クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
     В Красноярске      Welcome to my homepage

home up date 08 June, 2011(校正 2011年11月22日、2012年4月25日、2015年1月13日、2016年11月28日
シベリヤの中心クラスノヤルスク(追記)
              2010年11月

Центр Сибири - Красноярск (10.11.2010-17.11.2010)

前編


1.未知の町クラスノヤルスク
2.クラスノヤルスクの始まり
3.クラスノヤルスクの発展
4.クラスノヤルスクの名所
後編

5.偶然のクラスノヤルスク
6.クラスノヤルスクの四季
7.クラスノヤルスクに生活していると
追記
クラスノヤルスク観光(2010年晩秋)
郊外の観光スポット
アーチンスク市石器時代遺跡
スーリコフのスホ・ブジム村
ストレルカ広場近くからエニセイ川を見る

 2010年10月25日ウラジオストック経由でクラスノヤルスクへ入り、すぐハカシア共和国を回る旅に出た。アバカン川中流のコイバリ草原ベヤ村でホームスティしながら、2週間もハカシア(ハカス)・ミヌシンスク盆地を回った。先住民のチュルク語系ハカシア人の村、紀元前の古墳群、岩画、古代人の要塞跡(神殿だったかもしれない)、少数民族ショル人の住むトミ川上流のビスカムジャ町などを訪れた。11月10日には、クラスノヤルスク・ダム湖に沈みかける古墳を薄雪の積もる夕闇に見て、クラスノヤルスク市に戻った。帰りのウラジオストックに向けての出発までまだ1週間ある。
(以下の文は当サイトの『晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪(2010年10月22日から11月19日)』の
(13)夕闇の半水没クルガン、クラスノヤルスク観光(11月10日から11月17日)』からの抜粋)
 クラスノヤルスク市観光
クラスノヤルスク市  コ橋(コムナリ橋) 
ガクラ大通(ガジェタ・クラスノヤルスク・ラボーチィ大通り
 クラスノヤルスク市では、本屋へ行ったり、音楽会に行ったり(11月11日)、古い知り合いと会ったり(12日と14日)、クラスノヤルスク博物館をまた訪れたり(13日)、ガイドを頼んで3時間のクラスノヤルスク市内観光をしたり(13日)、クラスノヤルスクから西160キロのアーチンスク市へ行ったり(16日)、公証人役場へ行って書類(必要があって信任状)を作ってもらったり(17日)、クラスノヤルスク市郊外のスキー場へ行ったり(17日)、北へ70キロのスホ・ブジムスコエ村(17日)へ行ったりしていた。この7日間の予定を組むのも難しかったものだ。
 クラスノヤルスク市の観光と言えば、市の中心コムナリ橋(10ルーブル紙幣にデザイン化)近くの広場をまわる。ここに、エニセイ川に向かって立つチェホフの像がソ連時代からある。チェホフはサハリンへ行く途中に『シベリア紀行』したわけだが、モスクワ(サンクト・ペテルブルク)からシベリア横断の道は当時も今も1本で、必ずクラスノヤルスク市でエニセイ川を渡る。『シベリア紀行』でチェホフはエニセイの美を讃えているが、その部分が抜粋されてチェホフ像の台座に打刻してある。今は、コムナリ橋前広場には、この像より、21世紀になって市長がたくさん作った噴水の方に住民は憩うが)。
 一応、市内観光は、クラスノヤルスク市のほぼ全体を見下ろせるカラウリ(見張り)丘に建つ礼拝堂(10ルーブル紙片にデザイン化)や、カーチャ川がエニセイ川に注ぐ辺りに、1628年コザック前哨隊がクラスノヤルスク柵を建てたストレルカ広場などをまわることになっている。
