クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 21 January, 2014 (追記 2月21日)
トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (7)
    無人のオンドゥムの地
           2013年6月30日から7月27日(のうちの7月15日)

Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)

月/日 『トゥヴァ紀行・続』目次
1)7/2まで トゥヴァ紀行の計画 クラスノヤルスク出発 タンジベイ村 エルガキ自然公園 ウス川の上と下のウス村 ウス谷の遺跡 クィズィール着
2)7/3-5 クズル・タシュトゥク鉱山へ 荒野ウルッグ・オー 夏のツンドラ高原 鉛亜鉛銅鉱石採掘場 ビー・ヘム畔 ミュン湖から
3)7/6,7 トゥヴァ国立博物館 ビーバーの泉、鉄道終着点 聖ドゥゲー山麓 トゥヴァ占い 牧夫像
4)7/7-9 『王家の谷』へ 国際ボランティア・キャンプ場 考古学者キャンプ場 モスクワからの博士 セメニチ車 発掘を手伝う  『オルグ・ホヴー2』クルガン群
5)7/10-12 『王家の谷』3日目 連絡係となる 古墳群巡回 シャッピーロさん ショイグとプーチンの予定 パラモーター
6)7/13,14 地峡のバラグライダ 政府からの電話 ウユーク盆地北の遺跡 自然保護区ガグーリ盆地 バーベキュ キャンプ場の蒸し風呂
7)7/15 『王家の谷』から再びクィズィール市へ 渡し船 今は無人のオンドゥム 地図 土壌調査 遊牧小屋で寝る
8)7/16-18 オンドゥムからバイ・ソート谷へ 金鉱山のバイ・ソート 古代灌漑跡調査 運転手の老アレクセイ
9)7/19 エニセイ左岸を西へ チャー・ホリ谷 岩画を探す 西トゥヴァ盆地へ トゥヴァ人家族宅
10)7/20,21 古代ウイグルの城塞 石原のバイ・タル村 鉱泉シヴィリグ ユルタ訪問 心臓の岩 再びバルルィック谷へ
11)7/22 クィズィール・マジャルィク博物館 石人ジンギスカン 墨で描いた仏画 孔の岩山 マルガーシ・バジン城塞跡
12)7/24-27 サヤン山脈を越える パルタコ―ヴォ石画博物館 聖スンドークとチェバキ要塞跡 シャラボリノ岩画とエニセイ門 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 クラスノヤルスク

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。

7月15日(月)『王家の谷』を去って再びクィズィールへ
 『王家の谷』専用車のうちの1台のウアズ(高駆動ワンボックスカー)の調子が悪く、クィズィール市で修理が必要だそうだ。だから、月曜日の朝に『王家の谷』からクィズィールへ車が出ることは、土曜日にわかっていたので、そのウアズの運転手のディーマ君にも、出発する時は、必ず私とプロホディコ博士を乗せて行ってくれるようにと念を入れてあった。食堂でディーマ君を見つけて、直接、念を入れたし、キルノフスカヤさんも頼んでくれた。
 出発の15日8時前には、貸してもらったテントの中も掃除し、借りたマットレスも丸め、キルノフスカヤさんから借りた毛布は丁寧に畳んで手渡して、ディーマ君やプロホディコ博士が出発の準備ができるのを待っていた。
 ぶらぶらしていると、よく見かける一人の男性が近寄ってきて、日本の詩(たぶん短歌)の露訳を暗誦してくれる(後で彼が北オセチアのウラジカフカス市出身と知る)。私がもう出発すると聞いて、言っておこうと思ったのかもしれない。このキャンプ場にいた1週間の間、みんなとても友好的で、目が合えばほほ笑んでくれ、私の頼み事は喜んでかなえてくれ、いつでも援助しますよ、という態度が、とても気持ちよかった。時々日本語であいさつされ、私もあわてて挨拶を返したものだ。
 ディーマ君の車の前でキルノフスカヤさんともねんごろに別れの挨拶をする。彼女は、今日はここに座ってもいいのですよ、と助手席をさしてくれた。後ろの席より助手席の方が見晴らしはよく、写真も撮りやすく、気持ちがいい。乗客では最も重きを置かれている人が座る。例えば、セミョーノフさんが乗っている時はキルノフスカヤさんも後部座席だ。今日はプロホディコ博士が後部座席となった。プロホディコさんは、
「マリーナ・エヴゲェヴナ(キルノフスカヤさんの名前と父称)。またここへ戻ってきてもいいでしょうか」と頼んでいる。タチヤーナ・プルドニコーヴァさんの予定で、私と一緒にキャンプ場を発つが、ここでの土壌学のフィールド調査がまだ終わっていないのだろう。
 キャンプ場出発は、9時近かった。途中、カシュペイの農家に食堂からの残飯を届けた。だから、この横を通るといつも犬が長い間追いかけてくるのだ。トゥヴァの家族は子沢山だ。可愛い女の小や男の子が数人、私たちの方をじっと見ていた。急ぐ時でなければ、話しかけて仲良くなったのに。
カシュペイの農家
国道のラクダ輸送

