up date | 18 April, 201 | (校正・追記:2013年6月4日、10月9日、2015年6月24日、2016年6月29日、2018年10月28日,2019年12月7日、2021年10月4日、2022年11月6日) |
30−(4) トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年 (4) 新鉄道建設 2012年9月3日から9月14日(のうちの9月5日) |
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トゥヴァについて | トゥヴァ略地図 | 前回までのトゥヴァ紀行 | トッジャ地方も入れて予定を立てる | ||||
2)9/3 | エニセイ川を遡る | クルタック旧石器時代遺跡 | ハカシア水没クルガン | チェルノゴルスク市泊 | ||||
3)9/4 | アバカン博物館 | エニセイ川をさらに遡る | 西サヤン山脈に向かう | エルガキ山中 | 救急事態救助センター | ウス川沿いのアラダン村 | シベリア最大古墳 | クィズィール市へ |
4)9/5 | トゥヴァ国立大学 | クィズィール市をまわる | トゥヴァ国立博物館 | 4輪駆動車ウアズ | 新鉄道建設 | エールベック古墳群 | ロシア科学アカデミー(抄訳) | 『王家の谷』キャンプ場 |
5)9/6 | トゥヴァ北東部略地図 | 小エニセイ川へ | トゥヴァの行政区コジューン | ロシア移民起源の村々 | トゥヴァ東部の金 | 震源地の小エニセイ川中流の村々 | トッジャ陸路の入り口で待つ | かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る |
6)9/6 | 3つの峠越え、トゥマート山脈 | 中国の紫金鉱業 | ミュン湖 | エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 | トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 | トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人 | ||
7)9/7 | トーラ・ヘム村史 | トッジャ郡の霊水 | アザス湖へ | アザス湖上 | 個人事業者オンダールさん | |||
8)9/8.9 | 緑の湖 | アザス湖を望む | ヴォッカ | 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 | ウルック・オー谷 | |||
9)9/10.11 | 獣医アイ=ベックさん | オットゥク・ダシュ石碑 | イイ・タール村 | 『アルティン・ブラク(金の矢)』 | シャガナール市へ | シャガナール城塞 | 聖ドゥゲー山 | トゥヴァ最高裁判所 |
10)9/12 | コバルトのホブ・アクスィ村 | アク・タール村(『白い柳』の意) | ヘンデルゲ古墳群 | チャイリク・ヘム岩画 | ||||
11)9/13.14 | 西回りの道 | チャダンの寺院 | ヘムチック盆地 | アスベクトのアク・ドゥヴラック市 | 西サヤン峠 | オン川とオナ川 | シャラバリノ岩画 |
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてロシア語の転記に従って表記した。
トゥヴァ国立大学 | ||||||||||
9月5日(水)。この日、パーシャの車は修理しなければならないとかで使えなかったが、仕事を休んだオルラン君が車を出してくれた。 朝、9時半ごろアンドレイ先生と近くのトゥヴァ国立大学歴史学部のキャンパスへ行く。歴史学部の一部屋はトゥヴァ国立大学付属『アジア中央の諸民族の歴史と文化財博物館』になっていて、まずそこへ案内される。付属博物館長が世界史と考古学講座主任の歴史学準博士の学位を持つ助教授アンドレイ・チェルダク=オーロヴィッチ・アッシャク=オール Ашак=оол Андрей Чолдак-оолович先生で、舌が回らないので、いつもアンドレイさんと呼んでいる私たちの担当だった。このホールができたのは3年ほど前で、壁際には展示ケースや説明図がかかっている。室内には机といすが並んでいて講義もでき、壁には大きな考古学地図もあった。
