クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 21 January, 2014  (追記:2014年2月21日、2018年11月4日,2019年12月9日、2021年10月19日、2023年2月9日)
31-(8)   トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (8)
    バイ・ソート古代灌漑跡調査
           2013年6月30日から7月27日(のうちの7月16日から7月18日)

Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)

月/日 『トゥヴァ紀行・続』目次
1)7/2まで トゥヴァ紀行の計画 クラスノヤルスク出発 タンジベイ村 エルガキ自然公園 ウス川の上と下のウス村 ウス谷の遺跡 クィズィール着
2)7/3-5 クズル・タシュトゥク鉱山へ 荒野ウルッグ・オー 夏のツンドラ高原 鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場の崖上 ビー・ヘム畔 ミュン湖から
3)7/6,7 トゥヴァ国立博物館 ビーバーの泉、鉄道終着点 聖ドゥゲー山麓 トゥヴァ占い 牧夫像
4)7/7-9 『王家の谷』へ 国際ボランティア・キャンプ場 考古学者キャンプ場 モスクワからの博士 セメニチ車 発掘を手伝う  『オルグ・ホヴー2』クルガン群
5)7/10-12 『王家の谷』3日目 連絡係となる 古墳群巡回 シャッピーロさん ショイグとプーチンの予定 パラモーター
6)7/13,14 地峡のバラグライダ 政府からの電話 ウユーク盆地北の遺跡 自然保護区ガグーリ盆地 バーベキュ キャンプ場の蒸し風呂
7)7/15 再びクィズィール市へ 渡し船 今は無人のオンドゥム 土壌調査 遊牧小屋で寝る
8)7/16-18 オンドゥムからバイ・ソート 金採掘のバイ・ソート谷 古代灌漑跡調査 運転手の老アレクセイ
9)7/19 エニセイ左岸を西へ チャー・ホリ谷 岩画を探す 西トゥヴァ盆地へ トゥヴァ人家族宅
10)7/20,21 古代ウイグルの城塞 石原のバイ・タル村 鉱泉シヴィリグ ユルタ訪問 心臓の岩 再びバルルィック谷へ
11)7/22 クィズィール・マジャルィク博物館 石人ジンギスカン 墨で描いた仏画 孔の岩山 マルガーシ・バジン城塞跡
12)7/24-27 サヤン山脈を越える パルタコ―ヴォ石画博物館 聖スンドークとチェバキ要塞跡 シャラボリノ岩画とエニセイ門 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 クラスノヤルスク

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。

7月16日(火)オンドゥムからバイ・ソートへ
オンドゥムとバイ・ソートの拡大地図はこちら
 この日も朝から真っ青なトゥヴァ晴れだった。この小屋は、オンドゥム川の河岸段丘の上、低い丘に囲まれた草原広場にある。今は使っていない遊牧基地だろうか、小屋の横に家畜用の囲いがあった。夜間家畜を入れておける。だから、猟師小屋と言うより遊牧基地らしい。離れたところにトイレ小屋もあり、小屋の前にはあずまやもあり、つるし手洗いバケツをかけられるような柱まである。小屋には2台のベッドの他に使用可能かどうかわからないが暖炉まである。夏場なら十分に長期滞在できる施設が整っている。だから、鍵はかかってはいなかったが誰かの持ち家なのかもしれない。
 小屋の前のあずまやで朝食を済ませ、食器などは、オンドゥム川に戻って洗い、私以外の3人は仕事を始めた。オリガさんによると、川向こうの山から石灰を採掘していたそうだ。オンドゥム川の、私たちがいる方はなだらかな崖だが、対岸は絶壁のようになっている。
無人の遊牧小屋の前のあずまや
オンドゥム川のオリガ・アユノヴァさん
水浴び後のタチヤーナさん
ベルディル山頂上、エニセイと対岸が見える
家畜の墓場

