クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 03 June, 2011   (校正 2011年7月24日、2012年2月16日、4月15日、2018年10月20日、2019年12月19日、2021年9月8日、2022年8月17日
晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(6)ウスチ・ソース野外博物館
           2010年10月22日から11月19日(のうちの10月31日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ
8 別のハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、エニセイに架かる橋)アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ

 トルストイ主義者ボンダレヴォ村を通って、元コザック前哨隊基地だった大モノック村のイーゴリ館長宅へ
 10月31日(日)の前日にはサーシャの家族(奥さんと娘さん)がベヤ村の実家ヴァーリャさん宅に来ていた。ヴァーリャさんの長男のサーシャの一家は5年ほど前までは、ベヤ村に住んでいたのだ。だからサーシャの奥さんのマリーナが村役場の文化部の知り合いを通じてガイドを見つけてくれた。そのガイドというのが、ウスチ・ソース村に最近オープンしたという野外博物館の館長だそうだ。ウスチ・ソース野外博物館は、初めから予定に入れていたが、遠い方のアルバトィやカザノフカを先に回ったのだ。マリーナが、話をつけてくれて、31日の朝、3人で、ウスチ・ソース野外博物館館長が住む大モノック Большой Монок 村に向かった。
 いつも朝の出発の遅いサーシャだが、マリーナも同行してくれて8時半に出発できた、と言うのもこの日の未明、つまり、10月最後の土曜日と日曜日の間でサマータイムが終わるからだ。時計の針を1時間遅らせないまま、朝起きると正規(人工的なものだが)の時刻は8時なのに、きのうまでの時計から9時だと思ってしまう。外の明るさを見てもそう感じる。だから、この日、体内時計は9時半と感じながら、モスクワ時間の4時半、つまりクラスノヤルスク時間の(ハカシア現地時間も)8時半に3人で出発できたのだ。

 ベヤ村から南西への舗装道を行く。一番近いのはブジョーノフカ村(498人)だ。ソ連邦元帥の一人ブジョーンヌィからとったのだそうだ。彼は1929年ハカシアに穀物調達全権委員長としてやって来て各地を回り、集団農業化のミーティングを開いたそうだが、この村とはその程度のかかわりで、その年この地にコルホーズができたので彼の名前がついただけだ。ロシアの地名を見ると人名辞典のようだ。そして政治状況によって地名が変わる。こうして命名された地名は多く、ソ連崩壊後は元の名前に改名された集落もあるが、ブジョーノフカ村には旧名がない。新村だったからだ。
   追記:ブジョーンヌィは旧式で無能な軍人だったという評価がある。スターリンは有能な赤軍元帥トゥハチェフスキーを粛正したが、忠実な(だけの)ブジョーンヌィは長生きした。
 舗装道を悠々と歩く牛の列も除けながらイプサムも嬉しそうに走るのは、ベヤから33キロ行ったところにあるボンダレヴォ村(1800人)までだ。舗装道の方は村内を迂回して西へ、牛も利用するアバカン川の橋に向かうが、目的のモナック村は、村の中の非舗装道を通り抜けてさらに南西に30キロも行ったところにある(ので、ここからはイプサムは苦しそうだ)。
 ボンダレヴォはいつも『ボンダレヴォ0.1(キロ)」と出ている道路案内を見ながら側を通り過ぎてしまう村で、ハカシアにはハカシア語の地名もあるが、この名前はロシア人の姓から採ったものだ。1958年にイウディノと言う村から改名したと言うから、ほかの多くの地名と同様に革命家や赤軍の指導者を記念してつけたのだろう(そんなことでおもしろくもない)と思っていた。
 旧名のイウディノとは、『ユダの』、つまり『ユダヤ教の』と言う意味だ。なぜコイバリ草原にユダヤ教なのだろうと、帰国後調べてみると、1830年ごろヨーロッパ・ロシアから流刑になったスボットニク派というロシア・ユダヤ教信徒の農奴たちが開いた『約束の地』という名前の村から始まったそうだ。その後、イウディノと改名され、ロシア正教からの『異端者』が送られて、1849年には490人のロシア人(ロシア系ユダヤ人か、おもにスボットニク派)が住んでいた。1867年、後にトルストイ主義者として有名になるボンダレフ(1820-1898)も流刑になり、『勤労と怠惰』と言うトルストイも絶賛した本を書きあげた。トルストイからボンダレフに宛てた11通の手紙もミヌシンスク博物館に残っているそうだ。トルストイだって? 意外なところで意外なつながりを見つけるものだ、と感心する。この村にはボンダレフの記念碑もあり、博物館も計画中だ。トルストイの思想に影響も与えたボンダレフの研究のため(影響は及ぼし合っただろう)、2008年、アバカン市とボンダレヴォ村で、トルストイ生誕180年、ボンダレフ忌110年、ボンダレフ村改名50周年記念の『全ロシア、トルストイとシベリアの正直者ボンダレフ』というテーマで学会が開催されたとか。
ベヤ村からボンダレーヴォ経由大モノック村と
ウスチソース村 1.ベヤ川 2.ウーティ川 
3.タバット川 4.ソース川 
5.大モノック川(支流が小モノック川) 
6.大アルバトィ川 7.小アルバトィ川 
8.ジェバッシュ川 
ジョイ山脈の長さは55‐60キロ、
最高峰はゥイズィッフ山1440m
ベイ区西部地図

