クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 08 June, 2011(校正 2011年6月28日、11月22日、12年4月20日、5月18日
晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(13)夕闇の半水没クルガン、クラスノヤルスク観光
           2010年10月22日から11月19日(のうちの11月10日から11月17日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ
8 ヴァロージャのハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク市観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、エニセイに架かる橋)アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ

 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ
 11月10日、この日はアバカン経由、クラスノヤルスク市に戻る日だった。クラスノヤルスクでの予定は決まっていなかったが、ひとまず戻ってから考えよう、と言うので8時前には後ろの座席に、レーナさんと言うディハーノフカ村からの女性を乗せて、ベヤ村を出発した。レーナさんも途中のチェルノゴルスクへ行くので送って行くそうだ。ディハーノフカ村はベイ村からほんの6キロほどのジョイ山脈のふもとにある行き止まりの集落だ。
 19世紀末、ヨーロッパ・ロシアやウクライナから多くの農民が新天地を求めてシベリアに来た。ベヤ区へやってきたウクライナ人やドン川流域からのロシア人は、主に平野部草原に自分たちの開墾地を作り、中央ロシア部(モスクワ周辺)からの移民は、より山麓地帯の針葉樹林(タイガ)地帯に住みついたそうだ。故郷の地形によく似ていたからだろう。ディハーノフカ村は19世紀末ディハーノフと言うロシア人の開墾地から始まって、ソ連時代は素朴だが豊かなコルホーズがあったと、前記の冊子『ベヤの地』にある。サーシャの知り合いが住んでいるなら、人口112人のロシア人村でも行けばよかった、とレーナさんに言うと、
「あなたはクルガンや岩画など古代文明に興味があるとサーシャが言っていたので、ディハーノフカの様な普通の田舎村はわざわざ寄りたがらないだろうと思ったわ」だって。
 10時過ぎにはレーナさんのゼリョーノエ村(チェルノゴルスクから4キロ南)へ送って行った。ここに、1928年農地改良試験場ができ、2004年には1457人の住民の村になっている。道路は舗装がなくぬかるんで、道端にはごみの山があった。文明地に近くても公共設備など行きとどいていないと、快適そうには見えない。昨日の小モナック村なら住みたいが、ここには住みたくないと、レーナさんと別れてからサーシャにこっそり言ったものだ。
サラガッシュ

 チェルノゴルスクのサーシャ宅にも寄り、国道54号線にでて再びクラスノヤルスクに向かったのは2時ごろだった。サーシャはあまり飛ばさないのでクラスノヤルスクまで4時間はかかる。遅くない時間にクラスノヤルスクに着かないと、今晩の私の宿泊所は探せないと急いでいるようだったが、その心配には及ばない。今晩泊まるところは決まっているからそんなに急がなくてもいいと、一か所だけ寄り道してもらった。
 チェルノェ・オーゼロ方面のガイドをしてくれたヴァロージャが、サラガッシュ村近くでクラスノヤルスク・ダム湖に沈みかけているクルガン群があると言っていた。これをぜひ見ようと思ったのだ。
