クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 04 June, 2011 (追記:2018年10月22日、2019年12月2日、2021年9月9日、2022年8月25日) 
28-9  晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(9)ウスチ・ソース草原遺跡
           2010年10月22日から11月19日(のうちの11月5日から11月6日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 タルピック城塞
8 ヴァロージャののハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ(山岳、石の建造物)
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザーンツェヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、エニセイに架かる橋) アーチンスク市、スホ・ブジムスコエ村のスーリコフ 

 キルベ・スベ
 11月4日(木)、昨夜戻ったベヤ村のヴァーリャさんの家を出発して、4日前に約束してあったように大モナック村へ、ガイドのイーゴリさんを迎えに行った。この日は、先日時間がなくて案内できないと言われたキルベ山に行くことになっているのだ。ウスチ・ソース村からは先日のハカシア共和国指定文化財ヒズィル・ハーヤ岩画のある山は見えるが、キルベは
「ほうら、あの遠くに見えるのがそうですよ、ちょっとここからはスベは見えませんが」とイーゴリさんに言われて、そちらの方向にカメラを向けてシャッターの『ただ押し』をしておいたところだ。スベは山岳石造り建造物、つまり要塞だが、一体どこにその城壁が伸びているのだろうか。イーゴリさんはほとんど残っていないと言ってはいたが。
大モナック川の川上の"МТФ"が乳製品農場
(この地図作成時、1991年頃にあった場所)

 大モナック村からウスチ・ソース村(*)までは10キロほどの粗い砂利道で、両側にはいつもの草原の中に、4日前のように草を食べる羊の群れや、クルガンのいつもの立ち石を見ながら進む。大モナック村からウスチ・ソース村までの間は草原しかないが、1964年版の10万分の1の地図にはクイノフと言う小さな集落が載っている(もちろん今は廃村)。
(*)ウスチ・ソース村はコサック起源の大モノック村と異なりハカシア人の村。アバカン川の右岸支流ソース川辺にあってベヤ村からは70キロ。ウスチ・ソース村の周囲は遺跡の宝庫と言える。後期旧石器時代の住居跡もアバカン博物館員達によって調査されているそうだ。青銅器時代、突厥帝国時代の遺跡もある。ウイグル帝国の一部であり、9-13世紀は古代ハカシア国(キルギス帝国)の領土でもあった。
 ウスチ・ソース村の背後、ソース川を渡ってアバカン川岸にあるのが先日のヒズィル・ハーヤ山で、アバカン川に沿って川下にあるのがキルベ、岸から離れたところにあるのがハン・オバーズィ山、こちらの方は明日行こうと言うことだ。
 人家がまばらに数軒建っているウスチ・ソース村を4日前のように通り過ぎ、クルガンの草原を突っ切り、橋のないソース川を渡り、斜面に向かう。斜面の枯れたハネガヤなどの草の間から、いくつものクルガンが見える。一つ丘陵を超えると、下り斜面になって、下方にアバカン川が見える。
 ここに岩画の見える石のクルガンがあると言うので車を止めた。数基のクルガンがあって、その一つの立ち石は2メートルくらいもあり、確かに浅く彫った渦巻きのような曲線の模様が見える。タガール時代のクルガンはたいていが四角で、塚を囲む四辺に薄い板石を立てて並べてあり、4隅には大きな石を立てる。門のあるクルガンもある。すると門柱と合わせて大石は6個になり、それらはたいてい同じ方向を向けて立ててある。
