クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home   up date 21 January, 2014  (追記:2014年2月26日、9月11日、2016年6月17日、2018年11月5日、2019年12月11日、2021年10月20日、2021年10月24日、2023年2月25日 
31−(11)   トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (11)
    西トゥヴァ盆地
           2013年6月30日から7月27日(のうちの7月22日)

Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)

月/日 『トゥヴァ紀行・続』の目次
1)7/2まで トゥヴァ紀行の計画 クラスノヤルスク出発 タンジベイ村 エルガキ自然公園 ウス川の上と下のウス村 ウス谷の遺跡 クィズィール着
2)7/3-5 クズル・タシュトゥク鉱山へ 荒野ウルッグ・オー 夏のツンドラ高原 鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場 ビー・ヘム畔 ミュン湖から
3)7/6,7 トゥヴァ国立博物館 ビーバーの泉、新鉄道終着点 聖ドゥゲー山麓 トゥヴァ占い 牧夫像
4)7/7-9 『王家の谷』へ 国際ボランティア・キャンプ場 考古学者キャンプ場 モスクワからの博士 セメニチ車 発掘を手伝う  『オルグ・ホヴー2』クルガン群
5)7/10-12 『王家の谷』3日目 連絡係となる 古墳群巡回 シャッピーロさん ショイグとプーチンの予定 パラモーター
6)7/13,14 地峡のバラグライダ 政府からの電話 ウユーク盆地の遺跡 自然保護区ガグーリ盆地 バーベキュ キャンプ場の蒸し風呂
7)7/15 再びクィズィール市へ 渡し船 今は無人のオンドゥム 土壌調査 遊牧小屋で寝る
8)7/16-18 オンドゥムからバイ・ソート谷へ 金採掘のバイ・ソート 古代灌漑跡調査 運転手の老アレクセイ
9)7/19 西トゥヴァ略地図 エニセイ左岸を西へ チャー・ホリ谷 鉱泉への道 西トゥヴァ盆地 トゥヴァ人家族宅
10)7/20,21 古代ウイグルの城塞 石原のバイ・タル村 鉱泉シヴィリグ ユルタ訪問 心臓の岩 再びバルルィック谷へ
11)7/22 クィズィール・マジャルィク博物館 石人ジンギスカン 墨で描いた仏画 孔の岩山 マルガーシ・バジン城塞跡
12)7/24-27 サヤン山脈を越える パルタコ―ヴォ石画博物館 聖スンドークとチェバキ要塞跡 シャラボリノ岩画とエニセイ門 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 クラスノヤルスク

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。

7月22日(月) クィズィール・マジャルィク博物館
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 サイダさんが私の手帳に、この辺の見どころについて書いてくれた。聞いただけでは発音もできないし、覚えられないからだ。『クィズィール・マジャルィック博物館、ビジクティック・ハヤ、ウルクトゥック・ハヤ、さらにクィズィール・ダック村』とあった。クィズィール・ダック村はテエル村の対岸にある。ここにはサイダさんの同級生が住んでいるので、電話をかけておいてくれるそうだ。後で電話が通じてわかったことは、クィズィール・ダック村の名所の古い寺院は今閉鎖中だし、村へ行く橋が壊れていて通行できない、と言うことだった(橋が流されて孤立、とはよく聞く話だ。いつ復興かは不明、自給自足に近いから孤立してもそんなに不便ではなさそうだからか)。遠回りすれば悪路でもたどり着けただろうが、今回は行かないことになった。クィズィール・ダック村は旅行案内書によると石の彫刻の名人を輩出しているそうだ。現地でマスターから直接購入できるとある。が、私にはもちろん資金もない。匠たちはアガルマトライト(青藍石)で作品を作るそうだ。しかし、いつものことだが、滞在を1日延ばして、この失われたような山中にある芸術村に行かなかったことを、帰国後になって後悔した。クィズィール・ダック村はトゥヴァらしい伝統のある古い村だ。周囲にも遺跡が多い。(追記、2014年8月8日に行くことができた)
村の仏塔