 ストレルカ広場には、長崎からの帰途の1807年に、この地で病死したレザノフの像がある(最近建ったもの)。広場に面して、革命前はヴォスクレセンスキィ寺院のあった場所にコンサート・ホールも建っている。1930年代ロシア中で歴史的であっても宗教的な建物は、破壊され(その土台か、一部を利用して)非宗教的な施設に建て替えられたのだ。
 クラスノヤルスクは観光都市ではないが、ここ10年ばかりの間に、ギリシャ・ローマ神話などからとった彫刻のある噴水広場がいくつもできたり、新しくロシア正教会ができたり、シベリア街道(注)のミニチュアが市内で最も名前の長い通りガジェタ・クラスノヤルスキィ・ラボーチィ(クラスノヤルスク労働者新聞)大通りにできたりしている。
ストレルカ広場、レザノフの像、その背後には
2003年にできた『凱旋門』
(ロシア人好みの建造物の一つ)
モスクワ街道のミニチュア版、
太平洋岸の港まである
シベリア街道
(名前ばかりか延長も9キロ以上もある。しかし長さでは、エニセイ川やガジェタ・クラスノヤルスキィ・ラボーチィ通りと並行して通じているセマフォルナヤ通りが14キロと最も長い。クラスノヤルスク市のエニセイ右岸の端から端まで通じているくらいだ) 
(注) シベリア街道(モスクワ・シベリア街道とも、モスクワ街道とも呼ばれている)は18,19世紀に、ロシア・ヨーロッパ部からウラル山脈のペルミやエカチェリンブルクを通り、クラスノヤルスクでエニセイ川を渡り、イルクーツクへ行くほぼ唯一の大動脈だった。この陸路のシベリア街道ができる前は、河川路をたどり、水路が切れると次の河川まで陸に上がり(舟を引くための2河川を結ぶ陸路をволокヴォーロクと言って、オビ川水系とエニセイ川水系を結ぶヴォーロクで有名なのはマコフスコエなど)、おおむね水路伝いに大回りしてシベリアを横切っていたので、時間もかかり安全ではなかった。
 18世紀初めごろから陸路で横断するルートが捜索され、モスクワからウラル山脈を越えて、まずは、当時シベリア経営の中心だったトボリスクまで、ついでトムスクまで宿場(馬の交換できる)のある陸路ができ、ペテルブルクから月2回の定期飛脚(駅逓制度)が可能になった。その先のクラスノヤルスクやイルクーツクまでの陸路は、その頃エニセイ川中流一帯に広く遊牧していたエニセイ・キルギス族を南(今のハカシア)に追うか、定着農耕民にして、安全を確保した1730年代にできた。
 イルクーツクより先の陸路捜索は、ピョートル大帝の命で1727年陸路でオホーツクに到着したベーリング隊に課せられていたのだ。ベーリング海峡にその名が残るベーリングはユーラシア大陸とアメリカ大陸は陸続きではないことを(ヨーロッパ人のために)発見したのだが、シベリア統治のための最短安全通信路捜索も課題だった。
 1733年にはモスクワからエニセイスク(その南のクラスノヤルスクを街道は通る)やイルクーツクまでは、月に1度の飛脚(駅逓馬車)を派遣、その先はオホーツクやカムチャッカまでは2カ月に1度と、元老院令が下っている。
 しかしシベリア街道とは、イルクーツクより東はネルチンスク条約で有名なバイカルの東650キロのネルチンスクまでか、または中国の茶を運んでいたことで有名なキャフタ貿易のキャフタのあるバイカルの南のモンゴルとの国境(当時は清国)までだ。(イルクーツクからオホーツクまでは、17世紀中頃ロシア・コサック兵によりつくられたレナ砦、つまりヤクーツク柵経由で通行できるが、そこはシベリア街道とは言わない)

ネルチンスク条約>1689年、ロシア帝国と清国との満州での国境をアルグン川(北のシルカ川と合流して黒竜江・アムール川になる)と外興安嶺(スタノヴォイ山脈)と決めた。