 曲線の刻みが見えるクルガン石は、アバカン川の見える景色の美しい斜面の少し平らになったところに立っている。ここでもゆっくりクルガンとアバカン川を眺めていたかったが、この日はとても風が強かった。 
 キルベ山もこの辺に多くある残丘の一つで、浸食されずに残った硬い岩が頂上の一方にあり、そこはアバカン川に面する側が断崖になっているが、反対側は緩やかな斜面だ。ハカシア盆地にある50基以上のスベの大部分は、残丘に、つまり周囲の準平原より数百メートルほど高い丘にある。残丘の一方はたいてい断崖絶壁がむき出しの岩場で、他方が緩やかな斜面になっていて、石垣、あるいは土塁の壁は、緩やかな斜面に頂上を囲むように数列に延びている。これがスベ立地の共通点だ。
キルベ・スベの断崖の側、
もう一方のゆるい方には土塁が積まれている

 キルベのスベは、保存がよくない。ヒズィル・ハーヤ山からキルベ山にかけての斜面に5キロの長さの石と土塁のスベが断片的に残っているそうだ。キルベ山の斜面には土塁の列が二重になったところもある。
 キルベ山の頂上まで車で登れた。頂上には人の手で積み上げた1メートルくらいの小さな石の塔があった。この板石は、スベだった石だろうか。頂上からは、大小の中州の間を流れていくアバカン川、その向こうのサガイ草原、その奥のアバカン山地(クズネック・アラタウ)が見える。だが、ここは先ほどの渦巻き模様のクルガンの場所よりもっと風が強かった。私とイーゴリさんは車から降りて石の塔に触ったり写真を撮ったりしたが、サーシャは、車からは出なかった。風に飛ばされそうだった。
 スベは頂上を囲むようにある。イーゴリさんはここから歩いてスベを見に行こうと言う。古代人が積み上げた石垣や土塁の壁はごく断片的にしか残っていないが、自然にできている残丘の岩の壁は見ものだと言う。スベは一方が断崖絶壁の自然にできた残丘を利用して、古代人、または中世人が作ったものだから。
 サーシャはずっと車の中で待っていると言う。私とイーゴリさんは、要塞のように見える垂直に切り立った崖の途中まで降りてみた。テラスのようになっていて足場のよいところで何枚も写真を撮った。長い茎の草や灌木がこんなところにもぎっしり生えていた。眼下のアバカンの流れは、それは素晴らしい。だが、風に飛ばされると上がってくるのが大変だ。早めに切り上げて、サーシャの車に戻った時はほっとした。
 風の強い山は早めに引き揚げて、ふもとのチャータースを見るため斜面の草原を下って行ったのだが、草の上にかすかにタイヤの跡が見えるところもあり、見えない所もある。そのうちぎぎぃっと音がして車が何かに乗り上げた。まずいことになったと、サーシャとイーゴリさんが車の下にもぐってみると大きな石があった。二人とも慣れたもので、車をジャッキで持ち上げて取り除いた。スベの残がいの石らしい。よく見ると土塁のような列が続いている。こんな低い土塁(か石垣の残がい)あっても、おまけに雑草に覆われていると気がつかないのも当然だ。サーシャのイプサムも連日悪路を走るうえ、こんな大石に乗り上げたりして、悲鳴を上げているに違いない。ずっと日本にいればよかったのに。
 この辺は土塁跡の列が続いているかもしれないので、また石に乗り上げないように、眼を皿のようにして背の高い草叢(くさむら)を下りていった。
アルティン・キョリ(黄金の湖)チャータースとエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原形
アルテイン・キョリ・チャータース
今は小さくなってしまったアルティン・キョリ湖
キルベ山の斜面から
 ハカシアでチャータース(戦士の石)はウイバット・チャータース、やコぺニ・チャータース(*)が有名だが、クィズラソフ教授の『ハカシアのチャータース』(アバカン1980年)によれば、60か所ほどあるそうだ。タガール時代(紀元前8世紀から紀元頃)のクルガンは太い立石で広く塚を囲んでいるが、チャータースは、細く長い石で狭く囲んであり、時代も6世紀から9世紀の中世とある。より古い時代の石を再利用して立てる場合もあり、石にタムガが彫られていることも多く、古代チュルク(突厥)文字のオリホン・エニセイ文字が刻まれた碑文が見られることもある。伝説では、古代勇士たちが決闘する時、岩山から抜いてきて、投げつけたのだと言う。