 コサックの村としてモノック川がアバカン川に注ぐ辺りにできたモノック Монок哨は1762年に古文書に初出。たぶんコサック隊長の名からバイカローヴォ哨とも言った。1775年にはモノック村と改名、1842年には大モノック村になった。
 18世紀ロシア帝国と清国の間の国境線を保持するためにできたコサック隊駐屯地サヤン柵・哨(1718年)と監視基地(前哨基地)タシュティップ(1725年)の間をうめるためにできたのが監視基地(前哨基地)アルバトィ(1768年)と、アバカン川の一つ下流の大モナック川河口のモノック基地(1768年)だ。同じころタバット基地もできている。ベヤ区のコイバリ草原には、北からベヤ川、ウーティ川、タバット川、ソース川、モノック川(19キロ)の順に南東のジョイ山脈から流れてきてアバカン川の右岸に注ぐ川がある。モノック川はコイバリ草原とジョイ山脈の境目を流れてくるが、さらに南で、ほとんどジョイ山脈の中を流れてくるのが、アルバトィ川(大と小がある)だ。18世紀のコサック前哨隊基地はどれも、ジョイ山脈麓とこれら川が交わったところに、国境警備だから一列にできている。上空写真のなかった時代にうまく場所を選んで築いたものだ
 大モノック村は1911年には人口も500人、ミハイロ・アルハンゲリスクと言う教会もできたそうだ。革命後ボリシェヴィッキ政権により40人の村人が収容所に送られたが、1953年の解除(スターリンの死による恩赦)の後戻ってきたのは4名のみ。第2次大戦の時には132人のヴォルガ・ドイツ人がここへ強制移住させられたきたそうだ。(ネットの記事から)

 ボンダレヴォ村から大モノック村(640人)への道もゆっくり進まなくてはならない砂利道で、ウスチ・ソース野外博物館長のイーゴリ・クルヂュコフさん宅に着いたのは10時も過ぎていた。マリーナが電話で連絡してあったので、その農家の門に近づくと、すぐオーデコロンをたっぷりと振りかけた大柄な男性が現れた。田舎では、門をノックする必要はない。犬がやたら吠えて、怪しい者が来たとちゃんと家の主人に教えてくれるのだ。
 イーゴリさんはテノールで話しかけ、歓迎のしるしに私を抱いて接吻。オーデコロンと言い、歓迎のあいさつと言い、そうまでしなくてもと思うのだが、ガイドがいてくれるのはやはりありがたいことだ。(私のためにつけたオーデコロンではあるまい!?)
「どこを見物しますか。パパリチーハ岩画見物は50ルーブルです。博物館は30ルーブルです。博物館やヒズィル・ハヤ遺跡などセットだと150ルーブルです。料金を先に言っておきますがね」と、後ろの座席に座るとすぐテノールで愛想よく、隣のマリーナに話している。
「全部お願いします」と助手席の私が言う。
 イーゴリさんは、歴史的知識は、たとえばタガール時代とタシュティック時代などの考古学上の時代区分の前後関係を知らないなどあやふやなところがあったが、このようにいつも愛想よくうれしそうで、サービスのよいガイドだった。彼にとって、シーズン・オフに個人ガイドができて悪くない収入になったせいかもしれないと、あとでマリーナと話したものだ。
 テノールで饒舌のイーゴリさんが、(自分の個人ビジネスの)ガイドとして熱心なのはいいことだ。長くはないが状態の悪い田舎道をゆっくり進む間、この周辺の見どころを説明してくれた。
1、パパリチーハ山の赭土のタムガ…この日(10月31日)初めに行く
2、ウスチ・ソース野外博物館、フルトゥヤフ・タス・パラーズィ(オクネフ時代の石注)…この日、見る
3、ウスチ・ソース村のクルガン群。3つ穴クルガン。オリホン・エニセイ文字碑…一部は11月5日に見る
4、ウスチ・ソースのチャータース…11月5日に見ることになった
5、ヒズィル・ハーヤ岩画…この日
6、ヒズィル・ハーヤ山とキルベ山のスベ(古代の石の要塞)…11月4日に
7、アルティン・キョリ湖…11月4日に
8、ハン・オバーズィ山…11月5日に
9,19世紀の民家…11月5日に
10、マトロス山…見れなかった
11、貝の化石が取れる山…その日の夕方
12、旧約聖書に書かれている『ノアの箱舟』がたどり着いたという伝説の山ゥイズィッフ(『神聖な』のハカシア語)で箱舟の一部が残っているとか。
 最後の見どころを聞いたマリーナが行ってみたいと言う。後で地図を見ると、ゥイズィッフ山はジョイ山地の最高点で1440メートルだ。モナック川の源流よりも遠く、1本南のアルバトィ川源流に近い。旧約聖書のノアの箱舟がたどり着いた地点は元アルメニア領(今はトルコ領)のアララト山ということになっているが...イーゴリさんが言ったことは、あまりにも東にずれているので荒唐無稽に思えるが、地元ハカシア人たちにはこの説が広まっているらしい。たとえば、クラスノヤルスク・テレビ局のアルバトィ岩画ドキュメンタリー・ビデオを見ると、地元ハカシア人がこのあたりで最も高いゥイズィッフ山を指さして、そう物語っている。
 
