クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 03 June, 2011(校正 12年2月5日、7月12日
晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(3)サヤノ・シューシェンスカヤ発電所 方面
           2010年10月22日から11月19日(のうちの10月28日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ(古代遺跡の集中地の一つ)
8 別のハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光

 ベヤ村から東へ、『無人』のボゴスロフカ村
 ハカシアへの(ロシア人の)ツーリストと言えば、数ある塩湖のほとりでのキャンピングか、塩湖の効用をうたったサナトリウムに出かけるか、そのついでにアバカン市やミヌシンスク市、シューシェンスコエ町の博物館を訪れるか(ミヌシンスクもシューシェンスコエもエニセイの右岸にあるのでハカシア共和国ではなく、クラスノヤルスク地方だが)、さらに足をのばしてサヤノ・シューシェンスカヤ発電所を見ることになっている。だから、コーリャにもヴァーリャにも、
「サヤノ・シューシェンスカヤ発電所は見たの」と聞かれる。
ハカシア南部
1.ベヤ川 2.ウーティ川 3.タバット川 4.ソース川 
5.大モナック川(支流が小モナック川) 6.大アルバトィ川
7.小アルバトィ川 8.ジェバッシュ川 9.タシュティップ川
10.アスキース川
1.国道161号線 
2.3.アバカン・ノヴォクズネック鉄道線
4.アバザ・アスキース鉄道線

 もちろん、3回以上は見た(2002年2003年2009年)。行くたびに新しい何か、例えば見晴らし台などができていたり、お土産店ができたりしていた。最後は2009年8月の事故の1か月前に見た。事故直後は事故の様子を自動カメラなどで撮ったビデオをネットで見た。今は、出力は40%程度まで回復されているそうだ。外観からは事故の跡は見えない。サーシャが、2日目の観光としてサヤノ・シューシェンスカヤ発電所へ行こうかと聞いてくれたので、この日はベヤから東方面に出かけることになった。
 ベヤ区は北西部がコイバリ草原、南東部は東サヤン山脈の支脈ジョイ山地の森林地帯になっている。行政中心地のベヤ村はベヤ区のほぼ中央部の、森林地帯からほど遠くない草原地帯にある。だからベヤ村を中心に放射状に5本(うち2本は舗装されている)もの道路が延びている(ハカシアでは珍しい)。

 10月28日(木)、朝の出発は9時半と言う遅い時間だ。これから先の日々も、遅い時間の出発に悩むことになる。夏と違ってこのシーズンは夕方暗くなるのが早いから、回れる時間も少なくなる。暗闇の草原を走っても星空以外は見えない。もちろんそれも美しいが、サーシャは帰りはいつも家に急いだので、フロントガラスから見える程度の星空しか堪能しなかった。雄大な入り日はサイドガラスからも毎日観賞できたが。
 ベヤ村から東へ18キロも行ったところが、サビンカ川ほとりのサビンカ村だ。サビンカ川は長さ25キロで、西サヤン山脈の支脈から流れてくるのだが、サビンカ村を過ぎると湿地帯に飲み込まれて消えてしまう。サビンカ村は19世紀前半にでき、住民は大部分ロシア人で、人口は千人。ベヤ村から東方面に行く時はいつもここを通った。そこを通りすぎると道はカルィという村を通り、サヤノゴルスク市民のダーチャ団地アイ・ダイを通り過ぎ、エニセイ左岸に出る。
 そもそも、ベヤ村からエニセイ左岸の発電所の町サヤノゴルスクは近く、発電所そのものも近く、1日分の観光コースとしては短すぎる、と思っていると、
ボゴスロフカбогословкаへ行ってみようか」と、サーシャが言ってくれた。そこはサヤノゴルスク市からサヤノ・シューシェンスカヤ発電所へ向かうためにエニセイに沿ってできた道の途中のマイナ村から、西サヤン山脈へ入ったところにあるそうだ。もちろん、どこでもいいからまだ行ったことのないところへ足をのばしたいものだ。
 西サヤン山脈、とくにベヤ地区に伸びているジョイ支脈は、サーシャのテリトリーだそうだ。サーシャは古代人の遺跡に関心はないが、ハカシアの針葉樹林帯(タイガ)を回ることが好きなのだ。つまり以前は半職業的なハンターであったらしい。当時は馬で回った。だからサーシャの趣味は今でも乗馬で、ベヤの実家にも3頭飼っている。だが、それに乗っているのは、サーシャの次女のヴァーリャ(14歳、祖母から名前をもらった)で、彼女は大会でも上位の成績を取っているとか。(だからヴァーリャは夏休み中おばあさんのヴァーリャ宅で乗馬の練習をしていた。私が使っている部屋も、本当は彼女の部屋だ)。
 ベヤ区の南東半分を占めるサヤン山脈支脈の針葉樹林帯には集落はない。が、エニセイの左岸支流の山川ウイ(27キロ)の中流ほとりに、1895年、ロシア人の入植者村ができ、みんな信心深かったのか、ボガ(神)スローヴォ(言葉)、つまりボガスロフカと名付けられた。そこに、ソ連時代になって木材公団ができ、80年代後半には生産量も多く『栄え』たが、ソ連崩壊後に公団を引き継いだ林業会社も90年末には閉鎖され、地図上では無人つまり廃村とされている。が、無人の村に向かう山道にしては、タイヤの跡もあり、道路標識もある。サーシャは以前バイクで来たことがあるそうだ。タイガの中にも道はあるものだ。
 ボガスロフカまでの途中の道傍に開けた谷間があった。その谷間は広すぎず狭すぎず、緑の針葉樹林に囲まれ、遠くには青色のサヤン山脈が見える。谷間というより、何か不思議な広場のようで、おまけに中ほどには立派な建物がある。バービカ谷と地図には載っている。ここへは帰りに寄ることにして、先へ進むと道は悪くなったが、ウイ川に沿って右岸へ渡ったり左岸へ渡ったりしながら50分ほど行ったところに、数軒の家々が見えてきた。ここが人口200人の『無人』村ボガスロフカだ。生産基盤がないと、住民は離村するので廃村・無人と言うことになっているのか。
板張り歩道の先の学校。パラボラアンテナも見える
村の上空の送電線
玄関の掲示板
1年生の教室
職員室の大統領写真


