クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
       В Красноярске       Welcome to my homepage

home up date 20 February, 2012 (校正2012年3月15日,6月12日,13年11月12日)
南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地の遺跡を回る
(2)サヤン山脈のチスタバイ村、ジェバッシ川畔の岩画
           2011年10月12日から10月16日(のうちの10月14日

Осенью снова и снова в Хакасско-Минусинской котловине( 12.10.2011-16.10.2011)

2010年ハカシア盆地 2011年クラスノヤルスク 2011年クラスノヤルスクからノヴォシビリスク経由オムスク、新シベリア街道の旅
ウスチ・ソース草原クルガン発掘跡 ウスチ・ソース野外博物館 ウスチ・ソース村(子沢山家庭)から大モナック村を通りマトロス山
アルバトィ村からジェバッシ川 クイビシェフ新石器時代遺跡 チストバイ村 ジェバッシ岩画 タシュティップ郷土博物館 瓶詰アジカ
カミシュタ谷草原クルガン 大カムィシタ・リング 聖なる湖バランコリ ウイバット寺院都市遺跡 トロシュキノ村古代鍛冶場 トロシュキノ村博物館 水没のサルガッシュ・クルガン
アンガラ川河口のウスチ・トゥングースカ村 クラスノヤルスク、アフォントヴォ遺跡


 小アルバトィ村からジェバッシ川
古い地図、ベヤ村からチストバイ村へ
(もっと大きな範囲の地図)
 クラスノヤルスクからハカシアへ来る途中の道で打ち合わせておいた通り、次の日10月14日(金)は、マーリェ( 小)・アルバトィ村の文化会館前で、タチヤーナ・チュクピエコーヴァ先生に会った。ベヤ村からアルバトィ村へは近道では昨日のマトロス山を越えると、60キロほどだが、それは車の通れる道ではないので、大回りすると、200キロほどあって2時間はかかる。というのは、アバカン川右岸のベヤ村からアバカン川左岸にでて、地方道(共和国道)161号線を120キロほど川上へ行き、アバザ市でアバカン川の左岸に出て、戻るように35キロほど進んだところが、やっと3つのアルバトィ村だからだ(北東から流れてくる大アルバトィ川畔にあるのが大アルバトィ村、南東から流れてきて、大アルバトィ川河口近くでアバカンに注ぐのが小アルバトィ川でその畔の村が小アルバトィ、両アルバトィ川河口にあるのが18世紀からコサックの前哨村だったアルバトィ村と3つある)。11時ごろ着いたのは、学校に勤めるタチヤーナ・チュクピエコーヴァ先生には午前中授業があったからだ。
 彼女とは1年前にマーリェ・アルバトィの学校で知り合って、ずっと文通していた。去年最上学年だったクスーシャやマーシャはアバカンの大学に進学して村にはいない。学校にも寄ってみたかったが、それは帰りにして、小アルバトィ川を6キロ余遡ってマロアルバトィ岩画のある野外博物館に向かう。去年も行ったが、博物館まではサーシャさんのイプスンでも楽に通れる道だ。
 地図で見ると、集落はマーリェ・アルバトィ村で終わっていて、その先はジョイジェバッシといった西サヤン山脈の支脈が続いている。古い地図では、グリャズヌィ村クイビシェフ村チストバイ村など今は廃村になった集落の名前が記されている。昔はマーリェ・アルバトィ川を遡り、ジェバッシ川からウレテニ川沿いにサヤン山脈を越えてトゥヴァへ通じる交易の道があり、だからハカシア人の遊牧基地もあった。それほど昔でなくとも、スターリン時代には、ウクライナやヴォルガ川、バルト海地方からの強制移住者が、材木伐採に従事させられていた小さな集落がいくつもあった。その後、強制移住者の一部は故郷に戻り、それらの集落は廃村になり、残った移住者やその子孫、元々住んでいたハカシア人たちも(文明地に近い)マーリェ・アルバトィ村などに移った。その廃村になったチストバイ村が、タチヤーナ・チュクピエコーヴァさんの生まれた村だった。村の古い写真もメールで送ってくれたことがある。
兄さんと狩りに行く16歳の頃の
タチヤーナさん
マロアルバトィ岩画の前、左から
タチヤーナさん、サーシャ、
ナディージダさん、ガードマンの青年
マロアルバトィ・オープンエア・
ミュージアム内のユルタと馬繋ぎ柱