見応えがあって、アンドレイ先生にゆっくり説明してもらえばよかったのだが、その時は予定がたくさんあって、質問が考え付かなかった。また戻って、ゆっくり見られると思った。(その予定とは)招待した機関が外国人の到着手続きをすることになっているので、大学本部の建物に移動し国際交流課に顔を出して、パスポートを出して本人の素性を明らかにし、手続きをしなくてはならない。大学の宿舎に泊めてもらうのでその手続きのためにもパスポートが必要だ。(クラスノヤルスクではディーマさんの会社がしてくれた)。 トゥヴァ国立大学の前身は1952年にできた教員養成単科大学で、当時は言語・文学科と物理・数学科の2科しかなく、1学年100人を受け入れた、と大学の歴史にある。1995年国立総合大学となり、現在の11の学部と36の講座、さらに(卒業後の)資格向上と再教育の学部、教員養成カレッジ、付属学校ができた。本部では副学長の一人で国際関係を担当する文学博士のホムシュク先生に挨拶した。大学の職員はこの日顔を合わせた全員が、上も下もアンドレイさんを除くと女性だった。本部でのあいさつが終わると、また歴史学部の建物に戻った。資料室で、今回行けないことになったトレ・ホレ湖の資料とか言うのをメモリーチップにコピーしてもらう。8ギガのチップがいっぱいになったから、これ以上コピーできないと渡されたが、後で見ると、ほぼ空だった。されたはずのコピーもなかった。 大学に招待された以上は、何か教育的なこと、例えば、講義をしなくてはならない。私たちの場合、モンゴル語を学んでいる学生たちとの座談会が用意されていた。今はロシア連邦に入っているトゥヴァだが、昔からモンゴルとの関係が深かった。国境も接している。だから国際関係の相手は伝統的にまずモンゴルで、モンゴル語は重要な外国語のはずだ。クィズィール市にはモンゴル総領事館がある。ちなみに、クィズィールにある外交機関はモンゴル総領事館のみ。モンゴルの外交機関は、ロシア連邦内には大使館のあるモスクワ市の他、総領事館はウラル山中でシベリアの始点のエカチェリンブルク市、バイカル湖西岸のイルクーツク市、同東岸のウラン・ウデ市(モンゴル系ブリヤート共和国の中心地)、ヨーロッパで唯一のモンゴル系民族のカルムィック共和国のエリスタ市、そして、このトゥヴァ共和国のクィズィール市の5都市にある。 |
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クィズィール(クズル)市をまわる | ||||||||||
当時はエニセイ川のより下流の(水路ではミヌシンスクやクラスノヤルスクにより近い)チャー・ホリ村がロシアとの交流拠点だったが、ビー・ヘム(エニセイの右源流、大エニセイ)とカー・ヘム(エニセイの左源流、小エニセイ)の合流地点が新しい行政中心地(植民の基地、交易の中心)に選ばれたのは、新基地建設のための材木などの建材の運搬に適していたからだそうだ。材木は特にトッジャ地方から大エニセイ川に流した。石灰はサルィプ・セプ村から小エニセイ川を通じて運搬した、他の建材はロシアからエニセイ川を通じて搬入したとある。トゥヴァなどのアジアのロシア帝国勢力圏では、イスラム系や中国系支配者と区別してロシア皇帝のことを『白い(ベーリィ)ツァーリ(皇帝)、トゥヴァ語ではツァガン・ハン』と呼んでいた(呼ばせていた)ことからから、新拠点をベロツァールスクと名付けたそうだ。 革命後の1918年、ベロツァールスク(白い皇帝の町)は『ヘム・ベリディル(トゥヴァ語で合流点)』と改名したが、さらに『クラースヌィ(ロシア語で赤い)』となり、1926年には『クィズィール(トゥヴァ語で赤い)』と改名して独立トゥヴァ人民共和国の首都となった。
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トゥヴァ国立博物館 | ||||||||||