(注)コペニ(コペンスキィ)・チャータースから金や銀の皿が見つかったほか、4個の金の壺にはエニセイ文字(後述)が彫られていた。金銀青銅製の馬具など、イランや中国文化風であった(ハカシア共和国立中学生用教科書から)
チャータースもクルガンも石で囲んだ塚だが、クルガンは四角く板石で囲んであり4隅にどっしりとした石がある。チャ-タースの石は投げたやりのように細い。
 アルティン・キョリ・チャータース(またはウスチ・ソース・チャータース)は、チャータース期(6世紀頃から11世紀)前半のものだそうだ。ウイバットやコペニほどには石が樹立していないが、45度も傾いている細長い石もある(年月のせいで)。太い石もあって、タガール時代のクルガンのように四角く塚を囲んでいる石も見える。
 斜面一帯に並んでいた。東西に鎖状につながっているそうだ。中に、白い大きめの石があって、この石にまつわる伝説をイーゴリさんが語ってくれたのだが、それは
『昔この辺りはコチェ・ハンと言う勇者が治めていた。彼も初老になり世継ぎを得るために結婚することにした。国中から美しい娘を集めて、アイラン(飲むヨーグルト)と牛乳をごちそうした。飲むと、みんなトイレに行きたくなって、用を足したそうだ。コチェ・ハンはそれぞれの尿の跡を見て回り、泡が一番たくさん残っていた娘アク・コビクと結婚した。彼女は息子を産んだが、彼と一緒に住みたくなかったので逃げだして、アルティン・キョリ湖近くのヒズィル・ハーヤ山に隠れた。彼は、向かいの山に立ち、戻って来るよう言ったが、彼女は承知しない。それで彼はおどかしに弓を射った。すると、彼女が腰に下げていた火打石に当たった。火打石は割れてたくさんの白い石になったそうだ。この石を拾ってお守りにすると、子供が授かる』とか。確かにこのあたりに大小の白い石がたくさんあった。

 近くにアルティン・キョリ湖がある。それはヒズィル・ハーヤ山からも、キルベ山に登る途中からも見えた。上から見ると水面が2個続いて光っている小さな池だ。イーゴリさんによると、年々小さくなっていくそうだ。
 ちなみに、『キョリ』、『コル』は水、湖の意で、『アルティン』は『アルタイ』同様『黄金』の意。ロシアでは深さと透明度ではバイカルに次ぐと言われるアルタイ共和国のテレーツコェ湖(水深321m)も元々は先住民のテェルク系のテレウートはアルティン・キョリと呼んでいた。そこへ来たロシア人はテレウート族が湖畔に住んでいたためテレーツコェ湖と呼び、それが定着したのだ。
 このハカシアの『黄金の湖』近くにエニセイ文字で書かれた『アルティン・キョリ石碑‐1』と『同‐2』が見つかったと、イーゴリさんが繰り返すものだから、その有名な石碑はもうミヌシンスク博物館に運び去られているのだが、一応現場を見ることにした。しかし、まわりが沼地になって近付けない。車では行けるところまで行って、後はなるべく乾いていそうなところを歩いてみたが、その先は背の高い葦が生えていた。
アルティン・キョリ石碑の
エニセイ文字
アカーエフ氏の著作にあった
写真、ミヌシンスク博物館の
石碑の横で 

 ウスチ・ソース野外博物館の外壁に貼ってあったポスターには、ここに『アルティン・キョリ石碑』のコピー2基が立っていたと言う当時の写真があったが、今は葦と沼だけで何もなかった。そのうちレプリカでも作って設置するのだろうか。
