クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
       В Красноярске       Welcome to my homepage

home up date 01 June, 2011  (追記: 2011年6月22日、2012年4月21日、2013年5月2日、2017年12月17日、2018年10月19日、2021年9月6日、2022年7月29日)
28-2  晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(2)ハカシア盆地の草原ドライブ
           2010年10月22日から11月19日(のうちの10月27日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 ウラル語族(ハンガリー語、フィンランド語など)の一つサモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ(馬繋ぎ柱、ステップ・ドゥーマ)
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 民族名『ハカス』の命名者の氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ(古代遺跡集中地の一つ)
8 ヴァロージャのハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ村 『蛇の小山』遺跡 チェルガトィ・スベ(山岳石の建造物)
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 『赤い泉』村、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、、エニセイ川に架かる橋) アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ
ロシア連邦  ハカシア南部

1.ベヤ川 
2.ウーティ川
3.タバット川 
4.ソース川 
5.大モナック川(支流が小モナック川) 
6.大アルバトィ川
7.小アルバトィ川
8.ジェバッシュ川
9.タシュティップ川
10.アスキース川



1.国道161号線(太赤) 
2.3.アバカン・ノヴォクズネック鉄道線(黒)
4.アバザ・アスキース鉄道線(黒)
ハカシア共和国
行政区分

1.アルタイ区
2.アスキース区
3.ベヤ区
4.ボグラッド区
5.オルジョニキーゼ区
6.タシュティップ区
7.ウスチ・アバカン区
8.シラ区
 ベヤ区立図書館
 10月27日は11時ごろ、サーシャとディーマで、ベヤ村見物に出かけることにした。ベヤ村は人口4万人のベヤ区の行政中心地なので区役場や中央病院、どんな小さな集落にでも必ずある戦没者慰霊碑(戦勝記念碑)などは村の中心にあった。またベヤ区立図書館も近くにあった。特にこれといった名所旧跡もなさそうで(あっても残っていない)、戦勝記念碑公園の他は図書館、文化センターなどが見所となる。図書館は以前サーシャの妻のマリーナが勤めていたので、入りやすかった。村だから、みんな顔見知りだ。
 「ベヤのことを書いた本はないでしょうか」と言ってみると、カウンターの女性(サーシャの知り合いの司書)が棚の中から数冊の本を出してくれた。
 地元人の思い出集といったよくある出版部数小の本で、本屋にはまず売っていない。この種の本の大部分のページは退屈なものだが、必ず、「おっ」と思えるような情報が入っているものだ。普通の歴史書や地誌、旅行案内書では載っていないようなことが、こんな地方限定版には載っていたりすることがあるのだ。主観的な記述だったりもするが、そこがまた村の側面が分かり、サイトを探しまわる必要もなくウィキペディアよりずっと詳しい。
 ひとまず、貸出カードを作ってもらった。司書の女性は、知り合いのサーシャのその知り合いの外国人のカードを喜んで作ってくれた。この本は家に持ち帰れないと言うので、必要なページを写真に撮っていると、珍しい来館者のことを聞いた館長が現れて、外国のお客様にその冊子『ベアの地』をプレゼントしましょうと言う。70ページくらいもすでに撮っていたが、その前に言ってくれればよかったのに。
プレゼントされた本を持って記念撮影
(いつも必ずする)

