と滞在後記
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up date | 08 June, 2011 | (校正 2011年11月22日、2012年4月25日、2015年1月13日、2016年11月28日、2022年2月6日) |
シベリヤの中心クラスノヤルスク(追記) 2010年11月 |
Центр Сибири - Красноярск (10.11.2010-17.11.2010)
前編 |
1.未知の町クラスノヤルスク | |
2.クラスノヤルスクの始まり | ||
3.クラスノヤルスクの発展 | ||
4.クラスノヤルスクの名所 | ||
後編 |
5.偶然のクラスノヤルスク | |
6.クラスノヤルスクの四季 | ||
7.クラスノヤルスクに生活していると | ||
追記 |
8.クラスノヤルスク観光(2010年晩秋) | |
9.郊外の観光スポット | ||
10.アーチンスク市石器時代遺跡 | ||
11.スーリコフのスホ・ブジム村 | ||
ストレルカ広場近くからエニセイ川を見る | ||
追記2 | クラスノヤルスク観光(2011年秋) | |
追記3 | クラスノヤルスク観光(2018年冬) |
2010年10月25日ウラジオストック経由でクラスノヤルスクへ入り、すぐハカシア共和国を回る旅に出た。アバカン川中流のコイバリ草原ベヤ村でホームスティしながら、2週間もハカシア(ハカス)・ミヌシンスク盆地を回った。先住民のチュルク語系ハカシア人の村、紀元前の古墳群、岩画、古代人の要塞跡(神殿だったかもしれない)、少数民族ショル人の住むトミ川上流のビスカムジャ町などを訪れた。11月10日には、クラスノヤルスク・ダム湖に沈みかける古墳を薄雪の積もる夕闇に見て、クラスノヤルスク市に戻った。帰りのウラジオストックに向けての出発までまだ1週間ある。クラスノヤルスク市を回った(以下の文は当サイトの『晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪(2010年10月22日から11月19日)』の『(13)夕闇の半水没クルガン、クラスノヤルスク観光(11月10日から11月17日)』からの抜粋) |
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クラスノヤルスク市観光 | |||||||||||||||||||||||||||||||
クラスノヤルスク市の観光と言えば、市の中心コムナリ橋(10ルーブル紙幣にデザイン化)袂の広場をまわることだ。ここに、エニセイ川に向かって立つチェホフの像がソ連時代からある。チェホフはサハリンへ行く途中に『シベリア紀行』したわけだが、モスクワ(サンクト・ペテルブルク)からシベリア横断の道は当時も今も1本で、必ずクラスノヤルスク市でエニセイ川を渡る。『シベリア紀行』でチェホフはエニセイの美を讃えているが、その部分が抜粋されてチェホフ像の台座に打刻してある。今は、コムナリ橋前広場には、この像より、21世紀になって市長がたくさん作った噴水の方に住民は憩う、らしい。 一応、市内観光は、クラスノヤルスク市のほぼ全体を見下ろせるカラウリ(見張り)丘に建つ礼拝堂(10ルーブル紙片にデザイン化)や、カーチャ川がエニセイ川に注ぐ辺りに、1628年コザック前哨隊がクラスノヤルスク柵を建てたストレルカ広場などをまわることになっている。 ストレルカ広場には、長崎からの帰途の1807年に、この地で病死したレザノフの像がある(最近建ったもの)。そのストレルカ広場に面して、革命前はヴォスクレセンスキィ寺院のあった場所に、今コンサート・ホールが建っている。1930年代ロシア中で歴史的であっても宗教的な建物は、破壊され(その土台か、一部を利用して)非宗教的な施設に建て替えられたのだ。 クラスノヤルスクは観光都市ではないが、ここ10年ばかりの間に、ギリシャ・ローマ神話などからとった彫刻のある噴水広場がいくつもできたり、新しくロシア正教会ができたり、シベリア街道(*)のミニチュアが市内で最も名前の長い通りガジェタ・クラスノヤルスキィ・ラボーチィ(クラスノヤルスク労働者新聞)大通りにできたりしている。