トゥヴァ国立大学の用件が終わると、この日、私たちの予定は特にない。名所の少ないクィズィール市だが、国立博物館は見ておいた方がいい。だからガイドの予約がしてあったので、1時半、オルランのコロナ・プレミオで急ぐ。と言っても、歩いても行ける距離だが。
私たちが大学の招待客だったせいか、アンドレイ先生が話をつけてくれたせいか、入場料もガイド料も不要だった。博物館にはいくつかのホールはあるが、見ごたえのあるのは何と言っても考古学ホールだ。スキタイ文化では最古のウユーク盆地の『アルジャーン1』古墳の1971年発掘のようすが白黒写真で展示してあり、発掘物の他、古墳のミニチュアがある。『アルジャーン2』古墳発掘は2001年だったのでカラー写真が展示してある。こちらの方はミニチュアではなくスキタイの王と王妃が葬られていた棺は実物大で、発見された時のように骨や黄金のレプリカが置いてあった。実物の黄金の方は、数年前完成した頑丈なドア付きの特別ホールに幸いにも展示してある。ここへはカメラが持ち込めないと言われる。ガイド同伴で鍵を開けて中に入れてもらう。きれいに磨かれ修復されたスキタイの動物意匠の出土品が、暗い室内でそこだけライトに照らされたケース内に展示してある。繋いで身にまとったという精巧に動物の形が彫刻された無数の黄金の粒も展示してある。あまりの精巧さに2600年も前の古墳から出てきたとはとても思えないくらいだ、とみんなが言う。発掘後はサンクト・ペテルブルクのエルミタージュで磨かれ、元々あったと思われるように繋がれた。首飾りや胸当て、ティアラ、バックルなどの装身具など、写真ではよく見るが、ここには実物が展示してあるのだ。このホールだけ暗いのは、古墳内をイメージしているからだそうだ。 ガイドが案内してくれたのは2階の考古学ホールだけで、民俗学ホールと、自然、特別展示ホールなどは自分で説明文を読みながらゆっくり回った。全部を見て玄関に出たのはたぶん1時間半後だった。 トゥヴァ共和国にはロシア人は16%の5万人弱しかいない。18,19世紀頃からの農業移民以外のロシア人,つまりソ連邦になってからやってきたロシア人はクィズィール等の都会に住んでいるだろうが、どこへ行っても出会うのはアジア風のトゥヴァ人ばかりで、博物館内もトゥヴァ人職員が多い。私たちのガイドもトゥヴァ人だった。今、玄関で見かけたトゥヴァ人女性職員は何だか見たことがある。それで、 「私たち前にお会いしたことはなかったでしょうか」と尋ねてみる。あっと彼女も私をじっと見つめて、思い出したようだ。2004年にその時は古い建物だった国立博物館で、普通は40分で一通り説明が終わるという博物館を3時間半もかけて説明してくれたガイドで、名前もその時思い出した。オリガ・マングーシュさんだった。顔も名前も覚えていたのは、2004年、クラスノヤルスクに帰ってからもメールを出したり電話をかけたりしたからだ。その後、連絡は途絶えたが、オリガさんはずっと博物館の職員をしていた。今では考古学部の主任となっている。職員の部屋に行って、再度連絡先をとり替わし、一緒に写真も撮る。新しくできたこの博物館の前で撮ろうと、また玄関へ行き、先ほど私たちのガイドをしてくれた男性の職員に頼んで撮ってもらう。(トッジャから帰ってもう一度オーリャさんに会うことになる) 博物館前は整備された広場になっていて広場には必ずある噴水の他にユルタが2張り建っている。一張り目のユルタにはお土産が売られていて、もう一方では民族衣装の試着ができる。 |
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ロシア製4輪駆動車ウアズ | ||||||||||
