグループだと、言ってあった。
指導部がいつもいるブルーシート・テント内

 昨日は出発が10時過ぎということだったが、ユーリー・セメニチがピクニック用の肉や材料の買い出しなどにでかけて、予定よりすこし遅れての出発となったらしく、準備のできていた私たちは指導部テントの辺りで待っていた。
 と、キルノフスカヤさんの携帯が鳴る。珍しくもないことだが、携帯をとったキルノフスカヤさんが私の顔を見ながら「タカコは…」などと話している。電話を切ったキルノフスカヤさんは
「トゥヴァ政府からの連絡で、タカコとプリホティコ博士を、ただちにクィズィールのアンガラ通りに届けよと言われたのよ」
 私は自分の耳を疑って、何度も「どこから電話が」「誰を」「どうして」と聞き返したくらいだ。みんなもびっくり仰天した。なぜ、キルノフスカヤさんに電話がかかったからというと、彼女が総責任者として外部への窓となっているからだ。しかし、なぜ、トゥヴァ政府なのか。トゥヴァ政府にどうして私がここにいるとわかったのか。トゥヴァ政府にどんな関係があるのか。なぜ、トゥヴァ政府にとって、私が、すぐにクィズィールのアンガラ通り26番地に行かなければならないのか。それも、プロホディコ博士と一緒に。「ただちに」と言うが、どんな交通手段でか。
 だが、アンガラ通りと言うことで、すぐ誰が手をまわしているかわかった。ウブス・ヌール国際研究所の上級職員であるタチヤーナさんは、私の滞在先の指導者に電話してくれるよう政府に頼める立場にあるのだろう。私もキルノフスカヤさんもすぐそれに気がついた。それで、キルノフスカヤさんがタチヤーナさんに電話して事情を確かめるよう私に頼む。お互いに電話番号を持たないのだ。まずいことになったと思っていた私は、呼び出し音が鳴るとすぐ、キルノフスカヤさんに渡す。二人の電話はすぐ終わった。『ただちに』二人を届けることは難しい、と言ったので、タチヤーナさんが勝手に電話を切ったらしい。キルノフスカヤさんはタチヤーナさんに、もともといい印象は持っていないようだった。
「外国人がここにいるという報告はしてないのに、政府が知ったとは、ちょっとまずいわ」と、キルノフスカヤさんはつぶやいていた。が、連れてきて置いて行ったのはタチヤーナさんだが。
 すぐ、私の携帯が鳴って、取ってみるとタチヤーナさんだった。もう、逃れられない。直接話すしかない。「どうして今日、プリホティコ博士と一緒にクィズィールに戻らないの? 車はクィズィールまで今日は出るでしょう」と怒った声が聞こえてくる。
「車は朝早くに出ましたが(本当は9時近く)、乗れませんでした。明朝早くに出る車で博士と一緒に必ず行きます。もし、今日中についた方が良ければ、夕方タクシーで行きますが」と苦しい言い訳をすると、
「あしたでいいわよ」とつっけんどんに言って切れた。なぜ、外国人の私ばかりを責めて、直接博士に電話しないのか。
 地元クィズィールのロシア人準博士のタチヤーナさんと、モスクワからのプロホディコ博士、サンクト・ペテルブルクから毎年スポンサー付きで考古学調査に来ている準博士キルノフスカヤさんの3人は、大御所さんたちのようだが、仲よしと言うほどではなく、お互いに距離を取っている。
 キルノフスカヤさんは、タチヤーナさんがプロホディコ博士を連れて調査旅行に出かけることも、いつ出かけるかも、そのための車をどう都合付けたかも、すべて自分たちに全くかかわりのないことだ、と言う。その通りだ。
「タチヤーナだって、自分の調査費用をちゃんともらっているのだからね」と言って、政府からの電話の件は、これにて無視されることになった。
 しょげている私を、サンクト・ペテルブルクからの考古学者たちが慰めてくれた。運転手のユーリー・セメニチさんは、
「タカコ、トゥランまでなら送って行ってもいいぞ、そこでタクシーに乗せてやるぞ」と言ってくれる。キルノフスカヤさんに聞いたところ、トゥラン市からクィズィールまで800ルーブル位(2400円)だと言う。