 サラガッシュはアバカンから150キロほど北(クラスノヤルスクの方向)にあるので、帰り道には寄れる。このサラガッシュは、元々のサラガッシュ村が1960年代ダム建設の水没予定地だったので山手の方に移ってできたできた。新サルガッシュ村は国道の西側にあり、ダム湖は東側にある。ここまで来た時はもう4時を過ぎて薄暗くなりかけていたが、緯度の高いシベリアではたそがれてもなかなか暗くはならない。半水没のクルガン群はどの辺にあるのか、ここでヴァロージャにもう一度電話して場所を聞いた。
 国道から出て、枯れ葉の陰に薄雪の積もる丘陵の小径をダム湖の方に入って行った。ここに陸地に深く入り込んだ2個続きの入江があって、ダムのできる前は山や谷が入りこんでいて、少し前までは村があったのだ。古代から人々が生活してきた場所だったのだ。南側がヴァルチャ湖と言うのも、ヴァルチャ山のふもとにあって、入江の入口が狭く湖のようだからかもしれない。北がチョールナヤ・レチカ湖と言うのも、ここに以前はその名前の村があったからかもしれない。ダム湖もヴァルチャ入江もチョールナヤ・レチカ入江も季節によるダム湖の水位に関係なく数百メートルくらいの水路幅で繋がっている。 
発掘調査済みのクルガン
半・水没のクルガン
水面すれすれのクルガン群
 帰国後、5万分の1の地図(たぶん1990年代初め修正)で見ると、この辺り一面に、ダム湖の近くも、入り江の近くも、山手の方にも『古代人の墓』と書いてある。ヴァロージャの電話は運転するサーシャに聞いてもらったので、後から地図を見ても、どの小径をたどったのかわからない。こんなところは『けもの道』の現代版『くるま道』しかないので新しくできたり、消えたりするかもしれない。右へ右へと言ったからたぶんヴァルチャ湖の方だろう。
 わだちの跡に薄雪が積もって白い2本のレールのように見える。発掘済みのクルガンがいくつもあり、塚穴にも薄雪が積もっていた。クルガンの石に乗りあげないよう、注意深くいかなければならない。粉雪が降って冷たい風が吹き、辺り一面無人の丘陵だった。
 平たい石を横に立てて並べた方形のクルガン(と言っても、盛り土はもうない)の中ほどに、やはり平たい石を立てて並べて人がちょうど横たわるくらいの大きさにした四角の棺がある。この後期ダガール人が葬られた紀元前数世紀の頃は副葬品もあったし、石棺にふたもあったし、その上に盛土もあっただろう。大きなクルガンにくっついて小さなクルガンがある。方形のクルガンの角石は立ててあり、どれも一定の方向を向いている。
 さらに、たぶんヴァルチャ湖をぐるりと回り、入り江側に出たと思う。丘の斜面が緩やかに水面に向かい、開けた草原が広がっていた。この頃は5時を回って、フラッシュなしで遠景がやっと撮れるほどの明るさだった。ここには水面すれすれに無数のクルガンが群がっていた。薄明かりの中、青黒いダム湖をバックに白い薄雪の積もった浜辺(砂地ではないが)に、方形のクルガンを囲んでいる大小の立ち石、その上にも薄雪が積もり、微妙に青黒い陰影を落としている。ダム湖の向こうには対岸の山の稜線が青く見えるが、山中には雪が積もっている。
 ここで、旅行会社のツアー・グループはランチにするそうだ。鏡のような湖面に映る対岸の山々、水面と同じ高さの無数のクルガン石は、晴れた夏の日に一休みする場所として格好だ。だが、この日は、フラッシュをたくともう空中に舞っている雪片が大きな白丸として出てきて、辺りは青暗かった。水の中からもクルガンの石が出ていた。
 サルガッシュ・クルガン群は、晴れ上がった夏の日や、夕日が美しく水面を照らしている様子も想像できる。しかし、晩秋の黄昏時、ダム湖の水面がひたひたと音を立てている岸辺に、平たい石を立てて埋めてできた整然とした長方形がいくつも並んでいる光景は、周りにだれもいなく、粉雪がかすかに舞っているだけ、幻想的で、いつまでも離れたくはなかった。
 紀元前8世紀から紀元前2世紀とされるハカシア・ミヌシンスク盆地のタガール時代は4期または2期に時代区分されていて、後半をサルガシュ期と言う。
