クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
В Красноярске          Welcome to my homepage

home up date 20 Feb, 2012  (校正2012年2月14日、2018年10月23日、2019年12月4日、2021年9月23日、2022年10月11日)
29-3  (1)2011年、南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地の遺跡を回る
(1)ウスチ・ソース・クルガン草原
           2011年10月12日から10月16日(のうちの10月13日

Осенью снова и снова в Хакасско-Минусинской котловине(12.10.2011ー16.10.2011)

2010年ハカシア盆地 2011年クラスノヤルスク 2011年クラスノヤルスクからノヴォシビリスク経由オムスク市へ新シベリア街道の旅
1 ウスチ・ソース草原クルガン発掘跡 ウスチ・ソース野外博物館 ウスチ・ソース村(子沢山家庭)から大モナック村を通りマトロス山(ノヴォトロイツク村)
2 アルバトィ村からジェバッシ川 クイビシェフの新石器時代遺跡 チストバイ村 ジェバッシ岩画 タシュティップ郷土博物館 瓶詰アジカ
3 カミシュタ谷草原クルガン 大カムィシタ・リング 聖なる湖バランコリ ウイバット寺院都市遺跡 トロシュキノ村古代鍛冶場 トロシュキノ村博物館 水没のサルガッシュ・クルガン
アンガラ河口のウスチ・トゥングースカ村 クラスノヤルスク、アフォントヴォ遺跡
 10月12日(水)から16日(日)まで、ちょうど1年前の続きのようにハカシアを訪れることができた。と言っても、12日はクラスノヤルスクでガイドのネルリとエニセイ左岸段丘にある旧石器時代後期のアフォントヴォ遺跡や、その少し上流の洞窟や修道院を回っていたので、国道(連邦道)54号線をハカシアに向けて出発したのは夕方に近かった。
 だから、400キロほど走って、アバカン市近くのチェルノゴルスク市サーシャさん宅についたのは暗くなってからだった。途中の道からウスチ・ソース野外博物館館長イーゴリさんや、アルバトィ村のタチヤーナさん、ハカシア大学歴史・法学部考古学・郷土学科卒業の青年ヴァロージャに電話して、都合を聞いておいた。
 ウスチ・ソース草原クルガン発掘跡
 翌日13日の早朝、チェルノゴルスクを出発して、さらに100キロ、コイバリ草原の南のベヤ村にたどり着いた。ベヤ村のサーシャさんの実家で朝食をとって、まずは、ウスチ・ソース・オープン・エアー・ミュージアム、つまり野外博物館長イーゴリさんの自宅の大モナック村(ウスチ・ソース村から10キロは離れている)へ行く。
 電話でイーゴリさんは、今回はウスチ・ソース・クルガン群の発掘跡が見られると言っていた。アバカン川畔の聖なる山ヒズィル・ハーヤのふもと、茫漠たる草原に、無数のクルガンの立石が点在し、その端にハカシア人の住居がまばらにあるウスチ・ソース方面へは必ず寄りたい。大モナック村でイーゴリさんを乗せて、まずはウスチ・ソース野外博物館に行く。
ウスチ・ソース村
●は『ウスチ・ソース10』から『同22』、その下
に点在する小さなは民家(登録原簿のコピー)
『ハカシア・ニュース』誌の写真から
発掘調査のハカシア大学考古学科グループ
発掘されたアバカン川沿いのクルガン
ここ10年度々流れを変えるアバカン川

