クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 05 June, 2011  (校正2012年3月18日、11月20日、2018年10月22日,2019年12月2日、2021年9月10日、2022年8月27日)
28-10  晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(10)ハカシア、タシュティップ村周辺とシューシェンスコエ町
           2010年10月22日から11月19日(のうちの11月6日から11月7日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ
8 別のハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ(山岳、石の建造物)
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザーンツェヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光


 タシュティップ
 11月6日(土)はアバカン川の向こう岸で面積の最も大きい(つまり無人の山間部の多い)タシュティップ区の行政中心地タシュティップ村に向かった。アバカンの左岸は国道161号線に沿って30キロもベリティルスコエ・クルガン群が続く。そこが過ぎると見晴らしの良いサガイ草原に出て、気持ちよくドライブしていると、西サヤン山脈へ近づいてくる。その山脈への入り口にあるのがタシュ(岩)ティップ(底)村だ。ベヤ村から、道がよいので1時間半くらいで来られる。
 毎晩、ヴァーリャさんの家で寝る前、旅行案内書や地図を見たり、去年のガイドのスラーヴァに電話して情報を集めたりして、一人で旅行プランを立てている。ベア村から日帰りで行けるところで、サーシャも同意する所を見つけなくてはならない。イーゴリさんの提案もこれ以上は期待できない。
 アスキース区行政中心地アスキース村にも博物館はあるが、電話しても通じなかった。タシュティップ村にもスラーヴァによればあるはずだが、旅行案内書には電話がなかった。だが、この日は土曜なので博物館が休みのはずはないと、出かけることにした。8日前に国道161号線を通ってタシュティップからアバザ市を通りアルバトィ村方面、つまりアバカン川上流へ出たが、タシュティップ川畔は通り過ぎただけでまだ未踏だ。タシュティップ村まで行けば、何か情報があるだろう。まずは博物館に行って、タシュティップ区の見どころについて教えてもらい、できたら案内してもらおう、と思っていた。
 人口6千人(25%以上がハカシア人)のタシュティップ村は、人口5千人(大部分がロシア人)のベヤ村よりやや大きいが、村に入って、博物館はどこにあるかと聞けば、だれでも教えてくれる。村役場、村立図書館(公民館を兼ねることも多い)、博物館などは村の中心の広場に面して並んでいるものだ。
 行ってみると、休館だった。ベヤ村から100キロもの道を来たのに。日本からなら5000キロはある。土曜日が休館だなんて。
村役場の向こうには郷土博物館
博物館のたぶん未整備の保管室
発掘の青銅器

 となりには村役場の立派な建物があり、前には数台の車も止まっている。サーシャに頼んでその運転手に事情を話して、何とかできないか聞いてもらうことにした。意外なことに、その運転手は私たちを2階のある一室に案内してくれた。そこは休日用の受付だったのかもしれない。親切なその受付のハカシア人の男性は、今ほどの運転手やサーシャや私から事情を聴くと、博物館関係者に通じるかどうか順番に電話して、10分もすると博物館の職員の一人と連絡をつけてくれた。その職員はタシュティップ村のはずれに住んでいるので、迎えに来てほしいと言うことだった。もちろん喜んで、そのナージャさんと言う博物館保管係りの年配の女性を迎えに行った。
