クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 April, 2013   (校正・追記:2013年6月2日、2014年1月29日、2015年6月23日、2016年6月29日、2018年10月29日,2019年12月7日、2021年10月4日、2022年11月20日)
30-(5)    トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年
      (5)トッジャ地方へ
             2012年9月3日から9月14日(のうちの9月6日
Путешествие по Тыве 2012 года(03.09.2012-14.09.2012)
1) トゥヴァについて トゥヴァ略地図 前回までのトゥヴァ紀行 トッジャを含む予定を立てる
2)9/3 エニセイ川を遡る クルタック旧石器時代遺跡 ダム湖水没クルガン チェルノゴルスク市泊
3)9/4 アバカン博物館 エニセイ川をさらに遡る 西サヤン山脈に向かう エルガキ山中 救急事態救助センター ウス川沿いのアラダン村 シベリア最大古墳 クィズィール市へ
4)9/5 トゥヴァ国立大学 クィズィール市をまわる トゥヴァ国立博物館 4輪駆動車ウアズ 新鉄道建設 エールベック古墳群 ロシア科学アカデミ-(抄訳) 『王家の谷』キャンプ場
5)9/6 トゥヴァ東北部地図、小エニセイ川へ トゥヴァの行政単位コジューン 小エニセイ川を遡る ロシア移民起源の村々 トゥヴァ東部の金 2011年と12年大地震の震源地 トッジャ陸路の入り口で待つ かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る(古墳)
6)9/6 3つの峠越え、トゥマート山脈 中国の紫金鉱業 ミュン湖 エーン・スク寺院とダルガン・ダク遺跡 トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人
7)9/7 トーラ・ヘム村史 トッジャ郡の霊水 アザス湖へ アザス湖上 個人事業者オンダールさん
8)9/8.9 緑の湖 アザス湖を望む ヴォッカ 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 ウルック・オー谷
9)9/10.11 獣医アイ=ベックさん オットゥク・ダシュ石碑 イイ・タール村 『アルティン・ブラク(金の矢)』 シャガナール市へ シャガナール城塞 聖ドゥゲー山 トゥヴァ最高裁判所
10)9/12 コバルトのホブ・アクスィ村 アク・タール(白い柳)村 ヘンデルゲ古墳群 チャイリク・ヘム岩画
11)9/13.14 西回りの道  チャダンの寺院 ヘムチック盆地 アスベクトのアク・ドゥヴラック市 西サヤン峠 オン川とオナ川 シャラバリノ岩画

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてロシア語の転記に従って表記した

カー・ヘム郡(アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈南)とトッジャ郡 1,2,3,4,27,28はクィズィール郡
黒字は都市や集落名  1.クィズィール市 2.カー・ヘム町 3.コク・テイ 4.ハヤ・バジ 5.スク・バジ 6.ブレン・ヘム 7.クンドゥストゥク 8.バヤロフカ 9.コク・ハーク 10.サルィク・セプ 11.デルジグ・アクスィ 12.ウスチ・ブレン 13.ブレン・バイ・ハーク 14.ベリベイ 15.エルジェイ 16.シジム 17.ウジェップ 18.トーラ・ヘム 19.アディル・ケジク 20.アザス 21.サルダム 22.イイ 23.ゥイルバン 24.チャズィラル 25.スィスティク・ヘム(同名の川の河口) 26.セイバ 27.カラ・ハーク 28.チェルビ(3から28は村); 29.タルダン 30.バーザ・コプトゥ 31.プロエズノイ 32.コプトゥ 33.カラ・オス(29から33は砂金場); 34.クィズィール・タシュティック鉱山 35.エーン・スク 36.オルブク(35と36はメスティーチコ); 37.チョイガン(鉱泉) 38.ウシュ・ベリディール(鉱泉) 39.チェデル湖 40.バイ・ソート 41.小コプトゥ 42.サイルィク 43.ネアジダンヌィ 44.スィナーク 45.ミュン湖 46.エーン・スク 47.トリブル 48.トーラ・ヘム(40から48は川) 49.ドゥス・ホリ(湖) 50.トゥマート・タイガ山脈 51.オットゥク・タイガ山脈 
 2011年12月(上)と2012年2月(下)の大地震震源地 赤線・赤破線(推測)は今回の行程
 カー・ヘム(小エニセイ川)へ
 昨日、アンドレイさんは中央市場で埃だらけの10人乗りワンボックスカーの乗り合いタクシー運転手に、私たちの席を予約したのだが、できたら、パーシャのフォルクスワーゲンでトッジャへ行きたいものだと私は思っていた。オルラン君は絶対だめだ、乗用車の通れるような道ではないという。パーシャは前日いっぱいかけて修理場で車をなおしたとかで、そろそろとなら自分の車でも行けると言う、あるいは言わせた。というのも、私の手持ちのルーブルが足りなくなったので、ワジムに送金してもらったのだが、パーシャのカードに5万円分のルーブル(当時のレートで20,500ルーブル、私のカードには入らないのでパーシャのカードを代用した)を入れてもらうついでに、パーシャも自分の車の修理代として4000ルーブル入れてもらったからだと思う。ワジムに電話して頼んだ時、私用の金額とパーシャ用の金額も言ってあげた。(パーシャが自分で電話したのでは、送金されなかったかも)
カー・ヘム町で車の修理場を探す

 パーシャ車で寄宿舎を9時半出発。歴史学部キャンバス前で待っていたアンドレイさんも乗せて、トッジャに真っ直ぐ向かうかと思ったのに、また修理場をまわったり、車に合うオイルを探して買ったり、給油したりで(前日にしておけばいいのに)、先に進まない。クィズィール(クズル)市中や、その東のカー・ヘム町中をうろうろすることになった。
 カー・ヘム町はクィズィール市の東にある。首都のクィズィール市は東西南北の4方に道が伸びていて、南北方向へは連邦道54号線が伸び、西方にはウルッグ・ヘム(エニセイ川)左岸をトゥヴァ盆地を通ってアスベクト産地のアク・ドゥヴラック、その先はハカシアへ通じる共和国道162号線が伸びているが、東へは、カー・ヘム(小エニセイ川)に沿って、サルィグ・セプ村で終わる87キロの共和国道『クィズィール〜サルィグ・セプ』が伸びているだけだ。カー・ヘム町は東へ出るとき必ず通る。
 一方、ウルッグ・ヘム右岸の方は、前日のエールベック村の先バヤン・コルまでは比較的良い道が続いて、終わる。また、クィズィール市の北方面へは、前記の北(北西)への連邦道54号線のほかに、北東にビー・ヘム(大エニセイ川)に沿って道がある。旧連邦道54号線との分かれ道から15キロほど行くと渡し場があり、対岸のビー・ヘム右岸にカラ・ハークと言う村やその先10キロほどのところにチェルビと言う村がある。道はそこで終わる。

