up date | 25 January, 2014 | (追記 2014年2月18日、2015年6月9日、2016年10月1日、2018年11月3日、2019年12月8日、2021年10月17日、2023年2月2日) |
31−(5) トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (5) 『王家の谷』古墳群・続き 2013年6月30日から7月27日(のうちの7月10日から7月12日) |
Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013 - 27.07.2013)
月/日 | 『トゥヴァ紀行・続』目次 | ||||||
1)7/2まで | トゥヴァ紀行の計画 | クラスノヤルスク出発 | タンジベイ村 | エルガキ自然公園 | ウス川の上と下のウス村 | ウス谷の遺跡 | クィズィール着 |
2)7/3-5 | クズル・タシュトゥク鉱山へ(地図) | 荒野ウルッグ・オー(地図) | 夏のツンドラ高原 | 鉛/亜鉛/銅鉱石採掘場 | ビー・ヘム畔 | ミュン湖から | |
3)7/6,7 | トゥヴァ国立博物館 | ビーバーの泉、鉄道終着点 | 聖ドゥゲー山麓 | トゥヴァ占い | 牧夫像 | ||
4)7/7-9 | 『王家の谷』へ | 国際ボランティア・キャンプ場 | 考古学者キャンプ場 | モスクワからの博士 | セメニチ車 | 発掘を手伝う | 『オルグ・ホヴー2』クルガン群 |
5)7/10-12 | 『王家の谷』3日目 | 連絡係となる | 古墳群巡回(地図) | シャッピーロさん | ショイグとプーチンの予定 | パラモーター | |
6)7/13,14 | 地峡のバラグライダ | 政府からの電話 | ウユーク盆地北の遺跡 | 自然保護区ガグーリ盆地 | バーベキュ | キャンプ場の蒸し風呂 | |
7)7/15 | 再びクィズィール市へ | 渡し船 | 今は無人のオンドゥム | 土壌調査 | 遊牧小屋で寝る | ||
8)7/16-18 | オンドゥムからバイ・ソート谷へ | 金鉱山のバイ・ソート | 古代灌漑跡調査 | 運転手の老アレクセイ | |||
9)7/19 | エニセイ左岸を西へ | チャー・ホリ谷 | 岩画を探す | 西トゥヴァ盆地へ | トゥヴァ人家族宅 | ||
10)7/20,21 | 古代ウイグルの城塞 | 石原のバイ・タル村 | 鉱泉シヴィリグ | ユルタ訪問 | 心臓の岩 | 再びバルルィック谷へ | |
11)7/22 | クィズィール・マジャルィク博物館 | 石人ジンギスカン | 墨で描いた仏画 | 孔の岩山 | マルガーシ・バジン城塞跡 | ||
12)7/24-27 | サヤン山脈を越える | パルタコ―ヴォ石画博物館 | 聖スンドークとチェバキ要塞跡 | シャラボリノ岩画とエニセイ門 | 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 | クラスノヤルスク |
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。
『王家の谷』考古学者たちとのキャンプ生活3日目 | ||||||||||||||
7月10日(水)『王家の谷』3日目、寝心地が悪いせいか、毎朝、早く目が覚めてしまう。まだ、だれも起きてこないキャンプ場を廻って、草原に上る朝日の写真などを撮る。木がないので、蜘蛛の巣は枝に垂直にではなく、草の上に水平に張られている。アリ塚もある。誰も踏まないように橙色のリボンで囲ってあった。セミョーノフさんが昼間やったそうだ。朝露に濡れながらキャンプ場の草むらを歩く。若者エリアにもトイレがあった。 第一陣が8時半ごろ出発し、その『セメニチ』車が戻ってきた9時半ごろ、キルノフスカヤさんだけではなく、珍しくセミョーノフさんも乗って『オルグ・ホヴー2』遺跡に出かけると言うので、もちろん便乗させてもらった。キルノフスカヤさんにぴったりくっついて行動することにしたのだ。彼女は、最も核心的なところを廻るし、私に説明もしてくれる。 帰国後だが、ロシア版SNSでたまたま見つけたのだが、『オルグ・ホヴー2』遺跡を発掘していたアレクサンドル・グーシンというサンクト・ペテルブルクから来た青年のページによると、インド洋から運んだと思われる貝殻もその後発掘されたそうだ。だが、私の滞在中は、家畜の骨程度しか見つからなかった。