 今は紅葉のシーズンも終わったが、針葉樹と白樺林に囲まれたボガスロフカ谷はうっとりとするような美しい自然の中にある。ゆっくり車を走らせていってもすぐに村は終わった。エニセイ岸から伸びてきた車の通行可能の道はここで行き止まりになるようだ。しかし、村の上空には巨大な鉄塔を伝って何本もの送電線が山々を超えて伸びている。サヤノ・シューシェンスカヤ発電所でつくった電力をサヤノゴルスク・アルミニウム工場や各地に送電する主要経路なのだ。
 村に観光名所がありそうもなく、遺跡もないだろうし、サーシャの知り合いもいないだろうが、ここまでの道のりがよかった、こんな辺鄙な田舎に来られたことがよかったと思っていると、きれいにペンキで塗られた柵に囲まれた小さな記念碑と、その横に公共の建物らしいパラボナアンテナを備えた家があって、そこまで板張りの歩道まで付いている(田舎では舗装はアスファルトではなく板張り)。村唯一の見どころに違いない。近づいてみると、それはどの村にでも必ずある戦没者記念碑で、造花の花輪が備えられている。どんなさびれた村でもそうだが、手入れの跡が見られた。一応写真に撮る。
 となりの建物は何だろう。人の気配はないが、サーシャがドアを引いてみると開いたので、開いた以上は入ってみた。不審げに奥から現れた年配の女性によると、ここは村の学校だという。あ、その通りだ。狭いが玄関ホールの掲示板にはメドヴェージェフ大統領のおなじみポーズの写真を中央に、ロシアの国旗と紋章、その横にハカシア共和国の国旗と紋章が貼られているではないか。少し離れた掲示板には子供の作品や何かで表彰されている写真が貼ってある。
 10月後半のこの日は秋休みなので、子供はいない。日直のエヴゲニヤ先生は突然現れた私たちに
「お茶でもどうぞ」と言ってくれた。テロリストかもしれないのでパスポートを見せてくださいなんて言われなくて良かった。
 学校は玄関ホールの他に大小の教室が1室ずつと事務室があって、エヴゲニヤ先生は事務室でお茶をごちそうしてくれた。村の住民は200人だが、子供も多いと言う。仕事がないので若者は離村してしまったのかとサーシャも思っていたのだが、発電所関係の町まで20,30キロで、車で容易に通勤できるそうだ。だから、年金生活者ばかりか、子供のある家族も残っているのだ。学校は4年生までの初等科があるだけなので10歳以上の子供は中等部のあるマイナ村へ通う。
 このこぢんまりとした学校にはエヴゲニヤ先生を含めて職員は2人、生徒は8人だそうだ。
「まあ、8人しかいないなんて教えるのは楽でしょうね」と言うと、
「いやいや、複式授業で大変なのですよ」だそうだ。掲示の時間割表を見ると、1年生が算数となっている時間は、2,3,4年生がロシア語となっていたりするが、3学年同じ水準のロシア語というわけにもいかないだろう。
 ついで、エヴゲニヤ先生が自慢そうに見せてくれたのは、児童用ミニ・ノートパソコンで、まだ包装されたままだった。ネットは5年前からつながっていると言う。ちなみに、
「学校のメールアドレスもある、これのはず」と言うので書きとめて、帰国後出してみたが、宛先不明で戻って来た。ネットでハカシア共和国教育機関の一覧表を開いてみると、230ヶ所のうち『なし』とある10個ほどの一つが、この学校だった。
 事務室には着脱式の飲料水タンク(ウォーター・サーバー)があって、その横には予備ボトルも2本置いてあった。これがある方がパソコンに劣らず便利だ。
 事務室の壁にも工夫を凝らした掲示板があって、ここにも国旗をバックの大統領の写真があった。玄関ホールの大統領はロシアが前進する方向を向いた威厳に満ちた表情だが、こちらの方は国民(写真を見る人)の方を向いた慈愛(友情または共感)にあふれたまなざしだった。
 新品のミニ・ノートパソコンに感心したり、掲示板の大統領の写真の前でエヴゲニヤ先生と写真を撮ったり、ウォーター・サーバーから酌んだお湯でお茶を飲んだり、私たちが持ってきたお菓子をご馳走したりして1時間くらいも話し込んでいた。
 外へ出てみると、この小さな建物には入口が2つある。となりの入り口は診療所だとか。今は締まっているとそうだ。
 私たちは、上空の高圧送電線と高層の鉄塔を見ながら、ボガスロフカ村を後にして、来た道を戻った。10キロほど戻ると、来るときに見下ろして通り過ぎたバービカ谷が見えてきた。
 
