と滞在後記
В Красноярске Welcome to my homepage
up date | 17 July, 2012 | (追記;12年7月20日、8月13日、2013年4月29日、2017年12月26日、2019年12月3日、2021年9月13日、2022年9月12日) |
29-1 2011年黄金の秋、クラスノヤルスク(1) ダーチャをまわる 2011年9月28日から10月20日(のうちの9月30日まで) |
В 2011 году в Красноярске(с 28.09.2011 по 20.10.2011)
1 | 北京経由クラスノヤルスク | リューダさんのダーチャ | ダーチャとコッテージ | 大都市の中の旧『ニコラエフカ自由村』 | |
2 | エニセイ右岸新旧の名所を行く | スリズニェーヴォ絶壁 | オフシャンカ村 | 『もの思わしげな』マナ川 | 『ビーバーの谷』スポーツ総合パーク |
3 | 『プーチン』橋からソスノヴォボルスク町 | 旧・閉鎖町パドゴルヌィ | ニンジン畑 | 『レッド・リング』レース場 | |
4 | アフォントヴァ・ガラ遺跡 | ユージン図書館 | クルトフスキー植物園方面 | 旧ミサイル基地町ケドローヴィ | 『13戦士記念』村 |
5 | 再度アフォントヴァ・ガラ遺跡 | エニセイ左岸名所『ビック』 | ウスペンスキー修道院 | 崖の上のアカデムガラドク | |
新シベリア街道の旅(クラスノヤルスク・ノヴォシビリスク・オムスク) | ハカシア・ミヌシンスク盆地への旅 | アンガラ河口のウスチ・トウングースカ |
(*) クラスノヤルスクの夏時間 クラスノヤルスクは東経約90度で、東経135度の日本とは、太陽の動きに忠実なら3時間の時差。しかし、『ロシア時間帯』ではシベリアは太陽の動きより1時間ほど早く設定され、クラスノヤルスクはグリニッジと7時間の差となり、日本との時差は2時間。夏時間ならたった1時間の差。2011年秋からサマータイム制がなくなり、年中サマータイムということになった。一方、東経105度のイルクーツクはクラスノヤルスクより1000キロ東で1時間早い。太陽の動きに忠実なら日本とイルクーツクは2時間の差のはずなのに、日本と同じ時刻、という『便利さ』。日本から飛行機で、直通4時間(約4000キロ)も西にあるのに。(後記:2014年から、年中ウインター・タイムとなった) |
北京経由クラスノヤルスク着 | ||||||||||
北京での乗り換え時間が8時間以上あるので町を見れないだろうか。未知の北京国際空港だが、往きには同行者のディーマさんがいた。それで空港では、ディーマさんの知り合いのロシア人向け茶店『ナースチャ』のオーナーの夫が出迎えてくれる。と言っても、ロシア語を話さない中国人のおじさんだ。空港から市の中心部近くのその店まで、そのオーナーさんの日本車に乗って渋滞の激しい北京の街を行く。 途中、国際ローミングしたアイフォンのネット検索で、中国北部の携帯からブラステル経由でかける番号を調べてディーマさんに教える。(国際ローミングは、当時海外パケットし放題で1日2200円も。なので、3週間の滞在中4日間しかネット接続しなかった)。ディーマさんは何件かかけていたが、そのうち、私も知り合いで中国関係ビジネスもやっているコーガンにもかけたようだ。それでディーマさんから受話器をもらって北京見物をしたいとコーガンに頼んだ。ディーマさんは私の「北京では何をしようか」との問いに「中国茶を買う」としか答えない。ここまで来て、ロシア人専用店で茶を買うだけではつまらない。中国語はしゃべれないので、コーガンに北京見物をさせてくれるよう、私たちの頼みの綱の茶店主人に伝えてほしいと訴える。コーガンは今クラスノヤルスクにいる。
