up date | 21 January, 2014 | (追記・校正 2014年2月9日、4月3日、11月27日、2016年10月1日、2018年11月1日、2019年12月8日、2021年10月12日、2023年1月7日) |
31-(2) トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (2) 夏のツンドラ高原ウルッグ・オー 2013年6月30日から7月27日(のうちの7月3日から7月5日) |
Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013 - 27.07.2013)
月/日 | 『トゥヴァ紀行・続』目次 | ||||||
1)7/2まで | トゥヴァ紀行の計画 | クラスノヤルスク出発 | タンジベイ村 | エルガキ自然公園 | ウス川の上と下のウス村 | ウス谷の遺跡 | クィズィール着 |
2)7/3-5 | クズル・タシュトゥク鉱山へ(地図) | 荒野ウルッグ・オー(地図) | 夏のツンドラ高原 | 鉛・亜鉛・銅鉱石(ポリメタル)採掘場の崖上 | ビー・ヘム畔 | ミュン湖から | |
3)7/6,7 | トゥヴァ国立博物館 | ビーバーの泉、新鉄道終着点 | 聖ドゥゲー山麓 | トゥヴァ占い | 牧夫像 | ||
4)7/7-9 | 『王家の谷』へ | 国際ボランティア・キャンプ場 | 考古学者キャンプ場 | モスクワからの博士 | セメニチ車 | 発掘を手伝う | 『オルグ・ホヴー2』クルガン群 |
5)7/10-12 | 考古学者たちと | 連絡係となる | 古墳群巡回(地図) | シャッピーロさん | プーチンとショイグの予定 | パラモーター | |
6)7/13,14 | 地峡のバラグライダ | 政府からの電話 | ウユーク盆地北の遺跡 | 自然保護区ガグーリ盆地 | バーベキュ | キャンプ場の蒸し風呂 | |
7)7/15 | 再びクィズィール市へ | 渡し船 | 今は無人のオンドゥム | 土壌調査 | 遊牧小屋で寝る | ||
8)7/16-18 | オンドゥムからバイ・ソート谷へ | 金鉱山のバイ・ソート | 古代灌漑跡調査 | 運転手の老アレクセイ | |||
9)7/19 | エニセイ左岸を西へ | チャー・ホリ谷 | 岩画を探す | 西トゥヴァ盆地へ | トゥヴァ人家族宅 | ||
10)7/20,21 | 古代ウイグルの城塞 | 石原のバイ・タル村 | 鉱泉シヴィリグ | ユルタ訪問 | 心臓の岩 | 再びバルルィック谷へ | |
11)7/22 | クィズィール・マジャルィク博物館 | 石人ジンギスカン | 墨で描いた仏画 | 孔の岩山 | マルガーシ・バジン城塞跡 | ||
12)7/24-27 | サヤン山脈を越える | パルタコ―ヴォ石画博物館 | 聖スンドークとチェバキ要塞跡 | シャラボリノ岩画とエニセイ門 | 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 | クラスノヤルスク |
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
クィズィール・タシュトィク鉱山に向かう。コプトゥ谷 | ||||||||||||||||
7月3日(水)朝、「トゥヴァでは絶対、予定通りにいかないのよ。もう10時も過ぎたわ、まだ、迎えの車が来ないわ」とタチヤーナ・プルドニコーヴァさんは言ながら、玄関廊下でうろうろして、何度も携帯をならしていた。11時近くなってやっと、テス・ヘムの地質調査へ行く車が迎えに来て、タチヤーナさんは寝袋やシャベルを持って出発した。セルゲイさんは、午後からは帰ってくるが、朝は研究所に出かけていた。それで、ナターシャさんとベラルーシのことなど話しながらアパートでお昼まで留守番をすることになった。 セルゲイさんの新型ニーヴァ(小型ロシア製ジープ)で出発したのは2時近く。買い物をして、セルゲイさんの職場の一つ『シベリア自然開発センター』に寄って、たぶん出張手続きをして(出張旅費が出る)、カー・ヘム(小エニセイ川)沿いの道を遡って行ったのは3時過ぎだった。 今回は、まず、バヤロフカ村の一つ手前のクンドゥストゥグ村の役場で、出張手続き(到着の証明)をした。後日、セルゲイさんとは別に(別の考古学者と)バイ・ソート谷へも調査に行ったが、この『到着の証明』は現地に最も近い行政機関で必ず受けるらしい。野外研究で旅費の請求にはそれが必要らしい。 4時半頃、バヤロフカ村外れの大きく『トッジャ』と書かれたガソリン・スタンドをアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈に向かって曲がる。道にはもうアスファルト舗装はない。しかし、去年よりは状態が向上したと思う。セルゲイさんのニーヴァでも楽々と通行できた。