 1877年にその2基の石碑は見つかったのだが、当時湖はもっと大きかっただろうから、今の湖とはかなり離れたところで、たぶんチャータースがあった斜面だろう。2基の石碑は数メートル離れて倒れていたそうだ。『アルティン・キョリ石碑‐1』は長さ183センチ幅43センチもあって、344のエニセイ文字がかなり深く刻まれていたそうだ。エニセイ文字は古代チュルク(突厥)文字の一つで、オリホン・エニセイ文字といわれている。オリホン文字はモンゴルのオルホン川畔で見つかったからだが、ハカシアのエニセイ川畔のものは、その一種でモンゴルのものとは独立に作られ、エニセイ文字とも言われている。9、10世紀、キルギス(堅昆)帝国の時代は、オルホン文字より普及していたそうだ。エニセイ川畔(エニセイ川とアバカン川、白イユース川と黒イユース川)で発見されたエニセイ文字碑文には(発見されたものは石碑だけではなく、黄金製器などの碑文も含めて150以上らしいが)『E-1』から『E-85』まで番号がふられていて、アルティン・キョリは『E-28』と『E-29』だ。
 『E-28』は、クリャシュトルヌィ Кляшторный教授の注釈では、710年から711年の冬、南の西サヤン山脈から北上した第2突厥軍と戦って敗れたキルギス族の英雄バルス・ベグ(バルス・カガン)の戦死を悼む碑文だそうだ。また、『E-29』にはバルス・ベグの子エレン・ウルッグが当時キルギスからチベットへ大使として行き、当地で死んだとあるそうだ。(マトケチック村の石碑にもエレン・ウルッグの名は刻まれているそうだ)
 イーゴリさんは、ここウスチ・ソースにこそ英雄バルス・ベグの幕僚があって、遠くチベットと同盟を結び、711年英雄バルス・ベグが突厥(第2チュルク帝国)の大軍と戦って死んだのは、ソース川の右岸のここアルティン・キョリ湖畔であると言っている。そうかもしれない(別説もある)。
 ソース川の右岸はいくつかの小高い残丘があって、ヒズィル・ハーヤ山やキルベ山、ハン・オバーズィ山などに登ったのだが、特に、ハン・オバーズィ山は途中まで登ったところから、緩やかな長い斜面が続いている先の方に小さく二つ続いた光る水面アルティン・キョリが見える。この広い草原丘陵に2002年7月キルギス共和国の初代大統領アスカル・アカーエフ氏が大天幕を張ったそうだ。アカーエフ氏は2005年チューリップ革命で失脚、キルギスから亡命したので、2002年の大天幕のことはもう誰にも話さないが、とイーゴリさんは言う。あのときは、大勢の人が集まって、この無人の草原では想像もできないくらいのお祭り騒ぎだったそうだ。
 キルギス共和国のキルギス人(天山クルグス人)は16世紀までにハカシア盆地(つまりエニセイ・クルグスの地)から今の地へ移住してきたともされているので、全盛時代のアカーエフ氏が、自分の先祖の故郷を派手に訪問し、ハカシア人は我同胞と言ったそうだ。キルギス族の英雄バルス・ベグにゆかりがあるというこのアルティン・キョリのウスチ・ソースで大キルギス民族プロパガンダをやったのか。
 2004年キルギス共和国のビシュケック市とイスィック・クリ湖に行った時、アカーエフ著『私の心を訪れた歴史』(2003年)という本を買っておいたが、ここに自分たちの英雄として東突厥からキルギスを守ろうとしたバルス・ベグへの思いなどが述べてある。事実、天山キルギス族の民族大叙事詩として有名な『モナス』の原型はバルス・ベグだという説もある。
 上記のアカーエフ著『私の心を訪れた歴史』には、『アルティン・キョリ湖を見下ろす丘の上に上がり自分(アカーエフ)や同行者たちは長い間、この谷間を見下ろし、遠い昔に自分たちの祖先が住み、バルス・ベクを指導者にここで勇敢にたたかったことに思いをはせた』とある。
 2002年にハカシアのアルティン・キョリを見晴らす丘に天幕を張って、歴史的な瞑想にふけったアカーエフはミヌシンスク博物館も訪れ、アルティン・キョリ石碑(オリジナル)の横に立って写真も映している(上記の本に載っている)。ちなみに、アカーエフ氏は、この時北西モンゴルも訪れた、と言うのも、そこにクルグズ・ヌールと言う湖があって、この湖がキルギス族のエニセイ上流への移動前の故地とされているからだ。
 袋小路の先端