1時間半ほど乗って、やっとある一角にたどり着く。中心地に近いビルで、一階の両替窓口でディーマさんが両替。少なくとも1階はテナントが集まって、ショッピング・センターのようになっている。各テナントの間口は狭く、廊下も狭い。目的地の『ナースチャ』茶店に入る。店員の中国人女性二人のうち一人はロシア語を話す。店主のナースチャ(もちろん、本名は中国名だが、ロシア人にとって発音が難しいので、こう呼ばれている)は、出張中とのこと。その茶店でディーマさんが茶を何種類か買うのを見ていただけで、店内にずっと座っていた。ロシア人の客が来て、茶を買って行く。私は必至で、筆談で見学したい場所を店員に教える。天安門広場?ああ、この近くよ。紫禁城?それも近くよ。それ以上の名所は思い浮かばなかった。この店が閉まるまでは動かないようで、せめてもと、次々とお茶を注いでくれる。常連客らしいロシア人男性も来て、長く座りこんでいた。お茶を飲み過ぎて何度もトイレに行った。その時、ほかのテナントの商品も見たが、日本の100円ショップで買えるようなものも多く並んでいた。 8時を過ぎると、大部分のテナントは終う。やっと、オーナーさんの車に乗って、私たちも出かける。ロシア語を話さない方の店員の連れ合いさんも一緒だ。天安門広場近くのたぶん行けるところまで行って、車を降り、その先は、中国人女性2人、若い男性(連れ合いさん)とロシア人のディーマさんの5人で歩く。始終立ち止まって写真をとる私がはぐれないよう、いつもだれかが私の横にぴったりくっついてくれた。明りは煌々としても、夜だから、はぐれるとやばい。おのぼりさんと警備員の多さは、まあ、こんなもの。1時間半ほども歩いてそれなりに夜の天安門広場周辺を見物できた。道路の物売りがゴムで動くネズミを売っていた。夜なのか本物そっくりに見えて、感心していると、連れ合いさんがディーマと私に買ってくれた。 クラスノヤルスク行き飛行機は夜中の1時45分(だから翌日になる)に北京発なので、11時前には空港に送ってもらう。深夜になっていたので、渋滞が緩んでいた。こうして9月28日の往きの北京経由は観光もできたが、帰りの10月20日の便は夜中に着いて朝出る便なので、ひとえに空港内で時間を潰していたものだ。
空港からアカデミガラドク団地のディーマさん宅までの道、ミハイルに、今回彼の招聘状が間に合わなかったことを話す。出発の10日以上前に受け取らなくては、在新潟ロシア総領事館でつくってもらうビザが間に合わない。有料の緊急ビザにしても良かったが、バイカル湖で民宿をやっているニキータ君にツーリスト・ビザ用招聘状を出してもらったのだ。だから今回は、ニキータ君知り合いの旅行社の観光ビザで来た。おかげで、ミハイルさんは外国人一時登録をしなくて済んだ(招聘者がすることになっているらしい)。 ホームスティさせてもらうディーマさん宅について食事をすると、9時過ぎディーマさんは仕事へ、私はこの先この家で自分用の一角にしてもらった居間の長椅子でひと眠りすることにした。 今回、オムスクへ行く予定だが、10月2日(日曜日)に今シーズン最後のサーキット・レースがあって、それに参加するディーマさんが一段落ついてから、ということだった。オムスクから帰ったら、ハカシアにも行くが、レースの前の3日間は、ディーマさんの奥さんのリューダさんがクラスノヤルスクを案内してくれるそうだ。往きの飛行機の中でディーマさんが話してくれた。 |
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リューダさんのダーチャ (別ページ『ダーチャ(下賜されたもの) または ロシア的別荘 追記(4)』にも転載) |