バヤロフカ村から10キロほどは、ユルタも時々みかけた。20キロほど入ったところに、昔のコプトゥ川砂金場の『コプトゥ基地』があり、バイ・ソートへ曲がる道もある。ここは、コプトゥ川に左岸支流の小コプトゥ川が合流してくる地点でもある。悪路で名高かった『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道もトゥヴァにしては主要路線になりつつある。何せ、人口3000人(出稼ぎ者も多いか)という『ルンシン』クィズィール・タシュティク(クズル・タシュトゥク)鉱山採掘村が100キロのところにあるから。そこには主に中国人のスタッフが住んでいるらしい。 ロシアでは道の歴史は興味深い。 「この道は最近できたの」とセルゲイに聞くと、 「100年以上前からある」という答え。私は中小型車が通行できるような自動車道を意味したのだが、セルゲイさんは広い意味で人や物が往来する道の意味として答えたのだ。確かにコプトゥ川谷を通る道は、ロシア植民地時代(『ロシア帝国保護領』時代とか、『トゥヴァ人民共和国』時代とか、『ソ連邦内のトゥヴァ自治州』時代とか言うが)からあっただろう。20世紀にはアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈から流れるコプトゥ川などがトゥヴァ砂金の大産地のひとつで、コプトゥ川沿いのコプトゥ砂金場(『コプトゥ基地』よりずっと上流にある)や、タプサ川上流(その上流は、またコプトゥ川上流に近い)のプロエズノイ等(下の地図)がそうで、1990年以降の地図では『旧砂金場』と載っている場所が採掘場だった。1950年代ハラル川のハラル砂金場には3000人も住み、学校や病院などもあった(今は無人)。1980年代からはクィズィール・タシュトィク・ポリメタル鉱山(金もとれるが亜鉛、鉛、銅、銀、カドミウム、希土類など)も重要だ。それらの産地との交通は、このコプトゥ川谷を利用したわけだ。夏場は軍用トラックで、冬場は橇で行き来したそうだ。トゥランからの陸路とビー・ヘム(大エニセイ川)を航行するコースもあったが、距離的にはコプトゥ川ルートが近い。セルゲイさんの言う通り、各砂金場への冬道(道や川が凍った時のみ通行可)はあっただろうが、終点のトーラ・ヘム村までの自動車道は(広い意味の、人や物の往来する道ですら)、ここ数年で開通した。 今年54歳のセルゲイさんは地質鉱物学準博士(修士か)で、大学卒業後、すぐトゥヴァに来てクィズィール・タシュティップ鉱山に配属された。砂金や金鉱脈が専門だったからだ。1980年代トゥヴァでは鉱山の開発が進んでいた。若かったセルゲイさんは8年間クィズィール・タシュトィク鉱山で地質調査を行っていたそうだ。だから、コプトゥ谷や、この先のウルッグ・オー谷、ミュン・ホリ(湖)周辺は自分の家の庭のようなものだ。 全長170キロの『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道は、始点のバヤロフカ村のガソリン・スタンドを曲がると、コプトゥ川に沿ったこの道を上っていくのだが、ときどきコプトゥ川の流れが見える。2度目というものはいいものだ。初めての場所では、新鮮な驚きを感じられるが、深みはない。1度訪れればそれで満足できるところと、何度も訪れなくては見たことにならないところがある。私もコプトゥ谷を自分の家の庭のように感じたいものだ。
セルゲイさんは自分の新車ニーヴァを慎重に運転する。アスファルト舗装の『クィズィール=セルィク・セム』道でも時速80キロ以上出さない。『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道に入ると30キロでゆっくり進む。だから、1時間後に『30』と標識のあるところを通り、すぐにコプトゥ川に架かる橋が見えた。自分の庭を急いで通り抜けようとは思わないセルゲイさんは、私には十分に名所に思える橋を渡ったところで車を止めてくれた。名所の橋を撮ろうと私は川に降りて行く。山川コプトゥの流れは速く、冷たい。川に降りる道があるのは、まだ橋がなかった頃、ここを車で(または橇で)渡ったからだ。こちら側の川岸まで降りる道や、向こう岸からまた上がる道がある。今の時期のように水量の多い時は車では渡れないだろう。だから、その後、木造の橋もできた。今でも残っているが、もう今の交通量には耐えられないようなクラシックな橋だ。私たちは、新しいコンクリート製の橋をバックに写真を撮りあった。 しばらく行くと、またコプトゥ橋を渡って右岸に出る。さらに、コプトゥ川右岸の小さな支流を3つほど渡ったところで、もう『47』という標識が見えた。始点のバヤロフカ村から100キロの鉱山村まで、ここで半分ほど来たことになる。このあたりで、セルゲイさんいわく『悪魔の橋』を渡って左岸に出る。その畔が、小さな広場になっていて、火を燃やした跡もある。つまり、パーキング・エリアかドライブ・インという訳だ。