発掘現場では、キルノフスカヤさんは全体を見、歩きまわって細部を見、発掘者から説明を聞き、指示を与え、感想や予想などを述べている。40分程ほどいて、また『セメニチ』車に乗る。クルトゥシビン山脈とウユーク山脈の間を流れるウユーク川は蛇行し、幾筋にも分かれ、広い湿地帯を作って東から西に流れて行くのだが、今は乾季なのか一面の草原地帯だった。小高い丘が草原のかなたには、いつでも見えた。この時、『セメニチ』車には運転手のユーリー・セメニチさんとセミョーノフさんとキルノフスカヤさんの夫婦と私だけだった。(地図は前ページ) 「タカコ、行っても、行っても草原しか見えないだろう。とんでもないところに来たもんだ、と思っているだろう」とユーリー・セメニチさんが慰めるように言ってくれる。森林地帯の方が草原より生産性があり、変化にも富んでいると考えるロシア人が多いのだ。だが、草原地帯の方がエキゾチックで面白いと考える日本人も多い。なにしろ、広いから。『セメニチ』車は鉄道敷設予定のポールに沿って走っている。つまり、ほとんど道のない草原の中だった。キルノフスカヤさんたちは視察をしているわけだ。 ウユーク川の畔まで来ると、キルノフスカヤさんが数年前キャンプをしていた場所に寄ってみようと言う。その時は道があったかもしれないが、今は背の低い草で覆われていて、わずかにわだちの跡があり、ここを昔はタイヤが踏んでいたのだとわかる。運転をしているユーリー・セメニチ・ピーシコフさんは、これ以上は沼地だから車は入れないと止める。私たちは車から出てぬかるみを除けて進む。やがて、朽ちたような杭が何本か突き出ている草原に出た。 当時のキャンプ場のブルーシート・テント小屋の枠組み跡だろう。ハカシアでもトゥヴァでも、草原には似合わないこのような朽ちた背の高い杭が打ってあるところは、考古学者たちの元キャンプ場だったとわかるのだ。ここはまだ新しいので杭はかなり規則的に並んでいるが、それでも、折れたり、傾いている。セミョーノフさんたちは懐かしがって、ここに何のテントがあったとか言い合っている。進んでいくと、木のテーブルとベンチがあった。上板の隙間から雑草が伸びてきているが、まだ立派な備品だ。二人は懐かしがって座り、 「カメラを持ってこなかったわ、タカコ、よかったら、写真を撮って」と言う。数枚撮って、後でメールで送った。勝手知った二人は先に進んで行き、ウユーク川の畔に出ると、セミョーノフさんは服を脱いで水浴びをし、キルノフスカヤさんは野の花を摘んでいた。帰りの車の中で、彼女は摘んだ花をよりわけて、食堂のテーブルに飾る花束を作っていた。 私たちのカシュペイ・キャンプ場に戻ると、ユルタの前で、若い女性考古学者が発掘物の骨などを洗って整理していた。ラベルを付けナイロン袋に入れられた発掘物は、私がここへのお土産と出発前タチヤーナ・プルドニコーヴァさんに言われて近くのスーパーで買ったチョコレートの空き箱に入れられていた。 |
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連絡係となる、レクチャー、買い出し | ||||||||||||||