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お昼ごろ目が覚めると、リューダさんがどこへ行きたいかと聞いてくれる。まずはダーチャへ行こう。今回クラスノヤルスクでは、シーズンは終わりかけているが、ダーチャをできる限り見て回りたいと思っていたのだ。
1950年60年代のフルシチョフ時代から大発展した(エリートではない)一般人用『ソ連式ダーチャ』は、都市郊外の非耕作地(荒野)を企業(組合)が借り受け、従業員(組合員)に6アールずつに分けて与える、というものだった。当時は郊外でも、その後、都市が膨らんで市内になったと言うラッキーな場所もあるが、市街地になりにくい崖地だったりすると、荒野(僻地)ダーチャのまま今も残っている。 当時そうした一般人のダーチャでは、そこに自分で(ロシア男性はDIY以上の手腕を持たなくてはならない)建てる家の面積や高さが制限され、地下室(後に許可されたときはチルドの食物貯蔵庫になる)を作ってはいけない、柵を巡らしてはいけないなど多くの制約があった。庶民のダーチャはその菜園で作物を作り、自給自足の足しにするもので、建物は農器具を置く程度、または雨宿り用、せいぜい、夏場のシーズン中の簡易宿泊程度で十分だった。 クラスノヤルスク市郊外だけでも、そうしたダーチャ団地(協同組合のかたち)は1966年には312ヶ所あったと言う。クラスノヤルスク郊外に限らず大小の都市は、まわりがダーチャ団地で囲まれていると言っていい。ダーチャ団地はあらゆる所、生活不能な場所、例えば、『高圧線の真下、地下資源採掘コンビナートのスラグ山の上、ゴミ捨て場の近く、化学工場のすぐ隣などにすらできた』とサイトにある。エコロジー的に良好な場所や、都市からの交通の便のよい近郊はエリートの団地だった。 クラスノヤルスクのような大都会(2012年人口100万を突破、ロシアで14位)では自分のダーチャは、できる限り自宅住居(都市にあるアパート)の近く、たとえばエニセイ右岸に住んでいるなら右岸の郊外のトルガシーノ村やサローキナ村などに、左岸のエニセイ上流に自宅があるならより上流の郊外に、などと自宅と同方向にダーチャを持つようにしている。大都市では夜遅くまでも渋滞が続くからだ。
アカデミガラドク方面は、住宅地としては1等地なので、その先(同方向の郊外)のダーチャ団地もエリート向けだ。都市部から最も近いところに超エリートのソースヌィ団地があって、そこを通り過ぎるとニューリッチのウダーチヌィ・ダーチャとコッテージ団地(タウンハウスも含む)がある。ウダーチヌィ団地はソ連崩壊後の最も早い時期から個人用住宅が建ち始めたところで、もとはウダーチヌィ・コルホーズがあった。 ウダーチヌィを道路の左に見てしばらく行ったところで、右へ曲がり(左へ曲がればエニセイ川にぶつかる)、小高い段丘を、ヘヤピン・カーブを描いてぐるぐる回って登ったところが、元エニセイ河川運行会社職員用ダーチャ団地だった『マヤーク(маяк 灯台の意)Ⅰ』、その奥に『マヤークⅡ』がある。ここを、去年、タガンローク市(黒海方面)へ引っ越しした医師夫妻から70万ルーブル(当時のルート約220万円)で買ったそうだ。医師夫妻はエニセイ河川運行会社の職員から買ったはずだ。 ちなみに、市内の住宅地としては最も高級なアカデミガラドク地区のマンションの1階の2DKは4年前 150万ルーブルで買ったが、リューダさんによると、今では400万(1千万円)以下では買えないそうな。 クラスノヤルスクは、他のロシアの都市でもそうだが、その中でも特に、2004年ごろから大建設ブームが続いているそうだ。住民一人当たりの新築住宅面積(0.873平米)はモスクワの約2倍。それでも住宅は需要の方が供給よりずっと大きい。(『シベリアの家』誌2012年5月http://www.sibdom.ru/article.php?id=1159)。リューダさんのダーチャの敷地内には真っ直ぐな松が何本も建っていて、トウヒやトドマツも1,2本ある。