「ちょうどいい緩い絶壁だから、登ってみると面白いよ、上から眺めると気持ちいいよ」と、オリガさんに勧められる。私は、土を掘るのも絶壁を上るのもパスしてぶらぶらしていた。
 オリガさんも言っていたが、対岸の石灰を採掘していたのは、矯正労働収容所の囚人だった。つまり、昔はトッジャ・トゥヴァ人の遊牧地であり、今は無人のオンドゥム地方には、スターリン時代に収容所があった。今でも建物や洞窟の跡が残っているそうだ。ちなみに、近年、この無人地帯で大麻を不法に採集している、とか帰国後調べたネットに出ていた。
 古い地図を見ると、オンドゥム川中流域辺りにオンドゥムと言う営地(基地・集落)がある。ここへ来る途中にユルタが数基張られている場所があったが、そこがオンドゥム小村かもしれない。

 12時近く、ここでの仕事を切り上げたタチヤーナさんたちが、オンドゥム川辺に戻ってきて、私と一緒に花を摘んだり対岸へ行ったりしてくれた。対岸の絶壁の下は沼地だ。自然のままの川とは、そんなものだ。今の季節、オンドゥム川は深さが20センチもない。もし、1メートルもあったらタチヤーナさんたちは、服を全部脱いで水浴びしたに違いない。後で濡れた服を着ないでいいように。が、20センチの今は上着だけ脱いで、水をかぶっていた。私は、またも、眺めていただけ。