この日、アンドレイさんは私たちを中央市場にも案内してくれた。私はお土産品は荷物になるので買わない。お土産専門店は休日だったが、翌日のトッジャ行きの交通手段を決めておく必要があったらしい。人の集まる中央市場は個人タクシー乗り場にもなっているらしい。ちなみに市内を公共の大型バスは運行していない。市外バスもあるはずだと思うが、みんな遠くへも近くへも乗り合い個人タクシー(組合のような組織はあるだろうが、公共かどうか知らない)を利用するらしい。トゥヴァで人が乗る車と言えば一番よく見かけるのはウアズ(ワズ)(UAZウリヤノフ化工場製の寒冷地と悪路走行に強い4輪駆動車、ワンボックスカーもある)で、定員は10人くらい。人数が集まれば目的地へ出発する。運転手と話をつければ一定の時間に一定の場所に迎えに来てもらえることもある。8人ぐらいで出発することもあるが、それは運転手が、これ以上待つより8人分の運賃収入でいいや、と判断した時だ。10人分の料金を払って、たとえば4人で貸し切りにすることだってできる。 中央市場の一角に、たぶん自然発生的なワンボックスカー・ターミナルがある。長めのワンボックスカーのウアズが数台止まっている。乗り心地が悪そうで、少なくとも外観は泥だらけ、開くかどうかわからない窓にも埃と泥のブラインド。運転手らしい男性が数人かたまって煙草をふかしていた。その一人にアンドレイさんは近づき、何やらトゥヴァ語で話している。トッジャへ行くウアズらしい。一人片道800ルーブルで、早めに来てほしい、人数が集まったら出発するのだそうだ。まあ、だいたい集まって、それなりの時間(その日のうちに目的地到着できるくらいの時間)に出発できるそうだ。しかし、旅行者にとっては、場所を移動するだけではつまらないではないか。行程を楽しみたいものだ。素晴らしいところには止まってもらって写真も撮りたいものだ。せめて助手席に座って、走りながらでも撮りたいものだが、後部席ではこの窓ガラス越しには撮れないだろう。パーシャの車で何とか行けないだろうか。 3時も過ぎていたが近くのカフェで昼食をとって、オルラン君の愛車コロナ・プレミオで古代遺跡発掘現場に出かける。 |
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新『クラギノ・クィジール鉄道411キロ』建設 | ||||||||||
まずは修理場へ行き、タイヤをチェックする。発掘現場と言うのはたいてい悪路しか通じていないからだ。
目的の発掘古墳群はエニセイ右岸にあるので、コムナリ橋を渡る。昨日渡った橋だ。連邦道54号線はハカシアのアバカン市でエニセイ川を渡った時からずっと右岸を通り、トゥヴァ盆地に入る。入るとカー・ヘム(小エニセイ川)とビー・ヘム(大エニセイ川)の合流点にできたクィズィール市があるのだが、市街地はエニセイ左岸にあるので市内唯一のコムナリ橋を渡る。この1963年開通の橋があったおかげでウス街道(連邦道54号線)は本土(ロシア)からトゥヴァ盆地の南に出られたのだ。しかし、この交通の動脈が通っていた橋も2011年と2012年の大地震で傷み、後で知ったことだが、2012年9月後半には修理のため全線閉鎖された。私たちは修理前の危ない橋を渡り、交通の便の良い旧・連邦道54号線を進んでいったのだ。この橋がすでに旧道になっているのも、新・連邦道はクィズィール市の手前4キロから分かれて、少し下流にできた新橋を通り、クィズィール市を迂回して南へ通じているからだ。 そして、その新橋の近くの右岸に新クィズィール駅ができる。アンドレイさんに言われて、その空き地を見ても羊が喜ぶようなおいしそうな草と、低い灌木の他は何もなかった。クィズィール市の端が遠くに見渡せる広い草原だった。それで、 「クィズィール駅はクィズィール市にできるのではないの?」と、聞いてしまった。シベリア幹線鉄道と支線でつながっているクラスノヤルスク地方南のクラギノ駅からクィズィール市までの全線411キロの鉄道路線は、エニセイ川の手前で終わる。エニセイを渡って市街地まで行かない。クィズィール市の右岸地区からも離れた全くの更地に新クィズィール駅ができる。鉄道は乗客の輸送のためではなく、トゥヴァの地下資源をモスクワに本拠のある企業(工場のほうはシベリアなど各地にある)が利用するためにできているのだから。将来はここがトゥヴァの物資集散地となる。 もちろん、鉄道敷設の目的は、事実、トゥヴァの資源をクラスノヤルスク地方へ、つまりロシアに運ぶことだとはっきり謳ってある。雇用を生み出すとかも添えられているが。敷設予定地図を見ると、確かに、トゥヴァの炭田地帯とクラスノヤルスク地方を直接結んでいる。