松の幹にはブランコを作り、片隅には畑を作っている、花も植えてある。あずまやや、ガレージ、バーベキューのできる炉もあり、蒸し風呂小屋もあって、シベリア風に楽しく休日が過ごせる。潅水用タンクが敷地の道路近くにあるのは便利だ。家の中には、先の住民が残して言ったもの、例えばタイプライターや、書籍、壁の絵、とってがスズ製で脱着のできるガラスコップなどがまだたくさんあった。立派な階段もあって、2階は寝室で、1階から2階へ突き抜けるペチカもある。 後記:2018年リューダさんのダーチャを再訪したときは新築の立派な家屋が建設中だった。 マヤーク団地を回ってみた。エニセイへの河岸段丘の上にあるので、見晴らしの良い絶壁も近くにある。段丘の下、エニセイ川岸に沿って延びているウダーチヌィ団地が見渡せる。さすが、いながらにして素晴らしい景色の見渡せる地所には、レンガ建ての立派なダーチャが建設中で、番人も犬もいた。 |
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ダーチャとコッテージ | ||||||||||
ダーチャは、市街地中高層住宅(アパート)にある本宅以外で、郊外にある菜園と夏用の簡易住宅のこと。だから極寒には耐えられないような、たとえば壁や窓が薄く暖房が弱いつくりで十分だ。電気はあっても上下水道はなく、普通は通勤不可能な場所にある。(だから土曜日曜のみ住む。しかし、政府高官、著名人用のダーチャは『別荘』というイメージ以上で、通勤可能の場合もある)。土地利用形態では、ダーチャ団地は『宅地』の区分ではなく『農地』の区分に近く、『ダーチャ地』とされている。『ダーチャ地』には住民登録ができない。(その後できるようになったダーチャ団地も現れた)。。
一方、コッテージは宅地付き個別住宅なのは同じだが、市の郊外、と言っても普通は通勤可能の距離にあって、コッテージが本宅となる。(ソ連時代から元々持っていた)市街地中高層建築のマンションもそのまま持っていることもある。だから2軒以上所有することもある。コッテージ団地は富裕層が住んでいるので、団地全体に出入り口が一つ(火事など緊急用出入り口もある)で、入口に遮断機がついていて警備員がチェックする。また団地内は犬を連れた警備員が見回っているそうだ。団地内にはその住民だけの公共施設もある。まだ、ヘリポート付きのコッテージ団地もある。門があるのでゲーテッド・コミュニティと言うそうだ。 ここ数年、不動産資本によってコッテージ団地が幾つも造成され、今やたいていの都市はコッテージ団地に囲まれていると言っていい。大都市ほど資本が集中しているので『特級』コッテージ団地が多い。クラスノヤルスクも、コッテージ団地で囲まれつつある。『特級』地でなくとも、自分の地面を買って自分の家を建てられるのは、もちろん一部の富裕層に限られている。不動産会社の広告によれば、デラックス・クラスからエリート、プレミアム、ビジネス、エコノミー等にランク付けされていて、超特級のデラックス・クラスはモスクワやサンクト・ペテルブルクにしかない(富は首都に集中され、シベリアはモスクワの植民地とさえ言割れている)。特級のエリート・クラスならクラスノヤルスクには現在4か所あることになっている。準特急のプレミアム・クラスや上級のビジネス・クラスなども小金持ちでは手が出ない。『並』のエコノミー・クラスでも立派なものだ。ランクは、森林、川などが近くにあるか、都心から近いか、工場地帯から遠いかなどの環境や、伝統(たとえば、もと党幹部別荘地だったとか)などによって決まっているらしい。 前記、ソースヌィ・コッテージ団地は、知事邸宅(別荘)もあって、ランク付けではエリート・クラスだ。1998年エリツィンと橋本がノーネクタイ会談をしたのも、ソースヌィだった。 