 クィズィール市の中心は、それなりに現代と伝統が融合したような都会美は作られているが、カー・ヘム町のような郊外は、にわか仕立ての工場町という感じで環境はよくなさそうだ。この町の奥に、ウルッグ・ヘム炭田の一つ、カー・ヘム炭田がある。トゥヴァに鉄道を敷くことにした目的が地下資源の輸送だ。
 カー・ヘム町を通り過ぎると、周りにはすぐにトゥヴァの自然がひろがった。真っ青な空、木の生えていない岩山、緑の丘陵草原、遠くには青色の山並みが見える。クィズィール市の中心はウルッグ・ヘムの左岸にあり、カー・ヘム町はウルッグ・ヘム左岸源流のカー・ヘム左岸にある。だから、ここからはカー・ヘムに沿って進む。舗装道はカー・ヘム川の右岸から、最近できた唯一の橋(後述)を渡って左岸に出ると、ここからカー・ヘム郡(コジューン)に入るのだ。
トゥヴァの行政区コジューン
 カー・ヘム谷、つまりカー・ヘム流域の大部分を占めるカー・ヘム郡は、トゥヴァ共和国の17の郡・コジューン(*)と2市の19からなる行政区の一つで、面積は2万5千平方キロ(岩手県の2倍)とトッジャ郡に次いで広いが、人口は1万人ほどで、人口密度は平方キロあたり0.47人。カー・ヘム郡は村、つまり、スモーンが11個で構成されていると統計にある。行政中心村サルィグ・セプが4495人(トゥヴァ共和国内人口第8位)で、あとはだいたい数百人で、まわりの集落も含めてひとつのスモーンになっている場合もある。
トゥヴァの行政区分(17)。
特別市(白丸)は
(5)のクィズィール郡の中のクィズィール市と、
(2)のバルン・ヘムチック郡の中の
アク・ドゥヴラク市。
そのほかの行政区分は
 4.カー・ヘム郡 13.トッジャ郡など

(*)郡コジューンкожуун,または、ホシューン хошунとトゥヴァ語では言う。(ロシア語の訳では区районとなっている)。もともと清朝支配時代からの軍事用語であり、土地と人民を編成する行政単位『旗・ホショー』からきていた。18歳から60歳の男子150人でスモーンСумонといい、スモーンが集まってコジューンになった。もっと小さい単位では10家以上でアルバンという。今は、スモーンは村、コジューンは郡、または区に相当するような行政単位で、トゥヴァは現在コジューンが17、スモーンは120、それに市が5つある(5市のうち首都クィズィール市とアク・ドゥヴラック市はどのコジューンにも入らない特別市)。19個の行政区分(17のコジューンと2特別市)のうち、人口11万のクィズィール市に次ぐのが首都を除いたカー・ヘム郡(首都は位置するが)で2万8千人。行政中心地はカー・ヘム町。
 ちなみに、清朝支配下のウリャンハイ地方には5つ(後に4つ)のコジューンがあった。そのうち一つのフブスヌール(フブス・ゴリ)コジューンは1878年、モンゴルの地方(郡)に合併された。20世紀初めは7つのコジューンあり、独立トゥヴァ人民共和国時代、ソ連邦合併時代、ロシア連邦時代と統合・新設・合併が繰り返された。モンゴルとの国境線も変遷した(例えば、東部のフブス・ヌール方面はモンゴルに、南部のテス・ヘムとウブス・ヌール北岸は、トゥヴァに)。
カー・ヘムを遡る(トゥヴァの古儀式派の村々)
 カー・ヘム郡の集落は大部分はカー・ヘム(小エニセイ川)に沿ってある。だが、カー・ヘムに橋があるのは、クィズィール郡の中心カー・ヘム町から10キロほどのところの一本だけだ(この橋までがクィズィール郡)。1997年開通のこの橋のおかげで、カー・へム郡の行政中心地サルィグ・セプ村も含めて大部分がカー・ヘム右岸にある集落に、陸路のみで行けるようになった。それまではこのコク・テイ(左岸)とハヤ・バッジ(右岸)の間は渡し船で渡っていた。ソ連時代と1992年まではクィズィール市から144キロ上流のシジム村まで定期航路があった。シジム村より上流にも古儀式派(*)が19世紀末、20世紀初め頃から住んでいるエルジェイ(200人)やウスチ・ウジェップ(30家族181人、2007年)など集落はあるが、そこまでは今でも個人のボートでのみ航行できる。
ハヤ・バッジを過ぎカー・ヘム谷を行く

