up date | 21 January, 2014 | (追記2014年2月20日、12月8日、2018年11月1日、2019年12月8日、2021年10月14日、2023年1月15日) |
31-(3) トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (3) クィズィール(クズル)市 2013年6月30日から7月27日(のうちの7月6日から7月7日) |
Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)
月/日 | 『トゥヴァ紀行・続』目次 | ||||||
1)7/2まで | トゥヴァ紀行の計画 | クラスノヤルスク出発 | タンジベイ村 | エルガキ自然公園 | ウス川の上と下のウス村 | ウス谷の遺跡 | クィズィール着 |
2)7/3-5 | クズル・タシュトゥク鉱山へ | 荒野ウルッグ・オー | 夏のツンドラ高原 | 鉛・亜鉛。銅鉱石採掘場の崖上 | ビー・ヘム畔 | ミュン湖から | |
3)7/6,7 | トゥヴァ国立博物館 | ビーバーの泉、鉄道終着点 | 聖ドゥゲー山麓 | トゥヴァ占い | 牧夫像 | ||
4)7/7-9 | 『王家の谷』へ | 国際ボランティア・キャンプ場 | 考古学者キャンプ場 | モスクワからの博士 | セメニチ車 | 発掘を手伝う | 『オルグ・ホヴー2』クルガン群 |
5)7/10-12 | 『王家の谷』3日目 | 連絡係となる | 古墳群巡回 | シャッピーロさん | ショイグとプーチンの予定 | パラモーター | |
6)7/13,14 | 地峡のバラグライダ | 政府からの電話 | ウユーク盆地北の遺跡 | 自然保護区ガグーリ盆地 | バーベキュ | キャンプ場の蒸し風呂 | |
7)7/15 | 再びクィズィール市へ | 渡し船 | 今は無人のオンドゥム | 土壌調査 | 遊牧小屋で寝る | ||
8)7/16-18 | オンドゥムからバイ・ソート谷へ | 金鉱山のバイ・ソート | 古代灌漑跡調査 | 運転手の老アレクセイ | |||
9)7/19 | エニセイ左岸を西へ | チャー・ホリ谷 | 岩画を探す | 西トゥヴァ盆地へ | トゥヴァ人家族宅 | ||
10)7/20,21 | 古代ウイグルの城塞 | 石原のバイ・タル村 | 鉱泉シヴィリグ | ユルタ訪問 | 心臓の岩 | 再びバルルィック谷へ | |
11)7/22 | クィズィール・マジャルィク博物館 | 石人ジンギスカン | 墨で描いた仏画 | 孔の岩山 | マルガーシ・バジン城塞跡 | ||
12)7/24-27 | サヤン山脈を越える | パルタコ―ヴォ石画博物館 | 聖スンドークとチェバキ要塞跡 | シャラボリノ岩画とエニセイ門 | 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 | クラスノヤルスク |
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。
7月6日(土)トゥヴァ国立博物館 | ||||||||||
タチヤーナ・プルドニコーヴァさんはテス・ヘム方面へ学生を連れた調査旅行からまだ戻って来ないので、この日、7月6日(土)はフリータイムと言うことになった。朝食後、ナターシャさんは一人で出かけて行った。トゥヴァは初めてというベロルシアからきたナターシャさんは、町中を路線バスに乗って自力で見て回る、と出かけたのだ。 地学修士のセルゲイさんとタチヤーナさんのアパートには私に興味深い本がたくさんある。トゥヴァには本屋は少なく、あってもトゥヴァの本は売ってない。博物館や大学に行けば入手できるかもしれない。しかし、発行部数が少ないので、偶然でなければ購入できない。書店に出回る前に、贈呈されてなくなる場合もある。クィズィールで地学修士として研究所で働いている2人の本箱にはそうした貴重な本が多い。コピー機もないので、必要なページはすべて写真に撮ることにした。かなりの量で、この日の午前中や、夜、次の日もせっせと撮っていた。これが、私のフリータイム中の仕事の一つだった。 また、クィズィールには、私にはたしか4人の知り合いがいる。