 バービカ谷
 谷へ下りるかなり広い道もあり、その道は山荘のある広場も通り越して、さらに奥山の方に通じている。道の横には『グラデニカヤ・スキー場』と言う道路標識があった。辺鄙な山里にあるかのように見えて、新しく快適そうな山荘はスキー客用だったのだ。10年ほど前から、リフトや山小屋が整備され、2001年にはプーチンも滑りに来たというグラデニカヤ・スキー場はハカシアの観光スポットのひとつなのだ。90年代末からレジャー資本も投下され、高度1710メートルというスタート地点近くの山小屋(プーチンもその一つで休憩したとか)の他、ふもとにも2、3のオールシーズン用宿泊所ができた。その一つが2005年に建てられたというこの『スポーツ・ホテル・グラデニカヤ』だった。
 帰国後、ネットで調べたのだが、周囲の森にマッチするよう建てたという木造4階シャムロック(三つ葉模様)様式、屋根裏・地下室つきで、全室ウッド・ビューだそうだ(そりゃそうだ)。116人まで宿泊可能。シーズン・オフ1泊料金はスタンダードで2800ルーブル。シーズン中は3600から4300ルーブルとある。スィートはその倍、スーパー・スイートは4倍とある。(ちなみに、庶民用『ツーリスト基地』なら数百ルーブル)。有限会社『スポーツ・ホテル・グラデニカヤ』の株は49%がハカシア政府、残り51%を会社が持つ。

上の道路から見たバービカ谷
スポーツホテル『グラデニカヤ』
 山荘の周りは森を切り開いた谷間のような原っぱだが、山荘のすぐ近くにはちゃんと広い駐車場もあった。シーズン・オフなので宿泊客も少ないのか、駐車場に車はみえない。それでも、サーシャが自分のイプサムを止めると、ガードマンが近づいてきた。サーシャは車から出て、ガードマンと何やら話している。ベレギーニャとかいう記念碑はどこにあるか、と尋ねているようだ。予備知識の何もなかった私は、この山荘が高級リゾートホテルだとも、記念碑ベレギーニャは何を記念しているのかも(だからこのバービカ谷の歴史も)知らなかった。