 エニセイ文字で記録された1300年前の有名な戦場を後にして、また橋のないソース川を渡り、ウスチ・ソースのまばらな人家を通りぬけ、粗い砂利道を、優美に駆ける馬を見ながら通り過ぎ、今朝ほどの大モノック村も抜け、大モノック川にかかる田舎では極上だが危なげな木の橋を渡り、初めの日に見たパパリチーハ山の下の、崖崩れしそうな川岸を通りぬけると、アバカン川がゆったりと流れる広場に出た。ここは『袋小路の先端(トゥピッコヴィ・ウーゴル)』と言うのだそうだ。この先のアバカン川上流へは崖が迫ってきて道はない。行きどまりになっている。もし道があれば15キロほどで10月29日に行ったアルバトィ村に行きつける。あの時は、アバカン川左岸を大回りして200キロの道のりだったものだ。
山羊も上る岩山
『袋小路の先端』からアバカンを見る

 パパリチーハ山の向こうの『袋小路の先端』は夏ならキャンプを張るのにもってこいの景色のよい場所がある、風も穏やかだとイーゴリさんが言ったので、この日時間があったので来てみたのだ。
 そこはアバカン川右岸の河原で、川の氾濫時は冠水するのだろう。ところどころに池があった。川と高い山に囲まれてそこだけ河原が広くなっている。葉の落ちたガマズミ(カリーナ)の木に、真っ赤な実がなっていた。
 背後の山の高い斜面まで山羊の群れが上がっていた。遠くて高すぎて私の視力では気がつかなかったが、元ハンターのサーシャが教えてくれた。目を凝らしても見えないと言うと、サーシャが私のカメラを望遠にして撮ってくれた。これを拡大すると確かに、30頭くらいの草を食べているらしい白い動物が写っていた。
 辺り一面に落ち葉がぎっしりと落ちていた。ここはキャンプをしにツーリストが来ると言うだけあって、ところどころペットボトルや缶詰、空き瓶が落ちていたが、『袋小路の先端』の先端まで行って、また、コーリャがあの子ブタで作ったベーコンとヴァーリャさんの鶏の卵のお弁当を、アバカン川の流れを眺めながら食べた。もちろん、途中の店で買ったパンやチーズも、いつも食べている。
 11月でかなり寒くなっているのに、遠くでゴムボートで釣りをしてる。
 引き上げたのは4時過ぎで、イーゴリさんを送って、また大モナック村に入る。大モナック村でも戦没者記念碑は立派なものが立っている。イーゴリさんの家に寄って、またお茶をごちそうになったり資料をもらったりした。今日のガイド料は二人で900ルーブルと言われた。(2010年9月21日付の料金表より3倍高いが、まあいいか)。イーゴリさんは愛想よく明日のガイドも約束してくれた。
 乳製品農場跡のY字形のクルガンとカリーナ
 11月5日(金)、この日、サーシャは出発前に、ヴァーリャさんの薬を買ったり、娘のためにフラッシュ・メモリを買ったりして、イーゴリさんの大モナック村に着いたのは10時を過ぎていた。途中のタバット村のスタンドでも給油していかなくてはならない。3日に2回以上はほぼ満タン給油して、1回のガソリン代は約1000ルーブルだった。
 この日は、イーゴリさんによれば、大モナック村の近くの『特徴的な』クルガン群を見て、ウスチ・ソース野外博物館の『珍しい』3つ穴クルガンを見てハン・オバーズィ山を見ると言うコースだそうだ。ウスチ・ソース野外博物館のコースに入っているのは一応ハン・オバーズィ山だけで、そこも石があるだけのようだが。
 ハカシアの僻地の、と言ってもアバカン市の他はハカシアはどこも僻地だが、無数の青銅器時代の遺跡や中世キルギス時代の遺跡に囲まれ、ソヴィエト時代を経たハカシア人の村々と草原と丘陵を、サーシャの車で、元気いっぱいのイーゴリさんの案内で見て回るのは、(ガイド料に不信もあるが)、本当はどこでもよかった。行った先で、たとえよくわからない石があるだけでも、行くところがあるだけでありがたい。という気持ちだった。イーゴリさんもできるだけガイド料を稼がなくてはならない、のか懸命に説明してくれた。
Y字形のクルガン群の跡に乳製品工場が
あったと言うが、今はどちらもわからない
真っ赤になったカリーナ