 次の調査地はバイ・ソート川中流だが、オンドゥムから直線距離ではとても近い。オンドゥム川はカー・ヘム(小エニセイ川)の下流15キロのところで合流し、バイ・ソート川は70キロくらいのところで合流する。両地点ともカー・ヘムの右岸だから、タチヤーナさんは、オンドゥムを下って(川に沿った道はないが、だいたいその近く)、カー・ヘム川岸のハヤ・バッジ村の橋近くに出て、バイ・ソート行こうと言う。ハヤ・バジまで出れば、そこからアスファルトの道がバイ・ソートの入り口のクンドゥストゥグ村へ通っている。これは、来た時の逆にカラ・ハークの渡し船で、対岸(ビー・ヘム右岸)まで出て、クィズィール市(ウルッグ・ヘム左岸)を廻り、カー・ヘム町(カー・ヘム左岸)を通り、ハヤ・バッジの橋を渡ってまた対岸(カー・ヘム右岸)へ出るより、ずっと近い。(カー・ヘムにはハヤ・バッジ村近くの橋が1本かかっているだけ)
 だが、オリガさんが断固反対。オンドゥムからバヤ・ハジへの道は悪く、道に迷うこともあるし、車が動かなくなることもあり、この地帯は無人だから、危険である、と譲らない。やむなく、タチヤーナさんが譲って、老アレクセイ運転のジープで、私たちはだいたい元来た道を戻ったのだ。タチヤーナさんの目的の一つは偵察だから、全く同じ道ではなく、古代灌漑用水跡を探しながら進んだ。途中で車を降りては、オリガさんと遠くまで歩いて行き、石臼の断片などを拾ってきていた。これは農業をやっていたという証拠ではないだろうか。
 タチヤーナさんは斜面に横筋の様に見えて、周りとは違う草のラインを指し、用水路跡の可能性があると言う。長い間水が流れていたから土壌が周りと違っているはずだ。確かに山頂から自然に流れる水路である窪は垂直に近い。斜面に水平にわずかに傾斜をなして見える線は、山頂から流れる水分を集めて灌漑農地に流す水路であったに違いない。今、トゥヴァでは耕作は盛んではない。古代から、この地の住民はスキタイ『騎馬民族』、突厥『騎馬帝国』などと呼んできたが、しかし彼らも牧畜だけに従事したのではなく、農耕民でもあったのだ。この広い草原の灌漑ができれば農耕も可能だ、と言うのがタチヤーナさんの仮設だ。
 カー・ヘム(小エニセイ川)とビー・ヘム(大エニセイ川)の合流点、クィズィールとは斜めの対岸にはベルディルと言う岩山がある(ここも無人のオンドゥム地方だ)。北からのビー・ヘムと東からのカー・ヘムは、この岩山を迂回しなければ合流できない。ベルディルは神聖な山とされ、オヴァーも建てられている。頂上に登ると、クィズィールの町や川の流れが見晴らせる。
 タチヤーナさんはビー・ヘムとカー・ヘムに挟まれたこの無人地帯を、できるだけくまなく偵察したいので、真っ直ぐには渡し船発着場の方向へ行かなかった。と、あるところに、草が生えていない一角があり家畜の白い骨がばらまかれてあった。オーリャさんが、「あっ」と言う。早くここから遠ざかった方がいいそうだ。家畜の墓場ではあるが、なぜ火葬にしてあるのか。危険な伝染病で死亡した家畜の墓場だそうだ。たとえば、炭疽熱(シベリア疫病、シベリア潰瘍)のような。
金採掘のバイ・ソート川谷、大麻採集も
 渡し船の船着き場に着いたのは3時、また、ぐるりとクィズィール市を廻り、カー・ヘム左岸のカー・ヘム町を通る。ついでなのでカー・ヘム町の市場で食料を買い込む。私は食後のお茶の時に食べるチョコレートを1キロ買う(何せ、量り売りだから)。4時過ぎにはカー・ヘム町役場でプロホディコ博士の出張証明書にサインをもらう。研究費を使って野外調査を行う場合は最寄り役所の証明が必要だ。
 ようやく、ハヤ・バッジの橋を渡って、カー・ヘム(小エニセイ川)右岸に出て、クンドゥストゥグ村手前の『タルダン・ゴールド』と標識のある角をまがったのは5時半だった。曲がるまでの『クィズィール=サルィグ・セプ』道はアスファルトだが、タルタンへ左折した途端に悪路となる。『タルダン・ゴールド』と言う近代的な金採掘工場に通じる道にしては状態が悪い、とオーリャさんが文句を言う。道はバイ・ソート川(44キロ)に沿ってあり、バイ・ソート川は中下流でせきとめて、ため池が作られている。ため池を過ぎたところで、私たちの迷彩色のジープを見て逃げて行く上半身裸の少年2人の後ろ姿が見えた。逃げる先には車が止まっている。オーリャさんによると、大麻の花粉を裸の背中にくっつけて回っているとか。私たちのジープが検察官のとよく似ているので急いで逃げて行ったのだろう、とか。
写真の中央に逃げていく少年二人
バイ・ソート川河岸段丘、車とテント