 ベレギーニャというのはスラブ神話で水辺の守護女神のことだと、後でわかった。スターリン時代、ウクライナから強制移住(当時の内務省文書では『特別』移住)させられた数百人の家族が、1950年8月28日夜トラックでバービカ谷まで運ばれ、
「生き残りたかったら、何がいるか考えて、自分たちで作るように」と言われて、何もない針葉樹林帯(タイガ)に置き去りにされたそうだ。トラックから降ろされ、苦しいシベリア生活が始まったその地点に、スターリン体制犠牲者追悼碑として、2000年ウクライナ風ベレギーニャが建てられた。
 1950年代は西ウクライナからハカシア自治区(当時)への強制移住者の数が特に多かったそうだ。戦時中、反ソ連・ウクライナ独立運動に協力したという罪で、村人全員が事実でも事実でなくともシベリア、ハカシアなどの鉱山、林業基地へと送られた。バービカ谷に下ろされた移住者にはその夜を過ごすバラックもなかった、とある。強制移住の農民をこうした方法で、故郷から遠いシベリアの処女林に置き去りにして自分たちで集落を作らせ、林業などに従事させるということは当時よくあったことだ。(危険分子をシベリアに送り、同時にシベリア開発も唯でできる)。バービカ谷のウクライナ農民家族は近づく冬に備えて必死で土小屋やバラックなど住む所を建てたと言う。置き去りにされたと言っても、強制移住家族は移動の自由がなく、定期的に住居地管轄の国家保安委員会支部に出頭しなければならない。1957年強制移住措置が解かれるまで、マイナ銅山用の坑木などを作っていたそうだ。1957年以降、故郷のウクライナに戻ってみたが、元の家は没収されて生活の基盤もないので、バービカ村に戻った家族も多かったとか。
http://www.memorial.krsk.ru/Articles/XKP/3/15.htm
http://www.memorial.krsk.ru/Reabil/Pamyat/054.htm
今のベレギーニャの跡

 ホテルのガードマンが指さして教えてくれた方向に行くと、原っぱの端に3メートルほどの立派な白い大理石のベレギーニャ碑が立っていた。と、その時は思ったが、サーシャがガードマンに尋ねてまで探し出したにしては、普通の十字架だった。しかし、帰国後、サイトを調べてみると、このスターリン犠牲者追悼碑にはロシア・ウクライナ関係という政治的な話がからんできたらしい。

2000年、建立時のベレギーニャ像
『ハカシア共和国新聞』記事から
 サハロフ・センターの資料によると、体制犠牲者への追悼碑は旧ソ連全体に1213基あり、クラスノヤルスクに43基、ハカシアに6基ある。2000年8月28日、ここバービカ谷に、著名な彫刻家により制作された十字架を背に祈るベレギーニャ像がたてられた。
 『矯正収容所への道をたどったすべての犠牲者』のために祈り、台座には『バービカ谷へ政治的抑圧時代に移住させられたウクライナ人の碑』、裏面には記念碑建立の主導者が『ハカシア・メモリアル協会』であること、彫刻家の名前とスポンサーがアルミ工場であることなどが彫られていた。

 バービカ谷に送られてきたのは主に西北ウクライナのローブネン州からの農民だった。リウネ州とも言われているその地方は、第二次大戦中ステパン・バンデラのウクライナ独立運動の根拠地だったとかで、戦後、スターリンがその運動の協力者だったかどうかにかかわりなく、リウネ州(ローブネン州Ровненская область)初め多くのウクライナ住民をシベリア各地に流刑にした。1991年のソ連崩壊とウクライナ独立ののち、特に2009年のウクライナ大統領選でステパン・バンデラをウクライナの英雄とする動きがあった。それに反発してか、2009年12月、このベレギーニャ像が何者かによって破壊されたそうだ。首と十字に組んだ手は折られ、台座から引きずり降ろされて雪の上に横たわっているのが発見されたとある。
http://www.gazeta19.ru/node/2361#top(『ハカシア共和国新聞』)
 この地方のテレビでもかなり報道されたに違いない。だからサーシャはここまで来たのだからベレギーニャがどうなっているか見るために、バービカ谷にも寄ってみたのだろう。現地で、私に説明してくれてもよかったのに。
 西サヤン山脈のサヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所、事故の後
 バービカ谷を通り過ぎて、エニセイ川岸のサヤノ・シューシェンスカヤ発電所に通じる道の方に降りて行った。サーシャによると、この道に新たに教会がたてられているそうだ。最近建てられたと言うから、2009年8月の発電所事故の犠牲者を悼む教会だろう。入ってみると、内部はまだ完成していなかったが、墓地と犠牲者の名前が刻まれた記念碑は傍らに立っていた。記念碑の文字から新教会は『エフェソスの7人の少年』という名前とわかる。キリスト教公認前の3世紀、小アジアのエフェソスで秘かに信者であった7少年が洞窟に閉じ込められたが、数百年後、眠りが覚めたかのように蘇ったと言う故事から、多くのイコン(聖画)が作られ、ロシア正教では厚く信仰されている。(カトリックでもイスラムでも)。
 ここから坂を下りて、エニセイ川岸に出ると、発電所までは数分の道のりだ。ハカシアへはトゥヴァへ行く途中に通過しただけというのも含めて8回は訪れているし、サヤノ・シューシェンスカヤ発電所は4回目になる。。高さ245メートルという堤防に突き当たるように道は終わっているのだが、発電所へは500メートルほど手前に遮断機があって近付けない。
『エフェソスの7人の少年』教会と犠牲者の碑(右)
サヤノ・シューシェンスカヤ堤防の手前、
見晴らし広場の『エニセイの征服』モニュメント
遠景、堤防の横の余水排出水路が見える
雪山かと思う白い大理石の山キービック
シーザヤ村、白い大理石の教会玄関アーチから
エニセイを見る