 タシュティップ博物館は、同じタシュティップ区の野外博物館としてオープン準備中(まだ完全にはオープンしていないから)の小アルバトィ野外博物館の写真、つまり、マラ(小)アルバトィ岩画の写真や説明文を掲示してあるだけの玄関ホール、ハカシアとロシア人移住者の道具類などの郷土史を展示したホール、第2次世界大戦戦没者を記念した新しくて立派なホールなどがあった。
 しかし、タシュティップ区にもクルガンはあるだろうし、その発掘物はないのだろうか、と言ってみると愛想のよいナージャさんが鍵のかかった部屋から割れた大きなつぼを持ってきて見せてくれた。細かい線模様が入っている。まだあるよ、と違う模様の壺を持ってくる。部屋の中をのぞいてみると足の踏み場もないくらい床に物が乱雑に置いてあった。マンモスらしい大きな骨片がある、ガラスのかけた額縁や、壊れかけた家具、ミニチュアの教会、本、ロシアとハカシアの旗、サモワール、コサック兵の帽子、多くの段ボール箱、白樺の皮でつくった容器、かけらを繋ぎ合わせた壺など、保管室にしては無秩序すぎるのかどうかしらないが、私は遠慮して足を踏み入れなかった。
 保管室はもう一つあって、そちらに先史時代の発掘物があると言う。中に入らせてもらって、段ボールを開けると、番号がふられた磨製石器(だと思う)がいくつも入っていた。触ってもいいと言う。青銅器時代のクルガンから出てきた人骨に触ったことはあるが、レプリカでない石器に触るのは初めてだ。
 まだあるよ、と次の段ボールを開けてくれた。骨で作ったらしい鏃が5本、番号札を糸で結びつけられて並んでいた。青銅のナイフの刃もある。ナージャさんはまだ別の小さな箱を開けて、青銅製の細い留め金のようなものを取って私に見せようとした時、落としてしまった。貴重な考古学資料をこんなに無造作に扱ってはいけない。でも、ナージャさんのおかげで普通は見られないものをたくさん見られて、手にも取れたし写真にも撮れた。青銅製の刃の斧で持ち手の木は欠けているものや、裏に持ち手のある丸い鏡、スキタイ動物文様の青銅製品、たくさんの青銅製ナイフ、勾玉のようなものが、箱の中に詰め込んであり、それぞれにちゃんとカードが結びつけられている。『チョールノェ・オーゼロ2002』と書いてある青銅器もある。チョールノェ(黒い)・オーゼロ(湖)と名付けられている湖は、3日前北ハカシアにヴァロージャ案内で行ったチョールノェ・オーゼロの他、ハカシア各地(それどころかロシア中)にたくさんある。タシュティップ区にもある。そこの第23番目と48番目のクルガンで発掘されたものらしい。
 石器の方はチストベイ村(廃村)近くの遺跡からの発掘物だそうだ。帰国後調べたところ、アルバトィ川の支流や、その南のジェバッシ川ほとりには新石器時代の住居跡、さらに1万2千年前の旧石器時代後期住居跡も8か所ほど調査され、ハカシア文化局のリストにも載っている。チストベイ村はアルバトィ川より上流のジェバッシ川畔にある(どちらの川もアバカン川の右岸支流)。ナージャさんの娘さんのタシュティップ博物館・学術委員のエレーナ・アランダさんの論文にもある(帰国後読んだ)。
 遺跡の多いハカシアでは、こんなに立派な青銅器製品でも、博物館の倉庫に転がしておくのだろうか。保管室を出て、一応、ほかのホールも回ることにした。ナージャさんはそちらの方を見せたいだろう。郷土史のホールでは、ハカシアの伝統住居ユルタの一部や、糸紡ぎ器などの道具と言った博物館でよく見かけるものの他、ナージャさんが大切そうに見せてくれたのは、彼女の家に伝わるイコンと銀のスプーンだった。もちろん、私たちは感心して拝見し、注意深く説明を聞いていた。

 タシュティップ村の近く、どこか車で行けるところで何か遺跡はないだろうか、とナージャさんに聞いてみた。彼女はよく知らない。電話をかけて娘さんの考古学者のエレーナさんに見どころを教えてもらっている。エレーナさんはタシュティップ区の考古学調査隊として、アバカン川右岸のアルバトィ川やジェバッシュ川上流の石器時代遺跡の調査ならしているが、車では簡単に行けない所だし、タシュティップ村周辺は、どこも思い浮かばないらしい。せめて、景色のよいところはないだろうかと聞くと、タシュティップ村の奥に高台があり見晴らしがよいと言う。もちろん、ナージャさんにも乗ってもらって一緒に出発した。
