クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 02 June, 2011 (校正2011年6月23日、12年3月18日、7月28日
晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(5)カザノフカ野外博物館
           2010年10月22日から11月19日(のうちの10月30日
Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )
『南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地』シリーズ前篇(2009年6月7月)
1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ(古代遺跡集中地の一つ)
8 ヴァロージャのハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ(チェルガトィ古代要塞)
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、エニセイ川に架かる橋) アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ

 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ
 10月30日(土)はサガイ草原のあるアスキース区のカザノフカ野外博物館を訪れた。いつまで、ベヤ村のヴァーリャさん宅に滞在するのか、滞在中どこへ行くのかという予定は全くなく、11月1日はサーシャの用事でチェルノゴルスク市へ行くことになっていたし、11月10日頃にはクラスノヤルスク市に戻るが、それ以外はせいぜい前日に行き場所を決めていたのだ。
ハカシア・ミヌシンスク盆地   1.アスキース村 
2.ヴェルフヌィ・アスキース村 3.カザノフカ村 4.ビスカムジャ
青色の文字は川


 ベヤ村から西へ、アバカン川に架かる橋を牛の列をよけながら渡って、左岸へ出る。アスキース区の行政中心アスキース村(人口7000人のうち70%がハカシア人)を通り過ぎる。西サヤン山脈の支脈アバカン山地またはクズネック・アラタウ(注)から、広いサガイ草原を流れ、アスキース村付近でアバカン川に合流するアスキース川は延長124キロ。地名は、まず川の名前があり、その畔にできた村はその川の名前を使い、その上流とか下流にできた集落には、『上(ヴェルフヌィ)』とか『下(ニージヌィ)』とか『河口(ウスチ)』とかを川の名前につけてその場所を現わす。たとえば、アバカン川とアバカン市、ベヤ川とベヤ村、タバット川とタバット村、河口のウスチ・タバット村、アルバトィ川とアルバトィ村、タシュティップ川では上流にヴェルフヌィ・タシュティップ村、タシュティップ区の行政中心タシュティップ村、アバカン川に合流する河口にはウスチ・タシュティップ村、テヤ川の水源近くの村はヴェルシーネ(頂点)テヤ等々。
(注)アバカン川水系とトミ川水系の分水嶺でアバカン山地クズネック・アラタウを分ける。アラタウはチュルク語でアラ(まだらな)タウ(山)。クズネックは鍛冶の意味。17世紀トミ川上中流にロシア人が進出した時の先住民が鍛冶業にも従事していたので、クズネック・タタールと呼んだ。タタールと、ロシア人はチュルク語系民族、広くはモンゴル系民族をも呼んだ。コンドマ川がトミ川に合流する地点近くに築いた砦がクズネック柵、今はノヴォ(新)クズネック市(54万人)。ちなみにトミはエニセイ語族(そのうちのケット語以外は死語)系語源で、大きい、または暗いの意。
 アスキース川は、サガイ草原の真ん中を流れる。この川に沿って登っていく道の両脇にも、点々とクルガンが見える。この道と平行して、鉄道も走っている。アバザの鉄を、アバカン山地の西のクズネック炭田地帯に運ぶために1950年頃できた貨物用の鉄道だ。南のアバザ市から、アバカン市までの鉄道もあって、アスキース駅でクズネック行きと分岐する。乗客用の電車も日に2、3本通っているが、貨車を延々とつないだ貨物列車が、たぶん1時間に1本はどちらかの方向にゆっくり走っている。
サガイ草原、正面の山には『アスキース・ハートマーク・ハカシア』
と大きく書いてある。クズネック炭田に延びる鉄道

 前年の2009年も、この道を通ってカザノフカ野外博物館へ行ったが、何だか見足りなかった気がして、もう一度来てみたのだ。途中、アスキース村から25キロのところにはヴェルフヌィ(上)アスキース村があって、人口780人のうち98%はハカシア人とあるから、15人くらいがロシア人やドイツ人などというわけか。カザノフカ村は人口130人で97%がハカシア人だそうだ。村の近くには多くのクルガンがあり、アファナシェヴォ文化時代(紀元前3500年から2500年)や、オクネフ文化時代(紀元前2千年紀前半)のクルガンや、エニセイ・キルギス時代のチャータースが発掘調査され、ヴェルフヌィ・アスキース遺跡と名前がつけられて学問的に登録されているそうだ。
 サガイ草原も、枯れ草色の中にクルガンの立ち石でなければ、羊の群れが見える。サーシャによると、以前は、牧畜の中心は馬だった、羊が多くなったのは南のトゥヴァ共和国(ロシア連邦の自治体の1つの形)の影響だとか。馬は草しか食べないから肉はクリーンだと言う。