 去年はマロアルバトィ野外博物館までしか行かなかったが、その先へもタチヤーナ・チュクピエコーヴァさんと行って、彼女の生まれたチストバイ村や、近くにある新石器時代の遺跡、道が悪くて行けるかどうかわからないと言うジェバッシ岩画を見たいと、実はずっと思っていたのだ。

 前記のように、かつてアルバトィ村は西サヤン山脈がアバカン川に迫ったところにできたコサック前哨基地だった。西サヤンを超える道の一つ、つまり、モンゴルやジュンガルの勢力範囲だったトゥヴァへ通じる道の一つがアルバトィ川やジェバッシ川を通じてあった。だから中世や近世のタムガ(氏族の印)が道案内の標識のように要所、要所に描かれた(のかもしれない)。マロアルバトィ野外博物館の岩画タムガもその一つだとも言われている。(野外博物館の岩には2種類の岩画があって、タムガは現ハカシア人の直接の祖先、つまりの近世のもの。古い方は紀元前2000年紀のオクネフ時代)。
 私たちはハカシア人の祖先(エニセイ・キルギス族)の道を少しだけだが、たどることになる。まず、去年も訪れたマロアルバトィ岩画のある野外博物館に入る。岩画のある場所は道路に沿ってあるから、道路も博物館の領内を横切って先に続いている。
 博物館には入場者はいなかった。管理小屋から女性が出てきてタチヤーナ・チュクピエコーヴァさんと挨拶している。学校や博物館関係者はみんなお互いに知り合いだ。しかし、よく見ると、私にも見おぼえがあった。去年タシュティップ郷土博物館で休館日なのに案内をしてくれたナディージダさんだった。ハカシアも狭いものだ。 
 岩画の横にある派手な色のユルタ風の展示小屋には、去年なかった展示品やパンフレットがおいてあり、ユルタの前には伝統的な馬繋ぎ柱ができていた。柱の周りにチャロマを結ぶようにと、ナディージダさん(学術員)の同僚の青年(ガードマンらしい)が3色のリボンをくれた。それぞれの布切れには天の色、地の色、家畜の色など意味があるそうだ。その青年は近くで見つけたと言う赭土の石もくれた。この赭土で古代人や中世のエニセイ・キルギス人は絵や印を描いていたのだ。
 私たちがこの先のジェバッシ岩画を見に行くと言うと、
「車では行けないかもしれないわ、行けるところまで行って、後はぬかるみを歩かなくてはならないわ、ほら、このゴム長を貸してあげる」と、私とタチヤーナさん用に2足貸してくれた。1本道なので帰り道にも必ずここを通る。ナディージダさんと話の続きができるわけだ。
 クイビシェフ村の新石器時代遺跡
 この日もハカシア晴れのよい天気で、博物館の先も、もちろん、非舗装道だったが、まあまあの状態だった。数分行くとマーリェ・アルバトィ川を渡る橋にでる。丸太が組まれただけの簡略なものでも橋があるとは、この先の集落が廃村になっても道は活用されていると言うことだ。おまけに、ここで道は橋を渡る方向と、渡らずに川を遡っていく方向に分かれてすらいる。橋を渡らずにマーリェ・アルバトィ川岸に沿ってさかのぼっていけば、グリャズヌィ廃村に出る。なぜグリャズヌィ(泥まみれ)なのか、それは、いつも流れを変えて岸辺を泥だらけにするグリャズヌィ川がマーリェ・アルバトィ川に合流したところにできた村だからだ。グリャズヌィ川は粘土質の土壌を運んでくる。
マーリェ・アルバトィ川に架かる橋
林業基地にあるガードマン宿舎
今は枯れ野原のクイビシェフ廃村
クイビシェフ遺跡発掘跡、足で探っている