キャフタ貿易>シベリア街道はロシア帝国のシベリア部の統治のためばかりでなく、中国との交易品も多く通ったので『ティー・ロード』とも呼ばれている。
 ネルチンスク条約締結後始まったキャフタ国境貿易はシベリア経済に大いに貢献した。18世紀前半までは国営キャラバンのみが武装コザック兵の護衛付きで2,3年に1度程度往復していた。水路を通ったので片道1年ほどもかかったのだ。18世紀中ごろ国家独占が解かれキャフタ貿易に大商人が参加し、中国との貿易量の67%がキャフタ経由だった。また1775年、全ロシア税関収入の38.5%がキャフタから上がっている。
 1760年代に陸路のシベリア街道が通行できるようになり、中国茶がヨーロッパ部まで2,3ヶ月で届くようになった。キャフタ貿易には1万人の運送人(駅逓馬車の御者)が従事していた。ロシアからは19世紀半ばまでは毛皮が主要輸出品で、1757-1784年には中国への輸出品の85%が毛皮だった。輸入品は絹、綿、茶、陶器などだが、19世紀半ばに中国茶を海上運送(黒海のオデッサに荷揚げ)するようになるまで、茶貿易はキャフタ独占だった。高価な茶は海上輸送だが、普段に飲む茶はキャフタを通じて運ばれていた。下記、榎本武揚の『日記』にも茶を産んだキャラバン隊とたびたび出会っていることが書かれている。19世紀後半にはそれまで多かった繊維製品が輸入から輸出に代わったのは、産業革命でロシア自身が生産するようになったからだ。

 18世紀末、19世紀初めの江戸期の漂流民の大黒屋光太夫や石巻若宮丸漂流民などがペテルブルクへ行く時は、オホーツク海のオホーツク村からヤクーツク、イルクーツクまで長い間かかり凍傷に苦しんでたどり着いている。
 1890年、チェーホフがサハリン島へ行くためシベリアを横断した時は、イルクーツクから先はチタ州のスティレンスクあたりからアムール川(正しくはシルカ川。アルグン川と合流してからアムールになる)を航行して、アムールの河口間宮海峡(タタール)海峡のニコラエフスク港まで行っているし、榎本武揚の1878年ペテルブルグから日本へ帰った時の『シベリア日記』にも、イルクーツクからは、政治家らしくキャフタに寄り、チタ、ネルチンスクと陸路をとり、スティレンスクからはアムール川航路をとりウラジオストックにでている。というのも、1860年の北京条約でウラジオストックを含む沿海地方やアムール川下流のニコラエフスク港を含むハバロフスク地方南部などがロシア帝国領になったからだ。
 このモスクワ街道に沿って19世紀末から20世紀初めにシベリア幹線鉄道もできた。しかし、チタ(スティレンスク)からハバロフスクまでの陸路は20世紀になってもなかった。今の国道M58号線『アムール』道(チタ市からハバロフスクまで2097キロ)が近代的な道路になったのは21世紀。
 つまり、歴史的なシベリア街道はウラジオストックまでは通じていなかったが、ミニチュアにはモスクワ、エカチェリンブルク、クラスノヤルスク、イルクーツクの次にはウラジオストックのオベリスクも建っていた。もっとも、鉄道なら20世紀初めに開通している。
大殉教者聖フェオドール・ティロン
(アマゼヤの聖テオドール)教会
教会のある丘からエニセイ川を見下ろす、対岸
の高い建物との間にある中州タートィシェフ
エニセイ川の舟橋
(http://www.krasplace.ru/から)
17世紀クラスノヤルスク柵のあったと言うエニ
セイ畔(カーチャ川河口)とガイドのネルリ
ロープウェイで上って、バザイハ村と
その先のエニセイ対岸を見晴らす