トゥヴァの炭田は、クィズィール市の郊外、カー・ヘム炭田(左岸)やエレゲスト炭田(左岸)などがあるが、その一つエールベック炭田(右岸)のエールベック村とクィズィール市の間に駅ができるのだ。アルタイ地方のクズネックなどの古くからの炭田に比べ、トゥヴァの炭田は未開発で将来有望だそうだ。 エールベック村は、クィズィール市はずれから西へ16キロほどにある人口千人の村だ。小さな右岸支流エールベック川(56キロ)がウルッグ・ヘム(トゥヴァでエニセイ川のこと)に合流するところにある。トゥヴァではどの村でもそうだが、エールベック村の入り口にも、トゥヴァ風仏塔が建っていた。トゥヴァ盆地が広がり、現在人口も多いのはエニセイ左岸のほうで、右岸はウユーク山脈が迫っていて狭く、川岸に沿って小さな村がいくつかあるだけで、クィズィールから川岸を通って伸びている道路もやがて行き止まりになる。しかし、ウユーク山脈を越えた新鉄道がエールベック川を下り、合流点のエールベック村に出て、クィズィール新鉄道駅まで伸びてくるとなると、右岸は重要地域になる。クィズィール市からエールベック村へのエニセイ右岸の道路は舗装してあった。この道路とほぼ平行に鉄道が敷かれる予定だ。エールベック村近くの低い丘陵の間、浅い盆地にコンテナのようなもの、作業小屋が数軒、ダンプカーや数人の人影が見える。ここがクィズィール貨物駅になるらしい。エールベック炭田も近い。 エニセイ右岸のウユーク盆地とその南斜面のエールベック谷は、今は遊牧基地がある程度で集落はないが、古代遺跡は、トゥヴァの他の地と同様に多い。交通の便もよくなるエールベック村には、観光センターもできるとか。 |
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エールベック谷の古代遺跡 | ||||||||||
1973年発行、百万分の1の地図 サヤノ・シューシェンスカヤ発電所ダムができた場合の当時の水没予定地域は、青斜線で示されている。 | ||||||||||
水没地から移動した市町村のうち10は新シャガナール市、11はチャー・ホリ町。クルトゥシビン山脈の北はクラスノヤルスク地方 青数字はウルック・ヘム(エニセイ川)右岸支流:1ビチェ・バヤン・コル、2エールベック、3バヤン・コル、4エジム、5デミル・スグ、6クイルック・ヘム、7オルター・ヘム、8ベデリク 9チンゲ |
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トゥヴァは全体が古代遺産の宝庫だ。なぜなら、アジアの中央に位置するトゥヴァは、前期旧石器のアシュール文化(出アフリカ最初の人類の文化,ヨーロッパでは70万年前、東アフリカでは140万年前に起源を持つ)やネアンダルタール人の中期旧石器ムスティエ文化(30-3万年前)の時代から世界中に広がっていった人類の通り道であった。さらに、新石器時代や青銅器時代を通じて様々な文化を持った民族がここに住み、また,ここを移動していったからだと、どの考古学の本にも記されている。東から西に流れるウルッグ・ヘム(エニセイ川)に、右岸だけでもビチェ(小)バヤン・コル川(上地図1)、エールベック川(2)、バヤン・コル川(3)、エジム川(4)、デミル・スグ川(5)、クイルグ・ヘム川(6)、オルタ・ヘム川(7)、ベデリグ川(8)、チンゲ川(9)と北のウユーク山地から流れて来るが、それらの川の谷間にはクルガンや岩画が多く発見され、『ソ連邦考古学調査と発見』という毎年出版された学術誌に発掘調査報告が載っている。サヤノシューシンスカヤ・ダム湖建設にあたって、調査された。