 遠くにやっとトゥラン市が見えだした頃、私の携帯が鳴った。タチヤーナ・プルドニコーヴァさんだった。
「今どこにいるの?」
「トゥラン市に入るところです」
「まだ、そんなところなの?早く来てよ。」かなり怒っているようだった。クィズィールの彼女の家に着くのが怖いくらいだった。プロホディコ博士は涼しい顔をしている。ディーマ君はスピードを上げる。
 トゥラン市からクィズィールまでは良い道だ。ディーマ君が、「おぅ」と言ってスピードを緩める。見ると、ラクダを繋いだ乗用車がゆっくり道路脇を走っている。自転車に乗って犬の散歩をする人を日本では見かけるが、これはまさか、ラクダの散歩ではあるまい。輸送している。排気ガスを吸いながら、自動車の早さに合わせて早足しなければならないラクダがかわいそうだなあ。

 プロホディコ博士はもちろんタチヤーナさんのアパートを知らない。座っていれば運んでもらえると思っている。私は目印の建物のスポーツ・ドームまで行けば、わかる。ディーマ君にスポーツ・ドームまで行ってもらい、そこから私の案内で、アンガルスク通り27番地まで来られた。着いてみると、古いジープが後ろの荷台(トランク)を開けたまま止まっている。年配の運転手も横にいる。荷台には迷彩色のリュックやスコップなどがすでにぎっしり詰まれている。ディーマ君は私たちの荷物を下ろし、古いジープの年配運転手と一言話すと、去って行った。このジープに乗ってただちに出発らしいが、私は常備薬が足りなくなっていると、3階の彼女のアパートまで上がって行って、自分のトランクを開いて大急ぎで必要なものをリュックに摘みこんだ。タチヤーナさんはいらいらと怒ったような顔で眺めている。
 セキュリティ会社にも通じるアパートのロックを完了すると、私たち3人と、プロホディコの小さなトランクとリュック、私の大きなリュック、寝袋と塩ビ・マットを摘んで、11時頃出発。