 ちなみに、この場にはプロホディコ博士はいなかった。ガグーリへのピクニックへも彼女は特に誘われなかった。日曜日は仕事がないので、彼女は食堂で本を読んでいた。私はぶらぶらと近づいて行って、『トゥヴァ政府からの電話』について語った。にやりとした彼女は、自分はクィズィールには興味がない、アンガラ通りにも興味はない、これからの調査地にだけ興味があるのだと落ち着いて答えた。確かに彼女の名前は上がっているが、当事者的ではなく私に添えられたようなあげられ方だった。つまり、私に風当たりが最も強くなると言うことだ。確かに、後からタチヤーナさんに叱責されたのは私だけだった。

 ちなみにこの日、『森でバーベキュー』(ガグーリ盆地)から帰ったのは夕方8時半で、まだ日は沈んでいなかった。私はプロホディコ博士を探し、これからどうしましょうかと聞いてみた。驚いたことに、私達が出かけていた留守の間に、政府からの迎えの車が来たと言う。
「すごく立派な車だったわよ、政府の車とも思えないくらい。あなたたちがいなかったから、キルノフスカヤさんに電話したけど通じなかったわ。しばらく待っていたけど、これ以上待てないと帰っていったわよ。それは何時頃って?お昼過ぎだったわ。」と聞いて、私もキルノフスカヤさんも唖然とした。
「どうしてあなたは乗って行かなかったの」という私の問いに、博士は
「私だけ行ってどうなるの。タカコさんを待っていましたよ」と涼しい顔。でも研究するのはタチヤーナ・プルドニコーヴァさんとプロホディコ博士で、私はただ好奇心でくっついて行くだけなのに。
「今から、タクシーで行きましょうか、トゥランまでなら送ってもらえて、信頼できる車に乗せてもらえるそうですよ」と私。
「いいえ、暗くなってからは、私は絶対に車には乗りません」とプロホディコ博士は繰り返す。しかし、まだ日は沈んではいない、クィズィールへ着くまでまだ明るいだろう。しかし、断固とした博士の言い方だったので、二人で次の日の朝の車に乗ることにしたのだ。
 ウユーク盆地北の遺跡捜索
 この日、日曜日、朝の政府からの電話も無視することにし、準備が整って、サンクト・ペテルブルクからの考古学者たちやシャピーロさん、つまり、セミョーノフさんたちの仲間、それにタムバさんの10人で『セメニチ』車で出発したのは、12時近くだった。アルジャーン村を過ぎ、チカロフカ村の近くを通り過ぎ、クルトゥシビン山脈ふもとのウユーク盆地の草原にある道を進んで行った。見えるものはただ草原と、遠くや近くの丘だけだ。草原を行く間は道もよかった。アルジャーン村より奥へ行くのは、初めてだ。
ウユーク川上流
クルトゥシビン山脈の北はクラヤル地方エルマコフ区、南はトゥヴァ共和国ピー・ヘム区
 北はクルトゥシビン山脈、南はウユーク山地にはさまれたウユーク盆地は東西に約80キロ、南北に30から40キロで、ビー・ヘム(大エニセイ川)の支流ウユーク川(143キロ)の中下流とその支流のみが蛇行して流れている。ウユーク川がビー・ヘムへ注ぎ込んでしまう合流点より38キロ上流に、トゥラン市中をも流れるトゥラン川(40キロ)が流れ込む。ベーロエ・オーゼロ(湖)はウユーク川にはつながっていないが(6キロ離れている)、ウユーク川の水域に含まれる。
 さらに遡れば、ウユーク川はカシュペイ岩山の南側を迂回して流れるが、アルジャーン村は北側にある。チカロフカ村は、少し遡ったウユーク川の畔にある。ビー・ヘムへの合流点(河合)から92キロも上流地点に、北のクルトシュビン山脈から流れて来たタルラック川(21キロ)が流れ込む。
