クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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up date  2006年5月27日 校正・追記;2008年6月21日、2011年11月26日、2013年1月15日、2014年3月8日、2016年6月29日、2018年12月30日、2019年11月19日、2020年10月7日、2022年3月29日)
 16-(2)  トゥヴァ(TYVA)共和国旅行記(2)
                  2004年8月9日から8月21日

Центр Азии - Тыва с 9 по 21 августа 2004

1) トゥヴァ共和国について 2) 小エニセイ川に沿って 3)南へ。タンヌ・オラ山脈を越えて
   旅行会社を選ぶ    大エニセイ川の川くだり   国境のトレ・ホレ湖
   クラスノヤルスクから
   首都クィジール
   日本人観光グループ   昔の首都サマガルタイ
   モングレーク山麓の鉱泉場へ   クィジール市見物
   ユルタ村『アイ』    『ジンギスカン』像   ユルタ訪問
     青銅器時代の石画   トゥヴァ人民大学

 小エニセイ川(カー・ヘム)に沿って
 2日目、私たちグループの5人はユルタ村のオーナーのアルチュールの案内で、クィジールから小エニセイ川の右岸に沿って150 キロほど上流の方向へ、マイクロバスで出かけました。全長680kmの小エニセイは険しい山岳地帯を東から流れてきて、クィジール市で大エニセイと合流します。定期船は運航していません。小エニセイが流れる東部地方はトゥヴァの中でも人口過疎地帯で1平方キロに0.6人しか住んでいないと、統計にあります(日本は330人)。この小エニセイ川のほとりにロシア古儀式派(旧儀式派・スタロオブリャドСтарообрядчество)の隠れ村が点在しています。古儀式派というのは17世紀中ごろ、ロシア教会の改革が行われた時、それに反対した(下層)僧侶や教徒達です。弾圧を逃れてシベリアなどの辺境へ逃れてきました。私の住むクラスノヤルスク地方にも、辺鄙なところに古儀式派村がいくつもあって、自給自足で数家族が住んでいます。南シベリアのトゥヴァへ来た古儀式派の人たちは、先住のトゥヴァ人も疎らにしか住んでいないような小エニセイの中上流に、小さな集落を作って住み着きました。時代によって抑圧が強くなったりした時は、さらに奥地に入り込みました。今は、地図に載っているようなかつての古儀式派村のベリベイ村やシジム村などには、灯油やガソリン、マッチや塩といった自給自足の生活にも必要な品物を売っている店や、自家発電機で起こした電気もあって、世俗化していますが、さらに上流には、信仰堅固な小さな『修道院』村がいくつかあり、世の中からはすっかり隔絶して、数家族ずつ住んでいるそうです。

小エニセイ川をラフティングする他のツーリストグループ
 小エニセイはそのような古儀式派の集落が特にたくさんあって、トゥヴァの観光といえば、『古儀式派村を訪問してロシアの歴史を知る』というプログラムが入っているくらいです。観光客は、普通、クィジールから小エニセイ県の中心村サルィグ・セプまで85キロほどを車で来ます。そこで道路が終わるのでモーターボートに乗り小エニセイ川をさかのぼります。途中の岸辺に観光客用のバンガロー村がいくつかあります。そこに泊って、魚釣りをしたり、水浴びをしたり、いかだに乗って早瀬渡り(ラフティング)をしたり、ハンティングをしたり、近くの古儀式派村を訪れたりするのです。  
 
 私たちの日程はもっと簡単で、サルィグ・セプ村から先に道がなくても車でさらに進み、ベリベイ村の近くの渡し舟で左岸へわたり、そこの川原に4年前にできたという『ワシリエフカ』バンガロー村で1泊し、翌日、ベリベイ村の古儀式派宅を訪れるというものでした。でも、ここトゥヴァでは予定は予定、よく言えば、状況次第で臨機応変に変えていきます。それは、下見をしておくなどということはトゥヴァの旅行社はしないからのようです。初回の旅行客と一緒に行くのが次回への下見を兼ねるようです。つまり、私たちが、アルチュール案内のグループでは初回と言うことらしいです。ですから、行ってみて状況によって判断して、その先の行程を決めます。
 まず、車を渡し舟に乗せるにもかなり苦労しました。乗らないのではないかと思いましたが、乗せてしまうと、川幅に渡してあるワイヤーと川の流れる力で、動力なしに向こう岸に渡れます。トゥヴァだけでなくシベリアでは橋というものは大都市にしかなくて(それも最近できた)、たいていの川は渡し船で向こう岸に渡ります。
私たちの車を渡し舟に乗せる
 
