クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date  2006年5月18日(追記 08年6月21日、10年1月4日、11年1月15日、15年6月6日)
キルギス共和国 ビシュケクとイスィク・クリ湖 (1)
     2014年5月22日から5月31日

Кыргыстан, Бишкек и Иссык-Куль (1)  с 22 по 31 мая

『クリ』は湖、だから『イスィク・クリ湖』は『イスィク湖湖』となるが、ロシア語の地図の慣例に従って『イスィコ・クリ湖』と表記
1)出発まで
ビシュケクの中央公園にあった銅像
口承文学『モナス』の語り部
  キルギス共和国へ
  キルギスについて
  ビシュケク市
2)カラ・ハン朝のブラーナ遺跡
  カザフスタン国境と遊牧民達
  イスィク・クリ湖
  イスィク・クリ畔のチョルポン・アタ市
3)カラコル市と『七匹の雄牛』峡谷
  カラコル市のドゥンガン・イスラム寺院
  アルティン・アラシャ峡谷『トレッキング』
  イスィク・クリ南岸
  『帰国』
 出発まで
 5月後半になると、大学では試験休みが始まるので、外国人講師の私は1週間くらいクラスノヤルスクを離れて旅行できます。当初、クラスノヤルスク南部のサヤン山脈を越えたところにあるトゥヴァ共和国(ロシア連邦内の一自治体)一周旅行と考えて、旅行会社に日程を組んでもらっていました。でも、この時期はまだ雪が残っていたり、場所によっては雪解けで道路の状態が悪かったりして、私が行ってみたいような『自然の奥深く』へは行けないと言われました。では代案として西シベリア、例えば、ハンティ・マンシースク市方面とか、オビ川下流のサレハルド市へは、旅行できるだろうかと問い合わせてもらっていたのですが、どこからも返事はないと言われました。観光地ではないからです。旅行会社に薦められたのはウラン・ウデ市とバイカル湖東岸でした。かなり面白そうなコースで、ほとんど決めかけていました。
 それと平行して、キルギスの旅行会社とも電子メールで連絡を取り合っていました。中央アジアへは、前から行きたいと思っていたのですが、行き方がわからなかったのです。キルギスはもう外国ですから、ビザ取得の煩雑さもあって、自分の旅行先はロシア国内と限定していました。ロシアからの出国と再入国用のビザ、さらに、キルギス共和国へのビザを取らなくてはならないのでは、必要書類をそろえて窓口へ持っていって順番に並ぶだけでも、何日もかかります。クラスノヤルスクのどの旅行社でも日本人のためのビザ取得代行サービスはやっていないので、全部自分でやらなければなりません。それで、旧ソ連の中央アジア諸国行きは保留にしてありました。
新紙幣に描かれたキルギスの偉人達

  その後、日本人はキルギスへはノービザだと、その旅行会社から電子メールで知らせてきました。
 ウラン・ウデより、キルギスの方がずっと面白そうです。私のよく知っているシベリアとも、ヨーロッパ・ロシアとも、もちろん日本とも違う風土に違いありません。歴史で学んだ『シルクロード』の一部ですし、中世イスラム文化の中心地サマルカンドやブハラに近いです。ウラン・ウデへ行くより難しそうですが、その分、未知の国なので、行ってみたくなりました。

 さらに、クラスノヤルスク地方庁の出入国管理局(に勤めるある知り合い)から『ロシア居住許可証』を持っている(私のような)外国人は自由にロシアの出入国ができる、と言う情報を得たので、とうとう、キルギスに決めました。全くビザなしで、ロシアから出て、キルギスに入り、またロシアに戻って来られるのです。

 すぐ飛行機のダイヤを調べました。
 クラスノヤルスクからキルギスの首都ビシュケク(ソ連崩壊前までは革命家の名前でフルンゼ市と言った)まで直行便は飛んでいなくて、カザフスタン共和国のアルマトイ経由(ここへはトランジット・ビザが必要かもしれない)から入るか、ノヴォシビルスクまたはモスクワからの直行便で入るというコースがありました。一番便利なのはクラスノヤルスクの隣の州のノヴォシビルスクまで800キロほどを寝台車で行って、そこからビシュケク行き飛行機に乗り換えることです。