タチヤーナ・プルドニコーヴァさんたちはこの日はエルガキから戻ってクィズィールにいるはずだ。2,3日の予定で『王家の谷』に滞在している私も、もうその2,3日が過ぎる。 「プロホディコ博士も、タチヤーナさんとの共同調査を待っています」とタチヤーナさんに電話してみた。すると、エルガキから帰って、自分はとても疲れている、足も痛い。バイ・ソートの調査地へはすぐにはいけない、と言う。 「タカコ、あなた、そこでどう? キルノフスカヤさんとはどう? ちゃんと働いているの?」と電話のタチヤーナさん。 「とてもいいですよ。テントも貸してもらいました。毎日発掘のお手伝いをしています」と張り切って答える。実は、発掘の邪魔をしていたと言った方がいいかも。 「じゃ、もう少し、そこにいて頂戴。バイ・ソートへはまだ準備が整わないのよ」 という訳で、プロホディコ博士と私は、もうしばらくキルノフスカヤさんのお世話になることになったばかりか、外国人の私が、この3人の女性博士や準博士の連絡役になることになってしまった。というのは、なぜか、彼らは直接にはお互いに電話をしないからだ。それで、この先数日の予定は、連絡役にさせられた私が状況を見ながら自分の好みで立てることになったのだ。 『王家の谷』へ来る前、タチヤーナさんは、そこからクィズィール市へ戻るのは問題ない、買い出しやその他の用事で毎日のように『王家の谷』からクィズィール市へは車が出ていると言っていた。が、実際のところ、買い出しはクィズィールよりずっと近いトゥラン市で行っていたので、クィズィールへの車はたまにしか出なかった。いつ、クィズィールへの車が出ているかも、外国人の私が把握して、プロホディコ博士に、もどる日時を教えてあげなくてはならない。博士はクィズィールには関心ない、調査地にだけ興味がある、という。 「クィズィールではどこに泊まるの」と私が聞くと、質問の意味を考えていたのか、間をおいて、 「あなたと同じ、タチヤーナさんのアパートよ。長く滞在したくないのよ。すぐ調査地に出発したいのよ」と言う。7月10日にはセルゲイさんの妹のナターシャさんもベラルシアに去っているから、彼女が使っていたベッドが空く、すると博士の宿泊余地ができる、とみんなのことを心配してあげる。 クィズィールへ出る車は、今度は木曜日と日曜日だそうだ。土曜日に出るかもしれない。しかし、予定は絶えず変わる。直前になって変わる。 この日、3時過ぎ、カメラマンのシャピーロさんやプロホディコ博士、キルノフスカヤさんたちと一緒に、午前中は行かなかった国際ボランティア・キャンプ場のある『ベーロエ・オーゼロ5』遺跡に出かけた。キルノフスカヤさんの『トゥヴァの考古学』というレクチャーがあるからだ。
まず、キルノフスカヤさんは発掘現場を丁寧に廻る。発掘は毎日進んでいる。毎日何か新しく見つかる。来る度に、半分現れたクルガン石の周りに発掘物を示す赤いリボンが増えている。 4時から、情報センター小屋でキルノフスカヤさんのレクチャーがあり、さすが、満員だった。大きなテレビ画面に地図や表を映し出して講義するので、画面をカメラで写すのに都合のよい角度の場所を決めて、私は座った。プロホディコ博士は真ん中ぐらいに座り、講義の後で質問をしていた。 国際ボランティア・キャンプ場は施設がなかなか充実している。中央に食堂テントと厨房テントがあり、ミネラル・ウォーターや紅茶コーヒーは給湯器からセルフ・サービスで好きなだけ飲めた。(カシュペイ・キャンプ場でも、自分でやかんからお湯を注げば、好きなだけ飲める。コックに頼めばインスタントでないコーヒーも飲める)。医療テントもある。数日後のことだがおなかの調子が一段と悪くなって、日本から持ってきた薬も残り少なくなったので、ここへ行ってロシアの薬をもらった。親切な若い女性、医師か看護師さんが私の症状をよく聞いて多めに薬をくれた。治療された人は医療記録ノートに名前や出身地を書くことになっている。それはいいが、年齢も書かなくてはならないので、ちょっとためらった。ここでは若い人ばかりだから。 ここで処置できない病人はトゥラン市の病院に送られる。サンクト・ペテルブルクから来ている考古学者の一人が、今トゥランの病院に入院しているそうだ。キルノフスカヤさんたちは今からお見舞いに行くと言う。キルノフスカヤさんから離れないことにした私が、一緒に行ってもいいですかと聞くと、横からプロホディコ博士が、 「トゥランへ行って、食料も大量に買い込んでくるのよ。あなたが行くと場所がなくなるから乗ってはだめよ」と、口を出す。運転手のユーリー・セメニチさんが、