リューダさんたちは、マヤーク団地の今のダーチャを買う前に、いくつかを回ったそうだ。候補になった場所は、どれも市の西部で本宅から近いところだ。その一つに、グレミャーチィ・ロッグ(グレミャーチは薬草の名、ロックは『窪地』、またはグレミャーチャ・クリューチ『泉』ともいう)・ダーチャ団地がある。アカデミガラドクと市街地の間にかなり広い森がありその一角には塀で囲って見事に植林されたアカマツ林があった。その森の向こう側のエニセイ川へ下りる急斜面がグレミャーチィ・ロッグ団地だ。今、森を削り、斜面の上ぎりぎりにグレミャーチィ・ロッグ高層マンションが建設中なので、アカマツ林の中に道路ができた。 グレミャーチャ・グリーヴァ(グリーヴァはたてがみ、たてがみのような森のある長い山地・丘)はエニセイ左岸、クラスノヤルスク市の西に広がる台地だが、そこからエニセイへ注ぐ小川、または泉川が流れていた辺り(の窪地が)がグレミャーチィ・ロッグと言われている。小川はほとんど干上がっているらしい。今は、その斜面にあるダーチャ団地と、その上の高台にある建設中の富裕層向け高層マンション団地の名前になっている。 つまり、リューダさんは、グレミャーチィ・ロッグ・マンションの裏手の崖ぶちに建ち並ぶグレミャーチィ・ロッグ・ダーチャ団地の地所も検討したそうだ。ここはダーチャ小屋を取り払って平地にするとコッテージが立てられるが、急斜面にあり、急坂の道路も狭く、道路の先には怖そうな階段を上り下りしなくてはダーチャ小屋や菜園に行けないので、候補から外したそうだ。 リューダさんの候補地となった他のダーチャ団地も、車でまわってみた。道は舗装されてなく、板塀に囲まれた農家風の家が多いが、中には半地下ガレージ付きの瀟洒なものもある。数年前と比べるとこぎれいなダーチャが増えたものだ。増えたといっても、お金持ちが増えたと言うよりも、貧富の差が開いたということだそうな。 郊外のプガチョヴォ団地も回った。比較的町に近く、森に囲まれ、エニセイ川からは離れるが、やはり市の西部なので工場地帯の風上にあって環境がいいので、ダーチャ団地としては悪くない。 |
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迂回路ニコラエフカ・スロボダ (大都市の中の旧『ニコラエフカ自由村』) |
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9月30日(金)も、リューダさんの車フォレスターで市内や郊外を回る。エニセイ右岸上流にあるクラスノヤルスク・ストルブィ自然保護区公園(岩山自然公園)の一部にあるボブローヴィ・ロック(ビーバーの谷)パークへ、まずは行こうと言うことになった。2010年11月にも行ったが雪が積もっていた。そこは年中楽しめるアミューズメント・パークだが、基本的には冬場のスキー場で、前回の2011年11月はスキーができるほどの雪はなく、シーズンのはざまで人影も少なく、ロープウェイは私たちが乗った時だけ動いたものだ。薄雪のボブローヴィ・ロックもいいものだった。 今回は秋晴れの暖かい日だった。 市内は慢性的に渋滞で、迂回路を知らないと、前の車の尾灯ばかり眺めていることになる。クラスノヤルスク市内に自動車の通れる橋は3本しかないので、左岸の西のはずれの住宅地にあるアカデミガラドクから、まずは市の中心まで出なければ、右岸へ渡れない。そこにしか橋がないからだ。コムナリ橋(1961年完成、クラスノヤルスク市でエニセイにかかった第1号の橋、それまでは舟橋だった)という。 町は(ちゃんとした)道路の数が(極端に)少ない。道路に面して中高層住宅が建っているのだが、その奥にも建っている。そこへは、道路からの狭い小路で通じているが、その生活道路は、通りぬけられなかったり、奥のアパート群をぐるりとまわって、また元の道路に出たりする。