 今日のガイドとしては博物館のマイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチさんに頼むといい、とヘルティックさんたちが決めてくれ、電話で連絡もしてくれていた。たぶんマイヌィが姓、ビッチェ=オールが名、サルチャコビッチが父称なのだろうが(または姓と名がその逆)、トゥヴァでは年配男性は父称で呼ぶと言うことなので、サルチャコビッチさんと呼ぶ。この日、サイダさんもディアーナたちに同行してくれる。前日同様ディアーナの2歳の息子テメルランは姉妹が見てくれる。大家族だから。
 今日の名所回りは、まず(ガイドなしでも回れる)このアクスィ・バルルィック村の仏塔(卒塔婆スブルガン Субурган、ストゥーパ Ступа)から始める。どこの村でも中央の広場には、村の『顔』がそろっている。村役場、『レーニン』公園、戦没者記念『永遠の灯』などだが、アクスィ・バルルィック村では、村役場と仏塔だけがあった(あと施設は少し離れたところに)。仏塔はもちろんソ連崩壊後に建った(再建)ものだ。
 クィズィール・マジャルィク博物館は、村の芸術学校の元校長で郷土史家のマイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチさんの主導で、1999年設立されたそうだ。
博物館の展示物
 村の『文化宮殿(公民館のようなも)』の2階にかなり広い展示室があり、地方の博物館としては展示品も豊富だった。地元のトゥヴァ人のサルチャコビッチさんの説明を必死で聞いていたが、彼のロシア語はとてもわかりにくい。岩画のオリジナルも何点かあった。古い地図もあった。写真と説明文も多くあった。サルチャコビッチさんのロシア語がもっと理解できたら、ヘムチック盆地のことがもっと詳しくわかったのに、と思うと残念だ。
 この博物館見学には館内の展示品だけでなく、町から8キロほど離れたビジクトィグ・ハヤ村の遺跡群見学も含まれていた。これは同名の小さな岩山にある青銅器時代の岩画や、その壁がん(ニッチ、壁面のくぼみ)に墨で描かれた仏像と、チベット語とモンゴル語、漢字で書かれた文字、岩山の麓の草原に古代ウイグル時代の立派な石像があるという稀有だが地味な野外博物館だ。
石人ジンギスカン像、サイ・スー妃像
 私たちはまず初めに、『チンギスカン像』と発見当時から地元民に呼ばれ、拝まれている古代チュルクの石像(石人)を訪れた。エニセイ川岸チャー・ホリ谷の『チンギスカンの道』同様、13世紀のモンゴルの征服者とはもちろん全く関係ない(時代が異なる)。トゥヴァの草原や山地の谷間などにこのような石像は約200体発見されているそうだ。一部はクィズィール国立博物館に運ばれ保管されているが、クィズィール・マジャルィク町の南の湿地帯の中のビジクトィグ・ハヤ村近くの『チンギスカン像』は最も大きく、土中から発見された場所にそのまま立っている。実は2004年『サヤン・リング』社のツアーで訪れたことがあるが、その時は広いバルルィク草原の中ににょっきり立っているだけだった。今、屋根と塀もでき、チャラマや説明書も立てられている。あまりに立派な戦士の像で、目鼻立ち、たくわえた口ひげやあごひげ、頭髪、腰帯に下げた短剣、バックル、下げ飾り、剣、手に持つ儀式用の食器(盃)などが写実的に彫られているので、トゥヴァ人から偉大な祖先の像として、また人々に福または災いをもたらすとしておそれられ崇拝されているそうだ。 (後記:仏教国トゥヴァだが、シャマニズムも習合しているようなアニミズムの地域は、イスラムやキリスト教の一神教の地域と違って、こうした石や古い木を拝む)
『ジンギスカン』石像
女性の石像

