up date | 21 January, 2014 | (追記 2014年2月24日、2016年6月17日、2018年11月4日、2019年12月9日、2021年10月19日、2023年2月16日) |
31-(9) トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (9) 西トゥヴァ盆地 2013年6月30日から7月27日(のうちの7月19日) |
Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)
月/日 | 『トゥヴァ紀行・続』目次 | ||||||
1)7/2まで | トゥヴァ紀行の計画 | クラスノヤルスク出発 | タンジベイ村 | エルガキ自然公園 | ウス川の上と下のウス村 | ウス谷の遺跡 | クィズィール着 |
2)7/3-5 | クズル・タシュトゥク鉱山へ | 荒野ウルッグ・オー | 夏のツンドラ高原 | 鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場の崖上 | ビー・ヘム畔 | ミュン湖から | |
3)7/6,7 | トゥヴァ国立博物館 | ビーバーの泉、新鉄道終着点 | 聖ドゥゲー山麓 | トゥヴァ占い | 牧夫像 | ||
4)7/7-9 | 『王家の谷』へ | 国際ボランティア・キャンプ場 | 考古学者キャンプ場 | モスクワからの博士 | セメニチ車 | 発掘を手伝う | 『オルグ・ホヴー2』クルガン群 |
5)7/10-12 | 『王家の谷』3日目 | 連絡係となる | 古墳群巡回 | シャッピーロさん | ショイグとプーチンの予定 | パラモーター | |
6)7/13,14 | 地峡のバラグライダ | 政府からの電話 | ウユーク盆地北の遺跡 | 自然保護区ガグーリ盆地 | バーベキュ | キャンプ場の蒸し風呂 | |
7)7/15 | 再びクィズィール市へ | 渡し船 | 今は無人のオンドゥム | 土壌調査 | 遊牧小屋で寝る | ||
8)7/16-18 | オンドゥムからバイ・ソート谷へ | 金採掘のバイ・ソート谷 | 古代灌漑跡調査 | 運転手の老アレクセイ | |||
9)7/19 | 西トゥヴァ略地図 | エニセイ左岸を西へ | チャー・ホリ谷 | 鉱泉場への道 | 西トゥヴァ盆地へ | トゥヴァ人家族宅 | |
10)7/20,21 | 古代ウイグルの城塞 | 石原のバイ・タル村 | 鉱泉シヴィリグ | ユルタ訪問 | 心臓の岩 | 再びバルルィック谷へ | |
11)7/22 | クィズィール・マジャルィク博物館 | 石人ジンギスカン | 墨で描いた仏画 | 孔の岩山 | マルガーシ・バジン城塞跡 | ||
12)7/24-27 | サヤン山脈を越える | パルタコ―ヴォ石画博物館 | 聖スンドークとチェバキ要塞跡 | シャラボリノ岩画とエニセイ門 | 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 | クラスノヤルスク |
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。
サヤノ・シューシェンスカヤ発電所ダムのできる前 1942年作成地図『極秘・1966年版、シャガナール区』とある | ||||||||
1975から80年作成地図、1986年版 さらに西トゥヴァの略地図はこちら | ||||||||
クィズィール出発、エニセイ左岸を西へ | ||||||||
前もって決めておき、時々電話で確認しておいた通り、この日の朝にスヴャトスラフさんが来ることになっていた。迎えに来たスヴァトスラフさんの車でクィズィール市を出発し、クラスノヤルスクに戻るのだと、タチヤーナさんに言ってあった。プロホディコ博士は、その時、同乗して『王家の谷』に戻ると当てにしていたのかもしれないが、私たちは近道のトゥラン経由でクラスノヤルスクには戻らず、アク・ドヴラック経由の地方道162号線で1週間余トゥヴァを廻ってクラスノヤルスクに戻るのだ。そう言うと、トゥヴァは危険な地である、とタチヤーナさんは何も知らないはずの外国人の私にお説教を始める。 「(老)アレクセイも言っていたでしょう」と言う。「そのスヴァトスラフさんと言うのは何をしている人なの?」