クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date 2004年6月16日   (追記: 2006年5月18日、2008年6月22日、2015年6月7日、2018年12月28日、2019年11月18日、2020年8月30日、2022年3月25日)
14-(3) キルギス共和国 ビシュケクとイスィク・クリ(その3)
     2004年5月22日から5月31日

Кыргыстан. Бишкек и Иссык-Куль(3) с 22 по 31 мая 2004 года


1)出発まで
  キルギス共和国へ
  キルギスについて
  ビシュケク市
)カラ・ハーン朝のブラーナ遺跡
  カザフスタン国境と遊牧民達
  イスィク・クリ湖
  イスィク・クリ畔のチョルポン・アタ市
3)カラコル市と『七匹の雄牛』峡谷
  カラコル市のドゥンガン・イスラム寺院
  アルティン・アラシャ峡谷『トレッキング』
  イスィク・クリ南岸
  『帰国』
『クリ』は湖、だから『イスィク・クリ湖』は『イスィク湖湖』となるが、ロシア語の地図の慣例に従って
『イスィク・クリ湖』と表記
イスィク・クリ南岸のイスラム教の墓地

 カラコル市と『七匹の雄牛』峡谷
 イスィク・クリ湖の東の端にあるカラコル市に着いたのは夕方でした。ここは、天山山脈への登山者の基地です。ここで、装備を整え、登山に向けて出発するので、外国人(つまりヨーロッパ人)のアルピニストやトレッカーが泊まるホテルもあり、そこで登山用のジープを調達したり、ガイドを頼んだりすることができます。私が泊まったのはそんなホテルのひとつ『トルクメン・ホテル』で、前庭に軍用ジープのような悪路専用車が3台と、ロッククライミング練習用タワーがありました。さらに、去年、日本の政府関係者が宿泊したそうで、その時のために建てたという茶室が中庭にありました(たぶん当時の日本側が作った、あるいはキルギス在留の日本人か、友好協会が作ったのか)。床の間もあり、横の空き地には竜安寺風ミニ石庭もあって、なかなかそれらしく見えました。でも、床の間の生け花(ドライフラワー)がひっくり返り、茶釜も残骸に近く、障子らしいものも破れていました。注文すればコックが茶を立ててくれるそうです。でも、『トルクメン・ホテル』敷地内には、その日は私とヴァロージャ、それに、門を開けてくれたガードマンの他は誰もいませんでした。

 次の日は、午前中が『ジェチー・オグス(Джеты-Огуз 七匹の雄牛)』峡谷へ、午後からプルジェワルスキー博物館 Пржевальский へという予定です。
 背後の『七匹の雄牛』岩、道案内の村の若者と
 『七匹の雄牛』峡谷へは、途中に『七匹の雄牛』村があり、2000メートルくらいの高度まで何とか車で登れる道があります。でも、迷子にならないように『七匹の雄牛』村でキルギス人の若者を同乗させて、道案内してもらいました。『七匹の雄牛』村には、高さが100メートル以上もの切り立った七個の巨大岩があるので、そう呼ばれています。その岩が赤色で縞模様があるので勇ましい雄牛に似ていないこともありません。
 峡谷は遊牧の基地にもなっていて、キルギス人の移動式小屋もあります。そこでトイレを借りようとしたところ、ドアはなくて小さな男の子が数人いました。この辺は、もう、小さな子にはロシア語が通じないのか、「早くここから出て頂戴」とか「私が終わるまで、戻ってこないでね」といっても、わからないような顔をしていました。
 途中の道で出会った地元の生徒達
 峡谷を2000メートルも登ると、寒くなります。その分、白い天山山脈が近くなります。道の終わったところが、その名も『花の原』という勿忘草や、タンポポや、キンバイソウや、白や黄色や紫の名前も知らない花々が一面に咲いている斜面の原っぱです。高山植物でしょう。野生のチューリップもあって、球根を日本まで持って帰ろうと、根を掘っていったのですが、深くて届きませんでした。日本の高山にも、広くてきれいなお花畑があるでしょう。こんなお花畑に魅せられて山が好きになる人だっているでしょう。
 少し離れたところに、山小屋が建っていました。最近できたものだそうで、管理人が出てきて、素泊まりは1泊200円だと言っていました。宿泊客は今のところ誰もいません。もっと離れたところの川向こうのお花畑には、地元の生徒たちがトラックの荷台に乗ってピクニックにきていました。(追記 ジェチー・オグズ高原の高度は5181mだそうだ。そこまでは登っていない)
 プルジェヴァルスキーの墓碑