 昔のシベリア街道とほぼ同じルートを、ウラル山脈から太平洋岸まで国道(連邦道と言うべき)51号がチェリャービンスクからノヴォシビリスクまで、53号がノヴォシベリスクからイルクーツクまで、55号がイルクーツクからチタまで通じていて、バイカル道という名がついている。その先の58号のアムール道がハバロフスクバリフスクまで、60号のウスーリがウラジオストックまで普通に通れるようになったのは21世紀になってからだ。
 国道53号線は、今でこそバイパスができてクラスノヤルスク市街地を迂回しているが、少し前まではエニセイ川を渡るとエニセイ川右岸通りを東へ進んでいた。今、右岸通りはガジェタ・クラスノヤルスキィ・ラボーリィ大通りと名付けられていて、(その中ほどには前記モスクワ街道のミニチュアが最近できたが)入り口にはソヴィエト風のレリーフがある。帝政時代、流刑囚(革命家)たちが鎖でつながれて運ばれて行った道というので、それを描いたソヴィエト風モニュメントで、『枷をはめられた囚人の道』という群像だ。シベリア街道は徒刑囚護送の主要道でもあった。(ジョージ・ケナンの『シベリアと流刑制度』で詳しい)。スターリン時代は、この通りを政治犯が東へ送られた。だから、2000年頃、この通りのエニセイ川の見える丘に大殉教者聖フェオドール・ティロン(アマゼヤの聖テオドール)教会ができた。
 11月13日、ガイドと一緒にここまで来るとエニセイ川の中州タートィシェフ島がよく見える。市内のエニセイ川では最も大きな中洲で、1990年代は浮浪者が住んでいたが、もともとスポーツ公園だった。つまり正規の住宅がなく、特に設備もなかった。今、自転車ロードやカントリー・スキー場などレジャー産業の投資がなされつつあるそうだ。完成すると大アミューズメント・パークができるとか。
 ガイドが教えてくれたことだが、タートィシェフと言うのは、クラスノヤルスク柵ができた17世紀前半、ロシア帝国コサック前哨隊に協力したエニセイ語族の一つ(現存はケット語族のみで、あとは周りのロシア語やハカシア語などに同化)の首長だったそうだ。エニセイ川中流盆地には古くはエニセイ語族が住み、後にチュルク語系民族が移り住み、先住民をより北や山岳地帯へ追いやって遊牧生活をしていた。帰国後サイトなどで調べたところでは、17世紀初めごろ、エニセイ語系のアリン語族(アリンツィ)が現在のクラスノヤルスク市の北に住み、チュルク語系のカーチャ族(*)が南東に住んでいたが、アリン語は18世紀後半に消滅、カーチャ族は南に移動してハカシア人の一部になったとある。ちなみに、アリン語はクラスノヤルスク市周辺やその北に川など水系の地名として広く残っている。 
(*) カーチャ氏族、カーチンツィ。現在のストレルカ広場でエニセイに合流するカーチャ川の畔に住んでいたからその名がついた。あるいはその逆。ハカシアの南のトゥヴァ共和国にすむトゥヴァ人もカーチャ氏族出身という『氏』が多い。
 そのアリン族の当時の首長がタートィシェフで、夏の放牧地が現在のタートィシェフ島だったそうだ。アリン族は南のキルギス候国(ハカシア)やモンゴル系候国(アルティン・ハンなど)から徴税されていたが、ロシア帝国からも徴税されることになり、キルギス軍に参加して(ロシア帝国の)コサックの柵(基地)を攻めたり、コサック軍に参加してキルギス軍を攻めたりしていたが、そのうちロシア人やカーチャ族に同化してしまったのか、19世紀の文献にはもうその名は出てこなくなった、とある。

 1986年、このタートィシェフ島を経由してエニセイ川に2600メートルのオクチャブリ橋が完成した。ちなみに、エニセイ川にかかった自動車と歩行者用の第1号の橋は、町のより中心にあって10ルーブル紙幣にもデザインされているコムナリ橋で、やはり中州のオッディハ島を経由して、1961年やっと完成している(2100メートルで当時アジアでは最長)。それより前、1899年に開通した鉄道橋は、1900年パリ万博でエッフェル塔と並んで最新技術建造物として優勝さえしているが、エニセイ川には1961年まで、車や歩行者の通れる不動の橋はなかった訳だ。つまり、それまでは舟橋だった。その前は渡し船でエニセイを渡った。今、クラスノヤルスク市郊外のエニセイ下流に3番目の自動車用と鉄道支線用共通の橋『スリー・セブン』(1984年ほぼ完成だが、開通はなぜはずっと遅れた)があり、2008年には大(遠回り)バイパスの一環としてさらに下流に『北バイパス橋(通称プーチン橋)』ができたが、それより下流のエニセイには約2650キロ先の北極海の河口まで橋はない。