と聞く。 「ミュージシャン」と答えてしまった。それは定職なしの若いヒッピーのようにとったのか、私のために余計心配してくれる。いや、スヴァトスラフはもう50歳も出ている大人で、クラスノヤルスクの音楽学校でピアノの教師をしている。彼は、トゥヴァはほとんど初めてだが、知り合いもいるそうで、私たちはそこを頼って行くのだ、と説明して少し安心してもらう。 プロホディコ博士がサンプルの土を小包にして郵便局に出しに行っている間に、スヴァトスラフさんはタチヤーナさんのアパートに到着して、彼女と朝食を食べながら話していた。彼女は古代灌漑農業の話をして、彼は自分の改造車の話をしていた。 スヴァトスラフさん自慢の改造超高駆動車 『M76』(とかいうの)に荷物を積み込んで、地方道162号線を西に向けて出発したのは10時過ぎ。この道でクィズィール市からアク・ドヴラック市まで約300キロしかないが、1日で通り過ぎるのはもったいない。スヴァトスラフさんはトゥヴァを全く知らないが、かなり精巧なナビをセットしている。私は地図と観光案内書、それにアイフォンに20万分の1の地図の一部をコピーして入れておいた。 初めのうちは、スヴァトスラフさんに寄り道を頼むのを遠慮していた。だが、まずはクィズィールから40キロのほぼ道沿いには『アルディン・ブラック』がある。2012年には2度訪れて、丹念に見て回ったものだ。絶好のロケーションの中に、手(資本)が入って、トゥヴァ観光客にはなかなか悪くない名所になっているかもしれない。家畜の頭蓋骨を飾ったポール(馬繋ぎ柱)や、あずまや、見晴らし台があり、チベット仏教風寺院(のコピー)や、シャーマンの儀式用広場もあって、スキタイ風インテリアと言うレストランで喉歌(ホーミー)の演奏も聞け、王侯ユルタに宿泊でき(それはスウィート級で、普通級のユルタも、トッジャ風のチュム、これは物好き級もある)、この谷間もハン(王)の夏営地だったと言うから、ここだけでトゥヴァのことは一通り体験もできるように作ってある、のでちっとも面白くない、が一応寄る。ロケーションにぴったりの『アルディン・ブラック(金の矢)』と言う名称も、どうやら剽窃で、アルディン・ブラックと言う村は別にあった。その村は、今はアクスィ・バルルィクと改名させられているとか(偶然にも、その日の夕方そこへ行く)。 昼間のせいか観光客や宿泊客は見かけなくて、修理か新築かの土木関係男性たちや、施設管理者らしい男性や、従業員らしい女性がいるだけだった。私はユルタの間や広場を歩いて見て回ったが、スヴァトスラフさんは自分の車から離れなかった。(盗難がありうる。彼は安全でない時は車から夜も離れない)。数分後出発したが、スヴァトスラフさんによると、仕事をしているのは中央アジア出身者とのこと。つまり、ダジク人たち出稼ぎ労働者らしい。さらに、トゥヴァ人はきつい仕事はしたがらない(怠け者だ)、ここでは失業者が多いのに他から労働者を雇っている、と付け加える。(クラスノヤルスクでも建築現場で一輪車を引いているのは中央アジア系の顔だが)
地方道162号線は、低い丘陵や平原の連なるトゥヴァ盆地を東西に走っている。シャガナール市(クィズィールから110キロ)を過ぎるころまでは、ウルッグ・ヘム(上流エニセイ川)の左岸(南)を進む。だから道路が丘の上などを通る時はウルッグ・ヘム川の流れも見晴らせる。また、ほとんど地平線しか見晴らせない草原を通る時も気持ちがいい。クィズィールから約150キロのところにスィーン・チュレーク(赤鹿の心臓の意)というピラミッド状の岩山がある。その岩山の南東と東斜面には300個にも及ぶ青銅器時代から中世チュルク時代の岩画のあることで有名だ。東麓には晩期スキタイ時代の大型クルガンが20基以上あって、発掘調査済みだ。草原の中にピラミッド状に突き出ているスィーン・チュレークは、それだけでもユニークな自然物だ。国道を走りながらでも見つけられる。道路に案内板のようなものさえ立っていた。寄ってみたいと思ってスヴァトスラフさんの横顔を見た。彼は真っ直ぐ前を見て、多分、終点のテエル村(正確にはアクスィ・バルルィク村)のことだけを考えて運転しているように見えた。そこにディアーナと言う教え子がいて、一応連絡がついて、今晩はそこで宿泊する予定だ。