彼は、管理職で公務員を退職したし(つまりコネは残っている)、奥さんは、もっと上の現職だし、高駆動車は3台も持っているし、トゥランの親せきは大きな食料店をやっているし、自身が豪快な性格のせいか、とても羽振りがいい。サンクト・ペテルブルクからの考古学者キャンプ場の食料品はすべて、自分の親せきの店で購入してもらっている。今年のいくつかの大小のキャンプ場のどこの食事が一番豪華かは最大の関心事だ。カシュペイ・キャンプ場は50人以上が住んでいるが、この日、ウアズ(彼の4輪駆動ボックスカー)に積み込んだ食料品も半端なものではなかった。だが、私の席はある。ちなみに、20人以上のキャンプ場は食料品代としてかなりの金額がスポンサーから出ているので、私一人ぐらいの飛び込みがあってもなくても変わりはないそうだ。 トゥラン市郊外に病院があり、お見舞いの品を持ってキルノフスカヤさんは降りて言った。病院の食べ物は悪いので、差し入れがないと苦しいそうだ。ユーリーさんによると、病気になったらトゥランの病院へは入院しない方がいい、とかいう酷評だ。 この日、8時過ぎ、セミョーノフさんたちのテントでお茶を飲み、10時過ぎ、いつものように草原の丘に沈む入り日を見て、自分のテントに入って寝た。 |
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7月11日(木)ウユーク盆地、古墳群巡回、エキオトック | ||||||||||||||
朝、ウユーク川で洗濯をして、キルノフスカヤさんたちの干し場にかけさせてもらう。ウユーク川への足場は、食堂近くの他、この年配者用(つまり専門家用)エリアにもある。こちらの方が川上だから、せっけん水や汚れが食堂横の食器洗い場に流れて行くが、と気にする。川で洗濯とはこんなものだが。 9時過ぎにはクンストカーメラ(サンクト・ペテルブルクの博物館)からのカメラマンのシャピーロさんとティムール・サディコフさんという若い考古学者や顔見知りのスタッフなどと、いつもの『セメニチ』車でキャンプ場を出発。シャピーロさんは発掘の様子を映像に記録する係りなので、いつでもキルノフスカヤさんと一緒だ。チムール君は長髪で腕に『道可道非常道』と藍色でくっきりと楷書の漢字の刺青がある。帰国後、この老子の言葉の大意もわかったが、(『道の道とすべきは、常の道に非ず』)その時は、漢字の意味を解いてくれと言われ、一字一字の漢字の(日本での)意味を説明してみた。たぶん、あまり適切ではなかった。彼は、2日後の土曜日のレクチャーの講師だ。 私たちは、まず『オルグ・ホヴー2』遺跡に寄る。ここで『セメニチ』車を降りた女性もいる。次は『ベーロエ・オーゼロ』遺跡に寄ったが、ここでも降りた考古学者や、乗りこんできたスタッフもいる。つまり、『セメニチ』車のような発掘場専用車ウアズは不定期運行の路線バスなのだ。たまたま、出発しようと言うウアズを見て便乗してくる人もいれば、今日の予定を聞いて、自分の目的地近くまで乗って行こうと言う人もいる。
『ベーロエ・オーゼロ』遺跡は発掘が進んでいる。発掘物を示す赤いリボンがまた増えているようだった。パートごとにリーダーがいるようだが、集まってリーダー会議をするようなことは私の滞在中はなかった。横の連絡や情報はなくて、スタッフは自分のところしか知らないようだ。全体を把握しているのがキルノフスカヤさんと彼女の助手だろうか。 『ベーロエ・オーゼロ』遺跡を出て、連邦道54号線に出たのが11時過ぎ、トゥラン市のユーリー・セメノフさんの知り合い宅に寄って(たぶん、3日後の日曜日用の肉を購入すると言う予約だったのだろう)、さらに54号線をクィズィール方面へ進む。『王家の谷』遺跡やトゥラン市のあるウユーク盆地からウユーク山脈を越えると、ウルッグ・ヘム(エニセイ川)の流れるトゥヴァ盆地に出る。ウユーク山脈の峠には仏塔も建ち、チャラマも張ってある。トイレもある。ここで、キルノフスカヤさんの知り合いに会い、記念撮影。 連邦道54号線・新道はクィズィールの手前でクィズィールを迂回し、旧道は直進して市内に入る。私たちはその分かれ道の手前でアスファルト舗装道を出て、草原の中を進む(地図は前ページ)。窓からだと全景が見晴らせないので、カメラマンのシャッピーロさんはサン・ルーフから顔を出して撮影している。私も、そうすればいいよと運転手で車の所有者のユーリー・セメニチさんが言ってくれる。私がルーフから顔を出してもルーフ・キャリアしか見えない。「シートの上に乗ったらもっと高くなって、よく見えるよ」と教えてくれる。だが、「揺れるから気をつけなさい」と。