 礼儀正しく感謝して、館長と写真を撮り、来館者感想ノートに日本語で何やら書きつけて、お返しに私の郷里の本を必ず送りますと約束して、ベヤ区立図書館を後にした。(その後、約束通り本を送り、館長にメールで挨拶も送った)。
 このあたりまで、ディーマさんは私たちに付き合うと、後をサーシャさんに頼んでクラスノヤルスクに戻った。会社の経営で忙しいディーマさんに代わってサーシャさんが私の案内をしてくれるのだ。ヴァーリャさんによると、次男のディーマさんは、めったに来ないそうだ。来ても、今回のように1泊するのも珍しいと言う。私のせいで親孝行が1回よけいにできたというものだ。
 ヴァーリャさんは毎日、ピラフやボルシチやピロシキと言ったごちそうを作ってくれた。材料の肉やジャガイモ、卵は自家製だ。いつも、テーブルの上には村の店で買ったようなスウィート(なかなかおいしいチョコレート)の袋も置かれていた。これは若い時は飲んだが(つまり辛党)、今は甘党と言うコーリャさんが、毎日のようにお客様用に買ってきてくれたものだ。私が食べなくてもいつの間にかなくなっていた。
 サモエード語起源のウーティ村
 この日、午後から私のガイドになったサーシャさんは、(期待はしていなかったが)ハカシアの名所旧跡なんて全く知らない。だから彼にお任せと言うわけにはいかなくて、自分で行きたい場所を調べなければならない。どこへ行きたいのか、と尋ねられても、場所の名前を言えるのは前に行ったことがあるから言えるので、まだ行ったことのないところにこそ行きたいのだ。一般向けハカシア旅行案内書に書かれていて、私の好みのところは前年スラーヴァとだいたい回ったのだ。地元の人なら一般案内書に書かれていないような穴場や新しいところなんかを知っていてもいいはずだが、たいていの村人は自分の生活にかかわりのあることしか知らない。
 しかし、初日ぐらいはサーシャを頼りにしてもいいのではないか。だから、
「私が行きたいのはハカシア人の村とか…」と答えておいた。ディーマさんも、ベヤの近くにはハカシア人の村がいくつもあると言っていた。
 『僻地』とか『ハカシア的なところ』と言う私の好みをディーマから聞いて、サーシャはたぶん前からここぐらいなら知っているから案内しようと思っていたのだろう。
「ウーティ村方面は草原地帯だ、行ってみようか」と勧めてくれた。

 草原の中に、ぼやっと数十軒の無人だか有人だかの小屋のある村に案内してくれたのだ。僻地と言うほどでもなく、ベヤ村から、道は悪いが8キロ余のところにある。
 ウーティ村は古代サモエード(サモディツィ)語(*)のウーティ川からきているそうだ。ハカシアの水系の地名は先史時代を知るためにもよく研究されていて、ネットにも論文が多く載っている。今はクラスノヤルスク地方北部のエニセイ川支流にわずかに話し手が残っているケット語族の話し手の祖先たちは、古い時代からエニセイ中流、つまり、サヤン・アルタイ山地やハカシア・ミヌシンスク盆地一帯に広く住んでいたエニセイ語族(古シベリア語の一つ)の一つだが、19世紀以降ケット語以外のアリン語やコット語などは死語になった。そのエニセイ語系(ケット語など)の地名の上にサモエード語系の地名が重なり、さらにチュルク系のハカシア語(の諸方言)がかぶさっている。最も古いエニセイ語系由来の地名はハカシア盆地の周辺部の森林地帯からアルタイ地方にかけて120以上の川の名前が数え上げられている。一方、盆地の中心部は70以上のサモエード語由来の水系の地名がある(«очерки истории Хакасии» Бутанаев編集、2008年アバカン刊)。つまり、エニセイ語族が住んでいたエニセイ中流域に、ウラル語族サモエード語派が移住してきて、エニセイ語族は周辺部に移動して行ったが、サモエード語派の地となったそのエニセイ中流域に、今度は紀元前後ごろチュルク系のハカシア人の祖先が移住してきたのだろう。サモエード諸語を話すネネツなどは今は極北の西北シベリア一帯に住んでいる(下記)。19世紀ごろまではサヤン山脈北麓にもサモエード(サモディツィ)語系のマトル語などの話し手は住んでいたが今は死語(下記)。
 ウーティ川は、少し北を流れるベヤ川や、南のタバット川と同様ジョイ山地から流れてアバカン川に注ぐ。ちなみに、ベヤの『ベ』もタバットの『バ』もサモエード語の水の意味だ。
(*)サモエード(現在ではサモディーツと言う)とは、はじめ、ネネツ人のみを指していたが、後にエネツ人、ヌガンサン人、セリクープ人などを含めサモエード諸族と集合的に呼ばれるようになった。
 13世紀ノヴゴロド公国が東北ヨーロッパ部ペチョーラ川流域に進出した頃、現在のネネツ民族管区には、オビ川下流から移動してきたネネツ人が住んでいた。その南東にはハンティ人が住み、20世紀初めまで、ネネツ人はサモエード、ハンティ人はオスチャークと呼ばれていた。
 サモ(自身)エード(食べる人)とロシア語では連想され、差別的なので、1938年以降は自称のサモディーエツ(単数)、サモディーツィ(複数)と公式に呼ばれている。(ちなみに、北極圏のサモディーツィ人のそりの牽引やトナカイの警護用の犬はサモエド犬とこちらは旧称のままで呼ばれている。サモエド犬は、スコットやアムンゼンが極地探検に起用し脚光を浴びるようになったのだ。イギリスに持ち帰って改良されシベリアン・スピッツとも呼ばれている。)
 サモディーツィ語(サモディ語)は北西シベリア(ウラル山脈とオビ川下流域)を原住地と推測されるウラル語族に分類される
ウラル語族
フィン・ウゴル語派