 その日の午後は予定通り、『花の原』から下りて、カラコル市の郷土博物館とプルジェヴァルスキー博物館を見ました。プルジェヴァルスキーというのは、19世紀のロシアの学者、探検家で、道中のカラコル市で死亡しました。プルジェヴァルスキー記念公園の中に彼の墓と8メートルの立派な記念碑と博物館があります。カラコル市は、彼の死後、最近までプルジェヴァルスク市と呼ばれていました。つまり、彼はロシアにとって重要な探検家だったらしいです。でも、キルギス人にとっては、彼が探検する前からキルギスはあったのですから、プルジェヴァルスク市という名前は廃止して元のカラコル市という名前に戻しました。
追記:カラコル市は、1868年ロシアの軍事都市として、チュイ谷からカシュガールへの途中のカラ・コル(黒い川の意)畔に建設された(かつての、アク・スー砦跡)。1889年、帝命により前年に当地で死亡したプルジェヴァルスキーを記念して、プルジェヴァルスクと改名。1922年カラコルと復活、1939年再びプルジェヴァルスクとなる。さらに、1992年、再再度、現行のカラコル市になる。19世紀末は、当市はキルギスでは最も整った都市とされていた。当時聖トロイツァ大寺院(ロシア正教)が建てられた。下記ドゥンガン・イスラム寺院は北京からの建築師の設計で1910年完成した。
 カラコル市のドゥンガン・イスラム寺院
  イスィック・クリ州の州都カラコル市には、ドゥンガン・イスラム寺院があります。ドゥンガンは、キルギスと国境を隔てた中国北西部に住むイスラム教の回族のロシア語読み(というより、1860-80年代、清朝中国に対して、西部の現陝西省地区から興った回民の反乱が鎮圧された後、ロシア帝国領であった中央アジアに逃げ込んだ人々の子孫を主体とする民族)で、19世紀末、回族の一部がカラコルにやってきました。ドゥンガン人の建てたイスラム寺院は屋根の形も全く中国風です。イスラム教では具体物を寺院の中に描くのは禁止されているのですが、ドゥンガン人は、中国風にトラやユキヒョウや竜を描いたと、前述の『ドイツ学術団との共同調査報告書』に書いてあります。残念ながら、女性は内部に入れません。ドアの外側から身を乗り出して覗き込んでいると、イスラム教の若者がやってきて
 中国風ノドゥンガン・イスラム寺院
 
 ヤク・ホテルに泊まっていた客
「どこから来たのか」と聞きます。「日本人なら漢字がわからないだろうか、自分が、そのデジカメで、内部の文字を撮ってくるから、読んでほしい」と言います。中国回族の書いた漢字が私に読めるかどうかわかりませんでしたが、撮って来てもらう事にしました。見てみると撮り方が悪かったのか、写りが悪くてさっぱりわかりませんでした。

 カラコル市2泊目はヤク・ホテルになりました。民家を改良して家族でやっているようなホテルで、着くとすぐ、オーナーのロシア人が
「ここには日本人がよく泊まる。シミズさんと言う人は自分たち以上にキルギス語が上手だ、毎年来てくれる、タカシさんという人は…」と話し始め、そのうちオーナーのお母さんが出てきて
「私、日本料理ができるの、お寿司なんかどう?」と言い出します。何と言う親日家ホテルでしょう。寿司用の海苔はシミズさんが持ってきてくれたそうです。わさびも持ってきてくれて、まだ少し残っているそうです。握り寿司では魚はどんなのが出るかわからないので、安全な巻き寿司にしてもらいました。
 かなり待って、出てきたお皿には、細長い海苔巻が5本切らずにのっていました。自分でナイフで輪切りにしようとしても、海苔が湿っていて切れません。手でちぎろうとしてもだめです。何とか食べてみると酢飯ではなく普通のご飯でした。
「お味はいかが」と先ほどに女性に聞かれるので、寿司は酢飯にするし、中に、(干瓢はないにしても)卵焼きとかきゆうりとかはさんで巻きますが、と言ったところ、
「ご飯に酢を入れて出したら、タカシさんが食べなかったのよ」ということです。「タカシさん」もご苦労様でした。