全景が見晴らせるサン・ルーフから顔を出して、写真や動画を撮りながらウユーク山脈南麓の草原を30分も走る。元エールベック川(54キロ、エニセイ川右岸支流)の一部だったような池が見え、灌漑用のダム湖の一部が見える。ダム湖は(鉄道敷設のため)廃止されるのか、放水され、底が現れた。ちなみに、去年の9月に来た時はなみなみと水をたたえ、大波すら立っていた。放水されたダム底にはクルガンが数基発見され、今年は、その『バイ・ダック7』クルガン群の調査をしている。去年は、エールベック川中上流の『バイ・ダック5』や『バイ・ダック6』、『エキ・オットゥク』や『サウスケン』遺跡が調査され、エールベック川ほとりにキャンプ場があり、そこでセミョーノフさんやキルノフスカヤさんと知り合った。今年は、指導者が常駐するキャンプはカシュペイのウユーク川畔になったが、新発見の『バイ・ダック7』クルガンを発掘するための考古学者キャンプ場はエールベック川畔にできている。 灌漑用のエールベック貯水池はそれほど小さいものではなかった。『バイ・ダック7』クルガン群の一つから別のクルガンまでは『セメニチ』車で移動した。水源地の底だったのでところどころ水たまりのような池が残っているが、一面の草原だった。乾燥して、暑くてとても歩いては回れない。 キルノフスカヤさんは自分の管理下にある発掘場所を定期的に見回っているが、今日来たのは、『バイ・ダック7』クルガンの1つで頭がい骨や矢じりのようなものが発掘されたという知らせがあったからだ。10人くらいのスタッフがキルノフスカヤさんを待っていた。頭がい骨は地面からやっと見えるくらいに現れている。キルノフスカヤさんに見せてから、続きを掘るのだろうか。 『バイ・ダック7』クルガンを発掘している人たちの『エールベック』キャンプ場に行く。ここにも数基のテント、ブルー・シートの小屋があり、斧から洗濯板付きたらいまで生活用品が置いてある。食堂テントに案内され、ちょうどお昼だったので、食事を出してもらった。ここには専門家やバイトが20人ほど常駐しているらしい。指揮はオレーク・バリソヴィッチ・ヴァルラーモフと言うサンクト・ペテルブルクの歴史文化財研究所からの考古学者がとっている。このキャンプ場には子供が二人いた。その一人は、去年来た時に会った女の子のソフィちゃんだ。母親の考古学者に連れられてアバカンから来たと言っていた。今年、もお母さんと一緒に来たが、夏休み中だから、「あら、学校はどうしているの?」とは聞かない。 キャンプ場はエールベック川のすぐ横にあって、川が流れているので木陰になる木々が茂り、川には倒木を渡した橋もかかっている。川向こうにはこのキャンプ場自慢の蒸し風呂小屋も作ってあり、木の間にはハンモックもつるしてある。 3時ごろ、また便乗者を乗せて出発する。途中、去年の『エールベック10』古墳群に寄る。高台にあり、スキタイ時代の古墳と、現代の村人の墓地が隣り合っている。キルノフスカヤさんは丁寧に見て回っている。 |
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シャッピーロさん | ||||||||||||||
4時ごろにはクィズィール市にはいり、鉄道建設プロジェクト社の前に車が止まった。ここで私とカメラマンのシャピーロさんはキルノフスカヤさんたちと別れて徒歩でクィズィール市内を廻ることになる。シャッピーロさんはサンダルを買いたいそうだ。私は本屋に行きたい。どちらも中央市場の近くにある。シャッピーロさんはもう20年近くもトゥヴァを撮っている。キルノフスカヤさんの調査にも10年以上同行している。