(*) シベリア街道(モスクワ・シベリア街道とも、モスクワ街道とも呼ばれている)は18,19世紀に、ロシア・ヨーロッパ部からウラル山脈のペルミやエカチェリンブルクを通り、クラスノヤルスクでエニセイ川を渡り、イルクーツクへ行くほぼ唯一の大動脈だった。この陸路のシベリア街道ができる前は、河川路をたどり、水路が切れると次の河川まで陸に上がり(舟を引くための2河川を結ぶ陸路をволокヴォーロクと言って、オビ川水系とエニセイ川水系を結ぶヴォーロクで有名なのはマコフスコエなど)、おおむね水路伝いに大回りしてシベリアを横切っていたので、時間もかかり安全ではなかった。このモスクワ街道に沿って19世紀末から20世紀初めにシベリア幹線鉄道もできた。しかし、チタ(スティレンスク)からハバロフスクまでの陸路は20世紀になってもなかった。今の国道M58号線『アムール』道(チタ市からハバロフスクまで2097キロ)が近代的な道路になったのは21世紀。 つまり、歴史的なシベリア街道はウラジオストックまでは通じていなかったが、クラスノヤルスク市の観光にもなっているミニチュアにはモスクワ、エカチェリンブルク、クラスノヤルスク、イルクーツクの次にはウラジオストックのオベリスクも建っていた。もっとも、鉄道なら20世紀初めに開通している。
昔のシベリア街道とほぼ同じルートを、ウラル山脈から太平洋岸まで連邦道が通じている。M51号がチェリャービンスクからノヴォシビリスクまで、M53号がノヴォシベリスクからイルクーツクまで、M55号がイルクーツクからチタまで通じていて、その3本は『バイカル道』という名がついている。その先のM58号の『アムール道』がハバロフスクバリフスクまで、M60号の『ウスーリ道』がウラジオストックまで普通に通れるようになったのは、前記のように21世紀になってからだ。 連邦道M53号線は、今でこそバイパスができてクラスノヤルスク市街地を迂回しているが、少し前まではエニセイ川を渡るとエニセイ川右岸通りを東へ進んでいた。今、右岸通りはガジェタ・クラスノヤルスキィ・ラボーリィ大通り(上記)と名付けられていて、(その中ほどには前記モスクワ街道のミニチュアが最近できた)入り口にはソヴィエト風のレリーフがある。帝政時代、流刑囚(革命家)たちが鎖でつながれて運ばれて行った道というので、それを描いたソヴィエト風モニュメントで、『枷をはめられた囚人の道』という群像だ。シベリア街道は、他に東西への道もなく、徒刑囚護送の主要道でもあった。(ジョージ・ケナンの『シベリアと流刑制度』で詳しい)。スターリン時代は、この通りを政治犯が東へ送られた。だから、2000年頃、この通りのエニセイ川の見える丘に大殉教者聖フェオドール・ティロン(アマゼヤの聖テオドール)教会ができた。 11月13日、ガイドと一緒にここまで来るとエニセイ川の中州タートィシェフ島Татышевがよく見える。市内のエニセイ川では最も大きな中洲で、1990年代は浮浪者が住んでいたが、もともとスポーツ公園だった。つまり正規の住宅がなく、特に設備もなかった。今、自転車ロードやカントリー・スキー場などレジャー産業の投資がなされつつあるそうだ。完成すると大アミューズメント・パークができるとか。 ガイドが教えてくれたことだが、タートィシェフと言うのは、クラスノヤルスク柵ができた17世紀前半、ロシア帝国コサック前哨隊に協力したエニセイ語族の一つ(現存はケット語族のみで、あとは周りのロシア語やハカシア語などに同化)の首長だったそうだ。エニセイ川中流盆地には古くはエニセイ語族が住み、後にチュルク語系民族が移り住み、住み分けたり先住民をより北や山岳地帯へ追いやって遊牧生活をしていた。 帰国後サイトなどで調べたところでは、17世紀初めごろ、エニセイ語系のアリン語族(アリンツィ*)が現在のクラスノヤルスク市の北に住み、チュルク語系のカーチャ族(カーチンツィ**)が南東に住んでいたが、アリン語は18世紀後半に消滅、カーチャ族は南に移動してハカシア人(やトゥヴァ人)の一部になったとある。ちなみに、アリン語はクラスノヤルスク市周辺やその北に川など水系の地名として広く残っている。