 草原の道をアスキース川に沿ってアバカン山地のふもとまで来たところに、カザノフカ村があり、アスキース川を渡ると、2万平方キロ近くあるという広大な野外博物館の入り口になっている。この地域はハカシアの自然、古代遺跡、ハカシアの民族遺跡が多くあっただけでなく伝統文化も残っているとして、1996年に自然・歴史保護区となったのだ。領内にはアバカン山地から続いている岩山も、クルガンの集中する草原も、アルチン・チョンというハカシア人の家が14軒という村も含み、その村の放牧地もあり、旅行者用のユルタ・ホテルもある。
至る所で出会った羊の群れ
 小アルバトィ村のタチヤーナさんからもらったカザノフカ野外博物館館長ヴィクトリアさんの携帯電話番号もあることだから、前年と違う遺跡が見られるかもしれない。
 しかし、その携帯は通じなかった。後でわかったことだが、彼女の携帯のシムカードはメガフォン社のだと言う。私やサーシャのシムカードはMTS社だ。カザノフカ村にはMTSのアンテナがないのだ。そんなわけで、前もって連絡をうまくつけられなかった館長のヴィクトリアさんはこの日別の仕事があるとかで、ガイドなしで回ることになった。この2万平方キロ近くもある広大な野外博物館内をガイドなしで回るのは、効果的ではないのだが、2度目だし、案内書もあるし…
 領内には2000点以上の遺跡があり、その中で多いのはクルガンで、4500年以上前のものからあるが、タガール時代(前8世紀から前3世紀)のクルガンが1000基以上あって最も多い。岩画は、紀元前2000年紀前後のオクネフ時代から、20世紀初めの近世までのものが登録されており、古代住居跡では最も古いのは紀元前3000年紀中ごろのアファナシェヴォ時代のものが、アスキース川やその支流の河岸段丘に見つかっている。オクネフ時代(紀元前2千年紀前半)の住居跡は山手の方に、カラスク時代(紀元前13世紀から紀元前8世紀)はアスキース川の畔に残っている。また石柱(メンヒルと言うこともある)は青銅器時代に建てられ、今でも現地人の信仰の対象になっていると言う。ハカシア・ミヌシンスク盆地に移り住んだ古代人は、主に狩猟牧畜に従事していたのだが、紀元前後ごろ農業が発達し、野外博物館地区でも約40キロの農業用水路が確認できる。また、南シベリアは古代から鉱業の中心地のひとつだったが、カザノフカ地区でも5個の古代の銅山、4個の鉄採掘場があり、22の銅溶解炉と5個の鍛冶場が見つかっている。
 複数の案内書を要約すると、以上だ。しかし、どの案内書にも野外博物館内地図は載っていない。領内にも標識や案内板は一切ない。ということは知っていたので、ここは初めてのサーシャと、車が通れそうな道を自力で進んでいって自力で見てまわるほかない。
 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩
 道はアスキース川に迫った岩山の下に沿って続いている。道端に2009年にはなかった『イネイ(おばあさん)タス(岩)』というハカシア民族風の小さな記念碑(ハカシアの民族外套『トン』をはおった女性)があったので写真に撮って、帰国後サイトを探して調べてみると、この場所に30メートルくらいの女性の形に見える岩山があり、地元のハカシア人たちは冬の放牧地から夏の放牧地に移るとき、牧畜の守り神としてお供え物(羊1頭)をささげ崇拝していたが、ソヴィエト時代の1960年代に岩山は爆破されてしまった。反シャマニズム政策もあるが、ここにビリクチュリ村からカザノフカ村経由ベイカ・コルホーズへの道路をつけるためでもあったそうだ。
かつてあったイネイ・タス岩山の跡
『イネイ・タス、マイナガシェフの氏族の岩』碑
とお供え物