 クラスノヤルスク市観光
クラスノヤルスク市  コ橋(コムナリ橋) 
ガクラ大通(ガジェタ・クラスノヤルスク・ラボーチィ大通り
 クラスノヤルスク市では、本屋へ行ったり、音楽会に行ったり(11月11日)、古い知り合いと会ったり(12日と14日)、ガイドを頼んで3時間のクラスノヤルスク市内観光をしたり(13日)、クラスノヤルスク博物館をまた訪れたり(13日)、公証人役場へ行って書類(必要があって信任状)を作ってもらったり(17日)、クラスノヤルスク市郊外のスキー場へ行ったり(17日)、クラスノヤルスクから西160キロのアーチンスク市へ行ったり(16日)、北へ70キロのスホ・ブジムスコエ村(17日)へ行ったりしていた。この7日間の予定を組むのも難しかったものだ。
 クラスノヤルスク市の観光と言えば、『シベリア紀行』の中でエニセイの美を讃えるチェホフの像が建つ市の中心コムナリ橋(10ルーブル紙幣にデザイン化)の近くの広場や、クラスノヤルスク市のほぼ全体を見下ろせるカラウリ(見張り)丘に建つ礼拝堂(10ルーブル紙片にデザイン化)や、カーチャ川がエニセイ川に注ぐ辺りに、1628年コザック前哨隊がクラスノヤルスク柵を建てたという市の発祥の地ストレルカ広場などをまわることになっている。ストレルカ広場には、長崎からの帰途の1807年に、この地で病死したレザノフの像がある。広場に面して、革命前はヴォスクレセンスキィ寺院のあった場所にコンサート・ホールも建っている。1930年代ロシア中で歴史的ではあるが宗教的な建物は、破壊され(その土台か、一部を利用して)非宗教的な施設に建て替えられたのだ。
 クラスノヤルスクは観光都市ではないが、ここ10年ばかりの間に、ギリシャ・ローマ神話などからとった彫刻のある噴水広場がいくつもできたり、新しくロシア正教会ができたり、シベリア街道(注)のミニチュアが市内で最も長い通りガジェタ・クラスノヤルスキィ・ラボーチィ(クラスノヤルスク労働者新聞)大通りにできたりしている(距離も長いが名前も長い)。
ストレルカ広場、レザノフの像、その背後には
2003年にできた『凱旋門』
(ロシア人好みの建造物の一つ)
モスクワ街道のミニチュア版、
太平洋岸の港まである
シベリア街道
 
(注) シベリア街道(モスクワ・シベリア街道とも、モスクワ街道とも呼ばれている)は18,19世紀に、ロシア・ヨーロッパ部からウラル山脈のペルミやエカチェリンブルクを通り、クラスノヤルスクでエニセイ川を渡り、イルクーツクへ行くほぼ唯一の大動脈だった。陸路のシベリア街道ができる前は、河川路をたどり、水路が切れると次の河川まで陸に上がり(舟を引くための2河川を結ぶ陸路をволокヴォーロクと言って、オビ川水系とエニセイ川水系を結ぶヴォーロクで有名なのはマコフスコエ)、おおむね水路伝いに大回りしてシベリアを横切っていたので、時間もかかり安全ではなかった。
18世紀初めごろから陸路で横断するルートが捜索され、モスクワからウラル山脈を越えると、まずは、当時シベリア経営の中心だったトボリスクまで、ついでトムスクまで宿場(馬の交換ができる)のある陸路ができ、ペテルブルクから月2回の定期飛脚(駅逓制度)が可能になった。その先のクラスノヤルスクやイルクーツクまでの陸路は、その頃エニセイ川中流一帯に広く遊牧していたエニセイ・キルギス族を南(今のハカシア)に追うか、定着農耕民にして安全を確保した1730年代にできた。
イルクーツクより先の陸路捜索は、ピョートル大帝の命で1727年陸路でオホーツクに到着したベーリング隊に課せられていたのだ。ベーリング海峡やベーリング海にその名が残るヴィトゥス・ベーリングはユーラシア大陸とアメリカ大陸は陸続きではないことを(ヨーロッパ人のために)発見したのだが、シベリア統治のための最短安全交通路捜索も課題だった。