 その飛行機のチケットの購入が簡単ではないのでした。
 クラスノヤルスクで最も大きく、どこの航空会社のチケットでも売っているのが『中央エアー』です。いつも、私はそこで買っています。ところが、今回買おうとしたところ、ビザがないと売れないと言われました。そんなはずはない、どちらの国境を越えるにもノービザでいけるはずだ、とがんばると、窓口の人は上司を呼んできました。二人は、クラスノヤルスク市の出入国管理局に電話して、
「やっぱりだめです。ロシアからの出入国は自由ですが、キルギスへの入国ができるかどうかわからないので、チケットを売ってもよい、とは言われませんでした」と、どうしても売ってはくれません。
「ノヴォシビルスクの出入国管理局に聞いて、ノヴォシビルスクの空港で買ってください」などと責任逃れなことを言います。
 ここがだめなら、別へ行ってみようと、『クラスノヤルスク・エアー』という航空会社へ行ってみました。そこでも、駄目でしたが、3軒目に行った小さめの代理店では、窓口の女性が私のパスポートとロシア居住許可証を持って上司のところへ行ってきて、今度は、
「売れます」ということです。その上司が管理局に問い合わせなくてよかったです。問い合わせていたら、同じ係官が出て同じことを言うところでした。
 ノヴォシビルスクからビシュケクへの往復チケットを半日もかけて何とか買うと、クラスノヤルスクからノヴォシビルスクへの寝台車のチケットも、飛行機の出発時間に合わせて買いました。

 さて、キルギスへは、本当にビザなしで入国できるでしょうか。電子メールでやり取りをしているキルギスの旅行会社の人はできるといっています。家に帰って、インターネットで調べると、日本外務省のホームページの査証相互免除諸国一覧表にはキルギスは載っていません。キルギスの日本大使館に直接電話して聞いてみると、
「できます」ということです。
「クラスノヤルスク市の管理局の係官はできないと言っているので、また、問題が起きるかもしれません。何か納得させられるものはないでしょうか」と言うと、その大使館員は
「自分が元赴任していたサハリンは、物分りのいい公務員が多かった、クラスノヤルスクは大変だね」と同情してくれて、ロシア語のWebサイトを教えてくれました。
 キルギス共和国へ
 ビシュケクの空港まで、交通機関を乗り継ぎながら自力で行き着かなくてはならない個人手配旅行は、出発地点から添乗員が付くのんびりしたパック旅行とは違って、緊張感があります。
 5月22日の午後10時、といってもまだ明るい頃、クラスノヤルスク駅を寝台列車エニセイ号で出発しました。ロシアで、一人ぼっちの寝台車の旅は初めてではありませんが、いつも、どきどきします。時刻表はモスクワ時間なので、出発時間を勘違いしていないだろうかと、何度も確かめます。列車が到着するプラットホームも、到着の直前にアナウンスされるので、聞き漏らさないようにしなくてはなりません。列車の到着がかなり遅れることもあります。(以前、列車が8時間も遅れて、駅でさびしく待っていたこともあった)
 列車が到着しても、車両の数が多いので、自分の乗る車両を捜さなくてはなりません。時々、その車両だけがあとで連結されに来ることがあります。でも、今回のは『豪華』寝台車エニセイ号なので遅れはありません。『豪華』だけあってシーツ代が49ルーブル(200円)と高いです(普通は35ルーブル)。それから、普通の急行より少し速度も速く、運賃も3500円と高いので、満席ではなく、そのためトイレにあまり長い順番はできません。ちなみに、帰りは普通の急行で、運賃は2700円でした。
 さて、エニセイ号は、きっかり時刻表通りにクラスノヤルスクを出発し、12時間半後の23日午前9時半(時差が1時間)にノヴォシビルスク駅に到着しました。
 ノヴォシビルスク駅から空港までは、バスで行きます。80円です。荷物を持っていると160円になるのですが、私のかばんは小さいので、荷物ではないことにしました。ノヴォシビルスクの国際空港に着くと、万一のため、私はロシアからビザなしで出国してさらに再入国できるのかどうか、空港の出入国管理課へいって確かめました。どうせ、4時間もあって暇だったのです。そこの係官から、キルギスのことは知らないが、ロシア側国境は問題ないと言われました。
キルギス共和国(カザフスタンの北西に出発点のノヴォシビリスク市がある)
 それでも、搭乗手続きの時や出国手続きの時、
「ちょっと待って下さい、上司に聞いてきます」と、また、言われるのではないかと、はらはらしていましたが、無事通過できました。
 キルギス航空機なので機内でのアナウンスは、初めにキルギス語、次はロシア語、そして英語の順で放送されました。乗客はアジア顔のキルギス人が半数くらいです。