1986年、このタートィシェフ島を経由してエニセイ川に2600メートルのオクチャブリ橋が完成した。ちなみに、エニセイ川にかかった自動車と歩行者用の第1号の橋は、町のより中心にあって10ルーブル紙幣にもデザインされているコムナリ橋で、やはり中州のオッディハ島を経由して、1961年やっと完成している(2100メートルで当時アジアでは最長)。それより前、1899年に開通した鉄道橋は、1900年パリ万博でエッフェル塔と並んで最新技術建造物として優勝さえしているが、エニセイ川には1961年まで、車や歩行者の通れる不動の橋はなかった訳だ。つまり、それまでは舟橋だった。その前は渡し船でエニセイを渡った。今、クラスノヤルスク市郊外のエニセイ下流に3番目の自動車用と鉄道支線用共通の橋『スリー・セブン』(1984年ほぼ完成だが、開通はなぜはずっと遅れた)があり、2008年には大(遠回り)バイパスの一環としてさらに下流に『北バイパス橋(通称プーチン橋)』ができたが、それより下流のエニセイには約2650キロ先の北極海の河口まで橋はない。 (追記 :しかし、2023年開通を目指してクラスノヤルスク市より300キロ下流のレソシビリスク市対岸に新たに橋ができるそうだ)
(*)ストレルカ広場(クラスノヤルスク市発祥の地) 支流はたいてい斜めに合流してくるので、その合流点は陸地が矢印のようになっているため、ストレルカ(矢印)町やストレルカ村という地名がロシア中に多い。または河口(ウスチ)+支流名という地名になる。例はソース川がアバカン川に合流する地点のウスチ・ソース村など。だから、クラスノヤルスク市は1628年、北のエニセイスクを守備する要塞としてエニセイスクから馬で4日の地点にできた時はウスチ・カーチャとも呼ばれていた。またはアリン人(上記参照)の首長チュリキンから『チュリキンの地』とも呼ばれたそうだ。1623年からチュリキンの地に築く柵(要塞)のための場所を探していたエニセイ・コサック(ロシア帝国のシベリア屯田兵の一つでエニセイ方面に定住)は、カーチャ川の河口(ストレルカになっている)が、背後には赤い粘土の崖(クラスヌィ・ヤール)もあり、森も近く、耕地にできる地面もあり、干し草を刈る草原もあって格好の地だと、この場所に決めたのだと資料にある。クラスノヤルスク岩山公園の麓にバザイハ村(*)がある。ここから公園への上り口もあるが、現代的なロープウエイ付きスキー場(ボブローヴィ・ロック)も2006年できた。11月17日に、雪の量はまだ不十分でシーズンは始まっていたかったが、一応登ってみた。コザック前哨隊がエニセイ中流に住む遊牧民を見張っていたカラウリ丘は左岸の高台だが、ここは右岸の高台で、バザイハ川が蛇行してエニセイに注ぐ様子や、対岸の左岸絶壁の上にまでクラスノヤルスク市が続いている景色も一望できる。 (*)バザイハ村 1628年クラスノヤルスク柵が今のエニセイ川左岸ストレルカ広場にできた頃、その周囲や右岸には、もちろん先住民が住んでいた。柵の擁護のためにも、17世紀中頃にはコザック前哨隊の開墾地、バザイハ村やトルガシーノ村ができた(コサック隊長の名前から命名)この隣には動物園『ロエフ・ルチェイ』が2000年からある。ロエフ・ルチェイ(掘って洗った小川)と言う名前は19世紀クラスノヤルスク地方のゴールド・ラッシュ時代、ここで砂金を掘って洗った川が近くを流れているからだ。 エニセイ右岸に沿って、クラスノヤルスク岩山公園を通り過ぎたところに検問所がある。銃を持った公務員が怪しげな車を止めて免許証やパスポートを調べたりトランクをのぞいたりするが、普通の車でも免許証を調べることがある。私は1998年から2004年の滞在中、何度も運転して通ったし、何度も停止させられて調べられたものだ。大都市の出入り口には必ずこうした検問所がある。中小の都市でもあり、主要国道の分岐点辺りにもあって、そこだけ道幅の狭い1車線になり、銃を持った公務員が近くでにらむ横を速度を落として通過しなければならない。 その先の、クラスノヤルスク市街から30キロも行ったところにクラスノヤルスク水力発電所とダム湖があり、これも10ルーブリ紙幣に載っている。ソ連崩壊後1990年前半に、レーニンの肖像の紙幣の代わりに発行されたのは、どの額もモスクワのクレムリンのデザインだったが、10ルーブル紙幣として90年代後半にデザインされ今でも使われている(しかしもう印刷はされていない)。前記チソーゥニャ(礼拝堂)、コムナリ橋など10ルーブル紙幣はクラスノヤルスク特集だった。ちなみに5ルーブルはノヴゴロド市で、50ルーブルはサンクト・ペテルブルク市、100ルーブルはモスクワ市、500はアルハンゲリスク市、インフレが進んで現れた1000ルーブルはヤロスラブリ、2006年になって発行された5000ルーブルはハバロフスクだ。 (*)後記:ロシアの紙幣 2017年には『2017年特別シリーズ』としてセヴァストーポリ市の200ルーブルと、極東地域2000ループル紙幣が発行された。