 オーリャさんも文句を言う悪路はバイ・ソート川の右岸へ行ったり左岸へ出たりして通じている。タチヤーナさんが、この辺で、と言うところで車を道路脇に入れる。たぶん悪路を15キロほど来た。道からは見えないところにテントを張った方がいい。そこは、バイ・ソート川左岸の低い崖上だった。だから、崖を降りれば、水もある。せっけんとタオルを持って降りれば、体も洗える。しかし、川岸は沼地になっていたので、食器を洗いにたびたび降りるのは不便だった。老アレクセイにバケツで水を汲みあげてきてもらって洗った。タチヤーナさんは私に、
「(ただ、水洗いでなく)フェリーで洗ってよ」と言う。昔(ソ連時代)、台所で食器を洗う時、液体台所用洗剤というものはなく、ガーゼか雑巾に石鹸をこすって油汚れをとっていた(私はその方が好きだ)。エリツィンの時代になって輸入液体洗剤が現れた。その商品名が『フェリー』だった。最近は様々な商品名の国産物も出回っているが、エリツィン時代に食器を洗った人たちは『フェリー』を液体台所洗剤の一般名詞のように使っている。それはロシア国内だけだが、私たちによく知られている例として、『ナイロン』がある。元々デュポン社の商品名だったが、今はポリアミド系合成繊維の総称として一般名詞になっている。
 火を焚いて、夕食を作り食べ終わっても、まだまだ明るい7時だった。私以外の3人は、スコップを持って、タチヤーナさんが用水跡だと言う道路向こうの丘へ出かけて行った。バイ・ソート谷は、クィズィール・タシュティク(クズル・タシュトゥク)鉱山へ通じるコプトゥ(ホプトゥ)川谷と平行してあるが、コプトゥ川より短くアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈を越える道もない。が、下流は広く、バイ・ソート川を利用した耕地も広がっている。私たちが野営することにした中流域も、コプトゥ川のような深い谷間ではなく、低い丘の連なる草原で、丘の上に登れば、かなり遠くまで見晴らせた。
 老アレクセイが「スグリ類が実を付けている」と言った川岸は沼地で、と言うことは蚊も多いので行かなかった。することもなかったので、3人が土壌調査している草原にでかけた。地上は緑にうねり、真っ青な空低く紫色の雲が伸び、中空には白い半月がくっきり見えた。遠く丘の中ほどにはオーリャが立っていた。自分が目印になるためだ。反対側の丘にはタチヤーナさんが土地を測っている。
7月17日(水)バイ・ソート古代灌漑跡調査2日目
 昨夜暗くなる前に張ったテントは3室4人用の大きめのものだった。真ん中が入り口の間となってその両側に2人用の部屋(?)がある。この立派なテントはタチヤーナさんに新たに支給されたもので、彼女も張り方を知らなかった。私たちは4人がかりで長い時間をかけて、骨を指し込みロープで固定して建てあげた。右側の部屋にはタチヤーナさんとオリガさんが寝て、左側は私とプロホディコ博士が寝袋を広げることとなった。彼女の提案で、私たちはトランプのように足と頭を並べて寝た。地面の上はごつごつして、崖の上に建てたのでやや坂になっていた。彼女は時々、
「ああ、早く自宅のソファベットに寝たいわ」とため息を漏らしていた。背骨に支障のあるプロホディコ博士には無理もないことだ。一方、不眠症の私は、毎晩いつもの2倍の眠剤を飲んで寝ていた。
 テントは、タルダン・ゴールド社への道路からは見えないところに張ってあったが、こちらからは、砂煙をあげて通り過ぎる大型車の音は聞こえる。砂煙も見える。こんなところにしてはかなり頻繁に通って行ったと思う。と言っても24時間で数台。
 7月17日(水)。昨晩、火をおこして三脚を立てて鍋ややかんをつるし、スープを作った場所にまた火をおこし、朝ご飯を作って食べる。実は、昨晩は火をおこすのに失敗した。と言うのは、場所が悪くて周りの草に燃え移って小さな火事になり、私たちは足で踏んだり枝でたたいたりして、あわてて火を消し止めたのだ。
 3人は朝食後、道具を持って穴を掘りに行った。いつも、真っ先に食卓(?)から立ちあがるのはタチヤーナさん。スコップを持って先頭に立つのも彼女だった。調査結果をもとに論文を書かなければならない。私は、せめて『フェリー』で食器洗いに励んだ。そのあとは、テントの周りをうろうろしたり、彼女たちの穴を見に行ったりしていた。
テント近くの雑草大麻、左後方に私たちの車
土壌調査用試掘
温まっているのかタチヤーナさん
プロホディコ博士
遠景には調査のタチヤーナさんとオリガさん
『ウサギのキャベツ』とマオウ