 キルギス入国はとても簡単で、キルギス人より早く入国審査を通過したくらいでした。税関審査も簡単なものです。空港には、電子メールで連絡を取っていた会社からの車の運転手が、ちゃんとバラの花を持って出迎えてくれました。
 8日間の全行程が、車と運転手付き、個人観光付き、食事付き、宿泊費付きで500ドルとは安いものです。
 キルギスについて
   中央アジアには、天山山脈西とパミール高原の西に旧ソ連邦だった5つの共和国(西トルキスタン)と、東に中国の新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)があります。パミール高原の大部分はタジキスタン共和国にあり、7495メートルの最高峰はソ連時代にはコミュニズム(共産主義)峰と言われましたが、その後、イスモイル・ソモニというイラン系民族回教徒タジクらしい名前に改名されました。その北東に続く天山山脈はキルギス共和国と中国の新疆ウイグル自治区にまたがっていて、最高峰7439メートルのパベーダ(勝利)峰は、中国との国境にあります。日本の半分くらいの面積のキルギスの40%が天山山脈かその支脈の3千メートル以上の高度にあります。人口は450万人ほどです。海抜3776メートルの富士山のある日本より、4506メートルのベルーハ山のあるアルタイ(今年1月に訪れた、しかし、ベルーハ山までではない)山脈はもっと高いですが、それよりさらにキルギスは高いことになります。

 キルギスに着いて第一日目、ビシュケクの町を車で走ると、町のどこからでも3千メートル級の天山の支脈が見えました。頂上が雪に覆われていて何と雄大ではありませんか。山々の一つ一つに細かく名前がついているのかどうか知りません。大きな支脈ごとまとめて呼ばれているのかもしれません。しかし、一つ一つがこんなに神々しい山々を昔のキルギス人は崇拝しなかったのでしょうか。日本のように頂上に社でも建てなかったのかと、ガイド兼運転手のヴァロージャに何度も聞きました。
ビシュケク市中心のモニュメント。
背後に天山の支脈
  しかし、今のキルギスの地に、どんな遊牧王国や、定住民の国があったかは、わかっていますが、キルギス人のことはよくわかっていません。一応、キルギス人は、チュルク系や、サモイェード族(今はクラスノヤルスク北部に住む北方少数民族)などとの混血で、エニセイの中上流から、今のキルギス共和国の地に来たのは、16世紀以後だという説があります。エニセイに残ったのが、今のハカシア人の祖先だそうです。
 中央アジアの民族は絶えず移動を余儀なくされ、他民族を征服したりされたり、他民族を吸収してやや別の民族になったり、吸収されて消えてしまったりで、過去をさかのぼるのが難しそうです。『マナス』という英雄口承文学があり、いかにマナスがキルギス民族を栄光に導いたか、多くの語り部によって語り継がれました。語られている時代は7、8世紀のような古い時代なのか、この地に移る頃のことか、18世紀のような新しい時代のことか、定説がないそうです。また、自然を物語化したような、バイカル地方やアルタイ地方にあるような伝説は聞きませんでした。
 ビシュケクの本屋で購入した大学生用『キルギス人とキルギスタンの歴史』という教科書によると、キルギスの名が中国の文献に現れたのは紀元前2世紀だと書いてあり、これは、隣国の古いイスラム文化の国ウズベックや、他のチュルク系民族の国、カザフ、タタールなどよりずっと古いのだと強調してあります。その教科書によると、この天山の地域にいた古い民族の、(白いとんがり帽子をかぶっている)スキタイ人や烏孫人(ウスーニ人)も現在のキルギス人の祖先だとしています。キルギスの歴史
 キルギスの滞在はたった1週間ですから、今の季節に車で見て回れたのは、首都ビシュケクとその周辺(40キロ南のアラ・アルチャ峡谷も含めて)、ビシュケクから東方面のイスィク・クリ湖への道(ブラナ遺跡)と、イスィク・クリ湖の周辺(北岸のチョルポン・アタとグリゴリエフ峡谷から、東岸のカラコル市、『七匹の牛』峡谷、アルシャン峡谷、そして南岸)だけでした。シルクロードの主要道が通っていたフェルガナ盆地のオシ市や、中部のナルィン川にあるナルィン市は見られません。ナルィン川は、天山山脈から流れてきて、フェルガナ盆地のあたりで、カラダリア川と合流してシルダリア川(ナルィン川を含めて2790メートル)となりキジルクム砂漠のそばを通ってアラル海に注ぎます
 イスィク・クリ湖の他にソング・クリ湖という海抜3千メートル(イスィク・クリ湖は1600メートル)にある湖も、当初の計画に入っていたのですが、そこへ車で行けるような道は雪でまだ不通だったので中止になりました。馬で行くという方法もありますが、2週間以上かかるそうです。ちなみに遊牧国キルギスでは、都会の外に出ると、馬が普通の交通機関です。車で牧夫が羊の群れを集める、なんてありえません。