 結局、私はその日ヤク・ホテルに泊まらず、昨日のトルクメン・ホテルに戻りました。ヤク・ホテルは部屋は立派でしたが、各部屋にはバス・トイレが付いていなかったからです。ヤク・ホテルに宿泊中のヨーロッパ人の旅行者はとても友好的でしたが(写真)。もともとホテルとして建てたのではなく家族が住んでいたような重厚な家でした。

 アルティン・アラシャン峡谷
ジープの運転手とその友達という人
 
 燃料ポンペを背負ったイーラ、
途中の露天風呂に入るためついてきたジープの
運転手、ヴァロージャ、イーゴリ
天山トウヒの細くとがった天山トウヒの林
 小屋の近くの急斜面を降りていくと、
こんな無料の露天風呂がある。
ガイドの青年イーゴリの背後に
石で囲ってあるこの温泉を、
地元の人は『すずめの巣』風呂という
  翌日、ヤク・ホテル専属のジープに乗り、ヤク・ホテル専属のガイドがついて、アルティン・アラシャン峡谷 ущелье Алтын Арашан ёёに出発しました。古くて見てくれも悪いジープでしたが、悪路用に改良してあるのか、石の突き出た砂利道だろうが、かなり深い水溜りだろうが、川が流れ込んでいる道だろうが、どんな道でもぐいぐいと進んでいきます。ジープには、運転手、運転手の友達の機械整備士(とか言う人)、23歳のガイド兼コックのロシア人女性イーラ、同じくロシア人の19歳のガイドの青年イーゴリ、それに私とビシュケクから一緒のヴァロージャです。ジープの運転手はロシア人でしたが、機械整備士の方は、身なりはキルギス風、顔つきはスラブ系で、聞いたところ、いろいろと混血しているそうです。

 2、3時間ほど揺られていったところで、ジープは止まりました。目的地まで後7キロあるのですが、3月に起きた雪崩で道がふさがって、車は通行できないからです。雪崩の現場の直前までは、ジープで行けます。そこから、イーラ、イーゴリ、ヴァロージャ、私の4人は近道の山道を通って、目的地へ向かいます。いつも、車かバスで回るような楽な旅ばかりしてきた私には7キロの山道はかなりの運動です。でも、キルギスまで来たのですから、天山のたとえ支脈の支脈にでも登って、アルピニストの気分を味わおうと思いました。
 途中の山の斜面には天山モミの細く高く尖った木々が、鉛筆を並べて立てたように生えていて、道のずっと下にはアラシャン川が白くあわ立って流れていきます。20キロ以上もある料理用燃料ボンベを背負ったイーラはもう千回も来たことがあると言って、軽々と先頭に立って歩いていきます。同じくボンベを背負ったイーゴリも、自分は5020メートルの山(アラシャン川の源流の彼方にあるテント峰 Пик Палатка のことかな)をほとんど特別な装置なしで登ったことがあると話しながら、私たちの後ろから登っていきます。時々馬に乗ったキルギス人が追い抜いていきます。
 キルギス人は農業にあまり従事しないので、イスィク・クリ湖南岸にある耕地を中国人に賃貸すると言う話があるそうです。中国人は耕作が上手なので、キルギスは農産物が豊富になります。天山山脈の峠を越えれば、中国の新疆ウイグル自治区です。新疆ウイグル自治区は数年前まではウイグル人が多かったのですが、今は中国人が爆発的に増えたそうです。それで、新疆ウイグル地区の中国人は、さらにキルギスにも広がってきたそうです。
 イスィック・クリ州の一部を中国人に賃貸しするという案に、イーラは反対ではないそうです。中国人が増えることになるけれども、それは、キルギスにロシア人以外の外国人が増えることで、イーラにとっては、その方がいいそうです。もし、揉め事があった時、裁判官も判事もキルギス人ですから、ロシア人に不利です。でも、中国人が増えるとキルギス人対ロシア人の関係も変わるからだそうです。
 アルティン・アラシャン峡谷にラドン湯が湧き出ているところがあり、そこに小屋を建てて入浴できるようになっています。そこは斜面の野原で、少し離れたところにヤク・ホテル専用宿泊小屋があります。
 着くとすぐにイーラが『豪華』な食事の準備を始めました。そのために担いできた燃料用ボンベがあります。
ベぇーべぇーと通り過ぎる羊
 遠くに見えるのが約5000mの『テント峰』か
 アルティン・アラシャン峡谷斜面野原の高度は2600メートルなので、寒々としています。天山モミももっと細くなり、小屋のある高地は一面牧草と高山植物の花畑です。キルギスでは普通の旅行者の回るような所はどこも、旅行者が来るようになるずっと前から遊牧地でした。アラシャンは川のほかに温泉まであるので、特級の遊牧地です。
 遠くや近くに、羊や山羊の大群が斜面を回っています。近くまで行ってみると「べぇーべぇー」とうるさいのでした。近づいて触ろうとすると逃げていきますから、先回りして、羊たちの進行方向にあたる場所にカメラを持って立っていました。牧羊犬に守られて羊の大群が私のほうへ襲ってきます。たいていは、私を無視して、私の横の草を食べながら先へ進んでいくのですが、中には、立ち止まってしげしげと私を見る羊もいて、よい被写体になってくれるのでした。羊の群のいるところより、高い斜面には山羊がいます。