 オーリャさんによると、大麻は至る所に生えている。テントと道路の間の雑草がまだらにはえている所を指して、「ここにもある」と言う。あまりまとまって生えていないから、上半身裸の少年も体にこするつけには来ないし、タルダン・ゴールドの大型車の巻き上げる砂煙で、ここの大麻はおいしくないのかも。
 まずそうな大麻の写真も撮る。タチヤーナさんたちの掘った穴の写真も撮る。プロホディコ博士は、ミニふるいなんかも持参して、ふるった土をナイロン袋に詰めサインペンで記入している。試薬もあって、注射器に詰めて層になっている土に注入している。その様子を撮る。
 トゥヴァ晴れの草原丘陵を歩きまわるのはとても気持ちがよかった、が少し退屈だった。草原の花は控えめなのが多い。道のかなたには『タルダン・ゴールド』社の青色の建物群が見える。タルダンと言う採掘場は古くからあったが、スウェーデンやアメリカの資本も入っているその『タルダン・ゴールド』社が操業を開始したのは1年ほど前だ。同社がトゥヴァに登録されたのは2004年。地元のクンドゥストゥグ村との間に、社会的援助、例えば幼稚園にマイクロバスを買うとか、カー・ヘム(小エニセイ川)の春の雪解け洪水の後片付けをするとか、村で生産した食品を購入するとか、従業員の30%は地元から雇用するなどの約束があるそうだ。草原の中に基礎工事をしたやや高台に青い柵で広々と囲まれて、遠目にも近代的で整然とした青い建物が聳えている。バイ・ソート中流域は、数キロ毎にユルタが建っているようなトゥヴァらしい地なのだが。
 数年前に現地社長が賄賂とかで告発され、今の社長は、タチヤーナさんの同級生とか。それは、オンドゥムにいた時からタチヤーナさんは繰り返していた。それを聞いたとき、私は『タルダン・ゴールド』の工場見学でもできるかと思ったくらいだ。もちろん、行っても入れてはくれない。
 近代的工場で、敷地内には従業員用の宿舎もある。インターネットも通じるし、ワイファイもあるそうだ。クィズィール・タシュティク(クズル・タシュトゥク)鉱山同様に、昔のままの大自然の中、突然現れた現代の(周囲から見れば未来社会のような)『点、飛び地』なのだ。