クィズィールの音楽学校の打楽器の先生のヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんとは確認の連絡がどうしても取れない。彼はシヴィリック鉱泉場にいる。自宅の電話も、携帯も通じない、通じてもすぐ切れると運転しながらスヴァトスラフさんはいらついている。だから、頼みそこねた。 と言うよりも、今回こそ、チャー・ホリに行きたいと思っていたのだ。岩画が数千もあるムグール・サルゴンと言うウローチッシャ(場)が、チャー・ホリを通り過ぎてエニセイ川岸にあると、2012年オルラン君に聞いた。岩画を見たいならそこへ行くといい。サヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖に大部分は沈んでしまっているが、水位の低い時期なら見られる、という。旅行案内書にも、ムグール・サルゴンについては、ダム建設のための地形調査で発見され、考古学的にも芸術的にも価値ある岩画が多いが、到達困難なところだと載っている。だいたい、今のチャー・ホリも新チャー・ホリで、元々のチャー・ホリはダム湖に水没している。 |
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チャー・ホリ谷 | ||||||||
実は、今回のトゥヴァ旅行の目的の一つが、ムグール・サルゴンに行くことだった。だから、7月7日に、クィズィール市の博物館でオーリャ・モングーシュさんと会った時も、行き方を聞いた。彼女は、そこはもう水没しているかもしれない、オルター・サルゴンと言うところもある、と教えてくれた。それで、『王家の谷』に滞在中、キルノフスカヤさんにオルター・サルゴンへの行き方を聞いておいた(つもりだった)。キルノフスカヤさんは思い出しながら略地図も書いてくれて、到達はとても困難だ。岩画を見つけるのはもっと難しい、と言っていた。略地図もあまり正確ではないかもしれないとも。ムグール・サルゴンもオルター・サルゴンもチャー・ホリ郡にあり、道は、もしあるなら、チャー・ホリ村からある。 サヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖は西サヤン山脈の出口にある巨大なサヤノ・シューシェンスカヤ・ダム(2009年の事故までは出力はロシア最大)でエニセイ川がせき止められてできた長さ312キロもの人造湖だ。湖の長さ312キロのうち、ダムまでの(川下の方の)の235キロはクラスノヤルスク地方やハカシア共和国のサヤン峡谷にあり、だから、幅は狭いが、深さは30mから220mもある(ロシアの人口湖では最深)。残り、川上の方の77キロがトゥヴァ共和国にあり、そのうちでも52キロがトゥヴァ盆地にある。トゥヴァ盆地のシャガナール市からチャー・ホリ村辺りまでが最も幅が広くなっていて、最大9キロにもなる。ダムの操業開始は1978年だが、ダムができる前の1966年の地図では盆地の中をウルッグ・ヘム(上流エニセイ川)が何本もの大小の側流となって流れ、多くの中州があり左岸(南岸)は広く低地になっている。ここから250キロも川下だが、高さ245mものダムでせき止めたため、幅9キロもの人口湖ができたわけだ。 旧シャガナール市や旧チャー・ホリ村はこのエニセイ川左岸にあり、エニセイ川を利用した物資の輸送基地として19世紀末、中国商人やロシア商人の作った集落だ。
特に旧チャー・ホリ村は、清朝中国の領土だったウリャンハイ地方がロシア帝国保護領となった20世紀初め頃、ベロツァルスク(クィズィールの旧名)ができるまで、最も重要な商業拠点だった。ちなみに、当時は中国商人にジャクリと呼ばれていた。(チャー・ホリは中国風にチャ・クリと言って、それがジャクリに)。1910年ウリャンハイ地方を探検したサンクト・ペテルブルクのロデヴィッチによると『ジャクリにはロシア人の商家が10軒、中国人の店が5軒あり、その周りにトゥヴァ人(ソイオートと当時呼ばれていた)のユルタが張ってある。定住のロシア人が50人、中国人は15人ほど、トゥヴァ人は50人ほど数えられる』とある。 20世紀初めには、最大の村で新首都候補ですらあった旧チャー・ホリも、首都は新建設のクィズィールに譲り、1970年代のダム建設で大きく場所を移動し、新チャー・ホリ村となり、現在人口3000人余でトゥヴァ共和国では14番目の寒村だ。