 サーシャはハカシアのことは何も知らないので、地元のガイドと知り合いになれてよかった。あまりアカデミックではなさそうだが、写真を撮っておいて、帰国後サイトや書籍で修正したり比較したりすればいい、と思った。イーゴリさんはガイドになるまでは、村の文化会館に勤めていたそうだ。傍ら、結婚式の司会業もやっていると言う、だから饒舌なのか。ちなみに次の日はそのバイトがあって、タシュティップ村で銀婚式の司会をやることになっているそうだ。だから、私たちの観光案内はその日だけはできない。
 イーゴリさんの父親はツィガン(ジプシー、ロマ)で、母親はモルドヴィア人だと言う。
「マルドヴィアと言えばヴォルガの近くのフィン・ウゴル系の共和国ですね」と言うと、それは知らなかったそうだ。(ロシア連邦は広いし、自治体は84もあるし、その数もたびたび変動するし、母親の出身地に行ってみたいとも思わなければ、ウラルの彼方のヨーロッパ部ロシアの地理なんて知らないのが普通のロシア人だが)。ヴォルガ畔のモルドヴィア Mordova,Мордовия 共和国からはスターリン時代にシベリアへ強制移住させられた『富農』も多い。小アルバトィの学校付属博物館で展示されていた『この村に住む民族名』にも記されていた(流刑地の村らしく15民族名があった、その一つ)。サイトにも1930年、モルドヴィアから流刑者群が、まずアムール地方の鉱山に送られ、そこから1932年にクラスノヤルスク地方に送られたとある。http://www.memorial.krsk.ru/index1.htm)
 しかし、もしかして、モルドヴァMoldova,Молдоваかもしれない。こちらは旧ソ連邦構成の15の社会主義共和国の一つだったが、今はウクライナとルーマニアの間の独立国だ。
   後記:中世からのルーマニア人のモルダビア公国のうち、露土戦争の結果ロシア帝国に譲渡された東部地方をロシア側がベッサラビアと言った。大戦間ベッサラビアはルーマニア王国と合併していたが、1940(1944)年モルダヴィア・ソヴィェト社会主義共和国として成立(させされた)。1991年、モルドヴァ共和国と沿ドニエストル共和国として独立。イーゴリさんはどちらも、どこにあるか知らないそうだ。私はLとRの違いに苦手な日本人だから、普通に聞いただけでは区別できない、
 パパリチーハ山のタムガ
 ガイドのイーゴリさんの案内で、大モノック村を出て大モノック川の小さな木造の橋を渡り、アバカン川右岸の細い崖っぷちの道を2キロほど行った。このアバカン川にせり出ている崖山がパパリチーハ山だった。崖の岩は崩れてアバカン川に落ちていっているのだろう。この崖山を登ったところに岩画があるとイーゴリさんがうれしそうに言う。
パパリチーハ遺跡のある崖山
パパリチーハのタムガ