ここにはコプトゥ川の清い水もあり、場所もあるので、お昼ごはんを準備して食べるにぴったりだ。6時半だった。セルゲイさんは心得た手つきで火をおこし、川から汲んで来たやかんの水を熱する。ナターシャさんはトマトやキュウリを申し訳程度に洗ってお皿に盛りつけ、ソーセージやパンを切って添える。私は何もしなかった。食べた後の食器を川に降りて洗っただけだ。 急流の狭い山川には流れの中や両岸に大小の石がごろごろしているばかりか、流木も太いのが川岸に横たわっていた。木造の橋が2本あって、1本は朽ちかけている。橋の先が急勾配で曲がりくねった上り坂になっている。だから、降りてきた車が、橋の前後で曲がり切れずに川に落ちることもあるので『悪魔の橋』というような名前になったらしい。 ここを過ぎると、森林限界(高木限界)も超えるのか、木々に囲まれた道も終わり、ツンドラ高原になる。斜面には痩せた木々がまばらに生え、地面には薄緑色のトナカイゴケが広がっている。峠には必ず、石を積み上げたオヴァーが立っていて、布切れを木に結び付けたチャラマが張ってある。『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道の3つの峠のうち、初めに越えるのがこの2000m弱のコプトゥ峠だ。一応、トゥヴァの習慣にのっとって、オヴァーの前に小銭を置く。 近くに古い木製の塔(櫓)が建っていたので、トナカイゴケを踏んで近づいてみた。打ちつけられた釘もさびたプレートがあって、『КГУ(クラスノヤルスク大学の意かもしれない) Г-3 ОГП-54 1978年』と読めた。地図作成の3角点の基点かもしれない。2012年に通った時には気が付かなかった。 近くに見える山々はまだらに白く雪が残っている。 橋を2本渡る。もうコプトゥ(ホプトゥ)川ではなく、デルジグ川(109キロ)の上流支流の名なし川らしい。トゥマート・タイガ山脈(アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈の一部でモンゴル軍に追われて移住してきたトゥマート族からついた名前)に入っている。10キロも行かないうちに、またオヴァーとチャラマが見える。ツンドラ高原のスィンナーク峠だ。 |
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無人のウルッグ・オー谷 | ||||||||||||||||
この峠を越えると、もうカー・ヘム(小エニセイ川)支流のデルジク川流域ではなく、ビー・ヘム(大エニセイ川)左岸支流ウルッグ・オー川(107キロ)流域になる。セルゲイさんは『ウルゴー』谷と言っていたのではじめはわからなかったが。ロシア人の(正しくは、彼はベロルシア人だが)セルゲイさんはトッジャ郡の行政中心地トーラ・ヘムТоо‘ра-Хем村も『タラヘム』と発音する。トゥヴァ語にできるだけ忠実にロシア文字で記したのに、ロシア人はロシア語風に、長短音の区別もせず、促音の区別もせず、アクセントのない『オ』を『ア』と発音しているのだと、私は思う。それにつられてトゥヴァ人も『タラヘム』、『ウルゴー』と発音する、のだと思う。 スィナーク峠を越えるとスィナーク川(18キロ)上流を渡る。そこには『スィナーク基地』があり、すぐ近くにトナカイ肉のメニューもあると言う『スィナーク・キャンピング』が見える。無人のツンドラ平原には似合わない立派な建物で、1階が食堂で2階は宿だと言う。この自動車道ができたころ建ち始めたらしい。入口の上には雪山に囲まれたウルッグ・オー高原の写真を背景に、『キャンピング “スィナーク” 喫茶 休憩室 ビリヤード 蒸し風呂 年中無休』と書いた看板がかかっている。家の横にはパラボナ・アンテナまであり、裏手にはトナカイが数匹繋いである。 2012年に来た時にはトナカイには気が付かなかった。ちなみに、帰りも、もちろん同じ道で、もう手持ちの食料も少なくなっていたので、ここで食事をすることにした。一応、「トナカイ肉の料理はないの」と聞いてみたが、「ない」(に決まってるでしょう、メニューに書いてないのだから)というそっけない返事。ここに限らず、どんなサービス業も、質問を無視されなかっただけでも、御厚意と言うもので、「生憎ないのですよ、すみません」などとは言わない。もっとも、よくはやっているこの食堂で、みんながトナカイ肉を食べたら、かわいそうなトナカイはすぐ絶滅してしまいそうだ。 行きは、そこでは食事はしなかった。トナカイの写真を撮って通り過ぎただけだ。写真は有料だったかもしれない。ある旅行者の書いた旅行記サイトでは100ルーブルとか書いてあった。 自動車道はスィナーク川谷に沿ってトゥマート・タイガ山脈を越えて行くと、ウルク・オー谷に出る。この辺のウルッグ・オー川上流はオットゥグ・タイガ山脈とトゥマート山脈の間の広いツンドラ高原を、幾つもの小さな支流や沼地から水を集めて東から西へ延々と流れている(もちろん水温が0度以上の夏だけ)。