1733年にはモスクワからエニセイスク(その南のクラスノヤルスクを街道が通った)やイルクーツクまでは、月に1度の飛脚(駅逓馬車)を派遣、オホーツクやカムチャッカまでは2カ月に1度と、元老院令が下っている。
しかしシベリア街道とは、イルクーツクより東はネルチンスク条約で有名なバイカルの東650キロのネルチンスクまでか、または中国の茶を運んでいたことで有名なキャフタ貿易のキャフタのあるバイカルの南のモンゴルとの国境(当時は清国)までだ。

ネルチンスク条約>1689年、ロシア帝国と清国との満州での国境をアルグン川(北のシルカ川と合流して黒竜江・アムール川になる)と外興安嶺(スタノヴォイ山脈)と決めた。

キャフタ貿易>シベリア街道はロシア帝国のシベリア部の統治のためばかりでなく、中国との交易品も多く通ったので『ティー・ロード』とも呼ばれている。
ネルチンスク条約締結後始まったキャフタ国境貿易のおかげでシベリア経済は発展した。18世紀前半までは国営キャラバンのみが武装コザック兵の護衛付きで2,3年に1度程度往復していた。水路を通ったので片道1年ほどもかかったのだ。18世紀中ごろ国家独占が解かれキャフタ貿易に大商人が参加し、中国との貿易量の67%がキャフタ経由だった。また1775年、全ロシア税関収入の38.5%がキャフタから上がっている。
1760年代に陸路のシベリア街道が通行できるようになり、中国茶がヨーロッパ部まで2,3ヶ月で届くようになった。キャフタ貿易には1万人の運送人(駅逓馬車の御者)が従事していた。ロシアからは19世紀半ばまでは毛皮が主要輸出品で、1757-1784年には中国への輸出品の85%が毛皮だった。輸入品は絹、綿、茶、陶器などだが、19世紀半ばに中国茶を海上運送(黒海のオデッサに荷揚げ)するようになるまで、茶貿易はキャフタ独占だった。高価な茶は海上輸送だが、普段に飲む茶はキャフタを通じて運ばれていた。下記、榎本武揚の『日記』にも茶を積んだキャラバン隊とたびたび出会っていることが書かれている。19世紀後半にはそれまで多かった繊維製品が輸入から輸出に代わったのは、産業革命でロシア自身が生産するようになったからだ。

18世紀末、19世紀初めの江戸期の漂流民の大黒屋光太夫や石巻若宮丸漂流民などが、オホーツク海沿岸から西のペテルブルクへ行く時は、出発地オホーツク村からヤクーツク、イルクーツクまで長い間かかり、凍傷に苦しんでたどり着いている。イルクーツクから先は国営の街道があった。
1890年、チェーホフがサハリン島へ行くためシベリアを東に横断した時は、イルクーツクから先はチタ州のスティレンスクあたりからアムール川(正しくはシルカ川。アルグン川と合流してアムールになる)を航行して、アムールの河口間宮海峡(タタール)海峡のニコラエフスク港まで行っているし、榎本武揚の1878年ペテルブルグから日本へ帰った時の『シベリア日記』にも、イルクーツクからは、政治家らしくキャフタに寄り、チタ、ネルチンスクと陸路をとり、スティレンスクからはアムール川航路をとりウラジオストックにでたと書かれている。というのも、1860年の北京条約でウラジオストックを含む沿海地方やアムール川下流のニコラエフスク港を含むハバロフスク地方南部などがロシア帝国領になったからだ。
 このモスクワ街道に沿って19世紀末から20世紀初めにシベリア幹線鉄道もできた。しかし、チタ(スティレンスク)からハバロフスクまでの陸路は20世紀になってもなかった。今の国道M58号線『アムール道』(チタ市からハバロフスクまで2097キロ)が近代的な道路になったのは21世紀も数年過ぎたころで、途中にはどうしても陸路で通り抜けられない個所があり、そこは水路にするか鉄道にするしかなかった。
 つまり、歴史的なシベリア街道はウラジオストックまでは通じていなかったが、ガジェタ・クラスノヤルスキィ・ラボーチィ大通りのミニチュアにはモスクワ、エカチェリンブルク、クラスノヤルスク、イルクーツクの次にはウラジオストックのオベリスクも建っていた。もっとも、鉄道なら20世紀初めに開通している。