 道端の小さな石碑には、『イネイ・タス、マイナガシェフの氏族(セオーク、直訳は『骨』、モンゴルや内モンゴルではアイマック『盟』)の岩』と書いてある。カザノフカ村は18世紀の初めごろからあって、マイナガシェフの村(またはイレーソフ)と呼ばれていた。この村にはマイナガシェフという姓が多いらしい。ちなみに、この村出身のステパン・マイナガシェフは、20世紀初めのハカシア民族指導者で、ハカシア語の表記(文字体系)の基礎を作った民族学者の一人だった(当時、文字はなかった)。1918年ハカシア・ミヌシンスク盆地に住むチュルク系部族大会の時、それまでアバカン・タタール人やエニセイ・キルギス人などと住む場所によって(ロシア人から)さまざまに呼ばれてきた民族名を、中国文献にあったヒャガス(キルギスの漢訳)に統一したのもマイナガシェフの提案による。(注)
(注)『史記』などの古代中国の歴史書に名前が見られる堅昆(けんこん)が、キルギスの名で記録された最初の民族集団と考えられている。彼らは南シベリアのエニセイ川上流域で遊牧生活を行い、匈奴に服属していた。時代によっては鬲昆(へきこん、Gékūn),契骨(けいこつ、Qìgŭ),居勿(きょぶつ、Jūwù),結骨(けつこつ、Jiégŭ),紇骨(こつこつ、Gēgŭ),紇扢斯(こつこつし、Gēgŭsī),黠戛斯(かつかつし、Xiájiásī),戛戛斯(かつかつし、Jiájiásī)などと記された。現在、中央アジアのキルギス共和国(旧ソ連の一つの社会主義共和国だった)はエニセイ・キルギス族の一部が16世紀までに天山の現在地に移動したという説もある。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 ハカスはその民族に属する人の単数。そのハカス人の住む地が『ハカシア』で、英語ではRepublic of Khakassia、ロシア語では Respublika Khakasiyaとなる。当サイトではハカシア人(ロシア語の複数ではハカスィ)、ハカシア語(ロシア語ではハカスキィ・ユジック)、ハカシア共和国(レスプブリック・ハカシア)と『ハカス』ではなく、国名『ハカシア』の方に統一してある。
 ちなみに、ステパン・マイナガシェフは、1920年反ボリシェヴィッキ(反革命)として銃殺された。

 その氏族岩『イネイ・タス』だが、爆破を指示した当時の『コニュニスト』たちはみんな非業の死を迎えたとか、爆破されてから家畜の生育が悪くなったとかで、地元のハカシア人たちから岩の爆破跡は『イネイ・タスのふもと』として、よりいっそう信仰を集めていた。そこで、2010年8月、ここに『イネイ・タス』が戻ったとの記念碑オープニングを国中のシャーマンたちを集め、しかるべき儀式にのっとって行ったと、ハカシア・ニュース・ネット版にあった。
http://www.xakac.info/news/201008049726
 カザノフカ野外博物館をさまよう
 この広い領内を回るための4つの見学コースがあるそうだ。(1)6キロほどの岩画見学徒歩コース、(2)10キロほどの岩画と頂上が岩山の残丘(古代要塞・スベがある)や石柱(メンヒル)見学徒歩コース、(3)18キロの岩画や石柱のマイクロバス見学コース、(4)21キロの石柱やクルガン群のマイクロバス見学コース、と案内書にある。
『アク・タス』岩の前でタンバリンを持ったシャー
マンと儀式の火を消して去ろうとする人々
『アルチル・チョン』クルガン発掘跡
『チトゥイ・ヒス』山とクルガン群
『チトゥイ・ヒス』クルガン群
『ミルゲン・ハヤ』岩の岩画