 (私と比べてずっと)若いがちょっと太めのマリーナと私は、両手も使って、イーゴリさんとサーシャに引っ張ってもらってやっと5メートルほど登ったところに、赭土で描いたタムガのような岩画があった。イーゴリさんは持ってきたペットボトルの水でこすって、見えやすくしてくれた。そのうち3個ははっきり見えた。漢字の『米』のように十字の周りに点が4個あるタムガ、『人』の字の周りに点が6個あるタムガなどだった。赭土で描かれたこのようなタムガは近世のものだろうが、研究はなされていないと言うことだった。
 登る時も途中の岩を少し崩したかもしれない。イーゴリさんが言うようにこのままではパパリチーハ遺跡が損傷する。崖下の道もアバカン川に侵食されるだろう。
 このタムガのある地点から、人気(ひとけ)のないアバカン川の流れが見下ろせた。と言っても、西サヤン山脈の山中から514キロ流れてアバカン市でエニセイに注ぐアバカン川は、この大モノック川が注ぎこむあたりで山川から草原を流れる川になり、幾本もの副流を作って広い河川敷を好きなように流れているから、パパリチーハ山から見た広いアバカン川は、副流の一つかもしれない。大きな中州も見えた。
 崖下の道は、タムガの下を通り過ぎて、さらにアバカン川岸の川下に通じている。イーゴリさんの言うには、この先をいくと、夏ならキャンプして魚釣りもできる景色のよい広場もあるが、それ以上先は道がないそうだ。(その『袋小路の先端』には11月4日に行った)。
 ウスチ・ソース野外博物館のフルトゥヤフ・タス・パラーズィ
 ウスチ・ソース村は人口84人で、ソ連時代にボンダレヴォ・コルホーズの支部があったが、今、住民は仕事もなく昔のような自給自足生活をしている、とある。20世紀初め頃は76家族466人もいた。当時では大きな村だった。
ウスチ・ソース野外博物館入口
 村の入り口に木戸があった。塀はところどころ倒れかかっているが、これで家畜が勝手にどこへでも行くのを防ぐそうだ。村には古い農家がぼちぼちと散らばっていて、集落と言うより草原だった。特に道と言うでもない草原の中を進むほどもなく、新しい垣根で囲った野外博物館が見えてきた。垣根の入り口には伝統的なコノヴャース(馬を繋ぐ柱)が設定してあり、門柱はキルギスの戦士の古拙風レリーフがあり、垣根の中には大きな表示板と派手なユルタ(遊牧民の移動式住居)が見える。
 まずはコノヴャースでチャロマ(布切れ)を綱に結び、柱のまわりを3周すると言う一定の儀式をする。これは、馬に乗ってここに来たが、神聖な場所であるから、ちゃんと馬から降りて、その馬を繋ぎ、自分が来たという印に衣服の一部をはぎ取って、綱に結びつけると言うものだ。ユーラシア草原はどこへ行っても同じ儀式らしいのでわかりやすい。
 野外博物館内には、ユルタやメインのフルトゥヤフ・タス・パラーズィ石柱の他、小さな舞台やベンチもあった。ユルタの外壁に貼られたポスターには、この近辺の、7か所の『歴史的考古学的』記念物が写真入りで掲示してある。またユルタの中には、パパリチーハ岩画の写真や、この博物館メインのフルトゥヤフ・タス・パラーズィ石柱をうちたてた時の儀式の写真、ヒズィル・ハーヤ山の岩画の写真、そのカーボン・コピーなどが壁に展示してあるほか、ウスチ・ソース野外博物館の完成模型もあった。模型には、垣根で囲ったこの敷地内に、このユルタの他、旅行者宿泊用のユルタや食堂ユルタ、受付ユルタなどもある。この野外博物館をツーリスト・センターにして、地元への経済効果を高めると言うものだった。2010年6月にオープンしたばかりで知名度が低いから、宣伝してほしいとイーゴリさんに言われる。日本からの旅行者団体がここまで来るかどうかはわからないが。私なら行く(もう来ている)。