 クラスノヤルスク市は、コザック(屯田兵)達が柵(要塞)を作った今のストレルカ広場(注)のある左岸から発展し、歴史的な建物の大部分は左岸にあり、右岸は戦時中、ドイツ軍の侵攻のためヨーロッパ・ロシアから疎開してきた工場が多い。だから、右岸は生活環境が良くない通りも多い。しかし、右岸でもクラスノヤルスク郊外の上流へ行くと、有名な岩山がある。エニセイ川に侵食された東サヤン山脈の最も北東の支脈が、岩だけを残して立っている。切り立った岩の高さは30メートルもあるものがあって、ロック・クライミングの名所になっている。クライマーでなくても、この自然保護区『クラスノヤルスク岩山公園』はよいハイキングコースで、ここへ訪れたことのないクラスノヤルスク人はいないと言うくらいだ。
(注)ストレルカ広場 支流はたいてい斜めに合流してくるので、その合流点は陸地が矢印のようになっているため、ストレルカ(矢印)町やストレルカ村という地名がロシア中に多い。または河口(ウスチ)+支流名という地名になる。例はソース川がアバカン川に合流する地点のウスチ・ソース村など。だから、クラスノヤルスク市は1628年、北のエニセイスクを守備する要塞としてエニセイスクから馬で4日の地点にできた時はウスチ・カーチャとも呼ばれていた。またはアリン人(上記参照)の首長チュリキンから『チュリキンの地』とも呼ばれたそうだ。1623年からチュリキンの地に築く柵(要塞)のための場所を探していたエニセイ・コサック(ロシア帝国のシベリア屯田兵の一つでエニセイ方面に定住)は、カーチャ川の河口が、背後には赤い粘土の崖(クラスヌィ・ヤール)もあり、森も近く、耕地にできる地面もあり、干し草を刈る草原もあって格好の地だと、この場所に決めたのだと資料にある。
 クラスノヤルスク岩山公園の麓にバザイハ村(注)がある。ここから公園への上り口もあるが、現代的なロープウエイ付きスキー場(ボブローヴィ・ロック)も2006年できた。11月17日に、雪の量はまだ不十分でシーズンは始まっていたかったが、一応登ってみた。コザック前哨隊がエニセイ中流に住む遊牧民を見張っていたカラウリ丘は左岸の高台だが、ここは右岸の高台で、バザイハ川が蛇行してエニセイに注ぐ様子や、対岸の左岸絶壁の上にまでクラスノヤルスク市が続いている景色も一望できる。
(注)バザイハ村 1628年クラスノヤルスク柵が今のエニセイ川左岸ストレルカ広場にできた頃、その周囲や右岸には、もちろん先住民が住んでいた。柵の擁護のためにも、17世紀中頃にはコザック前哨隊の開墾地、バザイハ村やトルガシーノ村ができた(コサック隊長の名前から命名)
 この隣には動物園『ロエフ・ルチェイ』が2000年からある。ロエフ・ルチェイ(掘って洗った小川)と言う名前は19世紀クラスノヤルスク地方のゴールド・ラッシュ時代、ここで砂金を掘って洗った川が近くを流れているからだ。
 エニセイ右岸に沿って、クラスノヤルスク岩山公園を通り過ぎたところに検問所がある。銃を持った公務員が怪しげな車を止めて免許証やパスポートを調べたりトランクをのぞいたりするが、普通の車でも免許証を調べることがある。私は1998年から2004年の滞在中、何度も運転して通ったし、何度も停止させられて調べられたものだ。大都市の出入り口には必ずこうした検問所がある。中小の都市でもあり、主要国道の分岐点辺りにもあって、そこだけ道幅の狭い1車線になり、銃を持った公務員が近くでにらむ横を速度を落として通過しなければならない。