{ワシリエフカ』の オーナーのワシーリィと
 トゥヴァ高原の南端を流れる小エニセイ川の川岸は人の気配がなく荘厳美そのものです。『ワシリエフカ』は小エニセイ川峡谷の少し開けた草原にあります。
 バンガロー村の設備の方は、3つの宿泊用小屋と食堂、蒸し風呂小屋がありますが、(私流に言うと)手入れがしてなくて、荒れ放題でした。私用の小屋は魚のにおいがし、マットレスが汚れ、窓にカーテンもなく、壁も穴だらけでそこに昆虫が巣くっていて、とても泊まる気にはなれないのでした。ガイドのアルチュールに「何とかして」というと、バンガロー村のオーナーに一応伝わったようでしたが、いっこうに改善されません。そこでオーナーに、直接「シーツもないわよ」と言いに行くと、やがてシーツをもった女性がバイクに乗って現れました。オーナーの嫁だそうです。「シーツを敷くぐらいではだめよ、部屋が悪いのだから」というと、その通りだといって、何もしないでバイクで去っていきました。バンガロー村は広いので、この人はバイクで移動しているようです。
 今度はアルチュ―ルを連れてオーナーのところへ行き「部屋で落ち着けないと、川で水浴びもできないでしょう」ときつく抗議すると、少しはましなベッドを運び込むから、それでがまんしてくれとのことです。アルチュールは運転手のサイ・ディム君と車の中で寝るそうです。「部屋を借りると、またどれだけ吹っかけられるか知れないから」と言っていました。
運転手のサイ・ディム君
 
 だいたい私達が到着した時には酔って寝ていたというオーナーとの交渉は、それで終わったわけではありません。シーツといって持って来た布切れから足がはみ出します。暑いのに日よけカーテンがありません。夜暗くなるのでランプがいります。それも、みんな3回ほど言わないと実行されません。2度目に言いに行っても「ちょっと待ってください」と言われます。それで「ちょっととは何分ですか」と畳み込むと「15分です」といわれます。20分後に「もう15分はとっくに過ぎているのに、まだですか」と言いにいかなければなりません。(後でわかったことだが、ロシア人宿泊客はこんなところでこんな要求はしない。オーナーの言うままだ。今回私の文句が意外だったから、オーナーも一応聞いたのかもしれない)。
 食事はいくら待っても出てこないので、台所を覗いてみると、準備している様子もありません。だいたい、食事を作れるような人(せめて、作ろうとする人)がここにいるのでしょうか。それを、アルチュールに言うと、さすが慌てたようでした。急遽、車で近くの古儀式派村(たぶんベリベイ村)へ走り、食料を調達し、料理人の女性を連れて戻ってきました。
 その日は、オーナーとアルチュールに文句を言いつづけて終わるのかと思っていましたが、料金に入っていたからかどうか、オーナーが出してくれたモーターボートに乗ったり、もう暗くなり始めた頃にたき上がったロシア式蒸し風呂に手探りで入ったり(電灯などというものはない)、蒸し風呂を出て横を流れている冷たい小エニセイにそのまま、つまり布はつけないでつかったりしました。その時は、モスクワからのターニャ親子に見張りをしてもらいました。この辺には人はいないので不必要ですが。
 次の日は朝から大雨だったので、川がまだ渡航可能で、帰り道が通れるうちに引き上げないと、こんなところに長期滞在になると言うので、古儀式派村見学も取りやめて、早々に帰途につきました。川は、まだ渡れましたが、道は案の定、ぬかっていてスリップして進みません。そのたびに、私たちは車から降りて、ぬかるみに草を敷いたり、後ろから押したりと、すっかり泥だらけになりました。