 3300万立方メートルの土壌を使って築いたと言うダムだが、そこで使った970万立方メートルのコンクリートでサンクト・ペテルブルクからウラジオストックまでの自動車道ができるとサイトに出ていた(当時、部分的に舗装された自動車道が7割程度しかなかった)。
 2002年2003年に訪れた時はエニセイ右岸に見晴らし台があって、200メートルくらいの高さから見下ろすことができた(堤防の方はそれより高い)が、2005年から余水排出装置、つまりダム湖内の余分の水を、発電所を通さないで右岸から流す水路を建設するため、見晴らし台への山道は閉鎖された。代わりにエニセイの川に突き出るように見晴らし広場が作られ、2009年に来た時は、その広場に『エニセイの征服者たちへ捧げる』という大きなモニュメントが作られていた。早くから事故の可能性を指摘されていた発電所を作っておいて、『征服』とは自画自賛だと、2009年8月の事故直後には言われていたのか、新聞記事には皮肉って征服に対する『エニセイの反乱』と題するものもあったくらいだ。今回、『征服者』群像は以前と同じくそびえていた。ここ広く厳しいシベリアでは、自然は征服されるものであって守るべきものではない、とモニュメント注文者は考えているのか、と私は思うのだ。
 余水排出水路は2011年完成の予定だったそうだが、事故後は優先され、もう白い煙を上げて水が落ちていた。
 ちなみに事故のとき、サーシャ一家は百キロほど川下のチェルノゴルスク市に住んでいたが、ダムが決壊すれはそこも水浸しになるので、数日間は大パニックだったそうだ。

 ボガスロフカ村もバービカ谷も発電所も訪れると、この日のサーシャが考えたコースは終わりになるのだが、まだ1時にもなっていなかった。マイナ発電所堤防の上を渡りエニセイ右岸に出て、シーザヤ村や、もし時間があったらミヌシンスク博物館も見たいと言ってみた。それらは初めての場所ではないが、どこへ行きたいかと聞かれて、行ったことのあるところしか、名前を挙げられないではないか。この近くに古代人の古墳や、石像、石画が発見。発掘されているのだが、案内標識などは決してない。専門家ぐらいしか知らないだろうし、前年に専門家と回った私の方がサーシャより知っているくらいだ。
 エニセイ左岸をマイナ村の方へ、元来た道を戻る。行きと帰りでは、エニセイの両側に連なる山々や川岸の様子も違って、草原地帯とは違う見ごたえがある。白い山肌のキービック山がみえた。濃い緑の針葉樹が茂る低い山々の一つだけが雪でもかぶっているかのように白く光っている。こんな低い山に雪ではなく、露天掘り大理石採掘場で、『サヤン・マーブル』社が操業している。ロシアでは大規模な大理石採掘場はここの西サヤン山脈とウラル山地だけで、キービックは色が豊富なことで有名だそうだ。ハカシアを始めクラスノヤルスクなどの記念碑や劇場の内装など、皆ここの大理石を使っている。ちなみに販売会社のプライスリストによると、200平米で3500ルーブルとか。