 その先の、クラスノヤルスク市街から30キロも行ったところにクラスノヤルスク水力発電所とダム湖があり、これも10ルーブリ紙幣に載っている。ソ連崩壊後1990年前半に、レーニンの肖像の紙幣の代わりに発行されたのは、どの額もモスクワのクレムリンのデザインだったが、90年代後半にデザインされ今でも使われている(しかしもう印刷はされていない)10ルーブル紙幣はクラスノヤルスク特集だった。ちなみに5ルーブルはノヴゴロド市で、50ルーブルはサンクト・ペテルブルク市、100ルーブルはモスクワ市、500はアルハンゲリスク市、インフレが進んで現れた1000はヤロスラブリ、2006年になって発行された5000はハバロフスクだ。
 クラスノヤルスク水力発電所は1967年から稼働(着工1956年、完成1972年)。当時はロシア最大、現在はサヤノ・シューシェンスカヤ発電所(事故前)に次ぐ。ダムができたため、環境は大変化した。計画中はダムの下流20キロまでしか冬でも凍らないとされていたのが、実際は200キロも凍らなくなったことだ。事実、真冬、クラスノヤルスク市の気温が零下30度でも、エニセイ川はダム湖の(氷の下)から流れてくる水のため凍らず、一面の蒸気が立つ。
1.コムナリ橋 2.オクチャブリ橋 3.スリーセブン 4.第4の橋 
 クラスノヤルスク発電所を作るためディヴィノゴルスク市が右岸にできた。市の対岸のエニセイ左岸は絶壁になっていて素晴らしい景観なのでディヴィチ(驚嘆させる)ゴーラド(町)と言う名前がついたとか。1956年に発電所建築従事者のための集落ができるずっと前、19世紀後半、この地の近くには男子修道院領があった。1920年閉鎖され、元の修道院は孤児院になった。1930年代は修道院領に林業試験場もあった。今でも、もと教会だった木造建物の一部が残っていて芸術家が住んでいる。(芸術家用のもっと仕事のしやすいアトリエをディヴィノゴルスク市は供給する予算がないそうなので)
 ディヴィノゴルスク市の近くのリストヴェンカは1983年から1997年にかけて調査され、1万6千年前から1万年前の後期旧石器の20層の文化遺跡地層に住居跡、狩猟の獲物の加工跡や子供の骨の一部が発掘されたそうだ。クラスノヤルスク近郊のエニセイ川ほとりには、このほかにもバザイハ川に新石器時代遺跡があり、また左岸の有名なアフォントヴォ・ガラ(丘)(2万年から1万2千年前の後期旧石器の4か所の遺跡)については、詳しく調査されていて、たいていの考古学の本に載っている。
尋ねあてたアーチンスク旧石器遺跡発掘跡

 旧石器時代遺跡と言えば、クラスノヤルスクから西へ160キロのアーチンスク市にもある。11月16日、アーチンスクへ行く機会があったので、まずは博物館に寄って、詳しい場所を聞いて行ってみた。博物館の掲示によれば2万5千年から2万年前、1998年刊『エニセイ百科』によれば1万6千年から1万3千年前とある。1960年発見で1972年まで調査されたと言う住居跡は、行ってみると、今は何もなく、泥沼とゴミ捨て場になっていた。広い範囲を数メートルも掘るので、遺跡の発掘跡はちょうどよいゴミ捨て場になるのだろうか、と思ってしまう。