 フルトゥヤフ・タス・パラーズィ石柱は、アバカン川の川向うの、今ではアンハーコフ野外博物館内に安置されているウルック・フルトゥヤフ・タス(偉大な石のおばあさん・刀自)の息子とされているそうだ。この種の石柱としては、最も信仰を集めているお母さんのウルック・フルトゥヤフ・タスが、ハカシアに侵攻してきた『異教徒タタール・モンゴル人』から逃げるとき、アバカン川に息子を落としてしまったそうだ。ウルック・フルトゥヤフ・タス石柱の年代はオクネフ時代(紀元前2000年紀)と考古学界では一致しているし、モンゴル征服は紀元後13世紀だから、年代にはあまりこだわらない方がいい。(お母さんがすごく長生きしたのかも知れない)
『偉大な刀自の息子』石
 2002年、洪水が引いたとき、大きな石柱がウスチ・ソース村近くのアバカン川岸で見つかったのだそうだ。そのあとで、この家族関係と逃亡物語ができたのかもしれない。初めに立っていたところが、アバカン川の流れが変わって川底になり、土砂に埋まっていたのだろう。高さ150センチの石柱は、これはただならぬものだ、河原に倒れたままにしておくわけにはいかない、然るべき場所に安置すべきだ、というので、シャーマンが占って、2008年この場所に移動の儀式を行った。フルトゥヤフ・タス・パラーズィには、まだ見つかっていないが父親と妹もいる、とまで言われている。
 博物館が一つもなかったベヤ区なので、この石柱をメインに、近くの岩画の山ヒズィル・ハーヤなどをセットに野外博物館を作ることにして、政府の予算もおり、2010年6月、オープンしたわけだ。
 フルトゥヤフ・タス・パラーズィ石柱も、アンハーコフ博物館のウルック・フルトゥヤフ・タス石柱や、私の知っている限りでは、カザノフカのアク・タスや、サラーラ村のサラーラ・タス・フィズ同様、お供え物をしてお祈りすればご利益があると言われている(たとえば男の子が授かる)。牧畜民の主要食糧の乳製品、たとえば、スメタナ(サワークリーム)などを備えるのだが、食べさせてやらなければならないと言うので、石柱の口と思われる場所にスメタナを塗る。だから、信仰を集めている石柱はどれも、大きな油のしみができている、というのもユニークだ。
 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字
ウスチ・ソース村(タス・ハザ)クルガン群
 ウスチ・ソース村は一面のクルガン群の端にぽつんぽつんと20軒ほどの家が立っていて、全体が偉大なクルガン草原だ。クルガンは立石で四方を囲まれて一つの塚になっているとわかるのもあれば、どの立ち石とセットになっているのか分からなくなっているのもある。石には打刻画の見えるのもある。ガイドのイーゴリさんは物語的な伝説は興味深く語れても、考古学的な説明は苦手のようなので、いつの時代のものかは、聞かなかった。近々、アバカン大学の考古学者がウスチ・ソースのクルガン群の調査に来ると言う。名前を聞くと、ゴトリプ準教授と言う。2009年、東ベヤ炭田の遺跡発掘で知り合った考古学者だったので、その調査に参加させてもらったら、もっと詳しくわかるかもしれない。そこですぐ、携帯をかけてみた。ゴトリプ準教授は私を覚えていて、「どうぞ」と言うことだった。(実は、予定の日にはゴトリプ準教授は来られなくなった。11月11日にアバカンで会うと、決めたのだが、それも準教授の風邪のためキャンセルになってしまって、結局は次回私がハカシアに来るときに会う、と言うことになった)
 途中、これが一番大きなクルガン石です、と言われたところで写真を撮った。
 ウスチ・ソース村の遺跡群にはエニセイ文字(*)を打刻した石碑もあるが、まだ全部は解読されていないそうだ。
(*) エニセイ文字 古代チュルク(突厥)文字の一つ、モンゴルのオルホン川畔のオリホン碑文(1889年発見)にある文字に似たエニセイ文字の碑文は、ハカシアで多く発見されている。オリホン・エニセイ文字とも言われる
 近くの塩湖アルティン・キョリ(またはアルティン・コリ。キョリ、コリは湖の意)の畔にあった(より価値のある)『アルティン・キョリ石碑‐1』と『同‐2』は、1878年発見され、ミヌシンスク博物館に保存されている。こちらの方は解読されて、サンクト・ペテルブルク大学クリャシトルニィ教授『古代ユーラシア草原帝国』によれば、エニセイ・キルギス族の指導者バルス・ベグが東突厥軍に、711年撃たれたと言うことが書いてあるそうだ。(別の資料ではバルス・ベグは、ソン川ほとりで撃たれたことになっている)
 ちなみに、ここエニセイ上中流のハカシア・ミヌシンスク盆地は、ハカシアの中高校生用歴史の教科書の記述などを要約すると、
・紀元前3000年紀の青銅器時代から、アファナシェヴォ文化、オクネフ文化、アンドロノヴォ文化(黒海北岸が中心でハカシア盆地への影響はあまり大きくなかったが)、カラスク文化、タガール文化、タシュティック文化が栄え、ついで、5,6世紀には古代キルギス(クィルグィス、堅昆、黠戛斯)人が住むようになった。
・ユーラシア草原は6世紀中から8世紀半ばまで突厥帝国、9世紀半ばまでウイグル帝国が支配的だったが、840年エニセイ流域のキルギス族がウイグルを破りキルギス帝国をたてた。
・が、1207年モンゴル軍に征服される。ちなみに、エニセイ上中流のハカシア・ミヌシンスク盆地には独立、従属にかかわらず、5,6世紀以後ずっとキルギス族(現キルギス共和国のキルギス人を天山キルギスと言い、現ハカシア共和国のハカシア人の祖先をエニセイ・キルギスと言う)が住んでいた。