 自然派共同体の新興村
 タシュティップ村の背後にタシュティップ川に深く突き出ている山があり、タシュティップ川はそこを迂回して流れている。山の中腹に舗装されたよい道が通じている。川の上流のシルィ村や上タシュティップ村などタシュティップ川やその支流の村に通じているのだろう。この辺が一番見晴らしがよいと言うところで、車から降りてみた。道路は、山の中腹を通っているが、はるか下方にタシュティップ川の流れが見えた。さっきまでいたタシュティップ村も川下の方に小さく見える。川上の流れは山波の向こうに消えている。ここはもう広い草原や低い丘陵ではなく、近くまで山が迫ってきている。タシュティップ区で平地の草原が広がるのはタシュティップ川の下流だけだ。
タシュティップ川高台から村を見る
上クルルガッシュ村には未完の家も多い
干し草の家もあって楽しそう
住民は都会人風
ミツバチの巣箱が並んだ菜園

 もちろんもっと先へ行こうと言う。時刻は2時にもなっていない。
 すぐニジニィ(下)クルルガッシュと言う村が見えてきた(帰国後ネットで調べたところ、人口322人、9割がハカシア人。2000年バレンツ海でロシア北氷洋艦隊の原子力潜水艦事故の時、118人の乗組員全員がなくなったが、その一人がこの村出身だとあった)。先に進むと道の舗装はもうなくなったが、クルルガッシュ川に沿って道は登っていく(川の名前から村の名前ができることも多い)。
 やがて屋根の上に座って瞑想している若い男性が見えてきた。ナージャさんによると、この辺に『ケードル(シベリア松)』とか言う新興宗教団体の一味が住みついているそうだ。道はクルルガッシュ川に沿った谷間を上がっていく。道の両脇の枯れ草を見て、サーシャが、
「ここの草は柔らかくて家畜が喜びそうだ」と言う。ナージャさんが
「そうよ、私は昔はこの辺までコルホーズの草刈りに来たもんだわ」と相槌を打つ。

 8キロほど行くと、人家が見えてきた、ベルフニィ(上)クルルガッシュ村は、2004年の資料では住民12人となっている。ほとんど廃村だったのだ。そういう廃村の家々を自然生活志向の(新興宗教)団体が買い取って、自分たちの共同体を作っているそうだ。
 事実、廃屋のような建物もあるが、その周りには大きな干し草の山がいくつもある。建設中の家だってある。これから建てるために木材を積み上げてある敷地もある。半分出来上がった温室の骨組みもある。各敷地は広く、大人や子供が行き来している姿も見える、車も止まっている。住民は12人よりずっと多そうだ。都会風の若者が御する荷馬車とすれ違う。一輪車を押す金髪の少年もいた。収穫の終わった菜園もある。ミツバチの巣箱が規則正しく並んだ菜園もある。干し草の山に派手な色のドアと窓をつけた家もあった。干し草の束でつくった穴倉住居かもしれない。立派な新築の2階建ての家もある。もしかしたら、ここが共同体の本部なのだろうか。ナージャさんは、彼らはその新興宗教団体『ケードル(シベリア松)』の一味だという。
 ナージャさんやサーシャは不信感を持っているようだ。クラスノヤルスク地方南部、つまりエニセイ川右岸支流カズィール川上流の東サヤン支脈の中のチベリクリ湖畔には別の自然志向宗教団体の共同体が住んでいる。こちらの方は自分たちの教会もあって、教祖(自称ベッサリオン)が自分は第2のキリストだと言っているそうだ。
 しかし、帰国後ネットで調べたところでは、上クルルガッシュ村の新住民は宗教団体と言うより自然志向エコ団体のようだ。『(先祖)伝来の(領)地』という組織があるらしく、ノヴォシビリスク州からイルクーツク州まで、いくつもの『伝来の地』を作っている。ハカシア共和国内には4か所の共同体村が、すでにできていたり募集したりしている。どれも、上クルルガッシュ村のように廃村に近い村に、一家族1ヘクタールの土地を借りるか(上クルルガッシュ村では賃料が年間5百ルーブル)、買って(5千ルーブル)環境に良い農村生活を始めているそうだ。ちなみに上クルルガッシュ村は『露(つゆ・ロッシ)』共同体と言う名称、ほかに同組織のハカシア共和国内の3つの地所のうち2つまではタシュティップ区にあり、一つは『泉』、もう一つは『虹』と名付けられている。