 土壌学サンプル用の穴掘りはなかなかの重労働なので、老アレクセイにも手伝ってもらっていた。普通、彼女ら、博士や準博士は自分で掘ることはない。学生やバイトを連れていく。今回、私やプロホディコ博士の希望(私は観光、博士は調査)を一挙に消化しようと思ったのか、戦力にはならない若くない女性4人のグループになってしまったのだ。
 テントを張った場所はバイ・ソート川の低い崖の上で、放牧中の牛の群れも水を飲みにやってくる。テントを踏みつぶされては大変だ。老アレクセイが、テント場を離れている間、牛が近づかないよう番をしてほしいと頼まれた。どうやって、番をすればいいのだろう。近づいてきたら、枝などで追い払いことも私はできないし、怖い。タチヤーナさんの言うには、日本語で精いっぱいの大声で悪態をつけばいいそうだ。日本語では、私の知る限り、罵倒言葉はロシア語ほど豊かではないが、罵詈雑言で牛が罵倒されるかどうか、試してみる機会は幸いなかった。
 まだ明るい夕方の9時頃、彼女たちはひと段落ついたのか、みんなで散歩に出かけた。散歩と言うより地形の偵察だが。草原にはコミヤギカタバミ(ウサギのキャベツと民間では言う)や、何か妖しげな赤いマオウと言う花などが咲いている。丘を上ったり下ったりして進んでいくと、農機具の残がいが捨ててある。こんな遠いところまで不燃物をわざわざ捨てに来たのか、とオリガさんに言うと、笑われた。後で地図を調べてみると『10月(革命)30(周)年』と言うコルホーズの跡とわかった。ロシア10月革命30周年と言えば1940年代末だ。そのころ、ソ連邦に合併されて間もないトゥヴァのこの地にコルホーズができ、その後合併されるか廃止されたのだろうか。今は、錆びた粗大ゴミが草の間から見えている。わざわざ捨てられたものではなく、それまで使っていた場所にただ放置されただけなのだ。
 日の落ちた頃、プロホディコ博士は先に帰って行った。慣れない終日の肉体労働で力尽きたのだろう。10時を過ぎても空は青色だったが、もう明かりがついている『タルダン・ゴールド』社が紫色の丘を背景に小さく見える。私たち3人は、丘伝いでは暗くなって迷子になるとやばいので、帰りは道を通ることにした。
 1日数台のうちの1台が通りかかる。不格好で泥だらけの大型車だった。私たちは砂埃を除けて横の草原に入ったが、意外なことに、車は私たちの側で止まる。ロシア人らしい男性が降りてくるので、タチヤーナさんは「こんにちは」と言って近づく。運転手は、どうやら、こんな人里離れたところを薄暗い中、土地のものでもないような妙齢の女性3人が歩いているので、好奇心から止めたらしい。運転手によると、このタンクローリー車はアバカン市からノンストップで『タルダン・ゴールド』へ燃料を届けに行くところだそうだ。タチヤーナさんは、
「タルダン・ゴールドの社長のセルゲイ・バイカロフは私の同級生よ、よろしく伝えておいてね。今度ブランデーを持ってお客に行くわよ」と言っている。
7月18日(木)運転手の老アレクセイ、3機のヘリコプター
 この日は、もうバイ・ソート左岸で仕事をしないでクィズィールに帰ることになっている。今日中に帰らないと、19日金曜日の早朝にタチヤーナさんのアパートに来ることになっているスヴァトスラフさんに会えない。
 朝食の後、出発前にプロホディコ博士は、バイ・ソート川に石鹸とタオルを持って降りて体も洗ったようだ。この川の水は川上に採金場もあるから、本当はお勧めではない。私は飲み水用としてはミネラル・ウォーターを何本か持ってきていたが、食器など洗ったのは、川の水だ。4日間ぐらいだったからまあいいか。
 10時過ぎ、老アレクセイの車で出発する。バイ・ソート川の右岸に出て、タチヤーナさんたちが土壌を調べながら、お昼過ぎにはクンドゥストゥグ村に出ると、言う。バイ・ソート川右岸に出ても、『タルダン・ゴールド』社の青色の現代的建物が、丘陵草原の緑の中どこまでもよく見えた。羊の群れも、私たちの車の前を横切って行った。3人の少年が追っていた。外国資本の採掘工場と羊の群れとは、最近のトゥヴァの典型的な光景なのだろう。家畜を囲っておく木の粗い柵も、遠くの整然とした青い『タルダン・ゴールド』の塀を背景に見える。
左遠景に『タルタン・ゴールド』社
 30分も進んだ右岸の丘の上で車を止め、土壌調査を始める。低い丘が連なっているが、広大な草原と同じような見晴らしのよさ。丘の上なので、バイ・ソートの川に沿って生えている緑のライン見える。草原の中、樹木の細い帯があると、それは川の流れだ。丘の頂上に近いところにもまばらに樹木が見える。ここからは『タルダン・ゴールド』社の裏側の斜面で露天掘りをしているのも見える。斜面のそこだけ白くなっていた。性能は良くないが望遠レンズで撮った写真には、クレーン車などの作業車も映っている。オリガさんは古いソ連風教育を受けているのか、撮らない方がいいと言う。昔は、「こんなところが?!」と思うようなところでも撮影禁止だった。
アレクセイが沸かしてくれたお茶を飲む