 ちなみに、赤字路線でソ連崩壊後は廃止になったが、コク・テイ渡し船の他に、スク・バジ村やブレン(ビュレン)・ヘム村、クンドゥストゥッグ、バヤロフカ、コク・ハーク、デルジグ・アクスィ(ここは最大の渡し船で積載量25トンが渡れた)、ウスチ・ブレン、ビリベイ、シジムなどの右岸の村ごとに対岸への渡し船が運営されていた(7時から21時まで運行で、運賃は無料とか)。橋が1か所だけだが開通した現在は106キロ上流のデルジグ・アクスィと、126キロ上流のビリベイ村とシジム村だけで対岸へ渡る船が運航されている。
 (*) トゥヴァの古儀式派 19世紀後半に、『大ロシア(ヨーロッパ・ロシア)』からカー・ヘム上流へ家族でのがれてきた古儀式派教徒たちは『無人』のカー・ヘム畔に耕地を作って住みついた。古儀式派の信仰とともに、古いロシアの農村の生活様式、慣例、習慣も守っている。トゥヴァの現地遊牧民の間に住むカー・ヘムの古儀式派(ロシア人)の間には古いスラブ民族文化が生き続けているとして、ロシア民俗学の宝庫と言われているそうだ。トゥヴァをはじめ、一昔前まで交通の便のなかったシベリアの僻地には古儀式派村が多い。それらの村々では外界と接しない自給自足経済を長く保ってきた。今、カー・ヘム古儀式派村には、自然環境の良さからエコロジー・ペンションなどができている。人口の最も大きいのはシシム村(400人)。その村より先は10キロ程度毎に集落があるが、陸路はない。それら小さな集落は、だから住民すべてが古儀式派ロシア人。上流に行けばいくほど文明(悪)から離れた信仰堅固の家族が住んでいたそうだ。ちなみにカー・ヘム奥地は狩猟・漁業などで生活して、交通手段はボートだけだ。これはエニセイ下流(北)のドゥプチェク川中流の古儀式派と似ていて、船の部品の特別用語(隠語)なども同じだと言う。(南シベリアのカー・ヘムと北シベリアのドブチェクは千キロ以上離れている)
 私たちは旧コク・テイ渡し場近くの橋を渡って右岸に出る(橋ができたので渡し場は不要)。舗装道は続くが、道路脇は乾いた草原だ。その向こうには、道路と平行にカー・ヘムが流れ、川岸には木々が茂っている。乾燥地では川があるところには木立があり、川岸とその木立と沿って道路は延びている。川向こうには岩山が並び、その奥には青い山脈が高く低く続いている。カー・ヘム谷の景色だ。
 道路の右側にスグ・バッジ村(786人)の標識が見えてくる。以前この村はソヴィエツカヤ・トゥヴァ(ソヴィエトのトゥヴァ)と言う河岸港だった。1940年までは更地だったところにコルホーズができ、新しい村ができたので、1939年隣のコク・テイ村で創立の学校が移転してきた(スク・バジ村学校のサイトによる)とある。(ちなみにソヴェエオスカヤ・ハカシアと言う河川港もハカシアの首都アバカンのやや北、エニセイ川岸にあって、こちらは改名していない。)
 カー・ヘムはアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈(*)の南山麓を東から西に、ビー・ヘムとの合流点のあるクィズィール市に向かって流れてくる。カー・ヘムの右岸へは、アカデミ・オブルチェーヴァ山脈の南麓から流れてきた多くの川が注ぎこむ。カー・ヘム下流のこの辺では、それら支流はどれもそれほどは長くない。一方山脈の北麓はビー・ヘム流域となる。
 () アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈 ほぼ東西に250キロ、最高点は2895m。東ではビー・ヘム(大エニセイ川)の左岸支流トブサ川(河口から23キロ上流)とウルッグ・オー川(同じくビー・ヘムの左岸支流で河口から120キロ上流)の分水嶺であり、西ではビー・ヘムとカー・ヘムの分水嶺となっている山脈群を1953年ロシア・アカデミー地質学者オブルチェーフの名をとってアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈と名付けられた。それ以前にはこの山系に共通の名前はなかったが、個々の山脈が、例えば、ウルッグ・オー川上流の山々で、北にはオットゥク・タイガ山脈、南にはトゥマート・タイガ山脈などと呼ばれていた。アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈はクラスノヤルスク地方南部のウス街道で越えて来たエルガキ山脈などと同様、広くは西サヤン山脈の一部(続き)である。
小エニセイ川沿いのロシア移民起源の村々
ブレン・ヘム村近くの
ビー・ヘム(大エニセイ川)谷
自動車道わきに立つ村の標識
『ブレン・ヘム100年』
村の学校か
 カー・ヘム郡はロシア人古儀式派の移民も多いが、宗教に関係なくてもロシア人の移民が定住した集落が多い。遊牧のトゥヴァ人からしても過疎地だったから、かつては住民の過半数はロシア人だったそうだ。だから、村の名前もロシア風だった(そうでなくても、ソ連時代はどの民族もロシア化されたのだ)。橋を渡って次の村(スモーン)は、アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈から流れてくる長さ51キロのブレン(ビュレン)・ヘムのカー・ヘムとの河口(下記の注)にある集落ブレン・ヘム村で、旧名(ソ連時代)はズーボフカ村といい、クラスノヤルスク南部から1912年この地に移住したズーボフ兄弟が、開拓したからその名がついたそうだ。移住者も増え、まわりのトゥヴァ人アラート(牧夫)たちとも仲良く住んでいたそうだ。
 (極端に言うと、今のトゥヴァ共和国には、昔はトゥヴァ人すら少なく、19世紀末には、西のヘムチック流域にわずかに住んでいたくらいだ、と言う。ロシア人が移住してきたその頃、小エニセイ沿いは無人の地だった、と言うトゥヴァ在住ロシア人もいるくらいだ。しかし、これはあまりにもロシアよりの見方だ)。
 1930年代トゥヴァ人民共和国時代に集団化され、遊牧から定着に方向づけられるなか、村にはトゥヴァ人も住むようになった、と『ブレン・ヘム村百年祭』記念サイトに書かれている。今は、川の名前からブレン・ヘム村と言うが80年代までの地図にはズーボフカと記されている(正式には1953年に改名されている)。2012年、盛大に百年祭がおこなわれたらしく、村に向かった緑の丘の斜面には『ブレン・ヘム100年』と白字で大きく書かれていた。
 新しい自動車道は、たいがい村のはずれを通り過ぎるが、道路工事中のところは、村の中を通る迂回道に入る。新しい自動車道を通るだけでは、村は影しか見えない。が、迂回道としてある村の中の穴ぼこだらけの道に入ると、学校の横や、窓枠がペンキで鮮やかに塗られたシベリアの田舎家の横を通り、村の子供たちを見ることができる。金髪の子供が多かった。
 ブレン・ヘム村を通る時、同乗のアンドレイさんが、スグ・バッジ村やブレン・ヘム村の辺には大きな古墳がある、と言う。そう聞くと、行ってみたいと言わずにはおられない。しかし、発掘されてしまえば跡は残っていないし、道路から入っていかなければならないし、アンドレイさんも、不確かな目印を頼りに場所を見つけなければならないので、誰も私の提案には賛成してくれなかった。帰国後、10万分の1の地図を見ると、カー・ヘム右岸に平行に走る道路の北側にいくつも古墳の印がある。その北には、アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈から流れてきて、現代の地形ではすぐにはカー・ヘムに注ぎ込まずに、並行して10キロほど流れてから、ブレン・ヘム村の少し上流でやっとカー・ヘムに注ぎこむバイ・ソート(バイ・シュート)川(44キロ)が流れている。この川を利用して、ロシア移民は灌漑したのだろうか。
 考古学遺跡については、『考古学発見1967』と言う公式な年誌の『シベリアと極東』の章にその年の報告も載っているのだが、トゥヴァ大学のマンナイ・オールと言うトゥヴァ人考古学者が、カー・ヘム郡のスグ・バッジ村やブレン・ヘム村付近の古墳を発掘調査したとある。特に、ブレン・ヘム村近くのウユーク文化期(紀元前7-6世紀)の未盗掘の古墳から、中心が弧状で縁が高くなった青銅製の円形の鏡、青銅製の平らなナイフ、下げ飾り、骨や翡翠の玉を連ねた首飾りなどが発掘されたとある。(1992年版『スキタイ・サルマート時代のソ連邦アジア部分の草原地帯』では、ユダヤ系ロシア人歴史・考古学者マンデリシュタム著の論文ではズーボフカ遺跡となっている。発掘時代の旧村名で呼ばれているのだ。)
トゥヴァ東部(アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈等)の金
 ブレン(ビュレン)・ヘム村から15キロほどのところにクンドゥストゥック村がある。ここも、20世紀初めに移住してきたロシア人の名前から、かつてのソ連時代はフョードロフカといった。同じころにできた少し下流のガガロフカ村や、上流のバイ・ソート(バイ・シュート)村を合わせて657人と自治体の公式サイトにある。バイ・ソート川には金採掘場バイ・ソートやタルダンがあり、『タルダン・ゴールド』社が採掘しようとしている。『タルダン・ゴールド』はもちろん大企業の娘会社だ。サンドヴィック会社のロシア特約販売店『カリエル(採石場)・サービス』社系列でもあるらしいが、ロシアのほぼ全資源を傘下に収めている企業とも関係がある。
 この川の上流アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈には金鉱が多い。タルダン金山はクンドゥストゥグ村からバイ・ソート川に沿って18キロほどわけいったところにある。1964年発見と、『タルダン・ゴールド』社のサイトにある。