 この遊牧用高原は少し緩やかな斜面になっていますが、周りは高い山々に囲まれた峡谷です。アラシャン川が流れてくる川上のほうにテント型の白くそびえる山が見えます。これが5020メートルの『テント峰』で、イーゴリがガイドとして踏破したことのある高峰だそうです。この山小屋は、『テント峰』やこの先の天山山脈へ登る基地です。アラシャン川は何千メートル級という山々から流れてきますし、その山の向こうにも、またもっと高い山々があります。ずいぶん高いところのすぐ近くまで来たものです。

 実は、山から下りて、地図を見たのですが、私たちのいた地点から、アルシャン川の上流方向に直線距離で20キロほどのところに4956メートルの高峰が載っています。多分これが私たちの見た『テント峰』で、地図のほうが間違っているのかもしれません。
 ラドン湯に、入浴しました。入浴小屋の管理人はロシア人です。外国人の入浴料は50ソム(150円と高い)で、キルギス人は10ソムだそうです。アルシャン高原には、遠くのユルタ(移動式組み立て小屋)に住むキルギス人の牧夫の他は、私たちと、その管理人だけでした。
 イーラの作ったおいしい食事を食べたり、羊と遊んだり、高山植物に見とれたりしているうちに雨が降ってきました。小屋に入ってペチカにあたりお茶を飲みながら、山の話をして、そのうち暗くなったので、ろうそくを持って寝にいきました。私だけが客なので、2階のベッドのある部屋に寝袋を敷いてもらって寝ます。

 イスィク・クリ南岸
 次の日はよい天気で、昨日来た道を通って、雪崩のあった場所までいくと、もう、ジープが私たちを待っていました。カラコル市へ戻る途中のアク・スー 村(*)で、馬に蹄鉄を打っていました。馬が驚かないように縛って、一本一本の足を持ち上げて、古くなった蹄鉄をはずし、余分の蹄、つまり爪を削り、新しい蹄鉄を打ち付けています。キルギス人の職人が、
 蹄鉄を打つのは、馬にとって・・・
「…これはね、馬にとって必要なことなんだよ、馬はちっとも痛くないのだよ。おねえちゃん(私のこと)、あんたが、爪にマニキュアを塗っておしゃれするようなもんだよ」と言いながら、太い釘を足に打ち付けているのでした。周りには、順番待ちの馬がつないであり、馬の持ち主たちが、仕事の様子を見ています。
(*)アク・スー Ак-Суу 村この村はロシア時代はテプロクリュチェンカ Теплоключенка 『暖かい泉』の意味、つまり『温泉』と呼ばれていた。