 『タルダン・ゴールド』社の他は、ただただ雄大な自然だ。眠くなったので、老アレクセイさんが川岸の木陰に移動させてくれた車の中で寝る。我ながら、戦力にもならないお荷物で、悪いなあと思って。3人は穴を掘っている。
 起きると、アレクセイさんが火をおこし、バイ・ソートの水をやかんに入れ、お茶を沸かしてくれた。仕事をしていた3人も集まって軽食をとる。
 アレクセイさんは、トゥヴァは『16世紀』にロシア人が来るまでほとんど無人の地だったと、私に言う。(ィエルマークのシビル・カン国征服の直後からシベリア中にロシア人が広がった、というイメージを老アレクセイは持っているようだ。史実は、16世紀後半モスクワ公国のィエルマークがウラル東のシビル・カン国に進出し、それ以降、17世紀半ばにはオホーツクまでコサック兵が到達していたが、それは木製の砦をつくって点線のように伸びていったので、19世紀末までシベリアへの農民移民は極小だった)。クィズィールを作ったのはロシア人だ、カー・ヘム(小エニセイ川)の村々もすべてロシア移民が開拓したものだと言う。誰のものでもない地にロシア人が来て住むようになったのがトゥヴァだと言う。
 「いや、トゥヴァ人は中世のころからこの地に住んでいたでしょう」と、これには真面目に反論する私。老アレクセイは、トゥヴァ西部のヘムチック流域にわずかトゥヴァ人がいただけだ、と言う。老アレクセイの知識からはそうかもしれない。カー・ヘム沿岸やクィズィール周辺の村々の名は、一昔前までは、初めに移住したロシア人(農民としては古儀式派が多かっらたしい)の苗字などのロシア語を語尾変化させたものだ。しかし、たまにユルタの建っているだけの草原は無人ではなく、遊牧のテリトリーとしていた氏族のものだ。そして村の名前がロシア語だったのも、地図を作ったのがロシア人だったからだ。老アレクセイは、
『ブレン・ヘム100年』などと言っているが、それは嘘っぱちだ。あれはロシア人の古いズーボフカ村ではないか」と怒って言う。(ブレン・ヘムの旧名はズーボフカ村といい、クラスノヤルスク南部から1912年にこの地に移住したズーボフ兄弟が、開拓したからその名がついた)。さらに、トゥヴァ人は危険だから気を付けるように、というお説教を老アレクセイは長々と私にする。

 トゥヴァでロシア人は今、少数派となっている。ソ連崩壊後、多くのロシア人は去った。残っているロシア人は20世紀初め以前に移住してきて、もうトゥヴァに融け込んでいる農業移住者(古儀式派が主だと思う)か、タチヤーナさんたちのような専門家が多い。後者は、1990年代の民族紛争後も、職場があるのでとどまっているが、退職後はロシア本土に行く見通しを立てている。例えば、タチヤーナさんは子供たちをクラスノヤルスクやモスクワに住まわせている。老アレクセイはどちらでもなさそうだ。正規のタクシー運転手でもなく、自分でも『もぐり』だと言っていた。トゥヴァ人はロシア人のことはあまり良くは思っていないが、ロシア人の方も上から目線で見ている。

 3人は、かなり深い穴を数か所掘っていた。タチヤーナさんは率先して、ここを調査しよう、と先に進む。後ろの私は
「何てタチヤーナさんはエネルギッシュなのでしょう」と、感心すると、オリガさんは、
「地質調査の期間は短いから、力を振り絞っているのよ。家に帰ったら、ダウンよ」と言っている。
 夕方の5時ごろ、日は高く真っ青な空に2機のヘリコプターが飛んでいく。地上からでも大型で立派に見える。その後また1機のヘリコプターが同じ方向に飛ぶ。タチヤーナさん達みんなは、プーチンと国防相ショイグが乗っているのだと言う。事実、この時期にトゥヴァで大きな魚を釣り上げたプーチンの写真が、ネットのニュースのアーカイブに載っていたから、2人でワイルドな休暇を過ごしていたのかもしれない。(トゥヴァ出身のショイグがプーチンを招待して、たびたびお揃いで過ごしている)
 この場所を引き上げたのは6時頃、タチヤーナさんのアパートには7時半ごろ到着し、私たち3人は、博士、私、タチヤーナさんの順にシャワーを浴びた。プロホディコ博士は、外見に気を使う余裕があり、バイ・ソートから帰る時も、村々が近づいてくると口紅をさし、シャワーの後は頭全体に細いカーラーを巻いていた。
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