 トゥヴァの金は、シベリアでゴールドラッシュが起きた19世紀半ばから注目されている。『スキタイ時代から現代までのトゥヴァの金』と言う記事には、紀元前8-9世紀からのスキタイ時代の墳墓、例えば『アルジャン2』クルガンなどから大量の金細工品が出土している.つまり先史時代から金を採っていたのだ。『1839年、初めてロシア人による砂金採集が稼働した』とある。これは、サヤン山脈南麓のスィスティク・ヘム川流域だ。ロシア帝国が、清朝領だったトゥヴァを保護領としたのも金の産地を掌握したかったからで、1917年までに40トンの砂金を採掘したそうだ。現在でも、トゥヴァの国民総生産の13%を占め、産業人口の10%が従事していると、政府公式サイトにある。
 1945年の記録によれば、ハラル(上記地図)、チンゲ・カト、ハルィム、エミ、ホプト(コプトゥ)、ソルグ、ヘム、プロエズノイ(上記地図31)、バイスート(バイ・ソートのことバイシュートとも、その地図には載っている。これはトゥヴァ語をロシア人が発音し、ロシア語文字で表した時のずれ。トゥヴァの地名では多い例)、スルグ・ヘムなどで採掘されていたそうだ。
 (後で、ある地質学者に聞いた話だが、1950年代、ハラルは3000人も住み学校や病院など設備もある一大砂金採集所だった。今は無人)。事実10万分の1の地図には、採掘場としてこれらの地名が人里離れた山川の畔に記されている、1989年作成の地図ではその多くが廃村と併記がある。しかし、バイ・ソート川のタルダンでは採算の合う埋蔵量が確認され開発されているらしい。上流にはバイ・ソート砂金場があり、東にはコプトゥ(ホプト)川畔の砂金場がある。
 現在、トゥヴァ全体では、金産地は14か所あって、クラスノヤルスク地方との国境のクルトゥシビン山脈南麓(トッジャ郡北のアク・スグなど)、アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈の南麓カー・ヘム右岸支流(タルダンなど)、南のセンギレン山地(カラ・ベルィディール)、東タンヌ・オラ山脈などがトゥヴァの地下資源地図に載っている。鉱脈は4か所、砂金採集地は25個所。調査によれば、トゥヴァには500トンの金が見込まれ、そのうち200トンは砂金が占めるそうだ。これは実はロシア連邦全体の埋蔵量の0.17%にしかすぎず、採掘量では1.3%だ。
 
 そのカー・ヘム右岸支流ではクンドゥストゥグ村から18キロほど奥のバイ・ソート川のタルダン金鉱開発が、今トゥヴァ政府が巨額投資プロジェクトとしてあげている5企画の一つである。
 ちなみに、他の4企画は、トッジャ郡北クルトゥシビン山脈の南麓アク・スク川上流の銅・斑岩産地を『ノリリスク・ニッケル』社が開発、トッジャ郡南でアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈北麓のクィズィール・タシュトィック(クズル・タシュトゥク)のポリメタル鉱山(後述)の利権を買った中国のルンシン社(紫金 Zijin 鉱業の子会社)が開発、クラギノ・クィズィール鉄道建設と絡んでユニオン・インダストリアル・コーポレーション ОПК という企業の子会社がエレゲスト炭田の開発、エブラス・グループのメジェゲイ炭田の開発と、公式サイトに載っている。
トラックが左折して行こうとしている道が
タルダン鉱山へ通じる

 クンドゥストゥク村は寒村だが、『タルダン・ゴールド』の鉱山城下町となり繁栄できるかもしれないと期待されているそうだ。道路沿いには『タルダン左折18キロ』と書いた標識もある。もちろんそちらは、舗装はない。共和国道『クィズィール〜サルィグ・セプ』線の道端には仏塔も立っている。村には霊水、つまり鉱泉の湧き出ている名所もある。ビーバーがここに来ていたので『ビーバー達(トゥヴァ語でクンドゥストゥグ)』と言われてきたそうだ。