 ウスチ(『河口』の意)・ソース村はソース川がアバカンに注ぐところにあるのだが、村道ができるほどの人家はなく、歩くところが道で、広い草原の中、クルガンの大小の立石が遠く近くに進む。立石はたいていは傾いて立っている。イーゴリさんによると760基のクルガンがあると言う。クルガンは、年代や氏族毎にかたまって立っている。そのかたまり、つまりクルガン群は22ある。しかし、学術的に調査され(発掘するとは限らない)、位置を確定され、2010年にハカシア文化庁の考古学的文化遺産リストに登録されたのは、『ウスチ・ソース・10』クルガン群から『ウスチ・ソース・22』クルガン群の約300基で、リストには学術主任ゴトリプ準教授(ハカシア国立大学歴史・法学部、考古学・歴史民俗郷土学科)の名前がある。
 『ウスチ・ソース・1』から『ウスチ・ソース・9』までは、『緊急保護』発掘が計画されている。と言うのは、特に『ウスチ・ソース・8』は、ここ10年でアバカン川の川床が近づいてきて、毎年春の雪解けによる増水時期には5、6メートルも水位を増すので、31基のうち、5基は完全に崩壊、4基は崩壊寸前、1基が崩壊の危機があるそうだ。『ウスチ・ソース・9』の方も48基のうち29基が崩壊、4基は洪水(春の水位上昇)で土手が壊れたアバカン川岸にあるので倒壊の危険あり、となっている。こんな場合は発掘して調査してしまい、あとはアバカン川の流れに任せることになっている。つまり発掘までして調査するのは、こうして崩壊の危機がある遺跡に限られている。洪水で崩壊するばかりでなく石炭の露天掘りでも、道路敷設でも、現代人の居住のためにも崩壊する。しかし、すべての遺跡は年月とともに崩壊するので、『緊急保護』でなくとも特に学術的に意義のあるクルガンも発掘されている。
 イーゴリさんが私に見せたかったのは、これら、発掘直後のクルガンだった。
 発掘現場を訪れることができれば、クルガン内部に葬られていた古代人の骨や青銅器のナイフのようなものや装身具、土器などが見られる。しかし、たいていは盗掘されているので、その残り物が見られる。発掘直後だと、規則正しく区切り、規則正しく掘り下げた地面が見える。クルガンの周囲を方形に囲む立石や、中ほどにある古代人の遺体を葬ったはずの穴の側石、または丸太のフレームが見られる。埋葬されていた石棺が現れることもある。発掘数年後には新しく掘り起こした土には新しい草が生えるが、地面の窪みはわかる。だが、もっと年月が経つと、草の上を踏んでみてやっと窪みがあるとわかるのだ。
 ゴトリプ準教授は2010年の野外調査シーズン(5月ごろから10月ごろ)までに『ウスチ・ソース・10』から『ウスチ・ソー・22』と『アルティン・キョリ・チャータース』の調査を完了して、すべてのクルガンの位置を確定し、2011年には『ウスチ・ソース・8』のクルガン2基、『ウスチ・ソース・9』の1基を発掘したらしい。

 この日、イーゴリさんが見せてくれたのは、それら発掘直後のクルガンだったので、規則正しく掘り下げて平らにしたクルガンの底が見え、方形にクルガンを囲っていた板石や、その中央に埋葬した穴のフレームの石もあった。盗掘者たちの仕事の跡の残り物は青銅器や無数の土器などだったそうだ。帰国後、『ハカシア・ニュース』の2011年12月9日付の記事で知ったことだが、『ウスチ・ソース・8』クルガンの一つの入り口に犬が葬られていたそうだ。死者への供え物として家畜の骨は、クルガン内にはたびたび発見され、また、馬の骨も発見されるが、ペットは非常にまれだとのこと。

 発掘調査されたクルガンの横には、土砂で崩れたクルガン跡が続いていた。水かさが増した時のアバカンの川床とわかる石ころばかりの地面が見える。今は河原で草も生えていない。アバカン川は、クルガンが築かれた紀元前10世紀から3世紀よりもずっとずっと前から絶えず流れを変えている。最近10年間のアバカンの流れはウスチ・ソース草原に近づいてきた。以前は草原だったクルガンの立っていたところを削って川床にしている。今は河原になっている所にもクルガンの立ち石の一部が残っている。川で削られなかったところまでは律儀に草が生えていた。確かに川床は『ウスチ・ソース・8』や『ウスチ・ソース・9』のクルガンのすぐそばまできている。
 ウスチ・ソース野外博物館(オープン・エアー・ミュージアム)
 この茫漠としたウスチ・ソース草原をさまようのが私は好きだ。小枝で(葦と思う)で編んだとは言え、フルトゥヤフ・タス・パラーズィ石柱の周りを広く囲って、原色の看板を建てている野外博物館はない方が本当はいい。だが、文化財保護の基地を定めて、観光客も呼び寄せ、経済効果もあげなくてはならない。崩壊寸前の遺跡の保全の資金もいる。発掘物を地元の博物館に保存しておくのもいいことだ。野外博物館の管理ユルタは、前回の2010年の時より、1年分古くなっていた。ユルタの中は物置同様だったのは、もう観光シーズンが終わったからか。
建設中の8角形ユルタと大工さん