 元々村があったから、古家とか井戸とか電気ぐらいのインフラはあるだろうし、元の菜園があったりして処女地開墾までしなくてもよいだろうが、下水設備や携帯用アンテナはなさそうだ。ナージャさんもサーシャも『便利な生活』派なので、ここへ移ってくることもないだろう。
 村の中を通る道をゆっくり走り、ぱちぱち写真を撮っていた。住民は厳しい目つきで私たちを見る。サーシャが
「帰りには撃たれるぞ」と冗談を言う。家は道の両側にたぶん30軒ほどもあった。
 上クルルガッシュ村(先祖からの伝来の地『露』)を通り過ぎても、まだ先へ道があった。ぬかっていたが、行けるところまで行こうと進んだ。地図で見ると、この先さらに15キロほどに人口19人(2004年)のボリショイ・ボル村がある。さすが、そこまでは行かずに森の中で一休みしていつものお弁当を3人で食べて引き返した。
 ペチェゴルの奇跡
 ナージャさんが携帯で問い合わせた娘さんによると、ぺチェゴル村に、『奇跡の十字架』があるはずだという。ぺチェゴルはタシュティップ川の下流にある。奇跡の十字架を信じるわけではないが、何か口実があってタシュティップ川の下流の村に行けるのは、この際、嬉しい。サーシャはもちろんナージャさんも場所を知らないと言うが、国道161号線をニジニィ(下)イメック村の方に曲がると聞いただけで、いつも10万分の一の地図を持っている私には十分だ。道案内ができる
 左岸支流イメック川がタシュティップ川に合流するあたりは低い丘陵の連なる草原地帯だが、南の丘の向こうには西サヤン山脈(の支脈)の山波も見える。下イメック村はタシュティップ村やアルバトィ村同様コサック前哨隊基地として、少し遅れて19世紀に作られた。コサック隊員は革命後、『富農』撲滅政策で文字通り撲滅され、その村には『富農撲滅』と言う(革命的な)名前のコルホーズさえできたとか。人口400人のうち半数以上がハカシア人だ。
地元の人に聞いてみるが
天使が降り立った場所に建つ十字架

 道は低い丘を上がったり下がったりして進んでいる。タシュティップ川の谷は丘の向こうに続いているのだろう。10キロほど行くと、137人(2004年)の住民のうち97.8%がハカシア人と言うペチェゴル村に出る。つまり、ハカシア人以外の住民は3,4人と言うことか。ちなみに1964年版の地図にはペチェゴル村は載っていない。ここは20世紀初めまでハカシア人の放牧基地で、村ではなかった。1930年代タシュティップ乳牛ソホーズの第2農場が置かれたので、その古い地図には『第2農場』とだけ記されていた。この地は緩い丘と谷間が続いているので、ピチェ・ゴル(姉妹の谷)とハカシア語の名前で、今の地図には載っている。現在、ソホーズ農場は解散、住民は元は副業経営だった菜園で生活している、とサイトにある。
 先ほどの上クルルガッシュ村はジーパンに金髪の若い都会風ロシア人が働いていた。ペチェゴルは人も景色もすっかりハカシアの田舎風だった。一面茶色の丘の上にも家畜を菜園に入れないように柵が設けてある。その向こうの丘にも柵がのびている。村の下方にはタシュティップ川が流れている。
 『奇跡の十字架』はこの近くにあるらしいが、見つけられない。それでナージャさんが、車から降りて、塀の側を歩いているハカシア女性に尋ねてみた。戻ってきて言うには、言葉が通じなかったそうだ。つまり、この村はロシア語を話さない人もいる、ということだ。しばらく行って、ロシア語が分かりそうな少し若い男性に尋ねてみると、今度は、私たちが通り過ぎた丘の一つの、道からも見えるところに立っていると教えてくれた。