博物館の職員のオーリャ、その知り合いのカーチャ、そのまた知り合いのアイ・ベック、前年私たちのガイドをしてくれたトゥヴァ大学歴史学部のアンドレイさんだ。このフリータイムの日に、電話した。アンドレイさんはピオネールの子供たちを連れてキャンプ場にいて月曜日まで帰らない。アイ・ベックさんには通じないのでメッセージを残しておいた。オーリャさんは、今日はたぶん忙しくてだめ。カーチャだけが、夕方から会えるかもしれないと言うことだった。 フリータイムのときにしようと思っていたのは、国立博物館を訪れることだ。オーリャは、この日勤務日でないので、会えないが、一応、2時半ごろ博物館前広場に着いた。ユルタ(遊牧民の伝統的移動式住居)が2基あってお土産などを以前は売っていた。今、一つのユルタには旅行案内所とも書かれている。入ってみるとトゥヴァ人の女の子がデスクに座っている。どんなコースがあるのか聞いてみた。塩湖や鉱泉のコース、数日後にあるナーデム(民族祭)見学のコースと教えてくれる。トレ・ホレ湖へは行けないだろうか、行けるとしたらいくらぐらいだろうか。彼女は何箇所か電話していたが、 「4000ルーブルです」と言う。安すぎる。国境地帯なので許可を取らなくてはならないし、高駆動車で片道1昼夜もかかるのに?彼女は、トレ・ホレ湖はどこにあるのか知らないようだった。電話の相手はチャダン市の近くにあると思っていたそうだ。チャダンまで4000ルーブルなら高すぎる。
と言う訳で、この旅行案内所のお姉さんたちに私の連絡電話番号を置いて、引き揚げた。 博物館の窓口のおばさんにオーリャさんに会いたいと言ってみる。今日は来ていないが家に電話してあげると言われる。おかげで、今、私がクィズィールに来ていること、できたら会いたいと、再度伝えることができた。 窓口にはチケットの料金表が張ってある。ここも外国人料金は200ルーブルと2倍以上の値段だった。知らんぷりしてチケットはいくら、と聞いてみると40ルーブルと言う。私は外国人に見られなかったばかりか、年金生活者用の割引チケットで入れたわけだ。ここでは女性の年金受給年齢は50才だろう。 6時頃まで、博物館にいた。 |
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クンドゥストゥグ(ビーバーの)泉、鉄道終着点 | ||||||||||
家に帰っても、まだタチヤーナ・プルドニコーヴァさんは帰ってきてなかった。この日はカーチャから夕方電話があった。タチヤーナさんのアパートまで、知り合いの車で迎えに行くと言う。それは右ハンドルのホンダ・ストリームで、運転していたのは国家保安庁に勤めているというロシア人男性だった(カーチャのボーイフレンドか)。
1時間ほどドライブしたのだが、いい車だと感心してあげた。クィズィール市郊外のクンドゥストゥグ鉱泉場へ行く。カー・ヘム(小エニセイ川)畔にも同名の村と鉱泉場があって、こちらが名前の由来の本物だと主張しているらしいが、首都クィズィールに近い方がにぎやかだ。3匹のクンドゥストゥグ(ビーバー)の彫刻や、この鉱泉が4-8世紀の突厥時代に開かれたという説明書きもロシア語とトゥヴァ語で書かれ、鉱泉が流れる樋も多い。 クンドゥストゥグがクィズィール市観光の名所になったのは鉱泉ばかりではない。ここが今話題の『クラギノ〜クィズィール新鉄道』の終点クィズィール駅の建設予定地だからだ。クラスノヤルスク地方を通るシベリア本線鉄道の支線アバカン・タイシェット線(既設)のクラギノ駅からクィズィールまで400キロの鉄道を敷く企画に、2009年ぐらいから、本格的に資本投下がされ始めた。まず、鉄道が通るラインが確定され、その沿線の考古学調査が始まったのだ。未盗掘のため精巧な黄金細工の発掘物で有名だった『アルジャーン2』古墳のある『王家の谷』(ウユーク盆地)も通るため、大々的な考古学発掘がサンクト・ペテルブルクの研究所主導で行われている(「4の『王家に谷』へ」参照)。だが、まだ実際にはどの部分にも建設工事は始まっていない。 しかし、ここにはトゥヴァ風の立派な門があり、鉄道線路がたった100mばかり敷いてある。この枕木も砂利も本物の100mの線路も、象徴的なものだ。というより、わざとらしい。プーチンが来てこの基礎の一歩(枕木の釘でも1本打ったのか)を築いたと言うのも、もっと見せものっぽい。