ダム建設前までは主要道(今の地方道162号線)は旧シャガナールから旧チャー・ホリ村へエニセイ川左岸(南岸)を走り、旧チャー・ホリを過ぎると岩山があるので川岸を離れ南西に曲がり、西トゥヴァ盆地とも言われるヘムチック盆地のチャダン市に向かう。(ちなみに、東トゥヴァ盆地はウルッグ・ヘム盆地とも言う。ヘムチック(川)もウルッグ・ヘム(川)もそれぞれの盆地の中心を流れる大河だ) 今、地方道162号線は新チャー・ホリへは行かず、シャガナールから近道してチャダンに通じている。中ほどにアク・ドゥルグと言う村があり、そこから北へ延びる道を行くとダム湖からほど近い新チャー・ホリ村に出られる。 私たちは、チャー・ホリ川(90キロ)の中流にあるそのアク・ドウルッグ村の曲がり角にある食堂で食事して、念願のチャー・ホリに向かった。チャー・ホリは新しく作った村なので道路が整然としている。だからすぐに通り過ぎてしまう。だが、誰かにオルター・サルゴンへの行き方を聞かなければならない。村の中でも尋ねた。村はずれでも尋ねた。いくら有名でも、古代の岩画などには村人は関心がない。考古学調査隊に現地作業員としてたまたま雇われた人でなくては、まず知らないものだ。 キルノフスカヤさんが書いてくれた略地図では、チャー・ホリ村を通り過ぎ、バシュ・ダッグと言うダム湖近くの岩山を迂回し、シャンチィ村の方へ進むとアジル・スグと言う村があって、そこからアルガルィクトィと言う山に入ると、その山中にオルター・サルゴル岩画があると言うものだった。だから、アジル・スグという村をまず探したが、みんな知らないと言う。村外れでたむろしていた女の子に尋ねると、「あっちの方よ、でも遠いわ」と、私たちの車が向いている方を指して言われる。つまり、誰も知らない。スヴァトスラフさんのナビでも、私のアイフォンに入れた20万分の1の地図コピーでもわからない。だが、チャー・ホリ村の奥と言う未知の場所を、とにかく先に進むことにした。
すぐ青いダム湖が見えてくる。対岸の岩山を見ながら、トゥヴァ晴れの広い青空の下、低い草がところどころ固まって生えているほかは、ほとんどむき出しの土の上を行く。見渡す限り、動くものはない。ダム湖と岩山と砂漠に生えるような草と土と石ころの他は何も見えない。ごみさえ落ちていない。家畜の糞もないが、疎らな草の間に道がある。やがて十字路に出ると、そこに現地人のものらしい車が止まっている。スヴァトスラフさんにアジル・スグへの道を聞いてもらった。そのトゥヴァ人運転手自身、この十字路でどの道を言ったらよいかわからずに、他の車が来るのを待っていたそうだ。私たちも地元のものではないと知って、その車は直進して行った。右手の道はダム湖の方にあり、直進の道は、ダム湖と平行に進み、左手の道はチャダンへ行く旧地方道162号線だ(と後で地図を見てわかったのだが)。 目的地は、ダム湖に水没しそうなところであるはずだから、右のダム湖の方へ行くことにした。しかし、この道は、真っ直ぐダム湖に進み、そこで終わる。昔はたぶん、今はダム湖の中ほどにある旧チャー・ホリに通じていた道なのだろう。ダム湖岸に沿って先(川上)に進むことはできない。岩山がダム湖に突き出て絶壁になっているからだ。どこかに道はないかと、この半砂漠の中のかなり険しい岩山の麓の荒野を走り回った。そのうち、元の十字路に戻ったので、今度は直進の道を行くことにした。このウルッグ・ヘム(エニセイ川、ここではダム湖)と平行に通じている道は、最高1500m程の岩山に囲まれ東西に細長く延びたチャー・ホリ谷、またはシャンチ谷という地帯にある。この岩山があるのでチャー・ホリより川下のエニセイ川(ダム湖)は、幅が広がれない。シャンチ谷(チャー・ホリ谷)は、チャー・ホリ川左岸(西岸)のボシュ・ダック岩山からシャンチ村あたりまでつづく。その先はまた岩山になり、ヘムチック川の渓谷がある。 シャンチ谷の北側にあるエニセイ川とヘムチックに沿った岩山との間の急斜面にかつて『チンギスカンの道』と呼ばれた道があった。今、ダム湖は岩山の真下まで来ているので『チンギスカンの道』の大部分は水没している。1914年、この地方を探検した英国人カルテルスによると『ジャクリ(今のチャー・ホリ)とヘムチック川の間に幅6ヤードもの立派な石畳の道がある。周りの草原より高く、道の両側には溝がある。道路面は平らで堅牢、現代英国の道路に劣らない。ジャクリ谷をヘムチックへ真っ直ぐに50マイルほど伸びている。