 大モナック村からいつもの木造橋を渡って、アバカン川の下流の方へ行くと7日前(イーゴリさんとの初日)に行ったパパリチーハ山と昨日の『袋小路の先端』だが、大モナック川に沿って上流の方いくと谷間の草原が続く。この先にソ連時代に乳製品農場(ソホーズ)があったそうだ。この谷間の草原で牛の放牧もできるから生産量も悪くなかっただろう。今、国営乳製品農場はなくなって、この細い草原は、飼料用の草刈り場として各家に場所が割り当てられているそうだ。草刈り車が通った跡が平行の筋になって枯れ草の上に続いていた。また、夏場はここで、ミツバチも飼うと言う。巣箱を置く場所も各家に割り当てられているそうだ、集団経営から個人経営にいっていると言うことか。
 車を止めたのは、なんということもない茶色の草の上、低い丘陵が波打っている間にクルガンの石が見えないこともない。タガール時代のクルガン石によく見かけるような立石で一辺が尖っている。ここにはクルガンらしく塚もなく、石もばらばらで、それどころか、クルガン石を掘りあげてまとめて捨てたらしい場所もあった。イーゴリさんによると、ここにはクルガンがいくつもあったが、農機具を運転しやすいように地面が均され、クルガン石を片づけたのだそうだ。その前は、塚がY字形につながっていて、それが珍しいクルガン群の配置だと言う。
 今は誰もいないこの小さな谷間に、紀元前のタガール時代は放牧基地があって、もしかして集落もあって、墓地のクルガンも作っていたのか。20世紀のソ連時代は牛乳からチーズやヨーグルトを作っていたし。
 少し離れたところに、また、見事に真っ赤に実っているガマズミ(カリーナ)の大きな木があった。「カリンカ(カリーナの指小形)、マヤ」で有名なロシア民謡だか、食べたことはない。「カリンカ、クラースナヤ(赤い)、カリンカ、ゴーリカヤ(苦い)」と歌うくらいだから苦いかもしれないが、イーゴリさんが言うにはとても栄養があると言う。大粒な赤い実がざらんざらんになっている。つやつやに光っていて、もう、見逃すわけにはいかない。ポリ袋に一杯採って、持ち帰った。
 
 その日から毎晩、苦くてもう食べられないというまで、ガマズミを食べることになった。それでも食べきれないので日本にまで持ち帰ることにしたが、砂糖漬けにすれば1カ月はもつと言うことなので、重い瓶ではなく半リットルくらいのペットボトルに詰めた。それでも大部分はヴァーリャさんのうちの冷蔵庫に残してきた。
 私がカリーナを摘んだということを知ったイーゴリさんの奥さんのスヴェータは、それならこちらも、とサンザシの実を乾燥したのを袋にいっぱいくれた。これでお茶を沸かすそうだ。帰国して、別の人からもらったヤナギランの乾燥したのと一緒にお茶を沸かすと、悪くないお味で、体にもよさそうだった。
 ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、廃墟のユルタ
 乳製品工場跡付近クルガン群の次のコースは、ウスチ・ソース村にある三つ穴クルガンだった。ウスチ・ソース村をまた訪れ、クルガンの間を歩き回るのに異存はない。そこは、クルガン石が四角く塚を囲んで立っているものや、真中がややへこんで、古代の盗掘跡とわかるものもあるし、現代の学問的発掘後のように正確に中が掘られた塚もある。
 確かにその中には、普通は1つのクルガンには塚穴は一つなのに、3つ穴や4つ穴のクルガンもあった。これら『珍しい』クルガンは、村のアバカン川寄りにあって、黙って写真を撮っている私にイーゴリさんは、フルトゥヤフ・タス・パラーズィが見つかった場所も案内しましょうと言う。
ここで半分水につかっていた石柱が見つかった
廃墟のユルタ内部、
破れた屋根から日光がちらつく

 そこは川岸で、フルトゥヤフ・タス・パラーズィが半分水につかっていたそうだ。
「ほら、この木の近くで、春の雪解け水の洪水のとき、岸がこんな風に削られ、ここにこんな風に、こちらを頭にして…」と説明してくれたので、礼儀正しく聞いておいた。この日のアバカン川は青く、川向うの茶色の低い山の奥に見えるクズネック・アラタウの青い輪郭も、いつものハカシアだ。