これまでのコプトゥ川に沿った道はおおむね北へ向かって続いていたのだが、ここではウルッグ・オー川を遡るように西から東へのびている。セルゲイさんの言う100年前からの道も、こうして東西に走るアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈に沿って通じていたのだろう。現在の通年用陸路『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道ができたのは、ウルッグ・オー川の最も上流のさらに西にあるクィズィール・タシュトィク(クズル・タシュトゥク)ポリメタル鉱山を開発するためだ。ちなみに、トーラ・ヘム村は、ずっと北にあるのでウルッグ・オーの上流地点で道は別れる。(ウルッグ・オー谷またはウルッグ・オー高原) 私たちは、無人のウルッグ・オー谷をどこまでも進んでいく。『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道で、最も印象深いのはこのウルッグ・オー高原だ。鉱山開発も含め、本当は自然破壊が進んでいるのだが、それでもまだこの(便利な)陸路のすぐそばからは自然のままのツンドラ高原の残雪も見え、木々が生えていないので遠くの山の麓まで見渡せる。道路からは見えないが、ウルッグ・オー川がほぼ平行に流れているはずだ。こんなところだから、毎年のように流れを変えて何本もの側流になって、周囲の山から流れきた無数の支流、というより沼流を集めて流れているだろう。道路以外は無人の荒野なのだ。 夏のツンドラ平原は美しい緑色に、道路からは見えた。実際は、土壌の表面だけ融けた水分が、地中に浸透できず沼となっている。見渡す限り、動くものは見えない。ここまではトナカイ遊牧にも、今は来ないのだろうか。周囲を雪山に囲まれたこの無人の荒野が、いつまでひっそりと無人のままだろうか。自動車道ができたと言っても、今のところ、この広い荒野のたった1本の線だ。 車を止めてもらって、荒野の写真を撮る。本当は、荒野をさまよいたいと思ったが、もちろん、それは無理。キャタピラー車か、せめてトナカイに引かせた橇でないと不可能。キャタピラーが一度通った跡からはツンドラ(亜高山)の植物も何年も生えてこない。 夕方の9時半も過ぎた頃、天候が悪くなってきた。だが、それもすぐ変わる。スィナークから1時間以上も走った頃、セルゲイさんはわき道に入った。というよりクィズィール・タシュトィク鉱山への旧道らしい。今では旧道は密猟者ぐらいしか通らない。10時も過ぎて日が沈みかけていた。
セルゲイさんはこうしてツンドラ高原にテントを張って、乾いた木々を集めて火をおこし、その上に太い木を渡して、やかんや鍋をつり下げ、野外で宿泊することによほど慣れているに違いない。彼と一緒でなければ、こんなワイルドなことを、いとも楽々と実現できないと、つくづく感心しながら、申し訳程度に手伝っていた。ナターシャさんは私より慣れていて、今度も手早く野菜やパンを切って盛り付けてくれた。私はまた、沼地用超長靴をはいて、ウルッグ・オーの小さな支流の小川で食器を洗う係だったった。これは10時半の夜食で、寝る前の食事という訳だ(数えてみるとこの日は4回食べた)。 テントは3人用で、ナターシャさんを真ん中に3人で寝た。クラスノヤルスクのディーマさんに借りた寝袋は、都会の郊外のキャンプ場では間に合うだろうが、こんなツンドラ高原では寒すぎた。セルゲイさんがテントを張った時、塩ビのマットも敷いて寝袋も3人分セットしてくれたのだが、 「タカコ・サンの寝袋はあまり良くない、どこで買ったのかね」と何度も言っていた。(クラスノヤルスクのディーマさんは多分クラスノヤルスク市で買った)。だから、手持ちのセーター、カーディガン、ジャンパー、それにズボンを3枚かさねして、あるだけを着て寝た。それでも寒かった。 |
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7月4日(木)夏のツンドラ高原ウルッグ・オーを行く | ||||||||||||||||
朝も寒かった。これから先、テント生活が多かったが、朝は、寒さと地面の上に寝たために体が痛くて、それで目覚めるのだった。服を着こんで寝袋に入っていては寝返りもできない。目が一旦覚めると、もうこれ以上寝袋の中にいられないのだ。