 ついでながら言及するが、同名の霊水は首都クィズィール(クズル)市郊外のウルッグ・ヘム(エニセイ川)右岸にもあり、ビーバーの彫刻まで建てられ、こちらの方が有名なのだが、実は、古くからの住民(クィズィール市近くのエールベック村民)によると、そこは昔からブルーク(川や湖で氷の表面に出てきた水、の意)霊水と言う名称だったのに、2004年なぜか改名されてしまったと言う。それで、元の名前にしてほしいと言う投書が新聞に載っている。クンドゥストゥグ霊水の名称はカー・ヘムの方が本場と言う訳か。
震源地に近かったカー・ヘム中流域の村々
 クンドゥストゥグ村より10キロも行ったところに、道路へ岩山が激しく突き出したところがあり、車を止めて写真に撮る。その岩山のせいで道路もぎりぎり川岸を走っている。車を止めたついでに皆でお茶を飲んだり、ハム、パンやチーズ・パンを食べたり、クィズィール(クズル)市からもう80キロは来たカー・ヘム(小エニセイ川)谷岩山をバックにパーシャの写真を撮ってあげたりする。『自分たちはモンゴルとの国境に近づいているのか』などとパーシャは間の抜けたことを聞く(後から知ったことだが彼は技術系中等教育機関中途退学だそうだ) 。確かに、トゥヴァはブリヤート共和国、イルクーツク州、クラスノヤルスク地方、ハカシア共和国、アルタイ共和国、モンゴルにかこまれていている。南と東で接するモンゴルとの境界線が一番長い。中心のクィズィール市から連邦道54号線に沿って南下すれば、モンゴル国境に出る。クィズィール市から東の、今通っているカー・ヘム方面では、144キロのシジム村あたりまでしか陸路はなく、それより先は177キロのウジェップまでは航行できるだろう。その先200キロほどの無人のカー・ヘムを遡れば確かにモンゴルとの国境には行ける。が、国境越えの施設(税関や、出入国管理など)はなく、道もない。
 パーシャはトゥヴァに住んでいるのはモンゴル人だと思っている。少なくともモンゴル語を話していると思っている。ちなみに、後で彼は竜の模様の民族服と毛皮の帽子を買った。私には中国服のように思えた。
自動車道をカー・ヘムの方に右折すると
バヤロフカ村

 その印象的な岩山を過ぎると、トッジャ郡への陸路の曲がり角のバヤロフカ村(673人)が右前方に見えてくる。現在カー・ヘム郡に、集落とされているのは大小の17か所で、11の村自治体にまとまっている。ちなみに1960年代の50万分の1の地図では名前のあるものだけで30以上はある。古い村はみんな、更地を開拓して住み始めたと言うロシア人の名前をつけられていたが、1990年ごろまでにはトゥヴァ風(トゥヴァ古来)に改名されていて、新しい地図では前記のように、ズーボフカやフョードロフカではなくブレン・ヘムやクンドゥストゥグと記されている。バヤロフカもロシア語なので、トゥヴァ風にコプトゥ・アクスィ村とも呼ばれているようだが、この村からトッジャ郡へ行く今注目の道路は公式サイトでもバヤロフカ〜トーラ・ヘム』道と呼ばれている。
 バヤロフカ村より先のカー・ヘム(小エニセイ川)沿いにはコク・ハーク(旧メドベジェーエフカ村404人)村、郡行政中心地サルィッグ・セプ(*)、メルゲン村、デルジグ・アクスィ(**) 、ブレン・アクスィ(旧グリャズヌーハ)村と数キロごとにあって、その奥には古儀式派の村々、ウスチ・ウジェップ村(河口より177キロ上流)、さらに古儀式派の一家族が住むカタズィ(250キロ)を含むシジム村(144キロ)が、カー・ヘム郡公式サイトに載っている。また、左岸支流のブレン川(156キロ)にはブレン・バイ・ハーク村(近辺の村も含めて1214人。ウラル山地のペルム地方からの移民が、ブレン川に支流のバイ・ハーク川(サルヤナギの繁茂地の意)が合流する地に1935年定住したそうだ)や、イリインカ村(***)がある。
 (*)サルィック・セプ(旧ズナメンカ)村 カー・ヘム(小エニセイ川)とビー・ヘムの合流点より95キロ上流のところにアカデミー・オブルチェーヴァ山脈南麓からのメルゲン川(43キロ)の下流に1904年、ズナメンカと言う村ができ、後に2キロ上流に移った。元のズナメンカはメルゲン村といい、新しいズナメンカ村はサルィグ・セプ村になった。過半数がロシア人。
 ズナメンカ、ズナメンスクと言う地名は、それだけですでに革命前からのロシア古儀式派村とわかる。ズナメニエ(Знамение Божьей Матери聖母出現・示現)、またはそのテーマのイコン(聖画)からとった地名は全国至る所にある。
 もっと詳細に記述してあるサイトによると、カー・ヘム(小エニセイ川)への最初のロシア人移住地はマケエフカといい、メルゲン川の河口付近にあった。今、畜産農場となっているとか、サルィグ・セプ村のゴミ置き場になっているとか。同年ズナメンカ村ができ、翌年、グリャズヌーハ、バヤロフカ、メドヴェヂョーフカ(現コク・ハーク)村ができ、ついで、フョードロフカ(現クンドゥストゥク)村、ダニーロフカ(現デルジク・アクスィ)村ができたそうだ