「どうして、昨日帰らなかったの?半日分あなたのおかげで損したわよ」と、タチヤーナさんは私にだけきつく言う。「きのうはどこへ行っていたの?」
「ヴェルフネウシンスク方面です。」
「キルノフスカヤはなんでヴェルフネウシンスクへなんかへ行ったの?」
「未発見の考古学的記念物探索のためです」。フンと言う返事。昨夕、タクシーで帰ると言ったのに、その必要ないと言ったのは彼女ではないか。月曜日早朝に出発すると言っても、『王家の谷』からクィズィール市へは、かなり距離があるではないか。と言うことは、後でプロホディコ博士だけに聞こえるように、ぼそりと言っただけだった。博士はずっと沈黙している。
 タチヤーナさんの機嫌はその日1日は治らなかった。私は小さくなって後ろの席に座っていた。途中で、オリガ・アユノヴァと言うロシア科学アカデミー・シベリア支部トゥヴァ総合自然開発研究所ゲオ・インフォーメーション研究所の女性を乗せて、若くない女性ばかり4人となった。そのゲオ・インフォーメーション研究所は詳細な地形図を作製しているらしい。例えば私が持っている10万分の1の地図は1990年代版のもので、等高線や、土地利用の現状(どんな森林か、沼地化しているか、集落か、どんな道路か、送電線はどこを通っているかなど)が書き込まれているが、集落も川の流れも湖の大きさも変化している。自分たちが作る地図をもとにして、さまざまの用途の地図がつくられている、とオリガさんは言う。
 しかし、今回は古代灌漑・土壌跡の調査をしているタチヤーナさんと、同じく土壌学から参加しているプロホディコ博士の助手のような形で付いて来てくれたらしい。タチヤーナさんの依頼を受けたのだろう。彼女は大きな戦力となった。なにしろ私はというと、車は座席を一人分占領し、テントは一人分の寝場所を占め、食事は食べるだけという純粋なお荷物だったから。
 オリガさんを乗せても、ジープはバイ・ソートへは向かわない。まず、タチヤーナさんのダーチャへ寄って水をやり、オンドゥムと言う調査地へ行き、それからバイ・ソートへ行くのだ、と彼女は説明する。オリガさんが何日間の予定かと聞く。
「3日間。延びる可能性もあり」と高圧的。
「まあ、私は2日間と思って、その準備しかしてこなかったわ」とオリガさん。
「19日にはクラスノヤルスクから迎えの車が来るのですが」と私。プロホディコ博士は黙ってみんなの話を聞いているだけ。
大エニセイ川の渡し船
 クィズィール市の旧橋を渡ってエニセイ右岸に出る。そこのガソリン・スタンドで満タンにする。(ガソリン・スタンドは危険なので町外れにしかない)。ガソリン代はタチヤーナさんが支払う。後でわかったことだが、この小型のウアズの1日の借り上げ料は1000ルーブルだった。

 オンドゥムへ行くにはカラ・ハーク村へ行く渡し船でビー・ヘム(大エニセイ川)の左岸へ出なければならないそうだ。カラ・ハークの渡し場は7日(日)に、セルゲイさんやナターシャさんと回ったところだ。確かに途中にタチヤーナさんのダーチャがある。機嫌の悪いタチヤーナさんの後ろで小さくなって座っていた私は、地図を広げることも遠慮して、オンドゥムとはどこにあるのか、そっとオリガさんに聞いてみた。オンドゥム川はカー・ヘム(小エニセイ川)に注ぐ小さな川で、自分たちの行くオンドゥム川上流へはビー・ヘム川を渡って行かなければならないそうだ。 
渡し船に乗る
大エニセイ川を渡る
『本当に』船を曳いている
カメラのための『ポーズ』

 エニセイの右岸にはドゥゲー山があって、その西側を迂回して連邦道54号線が続き、東側を迂回してバイ・ハークへ(の渡し船発着場へ)の道が通っている。このバイ・ハークへの新道は、ドゥゲー山麓とビー・ヘムの間の今は荒れ地にある古代・中世古墳の上を通っている。その『クィズィール〜バイ・ハーク』道とビー・ヘムの間には『ヴァヴィロフ・ザトン』と言うダーチャ団地も運営されている(ザトンとは川船停泊地の意。エニセイ川航行が盛んだった頃はここが停泊地・修理所だったのか)。この団地のひと区画がタチヤーナさんのダーチャだ。最近、ダーチャ団地の横には、さらに広い敷地を囲って何か計画している。オリガさんたちによると政府の予算でエリートのダーチャでも建てるのだろうとか。(ダーチャとは都市住民のための郊外の菜園、ロシア風簡易別荘)
 タチヤーナさんのダーチャに寄って水をやり、トマトやキュウリの収穫は無理でもパセリぐらいは摘んで、午後1時頃にはカラ・ハークへの渡し場に着き、足場が悪くゴミも目につく岸辺から、渡し船に乗る。とても暑かった。渡し船は満車になるまで出発しない。川の上は陰もない。屋根カヴァーの取れた乗客用コーナーがあってベンチに座れる。座席の背には非常用ジャケットと書いたペンキもはがれている文字が見える。座席の下の箱には、もちろんジャケットもない。箱もない。
 運転席ボックスの横に陰を見つけてプロホディコ博士と座る。プロホディコ博士は63歳だそうだ。夫は数年前に死んだ。今回、彼女はグラント(grant研究のための補助金)に応募してパスし、研究費が支給された。タチヤーナさんも、古代灌漑設備の研究と言うテーマで応募して資金を勝ち取っている。昔(ソ連時代か)は、(そのような特別)研究資金は(たぶん)研究者全員に支給されたが、今は5人に一人ぐらいしか、グラントを勝ち取れない。応募に漏れた学者は、給料だけでは調査旅行などできないから、どこへも行けず、研究も進まず、論文も書けない、そうだ。プロホディコ博士は、研究費で1カ月間トゥヴァへ調査に来られた。
 15分ほどで対岸に着くと、乗客は先に降りて、車が降りてくるのを待つ。降りた乗客は車用桟橋を接岸するためにロープを引く。楽しそうなので、少し機嫌の治ったタチヤーナさんも御大のプロホディコ博士もワイワイとロープを引いた。私のカメラをオリガさんに渡して撮ってもらった。人のカメラは扱いにくいものだ。オリガさんは初めの2枚は逆向きにシャッターを押した。つまり、自分を撮ったのだ。この時、オリガさんはサングラスをはめていた。それで、出来上がった写真はサングラスをはめたオーリャさんの顔の大写しだったが、拡大すると、そのサングラスに綱引きをする私たちがちゃんと映っていた。
 1時半も過ぎて、年配のアンドレイさん運転の私たちの借り上げ小型ウアズは、バイ・ハークへの道を進んでいた。もちろん目的地はバイ・ハークではなく、途中で右に曲がって、ビー・ヘム左岸を下るように行く。