6時半には、セルゲイさんは火を起こしてくれて、7時半には朝食を食べ、8時半にはテントをたたみ、9時には出発していた。一夜を明かしたこの旧道付近のツンドラ高原で、沼地用長靴をはいて矮小シラカバ(ィヨールニック)の枯れ枝や、たで科だかスゲ類だかのツンドラの草を大きく踏み、トナカイゴケ絨毯をそっと踏んで午前中は散策してもよかった、とは帰国してから思うことだが、その時はこの素晴らしさを味わう余裕があまりなかったのだ。 出発した頃、また雨が降ってきた。旧道に入ったのは野宿するためかと思っていたが、セルゲイさんは元の『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道に戻らず、旧道を先に進む。もちろんその方がずっとずっと面白い。残雪の残る山々の麓、夏のツンドラ高原に緑に色づく草原の中を進んで行った。小さな湖が静かに横たわっている。何という美しさだ。トゥヴァでも東北の僻地『トッジャ流わびさび』の世界だと思って、走るニーヴァの窓から何枚も写真を撮った。 アジア中心部に残る秘境の一つトッジャ郡なので、道らしいものがあるだけでもありがたい。ソ連時代に、地質調査隊や砂金採集隊が軍用トラックで踏み固めた道だろうか。この荒野に延びる1本の帯のような道がなければ、5mと進めない。 車の通らない旧道は整備しないので、自然に帰りつつある。道が低地を通るところは、広大な水たまりになっていて、どのくらい深いのか、いちいち降りて確かめてから「うん、この辺が浅いだろう」と言って車を入れる。高地の時は巨石の砂利道を越えなければならなかった。この一帯を自分の庭のように知っているセルゲイさん運転の新車のジープ『ニーヴァ』だからこそ、通行できたのだと思う。 出発してから30分も行ったところで、小さな広場があり、小屋も建っていた。昔は、ここがクィズィール・タシュトィク鉱山の調査基地だったようだ。つまり、セルゲイさんたちが8年間住んでいたのか。そのころはもっと小屋があったが、今は屋根もドアもあるのは2軒だけで、セルゲイさんによると密猟者が住んでいるのだとか。近くにヘラジカの立派な角も置いてあったので、セルゲイさんは喜んで写真を撮っていた。小屋は錠がかかってなくて、入ってみると、確かに住める状態だった。窓ガラスはなくてもビニールが張ってあった。寝台には、誰かが今朝まで寝ていたかと思うほど寝跡があり、寝台の下には少し痛んではいるが野菜の入った段ボールがある。何だか、人の家に勝手に入ったようで極まり悪いくらいだった。テーブルにはマクシム・ゴーリキーの『マトベイ・コジェミャキンの生涯』というきれいな表紙の本までおいてある。なかなか読書家の密猟師さんではないか。 小屋の近くには珍しく高木が数本あった。その向こうは、山の麓まで続いているツンドラ草原(という言葉がぴったり)で、ここにも残雪の白い塊がところどころ見え、小川が1本流れていた。昔、地質調査隊はよい場所を選んだものだ。 そこを過ぎると、道はますます厳しくなった。ぬかるみにもタイヤの跡がなかったから、めったにここを通る車はないのだろう。山道を上って行ったが、セルゲイさんによると、まだウルッグ・オー谷を進んでいるそうだ。斜面を縫って通じている貴重な道だが、残雪が道へもはみ出してくるようになった。セルゲイさんの運転の腕で何とか通り抜けられた。 さきほどの旧地質学調査用小屋(今は密猟者たちが住んでいるとかいう)から1時間も登った頃、道いっぱいに残雪の長い大きな舌のような塊が迫っていた。これを越えても、その先にまた白い塊が見える。セルゲイさんはこの先の道路の状況を見てくると、ナターシャさんと歩いて進んで行った。私は車の横で、森林ツンドラの咲いたばかりの可憐な花の写真などを撮っていた。 戻ってきたセルゲイさんは、これ以上は車では行けない、クィズィール・タシュトィクまではあと数キロだから歩いて行こう、それほど険しい山道ではない、平坦で楽な道だと言う。必要なものだけは持って、食料などを入れたリュックはセルゲイさんが背負って、通るとも思えない他の車の通行の邪魔になるはずもないのだが、私たちのニーヴァを道のわきに寄せて、残雪の上を歩きはじめた。 沼地用長靴では歩きにくいので、ナターシャさんの普通のゴム長靴(もちろんサイズは大)と代わってもらって歩いた。道の横に日影ができるような斜面や窪地があると、雪が残っている。斜面を過ぎると広々とした高原になり、道には日当たりがいいのか雪はもう残っていなかった。窪地になっているようなところは、多分もう融けない雪(万年雪)が残っていたが。 高原には木々も生えていなくて、石ころの間に背の低い草が生えているだけだった。意外とまともな道が続いていた。あの残雪さえなければ、ニーヴァも楽々とこの高原を走っていただろう、が、私たちは歩いた。道は緩く曲がって、向こうの高原に続いていて、その向こうにも道が見える。その向こうには、たぶん深い谷があって、また、次の高原があり、もうその向こうは、白い険しい山だ。 こんなところはやはり歩いた方がいいのだろう。道を歩くのは、足場はいいがつまらない、それに曲がりくねっているので遠回りになる。野原を突っ切って歩くと、大きな石をよけたり、沼地をよけたりしなければならないが、山岳ツンドラというのを本当に味わえる。平地ではもう枯れてしまった花が今、咲き誇っている。ここの草花は、たぶんみんな宿根草なので、去年の枯れた茎の間から、柔らかい芽が出ている。白や黄色や橙や紫の花が咲いている。