本屋に入ると、シャッピーロさんは入り口近くにあった分厚い本を手に取り、開いて私に見せる。ユーリー・セメニチさんや、セミョーノフ準博士、キルノフスカヤ準博士たちの記事も写真入りで載っている。『アジアの中心』誌が特集したトゥヴァの話題の人たちを連載した記事を本にしたらしい。シャッピーロさんの記事もあった。 クィズィール市の道路は幾つか通行止めがあり、警察官も多く出ている。近々ある民族祭ナーダムにショイグや、もしかしてプーチン大統領も来るかもしれないと言うので、ものものしい警戒ぶりだ。ショイグはトゥヴァ出身で、1994年から2012年まで長らくロシア非常事態相を務めた。2012年よりモスクワ州知事を経て、現在ロシア国防相。トゥヴァでショイグを知らないものはいない。 キルノフスカヤさんたちの用事が終わるまで、カフェで食事でもしていることにした。最近のロシアの食堂、カフェ、レストランのメニューには、法外な値段のすしが載っている。値段は他の料理と1桁違うのだ。ここではウナギもあった。いったいどこから来るのだろう。ウエイトレスさんを通じて厨房に聞いてもらったがわからないと言うことだった。(ロシアでは誰も何も知らない)。 シャピーロさんはユダヤ人で50歳、3回ほど結婚していて子供も5人ほどいるとか。カフェでは食事をおごってくれて、自分は私が許してくれるならヴォッカを飲みたいと言う。後でわかったことだが、彼は飲むことが好きらしい。飲むと私の手を握ってくる。別にそれくらいはいい。 キルノフスカヤさんたちは鉄道建設プロジェクト社に寄るだけでなく、買い出しであちらこちらの店などへも廻っていたらしい。今回同行しなかった人からの注文の品もある。連絡を取り合って、用事が終わった頃、私たちをカフェ前で拾ってくれた。クィズィールを出発したのは7時半頃、キャンプ場に着いたのは9時過ぎだった。まだ日は沈んでいなくて草原の灌木の長い影が見えた。10時半、太陽は空のどこにも見えなくなっていたが、まだ青空だった。 |
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7月12日(金)、国防相ショイグとプーチンの予定 | ||||||||||||||
7月12日(金)毎朝早く目覚めるが、食堂の用意ができるのはいつも7時頃だ。コックは去年と同じビーバーというあだ名で辮髪のサンクト・ペテルブルク人だが、助手はセメニチさんの甥だそうだ。もう一人の助手は、喉歌の教師アイ=ベック・オンダールさんの奥さん。就職難だから、知り合い縁者を通してみんな臨時でも働き口を見つけてもらっているのか。ちなみに、セミョーノフさんとキルノフスカヤさんの一人息子のアナトーリー君は、アイ=ベックさんの妹と結婚したが、別れたそうだ。子供はいない。 この日も、ピストン輸送の『セメニチ』車でキルノフスカヤさんたちと『ベーロエ・オーゼロ5』遺跡に出かけたのだが、いつもとは違い、パソコンばかりか発電機も積み込んだ。パソコンで本格的に仕事をするときには内部電池だけではだめで、電源が必要だ。私たち考古学者グループは、普通は国際キャンプ場ではデスク・ワークも食事もしない。休憩する時は、発掘中のクルガンの近くにこしらえたブルー・シート小屋が拠点になるので、今回は、特別にその近くに発電機を置き、いつものように一渡り発掘を見て回ったキルノフスカヤさんたちは、(いつものようではなく)そこでパソコンを開いた。 私は時々彼女のパソコンを使わせてもらっている。ウユーク盆地にはどこにもワイファイがないからだ。 いつもだと、お昼くらいにはカシュペイ・キャンプ場に戻って食事するが、この日は、ビーバー君の作ったおいしい食事が学校給食のバケツのようなものに入れられて、特別に、ここまで運ばれてきた。ボランティアさんたちは、自分たちの食堂テントに去ったが、私たち十数人は、ここで食事した。つまり、朝から夕方までキルノフスカヤさんたちグループは国際ボランティア・キャンプ場の『ベーロエ・オーゼロ5』遺跡で仕事をするのだ。だから、パソコンばかりか発電機までも車に積んでもってきた。 ちょっといつもと違う日程になったのは、新鉄道建設の立役者ショイグが、もしかしてプーチンを連れて視察に現れるかもしれないからだ。昨日から、クィズィールの道路を閉鎖していたと言うことは、今日ぐらいは首脳たちがもうクィズィールに来ているかもしれないということだ。彼らの訪問予定は決して前もって知らされない。テロに遭うかもしれないからだ。だから関係機関は、みんな一応準備をして待っている。クィズィールの国立博物館にも訪れるかとオリガ・モングーシュさんたちも準備していたそうだ。