チンゲ川の先へは『老』ウルッグ・ヘム(エニセイ川)は『若い』西サヤン山脈の奥へ深い渓谷を作って流れ、ハカシア(ハカス)・ミヌシンスク盆地へと進んでいく。エニセイ川の流れはシベリアでも地質的に最も古く、サヤン山脈などは後に隆起して山脈になったのだ。エニセイ峡谷によって左右に分断された西サヤン山脈の東側は、クルトゥシビン山脈でずっと東の峠を連邦道54号線で越えた。西側はヘムチック山脈で、ウルッグ・ヘム(エニセイ川)最大の左岸支流ヘムチック川の北の分水嶺になっている。この峡谷付近にも遺跡跡が多くトーラ・ダッシュ多層位遺跡は新石器時代から中世の文化層が時代順に重なって見つかり、考古学の論文でも必ず言及されている。 エールベック川下流を含むウルッグ・ヘム(エニセイ川)右岸は、クィズィール(クズル)市から58キロのバヤン・コル村(バヤン・コル川がエニセイに合流するところ)までの道路建設にあたって、1985年から1988年まで調査されたのだ。ヘルビック丘のスキタイ時代の岩画、チャルガ丘の青銅器時代の人物岩画、エールベック岩画等、9か所のクルガン群、5個の中世エニセイ文字などの墓銘碑、5個の鹿石(鹿の模様などが刻まれた石柱)などが新発見されたり再調査されたりしている。 北のトゥラン・ウユーク盆地のアルジャーンなどの大規模古墳が集中する『王家の谷』は、ウユーク川やトゥラン川畔にウイグル時代から灌漑農業がなされ(現在は遊牧のトゥヴァだが、現在、古代の灌漑跡が各地で発見されている)、その灌漑跡を利用して20世紀初めからロシア人集落もできていた。1916年、トゥヴァで初めて近代的な発掘調査がされたのも、ここの数百もある古墳の一つだった。(1941年、この盆地にはクィズィール郷土博物館調査によって492基の古墳が登録されている)。
一方、盆地の南のウユーク山脈の南斜面を流れてエニセイに注ぐエールベック川の谷間には、『アルジャーン1』や『アルジャーン2』のあるトゥラン・ウユーク盆地のように大きな古墳はないが、ウルッグ・ヘム右岸へ注ぐ古い川として、古代から様々な人類・民族が住み続けた跡が残っている。エールベック谷にはエニセイとの合流点のエールベック村のほか集落は一つもない。遊牧基地が季節によってところどころにあるだけで、トゥヴァの大部分の古墳群と同様、調査の手は全く入っていなかった(調査するには資本・スポンサーがいる、前記の右岸調査は『トゥヴァ道路建設』社の受注による)。 今、延び延びになっていた鉄道敷設計画が2006年政府によって着手が決定され予算も下りた。それで、2010年からサンクト・ペテルブルクの考古学者ばかりでなく、全国から学生ボランティアたちに呼びかけて、大規模な考古学・地質学キャンプ場が運営されている。夏場の屋外シーズンには百人以上の専門家・学生・ボランティアが働き、ワン・シーズンに何十基もの古墳が発掘されているそうだ。ということは、そのキャンプ場に行ってから発掘隊の責任者セミョーノフさんとキルイノフスカヤさんと言う人に聞いた話だ。それまで私はトゥヴァについて一通りのことしか知らなかった。鉄道敷設計画がまさか実施されているとも知らなかった。 考古学・地理学キャンプ場についたのは、7時近かった。クィズィール市からエールベック村までは舗装道だが、ウユーク山中のエールベック川畔は悪路なので運転者のオルランがゆっくり進んだからだ。丘陵地帯には遊牧基地小屋もあり、羊が草を食んでいた。ごつい岩山もあって道路は大きく迂回していた。山も深くなってくると、ますます悪路になる。途中で、考古学調査地のようなところではウアズ(ワズ)に出会う。発掘現場からキャンプ場に帰るらしい。本当は発掘現場に行きたかったが、現場は発掘物をもう持ち去ったか、まだその層まで掘られていない古墳しかないと言われ、ひとまずキャンプ場に行くことにした。山に囲まれたエールベック川畔の小さな草原広場にキャンプ場があった。川岸には木々も生えている。 着いたところで雨が降り出し、風も強まったので、テントの中に入れてもらった。そこは食堂のテントで、テーブルの上にはおいしそうなトマト・サラダのボールや、パン、ケチャップやマヨネーズ、飴玉の壺が並んでいて、みんなからどうぞと勧められた。雨風がひどくなってきた。 「テントには余裕があるから、泊まっていけばどう」と言われたくらいだ。研究者たちはサンクト・ペテルブルクから来た考古学者が多い。まず8歳くらいの女の子と友達になった。お母さんの考古学者に連れられてアバカンから来たと言っていた。「あら、学校は?」と聞いてしまったが。 鉄道建設予定地の考古学調査を主導しているのはサンクト・ペテルブルクのロシア科学アカデミー文化財史研究所考古学部(旧・ロシア科学アカデミー考古学研究所レニングラード支部考古学部Institute of History of Material Culture)で、発掘責任者は前記のように、同研究所の上席研究員のウラジーミル・セミョーノフВладимир Семёновとマリーナ・クリノフスカヤ Марина Кулиновская(彼らは夫婦)。 |