 私たちの目的のチストバイ村へは橋を渡っていく。マーリェ・アルバトィ川流域とジェバッシ川流域の分水嶺を越えると道は下りになり、前方に西サヤン山脈の青い山波が見えてきた。途中で材木を積んだトラックとすれ違う。つまり、この道路は林道なのだ。1940年代のスターリン時代にマーリェ・アルバトィ村ができたのは、前記のように、ウクライナ、ヴォルガ川やバルト沿岸からの強制移住者に材木調達をさせるためで、奥地にも強制移住者村が多くできた(今ではみんな廃村)。今も、マーリェ・アルバトィ村の主要産業は林業だ。
 15分ほど行くと開けた場所があり、ブルドーザーやトラクターなどが止まっている。土は掘り起こされて、丸太が転がっている。コンテナ、つまり移動用ボックス小屋が立っていて、まわりには水のタンク、薪、丸太いすなどが置いてあり、男性が一人座って本を読んでいた。私たちはもちろん車から降りて挨拶する。タチヤーナ・チュクピエコーヴァさんの知り合いかもしれない。男性が言うには、1週間宿直すると1週間休みがあるとか。この自然の中、何と優雅な世捨て人風の生活だろう。コンテナの中も見せてもらった。列車のコンパートメントのように2台のベンチがあって、真中にランプや本、缶詰、砂糖壺の載ったテーブルがある。調理場コーナーにはフライパンややかんなどあって、ベッド(ベンチ)の枕元にはルノアールの絵(の写真)もかかっていた。
 読書三昧の1週間ではないだろうか。だが、宿直だから伐採従事者や運転手たちが寄るだろうし、夜中も、ブルドーザー、材木を積んだトラックなどの番をしなければならない。コンテナ小屋の下には犬小屋もあった。読書中の気晴らしにもなる。
 ガードマンの男性と話している間も、材木を積んだトラックが止まり、運転手が降りてくる。広場の奥の林から林業マンが近づいてくる。