大エニセイ川(ビー・ヘム)の川くだり
 朝早く、小エニセイ川ほとりの『ワシリエフカ』を出発した上、隠れ古儀式派村へも行かなかったので、私たちは1時ごろユルタ村に戻ってしまいました。すっかりお天気も回復したようなので、午後は、予定表にはない大エニセイ川下りをすることになりました。
大エニセイ川の川岸に出てゴムボートを膨らます
 
 行っても行っても川と岸
 
 まず、ビニール・ボートを積んで、ユルタ村から上流の方向へ車で行きます。1時間も行ったところで舗装道路を出て、また、ぬかるみの野原を泥だらけになって、長い間突っ切り、川岸へ出ます。1時間もかかってビニール・ボートをふくらまします。そのビニール・ボートを川に浮かべると、みんな中に飛び乗りました。オールはありますが、普通は使わなくて、川の流れの速さで流されていきます。ボートが流れのないよどみに来た時や、岸辺にぶち当たりそうになったときだけオールを使います。岸から見ると川の流れは速そうですが、流れに乗ってみると、見た目ほど速くはありません。流れのままに、ボートは縦になったり横になったりして流れていきます。50キロほどの距離を5時間ほどでクルーズしたわけですから、この辺のエニセイ川の流れの速さは時速10キロのようです。岸辺には村ひとつありません。鳥が巣を作っているだけです。エニセイが侵食した絶壁や、なだらかな岸辺の草原、中洲などがかわるがわる現れます。ちなみに、大エニセイ川上流のトゥヴァの北東のトゥジャ県は、最も美しく、最も人口密度の低い地方です(1平方キロに0.1人)。
 ゴムボートや筏での川下りというラフティングは、夏のスポーツとして人気があります。自然派レジャー好きのクラスノヤルスク人たちは、エニセイ川の山の中の美しい支流を何日もかけて下ります。食料は釣った魚で、夜は陸に上がってテントを張って泊ります。エンジンも人力も不要で、川の流れが『動力』ですから環境にもいいですし、特に何もすることがないので、動きたくない人にも好都合です。
 私たちの場合は、わくわくするような早瀬や、どきどきするような激流もない安全な5時間程度のクルーズで、狭いゴムボートの上で全く何もしないで、流れのままに移り変わる景色を眺めているだけと言うのには、ちょっと長い距離でした。そのうち、また雨が降ってきて、川の上の風も冷たくなり、空も暗くなってきました。ユルタ村は大エニセイの川岸にありますから、私たちが到着するという頃、従業員が迎えに来て、ゴムボートを陸に上げてくれました。

 日本人観光グループ
『アイ』のオーナーのアルチュール
の甥。幼いときは頭髪を切らない
 その日は珍しいことにユルタ村『アイ』に、添乗員付きで15名くらいの日本人観光グループが宿泊しています。2泊するのだと、アルチュールが言っていました。
「彼ら、変わってる。クィジール市のホテルで2泊し、ここでも2泊するんだ。彼らの観光はサンクト・ペテルブルグの旅行会社が扱っていて自分はタッチしない。ユルタが珍しいから、ここに宿泊するらしいんだ」。確かに、4泊も同じクィジール市周辺で宿泊しなくてもよさそうです。クィジールは20世紀にできた新しい町で観光名所もあまりありません。その団体はクィジールに宿泊しながら、日帰りで見て回れるところ、例えば、市内、トゥヴァ人の本物のユルタ、スキタイ人のアルジャン遺跡などを見物するらしいです。トゥヴァにはクィジール周辺のほか、外国人が宿泊できるようなホテルはないので、クィジールをベースにして日帰り見物に出かけているのでしょうか。大きなバスで日程どおり観光するので、私たち5人組のように、マイクロバスで泥だらけになって奥地へ行くと言うことはしないようです。
 朝、挨拶すると「日本語がお上手ですね。どれくらい勉強しているの」とほめられました。長い間ロシアに住んでいるのであまり日本人に見えなかったのかもしれません。

 モングレーク山麓の鉱泉場へ
 日本人団体客が朝早く大型バスに乗って観光に出かけた後、私たち5人グループはトゥヴァの西の端へ2泊3日で出かける準備を始めました。といっても準備をするのは、ユルタ村オーナーでガイドのアルチュールと、その助手のブヤンや運転手のサイ・ディム君で、マイクロバスにテント、布団、まくら、なべ、薪、それに食料をぎっしり積み込んでいました。『ワシリエフカ』で懲りた私たちは、なんでも自分で持っていったほうが確か、と決めたのです。