当時、このような道路が必要なほど交易が盛んだったはずはない。この造営物の目的は不明である』とある。チンギスカンと名はあるが、これは13世紀のチンギスカンには関係のない8-9世紀のウイグル族の城壁だ。トゥヴァに十数基あるウイグル城壁のうちの一部かもしれない。 ムグール・サルゴル、オルター・サルゴル(これら岩画の年代は青銅器時代からウイグル時代)や、『チンギスカンの道』は、ダム湖建設にあたってチャー・ホリ川とヘムチック川の間の水没予定地区を調査した資料に詳しい。ムグール・サルゴンの場所はウィキマップにも載っている。 しかし、これらすべては、帰国後わかったことで、この時はキルノフスカヤさんの略地図を頼りに、現地の人に聞いて、たどり着こうと思っていた。しかし、この半砂漠の谷間には現地の人はいない。私たちは、右手にかなり険しい岩山を見ながらともかく進んだ。方向としては、その岩山の向こうにエニセイ川(ダム湖)があるはずだが、離れてしまっているかもしれないし、近づいているのかどうか、アジル・スグ村やアルガルィクティ山脈はどこら辺にあるのかさっぱり分からない。動くものは、相変わらず見あたらない。 |
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岩画を探す アジル・スグ、実はアジッグ・スグ鉱泉 | ||||||||
やっと、向こうに砂煙をあげている1台の(ぼろな)車が見えたので、止めて聞いてみることにした。スヴァトスラフさんに降りて、近づいてくる車を道路端で待ってもらった。その車は、スヴァトスラフさんを通り過ぎて数メートルも行ってから止まる。ブレーキの効きが悪いのだそうだ。 「アジル・スグ(と言っているように聞こえた)への曲がり角は、ほら少し戻ったところにあるよ、標識も出ているぞ、山裾にユルタのある場所を入って行くのだ」と、言われる。喜んで私たちは、引き返し、道路標識を探した。細い柱に小さく書いた標識が車の進行方向から見えないように立っていた。そこから、確かに岩山の方へ向かった道が伸びている。実はこれまでも岩山の方へ伸びている道は幾つかあったが、麓にあるユルタまでで行き止っているような道ばかりだった。 この道に入って行ったのが3時半ぐらい。裾野のユルタを通り過ぎると、岩山は急に険しくなった。地衣類しか生えていないような岩が両側から迫り、その間をくねくねと曲がりながら急坂を上って行く。道ができていることが不思議なくらいだった。途中に、外車(古い日本車かもしれない)が1台ボンネットを開けて止まっていた。エンジンが過熱したのだろうとスヴァトスラフさんが言う。狭い道だが追いぬけた。下りてくるバイクとすれ違う。道端にさびた車体の屋根が捨ててある。
とうとう道の真ん中に、坂道を登りきれないワンボックス・カーが止まっていて、降りた乗客が押したり引いたりしている場所に来た。満員のマイクロバスだったらしい。女性の乗客は近くの岩の途中に座って眺めている。トゥヴァ人男性がトゥヴァ語で私たちに「通れないよ」と言っているようだった。スヴァトスラフさんが降りて様子を見に行ってくれた。彼によると、ギアを落とせば、斜面の路肩を通って、この道の真ん中に止まっている車を迂回して追い越せるだろうとのこと。 斜面に車輪を乗りあげながらも、本当に迂回できた。眺めていたトゥヴァ人も『素晴らしい』の印に親指を立てる。スヴァトスラフさんは得意でたまらない。 後のことだが、スヴァトスラフさんは自分たちのトゥヴァ旅行は危険なものであったが、 「被害に遭わなかったのは、タカコ・サンがトゥヴァ女性に似た顔つきだったことと、自分の車があまりにも超高駆動でトゥヴァ人をも驚愕したためだ」とメールに書いてきた。事実、この時の追い越しとトゥヴァ人からの賛美の様子を、この先も長く何度も何度も、スヴァトスラフさんは会う人ごとに物語っていた。ちなみに、もし、トゥヴァ人に襲われた時、私は日本で育ったトゥヴァ女性で、親せきを探しに来ているのだ、ということになっていた。だが、残念ながら、一度もこのロマンチックな作り話をして聴き手を驚かすような場面はなかった(襲われたらこんな話なんかしていられない)。 無人のチャー・ホリ(シャンチ)谷に比べ、この岩山越えの道では、こうした地元のトゥヴァ人の車にさらに2,3台すれ違った。この岩山の峠には、峠らしくオヴァーが立っていた。