 道は緩やかに曲がりながら下っていき、ジェバッシ川の岸段丘へ近づいてきたようだ。南の西サヤン山脈から流れてきたジェバッシ川はここで直角に西へ曲がり、アバカン川の方へ向かう。だから、ジェバッシ川を上ってウレテニ村(廃村)の方へ行く道と、ジェバッシ川を下ってチストバイ村へ行く道の分岐点もここにある。どちらへも、サーシャのイプスンで楽に通れる道が続いている。維持するには非効率的な村々は廃止しても、林業は続けられ、そのための道も整備されているのだろう。
 この分岐点にクイビシェフ村があり、2007年には新石器時代跡が、2008年には1万2千年から1万年前の旧石器時代跡が発掘調査されたと、ハカシア共和国文化庁のリストに載っている。地元のタチヤーナさんはどのあたりが掘られたか知っている。枯れた背の高い草の間にまだ青い草がびっしり生えているほかは何もないクイビシェフ村に私と入っていくと、
「あ、ここに店があったのに、まあ、何も残っていないわ。ここには木戸があったはずよ。まあ、草が生えて何も分からないわ。あ、ここの地面が凹んでいるでしょう、考古学者たちが掘ったのよ」と、足や手で探っている。 
 『クイビシェフ1』遺跡はもとの村の中心にあったそうだ。2か所の試掘から、文化遺跡地層は2層あって、上の方からは、金石併用時代から青銅器初期の土器(アファナーシエフ時代古墳からの発見物と類似)が見つかったそうだ。下の6千年から7千時代前の層からは新石器時代、あるいは中石器時代の石器が発掘されたそうだ。(アルタイからサヤンにかけて、石器時代人が獲物を追って住みこんでいたのだろうか)
 『クイビシェフ2』遺跡は400メートルほど離れた山手にあった。ここで昔、伐採をして丸太を下に転がしていたのだが、その轍(わだち)の跡に、多くの後期新石器時代遺物が発見されたとタシュティップ郷土博物館学術員の論文に載っている。今は、考古学者の調査の残り物もなさそうだった。あっても生い茂る草や枯れ草に隠れて見えない。
 ジェバッシ川の曲がり角の河岸段丘にあるクイビシェフ村は低い山々に囲まれ、タチヤーナさんは懐かしそうだった。二又に分かれる道に囲まれて今は何もないクイビシェフ村をバックに何枚も写真を撮った。10歳くらいの時、チストバイ村にあった学校が閉鎖されたので、この道をスクール・バスに乗ってマーリェ・アルバトィの学校まで毎日通っていたそうだ。冬場はマーリェ・アルバトィの寄宿舎に住んで金曜日の夕方村に戻ってきた。チストバイ村を出たスクール・バスはクイビシェフ村でも学童を乗せ、グリャーズ村にも寄って学校に行ったのだろう。20キロ余の道のりだ。ウレテニ村から出発してチストバイ村なども回ると、もっと長い距離になる。
 チストバイ村
 クイビシェフ村で右へ曲がって山道を行くと、山川にしては広いジェバッシ川が見えてきた。河原も広い。サーシャが、
クイビシェフ村を過ぎると見えてくる
ジェバッシ川
ジェバッシ川岸。ここでランチ
現在のチストバイ村
チストバイ村の古い写真
石灰を採取していたと言う崖
「シェバッシは力強い川だ」と、感心する。つまり魚が多いと言うことだ。アバカン川の200キロ上流に合流するジェバッシ川は長さが84キロで、61キロのチェバン川や、39キロのウレテニ川など人里離れた森の中を流れてくる山川が合流するだけで、自然がそのまま残っている。ジェバッシ川に再会できて、タチヤーナさんも嬉しそう。川岸に降りてお弁当を食べることにする。川の水で手を洗うと気持ちよかった。子供の頃、この辺で泳いだとタチヤーナさんは言う。
 チストバイ村はアルバトィ村より先では、最も大きな村だったのだろう、ジェバッシ川の開けた河原にあった。古い白黒の写真を見ても、かなり広い耕地や牧草地がある。
 タチヤーナ・チュクピエコーヴァさんによると、ソヴィエト政権になり農村でコルホーズ化が進むと、それをのがれて奥地へ移るハカシア人も多くいた。チストバイ村は元々、裕福なバイ(富農)が開いた遊牧基地だった。そのバイは悪臭(チスツィグ)がしたから名づけられたとも、または、そのバイの苗字がチストバエフだったからとも言われている。ソヴィエト時代初め、そこへも集団農業化されたくないハカシア人が移ってきた。タチヤーナさんのおじいさんはチストバイで石灰を掘っていた。近くに石灰の露出している山肌があるそうだ。その崖から『個人』営業で石灰を掘りだし、馬に積んでアルバトィやタシュティップと言った大村に売りに行った。チストバイの住民は主に牧畜(半遊牧)に従事し、家の周りには自給自足用の菜園を作っていたそうだ。森の中で木の実やキノコや松毬の実など集めて大村に売りにいくと収入になる。河原は広く、谷間だったので気候もやや穏やかで、馬を使って麦類なども栽培できたそうだ。
 ちなみにタチヤーナさんのおじいさんはソヴィエト政権初期、家族を連れて満州のハルビンへ逃れようとしたそうだ。しかし、行ってみると国境は閉鎖されていたので、すばやく戻ってきた。クイビシェフで金を洗っていたこともあると言う。
 私たちは、チストバイ村へは降りなかった。道路は村の高台を通っていたので、車から降りて見晴らしただけだった。タチヤーナさんがメールで送ってくれた昔の白黒写真は冬に撮ったらしく、ジェバッシ川の向こう岸に迫る山も白い雪化粧で、針葉樹林の尖った木々が見え、村に家がまばらに建ち、家畜を囲った柵も雪の間に見える。今、10月中旬に実物を見ると、牧草地だったところも青々として、廃屋がその中に残っている。しかし、その中で一軒は人が住んでいるらしく、横に車まで止まっている。タチヤーナさんによると、最近、元の村で牧畜の営業所ができたとか。確かにハカシア政府ニュースの古いサイトに、チストバイ村の廃村化に伴う住民の出村に例外を設ける、と2001年4月1日付の通達が載っている。
 クイビシェフ村と違って、ここには人や家畜の気配があった。だが、もとタチヤーナさんの家があったと言うあたりは廃屋もなくただ茶緑色の草が生えているだけだった。村を見渡せる上の道路から私たちは昔の村の様子を聞き、写真を何枚も撮って出発すると、間もなく、タチヤーナさんのおじいさんが石灰を掘りだしていたと言う白い崖の下を通り、ジェバッシ川に沿う道に出た。
 河原は広く、川は支流を作るので、道は橋のない川を通って続いている。川に入ったらいいのか、遠回りするともっと良い道があるのか、それは地元のタチヤーナさんが知っているが、しかしそれは30年も昔のことだ。子供の頃、ジェバッシ岩画までよくピクニックに行ったことがあると言う。家畜を放牧する時の通り道があちこちあって、ハカシア人もトゥヴァ人も利用した。放牧の家畜を連れ去られる時もある、ハカシア人はトゥヴァ人が盗んだといい、トゥヴァ人はハカシア人がずるいと言ったとか。
 ジェバッシ岩画
ここからはゴム長を持って川岸を歩く
ジェバッシ岩画(タムガ)の前に立つ
クィジラソフ共著『ハカシアの民俗画』p.88から
 とうとう、車がこれ以上通れないと言うところまできた。ジェバッシ川にせり出した岩山から崖崩れがあって道をふさいでいるらしい。車を止めて、歩くしかない。道は川の流れに近づいたり離れたりしている。右手は山だ。ナディージダさんから借りたゴム長を持って進む。40分ほど、川岸の山道を上ったり下りたりしながら歩く。
 タチヤーナさんは
「子供の頃、数回行ったことがあるんだけど、大人になってからはないわ。確か、もうそろそろだと思うけど」と、川にせり出した岩があると、注意深く岩肌を見ながら、
「ここではないわ」と言って進む。
 ハカシア晴れで、ここはジェバッシ山地の素晴らしいハイキングコースだったが、私にはきつかった。所々道はぬかっていたが、ナディージダさんのゴム長をはくほどでもない。ついに、先頭を歩いていたサーシャさんが立ち止り、
「あと一歩だよ」と数メートルも遅れて喘ぎながらついてきた私に言う。
 サーシャが立ち止った川岸に見事に垂直に立った岩があり、岩面に赭土でいくつかのタムガが描かれてあった。耳の長い家畜の絵もあった。タムガは氏族のしるしなので、タチヤーナさんによると、
「ここで山羊など家畜を連れてジェバッシ川を渡って南に行けると仲間に教えているのだ」という。年代は18世紀初めだ。
 岩画の下はひどくぬかるんで、水たまりには緑の水草がびっしり生えていた。だがゴム長もはかず、私たちは上手に跳んで、岩画に近づいたり遠ざかったりして何枚も写真を撮った。ジェバッシ川の流れも長い間眺めていた。