だから、アパート群の間の迂回路はただ遠回りになるだけで、結局道路に出なくてはならないし、都市計画から取り残されたような地区を通ろうとすると、そこは抜け出られないほどの悪路の上、曲がりくねっていてどこへ出るかわからない。だから、中心部と西部のアカデミガラドク地区やヴェトルジャンカ方面(アカデミガラドクの北にある住宅団地で、1970年代末までは果樹栽培試験農場があった。そこでつくられたエニセイ県の気候に適応したリンゴの品種がヴェトルジャンカと言った(http://kraevushka.livejournal.com/45063.html)を結ぶ道は、どうしても1本しかなかった。クラスノヤルスク(に限らず、私の知っている限りの大都市)は、自家用車がこんなに増えることを想定しないでできた町で、迂回路もなく、渋滞が激しく、だからか、マナー違反の車も多い。 しかし、ここまで渋滞すると、ドライバーは何とか迂回路を見つけるものだ。リューダさんは、以前(クラスノヤルスクに住んで自分で運転していた頃のこと)私が音をあげたそんな都市計画から取り残されたような地区の『旧』悪路をとった。今では知る人ぞ知る迂回路で、リューダさんも知り合いに教えてもらったと言う。確かに悪路だが、みんなが通るからか、以前ほどではない。非舗装の狭い道をゴミ捨て場の横を上がったり下がったり、都心とは思えない土砂崩れが心配な崖道を降りて、廃業となったソ連時代の工場(製粉工場)の残がいの横を通って、たいした渋滞なく、コムナリ橋のたもとに出る。 その地区はニコラエフスカヤ・スロボダ Николаевская слободаと言う。 クラスノヤルスクは17世紀、コサック隊が北のエニセイスク市を守備する柵(砦)として、カーチャ川がエニセイに注ぐところに作った要塞集落から発展したものだ。だから、できてから100年間は、南の強力なチュルク系先住民に対する国境砦だった。18世紀、国境が南に延び、クラスノヤルスクも要塞村から商業都市になった。18世紀後半、大火事の後、首都ペテルブルク流の碁盤の目のような通りの町になり、エニセイ川に平行に東西に走る3本の大通りと、それに直角に交わる11本の通りが整然と並び、大商店、ホテル、官庁や大商人の邸宅や建築美を誇る教会などが建った。今でも、歴史的な建造物が残っている。碁盤の目のように整然とできた場所、つまり、エニセイ川の左岸支流カーチャ川下流とエニセイ川に囲まれたところだけが、長い間、クラスノヤルスク市だった。(19世紀末人口は17 000人、シベリアでは6番目だった)
スロボダというのは歴史的には11世紀からあって、農奴ではない自由農民の大村で都市や要塞の近くの新開地にできた。開墾してそこに住むようになった住民は賦役、つまり、納税義務や兵役義務が免除されていた。ここからスヴォボダ(自由)というロシア語ができたそうだ。賦役が免除されたと言っても、時代や場所によって、もちろん部分的で臨時的なものだった。18世紀には免除制も廃止され、普通の大村と変わりないようになったが、基本的には商工業町で、農奴と地主屋敷のある農村ではなく、自治組織を持っていたそうだ。18世紀までスロボダは都市の一地区として、モスクワやその近郊に多く作られた。外国人(おもにドイツ人)のスロボダや、ヤムスカヤ(御者の)スロボダ、黒スロボダ、白スロボダ、軍人スロバダなどができた。クラスノヤルスクのニコラエフカ・スロボダは現在、旧クラスノヤルスク市街地と鉄道で分けられているだけで、地形の安定しているエニセイ河岸台地(グレミャーチャ丘)の上、つまり、北部はソ連時代に中高層住宅は建ち並んだが、南部の河岸台地の斜面は都市計画から外れたのか、平屋の小さな家が細く曲がりくねった道の両側に建ち並んでいて、大都市の中心地からすぐ近くにある住宅地とはとても思えない。