こんな厳しい自然の中に、何て弱々しい花々が、こうも咲き誇っているのだろう、といつも思う。トナカイゴケの群生地の間に、こうしたお花畑がある。 セルゲイさんはどんどん先に行く。彼の足にはなかなかついていけない。ナターシャさんも健脚だ。距離があくと、立ち止まって私が追い付いてくるのを待っていてくれる。私はみんなの足を引っ張りながら、必死で歩いていた。だが、写真も撮らなくてはならない。私を撮ってもらわなくてはならない。まだら雪の山々に囲まれたこんな素晴らしいトナカイゴケ高原を歩いたことを、この先も夢にでも見たいものだ。しかし、この時は、 「まだまだ?」とあえぎながらたびたび聞いた。 「あの峰の右に見える山の向こうよ、そっちではないわ。あの丸い形のほうよ」とナターシャさんが説明してくれるが、どこかわからない。近い方だと思って、力を振り絞って歩いた。 |
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クィズィール・タシュトィク鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場の崖上 | ||||||||||||||||
1時間半ほど歩いたところで、セルゲイさんがここだと言う。ここから見下ろすとクィズィール・タシュティク鉱山が、すり鉢のそこのように見渡せる崖上だった。こっちの方がもっとよく見渡せる、とさらに進んだ。すり鉢斜面の下の方に作業車の通るつづら折りのヘアピンカーブを繰り返した道がへばりついている見事な谷間が、はるか下に開いている。周りの高い斜面はぎっしり緑のシベリアマツの森だが、底の方の採掘場の広い範囲だけは土がむき出しだ。ジグザグ状に急カーブの折り返しで連続している道をショベルカーやブルドーザーが動いているらしいのが小さく見える。谷底には建物が見える、精錬場だろうか。遠くてよく見えないが何かが積み上げてある。建設中の木材だろうか、何せ鉱山は今年から稼働しているのだから。採掘する人たちの住むところは直線距離で6キロも離れていて、山の陰に隠れて見えない。この谷の斜面を、若いセルゲイさんたちは調査していたのだろうか。 1946年、ロシア人地質学者が百万分の1の地図作成中に、黄鉄鉱、白鉄鉱、磁硫鉄鉱、硫砒鉄鉱、黄銅鉱、輝水鉛鉱などを発見したのが始まりで、1953-1963年、1981-1988年と本格的調査がされ、亜鉛、鉛、銅や、金、銀、カドミウム、希土類などの埋蔵が確認された、とサイトにある。
鉱山は露天掘りだ。地表から掘り下げてすり鉢状の穴を作っているばかりではなく、谷底から逆円錐の谷を掘り上げている。らせん状に上へ上る道がある。つまり、下からも山を削っていっているのだ。 1980年代若いセルゲイさんたちは、東トゥヴァの初期カンブリア紀に属するウルッグ・オー層(と、サイトにある)のクィズィール・タシュティク産地の詳細な調査をしていたのだ。谷底だけではなく、今立っている崖上も、一夜を明かしたツンドラ高原ウルッグ・オーも広く調査したらしい。 採掘場は、地図で見ると、アク・ヘム川の最上流の支流が流れ出す小さな湖近くにある。このアク・ヘム川が、汚染が心配されている山川で、長さは41キロ。オー・ヘム川(350キロ)に注ぎ、オー・ヘム川はビー・ヘムに注ぐ。ビー・ヘム(大エニセイ川)とカー・ヘム(小エニセイ川)はクィズィール市の辺りで合流してウルッグ・ヘム(エニセイ川)となり、4000キロ流れて北極海に注ぐわけだ。 帰国後グーグルマップで調べてみたのだが、採掘場のある谷間は高度1862m、私たちが立って見下ろした崖上は2043mらしい。すでに汚染され始めていると言うアク・ヘム川上流支流は見えなかった。この露天掘りの谷が削られ、深く広くなって行き、年代物のシベリアスギの森がはげ山になっていくのだろうか。 しかし、そんなことは元鉱山開発の当人のセルゲイさんには言えない。30年前当時の地質学の先端知識を駆使して調査し、2006年にはオークションで、中国の鉱山会社に高値で売却した産地だ。しかし、中国が権益を買って利益を得ていることについては、彼に聞いてみた。長い間、ロシア政府(企業)もトゥヴァ政府(企業)も採掘の資金は出せなかった、中国が自分たちの調査の成果を受け継いでくれてありがたい、と言うような意味の返答だった。 途中の道路にはみ出た残雪さえなければ、ここまでニーヴァで来て、ここでテントを張る予定だった。こんなに広く、見渡す限りトナカイゴケが広がっている高原の中で1日が過ごせるなんてすばらしいことではないか。トナカイゴケの間に山岳ツンドラの花が咲いている。ナターシャさんは、 「なんだか、ずっと前に、こんな野原を歩いたことがあるような気がする」と夢見るように言っていた。私もそうだ。ただ、崖上に近づくと、クィズィール・タシュティク採掘場と言う場違いなものが見える。しかし、それは200mも下の遠い谷間にあって、トラクターは蟻のように小さい。 1時過ぎと言う時刻だったので火をおこしてお昼の準備をした。