新鉄道建設の目的は、トゥヴァの地下資源を『ロシア本土』に持ち出すためだから、トゥヴァ人の多くは建設に否定的だ。プーチンとしては、19世紀末のシベリア鉄道の終点ウラジオストック駅の基礎の一歩を、1891年当時、日本から帰国中のニコライ皇太子(1894年からニコライ2世)が築いた、と言うことをふまえているつもりなのだろう。 国家保安庁の少佐だと言うホンダ・ストリームの持ち主は、私たちと一緒に写真を撮りたがらなかった。外国人と一緒に仲良く映っている写真は職務上さしさわりがあるのだろう。しかし、私の国境地帯テス・ヘム地域通行許可が出なかった理由を調べてあげると言ってくれた。カーチャが後でそっと言うには、彼にはそんな職権はないそうだ。どちらにしても、今回はカーチャにもその少佐にも再度会う機会がなかったので、わからない。 この日、やっとタチヤーナ・プルドニコーヴァさんは調査旅行から戻ってきた。 |
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7月7日(日)ドゥゲー山麓 | ||||||||||
午前中はタチヤーナ・プルドニコーヴァさんも休んでいた。午後からセルゲイさんのニーヴァに乗って4人でアパートを出た。ナターシャさんのお土産の買い物に付き合う。5日前にパーシャにつき合った民芸品店だ。私はロシアでは自分用の書籍以外のお土産は買わない。 しかし、この日、車で出かけた目的は、小姑の買い物をじりじり待っていたタチヤーナさんのダーチャに行くことだった。長期の調査旅行で水もやれなかった菜園の様子を見なくてはならない。クィズィール市民のダーチャ団地はエニセイ右岸にある。ドゥゲー(トゥゲー、ドゲー)山のふもとだ。買い物の終わったナターシャさんたち4人で行ってみると、土地がやせているのか、気温が低いのか、水分が足りないのか、見事な菜園ではないが、それでもキュウリは小指ほどになっているし、ジャガイモの小さな花が咲いていた。
セルゲイさんとナターシャさんと私は、タチヤーナさんをダーチャに残して、エニセイ右岸の観光に出かける。2012年にネルリさんやアンドレイさんたちと来た時、ドゥゲー山のふもとにある岩画を見損なった。私だけ、別行動を取っていたからだ。その後ネルリさんと探したが、見つけられなかった。タチヤーナさんたちはもちろんその有名な岩のあるところを知っている。自分のダーチャ団地『ヴァヴィロフ・ザトン(ザトンは淀、入り江、川船の停泊・修理所の意)』の近くだった。 ドゥゲー山はエニセイの右岸にあって、高さは1000m余、西サヤン山脈の支脈ウユーク山脈の一部となっていて、古い時代から神聖な山として信仰されていた。しかし、20世紀ロシア革命以後、首都から見上げることのできるドゥゲー山の役割は変わってきたのだそうだ。ソ連崩壊前は『レーニン』と言う文字が斜面に大きく白文字描かれていた。その前はトゥヴァ人民共和国(ここでは直訳すると牧畜の国だから『牧夫共和国』)の略字『TAP』だった。ソ連崩壊後は『トゥヴァ』と書かれたり、『クィズィール』と書かれたり、ロックグループの名前だったり、英語で『Lave』だったり、女性名の『ガーリャ』だったり、『ニーナ』だったそうだが、今は『ドゥゲー』に落ち着いている。 ドゥゲー山の頂上からはビー・ヘム(大エニセイ川)とカー・ヘム(小エニセイ川)の合流点、ビー・ヘムとドゥゲー山の間の草原テラス(河岸段丘)のドゥゲー・バールィ、エニセイ川のヴァヴィリオン中州、遠くには西サヤン山脈の山並み、クィズィール市の町並みが見晴らせる。ちなみに、ドゥゲー山の頂点ではないが、クィズィール市からよく見える南西の斜面には『Ом ма-ни па-дме хум オン・マニ・パド・メー・フン』と言う観音六字のマントラ(真言)が長さ120m、幅20mで書かれていて、こちらの方も名所になっている。一方、頂点の方には15mの高さの黄金の仏像を建てる計画だそうだ。 ドゥゲー・バールィには中世のクルガンがいくつもあって、崩壊寸前のため近年その何基かが行政発掘された。またドゥゲー山には幾つもの岩画が確認されている。近世のものもある。 タチヤーナさんのダーチャの近くにある岩画も、もしかして近世のものかもしれない。