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ロシア科学アカデミーの報告(抄訳) | ||||||||||
2012年ユーラシアの草原地帯文化とその古代諸文明の相互関係というテーマでなされた学会のレジュメによると、
具体的な遺跡についてサイトに載っていた2011年の調査の一部を引用すると、
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『王家の谷』キャンプ場 | ||||||||||
クラギノ・クィジール鉄道建設用地のトゥヴァ側遺跡調査隊の基地は、前述のように『王家の谷』キャンプ場と呼ぶそうだ。7月8月の学生ボランティアたちの多い時は、数か所あったかもしれないが、今回私たちが案内されたのは、その一つで、9月以降はここにまとまっていたのかもしれない。
テントの食堂ではセミョーノフさんやマリーナ・キルノフスカヤさんたちも来て、さっさと食事を済まし出ていく。私たちも食堂のテーブルにあまり長く座っていると、次の人に迷惑なので、外に出る。嵐は止んでいた。先ほどのキルノフスカヤ先生が自分の食べた茶碗をテント村横のエールベック川で(秋口とは言えあまりに細いので支流のエキ・オットゥク川かもしれない)、スポンジに洗剤をつけて洗っていた。 どうぞと言われて、彼女のテントへ行くと、先ほど食堂にいたセミョーノフさんも椅子に座っている。ポル・バジンに行くために日本から訪れたが、許可が出なかったという話をすると、そうだ、日本からマスモトという考古学者も希望していたが許可がでなかった。外国人は許可が出にくく、長く待たされる、と慰めてくれる。(その枡本さんに2016年奈良市で会う.キルノフスカヤさんも一緒だった) アンドレイさんにはトゥヴァで発掘の現場を見たいといっただけなので、案内されてきたこの場所はどこで、なぜ発掘しているかということも、セミョーノフさんに聞いて初めて知ったのだ。だから、彼に持っていた地図を見せて、今いる場所をチェックしてもらった。エールベック川に右岸支流のエキオトック川が交わる地点だった。 今年の夏シーズンは34基のクルガンを発掘し、そのうち2基は未盗掘だったそうだ。セミョーノフさんがわざわざ発掘物を数点持ってきてくれた。写真に撮らせてもらう。スキタイ時代の銜(馬に食ませて御する道具)、馬面といわれる馬の頭部あたりの装飾金具、携帯用砥石などだろうということだった。発掘地点や番号の書いた札が結びつけられている。 7時も過ぎた頃、本当はもっと留まっていたかったが、また来られるかと思って引き揚げた(来られなかった)。オルラン君の車がエキ・オトゥック川(エールベック川かも)の浅瀬を渡ろうとしてもスリップするので、みんなでタイヤの下に石を引きやっと陸地に上げた。同じ道を通って帰ったのだが、来るときに見た池で大波が立っていた。途中でエールベック谷の草原丘陵に赤く沈む夕日が眺められた。 ウルッグ・ヘム(エニセイ川)合流点まで来た時は真っ暗だった。川岸の高台から東のクィズィール(クズル)市を見ると、市街地の手前にかかる新橋、左岸の町明り、その向こうの旧連邦道54号線橋が見える。西を見ると川幅は広くなり、日没後の薄明かりの空のもと、川幅も拡がり、大きな中州が横たわるウルッグ・ヘム(エニセイ川)が遠くの薄紫の山に向かって続いている。 (後記 2013年にはまたエールベックキャンプを訪れる事ができた。2014年も訪れた。2015,2016年も訪れる。鉄道完成は伸びに伸びて2022年でもまた開通していない。2026に完成とか) |
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