 イーゴリさんは、この地所内にハカシア伝統ユルタを建てているのだと言う。伝統ユルタは、実用としてはもうあまり建てられない。だから、建てることのできる専門家はもうほとんどいないが、今、カイラチャコフさんと言う(人間国宝のような)大工さんが建てている。カイラチャコフさんの建て方は見物する価値があると勧められた。
 ユルタは普通、6角形、8角形、10角形、12角形で、豊かなハカシア人ほどより多角系のユルタを建てると言う。このユルタは、ハカシア伝統の工法にのっとっているが、簡易ユルタで、冬場は住めない。野外博物館内なので実用ではなく、夏場観光客用の宿泊やカフェになるらしい。
 カイラチャコフさんによると、一辺の長さが3.4メートル、直径が6.95メートルの8角形で、ユルタは移動住宅なので釘は使わず、壁や天井ははめ込み式だ。しかし、形は伝統と言っても、このユルタを持って遊牧はしないので、壁にはネジが使ってある。
 カイラチャコフさんは、私の質問に何でも答えてくれた。ハカシア伝統ユルタの秘密は天井にあるそうだ。8角形の壁から、8角形のまま少しずつ板を短くしてのばしていくと、8角形の丸屋根のようになる、最後はこの屋根を閉じない。煙の出口になるからだ。屋根の板も、縦に、隙間を開けて組む。住むときは外側全体をフェルトで覆う。煙を外に出すときや、暑い時は天井の真ん中のフェルトをずらす。8角形の天井板が縦に組まれているのは、煙が天井の縦板を伝って出やすいからだ。
枠組みは完了の8角形ユルタ

 この程度のユルタの建築費用は10万ルーブルだとも教えてくれた。25万円くらいでこんな個室があったらいいな。日本で建てる場合は、こんな額では済まないが、と思っていると、カイラチャコフさんが冗談に売り込んでくる。助手のロシア人の青年も、師匠が日本へ渡って建てるなら、自分も連れて行ってくれと話を合わせる。
 後で、ベヤ区役所2011年12月15日付ニュースをサイトで見ると、ウスチ・ソース野外博物館内に、ベヤ区に住むハカシア氏族の資料などを展示する12角ユルタ、ハカシア民具などを展示する8角ユルタ、旅行者向けの住居用ユルタが2個建てられたそうだ。内装や展示はこれからだと書いてあった。

 ウスチ・ソース・クルガン草原を横切って、あのソース川を渡り、スナジグミ林を通って、ヒズィル(『赤い』の意)・ハーヤ(『絶壁』の意)山に登り、岩絵を見、シャーマンだったと言う岩の下の頭蓋骨に会って、絶壁の上からアバカン川の流れをまた眺めたいものだ。それで、イーゴリさんやサーシャと車に乗り込んで、乾いたハカシア晴れの下、一面に枯れ葉色の中を進む。スナジグミ(シーバックソーン)は、今年は不作のようで、一面に橙色に見えるはずの木立も黒い小枝と白い葉ばかりが目立った。
 岩絵は前年と同じく切り立った岩場にあった。が、シャーマンのものらしいと言う頭蓋骨の方は岩を寄せて隠してあったのに、発見者イーゴリさんに無断で開けたらしい跡があって、不満そうだった(頭がい骨は元のように埋まっていたがそれを隠したい石片が移動していた)。絶壁の上から見るアバカン川は幾筋にも分かれて流れていた。ソース川の蛇行した細い流れは午後の太陽に白く光っていた。毎年小さくなって2つに分かれるまでになったアルティン・キョリ湖の水面も、鈍く光っている。8世紀、キルギス帝国の先駆者の英雄バルス・ベグが突厥(第2チュルク帝国)軍と戦った頃は、広い湖面に満々と水がたたえられていたのだろうか(その戦いの事実については疑問がある)。
ウスチ・ソース村(子沢山家庭)から大モナック村を通りマトロス山
 ヒズィル・ハーヤ山の頂上の広場でお弁当を食べ、まだ早い時間なので次に行くところを決めた。前年に行けなかったマトロス山に行きたい。革命内戦時、赤軍がここを越えてアルバトィ村のソヴィエト体制に反対するソロヴィヨーフ団の支持者(と思われる一般ハカシア人)を多数殺戮したという(小アルバトィ村のタチヤーナ・チュクピエコーヴァさんの話)。ソヴィエト時代には、大アルバトィ村の白軍『暴徒』を鎮圧した赤軍が、マトロス山越えの時、白軍と戦ったという革命記念碑が立てられたらしい。その記念碑が特に見たかったわけではないが、西サヤン山脈の端にあるマト(マタ、ハカシア語で『良い』の意)ロス(ラス,『峠』の意)を越えてみたかった。(ロシア語のマトロスматросともオランダ語のマドロスmatroosともちがう、つまり水夫の意味ではない)。革命内戦時代はアバカン川左岸の国道161号線もなかったから、モナック村からアルバトィ村へはマトロス山を越えて行った。イーゴリさんは車で行けるかどうかわからないと言う。行けるところまで行ってみることにして、ヒズィル・ハーヤ山を降り、ウスチ・ソース草原を通り、人家のまばらなウスチ・ソース村を抜けて大モナック村の方へ向かった。