斜面の下、草原の中にめり込むように3mくらいの岩がただ1個あり、その一面に10匹ほどの動物の絵が打刻されている。なぜこんなところにポツンとあるのか、どこかから運んだものなのか、まだほかに周りに岩があったのかわからない。 セルゲイさんはウルッグ・ヘム(エニセイ川)とビー・ヘム(エニセイの源流の一つの大エニセイ川)右岸を、ナターシャさんと私のために案内してくれた。ユルタ・ホテルがあるそうだ。2004年に私が滞在した『アイ』だろうが、入り口が見つからなかった。 この先にビー・ヘムの渡し船場がある。このクィズィール市からドゥゲー山の麓とビー・ヘムの間の草原テラスを突っ切る20キロほどの道は、その渡し船基地に向かって続いているのだ。(この道をつけるため、ドゥゲー・バールィのクルガンは発掘調査されたのだ)。対岸にはカラ・ハーク村がある。ここに、ソ連時代国営畜産農場が作られた。つまり、この辺一帯を遊牧していたトゥヴァ人たちが、タプサ川(83キロ)がビー・ヘムに合流する所にあったタプサ村に集団農場を作って定住したのが、たぶん今のカラ・ハーク村だ。今でも、村の人口は1400人。20世紀初めのロシア語の地図にはカラ・ハーク村はもちろん載っていない。パージ・タプサと載っている。 ちなみに、カラ・ハークの奥、タプサ川のやや上流にはチェルビと言う村があって、ここは、もとシマコフカ村と言った。20世紀初めロシアからシマコフさんが家族と移住してきて開拓村を作ったからだ。当時、クラスノヤルスク地方に近いウユーク盆地やビー・ヘム、カー・ヘム流域にロシアからの移民村が多くできた。先住のトゥヴァ人は遊牧生活を送っていたので定住地はなかったが、季節移動の営地はあった。当時のロシアの農業移民たちは、遊牧のトゥヴァ人と経済的にもうまく住み分け、友好的に住んでいたらしい、と言う説もある。 今、チェルビ村の人口はカラ・ハークよりやや少ない1000人余。タプサ川の上流をたどっていき、ウルク・オー川(タプサより上流のビー・ヘムに合流する。延長107キロ)上流に出て、トッジャ地方へいく道もあるが、『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道ができた今は、もう産業道路とは言えない。 渡し船は、首都クィズィール市とカラ・ハーク村、チェルビ村を結ぶためにだけあるようなものだ。 対岸に渡されたロープを伝って、ゆっくり渡し船が往復する様子を私たちは眺め、写真を何枚も撮った。と言っても川岸には流木と雑草の間に石、さびた鉄とゴミしかない。船を動かしている男性たちも乗客もみんなトゥヴァ人だ。セルゲイさんは、 「どうだい、対岸へ渡ってみるかい?」とナターシャさんに提案していたが、彼女はあまり乗り気ではなさそう。だって、こんな渡し船はロシア中のどこにでもあるのだから。私は町に戻りたかった。と言うのは携帯にオーリャさんから電話があって、3時に博物館で会おうと約束していたからだ。 |
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トゥヴァ風の占い | ||||||||||
オーリャさんは約束の時間に1時間半も遅れて現れた。博物館内のオーリャさんの部屋でお茶を飲みながら、私のトゥヴァ滞在中の予定を考えていた。タチヤーナ・プルドニコーヴァさんはテス・ヘムから帰ってきてはいたが、次の調査旅行へはいつ出かけるか未定。ウユーク盆地では発掘をしているが、そこへもいつからどのくらい行くかは未定。ただ、私側の予定だが、19日にはクラスノヤルスクからスヴァトスラフさんが来てくれて、ヘムチック川方面に行くと言うことだけが決まっている。だから、この日からそれまでの11日間の予定を立てたかったのだ。クルガンのあるところ、岩画のあるところ、何か古代か中世の遺跡のあるところを教えてほしい、あまり高くない料金で、車でガイドと行きたいものだ、できることなら、オーリャさんと行きたい、と頼んだ。彼女は、知り合いに電話したり、メールを送ったりして探すと約束してくれた。実は、彼女は数日後電話してくれたのだが、その時は、私はクィズィール市にはいなかった。 オーリャさんがこの日、行きたかったのは占い師のところだったようだ。近々彼女に試験があるとかで、その結果を知りたいのだそうだ。試験の合格を念願する、でもない。 私の運命も占ってもらうことにした。