 丘の上の十字架まで特に道はないが、車は草を踏んで頂上付近まで行けた。背の高い茶色の枯れ草の生える小高い丘に高さ5メートルほどの木の十字架だけが立っていた。遠くに牛の群れが草を食べている。間をおいて干し草の山が並んでいる。
 この小高い丘の上に立つと、低い丘がうねっていて、のどかな草原が地平線まで続くのが見える。タシュティップ川の右岸に、西サヤン山脈の支脈らしい黒い山があって、その上空から光とともに天使が現れて、この丘に降り立ったのだ。それを一人の牧童がはっきり見たと言うが、そうした光景が見えても不思議はない丘、空、山、草だ。夜なら満天の星空で流れ星だってたくさん見えるだろう。牧童がいつ見たのか、降りてきた天使がどこへ行ったのか知らない。
 今は、丘と空と地平線と枯れ草と木の十字架しか見えない。ナージャさんとサーシャは世間話に熱中している。私は十字架の周りをまわったり、離れたり近づいたりして、ペチェゴルの自然を楽しんでいた。

 ナージャさんをタシュティップ村郊外の自宅まで送って行った。半日付き合ってもらったので、いつもイーゴリさんに払うガイド料の半分を払うと、意外だったらしくとても喜んでくれて、マロ(小)アルバトィ野外博物館の売店で売るために作っていると言うペンダントをくれた。
 かつてはレーニンのシューシェンスコエ町
シューシェンスコエ町
 11月7日(日)元革命記念日のこの日は、旧『レーニン博物館』(正式には『レーニンのシベリア流刑記念博物館および自然保護区』)、今は『歴史民俗保護博物館シューシェンスコエ』があるエニセイ川右岸で、行政的にはクラスノヤルスク地方に属するシューシェンスク町へ出かけた。イーゴリさんがそこでイヴェントがあると言ったからだ。
 ハカシア・ミヌシンスク盆地の中央を南北に南からエニセイ川が流れるが、右岸はクラスノヤルスク地方で、左岸がハカシア。今、ハカシア人は右岸には少ない。18,19世紀ごろまでは西サヤン山脈の北から、チュリム川両岸、アンガラ川左岸まで広く住んでいたと言うハカシア人だが、ロシア帝国のコサック前哨隊基地が次々とできたので、多くのハカシア人はエニセイ左岸やチュリム川南に渡ったと言われている。サモエード系やケット系民族もハカシアの諸藩国の納税民として周辺部にいたが、20世紀までにハカシア人に同化された(チュルク語化した)。地名としては、エニセイ右岸にも左岸にもチュルク語系、サモエード語系、ケット語系由来が多い。  
 18世紀半ばに、アバカン柵とサヤン柵の中間点のエニセイ右岸支流のシューシ川河口付近にコサック前哨隊基地としてできたのがシューシ村で、18世紀末には教会ができシューシェンスコエ大村となり、郡役所所在地村として一帯の経済の中心になった。当時の幹線道路(今でも幹線)のシベリア街道から遠く離れていたので、帝政ロシアの流刑地でもあった。(1860年はドストエーフスキーも参加していたグループの主犯ペトラシェフスキーや、1897年にはレーニン夫妻などが流された)。
 国立レーニン博物館があった頃はロシア中から入場者が集まり、学校教育でソ連史を学ばせる『視聴覚教材』の一つだったかもしれない。今は、レーニン夫妻が過ごしたと言う部屋も展示されてはいるが、テーマの重点は19世紀末シベリア農村でのロシア人生活の展示に移っている。 
博物館と町役所前広場で革命記念集会
博物館内のレーニン夫妻の部屋の展示物

 イーゴリさんの言うイヴェントは、革命記念集会らしい。ソ連時代ならレーニンの像の前で大々的にやっただろうが、今は『レーニン』という名を外した博物館前広場で、ソ連時代を思い出させるような音楽をならしたり、たまに誰かが何か演説しているくらだ。参加者も広場にまばらだ。広場を囲んで赤い垂れ幕の下がっているエンタシス柱の立派な建物や(博物館の一部か)町役場とその前に大都市並みの大きさのレーニン像などがある(町の中心に必ず立っているレーニン像だが、町の規模によって大きさも違う)。教会も見えるが、これは、18世紀末建てられたペトロパヴロフスク教会で、レーニンとクルプスカヤが結婚式を挙げたのに、1930年、文化会館に建て直されたのが、ソ連崩壊後にまた教会として復活したとかいうものだった。