そして、車も止まっていて、現地の人も下りて峠からの眺めを見ながら一休みしている。私たちも一休みすることにした。この中に、アジル・スグのことや、もしかしてオルター・サルゴル岩画のことを知っている人がいるかもしれないから。第一、私たちはその方向にかなり近づいているはずだから。 中年の夫婦に話しかけてみる。地方のトゥヴァ人とロシア語で話しても、私はあまりよくわからない。お互いに母国語ではないからだ。ロシア人のスヴァトスラフさんもよくわからないようだった。しかし、この峠の中年の夫婦は、自分たちは今から鉱泉場に行くところだ、と言っているらしい。その鉱泉場の名前がアジル・スグのように思えた。 別の運転手(酔っていた)によると、そこへは船で行かなければならない。岩画があるかどうかは知らない、ということだった。この険しい道を行くだけでなく、船もチャーターしなければならないし(定期船が出ているとはそのとき思いも及ばなかった)、岩画も探さなければならないとなると、日が暮れる、と私たちは思った。この峠は、名前は知らないが、ともかくここまで行きつけただけでも我ながら素晴らしい。
峠からはこの先の下りの道がくねくねと続いて行くのが見下ろせた。道は、一旦は谷間に降り、真っ直ぐ走るがその先にはまた山々がある。その向こうにはもっと高い山々が青色に見えた。きっと、この道は、あの近くの山を越えたところでエニセイに出るに違いない。この辺のエニセイは、もうダム湖ほど川幅は広くない。だから青く見えるのは対岸だろう。 私たちは眼下に見える道を進まず、峠から引き返した。スヴァトスラフさんは、今日中にアク・ドヴラック市近くのディアーナの家に着かなくてはならない、という。彼女の両親はトゥヴァ人だから、オルター・サルゴルへの行き方も知っているかもしれない、出直した方がよさそうだと思った。 実は帰国後、その道を先に進まなかったことを後悔した。帰国してみると毎回のことだが、目の前にあったのに行かなかったところや、行けなかったところを残念がるものだ。帰国後、サイトをいくら調べてもアジル・スグという場所は見つからず、アルガルィクトィグ山はあったが別のところだった。同名の地名はトゥヴァでもよくあるから、もしかしてオルター・サルゴル岩画のあるアルガルィクトィもキルノフスカヤさんの略図の通り、シャンチ村の北にあるのかもしれないが、私が見つけたのはシャガナールとチャー・ホリの間にある『アルガルィクトィグ』で、古代チュルクのクルガンが5基、『アルガルィクトィグ2』では晩期青銅期時代の7基のクルガンなどが調査されたそうだ。 アジッグ・スグというのは到達困難地にはあるが、効能のある鉱泉場で、峠の中年の夫婦が行くと言っていたのは、アジル・スグではなくアジッグ・スグだった。チャー・ホリからバス(たぶん、あの登りきれずに人力で押されていたワンボックス・カーがこの日のバスだったのだろう)で50キロほど行き、エニセイ川岸の船着き場で連絡船に乗り、2時間川下へ航行したところで上陸し、さらにトラックで7キロ行った窪地にその鉱泉場があるそうだ。アジッグ・スグは水素イオン濃度指数(Ph)が3.6もある酸性の鉱泉で、胃腸病や皮膚病に効くとある。アジッグ・スグはヘムチック川がエニセイに合流する少し川上の無人の山中、つまり、エニセイとヘムチックの間にあり、まともな陸路はない。 エニセイ川を航行する連絡船というのは、車が3,4台、乗客が20人ほど乗れるそうで、確かに火曜日と金曜日に出ている。2008年夏には連絡船の料金は、車は1000ルーブル、乗客の運賃は400-600ルーブルだった。この峠が、思いがけずにぎわっていたのは、この日が金曜日で、ちょうど船に乗ろうとする湯治客が(湯ではなく冷泉だが)、ここで一休みしていたからなのだ。シーズン中、金曜日と火曜日は、あの急坂を登りきれない車が何台かいるに違いない。すると、そんな車を有料でけん引して峠まで運ぶ、と言うのも良いビジネスになるに違いない。帰り道、そんな牽引車に出会った。 岩山の下の曲がり角まで戻り、1度は見落とした道路標識をよく見ると、確かにアジル・スグではなくアジッグ・スグと書いてあった。あのブレーキの効きの悪い車に乗っていたトゥヴァ人も、スヴァトスラフさんがアジル・スグと言ったのにアジッグ・スグと取ったのだろう。 