 キルギスは、北東部のチュー盆地、南西部のフェルガナ盆地の他は、天山山脈の支脈が東西南北に走り、その合間を長短の急流が峡谷を作って流れます。大きな町は両盆地にあり、この国の大部分を占める山岳地帯には、その峡谷に沿って集落、または遊牧の基地があります。山岳地帯の集落へは険しい山の峠を越え、急流を渡っていかなければなりません。今のところ、車の通れるような道を作るより、馬を使うほうが経済的でしょう、自然破壊にもなりませんし。シルクロードやその枝道は、盆地伝いのいい道を通っています。
 ビシュケク市
オシ市場(東のバザール)
マナス民族総合記念館
 ビシュケク市はチュー川盆地にあり、暖かい気候なので、木々や花々や果物野菜などは、シベリアのクラスノヤルスクより1ヶ月以上は早くできます。また、中央アジア産のネズの木や、クラスノヤルスクでは見かけたこともないような背の高いポプラや、シベリアにはない樫の木、桑の木などがあって町中が緑です。市場へ行くと赤や黒のさくらんぼ、杏、カザフりんごなどが売り台に山盛りになっています。やはり中央アジアです。シベリアからきた私は喜んでしまって、フルーツを食べ過ぎておなかの調子を悪くしてしまいました。

 ビシュケクは新しい町なので歴史的な建物はありません。『歴史的』と言えばレーニン像ぐらいが古い方に入るでしょう。しかし、新独立国キルギスは自分たちの国民性と、他の中央アジア諸国とは異なるとう言う独自性、自分たちの歴史の古さなどを強調しなくてはならないので、市中心のアラ・トウ広場や樫の木公園には、キルギスの英雄(現代政治家も含めて)たちの像が並んでいます。

 市内見物で感心したのは、『マナス民族総合記念館』です。1995年、特別に『英雄叙事物語マナス千年祭』のために建てられました。キルギス民族を強調した博物館です。千年と言っても『マナス』は口承文学ですから、年代ははっきりしていないはずです。でも、何かの基準で千年前と決めたそうです。
「9、10世紀にキルギス民族は中央アジアのウイグル国家を破ってモンゴルから南シベリア、イスィク・クリ湖にかけてキルギス大帝国を建てたが、そのときのことが『マナス』に芸術的に物語られているのである」と現(2004年当時)キルギス大統領アスカル・アカーエフ氏が『私の心の中を去来した歴史』と言う本に書いています。1995年には国をあげての大祭日があったそうです。しかし、私が訪れた時『マナス総合記念館』は寂れていました。訪問者はいなくてガイドもいません。代わりにキルギス女性の番人が案内をしてくれました。 
記念館内では、
こんな写真も撮らせてくれる
「マナスっていったい誰なの」とキルギスに着いたばかりで何も知らない私が質問します。クラスノヤルスクの本屋にはマナスの本は見かけませんし、日本にいた時も、特に気がつきませんでした。(ずっと後になって、帰国後、見かけました)
「マナスというのはキルギス人の解放者よ」
「キルギス人を、いったい誰から開放したの?」しかし、その職員は知らないそうです。
「中国人からかもしれない。わからない。文字がなかったので、はっきりと歴史に残っていないから」とその職員の答えです。
「キルギス側の歴史に残っていなくても、相手側か、第3者の歴史に残っているかもしれないでしょう」
  しかし、それ以上歴史問題で苦しまず、ユルタの中に入り、当時の勇士の衣装を身につけて写真を撮ったり、観光客らしく振舞いました。
アル・アラチャ峡谷、運転手のヴァロージャも

 ビシュケクで見た主なものは、他には、国立歴史博物館です。また、市の郊外40キロのところにあるアル・アラチャ峡谷では、もっと近くで天山山脈が見られました。今回、峡谷は4ヶ所訪れましたが、初めに訪れたアラ・アルチャ峡谷は首都にも近いせいか、最も開けていました。アル・アラチャ川に沿って道がついていて、途中に新しい橋がかかっていました。橋の向こうには、瀟洒なバンガローが建ち並んだ一角もあり、キルギスらしくはなかったです。つまり、後から考えると面白くなかったです。今回訪れた4つの峡谷が、訪れた順に辺鄙になり、天山山脈のキルギスらしくなっていったように思いました。
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