午後からは、私たちは発掘現場の写真撮影をしていた。クルガンを上から撮るため、カメラを竿で持ち上げ、リモート・コントロールでシャッターを押していた。 『ベーロエ・オーゼロ5』クルガン群の近くに『ベーロエ・オーゼロ6』クルガン群があり、車では数分で行けるが、別のグループが掘っている。ウラジーミル・アレクセイヴィッチ・ザヴィヤーロフという、キルノフスカヤさんと同様ロシア・アカデミー歴史文化財研究所からの準博士が指揮をとっている。それほど大規模なクルガンではなさそうで、20人くらいのスタッフがいる。彼らのキャンプ場は、発掘場から歩くと30分ほどもあるウローチッシャ・ペレシェイク(『地峡』の『場』と訳せる)にある。やはりウユーク川の畔だ。ここへも、数日後訪れた。 |
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パラモーターから撮影 | ||||||||||||||
パイロットさんの車で『オルグ・ホヴー2』遺跡方面に行く。翼をたたんだ袋は後部座席だが、エンジンや座席、燃料ダンクは小型トレーラーに乗せてけん引していく。時刻は9時頃だった。朝でなければ、この時刻が滑空するのにちょうどよいそうだ。『オルグ・ホヴー2』遺跡とハディン村の間くらいで、道を出て、草原に入り、翼を広げ、ハーネスを繋ぐ。ハディン村からの馬の群れも遠くに群がっている。エンジンの試運転をしてみると、遠くの馬たちが音に驚く。だが、そのうち1頭のたぶん好奇心の強い奴が、何事だろうと近づいてくる。自分の群れとパラモーターの中間ぐらいの距離まで近づいて、黙って私たちを見ている。利口な馬だな。しばらく眺めていたが、好奇心が満たされたのか納得したのか、やがて背を向けて自分の群れへ去って行った。 パラモーターは滑空し、空に舞い上がった。草原の中、木も生えていない低い丘だけなので、舞い上がるのも、舞い降りるのも楽そうだ。私とシャッピーロさんはずっとパラグライダーを目で追っていた。青空に薄く雲が広がり、その間から、傾いてはいるがまだ高い太陽の金色の光が漏れてくる。パラモーターは丘の向こうに消える。後で、パイロットが撮った上空写真を見せてもらったが、このあたり一帯は、中規模・小規模の古墳がたくさんある。上空から見るとクルガン(古墳)はドーナッツのように見える。中央の地下石官室の天井が落ちるからだ。道路が丘の間の低い谷、狭間を選んで延びているのもわかる。『オルグ・ホヴー2』の上空なので、おなじみのブルー・シートのトイレ小屋も小さく映っている。発掘している2基のクルガンのほかにも、実に多くのドーナツが並んでいる。大きなドーナツの周りを小さなドーナツが囲んでいる。これらは緊急には発掘調査しないかもしれない。緊急なのは、直接、鉄道線路敷設予定地に触れる古墳だ。 ちなみに、『アルジャーン2』クルガンのまわりにも、未発掘のクルガンが多い。『アルジャーン2』から『アルジャーン1』にかけての、現在の舗装道の北側には、クルガンがずらりと何重もの鎖状に並んでいるそうだ。そのうち新鉄道建設にかかわらないクルガンは発掘しない。古代人も安らかに眠っていられる(盗掘はされているが)。舗装道の南側には、クルガンはない。なぜなら、古代はベーロエ・オーセロ(湖)が現在よりずっと大きく、舗装道の南側全体を占め、一面の湿地帯(湖)だったので、クルガンは作られなかったそうだ。なるほど、今でも、その舗装道の左右の高さも違うし、草の生え方も違う。 |
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