 この日、ほかに行くところも思いつかなかったので、イーゴリさんに勧められるままにシューシェンスク町へ来たが、特に回るところも思いつかなかったので博物館に入ることにした。私は2002年に訪れたことがあり、サーシャは去年家族で来たと言っていた。
 11時30分からガイド付きのグループ見学が始まるから待っていてほしいと言われる。その時刻になっても私たち以外の見物者はいなかったので、ガイドと3人でこの『歴史民俗保護博物館シューシェンスコエ』という一種の野外博物館の敷地内へ入った。19世紀末の20軒ばかりの家々がそのままの形で建っていると言うミニチェア村で、その1軒の、レーニン夫婦が1898年から1900年まで暮らしたと言う中農ペトロフ家の建物には、遺品が残っている。レーニンはペトロフに家賃を払って住んでいた。生活費はかなりの額が帝政政府から支給されていた、とガイドの説明だ。レーニン夫妻がスケートをして楽しんだと言うシューシ川も近くに流れている。しかし、この博物館のテーマは歴史民俗学なので、ガイドの説明の大部分が、当時の農村の暮らしだった。レーニンの銅像の他、家畜小屋や作業場もある農家の他、酒場や監獄もそのミニチュア村にはあった。
 1時間のガイド付き見学は一人90ルーブル(250円)と言う妥当な値段だった。私たちのガイドはとても良心的に説明してくれ、ここをこういう角度で写真を撮ったらいいと(お節介にも)教えてくれ、(お節介にも)私とサーシャを並ばせてシャッターも押してくれた。

 一巡が終わってもまだ2時前だった。これから行くところを考えなくてはならない。エニセイ川の右岸にも、遺跡は多いのだが、サーシャはどこにあるか知らない。前日のタシュティップ博物館で見事な岩画の写真があったが、保管員のナージャさんによると、クラギノ区シャラポリノ岩画だそうだ。シューシェンスコエ町から迷わずに行っても200キロはあるし、川に突き出た崖だと言うし、ガイドなしでは見つけられないだろう。そこは、最近再調査されたのでタシュティップ博物館にも写真が貼ってあった。新石器時代から中世にかけて、点刻やレリーフや赭土で描かれた岩画が5キロにわたり数か所に残されていると言うが。
 この日のシューシェンスコエ博物館のコーナーに古代の壺が数点だけ展示してあって、発見場所は『シューシェンスコエ区』とのみあったので、館員の人に場所を聞いてみた。誰も知らないそうだ。
 博物館から出てみると、広場では人もまばらだったが、イーゴリさんがみつかった。この地方の博物館長たちの会議が、シューシェンスコエ役場であったと言う。幸いにも、この近くの遺跡の場所は、イーゴリさんと一緒だったアンハーコフ(ベヤ区の隣のアスキース区)野外博物館長が教えてくれた。ここから数キロのカザーンツェヴォ村近くに岩画があるそうだ。私の持っていた旅行案内書にもカザーンツェヴァ村近くに小さく歴史考古学遺跡物の印がついている。それをサーシャに見せて、回ってもらうことにした。村人に聞けば、場所が分かるのではないか。カザーンツェヴォ村は、シューシェンスコエ町から数キロのところで、クラスノヤルスクからアバカン、ミヌシンスクと結びトゥヴァへ通じる主要国道54号線上にあってわかりやすい。
 カザーンツェヴォ村のレンコヴァ岩画
 目的の村に入って、通行人に聞いてみると、学校へ行けば分かるかもしれないと言われる。学校に行ってみると、文化会館に行ってみたらどうかと言われる。ソ連時代、地域の青少年の文化活動に貢献し、今でも村の文化の中心で集会所でもあり、村博物館や村図書館も併設することのある村文化会館は、アルバトィ村の時にもお世話になった。ここで、事情を話すと、留守番の職員が、シキルナさんと言う職員が今日は非番だが知っているかもしれないと住所を教えてくれた。
背後の崖に岩画が見えると、教えてもらう
レンコヴァ岩画のある絶壁からオヤ川を見下ろす