 ウスチ・ソース村に古いユルタの民家があると言うので、そこへ向かう。ハン・オバーズィ山へ行く途中にあるからだ。
 ハカシアの伝統的な住居ユルタは、どの博物館にも美しく復元された一部が展示してある。が、もと立っていたところに廃墟のように立っているユルタは、ここでしか見られない。地面ならたくさんあるから、わざわざ解体までしてこの敷地を再利用しなくてもいい。だから、朽ちるまま立ち続けているのだろう。イーゴリさんは19世紀に建った立派なユルタだったと言う。普通、ユルタは、6角形または8角形で、北側に低いドア、南に窓が一つあって、床はない。
 この廃墟のユルタは、天井は崩れているが側面が残っていて8角形らしい。棘のある背の高い雑草を押し分けて入っていくと、ユルタの中には、まだ生活用品が残っていた。博物館のユルタ内の棚に並べてあるような大きな瓶もあった。(つまり、博物館の展示物は正しい)。わらでつくったような籠や小枝のざる、馬具だか農具だかのパーツ、石臼らしいもの、桶や多くの木片が、わらのようになった乾燥した草の茎と一緒に散らばっていて、足の踏み場もない。フェルトの長靴を作るための木の足形は、イーゴリさんが落ちていたのを手に取って説明してくれた。
 このユルタの主人は豊かだったのか、敷地内に木造平屋の普通の家も建っている。19世紀末には伝統的な住居の他にロシア的な生活も送っていたのだろう。イーゴリさんが言うには、ここに立派な水差しがあったと言う。その取っ手付き壺をさかんに探していたが、見つからなかった。私はどちらでもよかったのだが、イーゴリさんは、この鍵の閉まらない記念物(廃屋)にあった唯一『ましなもの』が盗まれたかと悔しがっていた。
 ウスチ・ソース野外博物館の計画には、この民家も展示物の一つになるとベイ区役所提出書類には書いてある(帰国後、ネットで閲覧)。確かに、ここまでの廃墟は、短期間ではできない。
 ウスチ・ソース村を後にして、またいつもの橋のないソース川を渡り、ヒズィル・ハーヤ山やキルベ山の方へ向かう
 ハン・オバーズィ山、ハカシア人捕囚
神聖な山の途中にあるコノヴァース
 ウスチ・ソース川の右岸はいくつかの小高い残丘があって、中でもヒズィル・ハーヤキルベはアバカン川の流れを曲げるほど川に迫っている。一方、ハン(君主)・オバーズィ(頭)山は、それらの背後にあって、620メートルとこの辺では最も高い丘だ。麓には松の植林地が広がっていて、緩やかな斜面をのぼっていくと、茶色の草原の中に碁盤の目のように並んで植えられている緑が見える。山の中腹にはハカシア風の太陽の模様が浅く彫られたコノヴァーズ(馬を繋ぎとめておく柱)があった。つまり、ここで乗って来た馬を繋いで、後は歩いて登らなくてはならないかもしれなかったが、私たちは車で登った。と言うのは茶色の草はらにタイヤ跡も続いていたし、車で十分登れる緩やかな坂が上に向かって続いていたからだ。 
 頂上には3メートルくらいの柱と、キルベ山山頂にあったような石を積み上げた1メートルくらいの塔があった。賽ノ河原の積み石によく似ている。一応、落ちないように1個載せた。
 柱の方は、標識のような記念碑で、ハカシア風模様、オクネフ時代風の画が浅く彫ってある。地元の信仰を集めている山の頂上だからだ。が、なぜか、柱の中ほどに3枚のイコン(それも写真)がシンプルな額縁(安っぽいとは言わないが、イコンは普通もっと重厚な額縁に入っている)に無造作にはめられてくぎで留めてある。なぜ、ここにロシア正教の象徴のようなイコンかと、思う。ハカシア人は、18世紀初めにロシア帝国領になった時、集団で洗礼を受けシャマニズムから改宗したことになってはいるが、熱心なロシア正教徒はハカシア人の間にあまり見かけない。
 イーゴリさんも知らないうちに、『シンプル額縁の』写真のイコンが打ちつけられたらしい。 