大殉教者聖フェオドール・ティロン
(アマゼヤの聖テオドール)教会
教会のある丘からエニセイ川を見下ろす、
対岸の高い建物との間にある中州タートィシェフ
エニセイ川の舟橋
(http://www.krasplace.ru/から)
17世紀クラスノヤルスク柵のあったと言うエニ
セイ畔(カーチャ川河口)とガイドのネルリ
ロープウェイで上って、バザイハ村と
その先のエニセイ対岸を見晴らす

 昔のシベリア街道とほぼ同じルートを、ウラル山脈から太平洋岸まで国道51号(チェリャービンスクからノヴォシビリスク)、53号(ノヴォシビリスクからイルクーツクまで)、55号(イルクーツクからチタまで)通じていて、『バイカル道』という名がついている。その先は58号『アムール道』がハバロフスクバリフスクまで、60号の『ウスーリ』道がウラジオストックまでで、モスクワからウラジオストックまで軽自動車でも普通に通れるようになったのは前記のように21世紀を越えてからだ。
 国道53号線は今でこそバイパスができてクラスノヤルスク市街地を迂回しているが、シベリア街道や、旧国道53号線はエニセイ川を渡るとエニセイ川右岸通りを東へ進むのだ。今、右岸通りは上記のようにガジェタ・クラスノヤルスキィ・ラボーリィ大通りと名付けられていて、(その中ほどにはモスクワ街道のミニチュアが最近できたが)入り口にはソヴィエト風のレリーフがある。帝政時代、流刑囚(革命家)たちが鎖でつながれて運ばれて行った道というので、それを描いたソヴィエト芸術シリーズの一つで、レリーフは『枷をはめられた囚人の道』という群像。シベリア街道は徒刑囚護送の主要道でもあった。(ジョージ・ケナンの『シベリアと流刑制度』で詳しい)。だが、スターリン時代は、この通りを政治犯が東へ送られた。だから、2000年頃、この通りのエニセイ川の見える丘に大殉教者聖フェオドール・ティロン(アマゼヤの聖テオドール)教会ができた。
 11月13日、ガイドと一緒にここまで来るとエニセイ川の中州タートィシェフ島がよく見える。市内のエニセイ川では最も大きな中洲で、1990年代は浮浪者が住んでいたが、もともとスポーツ公園だった。つまり正規の住宅がなく、特に設備もなかった。今、自転車ロードやカントリー・スキー場などレジャー産業の投資がなされつつあるそうだ。完成すると大アミューズメント・パークができるとか。
 ガイドが教えてくれたことだが、タートィシェフと言うのは、クラスノヤルスク柵ができた17世紀前半、ロシア帝国コサック前哨隊に協力したエニセイ語族の一つ(現存はケット語のみで、あとは周りのロシア語やハカシア語などに同化)の首長だったそうだ。エニセイ川中流盆地には古くはエニセイ語族が住み、後にチュルク語系民族が移り住み、先住民をより北や山岳地帯へ追いやって遊牧生活をしていた。帰国後サイトなどで調べたところでは、17世紀初めごろ、エニセイ語系のアリン語族(アリンツィ)が現在のクラスノヤルスク市の北に住み、チュルク語系のカーチャ族(カーチンツィ、ストレルカ広場でエニセイに合流するカーチャ川の名から)が南東に住んでいたが、アリン語は18世紀後半に消滅、カーチンツィは南に移動してハカシア人の一部になったとある。ちなみに、アリン語はクラスノヤルスク市周辺やその北に川など水系の地名として広く残っている。
 そのアリン族の当時の首長はタートィシェフで、夏の放牧地が現在のタートィシェフ島だったそうだ。アリン族は南のキルギス候国(ハカシア)やモンゴル系候国(アルティン・ハンなど)から徴税されていたが、ロシア帝国からも徴税されることになり、キルギス軍に参加して(ロシア帝国の)コサックの柵(基地)を攻めたり、コサック軍に参加してキルギス軍を攻めたりしていたが、やがて、ロシア人やカーチンツィに同化してしまったのか、19世紀の文献にはもうその名は出てこなくなったとある。