極東地域というのは、ヴァストーチヌィ宇宙基地のあるアムール州や、極東連邦大学や世界最長の1104メートルの斜張橋のあるウラジオストックのことだ。クラスノヤルスク水力発電所は1967年から稼働(着工1956年、完成1972年)。当時はロシア最大、現在はサヤノ・シューシェンスカヤ発電所(事故前)に次ぐ。ダムができたため、環境は大変化した。計画中はダムの下流20キロまでしか冬でも凍らないとされていたのが、実際は200キロも凍らなくなったことだ。事実、真冬、クラスノヤルスク市の気温が零下30度でも、エニセイ川はダム湖の(氷の下)から流れてくる水のため凍らず、一面の蒸気が立つ。
ディヴィノゴルスク市の近くのリストヴェンカは1983年から1997年にかけて調査され、1万6千年前から1万年前の後期旧石器の20層の文化遺跡地層に住居跡、狩猟の獲物の加工跡や子供の骨の一部が発掘されたそうだ。クラスノヤルスク近郊のエニセイ川ほとりには、このほかにもバザイハ川に新石器時代遺跡があり、また左岸の有名なアフォントヴォ・ガラ(丘)(2万年から1万2千年前の後期旧石器の4か所の遺跡)については、詳しく調査されていて、たいていの考古学の本に載っている。
11月17日は夜遅くクラスノヤルスクを出発して、ハバロフスク経由、ウラジオストックで一泊して帰国の途に着く日だったが、出発前、時間がたっぷりあったので、クラスノヤルスク市から75キロ北のスホ・ブジムスコエ村へ行った。スホ・ブジム区の中心でエニセイ川の左岸支流ブジム川が流れている。『スホ』はロシア語で『乾いた』、『ブジム』はアリン語で『濁った(川)』と言う意味で、クラスノヤルスク北のこの森林草原地帯には17世紀ロシア・コサック前哨隊が徴税地を求めてエニセイ川を遡って来るまでは、エニセイ・キルギス(ハカシア人の祖先)に貢納するエニセイ語族(チュルク語化していた)のアリン人が住んでいた。その族長はチュリキンといったので、当時のロシア人はクラスノヤルスク市の北方を『チュリキンの地』と呼んでいた(上記参照)。
スホ・ブジム村へ行ったのは、クラスノヤルスクのガイドのネルリさんが、そこにはなかなか立派な博物館があると教えてくれたからだ。ネルリはロシアでも最も有名な画家のスーリコフ(*)(1848-1916)がクラスノヤルスク出身なのを誇っていたからだろう。スホ・ブジムスコエ村郷土博物館も、ソヴィエト様式の壁画のある文化会館の近くにあった。父親の勤務でスホブジムスコエで少年時代を過ごしたというスーリコフの絵の写真が何枚も展示してあった。この地で彼は絵筆をとり始め、将来の傑作にはこの地の影響があると、博物館のパンフレットにある。 (*) ワシーリー・スーリコフはクラスノヤルスクでコザックの家系に生まれる。祖父はエニセイ・コザック隊の隊長(アタマン)。母方の祖父はクラスノヤルスク市エニセイ右岸のトルガシーノ(旧トルガシーノ・コサック大村)の百人隊長トルガシン。ちなみにトルガシーノ区は、往時、最も美しかったエニセイ・コサックの大村だったが、ソ連時代、コサック成人男性は富農として粛清され、同区は(特に第2次世界大戦前後から)工場地帯になった。その後、トルガシーノ区のはずれからダーチャが発展して、今では場所によってはニュー・リッチの瀟洒な別荘も建っている(しかし、1等地ではない)。現在、トルガシーノはクラスノヤルスク市スヴェルドロフスキィ区の一部で、トルガシーノは通称または団地名になっている。なお当地には『プラスコヴィヤ(スーリコフの母の名)の石』という記念碑が立つ。
村の中心の博物館の向かいには1901年に建てられて、今は廃墟の教会が見える。 シベリアの田舎ってどこへ行っても興味深い。一見、道はぬかるみ、塀は傾き、道端の雑草の中に粗大ゴミが置いてありそうに見えても、中へ入ってみると、それぞれに歴史があり、それぞれに迎えてくれる。 ハカシアやクラスノヤルスクで知り合った人と、可能な限り、電子メールのアドレスを交換した。2011年3月の大地震と津波、原発事故の時は安否を尋ねるメールがどっと舞い込んできたものだ。彼らはインターネット通信の環境があまり良くない所に住んでいるので、普通は書いたり書かなかったりだが、この時は、何年も音信のなかった知人も書いてきた。私も、普通は返事をすぐ出したり出さなかったりだが、この時はすぐさま出したものだ。 |
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