 (**) デルジク・アクスィ(旧ダニーロフカ987人)村はメルゲン川とほぼ平行に流れてくるデルジク川の河口にある。デルジク川は延長109キロとメルゲン川より長く、より山奥から流れてきて支流も多い。河口から54キロ上流のデルジグ川に注ぐサイルィク川(33キロ)と言う山川があるが、この合流点あたりが、2011年12月27日に震度9.5でマグニチュード6.7の大地震の震源地だった(首都クィズィールから約100キロ)。ここにはカラ・オスというかつての採金場があった。地震の翌年1月にデルジグ川の氷が解けて河口の村の一部が洪水になった。1月に雪解け水が流れてきたことは村の歴史にはなく、熱湯が流れてくると言う風評までが飛んだそうだ。さらに、2012年2月26日にも10キロほど南で同様の規模の地震が起きた。トゥヴァの人々は、これは神聖な地に鉄道を敷こうとしたり、そのために長い間眠っていた古墳を暴いたりしたので神が怒ったのだと言っている。地震ではカー・ヘム(小エニセイ川)郡の村々で建物被害はあったが、人的被害はなかったそうだ。
 ちなみに、最近では2003年にアルタイ共和国でマグニチュード7.3の地震が起き、これも半冷凍状態で眠っていたバジリク古墳群を暴いたのでアルタイの神が怒ったのだと言われた。2008年バイカル地方で6.3の地震、2011年ブリヤート共和国で5.6の地震、2011年クラスノヤルスク南部で5.4の地震などがあった。古くは、1905年のタンヌ・オーラ大地震は開設したばかりのイルクーツク地震センターで観察された。ウルッグ・ヘム右岸支流のチンゲ川には数100メートルにわたって地面がずれている場所があり、約2000年前に大地震があったと推測されている。

 (***)イリインカ村はロシア、ウクライナやベロルシアに多くある地名の一つで『イリアの日』を記念している。スラブ民俗信仰を旧約聖書の預言者エリア(ロシア語でイリア)と融合させて信仰されている。正教会カレンダーでイリアの日は7月20日(8月2日)この日に村が創立されたことから名付けられた。だから、イリインカと言う地名は各地にある。トゥヴァからクラスノヤルスクに帰る途中にクラギノ区のイリインカ村近くでシャラボリノ岩画を見た。
トッジャ陸路の入り口で待つ
『トッジャ』と屋根の側面に書かれたガソリンスタンド。背後に見えるアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈を超えるとトッジャ
 私たちはパーシャ運転の、前日に整備されたはずのフォルクスワーゲンで快適にバヤロフカ村への曲がり角まで来た。川側へ右折すると村で、山側へ左折するとトッジャだ。この先トッジャに到着するまで悪路を行くだけで店はないと言うので、食料調達のために村に入った。村は舗装道とカー・ヘム(小エニセイ川)の間にあって、村から川面が見える。人気のない寒村で店は見つけたが、開店は12時(12時過ぎという意味)と書いてあった。30分以上は待たなくてはならないので村を出る。今通って来た平坦な道まで戻って出ればいいのに、悪路を近道する。パーシャの乱暴な運転では水たまりの底の石にぶつかり、車が飛びあがった。アンドレイさんが、
「パーシャ、水たまりの底には何があるか見えないので、用心深く」と言うが、無視。(パーシャは運転手には向いていない。犬好きのパーシャは、むしろ、シベリアン・ハスキー犬などのブリーターになった方がいい)
 トッジャへ左折するところにはガソリン・スタンドがあって(ガソリンの品質不明と言う感じ)、屋根には大きく『トッジャ』と書いてある。これが、トッジャへの陸路の入り口だ。いよいよこの悪路に乗り出すことになった。
 しかし、数キロ行ったところで、また水たまりをスピードを上げて通りすぎ、激しく底を摺った音がする。これでとうとう大事なところに穴があいたのか、車のパネルの警告灯が赤くなって警告音まで発した。すぐ止めて車の底をのぞくと、オイルがどくどくと漏れていた。これはもう前進不能。悪路と言われて山へ伸びている道の前方を見ても、今までしばらく走った後方を見ても、舗装こそないがトゥヴァにしてはごく普通の道。ただ、底の見えない大きな水たまりだけを除走すれば良かったのだ。
牽引用ロープを付ける
ガソリン・スタンドを通り抜ける少年たち
アンドレイさん、オルラン君、パーシャ、
ネルリさん  乗り合いウアズの来るのを待つ
 途方に暮れていると、前方から迷彩色のジープが走ってくる。乗っていたのは4人の男性。迷彩服を着た二人はロシア人。鉱山関係者か地質学者だろう。悪路の出発点の(品質不明の)ガソリン・スタンドまで親切にもけん引してくれた。ちょっと笑われているような気もした。出発点のバヤロフカ村のガソリン・スタンドはクィズィール市からの舗装道に面している。
 アンドレイさんが息子さんのオルラン君に電話して故障車を迎えに来てもらうことにする。また、乗り合いワンボックスカーの運転手に電話して、私たちを拾ってもらえるよう連絡してくれた。初めから、あの埃だらけのウアズ(ワズ)でクィズィール市からトッジャに行けばよかったと言う訳だ。オルラン君は間もなく来てくれた。私たちの人数分の空席があるはずの、クィズィール市中央市場発の乗り合いタクシーの方はなかなか来ない。5,6人は乗客を集めないと出発できないからだ。

 ビー・ヘム(大エニセイ川)のトッジャ地方へ行くと聞いて、ビー・ヘムを航行するのかと思ったのに、カー・ヘム(小エニセイ川)畔のロシア語の名前のバヤロフカ村とかいうところにいるのが、私には、いまだ不審だった。
 2004年版の旅行案内書にはトッジャへの行き方が出ている。クィズィール市からトッジャ郡の行政中心地トーラ・ヘム村まで飛行機では1時間20分かかるが、ダイヤ通りには飛ばないとある(トゥヴァで空路はこんなものだ)。ビー・ヘムを週2、3回運行のビー・ヘム川の定期航路(約300キロ)を利用すると、行きは川を遡るので11時間、帰りは7時間と書いてあるが、定期航路は実はその後廃止。ところが、その旅行案内書には、陸路も1997年から建設しているが全線通行は不可で40キロ手前のミュン・ホリ(湖)まではクィズィール市中央市場からトーラ・ヘム村の店に品物を届ける『ウアズ』か『ジル』がでているので、運転手と話がつけば、600ルーブルで乗せてくれる(2004年6月現在)と書いてある。現在でも、なぜ始発が中央市場なのかうなずけるところだ。天気が良ければ9時間ほど、悪ければ数日かかり、ミュン・ホリ(湖)からトーラ・ヘム村までは航行する。1時間半から2時間かかり、料金は100から150ルーブル、とある。
 その旅行案内書が書かれた時から8年間で、最も建設にてこずったミュン・ホリ(湖)からトーラ・ヘム村までの40キロも通行可能となり、中央市場から発車する交通機関も、乗客用のシートのあるワンボックスカーが現れ、料金も800ルーブルと、インフレにしては高騰せず、時間も全行程7時間ほどとなったのだ。
 道路建設している会社のホーム・ページには、冬は零下48度になり夏は35度にもなる温度差があり、年間で零度以上の日は174日しかなく、降雪量は52センチ、地下2.4mまで凍土になるという地学的にはほとんど未知の地で、永久凍土帯の沼地の上に落葉松を並べて敷き、道路を作ったと書いてある。ビー・ヘム谷の無数の支流は、流れると言うより沼地化していて、陸路建設は超困難だったそうだ。この陸路は1970年代コムソモール(共産主義青年同盟)隊がはじめて道路建設に着手したのだ、と言う地元の運転手もいる。
 バヤロフカ村からトーラ・ヘム村までの道路は『4級』路だが一応全線開通で170キロ。道路の等級は5まであり、鉄道などを含む他の道路との交差の仕方、道路の傾斜と曲がりの角度、道幅などで分けられているそうだ。1,2級路は、たぶんシベリアにはない。5級は元々の地面を車輪が通れる程度にしただけの1車線の道路。4級は2車線以上で、ごろ石や砂利で舗装してある道路だそうだ。この4級路までは地図には実線で載っている。個所と天候によっては、高駆動の車でないと通行は難しい。