 中央アジアの古代遊牧民の勢力範囲、特に6世紀からの古代チュルク人の遊牧『帝国』のあった地にはこのような石像(石人)が多く残されている。トゥヴァでは、8,9世紀の古代ウイグル時代の石像が多い。この『チンギスカン』像も身なりからウイグル時代とされている。お供え物を備え、(シャーマンによる)正しい儀式を執り行えば、願い事がかなうとされているのだ。古く立派な石像には昔から霊力があると信じられ、敬意をもって接しなければならない。しかし、ソ連時代(正しくは、まだソ連邦に合併されていないタンヌ・トゥヴァ人民共和国時代も含めて、1925年頃から1991年)民間の信仰対象物や仏教寺院は破壊された。あるトラクター運転手がこの石像に鎖をかけて引き抜いてキャタピラーでつぶそうとしたのだ。しかし、肩の一部と左耳たぶを壊しただけだった。そのトラクター運転手の妻が7日後に亡くなったとか。トゥヴァ人考古学者が元のところに建て直したそうだ。
 私たち一行7人はチャラマを結び、ミルクを飛ばすと言うしかるべき儀式を行ってから、石像にお参りしたのだ。その左耳に、願い事をつぶやくとかなうと言う。女性たちは順番につぶやいた。

 石像は3キロほど離れたビジクトィグ・ハヤ岩山の方を向いている。岩山も石像も、ひたすら広いバルルィック平原(扇状地、低地)にぽつんとある。石像から遮るものもなく岩山が見える。岩山と『ジンギスカン』石像の間には『サイ・スー妃』の石像がある。この石像も野外博物館の一つだ。
 バルルィック平原には古代からできていると言う用水路が縦横に通っている。現在も利用している水路もあるそうだ。用水路跡、つまりただ草の生えた溝が伸びているだけの窪地があるので、『サイ・スー妃』石像までは車では近づけない。クィズィール・マジャルィクからビジテック・ハヤ村への舗装道に車を止めて、半乾燥の草原を大股で歩いて行くと、ただっ広い原っぱにクルガンのように板石で正方形に囲まれた中に、大石が2体傾いて立っていた。クルガンの入口はトゥヴァのユルタと同じ南方に向いている。女性の石像は右手を左胸に、左手を右わきに置いている。座っている男性の像は帯に差した短剣、火打石、手に持つ儀式用容器(盃)などから高い身分だとわかるそうだ。これは自分の死後、妃のサー・スーに国を任せたハン(王)だと言う。2体とも頭はない。征服者モンゴルが先住チュルクの石像を破壊したのだと言う。モンゴルではなく別のチュルク系征服者かもしれない。確かに、シヴェエリグ・ダック麓のウルッグ・ホヴー草原の無数の石柱の中には頭部が砕かれたものが多かった。
 『サー(サイ)・スー妃』と実在(伝説かも)の人物の名があてられているが、1950年代のビジクトィグ・ハヤ村の住民が歴史上(伝説上)で最も有名な女性なのでそう名付けただけで、根拠があるのかどうか知らない。戦士ではなく女性の石像とは珍しい。
 ただ、石像の近くの標識には『古代チュルクの石像、二人の姉妹』とあった。
 このバルルィック低地では地のかなたに、真っ直ぐ横に引かれた地平線が見える、と言うより、遠くの山々の麓まで平らで遮るもののない平地が続いている。この麓には古墳が多い。古墳に眠る古代人たちはバルルィク平野を眺めていたのだ。メルヒェン=ヘルヒェンの『トゥバ紀行』(1929年)によると『ヘムチック岸の草原の道はまるで墓場の中を通っているようなものだ。そこはどっちを向いても、いろいろな形の墓がある。石板を立てて囲んだ広々として平らな円形の丘、土を環状に盛った土手、石柱や石板を丸く並べたものなど...』
ビジクトィグ・ハヤ 墨で描いた仏像
 この広いバルルィク谷の平原の中、クィズィール・マジャリク町の南にそこだけ(浸食から残ってそびえている)岩山があり、こんなところだから古代人たちの格好の聖所となり、青銅器時代の岩画に覆われているので、ビジクティグ・ハヤ(文字・絵のある岩の意)と呼ばれている。岩山の南東麓にある集落は、だからビジクティグ・ハヤ村と言う。ヘムチック岸の標高は約880mで、岩山の頂上は900mほど(地図では1011mとあるが、グーグルでは900m)だから、地面から20mほどの高さか。この岩山にも冬営地や家畜小屋があるので、私たちは途中で馬に乗った牧夫さんに出会った。
 サルチャコビッチさんを先頭に、岩に囲まれた狭間を通って村と反対側の北斜面に出る。牛の糞を踏まないように、人の背ほどもある草を分けて進む。沼か水場があって牛が水を飲みに来るのだろうか。草の背丈が低くなった湿地に 垂直に切り立った岩壁が見えた。低いところには一面の青銅器時代の岩画がある。スヴァトスラフさんやヘムチックさんたちはそれらには目もくれない。岩絵など珍しくもないのか。70cmもある鷲の岩画では羽毛も一本一本詳細に描かれているそうだ。私は一つずつの絵をたどって見ていきたかった。ビジクトィグ・ハヤ岩山には300個の牛や動物、狩猟の場面などの岩画があるそうだ。
壁がん(ニッチ)の墨絵と文字。上はチベット語、
下は漢字、古代モンゴル文字、ウイグル文字
マイヌィさん右後方にニッチの穴が見える