 北から流れてくるビー・ヘムと東からのカー・ヘムが交わってウルッグ・ヘム(エニセイ川)となる。合流点近くのウルッグ・ヘム両岸にはクィズィール市があり、ビー・ヘム右岸には『クィズィール〜バイ・ハーク』道やダーチャ団地があり、カー・ヘム左岸には炭鉱町がある。一方、ビー・ヘム左岸は何もない。そこは、カー・ヘムの右岸でもある。このオンドゥムと言われるビー・ヘムとカー・ヘムを分ける低い山々の連なる草原森林地帯は首都からは近距離にあるのに無人で、たまにユルタを見かけるくらいだ。
 丘陵草原の草と木だけの中、目的地オンドゥム上流へたどり着く道を探し探し進むのは容易ではなさそうだ。と言っても、タチヤーナ・プルドニコーヴァナさんにとっては自分のフィールドだ。
今は無人のオンドゥムでの土壌調査
ビー・ヘム(大エニセイ川)とカー・ヘム(小エニセイ川)が合流してウルッグ・ヘム(エニセイ川)となる。  カー・ヘムの支流オンドゥムとバイ・ソート川
 小高い丘の上に出ると、対岸のクィズィールの町が見える。しかし、此岸のトゥヴァ盆地のこの恵まれた牧草地は、前述のように現在は無人だ。後で、ネットで調べてわかったことだが、オンドゥムはサルチャーク氏族とアク・チョードゥ氏族のテリトリー境界だった。ヘユーク(ホユーク、ヒューク)氏族やマーディ氏族も入って遊牧していた。ヘユーク氏族と言えば、20世紀初めまでのトッジャの4つの氏族の一つだった。ヘユーク氏族など高地トッジャの住人は、低地トゥヴァ盆地で羊や馬を放牧していたトゥヴァ人とはやや異なるサブ・エトノスのトゥヴァ・トッジャ人とされる。高地サヤン山中でトナカイ遊牧をしているトゥヴァ・トッジャ人(とそのグループ)はサモディツィ(サモエード)人の子孫とされている。アク・チョードゥ氏族も、マーディ氏族もトッジャ・トゥヴァ人だ。もっとも、トゥヴァ盆地のトゥヴァ人もサモディツィ(サモエード)系チュルク族とされてはいるが。
 トッジャ盆地の上流オー・ヘム川や、たぶんウルッグ・オー川流域でも遊牧していたヘユーク氏族は20世紀初め天然痘で激減した。他の氏族も、何らかの事情で移動し、オンドゥム上流は空地となったのだそうだ。
 2009年ロシア科学アカデミー人類学民族学博物館(サンクト・ペテルブルクのクンストカーメラ)のトゥヴァ・グループがオンドゥムを調査し、オンドゥム谷の斜面の14か所に長さ20mまで、幅1m半から2m、高さ1m前後の石垣や石組のようなものを発見した。中世の古墳もあるが、これはそれより新しいものだった(200年ほど前とある)。長い階段か、山からの雪解け水や雨水をためて流す用水路のようにも見える。しかし、調査グループは、水路にしては繋がっていなくて上下しているので、農業用や生活用に使ったのではなく、儀式用であっただろうと結論付けている。
 タチヤーナ・プルドニコーヴァさんとは、この時私たちはその近くを通ったが、調査したのは別のところだ、と後でメールで知った。  
オンドゥムの調査地へ