 しかし、これらは帰国後、サイトと詳細地図でわかったことで、出発の前日まで、トッジャ郡へ行くにはビー・ヘム航路しかなく、今は運行していなくて、陸路を行くとすればビー・ヘムに沿った道をたどるしかない、と思っていた。まさかアカデミー・オブルチェーヴァ山脈を横切って直進するとは思っていなかった(ガイドのアンドレイさんの案内)。だから、カー・ヘム沿いのバヤロフカ村に来ただけでも意外だった。そこで、車が故障して、ただっぴろい空き地で待っているのも、何だかよくわからないことだった。空き地の周りは空き地だった。見晴らしがいいのでクィズィール市からサルィグ・セプ村の方へ走っている周囲とは合わない立派な舗装道が目立つ。通行量は少なく、遠くの方から車の影が現れるごとに、私たちはウアズ(ワズ)ではないかと目を凝らした。トゥヴァ晴れの真っ青の空の下、舗装道の向こう側にバヤロフカの村が見え、その向こうのカー・ヘム川面は見えないが対岸の緑の丘、その奥の稜線でくっきり描かれた青紫色の山々が見える。川と反対側はアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈へのまだ低い支脈や丘が見える。2時間以上同じ風景を眺めていた。その間、給油した車は2台。私たちの広場を馬に乗ったトゥヴァ人の少年が3人悠々と通り過ぎて行った。アンドレイさんは、何度か知り合いの乗り合いタクシーに電話している。私はオルラン君にトゥヴァ語を教えてもらう。
 3時近くなってようやく1台の薄鼠色のウアズ(ワズ)が舗装道を走ってくるのが見え、私たちが待ちくたびれているガソリン・スタンド横の広場に止まってくれた。乗客は5人ほど乗っていたが、みんな降りて一休みに散っていった。コプトゥ(ホプトゥ)川畔のバヤロフカ村まで、クィズィール市中央市場の出発点から90キロも来たので、ここまでは道がよかったとはいえ、頃合いの休憩時間だ。
 パーシャは、オルラン君の車にけん引されてクィズィール市の修理工場に向かった。実はこの時、パーシャの車にアンドレイさんが大学から借りたカメラを置き忘れたそうだ。オルラン君たちは途中、交通警察に止められて調べられたと言うが、その時、カメラがまだあったかオルランは覚えていない。トゥヴァでは貴重なそのカメラはとうとう見つからなかった。
かつての金産地のコプトゥ(ホプトゥ)川谷を遡る
 空いている席に勝手に座った。進行方向と逆向きの席しか本当は空いていなかったのだが、戻ってきたトゥヴァ人の男性(正しくはトッジャ・トゥヴァ人だと後で知った)は譲ってくれた。横の席にはロシア人女性が座っていてゥイルバン村(*)へ帰るのだと言う。ビー・ヘム(大エニセイ川)に沿ってクィズィール市から300キロ上流のトーラ・ヘムまで6つの集落があり(そのうち4つがトッジャ郡)、交通は航路に頼っていた。今運行は廃止になり、その女性はこうして陸路トーラ・ヘムまで行き、そこから50キロ下流のゥイルバン村へボートで行くそうだ。
(*)ゥイルバンと言う地名は、地名辞典によると、モンゴル語のアルバンから来ている。前述のように、アルバンと言うのは、18世紀、清朝中国時代の行政区分の最小単位で、18歳から60歳までの戦力になる男性が10人、または10家族の単位。アルバンが15個ほどでスモーンになり、複数のスモーンが合わさってコジューン(ホシューン、旗)になる、と言う入れ子式行政区分の最小単位。

 助手席ではないが窓際の席を譲ってもらったおかげで、無人のコプトゥ(ホプトゥ)川谷の自然が楽しめた。と言うのも出発して、まだ泥道はあまり走っていなかったので、窓ガラスは透明だったからだ。
 パーシャのフォルクスワーゲンが致命傷を負った水たまりの横も難なく通り過ぎて、コプトゥ川沿いを遡っていく。帰国後10万分の1の地図を見ると、古代人の古墳は、ブレン・ヘム村ばかりかバイ・ソート(シュート)川谷にもコプトゥ川谷にもある。コプトゥ川の河口から13キロ上流へ小コプトゥ川(延長39キロ)が合流してくるのだが、その辺までも『古墳 древние могилы』と書き込んである。バイ・ソート川やコプトゥ川は、今はタルダン・ゴールドが近代的に採掘しているが、一昔前までは砂金の宝庫で、かつての採集場が何箇所も地図に載っている。中には無人と併記してある(砂金採集者の)集落もある。道路からは、それら集落跡は見えないが、そこに通じているかもしれない小道が分かれている。