 サルチャコビッチさんが「ここです」と言うところは、足場の悪い岩場を2mほど登ったところにあって、墨で描かれた仏像と、古代のチベット語、モンゴル語、ウイグル語、漢字で書かれた文字が見える岩山の壁がん(ニッチ、壁面のくぼみ)だった。幅3mで高さ1,5m、奥行き1,2mくらいだ。その奥の岩壁は垂直になっていて、墨で描かれた絵と文字が残っている。この文字のうち漢字については前日サイダさんも言及していた。その時サイダさんに、古代中国文字なら私でも読めるかもしれないではないか、と言うと驚いていたが。
 たなびく雲の中、ハスの花に座る観音様のような仏画がかすかに見える。サルチャコビッチさんはちゃんと水を詰めたペットボトルを持ってきていた。これをニッチの壁に振りかけると、やや鮮明になる。墨で書かれた4か国語の文字も薄く見えてくる。『至正十七年』と、『吏』『部』『事』などに似た漢字が見えたが、それ以上は、私には判読できなかった。縦書きの古代モンゴル文字、ウイグル文字、横書きのチベット文字も見える。
 マイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチさんによると19世紀後半アドリヤーノフが初めてこの遺跡を見つけ(つまり、初めてロシアに紹介し)、2003年には日本人学者マスモト・テツが漢字をほぼ解読したそうだ。。
 中国元朝末期の1357年(至正17年)(旧暦)4月28日、リー・リイニと言う官吏が訪れたらしい。青銅器時代からチュルク時代も含めて様々な時代の墓地があるバルルィック平原の中、岩画のある聖なる岩山の一角に、14世紀半ば『季氏』(リー・レイ)によって開かれた石窟寺院の一部であったかもしれないそうだ。壁の前の草原には、今は牛が糞をしたり水を飲んだりする水場があるが、当時は寺院が立っていた可能性はある、と私も思った。ほとんど垂直の岩壁がヘムチック川まで続く低地に立っている。
 ちなみに、旧チャー・ホリ村近くで今はダム湖に沈んでいるスメー山のニッチにある仏像は13世紀と言われている。(ダム湖の水位が下がった初夏のころ訪れることができる)。これらは元朝中国時代に辺境の地(たとえば現在のトゥヴァ)などにも仏教を栄えさせるために建立されたと言われる。マリア・モングーシュ著の『トゥヴァの仏教』によると、6世紀に伝来し、13,14世紀の元朝時代に普及が始まり、そして近世の清朝中国支配時代には各地にフレー(修道院・寺院)が建設された、と記されている。(ソ連時代には,前記のように破壊された)。ビジクティック・ハヤの仏教画はトゥヴァの初期仏教の遺跡と言える。
 壁がん(ニッチ)にある漢字銘文の右に4行のモンゴル文字、また左に1行のウイグル文字(とされている)があるが、解読はされていない。
 その上の横書きのチベット文字は、六字大明呪の『Ом ма-ни па-дме хумオン・マニ・パド・メー・フン』で、他の文字より濃く太くて、たぶん、書かれた時期は他の文字より新しいのだそうだ。ちなみにこの観世音菩薩の慈悲を表現した真言六字大明呪は、ソ連崩壊後の仏教復興の象徴のように、各地の聖所に掲げられるようになった。首都クィズィール市のドゲー山にも掲げられている。この真言を唱えれば、様々な災害や病気、不幸から観世音菩薩が護ってくれると信じられている。
   (後記:マスモト・テツさんについて。後にネットで彼の論文を読んだ。同じくネットで彼から、ウイグル文字など漢字以外の文字を解読できないかと尋ねられたが、もちろんできない。彼とはその後に考古学者キルノフスカヤさんを通じて直接に知り合いになれた。2016年奈良市で会い、資料も見せてもらえた)
ウットィグ・ハヤ(孔のあいた岩山)
 3時ごろ、クィズィール・マジャリク市の食堂で食事を取った後、地方道162号線を25キロほど東の方へ行ったところにあるウットィグ・ハヤに向かった。これは『ディリャーヴァヤ・ガラ(穴のあいた岩山の意)』とロシア語の観光地図にも載っている。つまり奇岩だ。麓からでも頂上の穴のあいた岩が見えるそうだ。地方道162号線を出て麓までは数百メートルくらい。そもそも、木立に遮られて先が見えないという土地柄でもないので、麓に建っているあずまや(休憩所)やチャラマが遠くからも見える。自然が作った美観奇観は、もちろん聖所となる。
 ヘムチック川が流れ、その川岸の広い低地(昔の川床か)が終わったところから一気にそびえている岩山ウットィグ・ハヤからはヘムチックの上下流、対岸がよく見晴らせる。チンギスカンの見晴らし台だったとか言う言い伝えもできている。ウットィグ・ハヤの周りの谷間には古代のクルガンがぎっしりあるそうだ。
 まず、2台の車で麓のあずまやまで行って、説明書きを読む(しかし、トゥヴァ語で私には読めない)。頂上の洞窟までは急坂を上って30分はかかるそうだ。同行の、やや太めのヘルティック夫人とサイダさんがパスと言う。あずまやに座っておしゃべりして、私たちが降りてくるのを待つそうだ。私も下から見るだけで、実は満足だが、ヘムチック盆地の名所に登って自分の目で見て来なければ後で後悔する、と思って、ヘムチックさん、サルチャコビッチさん、ディアーナを従えて登って行ったのだ。スヴャトスラフさんは遅い私の足に合わせないで、先に一人で登って行く。小路は斜面をジグザグのように続く。こちらはやや遠回りだがより緩い道だと言う。半分まで登って下を眺めると、確かに抜群の眺めだ。トゥヴァらしい眺めだ。ヘムチック川が薄黄緑色の草原の中を蛇行しながら流れていく。その川岸だけは濃い緑になっているので、緑の帯をたどると水の流れが一目でわかるのだ。左岸支流アラーシ川が太い緑の中を北西から流れてくる(流域は木々が茂る)。川向こうのかなたには茶色の山並みが見え、その向こうには青い山並みが見える。西サヤン山脈に連なる山々なのだが、西サヤン山脈の向こう側はハカシア(古代ウイグル時代にはエニセイ・キルギスが住んでいたミヌシンスク盆地)となる。
ウットィク・ハヤの頂上から見たアラーシ川の流れ