 運転席に座っているタチヤーナさんが、運転手の老アレクセイに道案内をしている。草原を行くのは難しい。轍に見えるところをたどって行っても、消えてしまうこともある。道だと思って登って行くと枯れた窪地だったと言うこともある。引き返してまた道を探す。オリガさんも、
「こっちだったかしら、いや違うわ」などと言っている。しかし、プロホディコ博士が
「タチヤーナさん、さっき通り過ぎたあの道に入ればいいのではないですか」と口を挟んだ途端、タチヤーナさんが
「ヴァレンチーナ・エヴゲェヴナ、私知っていますから!」とぴしゃりと言う。ヴァレンチーナ・エヴゲェヴナ・プロホディコ博士は口をつぐんだ。クルガンや鹿石のようなものがあったが、車から出て、よく見てみたいとは、私も言いだせなかった。
 1時間以上も草原丘陵を走っていたが、今走っている道がどうやらオンドゥム上流へと行くらしい、と何となくわかる。周りに木々が茂る小路を何回も横切り、山川に沿って走り、時々は川の中を走って行く。途中、丘の上にユルタと囲いが見えた。オンドゥム農場かもしれない。住んでいるのは2,3家族だろうか。
 地質調査
 比較的良い状態の『船着き場〜カラ・ハーク村』道から出て、1時間半も走った頃、目的地に着いた。目的地と言っても、この地点とはっきり決まっているわけではなく、タチヤーナさんが山の形など見て、「この辺を掘るか」と言うところに車を止める。私たちは車から出て、オンドゥムの川岸に降りる。タチヤーナさんは今日の調査地点を探しに出かける。老運転手アレクセイさんは、これくらいの急坂は上り下りできると、私たちの後から川岸に車で降りてきた。荷台から荷物を下ろす頃までは吸血昆虫(蚊やブヨ)も少なかった。
「蚊も少なくていいところだわ」と私が言うが、アレクセイさんは、否定。
私も少し手伝った土壌調査現場
車のすぐ横にはオンドゥム川が流れている
対岸で石灰を採集したらしい

 3時半を過ぎていたが、お昼を食べなくてはならない。火をおこし、三脚を立て、鍋をつり下げ、刻んだ野菜やマカロニと水を入れ、最後に缶詰の蒸し煮肉(トゥションカと言って肉好きロシア人の野外生活には必ず現れる)を加えてスープを作る。トマトやキュウリ、タチヤーナさんのダーチャから摘んで来た葉物を入れたサラダ、それにパン、鍋が煮えた頃、やかんに掛け替えて、食後の甘いお茶。これが、この数日の私たちの3食だった。
 4時半過ぎには、噂を聞いて集まってきた吸血昆虫に悩まされながらも、食事も終わり、今日の半日分の仕事に出かける。日暮れまで、まだ5時間は楽に穴を掘れる。私たちはシャベルやスコップなどを持って、タチヤーナさんが事前捜査をした場所に出かける。もと窪地だったような、草の生えていない地面の側面をタチヤーナさんが掘りはじめる。その横をプロホディコ博士が掘る。オリガさんは、掘ったり、写真を撮ったり、巻き尺で測ったり、地層の様子をスケッチしたりしている。私はプロホディコ博士が、
「タカコ・サン、そこを掘ってください。あ、そうではなく、横にです。20センチほどの深さにです」と言われて、シャベルで掘る。実は、掘ったのはこの時だけだった。一応、手伝いますと言って参加したのだが、自宅の菜園で大根畑を耕して腰を痛めたことがあったので、加減して働いた。タチヤーナさんとオリガさんは私よりたぶん10年若く、プロホディコ博士も1歳若い。最も博士は背中がひどく湾曲しているので土方仕事はきつそうだった。彼らは研究者なので自分で土を掘ったりは、普段はしない。プロホディコ博士は『王家の谷』などでは、ボランティア学生たちが掘っているところを廻り、土壌を眺め、サンプルを集めるだけだ。
 しかし、この時は炎天下でみんな土方仕事をした。タチヤーナさんはいつも厚手迷彩服の作業衣だ。これが野外作業の時は正しい服装だと思う。暑くても昆虫類や爬虫類から守ってくれる。私もパーカーを着て、そのフードを帽子の上からかぶっていた。だが、プロホディコはシニョンに結った髪に帽子もかぶらない。
 1時間半も働いていると、老アレクセイが様子を見に来てくれた。それを機会に、私は土壌学現場から離れてウアズも止まっているオンドゥム川辺に戻ることにした。と言っても、川の流れと対岸の眺めているほかすることもない。川辺に降りたり上がったり、石を伝って向こう岸へ行ったり、また戻ったりして9時近くまで時間をつぶす。 
 無人の小屋で泊まる
 