  ・サーミ語(スカンジナビア半島、および、ロシアのコラ半島に住む原住民が話し手。旧称はラップ語
  ・ヴォルガ諸語、ペルミ諸語など(マリ語、モルドヴィン語、ウドムルト語、コミ語などの話し手はロシア連邦内の共和国や自治管区などに住む)
  ・バルト・フィン諸語(フィンランド語、エストニア語はバルト・フィン語の独立の国家に、それ以外のカレリア語などの話し手はロシア連邦内の共和国や自治区などに住む)     
  ・ウゴル諸語
    ・ハンガリー語
     ・オビ・ウゴル語
(ハンティ語,マンシ語の話し手はロシア連邦内に住む)
サモディツィ語派

  ・北部サモディツィ諸語(ネネツ語、エネツ語、ヌガンサン語の話し手は極北のタイムィール半島や、ネネツ自治管区、ヤマロ・ネネツ自治管区などに住む)
  ・南部サモディツィ諸語(セリクープ語の話し手はオビ川中流、トムスク州、ヤマロ・ネネツ自治管区などに住む)
   (カマシン語、マトル語、コイバリ語、カラガス語、タイギ語はクラスノヤルスク南部のサヤン山麓などで話されていたが、現在は死語)
サモディツィ語の分布
赤は20世紀、赤点線は17世紀の推定

 サモディーツィ人が、北部と南部に遠く分かれているので、原住地はどこだったのかと、18世紀からロシア人言語学者たちによって推測されてきた。現在、サヤン山麓が故地で、紀元後10世紀前後、チュルク系民族に追われて、オビ川中流に移ったのがセリクープ人、さらに北へ移ったのがネネツ人などとされている。
 南に残ったサモディツィ語派は17,18世紀までロシア人の記録にあり、サヤン・サモディツィ語派(南部サモディツィ)とも文献に載っているが、トゥヴァ語やハカシア語、ショル語などのより大きな言語に吸収されてしまった。その中の、最も大きかったカマシン人(上記の表 参照 19世紀半ばでも130人がいた)は17,18世紀ごろクラスノヤルスク南部のサヤン山系のカン川やマン川の森林地帯に広くトナカイ遊牧をしていたので、森林タタールとも呼ばれたが、19世紀末までには、ハカシア人(の中でもカチン族)やロシア人に溶け込んで消滅。しかし、20世紀フィン人言語学者カイ・ドーネルやエストニア人の言語学者が最後のカマシン人女性(1989年死)からカマシン語を研究した。
 また、コイバリ語(下記)はカマシン語の方言。より南のエニセイ上中流の支流盆地に住んでいたが、ハカシア人に同化、コイバリ語はハカシア語の方言になった。マトル語は近辺のチュルク語に早くから同化されていた。西サヤン山脈北麓にマトールスコエ村と言う地名のみが残っている。
 一方、現在ブリヤート共和国に住むソイオート人も、サヤン・サモディツィの子孫。東サヤン山麓に住み、初めはチュルク語系に同化されたが、後に移って来たブリヤート語(モンゴル語)に同化された。2002年になって固有の民族と認められた。2002年の人口2739人。