 シャピーロさんと一緒にルーフから顔を出して、草原の全景を撮っていた。ルーフには、今日のバーベキューの肉が摘んである。調味料に浸した容器に入れて、ロープで縛ってある。きっと屋根で温めた方が味が染みるのだろう。アルジャーン村も過ぎると、申し訳程度のアスファルト舗装もなくなるので、ゆっくり進み、道はチカロフ村の手前で沼地の多いウユーク川と離れて、北の山地と平行な斜面を進む。タルラック村の標識が見えたのは12時半ぐらいだった。タルラック村は、タルラック川の畔にあって、沼地の多い下流ではなく上の斜面にある。タルラック村はトゥヴァ行政地図に載っていて、クルトゥシビン山脈にかなり近い。ちなみに、1895年からロシア人が定住してできた村らしく、20世紀初めのロシア語の地図にも載っている。現在の人口は500人。  
タルラック村、ルーフから写す
マリノフカ(無人)村(車のルーフから撮る)
この近くで土器の破片や古墳があった


 このタルラック川から2キロほどの斜面に、1888年ロシア人考古学者によってエニセイ石碑が見つかった(全部で200基ほど発見されたものの1基)。中世キルギス時代のエニセイ文字(突厥文字の一つ)が縦2行に書かれたものだった。1916年には、いかだでミヌシンスク市の博物館に運ばれ『エニセイ1』として保管されている。ちなみに、2012年、アイ・ベック・サスカルさんとオットゥク・ダッシュ村近くを通ったが、その近くの岩山で見つかった石碑は、『E−4』,『E−54』,『E−64』(Eはエニセイを表す)と整理番号が振られている。
 次第に高い山々が近づいてくる。が、まだ斜面の草原の中を道が続いている。近くの低い山にはまばらにしか木が生えていない。30分も行ったところでまた人家が見えた。10万分の1の地図ならマリノフカ村(無人)と載っている。ウィキマップにはマリノフカ農場と載っている。通り抜けてみると、数軒の家があり子供もいて、家畜も多く、小さいが普通の村だった。家の前には、動かそうとする時には、その度に修理しなければならないような古いごついトラックがあるのも、普通の村のようだ。しかし、マリノフカ村という名はトゥヴァ共和国ピー・ヘム郡の8個の行政区のどこにも含まれない。『集落間地』というのかもしれない。トゥヴァ人の遊牧季節営地というより、ロシア移民の定住地に似ている。帰国後ネットで調べてみたが、これ以上はわからなかった。
   (追記: 1970年代、旧マリノフカ村より6キロ東に古代灌漑設備跡と約20基の古墳が調査されている)
 マリノフカ村でまたウユーク川に近づくが、川はもう山川で、川岸には湿地もない。道の下に蛇行して流れるウユーク川が見える。やがて、ちいさな左岸支流に沿ってクルトゥシビン山脈の方へ上って行く。すると、山の斜面の草原に立派な立ち石(石柱)があった。草原の中にすくっと付き出て、しめ縄ではないが、白い布でまいてある。チャラマだ。よく見るために、車を止めて、みんな降りた。今日のドライブの名目は未調査地帯の踏査なのだから。
 キルノフスカヤさんたちはすぐ、土器の破片などを見つけたらしい。この立ち石は古代の古墳の一部なのかもしれない。現在のトゥヴァ人も、(自分たちの祖先が立てた)古い立ち石を崇めている。時代はわからないが、クルガンもある。しかし、こんなところは発掘調査もしない。これら遺跡はウユーク盆地に巨大なクルガンを幾つも作ったスキタイ人のものか、時代がもっと新しい古代ウイグル人のものかは分からないが、みんないいところに住んでいたものだ。川は近いが湿地ではなく、山は風を防ぎ、斜面には青々とした広い牧草地がある。
 ちなみに現在のトゥヴァ人の祖先がこの地に現れたのは中世以降とされていて、スキタイ人との関係は不明。むしろ、全く別の民族とされている。
 自然保護区ガグーリ盆地
 立ち石の草原を過ぎると山道は険しくなった。道の両側に見えていた草原の代わりに木々が現れた。つまり、高度が上がっていることが分かる。そして、峠がある。峠には必ずチャラマが結んであって、ここは黄色いリボンだった。