 11月17日は夜遅くクラスノヤルスクを出発して、ハバロフスク経由、ウラジオストックで一泊して帰国の途に着く日だったが、出発前、時間がたっぷりあったので、クラスノヤルスク市から75キロ北のスホ・ブジムスコエ村へ行った。スホ・ブジム区の中心でエニセイ川の左岸支流ブジム川が流れている。『スホ』はロシア語で『乾いた』、『ブジム』はアリン語で『濁った(川)』と言う意味で、クラスノヤルスク北のこの森林草原地帯には17世紀ロシア・コサック前哨隊が徴税地を求めてエニセイ川を遡って来るまでは、エニセイ・キルギス(ハカシア人の祖先)に貢納するエニセイ語族(チュルク語化していたが)のアリン人が住んでいた。その族長はチュリキンといったので、当時のロシア人はクラスノヤルスク市の北方を『チュリキンの地』と呼んでいた(上記参照)。
11月10日から17日の
行程
 スホ・ブジム区にはコーノヴォとか、ミンデルラとか、ヴィソチノとかいう村があるが、それらは18世紀に前哨隊基地村の開墾をしたコザックの名から来ている。アタマノヴォ村などは『(コザックの)隊長村』と訳せる。当時の中央シベリア中心地エニセイスク市からクラスノヤルスクへの道路沿いにできたものだ。それで、もともとのアリン人たちは南のキルギスの地に移って行ったとある。シラー村はエニセイスク市からクラスノヤルスク市への駅逓馬車の宿場としてできたとあり、一方ボルスクシリンカなど新しい村はスターリン時代の強制移住者村としてできた。
 スホ・ブジム村へ行ったのは、クラスノヤルスクのガイドのネルリさんが、そこにはなかなか立派な博物館があると教えてくれたからだ。ネルリはロシアでも最も有名な画家のスーリコフ(1848-1916)(注)がクラスノヤルスク出身なのを誇っていたからだろう。スホ・ブジムスコエ村郷土博物館も、ソヴィエト様式の壁画のある文化会館の近くにあった。父親の勤務でスホブジムスコエで少年時代を過ごしたというスーリコフの絵の写真が何枚も展示してあった。この地で彼は絵筆をとり始め、将来の傑作にはこの地の影響があると、博物館のパンフレットにある。
(注) ワシーリー・スーリコフはクラスノヤルスクでコザックの家系に生まれる。祖父はエニセイ・コザック隊の隊長(アタマン)。母方の祖父はクラスノヤルスク市エニセイ右岸のトルガシーノ(旧トルガシーノ・コサック大村)の百人隊長トルガシン。ちなみにトルガシーノ区は、往時、最も美しかったエニセイ・コサックの大村だったが、ソ連時代、コサック成人男性は富農として粛清され、同区は(特に第2次世界大戦前後から)工場地帯になった。その後、トルガシーノ区のはずれからダーチャが発展して、今では場所によってはニュー・リッチの瀟洒な別荘も建っている(しかし、1等地ではない)。
 現在、トルガシーノはクラスノヤルスク市スヴェルドロフスキィ区の一部で、トルガシーノは通称または団地名になっている。なお当地には『プラスコヴィヤ(スーリコフの母の名)の石』という記念碑が立つ。
スホ・ブジムスコエ村 博物館前の廃墟のトロ
イツカヤ教会(右)と英雄ソヴィエト戦士の碑(左)
 郷土博物館なので、つい最近まで使っていたような農村の道具もたくさんあって、ガイドが一つ一つ丁寧に説明してくれた。
 村の中心の博物館の向かいには1901年に建てられて、今は廃墟の教会が見える。

 シベリアの田舎ってどこへ行っても興味深い。一見、道はぬかるみ、塀は傾き、道端の雑草の中に粗大ゴミが置いてありそうに見えても、中へ入ってみると、それぞれに歴史があり、それぞれに迎えてくれる。
 ハカシアやクラスノヤルスクで知り合った人と、可能な限り、電子メールのアドレスを交換した。2011年3月の大地震と津波、原発事故の時は安否を尋ねるメールがどっと舞い込んできたものだ。彼らはインターネット通信の環境があまり良くない所に住んでいるので、普通は書いたり書かなかったりだが、この時は、何年も音信のなかった知人も書いてきた。私も、普通は返事をすぐ出したり出さなかったりだが、この時はすぐさま出したものだ。
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