 いくら窓ガラスがまだ透明だからと言っても、悪路を走る車の後部座席の窓からは写真は撮れない。助手席には、運転手の知り合い格と言ったおっかなそうなトゥヴァ人が座っている。だが、アンドレイさんに、席を代わってくれるよう頼んでもらった。私には頼みこむ勇気はなかったが、アンドレイさんはトゥヴァ語で話をつけてくれた。それで、次の休憩所から出発した時には、助手席に座らせてもらったのだ。
 170キロの共和国道『バヤロフカ〜トーラ・ヘム』には集落はひとつもなく、ひとえに針葉樹林の山の中、険しい峠、低木の高原、山岳ツンドラ地帯の沼地、また針葉樹林の山の中と走るのだが、ドライブ・インが2か所あるのだ。その一つ目はバヤロフカ村の曲がり角から15キロほど行ったところの、たぶん、バーザ・ホプトゥ(コプトゥ基地)と言う元砂金採集者の集落があったところだろう(かつては15軒ほど家があったと言う)。ここからバイ・ソート川のタルダン採掘場へ行く昔の道もある(9キロ)。今タルダンへは、下の舗装道からの直接道がある。『タルダン・ゴールド』はクンドゥストゥグ村から18キロの同名の元砂金場だけでなく、バイ・ソート川やコプトゥ川谷には幾つもの有望な鉱脈が確認されていて、それらの権益も持っているようだ。その休憩所から出発する時、助手席に座らせてもらったのだ。
 助手席からだとフロント・ガラス越しに走行中でも何とか写真が撮れる。サイド・ガラス越しには遠景でないと流れてしまう。コプトゥ川谷に沿って左右に森が迫ってきている所は道路もぬかるんでいる。工事中の個所もあった。流れを通すための土管もブルドーザーの横に置いてあった。コプトゥ川谷は開けたところもある。藍色にくっきり縁取られた遠くの山の稜線が美しい。その下の山々は緑に覆われている。フォルクスワーゲンでは、やはり通り抜けられないぬかるみや大きな穴ぼこの個所もあった。ちなみに全170キロの道のりで出会ったのは、私たちのようなウアズ(ワズ)か、トラック、重機だけだった。乗用車は1台も見かけなかった。ましてや外車は。コプトゥ川を2度渡るのだが、1度目にわたったところにコンテナの作業小屋があり、周りにブルドーザーが止まっている。周りの地面にはキャタピラ・カーの跡がついている。この近くには『39キロ』と言う標識が立っていた。公道には1キロごとに一応立っている標識だが、『つづら折り、注意』などの道路標識も、ここを過ぎるとやがて見かけなくなる。だが最後まで、道路幅を示す棒だけは危険なところには必ず立っていた。やばいところで道を踏み外すと、もう動けなくなる。雪解け水が沼地を作ったり、崖下を通ったりして流れてくる。川床が道路から見えたり、柔らかい地面に深くキャタピラの跡が見えたりした。道路脇に丸太が山積みされていた。沼地に敷いて通りやすくするのだろうか。
 コプトゥ川にかかる2つ目の橋も渡り、さらに川沿いに行くと、ネアジダンヌィнеожиданный(不意の予想外の、期待もしなかったの意)と言う川の合流点に出る。こんな名前は、『予想外』に砂金が見つかった地名に多い(たとえばアバカン山脈奥クズネック山中などにも)。ロシア人山師(地質学者)がつけたとわかる。事実ここには採掘場があったが今は無人。ここまでアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈を上ると、カー・ヘム(小エニセイ川)水域とは別のビー・ヘム(大エニセイ川)の支流トプサ川の上流に行きつく。アカデミー・オブルチェーヴァ山脈が、ビー・ヘムとカー・ヘムの分水嶺だが、最も下流のタプサ川だけはアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈を東西に流れてビー・ヘムの方に注ぐ。タプサ川上流にも金がとれたらしい。コプトゥ川谷道路とプロエズノイと言うアプサ上流の、たぶん採掘場を結ぶ道もある。東西に250キロに延び、カー・ヘムとタプサ川以外のビー・ヘムの分水嶺となっているアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈の一つも、この辺で越える。トゥヴァ風の屋根のあずまやもある。ここから道は険しくなった。大きな岩の間から木がやっと生えている。フォルクスワーゲンが、まだバヤロフカ村近くで致命傷を負ってよかった。この辺までもたどり着いてから穴があくと、バヤロフカ村までの牽引は容易ではない。
 所々、道路脇に家が建っていた。元の金採掘基地でなければ、道路工事基地、または、アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈に有用鉱物を探す地質学者の小屋なのだろう。実はアカデミー・オブルチェーヴァ山脈は地質学者がソ連時代から詳細に調査していたらしく、コプトゥ川沿いのこの道は、山脈に入るための地質調査隊の主要道であったらしい。ここから、タプサ川上流や、デルジク川上流、さらにウルック・オー川、オー・ヘム川、ハラル川上流などを調査して、主に、金など埋蔵資源を見つけていたのだろう。だから、一帯には地質調査基地が多くあり、通常は無人小屋だ。金採掘場跡も多い。今、『タルダンゴールド』はバイ・ソート川だけでなく、コプトゥ(ホプトゥ)川の金鉱脈の調査を行っている。80mから120m離れて5脈が確認されているらしい。
 ちなみに、ソ連時代の地質学者(大部分はロシア人)のもう一つの課題は地形図を作ることだった。今、私たちの使う10万分の1の地図など、作成年は1960年代、70年代となっている。
 追記;中国鉱山会社『ルンシン』社(ズージン・マイニング・グループ)稼働のため2005年からこの地域の遺跡の再調査が行われた。カー・ヘム郡(コジューン)には58か所の古墳群が知られている。バヤロフカ村近くでは、『マイナルィグ1』から『同5』、『オシュタン1』、『バヤロフカ1』から『同9』、『コプトゥ1』から『同5』までが確認されていたが、その後『ウスチ・コプトィ(紀元前9から8世紀)』、また後に『バヤロフカ10』が『ルンシン』社建設のため発掘調査された。
 河口とは川が海や湖に注ぎ込む地点だが、本稿では、支流がエニセイなどのより大きな川に注ぎこむ地点も河口と記した。ロシア語ではУстье。 同じ規模の川、たとえばカー・ヘム(小エニセイ川)とビー・ヘム(大エニセイ川)の場合は合流点と記した。ロシア語ではместо слияния。川と川が合流するところは大小に関わりなく合流点と記した箇所もある。
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