 峠を越えると、森の中にパリャーナ(林間の空地、そこだけ木の生えてない草地)があって、朽ちた柱が数本立っていた。遊牧基地だったのか、林業コルホーズ跡か、砂金業者の飛び地だったのかわからない。現代の行政地図では、もうここはトゥヴァ共和国ピー・ヘム郡ではなくクラスノヤルスク地方エルマコフ区だ。20世紀初めのロシア語の地図では、ここはトゥヴァ領で、ガグーリと言う集落名と1897という年号が記されている。現代の行政境界はクルトゥシビン山脈の分水嶺。今越えて来た峠は、狭間の1549mと地図にある。20世紀初め頃までウリャンハイ(トゥヴァ)からクルトシュビン山脈(サヤン山脈の支脈の1)を越えてクラスノヤルスク(ロシア帝国)へ入るには、いくつかの山越え峠道があって、これがその一つだ。
峠のチャラマ
ガクーリ保護区と書いたプレート
(車のルーフから移す)
ガグーリ盆地

 この現代の行政境界を越えたクラスノヤルスク側には24,628ヘクタールのガグーリ盆地自然保護区が広がっている(琵琶湖は670平方キロで、この保護区の約2.5倍)。2007年に制定されたので、黄色の標識も新しい。絶滅危惧種のユキヒョウや森林トナカイ、シベリア山岳ヤギ、黒コウノトリやマヌール(ヤマネコの1)や、植物ではサヤン・トリカブト、アルタイ・タカトウダイなどを保護するためにできたそうだ。
 パリャーナ(林間空地)を通り過ぎ、森の中を進んでいくと、すぐに広い草原が見えてきた。クルトゥシビン山脈のこんなに近くの麓に、こんなに広い盆地が開けているとは。
 これが桃源郷のようなガグーリ盆地だった。遠くに数軒の家が見える。保護区の管理人か、元々の村民かわからない。クルトゥシビン山脈のクラスノヤルスク側は、もうウユーク川流域ではなく、ウス川流域となる。ガグーリ盆地を流れるのはウス川左岸支流のチョープラヤ(暖かいの意)川だ。ウス川は、西サヤン山脈のクラスノヤルスク側を236キロも流れてきて、エニセイ川(サヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖だが)に流出するが、その59キロ手前で、クルトシュビンスカヤ山地から流れて来たチョープラヤ川がそそぎ込む。チョープラヤ川も長さが40キロあり、その上流をガグーリ川と呼ぶらしい。ガグーリ盆地はサクソナク川(16キロ)と言う支流が流れる。
   (追記:チョープラヤ川谷にも、新石器時代の住居跡が発見されている)
 チョープラヤ川の上流に、こうした盆地があり、その盆地もクルトゥシビン山脈越えの峠に近くにあるせいか、この道は現在の観光地図には載っていないが、ソ連時代は僻地コルホーズを結ぶ道として、林道をごついトラックが(たまに)走っていたのだろう。チョープラヤ川の上流ガグーリ川に沿って行くと、クラースニィ・オクチャブリ『10月赤色革命』コルホーズ(今は無人)があり、その先はエニセイ川。チョープラヤ川の下流を進めばウス川に出て、川沿いにヴェルフナヤウシンスコエ村へ出られる(出られた)。昔の集落は砂金採集基地だった。
 ガグーリ盆地の入り口で、ユーリー・セメニチは自分の車を止める。これ以上進んでも、何もありません、バーベキューができるような場所もありません、ガグーリ川の沼地にはまるだけですと言う。私は、この盆地を突っ切りたい、と心の中で切望したが。
 一応、この折り返し点で降りて、草原の花を摘んだり、写真を撮ったりした。桃源郷にだって沼地がある。ここには桃の木はないが、山々に囲まれ広く静かな緑の盆地が、別世界のように穏やかに見えた。冬になれば、まわりの山の木々は残るが、草原はただ白い雪原になってしまう。
 しばらくぶらぶらしていただけで、私たちは引き返した。私はもっと遠くまでも歩きまわりたかったが。
バーベキュー
 元来た道を通り、バーベキューができる川岸を探さなくてはならない。しかし、峠の近くで、深い轍跡の泥にはまってしまい動けなくなった。来るときははまらなかったのに。