 サンクト・ペテルブルク大学クリャシトルニィ教授に注釈されるようなオリホン・エニセイ文字が書かれたアルティン・キョリ石碑は、ミヌシンスク博物館に保存されている。しかし、文字らしいものはあるが、より価値は低い直方体に近い大きな石の方は、このウスチ・ソース草原の遺跡群の間に転がっている。
 11月4日にはその湖アルティン・キョリへ行った。

タス・ハズ(ウスチ・ソース)クルガンの草原からヒズィル・ハーヤ山とハン・オバーズィ山を見る
 スナジグミ(シーバックソーン)林
 ウスチ・ソース村の北側にソース川が流れ、その向こうに小高いヒズィル・ハーヤ山があって、準平原のウスチ・ソース・クルガン草原からもよく見える。ヒズィル・ハーヤ岩画の近くまで、車で行けると言うことだった。道は悪くて、車が傷むことを心配しているマリーナは歩いて行こうと言うが、車で行ける場所にあるなら、車の方がいい。
ソース川を渡る
シーバックソーン林の向こうを走る放牧の馬
シーバックソーンはとげがあって食べるのは難しい
マリーナ

 まずはウスチ・ソース・クルガン(タス・ハザ・クルガン)草原を横切らなくてはならない。それからソース川を渡らなければならない。田舎の小さな川には、今にも落ちそうな木の橋がかかっていることも、ないこともある。かかっていても。勝手により低い地面を通って流れる川に無視されて、川向うへ渡る機能のなくなった橋もある。橋にこだわらないで直接川を渡った方がいい場合もある。そこは、道なき草原でも、タイヤの跡があって、通れる道筋を示してくれるのだ。春の雪解け水が流れてくる時期でなければ、乾燥したハカシアの草原は轍(わだち)の跡をたどっていけば、どこかに出られる。
 周りの草原平野より150メートル程度高いヒズィル・ハーヤ山はウスチ・ソース村側からは、かなり険しく見えるが、迂回すればなだらかな坂道がある。右車輪と左車輪の高さが違ってもかまわず斜めの道を登っていくと、シーバックソーン(シーベリーまたは、スナジグミまたは、ヒッポファエまたは、サジー、ロシア語でアブレピーハ облепиха)の林があった。ハカシアの丘陵の乾燥がちの草原に、ぴったりの落葉低木なので植林された。ウーティ村からの草原ドライブのときにも見かけた。だいだい色の実が、とげとげの枝にぎっしりとこびりついていた。ビタミン豊富で不飽和脂肪酸が多いとか抗酸化作用が高いとか言われている木の実を見過ごすことはない、とマリーナが言って、車から降りてみんなで食べる。庭にも植えようと、サーシャとイーゴリが小さな枝のスナジグミを根っこごと堀りあげた。日本に持って帰って植えたいと、私の分も掘ってもらった。(車に入れたまま、忘れたが)
 ヒズィル・ハーヤ山のふもとは(低い丘だから頂上も)羊だけでなく馬の放牧地らしい。何十頭もの馬の群れが私たちの前を横切って行った。そのうちの何頭かは首に鈴をぶら下げていた。鈴は群れを離れやすい聞きわけの悪い馬につけるとのこと。馬の群れの中には黒いのや白いの、栗毛、まだらなどあってどれもなかなか美しかった。サーシャは、馬こそが最も清純な家畜である、なぜなら草しか食べないからだと、繰り返し言う。馬の群れの後にはやはり馬に乗った牧童が続いた。
 ちなみに、馬の群れはタブン табунという。馬の牧童はタブンシック табунщик。羊の群れはオターラ Отара、牧童はオタルシック отарщик。牛になると家畜一般の群れを現わすスターダ стадоと言う風に、牧畜の国ロシアでは区別がある。。
 ヒズィル・ハーヤ岩画
 馬の群れに皆で見惚れている間にヒズィル・ハーヤ山の頂上に着いた。頂上は平坦でやや広く、その一方の端はウスチ・ソース村やアバカン川が見下ろせる絶壁になっている。この絶壁の途中に岩画があるそうだ。
 南東の崖を4メートルほど降りたところの、幅2メートルほどの垂直の岩に打刻画が見える。点や線で輪郭を掘られた動物らしい画がいくつも見える。耳が長くて前足を曲げた動物は輪郭が彫られずべた彫りのようだ。イーゴリさんが言うには、跪いた生贄だろうとのこと。
ヒズィル・ハーヤ岩画