 数軒しかないウスチ・ソース村だが、イーゴリさんはある一軒の家を指して、
「子沢山の家庭なのだ」と言う。子供たちは孤児院から引き取った里子だそうだ。イーゴリさんによると、里子たちは過疎の村の労働力にはなるし、里親には孤児院から養育費が出るそうだ。だが、自分は孤児院からの里子を実子と同じように育てられない、だから里親にはならないと言う。
「実子にはご馳走を与え、朝寝もさせるが、養子には働かせると言う家のことも聞いた」だって。
「児童保護委員とかが調査に来ないの」と、現代版コゼット物語でもあるまいと思って確かめてみると、
「来てもすぐ帰るものだ」と、運転しているサーシャさんも言うので、他国のことだが孤児の待遇を心配しながら通り過ぎた。
 孤児院から多くの里子を引きうけている家庭の話は、別のところでも聞いた。知的障害もある子供もいて、養育費が出る。民間委託孤児院のような形かと思っていた。孤児引き受けを仕事にしている家庭もあるわけか。
マトロス山の方向
2台のトレーラーの上にはそれぞれ1名ずつ
右手前はイプサム
サーシャとカズロフスキィさん

 大モナック村を通り過ぎる。村はずれにはどの村でも、必ずゴミ捨て場がある。村民がゴミを捨てやすいようにきちんと道もあるが、さすが村の正面入り口ではなく、一応、裏口にある。大モナック村のゴミ捨て場には放牧の数頭の牛が手ごろなえさをあさっていた。この牛の乳を飲んだり肉を食べたりするのか、と思ってしまう。
 橋の架かっていない大モナック川を渡る。轍(わだち)が川の手前で切れ、向こう岸に続いていると言うことは、ここで渡れるわけだ。
 去年訪れた『乳製品工場跡のY字形クルガン群』跡も通りぬけ、さらに奥地へ進む。大モナック川の支流ホズィンデリ川に出た頃には道はぬかるんできた。と言うより、道に川が流れこんできている。一定の川床というものはなく流れは自由に方向を変えるのか。流れのある水たまりのようなものだ。流れは道からはみ出してどこかへ去っている。『ぬかるみ』小川がこの先の道にも続いているのかどうか、私たちは車を降りて、先の道を進んでみた。サーシャさんのイプサムは、どうもこれ以上は進めないようだった。道端を流れている小川は清く、イーゴリさんは手を洗っていた。よほど気に入ったのか、流れの速い水たまりの水を腹ばいになって飲んでいた。モナック川のモノと言うのは薬草のことだと言う説もある。

 そこへエンジンの音が聞こえた。マトロス山から丸太を積んだ旧式トラクターが大きな音を響かせて降りて来たのだ。長さをそろえて切ってある製材用の丸太ではなく、椅子の高さくらいに切ったたぶん薪用の丸太を山積みした2台のトレーラーを引いていて、1台ごと丸太の上に男性が座っている。運転手達は、スピードを緩めてまじまじと私たちを見るので、私も手を振ってシャッターを押した。とうとう、そのおんぼろトラクターはサーシャの車の前で止まって、運転席の男性2人が降りてきた。丸太の上の青年2人は、簡単には降りられないので、上から見ている。サーシャ・バイカロフさんと言うのがこのグループのボスだった。人口600人ほどの大モナック村はみんなお互いに知り合いなのだ。大モナック村は18世紀にバイカロフと言うコサック隊長から始まったのでバイカロフ村と呼ばれていたくらいだから、サーシャ・バイカロフさんは古くからの村民の子孫で、イーゴリさんは、クルヂュコフと言う姓だから他からの移住者だとわかる。(イーゴリさんの両親はスターリン時代、ヴォルガ流域からの強制移住者だった)
 マトロス山をあきらめて、大モナック村のイーゴリさん宅へ戻り、『ウスチ・ソース・10』から『22』までのゴトリプ準教授の調査報告書をコピーさせてもらった。

 まだ7時だったので、ベヤ村を通り過ぎ、ノヴォトロイツコエ村のアレクセイ・カズロフスキィ Козловский,Алексей Дмитриевичさんという詩人で作家の家を訪問した。彼の家にはリュ―リックの17代目から始まると言うコジャオフスキエ Козяовские侯の紋章入りの本がある。その子孫の一人なのかもしれない。ロシアにはカズロフスキィと言う姓が多い。ミヌシンスク出身の有名人の業績を載せた本には、彼の父親がソ連時代労働英雄になったと言う記事が載っている。帰国後、ネットに調べたところでは、アレクセイ・カズロフスキィは1949年生まれ、1970年からハカシアのノヴォトロイツクの中学校教員。功労教育者として表彰されていて、ロシア作家同盟の会員、詩集や散文を多数出版とある。
 どうやら、ノヴォトロイツク出身のディーマの妻のリューダがサーシャに訪問を提案したらしい。
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