 ガイドなしだったので道が通じているままに『イネイ・タス』の先も進んでいくと、アスキース川の左岸支流キュク(『喜び』の意)川谷の草原の中に、にょきっと白い石が突き出ているのが道からも見えた。『アク(白)・タス(岩)』といって、4000年前のものとされている。この石にまつわる地元の伝説は多くあるが、この石の周りで行う儀式で、一定の病気が治るとされている。
 伝説の一つ。この地に住むハカシア人はクズネック・アルタウを越えてやって来た(クズネック・アラタウの西に残ったのが現在のショル人か)。グループの指導者はじいさんとばあさんの夫婦だった。アスキース川の中流、今のカザノフカ村あたりまで来ると、どこに住むことにするか、どの岸辺にするか、二人の間で口論になった。夫婦の口論はつかみ合いにまでなり、ばあさんはじいさんをアスキース川の向こうの山まで投げ飛ばした。じいさんはその山の上で、石になってしまった。ばあさんも岩になった。それで子供たちは2等辺三角形になるような場所に白い大きな花崗岩の石を立ててその喧嘩の記念にした。というものだ。
 この日、私たちが通りかかると、何だか儀式らしいことをやっていた。十数人ほどの人が集まっていて、火を焚いたらしい煙も見え、大きなダンバリンを持ったシャーマンらしい人も中に見える。儀式の終わりごろ私たちがついたらしく、やがて参加者たちは止めてあった数台の車に分乗して去って行った。石柱『アク・タス』の前にはおもちゃやお菓子のお供え物が残っていた。後で、博物館館長から聞いてわかったことだが、そのグループのシャーマンは『正規』ではなく、このような儀式は博物館側には迷惑だそうだ。
 『アク・タス』から1キロ半の所に1930年代にコムソモール員の名を取って付けられた村がある。今はアンチル・チョン(『狩人の民』の意)というハカシアらしい旧名に改名しているが、ここの近くに1996から2006年発掘調査されたカラスク時代のクルガン群がある。18基あって、中央には7メートル半の円形の塚があり、周りに9基の方形の塚と1基の円形の塚がある。これは中心の太陽から放射される光線のようで、この構造のクルガンは2002年に黄金が大量に発見されたことで有名なトゥヴァのアルジャン2古墳で有名だが、ハカシア・ミヌシンスク盆地には、円形の塚はここにしか見つかっていない。塚の内部には石室があり、女性のみが葬られていた。副葬品は古代に盗掘されていてほとんどなかったが、食べ物の入った壺や、毛皮製の衣服、青銅製の装身具の一部が残っていた。故人は左を下に横たわり頭は南西に向けていた。野生動物と家畜の骨が石室から出てきたことで狩猟と平行して牧畜も行われていたこと、臼などが見つかっていたことで農業も始まっていたこと、青銅製装身具の質の高さから、この地の銅採掘技術の高さなどが分かるそうだ。
 このアルチル・チョン・クルガン群のすぐ近くの岩山に人物や動物、ここだけという有名な蓮の花の岩画、さらに古代の『要塞(スベ)』があるはずだが、それは探さなかった。
 道が通じているままに進んでいくと、チトゥィ・ヒスという低い山があって、そのふもとにタガール時代のクルガンが150基も一面に散らばる草原があった。わざわざ古代人の墓地(チトゥィ・ヒス)と呼ばれているこの広大で静寂なクルガン群には息をのむ。サーシャもゆっくり車を走らせながら、どこまで行っても続くクルガンの立ち石を見ている。ここで私たちは、お弁当を食べた。いつもお弁当に入っているゆで卵はヴァーリャさん宅の鶏が産んだものだし、ベーコンはコーリャがあの子ブタから作ったものだ。
 チトゥィ・ヒス山のふもとクルガン群の横を通る道はベイカ村に通じるのだが、ゆるく起伏しながら草原の中に延びている道を、ゆっくり走るのはとても気持ち良かった。道路の状態はイプサムにはあまり快適ではないかもしれないが、橋のない川を渡らなくてもいいだけましだ。そのうち、一連のクルガンの立石が見えなくなったと思うと、また遠くに別のクルガンが見えてくる。ベイカ村まで行くのは止めた。本当は行ってみたかったが、サーシャは興味なさそうだったから。
 アク・タス石柱まで引き返して、今度はキュク谷を伝って行ってみた。道はあったし、崩れた家畜小屋もあったが、どこまで行ってもちいさな小川と両側に低い山しか見えない。それで、やはり引き返した。
 このへんで、ガイドなしのカザノフカ野外博物館見学は終わりにしようと出口に向かったが、念のために管理人小屋に寄ってみると、館長のヴィクトリアさんが、今なら時間があるからと、短いコースを案内してくれた。岩画を見たかったが自力で回った限りではなかったと言ったからだ。岩画は領内のハズィン・ヒルなどの岩山にあると案内書には出ているが、ヴィクトリアさんが案内してくれたのは、西の境界ミルゲン・ハヤ岩だった。この下には、アスキース村からカザノフカ経由で材木伐採基地のビリクチュリ村への舗装道がすでに通っていて、そこはもうカザノフカ野外博物館・自然保護区内ではない。ミルゲン・ハヤ岩のある山も、道路敷設で削られたのか、岩画は、道路から見える場所にある。と言っても、ここの岩画は、道を通るだけでは決して気がつかない。ここにあると言われて、目を凝らせば、かすかに見える。ヴィクトリアさんが細い棒きれてなぞって説明してくれたところによると、これらのいくつかの岩画は複数の時代、新石器時代から、オクネフ時代、タガール時代、中世のキルギス時代のものだと確認されているそうだ。
 彼女が覚えているには、1998年ごろ日本からマツモト・テイ先生とかタカヤマ先生とかいう考古学者が訪れたことがあるそうだ。ハカシアやトゥヴァを回ると、博物館員やタクシーの運転手から、そんな話を聞くのは珍しくない。
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