 岩画は2か所あって、もう一方の方が広い岩面に打刻されていた。幅3メートルくらいのやはりここだけ垂直になっている岩面に、ぎっしりと、角の生えたような人物、オオカミ、シカ、長い角がくるくる巻かれているアルガリ(野羊)など彫られていて、かなり鮮明にわかる。
 「ここは、ハカシア共和国(自治体)指定文化財になっています」とイーゴリさんが繰り返す。ハカシア・ミヌシンスク盆地の考古学研究の大御所クィズラソフ教授の岩画に関する本にも写真が載っている。大サルビック・クルガンスレーク岩画などのように、ハカシア観光コースには入っていなくて、まわりが人口希薄な場所にあるのがいい。現代人のいたずら書きがなかったところもいい。歩いていて見つかる場所ではない。下を見ると枯れ草色の草原が広がっていてアバカン川の流れが白く光っている。また細いソース川のくねくねうなった流れが見渡せ、ずっと遠くには山々の輪郭が青く見える。

 イーゴリさんは「自分だけが知っている遺跡がこの近くの絶壁にある」と言う。それは岩の隙間から見える頭蓋骨で、自分で歩きまわって発見したのだそうだ。普通は、旅行者に案内しない。もし、一般に知られると、周りに財宝が埋まっているのではないかと上に載っている岩が爆破されるから、その場所はだれにもわからないようにカモフラージュしてある。だが、見たいなら、特別に見せてあげよう、なんて言われる。
 「見たい、見たい」とサーシャもマリーナも言う。考古学研究者にだけは教えたそうだ。すると、サンクト・ペテルブルクの大学から調査に来たとか。
発見者イーゴリさんとシャーマン(?)の頭がい骨

 岩場を少し行ったところで、イーゴリさんは立ち止り、
「ここだ、ここだ」と言う。カモフラージュ用の30センチ四方くらいの岩板を何枚か除けると、ダチョウの卵のような白い頭がい骨が頭頂だけ見せて埋まっているではないか。体の部分はこの先の岩の隙間にあるのだろうか。こんな岩場に水平な穴を掘って、ずるずると押し込んだかのようだった。
 「専門家が調べたところでは、これは女性で、たぶんシャーマンだったでしょう。ほら、ここに木製のスコッパもあります」と、指さしたところには確かに、半分朽ちた柄とスコッパの先の形をした板がある。シャーマンは生前の貴重品と一緒に埋葬されることもあるので、この頭蓋骨の先には、当時の宝物があるはずだと言う。シャーマンと財宝を石棺に葬った後、風化されたかで、岩が崩れ、頭部だけ現れたのだろうか。この岩に木製のスコップとはミスマッチだが。
 ヒズィル・ハーヤ山はまだまだ見所があった。さらに先へ行くと、1枚岩のような大きな岩がアバカン川にせり出している所があり、高所恐怖症の旅行者が写真を撮るにぴったりの場所だと、サービス精神旺盛なイーゴリさんは、無理やり私とマリーナを岩の上に乗せて写真を撮っ(てくれ)た。
ヒズィル・ハーヤ山の絶壁からアバカンの流れ

 イーゴリさんが言うには、ウスチ・ソース村のクルガン群の石は古代人がここから運んだものだろうとのこと。石を切った跡がある、と言っていたが、マリーナは信じなかった。ここで石を切れば、下の草原までまっさかさまに落ちていってくれるから、手間が省ける。落ちた石を草原のクルガン建設予定地まで平地を移動させるだけでいい。
 「ほら、ここが、半分まで岩を切った跡ですよ」と言うが、頁岩(シェール)が弱い変成作用を受けて硬くなり、厚い板状に割れる粘板岩(スレート)なら、こんな風に割れ目が見えるものだが。