 マイナ発電所はサヤノ・シューシェンスカヤ発電所の下流20キロにあって、大発電所から流出される水量調節のためにできた小さな発電所だ。(決壊すれはここも完全に水没する)。この発電所ダムに養魚場があり、鱒類などが養殖されている。有限会社『サヤン鱒』が経営してプライスリストも『鱒の販売、活魚は1キロ410ルーブル、低温燻製は480、高温燻製は450』と張り出されていたが、養漁場にはひとけがない。3日後の11月1日から今シーズン売り出しが始まるからだ。水槽などを見て回り写真を数枚撮って、サーシャはちょっとがっかりした様子だったが、引き揚げた。
 右岸のシーザヤ村には、白と青の美しいエウドキア教会がある。1990年代にシーザヤ村出身のレスリング選手で、1973年に世界チャンピオンになったヤルィギンが母親と同じ名前の教会を、自費で建てたそうだ。この辺のエニセイ川は西サヤン山脈の谷間を流れてくるので、川のほとりの村々のすぐ背後には険しい山がそびえている。エヴドキヤ教会は村の高台にあり、遠く左岸からも端正な姿が見え、教会に上がってみると、エニセイの雄大な川岸が見晴らせる。観光名所サヤノ・シューシェンスカヤ発電所の帰りにはいつもシーザヤ村を通るが、その時はこの優雅な教会にも寄ることにしている。
 ミヌシンスク博物館
 ミヌシンスク市には、シーザヤ村から100キロほども川下にあるのだが、世界的に有名な博物館があるし、2002年に見たきりなので、見物場所の決まりにくい今回、見ておきたいと思ったのだ。
 シーザヤ村は西サヤン山脈とその北のハカシア・ミヌシンスク盆地との境にあるので、この北への(つまりエニセイ川下流への)道は森林から草原へと移っていく。進むにつれて、草原が広くなり、1時間も走ると、ミヌシンスク市に温水と暖房も供給する火力発電所の太い煙突が見えだすと、もう市の入り口だ。
 ミヌシンスク博物館に到着したのは夕方4時半だった。この日は木曜日だから休館ということはないはずだ。
 入場料は60ルーブルという高め。博物館ではできたらガイドを頼むことにしているが、ここは90分コースが400ルーブルと、さすがシベリアでも由緒ある有名な博物館だからと、感心して窓口で払うと、サイン入りの領収書までくれた。
 内部は8年前とほとんど変わっていない。ただ、2009年ミヌシンスクの劇場で『そして、シベリアにも桜の花が咲いている』という戦後抑留者をテーマにした劇が上演されたおり、日本から来た関係者がこの博物館に贈呈したと言う記念品の本『日本の文化』とその説明文が展示されていた。
ミヌシンスク博物館の考古学ホール

 この博物館の目玉である考古学ホールは、全く更新されていなかった。新しい発見があるはずなのに、由緒ある博物館なのにあまりはやらないのか。説明を書いたプレートまで色あせていた。1877年、ミヌシンスクに来た薬学者マルティヤーノフによって創立され、19世紀の発掘物も3万点もあると言うが、展示されているものの中にはわざわざ見に来てよかったというようなものはなかった。もっと残念なことに、途中から変わったガイドは、本当はフランス語の先生とかで、歴史については詳しくないと告白する。考古学については全く知らないと言う。珍しいガイドだ。だから、タシュティック時代がタガール時代より新しいと言うことを、教えてあげたくらいだ。これは、中学生のハカシアの歴史という教科書にも載っている。
 今回旅行中、全部で9個の博物館を回り、市内見物も含めて9人のガイドさんを頼んだが、館内ガイドで料金の一番高かったのはここだ。愛想は良かったが。
 この博物館でよかったことは、大祖国戦争(第2次大戦)の仰々しいホールがなかったこと(だけ)だ。
 マルティヤーノフ名称ミヌシンスク郷土博物館は、ヴォルガ川のカザニ市からミヌシンスク市(1822年にはすでに4つの郡の中心の市だった)へやって来た薬剤師マルティヤーノフのコレクションを中心に1877年設立された。エニセイ県で最も古く、20万点以上の収集品を保管し、その中には当時の著名な地理・動物学者セミョーノフ(1827-1914)収集の蝶、当時の著名な植物学者・シベリア学者ポターニン(1835-1920)収集の貝、マルティヤーノフ収集の植物標本の他、1万点の民俗学収集品、3万点の石器・青銅器時代の発掘物があるそうだ。ハカシアで20世紀初めごろまでに発掘された考古学的価値の高いものはサンクト・ペテルブルクのエルミタージュ博物館かミヌシンスク博物館へ送られたのだから、倉庫の中は宝の山だろうか。年間30万人訪れると言う来館者には見せてもらえないが、69人いると言う職員が研究しているのだろう。
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