 しかし、この程度は大したことはない。ウインチがある。けん引ロープを道路脇の太い木に結び付けて、難なく脱出する。ロープだけでは引っ張ってくれる車が必要だが、巻き上げ機があれば、樹木や岩などを介してワイヤのフックを自車に引っかけ、ウインチで巻き取れば、脱出できる。こんな場面を見たのは日本の都会育ちの私は初めてなので、ユーリー・セメニチさんの車に感心する、と彼は喜んでくれた。私は、ロープを出すときも結びつける時も納めるときも何も手伝わずに眺めていただけだが。
ウユーク川上流
テーブルが準備される
チンゲ・テイ古墳に立つタムバさん


 峠の黄色いチャラマから40分も戻ったところのウユーク川畔の川岸にほどよい場所を見つけ、バーベキューをすることにした。私たち女性5人は、トマトやキュウリなどの野菜を持って、木々の間を通り、少し離れた川岸に行く。男性の目の届かない所で、水浴びをするためだった。ロシア人は、気持ちのよさそうな川や湖を見ると、必ず服を脱いでひと浴びするものだ、と私は思っている。私は怠け者だから、足さえつからない。彼女たちは、服を全部脱いで首までつかり、
「おっ、ここの水は冷たいわ」と叫んでいる。「タカコ、どうして、あんたは水浴びしないの?気持ちいいわよ」と言われる。
 豪快だなあ。写真を撮りたかったが、それはだめだ。私は、岸辺でみんなの裸体を見ていることになった。彼女たちはちょっと泳いですぐ上がってくれた。自分たちと一緒に洗ったトマトやキュウリを持って戻ると、もうバーベキュー場にはシートも引いてあり、ユーリー・セメニチがピクニック用テーブルといすを組み立てているところだった。
「このいすにはタカコは座っていいが、シャピーロはだめ」と言っている。ちゃちな組み立て椅子なので重量制限があるからだ。サンクト・ペテルブルクからの考古学者エルショーヴァさんが座ろうとすると、ユーリー・セメニチは、「だめだめ」と叫ぶ。キルノフスカヤさんはエルショーヴァさんの半分くらいの幅だが、自分からシートの方に座った。この特等席に座れたのは、私とセミョーノフさんとラザレーフスカヤさんと小柄なトゥヴァ人タムバさんだけだった。『ただ交じり』の私なのに、ユーリー・セメニチさんに勧められて肉もたっぷり食べた。私以外のみんなは、コニャックやワインを飲んでいた。ロシアでは今ではアルコール飲料を決して無理に勧めない、ので助かる。
 セミョーノフさんが、詩集を開いて朗読を始める。自分の詩集だった。限定出版物なので書店へは回らないそうだ。ロシア語の会話がやっとわかる私には、詩は難しい。みんなと一緒に拝聴していた。
 2時間半ほどウユーク川畔にいて、6時頃には、引き払った。タルラック村を通り過ぎ(7時半)、来た時は寄らなかったチカロフカ村のクルガンに寄る(7時40分)。チンゲ・テイ(チンゲ・ダック)というこのクルガン群はエルミタージュ美術館のコンスタンチン・チュグノーフ氏が発掘しているそうだ。クルガンは70余メートルだが、周りが堀に囲まれている。その堀も含めると直径は100メートルを超える。「貴金属がまだ発見されず、センセーションにならないのは発掘にはいいことだ、保存のよい皮や木片が発見されている。」とインタビュー記事でチュグノーフ氏が述べている。
http://www.tuva.asia/news/tuva/3876-skify.html
 『ベーロエ・オーゼロ』クルガンも、黄金の見つかった『アルジャーン2』クルガンも、アルジャーン村の東(ウユーク川の下手、トゥラン市の方向)にある。アルジャーン村の周りばかりか、ウユーク盆地全体には大きいクルガンだけでも数百はあるのだ。特に、今走ったアルジャーンからタルラック村の間の草原盆地には、高さ20m、直径100mのクルガンも多い。上空からなら、ドーナツのような形のクルガンが、鎖状に並んでいたり、碁盤の目のように並んでいるのがわかるだろうが、地上の道を走るだけでは、私などは、みんな自然にできた丘だと思ってしまう。普通に草が生えているのだから。しかし、慣れた目で見ると、自然物か人工物かはすぐわかるそうだ。