 図書館からもらった『ベヤの地』と言う本によると、ウーティ村はアーラ(一族のユルタ・天幕群からなるハカシア人の遊牧基地、20世紀初めには全土で520ヶ所あり、大きさは10所帯程度から大きくて40所帯まで)のひとつとして300年ほど前から名前が知られていた。古い地図にもウーティの名が載っている。革命前は大家族が多く集まった豊かなアーラだった。裕福な家族には羊が2,3群(1群は種や年齢によって異なるが500頭以上。羊は頭数ではなく群数で数えるそうだ)、地元シベリア種の牛が50頭、それに30頭の馬がいたとある。革命後1930年、『革命的一揆』と言う名前のコルホーズ(後に『10月革命20周年』と改名)ができたが、1957年、クイビシェフ村の周辺の6つのコルホーズを合併して大ソホーズができたので、ウーティ村にはその第4支部が組織され、『栄えた』そうだ(コルホーズなどの統合分離はソ連時代度々行われていた)。が、ペレストロイカのあと村はさびれ、1992年の干ばつ以来人口は減るばかりで、家畜小屋は1軒もなくなり、村全体で100頭(?)ほどの馬が残るのみとなり、穀物小屋も廃墟になったと書いてある。2003年の村の人口は273人だ
ウーティ村の戦没者慰霊碑

 かつて、畜産ソホーズで栄えた村なのか、赤い星のついた戦没者慰霊碑(戦勝記念碑)だけは、緑のペンキの塗った塀に囲まれてそびえている。古ぼけた家がまばらに建つ晩秋のこの村の、辺り一面が薄茶色のなか、色のあるのはやや褪せているとはいえ、その記念碑の赤い星と緑の塀だけだった。知り合いがいるわけでもないので、ただ通り過ぎた。途中出会ったのは2,3人の住民で、私たちの場違いなグリーンのトヨタ・イプサムを凝視していた。
 「この先の草原をドライブしてみようか」とサーシャが言ってくれる。もちろん、したい。ベヤ区は、エニセイ川とアバカン川にはさまれたコイバリ草原の南半分を占める。その南は西サヤン山脈に続く山岳針葉樹林帯(ジョイ山地)が迫っている。
 コイバリ草原のドライブ
 アバカン川の左岸のコイバリ草原にも、アバカン川左岸のサガイ草原やウイバット草原にも、古代人のクルガン(古墳)は多くある。ベヤ区には284基のクルガン、3個のオルホン・エニセイ文字の彫られた記念碑があるそうだ。
 枯れ草色の草原の中の枯れ草色の道を走っていくと、クルガンの石が見える。ハカシアには『おおっ』と驚くような巨大クルガン(サルビック大クルガンバルスーチィ・ロックのクルガンなど)や、数百のクルガンがぎっしりと集まったところ(サフィーロフ丘ベリテリスコエ村など)もあるが、ここウーティ村から西のアバカン川に向けての草原には、地味なクルガンが間をおいてぽつんぽつんと寂しげに立っている(残っている)。薄茶色の草原のかなたにやや盛り上がった塚が見え、その周りにやや傾いた立石が数基立っている。
 10万分の1の地図で見ると、ウーティ村付近のウーティ川は海抜412メートル。ウーティ川を挟んだ丘陵は429メートルのものから533メートルなどいくつかあって、『古代の墓』と言う地図上の印もいくつかあり、341メートルのくぼ地にはウーティノィと言う塩湖がある。
コイバリ草原
コイバリ・アーラ(村)の戦没者慰霊碑
コイバリ村とクイビシェヴォ村の間のコノヴャース