 「あと少し、あと少し」と言われて、ますます急になった坂を登る。頂上には大きく開いた孔があった。つまり、洞窟トンネルだ。立って歩けるほどの孔の向こう側は、この岩山の裏斜面となっている。出たところにはチャラマが立っていた。周りにはクルガンも多いと言うから、このような奇岩の場所は、もちろん青銅器時代からの聖所だった。昔からこのようにチャラマが立てられ、願い事がかなうと言われている。孔を通り抜けるので、試験が受かるようにとか、子供が授かるようにとかの願い事が多いそうだ。頂上にはトゥヴァ人の若者のグループもいた。後からロシア人の二人連れが登ってくる、スヴャトスラフさんが聞いてみると、彼らはトムスクから来たと言う。
 洞窟の岩壁には、もちろん様々な時代の岩画もあっただろう。しかし、マイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチさんによると、岩画は以前はあったが今は残念ながら見えないと言う。現代の落書きしか見えない。
 横にも小さな狭い洞穴があって、向こう側へ抜けられる。子どもが欲しい人は通り抜けてお参りすればいいそうだ。ディアーナが這って行って抜け出た。私も特に子供はいらないが這入り込んだ。サイズは問題ないが上方の孔の出口に這いあがるには力がいる。向こう側のディアーナに引き上げてもらった。出たところにもチャラマが何本も立っている。子宝に関する聖所だからおもちゃがたくさんお供えしてある。
頂上の孔(トンネル)の入口で休憩する
マイヌィさん
ヘムチック川のほとりで軽食