エニセイ左岸(南岸)の切り立つ岩山の間をくねくね曲がって上り、峠まで来るとまたくねくね曲がって下り、谷間を進み、また切り立つ岩山を上って下り、川岸に出ると言う私たちが途中まで行ったあの道は、あるというだけでも驚きだ。直接の陸路では到達できないアジッグ・スグ鉱泉行きの船着き場へたどり着くだけの道とわかって、もっと驚く。もちろん、ダム湖ができる前から鉱泉場として有名だった。トゥヴァに多くある鉱泉場の中でも、実はアジッグ・スグは五指に入るくらい薬効あらかたな鉱泉場と昔からされていた。トゥヴァだけでなくロシア各地から湯治客が訪れていたと、お定まりに、付け加えられている。昔から、このルートで到達していたのだろう。 車のなかった時代からトゥヴァ人は、(現代の車文化では)到達困難地にある鉱泉場などでリフレッシュしてきたが、そうした鉱泉場は当時の現地の人たちにとっては到達が困難と言うほどでもなかっただろう。もちろん、馬で行ったのだ。だから馬の通れる道は昔からあったのだ。 ソ連時代の地図ではこの岩山の途中や谷間にコルホーズ『友好』の冬営地がある。当時は、こんな類まれな道も多目的だったのか。 |
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クィズィール・マジャルィク村からアクスィ・バルルィク村へ 西トゥヴァ盆地を行く | ||||||||
元来た半砂漠の草原を通り、チャー・ホリ川を渡り、チャー・ホリ村へ戻る。途中にクルガンがあり、現代人の設えた祭壇があった。つまり、古代遺跡は現地人にとって聖地だから、祭壇も設けるのだろう。地方道162号線からの分岐点のアク・ドゥルグ村に戻った頃、珍しく雨が降り出した。すぐ止んだが、スヴァトスラフさんの車は雨に降られて湿気がたまると部品が錆びるそうだ。だから、オフロードは歓迎だが、雨は避けたいそうだ。トゥヴァは夏場はオフロードも泥道ではないからか。 チャダン市も過ぎて西トゥヴァ盆地(ヘムチック盆地)の中ほどのシェム川を渡るとクィズィールからの300キロのうち250キロは来たことになる。6時半に近かった。ディアーナから電話がかかる。朝、「今クィズィールを出た」と電話してから、あまりに時間が経っていたからだ。お昼過ぎには到着と、準備して待っていてくれたに違いない。
西トゥヴァ盆地(ヘムチック盆地)は、気候がより穏やかで土壌も豊かなので、昔からトゥヴァ人が多く住んでいた地域であり、今も、ロシア人は少なく(皆無の村もある)、トゥヴァ人の集落が多い。トゥヴァ伝統の地だとは主要道を行くだけでもわかる。家畜が道路を横切る間、待っていなければならないこともたびたびある。群れが大きいと待ち時間はかなり長くなる。道路は牧草地の中を通らせてもらっているようなものだ。家畜の通行が優先する。 道路からもユルタがみえる。訪問してみたいといつも思うのだが、地方道162号線の終点近くにあると言うディアーナの家を目指して、私たちは急いだ。クィズィール・マジャルィク(赤い丘の意)村で、ディアーナ家への手土産のチョコレート詰め合わせを買うと、彼女が両親の車で迎えに来ていると言う村外れの木陰で待っていた。クィズィール・マジャルィク村はバルーン・ヘムチック郡(人口1万2千人)の行政中心地で、1959から1996年までは町だった。今は村。人口5千人。 そのバルーン・ヘムチック郡はヘムチック川の流れる西トゥヴァ盆地(ヘムチック盆地)の中ほどにあり、共和国中で最も人口密度が大きい(1キロ平方5人)。ちなみにトゥヴァ第2の工業都市アク・ドヴラック市(バルーン・ヘムチック郡内にあるが行政的には特別市で共和国に直接属する)は人口1万3千人だが、現在(2002年)90%以上がトゥヴァ人なので、西トゥヴァ盆地でロシア人を見かけることはまれだ。(ソ連時代に移住してきたロシア人は都市部、またはコバルトやアスベクトなどの産業城下町地に圧倒的に多かった。ソ連崩壊後は多くのロシア移民はトゥヴァを去った。しかし、首都クィズィール市だけは、人口11万人のうち、今でもトゥヴァ人の割合はたった60%だ。)