 この日、ヴォロージャと私はイスィク・クリ湖の南岸を回り、夜までに、出発点のビシュケクに帰らなくてはなりません。南岸は北岸より集落が少なく、山は険しく、土壌は乾燥していますし、植物の成長できない粘土質の丘陵が続いています。村の近くには必ず村人の墓地があります。田舎ではロシア正教の墓地を見かけるのはまれで、たいていはイスラムです。小型モスクの霊廟が幾つも立ち並んでいます。一基に一人葬られているそうです。遠くに白い天山、近くには木も生えていないごつごつとした山々、崩れかかった霊廟もあるイスラムの墓地、さらに青いイスィク・クリ湖、これが、半日で通り過ぎた南岸の印象です。
 イスィク・クリ南岸の山脈
 バルスコン Барскоон 川という川が、南岸の『顔を太陽に向けている』山脈から湖に流れてきます。バルスコン峡谷にカナダとの合弁で鉱物を発掘精製する工場があるそうです。しかし数年前、事故でシアン化物がバルスコン川に流れ出し、湖の魚が死んだり、住民にも死亡者が出たそうです。ヴォロージャや、イーラたちが話していましたが、全貌は報道されませんでした。バルスコン川はせき止められ、シアン化物は中和され、間にあわずに流れ出た物質は、今では、湖が自然の力で浄化してしまったそうです。
   後記:バルスコン川に沿ってクムトール峠(Кумтор 4000メートル)に向けて自動車道が通じている。これはクルトール金鉱山で採掘するためだ。クムトールは世界屈指の露天掘り金山で、1978年に発見された。旧ソビエト連邦管理下の1980年代から試掘が行われ、1997年から本格的に生産がはじまった。キルギス経済を支える重要な鉱山である。2004年からキルギス政府とカナダのCameco社が合弁で設立したCenterra Gold社が金鉱を所有している。クムトール金鉱は、ペルーのヤナコチャ金鉱山に次いで高所にあるそうだ。
1998年5月20日事故のためシアン化ナトリウムなどが流れ出て、バルスコン村人達は避難したという事件が起きている。
 そのバルスコン川を渡るとイスィク・クリ湖南岸も半分近く通り過ぎたことになります。そうして、イスィク・クリ湖に別れ、4日前に通ったチュー川盆地を今度は西進して、暗くなる前にビシュケクに着き、ホテルで1泊した次の日の朝、空港へ向かいました。
 空港近くにはアメリカ軍の基地があります。ヴォロージャによると、以前、空港まで送迎したことのあるスウェーデン人旅行者が、基地のゲートの通行止めバーをくぐり抜けて写真を撮ろうとして、カメラを没収されたそうです。ヴァロージャは職業柄、私も含めていろいろな旅行者と付き合うわけです。私の次は、スイス人の考古学者夫婦の運転手をするそうです。
 『帰国』
 ビシュケクの空港からロシアのノボシビルスク空港へ『帰国』し、空港からキルギス航空会社の無料バスサービスで鉄道の駅へ向かい、そこで、数時間の待ち時間を、ロシアにしてはとても清潔な駅の待合室で居眠りして過ごし、時刻どおり発車のクラスノヤルスク行きの寝台車に乗り、無事『自宅』に帰ってきました。
 『帰国』して、友達に「キルギスは…キルギスの山は…キルギスの歴史は…」と熱心に話すのもですから、
「クラスノヤルスクには、『ロシア・キルギス友好協会』もあるから顔を出してみたら」、と言われたくらいです。そこに入会して、キルギスのことをもっと知りたいものです。
 ちなみに、エニセイ川中上流に残ったキルギス人と言われるハカシア人のハカシア共和国は、クラスノヤルスクの南部にロシア連邦の一自治体としてありますが、ハカシア人の人口の割合は12%ですし、首長(つまり知事と同じか)はロシア人です。ハカシア人はキルギス人とお互いの言葉で話が通じるそうです。
 キルギスでたくさん本や地図を買ってきましたが、キルギス語の初等文法書と辞書を買ってこなかったのが残念です。これがあれば、せめて地名を訳せて、地図を見ていても面白いのですが。
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