ハイイルカン聖山
助手ブヤン君が羊の肉を焼く
私たちのテントと車
ウクライナからのサーシャと腹ごしらえをする
羊肉を持ちズボン2枚で膨れている私
↑モングレーク山の中腹↓
 
暑いのか寒いのかわからない出立になった 
 クィジールから目的地の鉱泉場までは約480キロで、そのうち400キロはエニセイ川に沿って東西に延びるトゥヴァ盆地を通り抜けます。この辺はトゥヴァの中でも人口の多いところです。盆地の南側にはタンヌ・オラ山脈が東西に長く延びています。この山脈より北へ流れる川はすべてエニセイ川に注ぎ込み、最後は北極海に流れ出しますが、南斜面を流れる川はモンゴルの草原や砂漠に出て、内陸の流出口のないウブス・ヌール湖のような塩湖に流れ込み、そこで蒸発して消えます。
 タンヌ・オラ山脈を左に見、エニセイ川を右に見て、100キロほど言ったところに、500メートルくらいの高さのハイイルカン聖山があり、小さな仏塔が立っています。その近くのダライラマが祝福したと言う聖地『七人の姉妹』前の草原で、私たちはブヤンたちが焼いた羊の肉を食べました。ちなみにトゥヴァでは羊以外の肉は出ませんでした。
 ここは聖なる丘が7つあるので『七姉妹』かと思っていましたが、出発してからアルチュールに聞くと、根元から7本に分かれている珍しいモミの木があるからだといいます。そういえばそんな木があって周りに、色リボンを縛る竿があった、と思い出しました。色リボンのような布切れを縛った竿またはロープはトゥヴァでは『チャラマ』と言い、神聖なところ、峠、鉱泉のほとり、土地の精霊に供え物をするところなどにおきます。
 夜、暗くなって、また雨が降った頃、やっと目的地のモングレーク山麓に着き、私たち旅行者5人が車から出ないで寒さで震えているうちに、アルチュールやブヤンたちがテントを張ってくれました。私たち旅行者は車の中でブランデーを飲んで体を温めてから、それぞれのテントへ寝に分かれました。この辺はラドン鉱泉が出るので、地元のトゥヴァ人も多く訪れてテントがたくさん建っています。(シヴィリグ鉱泉場
 
 次の日、起きてみるとよい天気です。まずは冷たい鉱泉を浴びてきました。粗末な木造の小屋がいくつか建っていて、そこで、パイプで引いてきた鉱泉の水を浴びることができます。
 それから、ブヤンたちが焼いてくれた羊肉などをたっぷり食べて腹ごしらえをしました。その日は、私たちは3485メートルのモングレーク山へ登ることになっています。もちろん頂上までは行かず、途中の2700メートルくらいまでです。それでも登って降りるには1日かかります。登山は苦手な私ですが、ここまで来て登らないでは一生後悔するでしょう。
 みんなと一緒に予定していた地点までは行き、遥かかなたのアルタイ山脈を見渡し、歓声をあげ、湧き水を飲み、高山の花畑に見ほれました。

 しかし、帰り道、近道を取ろうとしたアルチュールが道に迷ってしまうということが起きました。パニックにならないようお互いに励ましながら、下りに下って行きました。下っていけば必ず川に出会うでしょうし、この辺の山川はどれもヘムチック川に合流します。私はズボンを2枚もはいてきていたので、下りはお尻で歩きました。雨が降ったあとの草は滑ります。登りは心臓がぱくぱくしますが、帰りは膝ががくがくします。疲れて立ち止まると蚊の大群に襲われます。道のないところを草や小枝に掴まって、下へ下へと下っていきました。歩いている地面に突然洞(ほら)があって足を突っ込んで捻挫しそうになったり、知らずにハチの巣を触って刺されたり、手足を茨で引っかいたりしながら、何とかキャンプ地にたどり着きました。