 アルジャーン村まで戻ると、私たちのキャンプ場も近い。もう、日の光が斜めに長くなっていた。『アルジャーン1』古墳のあった場所も通り過ぎたが、『1971年から1974年発掘。直径120mのトゥヴァ最大のクルガン』と書いてあったはずの標識すらなくなっている。これは、車の窓から元のクルガン跡を探していたラザレーフスカヤさん(サンクト・ペテルブルクからの考古学者)が呆れて言ったことだが。
 8時半には『カシュペイ』キャンプ場に着いた。ここでプロホディコ博士から聞いた『政府からの迎えの車』の話は前述の通り。
キャンプ場の蒸し風呂
 カシュペイ・キャンプ場では、ヴィクトルと言う青年が、トゥヴァの土産物を持って、私の帰りを待っていた。と言うのは、前の日の朝、食堂でブルックスのドリップ・バック・コーヒーをシャッピーロさんたちにご馳走していたのを見ていたコック手伝いのヴィクトル君が、自分にも欲しいと言ってきたので、一袋あげた。この日の朝、彼が私に言うには、
「これを自分の小さな息子に見せると、とても喜んだので、もし、まだあるならもっと欲しい、今日の日曜日、自宅のトゥランに戻るので、お礼のお土産品を持ってくるから」。残っていたのは3袋だけだったが、みんなあげた。コーヒー好きのロシア人だが、個装のドリップ・バックはないらしい。ロシアへ行く時、てごろなお土産品として持っていくことはあるが、かさばる。ヴィクトル君のお礼のお土産品とはトゥヴァ風模様のサイコロ・カレンダーだった。ヴィクトル君と名前がわかったのは、お土産品の底に記念の言葉を書いてもらったからだ。
日没の頃

 明日はキャンプ場を去ってクィズィールのタチヤーナさん宅だが、たぶんシャワーを浴びる間もなくすぐバイソートへ出発となるだろう。今日のうちに浴びておこうと思ったが、サンクト・ペテルブルクからのラザレーフスカヤさんたちがもう順番をついていた。あきらめてテントに入った頃、蒸し風呂が空きましたよと、わざわざ知らせてくれたので、一人で入った。ロシアの田舎の蒸し風呂はとても不便なものだが、キャンプ場の蒸し風呂は、もっと難しい。外で服を脱ぎ、小さな釘に、着替えもタオルもみんなひっかけて土の上で靴を脱いで入らなくてはならない。1週間もいたのに、今回が2度目だった。初めの時はキルノフスカヤさんと一緒だった。彼女はセミョーノフさんのつっかけを貸してくれ、一緒に入って一緒に出た。大きな盥に柄杓でお湯と水を汲み、頭も体も洗わなくてはならない。
 この日、一人で入っていると、外から「入ってもいいですか」と若い女性の声がした。「どうぞ」と言うと、入ってきたのはスマートな女の子だった。先に出て、服を着て靴もはいた。これがむずかしい。外の地面の上にはだしで出て、地面の上で、乾いたきれいな足に靴下をはいて靴をはくのは、薄暗い時は特に大変だ。だが、体を洗えただけでもいい。この時を逃すと、さらに4日ほど洗えないところだった。
 薄暗かったので、帰りの小路もよくわからない。蒸し風呂小屋へはたった2度しか来たことはないし、テント場から少し離れているからだ。ウユーク川の岸辺に作ってあり、草丈が高くて見晴らしが悪く、方向がよくわからない。あせって、歩いていると、見知らない場所に出た。みんなのテントのある場所がわからない。うろうろしていたが、なんとか元の蒸し風呂小屋に戻ることができた。
「これはあなたの腕時計ではありませんか」と、もう上がって服を着ている先ほどの女の子が声をかけてくれた。
「あ、そうだわ。急いでいたので落としてしまったのだわ。見つけてくれてありがとう。ちょっと道に迷ってしまったの。どちらへ行けばいいのかしら」
「まあ、私はあなたが蒸し風呂の後、岸辺を散歩なさっているのかと思っていました」。
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