トゥヴァはチベット仏教の国だが、シャーマン(呪術師)が影響力を持ち、ラマ僧(チベット仏教僧)でも病気になったり、何か困難なことがあったりするとシャーマンのところへ行くそうだ。また、占いはトランプで行う。トランプの起源はアジアだと言うから、ここで不釣り合いなことはない。ラマ僧でもトランプ占いをする。占い師のところへ行く前に新品のトランプを買った。新品でなければならないのだ。 もしかして、アジアの中央にあるトゥヴァ国の女性占い師に特別な霊力があるのかもしれない。少なくとも、自分の運命について、当たっていても当たっていなくても、誰かとしばらく話ができるのは興味深いことだ、と思って、オーリャさんについて行った。 トゥヴァは古いものの上に新しいものが、ちぐはぐに植え付けられている気がする。その女性占い師の事務所(仕事場)は、郊外に新しい資本で建ったばかりの西欧型スポーツ・センター内の狭い一室にあった。飾り箱が1個だけ乗ったデスクがあり、きりりとした顔つきの女性が窓際を背にして座っていた。依頼者はドア側のいすに座り、持ってきたトランプをさし出す。私は試験の結果ではなく、自分の家族との関係のことを占って欲しいと言った。占い師はトランプをシャッフルすると、私の姓名を聞く。次に私がシャッフルし、トランプを戻す。占い師の手の上に重なっているカードのどれかを私が引いて、そこから、彼女はデスクにカードを広げる。誰も、私の運命なんかには興味をもってくれないのに、ここでは占い師が真剣な顔でトランプの上に手をかざし、何かを見て(見えると言って)、私に知らせようとしてくれる。トゥヴァ訛りのロシア語だが私にはよくわかる。悩みを持つ人のための電話カウンセリングより丁寧かもしれない。シャーマン、または僧侶と話せば、それなりに満足できるのかもしれない。 デスクの上の飾り箱は謝礼を入れるためのものだ。オーリャはいくらでもいいから、入れておくように、300ルーブルでも400でも、500でもいいわよ、と言っていた。長くカウンセリングしてもらったので500ルーブルを入れておいた。 |
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牧夫像 | ||||||||||
オーリャさんとアイ=ベックさんで、像の足元まで上って写真を取る。 この先の近場名所と言えば、また鉱泉だ。昨日のクンドゥストゥグとは違って、こんなところに湧水が、と思うような、広い草原のまん中にある。トゥヴァは高度の高いところは山岳ツンドラ、盆地は沼地でなければ半砂漠の草原地帯。クィズィール市から南に延びる連邦道54号線も、草原の中を走る。タンヌ・オラ山脈までは、トゥヴァで最も広いトゥヴァ盆地の中でも低地で、塩湖も多い。 アイ=ベックさんが案内してくれた泉はトス・ブラクと言って、1996年に整備されたものだ。ロック(谷)・ブレンと言うウローチッシャ(場)が近くに会って、そうした場の名前のついたところは牧畜に適した草原なのか、農場がいくつかあり、泉の近くに家畜が水を飲みに来ていた。もちろん、湧水のところへは入らないように石囲いがしてある。家畜は、泉の下手に流れてくる水を飲んでいる。 トゥヴァにはこうした湧水場が、多く、有名なところは観光名所となっている。上水道のない田舎では川の水でなければ井戸水が生活の水だ。湧水は様々なミネラルを含んでいて、体にいいとされている。だから、その場で飲むだけではなく、手持ちのポット・ボトルに入れて持ち帰ったりする。 アイ=ベックさんと首尾よく会えたので、私がクィズィールに滞在する19日までの5日間、南のエルジン方面か、彼がラクダを運搬したと言うヘムチック下流のイイメ村とかへ行けないだろうかと頼んでみた。これもタチヤーナ・プルドニコーヴァさんの予定次第だ。次の調査地はどこで、いつ出発するのかしないのか、わからないと言われているので、自分の予定も立たない。カーチャもオーリャさんもアイ=ベックも、日時を決めてくれれば、それに合わせて自分の予定を組むのだが、彼らもすぐには決められないようだった。数日後に電話してくれたのだが、その時は、私はクィズィールから2時間のウユーク盆地に行っていたのだ。 |
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