 またここには中世キルギス時代の要塞があったと言う。ハカシア各地の小高い山にはスベと呼ばれる石の要塞のような建造物が多く残っている(50基以上ある、ハカシアの他にも、トゥヴァやアルタイにもある)。中世キルギス戦乱時代の要塞とされてきたが、一部スベで紀元前2000年紀のオクネフ時代の道具などが見つかっているので、起源は古いと、前記のアバカン大学のゴトリプ準教授の論文にはある。確かに戦時の要塞にしては水源がないので守りは弱い。ゴトリプ準教授の論文には、天により近い斎場としてオクネフ時代につくられたかもしれないと書かれている。要塞として使われものもあるだろう。キルギス時代の岩画も見つかっている。伝説も残っている。ヒズィル・ハーヤ山とその横のキルベ山のスベは、古代オクネフ時代ではなく中世キルギス時代とされているそうだ。ヒズィル・ハーヤとキルベの両山は並んでアバカン川に突き出ている。と言うより、この頂上が岩山になっている丘をよけて(浸食できずに)アバカン川が流れている。だから、アバカン川の反対側の斜面に石垣を積めば、要塞としては守りは堅固だ。イーゴリさんによれは、秘密の井戸があって、水の補給もできたそうだ。その井戸は今見つかっていないが、と言う。マリーナは盛んに感心して聞いていた。

 スベは後日(11月5日)に見に行くことになる、と言うのはイーゴリさんが1日では見きれないと言ったからだ。この日は、ヒズィル・ハーヤ山(*)の頂上にある広場(この小高い丘は、つまり頂上が広々としている)を歩いて、その要塞の内部跡かもしれないと言う重そうな粘板岩に岩画でもないかと探したり、晩秋のアバカン川の流れを写真に撮ったり、イーゴリさんが
「あれがキルベ山です、スベが見えるでしょう」と言う方を、カメラを望遠にして撮ったりしていた。どれがスベなのかわからなかったが、指さす方を一応撮った。
 アバカン川が中州をいくつも作り、いく筋にも分かれて流れているのがヒズィル・ハーヤ山からはよく見えた。
(*) ヒズィル・ハーヤ山の南東斜面には5千年から1万年前の後期旧石器時代の居住跡があって、1975年にノヴォシビリスクの考古学者によって調査された。これは帰国後、サイトで調べてわかったことだ。イーゴリさんは石器時代の遺跡のことは残念ながら何も言わなかった。たぶん、場所も知らなかったのだろう。

 マリーナの希望したノアの箱舟がたどり着いて舟の一部が残っていると言うゥイズィッフ山は今から行くのは難しいが(ジョイ山脈の最高峰だからそんなに簡単に、まして車で行けるはずがない)、貝の化石の出る山には、行けると言う。
 それは、大モノック村の裏手にあった。斜面を少し登って、足元の石を拾い上げれば、5個に1個は貝殻の跡がついていた。マリーナは
「こんな山に、貝が残っているなんて、不思議だわ、不思議だわ」と喜んで、たくさん拾っていた。3つも4つも貝殻の跡がついた石もあり、かなり大きい2枚貝の跡が完全に残っていたりする。もっと探せば、三葉虫(顕生代の古生代はじめのカンブリア紀に現われて古生代後期ペルム紀に絶滅した節足動物)かアンモナイト(古生代シルル紀末から中生代白亜紀末までのおよそ3億5千万年の間海洋に広く分布した頭足類の一つ)などの化石が見つかるのかどうかはわからないが、この山の斜面から大モノック村が見渡せ、その向こうにアバカン川が光って流れている景色も、見事だった。こんなところにもクルガンの立ち石が見える。
 イーゴリさんは、化石貝の見える石を磨いて、野外博物館の売店に並べるそうで、たくさん拾っていた。フルトゥヤフ・タス・パラーズィやヒズィル・ハーヤは確かに地元の小ビジネスにもなる。
イーゴリさんが物置から出してくれた岩画

 イーゴリさんが、自分の家には岩画がいくつかあると言うので、見せてもらうことにした。今日の分の日程を終えるにはまだ時間が早いので、下に見えるモナック村のイーゴリさん宅にお邪魔することにしたのだ。
 家で奥さんのスヴェータさんがお茶の準備をしてくれている間に、イーゴリさんは物置から重そうな板石を運んできて見せてくれた。薄く消えかかっているが、タムガだか人物だかが見える。イーゴリさんがこの辺のクルガン群やスベを回って見つけたものだそうだ。博物館に寄贈すべきとは思うが、黙って、感心して写真も撮った。
 奥さんのスヴェータさんはハカシア女性だった。ガイド資格を取ったのでシーズン中は仕事もあるそうだ。家には、野外博物館オープンの新聞記事や、写真などの資料があったので、コピーさせてもらった。
 この日の料金は一人400ルーブル(1100円)と言われた、3人なので1200ルーブルだ。(帰国後、ベヤ村役場公式サイトで、2010年開館のウスチ・ソース野外博物館の9月21日付入場とガイド料金表を見ると、自前の車があれば一人150ルーブル、全部徒歩で回ると200ルーブルだった。2倍以上高くても、1日中相手をしてもらえたので3300円は、まあいいか。イーゴリさんの愛想のよいサービスの代価か)
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