セルゲイさんの写真には、その高台からの採掘場の写真もあって、小さな湖も見えた。向こう側のはげ山になっている斜面にだけつづら折り道路ができているのではなく、こちら側の斜面にも道が付いている。中国のルンスン社は30年間の利権を買ったわけだから、採掘し尽くす30年後には、私たちが食事した崖上だって、削られているかもしれない。シベリアマツの濃い緑ばかりか、トナカイゴケの薄緑もなくなっているかもしれない。 3時ごろ、私たちは火を消して出発し、トナカイゴケを踏み、石に躓き、ツンドラ高原の花々に見とれながら歩いて、4時半頃には車を置いたところまで戻った。途中でセルゲイさんがアカジカを見つけたと言って、木々の間に消えた。どんな動物が生息しているかを調査することも、地質鉱物学者の領域かもしれない。 |
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ビー・ヘム(大エニセイ川)畔 | ||||||||||||||||
ナターシャさんはもう家に帰ろうと言っていたが、いや、もう一晩どこかに泊まろう、ミュン・ホリ(湖)の畔がいいとセルゲイさんは言う。ミュン・ホリ(湖)は魚がうじゃうじゃいるとかいう。私は賛成。とにかく遠くへ行く案は歓迎。もっと先のエン・スク川を渡り、ビー・ヘム(大エニセイ川)を渡ってトーラ・ヘム村に行ってもいい、と提案。そこまでは帰りのガソリンが持たないとセルゲイさん。いや、トーラ・ヘム村まで行けばガソリン・スタンドがありますよ、と私。もちろんトーラ・ヘム村までは行かなかった。田舎の村は私には興味があるが、彼らには「いったいそこで何を見るの?」と言ったところだから。 ニーヴァに乗って、朝通った道を降りていった。大きな水たまりや石道は登るより降りる方が楽かもしれない。 来る時に通った元の地質調査隊基地の広場の近くも通った。意外にも人が見えた。何だかけむじゃらけの怖そうな男たちで、厳しい目つきでこちらを見ているように感じた。一瞬、セルゲイさんが車を止めて挨拶でもするかと思ったが、もちろん、広場を迂回して通り過ぎた。 5時半頃には『バヤロフカ=トーラ・ヘム』街道に出ていた。去年は恐ろしい悪路だと思ったこの道も、もう整備されなくなった旧道に比べれば、町道のように滑らかに思える。水たまりは浅く、転がっている石は小さい。 ウルッグ・オー川に架かる橋を渡る。川は幾筋にも分かれ、と言うより支流が沼地を作って流れ寄ってくるので、道は沼地にできているのだろう。つまり、流れができるような沼川に架かった橋を渡る。30分も走ると、トッジャ郡の道標が見える。道路上ではここからがトッジャ郡だ。此処までは、カー・ヘム(小エニセイ川)の支流コプトゥ(ホプトゥ)川沿いはカー・ヘム郡、ウルッグ・オー川支流のスィナークとウルッグ・オー谷はクィズィール郡だ。コンクリート製の立派な道標にはトッジャの4文字が大きく彫られ、チュム(トッジャ人たちの円錐形の移動式住居)の側で待っているお母さんと小さな子と犬のところへ、トナカイに乗って帰ってくるお父さんと大きめの子供を描いたレリーフがあり、その裏側には、トゥヴァ語でたぶん『息災で、豊かに』という意味の文字が彫られていた。機嫌のよくなさそうなナターシャさんは降りようともしなかったので、セルゲイさんと私だけが降りて写真を撮った。近くにギョウジャ・ニンニクの群生地があるからと、セルゲイさんは木々の間に消える。
郡境から10分ほど行ったところが3番目の峠『ミュン』だった。トッジャ盆地が見晴らせる。少なくともその一部のミュン・ホリ(湖)とビー・ヘム(大エニセイ川)の低地が見晴らせる。そして、この峠を下って5分も行かない所が、『クィズィール・タシュティク(クズル・タシュトゥク)鉱山11キロ、トーラ・ヘム村68キロ』とロシア語と中国語で書かれた標識の立っている分かれ道だ。(私たちは旧道で行った。帰りは新道) さらに10分も行かないうちにミュン・ホリ(湖)が見える。ミュン湖の北西にビー・ヘム川が流れていて、湖の西から北は湿地帯が広がっている。道路は東側についているのだが、ミュン湖に近づこうとすると沼地がある。 「確か、湖のすぐ側まで行ける道があるはずだ」とセルゲイさんはつぶやきながら走る。しかし、この日は見つけられず、「では、ビー・ヘムで魚釣りをしよう」と言うことになった。 だから、ミュン湖を通り過ぎ、ビー・ヘムの左岸支流(沼川)にかかる30トン以上は禁止と言う橋を渡ったところで、セルゲイさんは釣り場を見つけた。『バヤロフカ=トーラ・ヘム』街道からビー・ヘムへ曲がる小路があり、進んでいくと川岸のキャンプができるような空き地に出る。釣り客がたびたび訪れる場所らしく、椅子にもテーブルにもできる丸太がちょうどよい間隔で並んでいる。 テントを張るために地面を均さなければならなかった昨夜と違い、ここは郊外のキャンプ場のようなところだった。が、蚊が多かった。セルゲイさんは、すぐ釣竿を垂れたが、この日は釣れなかった。蚊にえさをやったぐらいだろう。誰も行かない高地ツンドラ地帯ではなく、先客のゴミが落ちている蚊の多い場所で、この日は泊まった。寒くても、採掘場を見下ろす高原で泊まった方がずっとよかったが、車でそこまで行けなかったので仕方ない。 |