この近くに製鉄炉跡もたくさんあった
遊牧小屋
戻ってきた3人は昼の残りを夕食にして食べながら、今夜はどこで野営するか話し合っている。ここでテントを張ってもいいが、夜間は冷えるだろう。来る途中に小屋があったが、そこで泊まってもいい。小屋は荒れ果てているかもしれない。もし、状態がよく、泊まれるようならば、小屋の方がずっと暖かいが、牧夫か猟師が戻ってくる可能性がある。老アレクセイと私たち女性4人グループが、荒くれ猟師(牧夫)に襲われるとかなり危険だ。(大自然の中にある小屋なら、一応誰のものでもない。誰でも困った人が宿泊できるようドアに鍵はかけず、煮炊きをするためのマッチも常備されていることもある。塩びんがあることもある。)
 まずは偵察することにした。ドアは開いた。つまり誰かの持ち家ではないと言うことだ。すごく荒れ果てていると言うこともない。変なにおいもしない。窓ガラスはないがビニールが張ってあり、腐ったマットレスを敷いたベッドが2台あり、ゴミだらけの床も広い。オリガさんが床に老アレクセイ車常備の布シートを敷けば寝られそうだ、と言う。ただ、もっと遅くなってから準備をした方がいい。猟師か牧夫か誰かが帰ってくるとすれば、必ず明るいうちだから。暗くなってから帰ってくることはない。
 そう決めると、3人はまた小屋近くの土壌調査に出かけた。近くに、中世の製鉄炉跡がたくさんあった。鉄のスラムや炭が見つかる。鉄のスラムも炭もタチヤーナさんが私にくれようとしたが、炭のかけらの方はプロホディコ博士に取り上げられた。うーん、炭のかけらって、土壌学には必要なサンプルだったのか。
 10時過ぎ、空はまだ青紫色だが中空には白い半月がくっきり見えた頃、小屋に戻った。オリガさんが木の枝を束ねて箒を作り、口に水を含んで霧吹きのように噴出しながら、懐中電灯の明かりで掃除して掃除してくれた。腐っているが比較的ましなマットレスの上にタチヤーナさんが、すっかり腐って気持ち悪いマットレスの上にプロホディコ博士が、早い者勝ちに陣取ったので、私とオリガさんは床に寝ることになった。オリガさんは長い時間かけて吹き込まなくてはならないが、エアーマットを持っている。私は上等でないと言われた寝袋だけだった。また、ありたけの服を着て、寝袋に潜り込む。老アレクセイの寝る場所もあり、タチヤーナさんは彼に
「小屋の中で寝たらどうですか。私たち、夜中にあなたに付きまとったりはしませんから」と冗談のように勧めたが、彼は車で寝る。運転手は野外では、自分の車のガードも兼ねて車内で寝るものだ。
日が沈んで遊牧小屋の上には白い月が見える。10時頃まで働いていた
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