 アルバトィ村より奥の岩画としては、マロアルバトィ岩画が1968年、ジェバッシ岩画が1669年にレオンチェフによって調査され、クィジラソフと共著で『ハカシアの民俗画』と言う本に模写と解説が載っている。そのページを後でタチヤーナさんにスキャンして送ってもらった。ハカシア政府の文化遺産リストには、さらに、ジェバッシ川下流のクレムネヴァヤ岩画も載っている。
 タシュティップ郷土博物館
最近の発見物、馬具
 マロアルバトィ岩画の管理人小屋へ戻り、ナディージダさんにゴム長を返したのは6時も過ぎていた。だから、マーリェ・アルバトィ村の学校へ寄るのは止めた。
 ナディージダさんの娘さんの学術員エレーナさんがタシュティップの郷土博物館で、泊まりがけで論文を書いていると言う。タシュティップ村までは60キロあって、遠回りにはなるが、そちらへ寄って、もう一度郷土博物館を見学させてもらった。電話で連絡を受けていたエレーナさんは新着の発見物を段ボール箱から出して見せてくれた。マンモスの骨から削り落したという土も、袋にいっぱいあげると言われたが、ありがたく一握りだけもらった。
 帰国後、エレーナさんに教えてもらったブログを見ると、発掘調査に行った考古学者グループの写真も載っていたが、知っている顔が数人はいた。ハカシアも狭いものだ。
 エレーナさんは友達の考古学者からの情報をネットで教えてあげると約束してくれた。帰国後、数回添付ファイル付きメールが届き、私も質問ができた。
 瓶詰用料理アジカ
アジカを作る。手前には蒸気消毒の瓶
 この日、ベヤ村のヴァーリャさん宅に戻ったのは10時近く。ヴァーリャさんは、瓶詰用にトマトとピーマン、ニンジン、ニンニクなどの辛味ピクルスを、盥のような大きな鍋で煮詰めていた。これは、もともとグルジア料理でアジカと言う調味料なのだが、ヴァーリャさんのアジカは『我が家風』に味付けしてあって、パンと一緒に食べてもおいしい。これを何十個も瓶に詰めて、パッキングつきのふたで密封し、涼しいところに置いておけば、ひと冬持つのだ。ふたのパッキングを閉める特別な器具も一家に1挺ある。
 この日もベア村に泊まり、翌朝早くに、100キロ北のチェルノゴルスク市に向けて出発した。
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