 尋ねあててみるとシルキナさんの家は村外れにあって、彼女は実は女流画家だった。文化会館で村の希望者に絵を教えているのだろう。この日はシルキナさんの家にこのあたりの芸術家が集まって、お食事会でもすることになっているらしい。まだ全員が集まっていないらしく、今着いたばかりだという年配の女性が、スルキナさんから事情を聞いて、私を菜園に案内してくれた。見晴らしの良い菜園で遠くの岩山を指さし、
「それは、ちょうどここから見えるあのオヤ川に突き出たレンコヴァと言う岩山にあるわ。1キロもの長さに、赭土で描かれた青銅器時代から中世にかけての岩画よ。まあ、あのレンコヴァ岩画を見にわざわざ来てくれた人は初めてだわ。まあ、まあ、日本からですって。古代の岩画はなかなか芸術的な描写も多いけど、レンコヴァはねえ、私は、あまり芸術的とは思わないけどねえ」と愛想よく教えてくれる。彼女はハカシアの有名な画家コペリコの夫人だった。アレクサンドル・ザイカがレンコヴァについて本を書いている、と付け加えた。ウラジーミル・コペリコ(1937-2000)は著名な芸術家、考古学者で、クラスノヤルスク・ダム湖に水没することになった膨大な岩のコピー(クラスノヤルスクやアバカン博物館に掲示してある。とても雰囲気がよい)が有名だ。ザイカはケメロフ大学出身考古学準教授だそうだ(その後、クラスノヤルスク大学で会った)。
 コペリコ夫人エラさんと菜園で話していると、シルキナさんの夫が近づいて、私にこの辺の地面から出てきたのだとコサック時代の錆びた鍵をくれた。こんな珍しいものを今日会ったばかりの私にくれるなんて。
 彼の仕事場も見せてくれる。敷地内の小屋で造形物を作っている。スルキナさんが、まあ家の中に入って、と言う。中には何枚も絵があった。サーシャは成り行きに困惑していたかもしれない、知らない家にいきなり入ってしまったのだから。私はとてもいい絵だと思ってずっと見ていても良かったのだが、いきなり押しかけてきて長居は失礼だ。この家のキリルと言う少年が、レンコヴァ岩画の場所を案内してくれると言う。

 カザーンツェヴォ村はエニセイ右岸オヤ川がエニセイの合流する手前数キロのところ、オヤ川とエニセイ川の間にあり、キリル少年が案内してくれたのはオヤ川の右岸に切り立った残丘だった。車を崖の下の河原に残すと、キリル少年は身も軽く登っていく。私は岩だらけの崖をまた息を切らして登ることになった。先の方でキリル少年は黙って待っている(じれったいなと思っているのかもしれない)。やっと追い付くと、またひょいひょいと登っていく。登るごとに眼下にオヤ川が茶色の中州を残して流れる茶色の草原が広く見えてくる。遠くにカザーンツェヴォ村も見える。
 岩画は、こうした残丘の岩が垂直に立っていて狭くても足場のあるところに描かれているものだ。赭土で描かれた動物、人物、何かのシンボルのようなものが、かすかに残っていた。青銅器時代から中世にかけて描かれた動物や人物、いろいろなシンボル模様で、1キロほども続いている、と帰国後調べたザイカ氏の資料にはあった。コペリコ夫人エラさんが、自分はあまり芸術的だと感動しなかったと言っていたが、保存状態はとても悪く、やっと赭土の赤色が見えるばかりか、現代人の落書きにいちめん覆われていた。だから古代芸術の傑作かどうかはわからなかった。私は考古学者ではなく旅行者だから、旅した先々で、青銅器時代の岩画の上に覆われた現代人の落書きを見ることも、それなりに興味があるのだと言えるかも。
 キリル少年が言うには、ここは村からも近く、この崖っぷちが格好の遊び場で、みんな登ってきてみんな落書きをしたと言う。自分はしなかったそうだ。ハカシアの岩画の残っている崖は辺鄙なところに多いが、こんなに村から近くでは仕方がない。
 岩画に行きつくのは私には容易ではないが、いつも、容易ではないところでも、登ってきてよかったと思う。高みから見下ろすと、必ず、広々とした草原の中を流れる川の流れがいつも小さく見える。4時を回った時刻で、岩の角に隠れる太陽の光や、水面に斜めに反射している太陽が見えた。
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