 16,17世紀、ハカシアはモンゴル系の勢力下にあった。17世紀、最後の遊牧帝国と言われるオイラートのジュンガル帝国がハカシアを支配下に置いたが、ロシア帝国もハカシアの支配をねらい、シベリアのトムスク柵やエニセイスク柵、クラスノヤルスク柵のコザック前哨隊を強化していった。
 ハカシア共和国中学生用歴史教科書によると、1703年ジュンガル帝国は、ロシア帝国に南シベリア支配権(徴税権)は奪われたが、自分たちへの納税者を失いたくないとして、家畜ともども1万人以上のハカシア人をジュンガリアに連れ去ったそうだ。イーゴリさんによれば、その時、ジュンガリアの指導者の天幕(の一つ)が、このハン・オバーズィ山にあり、ここに地元のハカシア人3000人を集めて、連れ去ったのだと言う。だから、1703年悲劇のハカシア人たちを悼んでささげられたイコンかもしれない(当時のハカシア人は、もちろんロシア正教徒ではなかった)。
ハン・オバーズィ山の頂上には柱が立つ
柱にはイコンとオクネフ時代風レリーフが。
その横には石の塔
アカーエフ氏一行の天幕が張られたと言う斜面
 ここからは見晴らしが良かったから、当時無線も携帯もなかった時代だから、集合場所になったのか。この丘陵群の向こうにあるマチケチック村も見渡せる。アバカン川の通行も見張ることができる。コイバリ草原やサガイ草原の一部も見渡せるから、指導者の天幕はこんなところに張られたのだろう。
 頂上には、木の柱と石積みの塔、チャロマが結びつけられた1本だけの白樺があった。これは記念樹として植えられたものらしいが、風が強すぎるのか枯れかかっていて、イーゴリさんが心配していた。
 18世紀半ばには、ジュンガル帝国は清との戦いにも破れ、そのため、ロシア帝国は清国と南シベリアで直接国境を接することになり、キャフタ条約などを締結して、西サヤン山脈の南が清国領、北がロシア帝国領と確認したのだ。それで、1707年アバカン柵と1718年サヤン柵をはじめ、西サヤン山脈麓に沿って東西に、タシュティック(翌日訪問)、アルバトィ(マラアルバトィ岩画を見に行った)、モナック(イーゴリさんが住む)、タバット(毎日通る)、ベヤ(ヴァーリャさん宅)などにほぼ東西一列にコザック前哨隊(国境警備隊)村ができたのだ。

 ハン・オバーズィ山から下るとき、なだらかな斜面の上から、またアルティン・キョリ湖の2個続いた水面が見えた。キルギス共和国前大統領のアカーエフ氏一行の天幕はここに張られたそうだ。
 6時過ぎ、またいつものようにイーゴリさんを大モナック村に送って、お茶をごちそうになる、この日は、イーゴリさんのモルドヴァ人のお母さんや、弟さん一家も来ていた。この日のガイド料は、なぜか、最も高かった(言われるままに支払う私だ)。
 次の日はイーゴリさんは用事があるそうだ、またその次の日はシューシェンスク博物館で集会があるそうだ(11月7日は、そう言えば革命記念日)。だから、翌々日の11月8日(月)にマトロス山に案内すると言う。そこに、たぶん1920年代初めの赤軍のガイダール軍の一隊が、マトロス山を越えてアルバトィ村の反革命ハカシア人を制圧した時の慰霊碑があると、イーゴリさんは言う。革命軍側の戦死者なのか、赤色テロの犠牲者なのか聞かなかった。ガイダール軍の一隊がマトロス山を越えアルバトィへ行きハカシア人を惨殺した話は小アルバトィ村でも聞いたが。
 結局マトロス山にはいかなかった。
 マトロス山の慰霊碑そのものはそれほどでなくても、イーゴリさんという案内者がいて、車で行ける所なら行けばよかったと、帰国してから思った。10万分の1の地図で見ると、大モナック川をさかのぼり、山川沿いにアルバトィ川の支流に出る道があって、途中で標高927メートルのマトロス山の麓を通っている。イプサムが通れるかどうかは不明。(実は2011年10月、イーゴリさんに再会した時、前年行けなかったマトロス山へ行ってみたいと頼んだ)

 ヴァーリャさんの家に帰ると、マリーナたちがサワーキャベツを作っていた。
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