 登り道は急坂でも手を使って登れるが、下りはきつそうだと思っていたが、ヘムチックさんとマイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチさんが左右から支えてくれて自分の足は地面に着いてはいたが、かごに乗っているように下山した。下のあずまやで待っているヘルティック夫人とサイダさんのところに戻ったのは5時半ぐらいだった。

 岩山の頂上から見えたヘムチック川の畔に行ってみようと言うことになった。地方道162号線を横切って、川の方へ進む。湿地や沼地が始まったところで車から降りて歩く。川岸はいつでも気持ちがいい。早速ヘルティックさんやスヴャトスラフさんはパンツだけになって水に入り、女性たちとマイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチさんはズボンのすそをまくりあげて川に入る。私は、面倒だったので河原に座っていた。
 このヘムチック川の向こうには、ウットィグ・ハヤの頂上から見えたようにヘムチックの左岸支流アラーシ川(172キロ、青いの意)が流れている。アラーシ川の広い扇状地がヘムチック左岸にあり、そこにもクルガンが多い。アラーシ川の向こうには、同じくヘムチック左岸支流のアク・スク(160キロ)が流れている。アク・スクはアラーシ川より55キロ下流に、やはり広い扇状地をつくってヘムチックに流れ込む。川岸と言わず丘陵地帯と言わず至る所に無数のクルガンがある(トゥヴァのクルガンの数は住宅の数より多いかもしれない)。アラーシ川やアク・スク川は西のアルタイ山脈の支脈から流れてくる山川だがヘムチックに合流する下流近くでは古代から灌漑農業が盛んだったらしい。
 このアク・スクの左岸支流マンチュレーク川を遡りタスレ川(36キロ、カンテギール川の右岸支流)から現在のトゥヴァとハカシアの国境の峠を越えると、テバ川にでる。テバ川はすでにジェバッシ川水系(アバカン川の支流)なので、『トゥヴァへの道案内のタムガ(中世の印)』で有名なジェバッシ岩画の場所に出る。これが、現在でもつかわれているサヤン山脈越えの『アルバトィ道』だ。現在のハカシアのアバザ市近くのアルバトィ村から始まる。
 私たちが水浴びをしたところから、真っ直ぐ北が、ほぼアルバトィ村だ。(アルバトィからここまでは直線では160キロしかない)
 古代ウイグルのマルガーシ・バジン城塞跡
 古代ウイグル時代、サヤン山脈の北のエニセイ・キルギス族に対して、トゥヴァ盆地を守るように東西に20基近くの城塞が鎖状に並んでいることは『トゥヴァ史』に詳しく載っている。マンチュレーク川の畔にも3基ほどあるそうだ。
 ヘムチック盆地には遺跡は無数にあるが、それら遺跡でも、現在聖所としてあがめられている場所、例えば『ジンギスカン像』や『ウットゥグ・ハヤ』等の他は、案内板などはない。サルチャコビッチさんのような人だけが知っている。だから、私は彼に遺跡を見たいとさらに頼んだ。実はどの遺跡も、当然のことだが風化されつつある。維持には費用がかかる。屋外博物館になっているような『ビジクトィグ・ハヤ』ですら、短い説明看板が一本立っているだけだ。ヘムチック盆地のクルガンはあまり発掘調査されていないが、発掘調査などが終わっていても終わっていなくても、放置されている。
 サルチャコビッチさんが案内してくれたのは、調査されたマルガーシ・バジンと言う古代ウイグルの城塞跡だった。前記書籍や『古代トゥヴァ』などによっても、古代ウイグルの城塞跡はバイ・タル村からエレゲスト川までヘムチック川やエニセイ川に沿って20基近くも知られているのだが、マルガーシ・バジンはその一つで、ヘムチックの左岸支流エデゲイ川(40キロ)の半湿地帯にある。
マルガージ・バジン城塞跡の盛り土から
 アスベクト採掘山を見る