 1986年、このタートィシェフ島を経由してエニセイ川に2600メートルのオクチャブリ橋が完成した。ちなみに、エニセイ川にかかる橋の第1号で町のより中心にあって10ルーブル紙幣にもデザインされているコムナリ橋の方も、中州のオッディハ島を経由して、1962年完成している(2100メートルで当時アジアでは最長)。1899年に開通した鉄道橋は、1900年パリ万博でエッフェル塔と並んで最新技術建造物として優勝さえしているが、エニセイ川には1962年まで、車や歩行者の通れる不動の橋はなかった。つまり、それまでは舟橋だった。その前は渡し船でエニセイを渡った。今、クラスノヤルスク市郊外のエニセイ下流に3番目の自動車用(と鉄道支線用共通)の『スリー・セブン』橋があり、最近は大(遠周り)バイパスの一環としてさらに下流に4番目の橋ができたが、それより下流のエニセイには約2650キロ先の北極海の河口まで橋はない。

 クラスノヤルスク市は、コザックが柵(要塞)を作った今のストレルカ広場(注)のある左岸から発展し、歴史的な建物の大部分は左岸にあって、右岸のほうは戦時中ドイツ軍の侵攻のためヨーロッパ・ロシアから疎開してきた工場が多い。だから、右岸は生活環境が良くない通りも多い。しかし、右岸でもクラスノヤルスク郊外の上流へ行くと、有名な岩山がある。エニセイ川に侵食された東サヤン山脈の最も北東の支脈が、岩だけを残して立っている。切り立った岩の高さは30メートルもあるものがあって、ロック・クライミングの名所になっている。クライマーでなくても、この自然保護区『クラスノヤルスク岩山公園』はよいハイキングコースで、ここへ訪れたことのないクラスノヤルスク人はいないと言うくらいだ。
(注)ストレルカ広場 支流は本流に対して斜めに合流することが多いので、その地点は陸地が矢印のようになっている。それで、合流点にはストレルカ(矢印)町やストレルカ村という地名が多い。または河口(ウスチ)+支流名という地名になる。たとえば、ソース川がアバカン川に合流する地点のウスチ・ソース村など。だからクラスノヤルスク市は1628年、北のエニセイスクを守備する要塞として馬上で4日の地点にできた時はウスチ・カーチャとも呼ばれていた。または、当時の原住民アリン人の首長チュリキンから『チュリキンの地』とも呼ばれたそうだ。1623年からチュリキンの地に築く柵(要塞)のための場所を探していたエニセイ・コサックは、カーチャ川の河口が、背後には赤い粘土の崖(クラスヌィ・ヤール)もあり、森も近く、耕地にできる地面もあり、干し草を刈る草原もあって格好の地だ、と決めたのだと資料にある。
 クラスノヤルスク岩山公園の麓にバザイハ村(注)がある。ここから公園への上り口もあるが、現代的なロープウエイ付きスキー場(ボブローヴィ・ロック)も2006年できた。11月17日に、雪の量はまだ不十分でシーズンは始まっていたかったが、一応登ってみた。コザック前哨隊がエニセイ中流に住む遊牧民を見張っていたカラウリ丘は左岸の高台だが、ここは右岸の高台で、バザイハ川が蛇行してエニセイに注ぐ様子や、対岸の左岸絶壁の上にまでクラスノヤルスク市が続いている景色も一望できる。
(注)バザイハ村 1628年クラスノヤルスク柵が今のエニセイ川左岸ストレルカ広場にできた頃、その周囲や右岸には、もちろん先住民が住んでいた。柵の擁護のためにも、17世紀中頃にはコザック前哨隊の開墾地、バザイハ村やトルガシーノ村ができた(コサック隊長の名前から命名)
 この隣には動物園『ロエフ・ルチェイ』が2000年からある。ロエフ・ルチェイ(掘って洗った小川)と言う名前は19世紀クラスノヤルスク地方のゴールド・ラッシュ時代、ここで砂金を掘って洗った川が近くを流れているからだ。