 私の大好きな草原を30分ほどゆっくり進んだところで、またアーラ(村)に出た。コイバリ村(359人)と言ってアバカン川の側流に沿って長く伸びている。サーシャがアバカン川の本流まで行ってみようと言ってくれたので、ロシア語が多少通じる村人に道を聞きながら、今は渇水期なので道のようなものはあるが、実はかなりの悪路を進んで行った。初日からトヨタ・イプサムを酷使することになった。
 泥道つまり沼地を通り過ぎたり、木の枝を踏みしめたりしてたどり着いた川岸だが、アバカン川の流れを見ただけだった。ちょっと水に手を入れてはみたが、ここで水浴びをするわけでも、バーベキューをするわけでもない。川上と川下の写真を撮って、日本と違って周りに家も畑もないと感心しただけで、引き返さなくてはならない。
 コイバリ・アーラ(つまり、コイバリ村)に戻ると、そこからアバカン川に沿って下流へ向かった。ここも周りは草原だが、自動車が通年(季節と天候によっては通行不可の道もあるなかで)通れるような道はある。ハカシアの道には道祖神のようなコノヴャースがある。ここで昔は馬を繋ぎとめて一服したらしいが、一定の氏族用のもの、だからその一族の祖を祭ったもの、通行人がそこで足を止めるから掲示板代わりに自分だとわかるものを残していく場、などであった。今でも牧童が一休みするのかもしれないし、昔、神聖な場所に作った柱を作りなおしているのかもしれない。ブリャートやサハ(ヤクーチア)ではセルゲと言って、ここに祖先の霊が宿るそうだ。昔は馬を繋ぎ、休んだ。今も一休みするのか、残念ながら必ずプラスチックごみが残っている。
 この草原にもぽつりぽつりとクルガンが見えた。この辺りも夏は羊が喜ぶおいしい草で一面が緑になるだろう。みずみずしい牧草が生える程度には降水量があるのだろう。干し草の山はもう運び去ってしまったのか、見当たらない。
 道端に橙色の実がまだ落ちずについているシーバックソーン(スナジグミ、ヒッポフェア)の林があった。サーシャによるとソ連時代に土壌に合わせてこの灌木が植林されたが、今は放置されているとのこと。とげに気をつけながらシーバックソーンの林に入り込み、実をむしって食べた。クラスノヤルスクのディーマさんのダーチャにはシーバックソーンは2,3本だけ生えているが、ここでは一面が橙色の木の実だ。この実をお味見する機会は、この先のハカシア旅行中も何回かあった。日当たりがよく乾燥気味の砂地がハカシアには多いのだ。
 アバカン川下流とエニセイ川の間の草原をコイバリ草原と呼ぶのは、エニセイの右岸も含むこのあたりに18世紀コイバリ氏族の地で、ロシア帝国統合後、コイバリ・ステップ・ドゥーマ(*)が置かれていたからだ。行政中心地ドゥーマは、今はすっかり寂れているが、当時は豊かだったウーティ村にもおかれていたそうだ。また、今通って来たコイバリ村は、ホイバル家(ここからロシア訛りのコイバリになった)の遊牧基地だった。
(*)ステップ・ドゥーマは19世紀、ロシア帝国時代の遊牧民族の自治機関。中央アジアの草原地帯のことをステップと言うが、ステップ・ドゥーマはハカシアに4 -5ヵ所、ブリヤートに6 - 10ヶ所、ヤクートに1か所あった(時代によって変動)。東シベリアの非ロシア人、つまり、チュルク語系、モンゴル語系、トゥングース語系の遊牧・半遊牧民を19世紀ロシア帝国が統治する機関だった。行政中心地ドゥーマ(議会)の場所は一定ではなかった。19世紀末にステップ・ドゥーマは廃止され、非ロシア人が伝統的に住む土地も郷郡県制の行政区画になった。
 コイバリ草原のコイバリ村から、伝統的な馬の繋ぎ柱・コノヴァースを経て一つ下流の河口村は、クイビシェヴォと言う。革命家ヴァレリヤン・クイビシェフ(1888-1935)の名前を取った村名からもわかるが、これは1952年にベヤ川の畔にできた新興ソホーズ村だ。このクイビシェヴォ・ソホーズには5つの支部を持ち、本部として『栄え』たのだ。今でも人口780人と多い方だが、私たちは村の『観光』はしないで、ベヤ川に沿って、ベヤ村の方に向かう新しい舗装道(私にはつまらない)を通り、それでも周りにクルガンの塚と石を見ながら、もう5時前には家に帰った。次の日の予定はない。
 この日以降、晩は何もすることのない私は、夕食後必ず長時間かけて円筒形のシャワー・ボックスを使うことになった。ヴァーリャさんが嬉しそうに使い方を教えてくれたが、ボックス床に直接お湯を20センチほどもためることができ(つかるためではない、シャワーの湯がすぐにはあふれ出ないための余裕の水位だ。足湯ならできる)、天井からだけではなく横や下からもシャワーの湯が出てくるお風呂を毎日試すことになったのだ。日本のユニットバスのようにバスタブはない。シャワーのみ。
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