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7月5日(金)ミュン・ホリ(湖) | ||||||||||||||||
側流とは言え、ビー・ヘム(大エニセイ川)のすぐ横に場所を取ったので、食器を洗うのが楽だった。朝ご飯はみんな食欲がなかった。 9時半頃にはテントをたたみ、昨日の道を戻った。もし、先を進んでも、トーラ・ヘム村まで20キロもないのだが、ナターシャさんの機嫌も良くなかったので遠慮する。
セルゲイさんは、この日はうまくミュン・ホリ(ホリは湖)へ近づける小道を見つけた。そして近づけるところまで行って、セルゲイさんは、釣竿を持って歩いて進む。ナターシャさんは車の中で待っていた。私はセルゲイさんの跡を追う。ミュン湖と言うよりミュン沼だが、昔はこの近くに集落があったそうだ。セルゲイさんは『あの辺だ』と指さし、古儀式派の村だったと言う。1980年代の地図では『ミュン農場』とある。確かに、古儀式派農民村は、ビー・ヘム(大エニセイ川)畔にも多くあったそうだが、その後、それらはカー・ヘム(小エニセイ川)畔に移ったそうだ。ロシア人の集落だったのなら『ミュン・ホリ農場』の始まりが古儀式派だったのかもしれない。魚の豊かな水辺だから。 ミュン・ホリの畔には1時間ほどしかいなかった。セルゲイさんは一匹も釣れなかった。11時過ぎには引き上げる。 道の両側は半沼地で、かなり木々も茂っていた。下草が美しい緑色に広がり、その中に湿地に生えるらしい白い花が群生している。ここは、確かに『バヤロフカ=トーラ・ヘム』街道だが、どこで曲がったのか気がつかなかったが、バグーリニクの匂いをかぐために車を止めた場所は、見覚えのある街道筋とは違っていた。バグーリニクは寒帯に生えるつつじ科の蠱惑的なにおいの花だ。この匂いは意識をもうろうとさせるそうだ。バグーリニクは有毒で、だから、薬草の一種だ。香水の材料にもなる。ツンドラに近いところでは群生している。バグーリニク群生地には入らない方がいい。ここでは白いバグーリニクが道路わきの崖に生えていた。うっとりするような匂いだが、気を失うほどではない。 雨が降っていた。突然、この人里離れた山中に黄色の2階建ての新しい建物が見えた。この3日間、密猟者の小屋か道路工事基地のバラックか、ユルタぐらいしか目にしなかったのに、この現代的な建物は何だ? それも、同じ規格の建物がいくつも整然と並んでいる。 「こんなところに新しい町が!」と叫んでしまった。これが、クィズィール・タシュティク鉱山村だった。『直進 クィズィール・タシュティク11キロ、右折トーラ・ヘム68キロ』と言う道路標識を直進したことに気がつかなかったのだ。露天の採掘場谷は昨日200mもの崖上から見た。会社や、ルンシン社員の住むところは、山の陰で見えなかった。最も、直線でも採掘場と宿舎群は6キロは離れている。崖上から200mも降りれば、露天掘りで、そこからルンシン社の宿舎などがあるここまで来られるだろうが、もちろん通行させてはくれない。私が、露天掘りの採掘場だけしか見なかったことを残念がったので、セルゲイさんは、新道を通って、大回りしてルンシン社の入り口を見せてくれたわけだ。 敷地内を見ると、鉄骨だけの建設中の建物もある。建設ゴミも山積みされている。もう稼働している鉱山村は、人口も数千人となっているそうだ。中国から来ている社員も、このゴミの横に住んでいる。大型車が出入りするせいか、近くの道路はぬかるみの深い轍が何本も付いていた。だから、何千人も住んでいる集落なのに、快適な町の外観からは程遠かった。社員はただ長期出張してきているだけなので、生活の場とは思っていないだろう。ルンシン社は30年間の権益を買ったのだが、20年で採掘し尽くすと言っているそうだ。採掘し尽くせば、鉱山は閉鎖されるだろうが、そうするとこのインフラはすべて放棄されるのだろうか。それともここに定住の集落でもできるだろうか。
実は、帰りはただ3日前のように『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道を走るだけではなく、特にコプトゥ谷の、昔の金採掘道に入ってみたかった。上流には、タプサ川のプロエズノイ砂金場へ行く道がある。中流には、バイ・ソート砂金場へ抜ける道もある。途中には金を洗うためのせき止め池がある。しかしどこへも寄らなかった。燃料が底をつきそうだったからだ。 9時ごろクィズィールの自宅に戻ったが、タチヤーナ・プルドニコーヴァさんは、テス・ヘムの調査からまだ帰ってきてなかった。 |
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