斜面にあるので、道路わきの土砂が崩れてきている。道には大きな水たまりがあってなかなか干上がらない。かなり傾いた家も、平屋の集合住宅も、中にはこぎれいな一軒家もあるが、クラスノヤルスク人は『村』と言っている。 レンガ造りの大商人の邸宅が並ぶ伝統的市街地のはずれに、労働者村としてできたスロボダだが、20世紀後半、都市部の膨張とともに、中高層建築が立ち並ぶ『都市』のほぼ中心地と言ってもいい場所の中に、ぽっかりと古い形のまま残ってしまったわけだ。今風に言えば、建築基準に合致していないバラックのような家屋が密集し、防災設備もない。つまり、上下水道や都市暖房などの公共設備が整っていない。今から上下水道を引こうとしても道路幅が狭すぎてできないそうだ。しかし、都心部からも近く、エニセイ左岸上流であり、工場地帯の風上にあって環境もよく、河岸台地の斜面(この辺をアフォントヴァ・ガラと言う)にあるので、上にあるほど眺めもよく、今では、ロケーションのよい場所だ。それで、不動産資本が狙っている(富裕層向け高層マンション『オルビータ』が建設中)。 ニコラエフスカ・スロボダの住民は8400人という。この場所に、クラスノヤルスクの交通渋滞を緩和するための通称『第4の橋』(コムナリニィ橋、オクチャブリスキィ橋、スリーセヴン橋に次ぐ)に通じる立体交差の大通りを作る計画がり、それに伴って、『ニュー・ニコラエフカ』都市計画が持ち上がっている。そうすると、何年か後には、都心から近く、環境も良いこの場所には富裕層向けガード付き高層住宅が立ち並び、高級マンション団地として生まれ変わることになる。すぐ横のグレミャーチィー・ロックにはすでに建ち始め、数棟のマンションは完売だそうだ(前記)。 今、斜面下の川岸から見ると、路傍に雑草が生い茂り、傾きかけた人家の間から、高台に建設中の18階建ての明るい色のマンションが見える。第4の橋に通じる立体交差の道路建設予定地の500軒の家の方は、立ち退き中だが、その他のスロボダ住民は『古いスロボダを残そう』と反対しているとか。不動産会社によれば、彼らが非現実的な地価をつけているとか。 ちなみに、ニコラエフスカヤと言うのは、19世紀末の鉄道建設当時、日本へも含む大旅行をした皇太子ニコライ(後の2世)がウラジオストックを通って陸路でサンクト・ペテルブルクへ帰る途中に、シベリアの町々を訪問し、クラスノヤルスクも訪れたので、その名がついた。シベリアにニコライ皇太子から付いた地名は多いが、オホーツク海のニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)の方は19世紀前半のニコライ1世から付いたのだ。 20世紀初めまでに、カーチャ川河口の大商人の邸宅や寺院、役所などが立ち並ぶ整然とした大通りのある伝統的なクラスノヤルスク市の周囲には、いくつもの労働者や職人の住むスロボダができ、その中でも、いくつかはニコラエフスカのように、今でも通称が残っている。また、市街地のすぐ近くにできたスロボダは今では市の中心街の一部になっている。
スロボダは町ではなかった。たとえば、ニコラエフスカは、ほんの半世紀前までは、本当の農村で、牛などの家畜も飼って自給自足に近い生活ができた。つまり、市の西北部(今は、もちろん市街地)辺りまで放牧ができた。しかし、フルシチェフ時代に禁止。スロボダは、現在、すべて行政的にはクラスノヤルスク市となっているが、そこには、もちろん歴史的な建造物と言われるものは一つもない。ソ連時代の都市建設地から取り残され、事実、都会の中の村のようだ。 この先、アカデミガラドク団地のディーマさんとリューダさんの家から都心へ行く時は、いつも、この迂回路を通った。 |
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