 エニセイ右岸に沿って、クラスノヤルスク岩山公園を通り過ぎたところに検問所がある。銃を持った公務員が怪しげな車を止めて免許証やパスポートを調べたりトランクをのぞいたりするが、普通の車でも免許証を調べることがある。私は1998年から2004年の滞在中、何度も運転して通ったし、何度も停止させられて調べられたものだ。大都市の出入り口には必ずこうした検問所がある。中小の都市でもあり、主要国道の分岐点辺りにもあって、そこだけ道幅の狭い1車線になり、銃を持った警察官が近くでにらむ横を、速度を落として通過しなければならない。

 その先の、クラスノヤルスク市街から30キロも行ったところにクラスノヤルスク水力発電所とダム湖があり、これも10ルーブリ紙幣に載っている。ソ連崩壊後1990年前半に、レーニンの肖像の紙幣の代わりに発行されたのは、どの額もモスクワのクレムリンのデザインだったが、90年代後半にデザインされ今でも使われている(しかしもう印刷はされていない)10ルーブル紙幣はクラスノヤルスク特集だった。ちなみに5ルーブルはノヴゴロド市で、50ルーブルはサンクト・ペテルブルク、100ルーブルはモスクワ、500はアルハンゲリスク、インフレが進んで現れた1000はヤロスラブリ、2006年になって発行された5000はハバロフスクだ。
 クラスノヤルスク水力発電所は1967年から稼働(着工1956年、完成1972年)。当時はロシア最大、現在はサヤノ・シューシェンスカヤ発電所(事故前の発電量)に次ぐ。ダムができたため、環境は大変化した。計画中はダムの下流20キロまでしか冬でも凍らないとされていたのが、実際は200キロも凍らなくなったことだ。事実、真冬、クラスノヤルスク市の気温が零下30度でも、エニセイ川はダム湖の(氷の下)から流れてくる水のため凍らず、一面の蒸気が立つ。
1.コムナリ橋 2.オクチャブリ橋 3.スリーセブン 4.第4の橋 
 クラスノヤルスク発電所を作るためディヴィノゴルスク市が右岸にできた。同市の対岸のエニセイ左岸は絶壁になっていて素晴らしい景観なのでディヴィチ(驚嘆させる)ゴーラド(町)と言う名前がついたとか。1956年に発電所建築従事者のための集落ができるずっと前、19世紀後半、この地の近くには男子修道院村があった。1920年閉鎖され、元の修道院は孤児院になった。1930年代は修道院村に林業試験場もあった。今でも、もと教会だった木造建物の一部が残っていて芸術家が住んでいる。(芸術家用のもっと仕事のしやすいアトリエをディヴィノゴルスク市は供給する予算がないそうなので)
 ディヴィノゴルスク市の近くのリストヴェンカは1983年から1997年にかけて調査され、1万6千年前から1万年前の後期旧石器の20層の文化遺跡地層に住居跡、狩猟の獲物の加工跡や子供の骨の一部が発掘されたそうだ。クラスノヤルスク近郊のエニセイ川ほとりには、このほかにもバザイハ川に新石器時代遺跡があり、また左岸の有名なアフォントヴォ・ガラ(丘)
尋ねあてたアーチンスク旧石器遺跡発掘跡
スホ・ブジムスコエ村 博物館前の廃墟のトロイ
ツカヤ教会(右)と英雄ソヴィエト戦士の碑(左)

 旧石器時代遺跡と言えば、クラスノヤルスクから西へ160キロのアーチンスク市にもある。11月16日、アーチンスクへ行く機会があったので、まずは市博物館に寄って、詳しい場所を聞いて行ってみた。博物館の掲示によれば2万5千年から2万年前、1998年刊『エニセイ百科』によれば1万6千年から1万3千年前とある。1960年発見1972年まで調査されたと言うアーチンスク旧石器住居跡は、行ってみると、何もなく、泥沼とゴミ捨て場になっていた。広い範囲を数メートルも掘るので、遺跡の発掘跡はちょうどよいゴミ捨て場になるのだろうか、と思ってしまう。