 『ジンギスカン像』
 次の日は、足が言うことを利かないかと思っていたのですが、ちゃんと前後に動きました。この日は、トゥヴァ盆地にある遺跡を見物しながらクィジールまで帰ることになっています。
 クィジールまで、まだ300kmというところに人口5900人のクィジール・マジャリゥク村があります。人口1万5千人のバルン・ヘムチック県の中心です。その近くの広漠とした草原に古代テュルク人の石柱が一体立っています。トゥヴァの地にはこのような石柱が200基見つかっているそうです。これも、数年前偶然土中から見つかり、現在も見つかった場所に立っています。
『ジンギスカン』像とアルチュール
 口ひげを生やし儀式用食器を持っているこのような古代テュルク人の石柱はキルギスやハカシアにもたくさん残っています.でもこの石柱は顔つきがあまりに立派なので『ジンギスカン像』とさえいわれています。もちろん13世紀のジンギスカンよりずっと古く8世紀の突厥時代のものです。トゥヴァ人は「ジンギスカンの母親はトゥヴァ人だった」といっていますし、トゥヴァの民族的英雄の一人はモンゴル軍の武将スブタイ・バガティールだそうです。また古代ウイグル人の作った城壁跡を『ジンギスカンの道』と呼ぶなど、ここでは、なんでも古くて偉大なものはジンギスカンと結び付けられているようです。(『トゥヴァ紀行』、『トゥヴァ紀行続』参照

 青銅器時代の石画
 次に寄ったのはスィイン・チュレク(トゥヴァ語で『鹿の心臓』)山です。草原の中、ぽつんと突っ立ったピラミッド型をした小さな山ですが、この斜面に虎や馬、山羊、豹、人間、太陽などを打刻した岩石画がたくさんあるそうです。見ると斜面がかなり急です。高所恐怖症(かもしれない)の私には登れても降りられないかもしれません。アルチュールも「下で待っていた方がいいのでは」といいます。古代人にとってこの程度の斜面を上り下りするばかりでなく、打刻という芸術活動をするのも平気だったのでしょうか。運動神経のいい古代人芸術家でした。
『鹿の心臓』山
小山の急斜面を少し登ったところから。
古墳と、遠くに私たちの車

 私以外の観光客は運転手のサイ・ディム君までも上ってしまい、私はひとりで車の番をしていました。草原の中、周りには誰一人いなくて、退屈だったので、ともかく少しだけでも登ってみることにしました。ウクライナからのアントンやモスクワからのターニャはもうずっと先にいます。しかし、この岩だらけの急斜面を数メートルも登ると、やはり怖くなって座ってしまいました。下の草原には20個ほどのクルガン(古墳)が見えます。みんな考古学者たちによって発掘調査済みで、旅行案内書(モスクワ『アヴァンガルド』出版社、トゥヴァ共和国観光局との共同執筆)によると、このうち5つのクルガンでは葬られた人体が見つかったそうです。

 もう少し高いところに上れるかと立ち上がったところで、蜂の巣を触ったらしく刺されてしまいました。結局、また車に戻って、みんなが降りてくるのを待っていました。最後に戻ったサーシャが「すばらしい打刻画だった」と感動して話しています。そうでしょう。私は、ここまで来て、『鹿の心臓』山の有名な打刻画が見られなかったことが残念で仕方ありません。

 クィジールのユルタ村『アイ』に帰ってからも、その悔しさは増すばかりでした。アルチュールにそのことを言うと「石画ならここにもある」といいます。この『アイ』はクィジールから大エニセイ(ビー・ヘム)にそって20キロほど上流の川原に、数年前作ったものですが、その前は、ただの草原の岸辺だったわけです。宿泊施設を作る時、石画や住居跡が見つかりました。そんな場合は考古学者たちが調査するのですが、そうなると、アルチュールのせっかく作りかけたユルタ施設『アイ』の営業が延期になるか中止になります。それで、誰にも知らせなかったのだそうです。
 
 ユルタ近くの遺跡の一つ

 石画はユルタのすぐ隣の川岸の高みにありました。ここは河岸段丘になっているのです。住居跡らしいもの、壷の破片などもありました。石画は大きくて重くて動かせませんが、壷のかけらは拾ってわが家に持って帰りました。もしかしたら本当に古代人のものかもしれません。


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