 私たちはメスティーチコ・エデゲイ(エデゲイの地)と言うところに行った。地方道161号線でアク・ドヴラック市の方へ戻り、エデゲイ川(40キロ)を渡ったところで、道を出て草原の中に入る。アク・ドヴラック市から2キロ北西で、だからアスベクトの露天掘り鉱山のほとんど麓だ。
「ここです」と言われて車を止めて外に出たが、私には草原の他は何も分からなかった。1977年クィズラソフによって調査されたマルガーシ・バジン城砦のことは、彼の『古代トゥヴァ』と言う本に乗っていると、サルチャコビッチさんが補足してくれた。それによると、城塞は250m四方の大きさで高さは1.3mから2.8m。堀の幅は17mから29mで深さは3m。切りわらや砂、小石などを混ぜた粘土ででき、四方の城壁には幅10m余の門があった。城塞内部は全く平坦で、文化層はない。試掘されたが何も出土しなかった。ウイグル軍はユルタなどに住んでいたのではないか、とあった。
 エデゲイ川が、アスベクト露天掘りの白い山と、アラーシ川の流れを遮っている山々の間を流れ、ヘムチック川左岸に合流している。マルガーシ・バジンは、トゥヴァのウイグル軍の西から4基目の城塞だ。35年ほど前には、ここにまだ高い城塞跡や、広い堀跡があったのか。今、草の生えた土塁がやっと分かる程度だが。
 少し離れたところに遊牧ユルタが1基張られていた。そこから馬に乗って近づいてきた男性が、ヘルティックさんに何か頼んでいる。妻と子供をクィズィール・マジャルィク村まで連れて行ってほしいと言ったらしい。時刻は7時半。まだまだ明るい。

カティン・シャットのクィズィール・ハヤ丘
右端にスヴァトスラフさん
 サルチャコビッチさんの家のあるクィズィール・マジャルィック村まで送る途中の地方道161号線を出たところに、カティン・シャットと言う場(メスティーチコ)があり、そこにクィズィール・ハヤと言う小さな岩山があり、そこに岩絵があると言う。アク・ドヴラック市から5キロほど西で、ここにも古代のクルガンが多くあった場所だ。行ってみると、岩山の上から、クルガンだったと思える小さな丘がいくつか見えた。
 10分間ほど探して、スヴャトスラフさんが消えかけた岩画を幾つか見つけてくれた。写真に撮ってきたが、ほとんどわからない。
 8時半にマイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチさんと別れた。彼はヘムチック川の最大支流バルルィク川(134キロ)の支流シュイ川(70キロ)のそのまた支流マガナットィ川(合流点から15キロ川上で、長さ35キロ)の畔に生まれ育ったそうだ。素晴らしいところだ。行ってみたいものだ。
 マイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチビッチさんにメールアドレスをもらっておいて帰国後便りを出した。しばらくして短い返事がきた。私はマガナトィ川畔に行ってみたいものだと書いた。もちろん、今そこは無人だが、きっとトゥヴァらしい素晴らしい自然に囲まれているのだろう。
追記2014年に、マイヌィ・ビッチェ=オール・サルチャコビッチビッチィさんに再会できたが、健康がすぐれないようで、マガナトィ川へは行けなかった。)
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