 11月17日は夜遅くクラスノヤルスクを出発して、ハバロフスク経由、ウラジオストックで一泊して帰国の途に着く日だったが、クラスノヤルスク市から75キロ北のスホ・ブジムスコエ村(上記地図参照)へ行った。スホ・ブジム区の中心でエニセイ川の左岸支流ブジム川が流れている。『スホ』はロシア語で『乾いた』、『ブジム』はアリン語で『濁った(川)』と言う意味で、クラスノヤルスク北のこの森林草原地帯には17世紀ロシア・コサック前哨隊が徴税地を求めてエニセイ川を遡って来るまでは、エニセイ・キルギス(ハカシア)に貢納するエニセイ語族(チュルク語化していたが)のアリン人が住んでいた。その族長はチュリキンといったので、当時のロシア人はクラスノヤルスク市の北方を『チュリキンの地』と呼んでいた。
 スホ・ブジム区にはコーノヴォとか、ミンデルラとか、ヴィソチノとか村があるが、それらは18世紀に前哨隊基地村の開墾をしたコザックの名から来ている。アタマノヴォ村などは『(コザックの)隊長村』と訳せる。当時の中央シベリア中心地エニセイスクからクラスノヤルスクへの道路沿いにできたものだ。それで、もともとのアリン人たちは南のキルギスの地に移って行ったとある。シラー村はエニセイスク市からクラスノヤルスク市への駅逓馬車の宿場としてできたとあり、一方ボルスクシリンカなど新しい村はスターリン時代の強制移住者村としてできた。
 スホ・ブジム村へ行ったのは、クラスノヤルスクのガイドのネルリが、そこにはなかなか立派な博物館があると教えてくれたからだ。ネルリはロシアでも最も有名な画家のスーリコフ(1848-1916)がクラスノヤルスク出身(注)なのを誇っていたからだろう。スホ・ブジムスコエ村郷土博物館も、ソヴィエト様式の壁画のある文化会館の近くにあった。父親の勤務でスホブジムスコエで少年時代を過ごしたというスーリコフの絵の写真が何枚も展示してあった。この地で彼は絵筆をとり始め、将来の傑作にはこの地の影響があると、博物館のパンフレットにある。
(注) ワシーリー・スーリコフはクラスノヤルスクでコザックの家系に生まれる。祖父はエニセイ・コザック隊の隊長(アタマン)。母方の祖父はクラスノヤルスク市エニセイ右岸のトルガシーノ(旧トルガシーノ・コサック大村)の百人隊長トルガシン。ちなみにトルガシーノ大村は、往時、最も美しかったエニセイ・コサック大村だったが、ソ連時代、コサック成人男性は富農として粛清され、同区は(特に第2次世界大戦前後から)工場地帯になった。その後、トルガシーノ区のはずれからダーチャが発展して、今では場所によってはニューリッチの瀟洒な別荘も建っている(しかし、1等地ではない)。
現在、トルガシーノはクラスノヤルスク市スヴェルドロフスキィ区の一部で、トルガシーノは通称または団地名になっている。なお当地には『プラスコヴィヤ(スーリコフの母の名)の石』という記念碑が立つ。
 郷土博物館なので、つい最近まで使っていたような農村の道具もたくさんあって、ガイドが一つ一つ丁寧に説明してくれた。
 村の中心の博物館の向かいには1901年に建てられて、今は廃墟の教会が見える。

 シベリアの田舎ってどこへ行っても興味深い。一見、道はぬかるみ、塀は傾き、道端の雑草の中に粗大ゴミが置いてありそうに見えても、中へ入ってみると、それぞれに歴史があり、それぞれに迎えてくれる。
 ハカシアやクラスノヤルスクで知り合った人と、可能な限り、電子メールのアドレスを交換した。2011年3月の大地震と津波、原発事故の時は安否を尋ねるメールがどっと舞い込んできたものだ。彼らはインターネット通信の環境があまり良くない所に住んでいるので、普通は書いたり書かなかったりだが、この時は、何年も音信のなかった知人も書いてきた。私も、普通は返事をすぐ出したり出さなかったりだが、この時はすぐさま出したものだ。
HOME ホーム 『晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪』の1ページ目 ページのはじめ