私たちが待ち合わせをしたのは、正しくはクィズィール・マジャルィク村外れではなく途中で仏塔があったので、バルルィクという別の村だった。村の入り口には仏塔が必ず建っている。村の中ほどにもあることもある。バルーン・ヘムチック郡には9個の村と46のメスティーチコ(場と訳せる。遊牧用の冬営地や夏営地があったりする)がある。ウルッグ・ヘム(トゥヴァではエニセイ川のこと、長いエニセイ川のトゥヴァ内を流れる部分)の最大の支流ヘムチック川(320キロ)が南西から北東に流れているが、そのヘムチックの最大の右岸支流バルルィク川(134キロ)が南の西タンヌ・オラ山脈から延々と流れ、クィズィール・マジャルィクやバルルィク村のあたりのヘムチック右岸に広い扇状地をつくって合流している。バルルィック谷という。側流や用水路も多く、昔からトゥヴァ人の多い豊かな地なのだろう。 7時半には車で出迎えに来てくれたディアーナの両親と会い、私たちの車には道案内のためにディアーナが乗り移った。彼女の家のあるアクスィ・バルルィク村に向かって、10キロほど走った。荒野を走っているような気がしたが、石ころの多い草原なのだ。草原荒野にそこだけ樹木の茂るヘムチック川が時々見える。沼地や窪地を除けて羊の群れが水を飲むために川辺に近づいている。ヘムチック川の対岸には山波が見えるが、私たちが走っている広い扇状地のバルルィック谷の方は、真っ直ぐな地平線しか見えない。道はかなり悪かった。砂煙をあげてゆっくり進むしかない。車が1台やはり砂煙をあげて走ってくるのが遠くから見えた。その砂煙を除けて別の道に入る。草原荒野なので、どこを走ってもいいのだ。ただ、車のサスペッションなどはかなり傷む。20分ほど走るとアクスィ・バルルィク村のはずれについた。人口は千人、ロシア人は一人もいないと言う。 |
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アクスィ・バルルィク村のトゥヴァ人家族宅 | ||||||||
ディアーナの両親の家に近づくと、2階の屋根から私たちが近づくのを見ていた男の子たちが急いで降りてきて門を開けてくれた。ディアーナの弟たちだ。彼女は8人兄弟姉妹の3番目で、兄は養子で今は別の場所に住んでいるが、姉夫婦以下7人兄弟はここに住んでいる。姉夫婦には3歳くらいの子供がいた。ディアーナにも2歳の男の子がいる。家や中庭、離れや2階から、私たちの座っているダイニングに入れ替わり立ち替わり出入りしている家族の(ご近所さんもいたかも)、名前や関係を覚えきれなかった。
前述のように、スヴァトスラフさんのトゥヴァ人の教え子はムグール・アクスィ出身でトムスク市にいるチンチと、アクスィ・バルルィク出身のディアーナの2人だ。当初、スヴァトスラフさんがディアーナに連絡するのを遠慮したのは、彼女が出産にあたって困難なことがあったと聞いていたからだ。障害を持った子が生まれたが、スヴァトスラフさんはどんな障害かは知らないと言うことだった。実は、水頭症だった。そのため、ディアーナは2歳の長男と両親の家に今いるそうだ。 私たちが到着してしばらくすると、村長さんの奥さんと言う人やサイダさんという親せきの女性も加わった。サイダさんは学校でロシア語を教えているそうだ。サイダさんのロシア語のおかげでアクスィ・バルルィク村やその周辺の名所について詳しく知ることができた。 ヘムチック盆地はトゥヴァ人の盆地だ。古代からの遺跡の宝庫で、盆地の中心はバルーン・ヘムチック郡だ。今、郡役所はクィズィール・マジャリィク町だが、ディアーナ達のアクスィ・バルルィック村が、サイダさんによると、ウリャンハイ時代には郡役所(清朝中国領のモンゴルからの代官の邸宅所在か)があったと言う。だから、『アルディン・ブラック(金の矢)』という立派な名前だった。クィズィールの国立博物館にあった古い地図でもAldьn-Pulakとあり、当時、商品倉庫(商館)や寺院(修道院)もあった。今、首都クィズィールから40キロのテーマ・パーク(ホテル・レストラン中心の観光施設)が『アルディン・ブラック』の名を剽窃している。 ディアーナの両親ヘルティック家の敷地には母屋とその2階、夏屋(離れ)、蒸し風呂小屋、トイレ小屋、家畜小屋、飼料小屋などがある。私たちは大きなベッドが2台ある夏屋に案内された。ベッドというのは板を渡した棚の上に寝具が敷いてあるものだ。寝る前、スヴァトスラフさんは奥さんのリューダさんにメールを送っていた。でないと、リューダさんから「夫は日本女性とウォッカでも飲んで楽しんでいるのではないか」と思われるからだそうだ。毎日、スヴァトスラフさんは奥さんに報告メールを出していた。 |
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