クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date  2006年5月18日 (追記08年6月21日、11年1月15日、15年6月7日)
キルギス共和国 ビシュケクとイスィク・クリ (2)
     2004年5月22日から5月31日

Кыргыстан, Бишкек и Иссык-Куль (2) с 22 по 31 мая

『クリ』は湖、だから『イスィク・クリ湖』は『イスィク湖湖』となるが、ロシア語の地図の慣例に従って『イスィク・クリ湖』と表記
1)出発まで
  キルギス共和国へ
  キルギスについて
  ビシュケク市
2)カラ・ハーン朝のブラーナ遺跡
  カザフスタン国境と遊牧民達
  イスィク・クリ
  イスィク・クリ畔のチョルポン・アタ市
3)カラコル市と『七匹の雄牛』峡谷
  カラコル市のドゥンガン・イスラム寺院
  アルティン・アラシャ峡谷『トレッキング』
  イスィク・クリ南岸
  『帰国』
ブラーナ遺跡(絵葉書から)


 カラ・ハーン朝のブラーナ遺跡
ブラナ塔、その横の博物館(白い屋根)と石像
運転手ヴァロージャと車
 ビシュケクで2泊して、その次の日、ロシア人ヴァロージャの運転するドイツ製のかなりいい車の助手席に座り、チュー盆地を東へ、イスィク・クリ湖の方へ出発しました。
 70キロほど行ったトクモク市の近くにブラーナ遺跡があります。これは10世紀から12世紀(940-1212年)にかけて、天山からイリ川、アムダリアの東側までを支配したカラ・ハーン朝の首都ベラサグンの廃墟だそうです。カラ・ハーン朝はチュルク系イスラム王朝です。それで、ブラーナ遺跡には回教寺院の塔や、霊廟、古墳の跡など残っています。古墳は完全に調査されていないそうです。
 元は44メートルあったブラーナ塔は、ベラグサンが寂れた後、地震で上が崩れてしまいしたが、今24メートルくらいが残っています。観光客は上まで登れます。昔の回教徒もきっと手探りで登っていったかと思うような暗くて狭い螺旋階段を登ります。落ちたくなかったので、私も壁につかまりながら、壁を擦りながら(つまり手探りで)登っていきましたから、私の手のひらは粘土やレンガの粉で茶色くなりました。貴重な遺跡なのに、観光客が上る度に壁がやせていくでしょう。上に登り詰めると、塔の上から、チュー盆地の草原が四方に広がっているのが見渡せました。草原の終わったところには緑の山々、その向こうは白く雪をかぶった天山です。
石像の一つと、
博物館のキルギス人ガイド
 ブラーナ塔の横に小さな博物館があり、そこで買ったパンフレットによると、13世紀のモンゴル侵攻の時、他の中央アジアの町と違い、モンゴルとよい友好関係にあり、破壊されたかったばかりか、モンゴル語で『優良』町と名称を変更したくらいだそうです。また、パンフレットには、アラビア語でかかれた墓石の写真も載っていました。それまで、この地方はソグド人の文字からできた古代チュルク文字を使っていたのですが、カラ・ハーン朝の頃からイスラム文化が浸透し、文字もアラブ文字になったそうです。(前述の『教科書』)
 博物館の横の草の上に石彫像がたくさん立っています。これは、もともとここにあったものではなく、チュー川盆地の各地から集められたものだそうです。6世紀から10世紀頃のテュルク系人の墓石で、すべて男性の顔(ひげがあり剣を持つ)をしていました。中央アジアにイスラムが普及するとこのような墓石は立てなくなったそうです。
 石彫像や石柱は、クラスノヤルスク南部のハカシアにもたくさんあり、車で走ると、石柱群を見かけることがあります。でも、ここでのように、百基近くも一度に見られるところは珍しいでしょう(各地から集められたそうです)。紀元前6-4世紀の岩画も展示品です。

 カザフ国境付近の遊牧民たち
 ブラーナ遺跡を出発してさらに東へ行きます。チュー川を上流に向かって行くことになります。チュー川はカザフスタン共和国との国境にもなっています。つまり、川の向こう側に見えるのはカザフスタン共和国の村です。国境は人工的なものですから、昔から遊牧してきたキルギス人は、今でも国境を超えて遊牧ができます。でも、許可書が必要だそうです。川には数箇所橋がかかっていて、そこには、入国審査と税関が置かれています。特にそこを通らなくても、簡単に河を渡って国境越えができそうにも思いましたが。
カザフスタンとの国境
チュー川の向こう岸はカザフスタン
 キルギス人は、カザフスタンで安いガソリンを買って密輸入するそうです。
 チュー川は、天山支脈からイスィク・クリ湖へ向けて流れてきて、イスィク・クリ湖まで数キロと言うところで西に方向を変え、カザフスタンとの国境あたりでは、チュー盆地を流れ、その先はカザフスタン国内を流れ、さらにその先のカザフスタンの半砂漠で干されて消えてしまいます。チュー川からは、たくさんの用水が引かれ、おかげでチュー盆地で農耕ができます。牧草も豊かです。でも、7月8月になると、気温がもっと上がり、雨量も少ないので、牧草が枯れてしまい、牧畜はチュー盆地ではできなくなるそうです。それで、暑くなるにつれて、山に登ります。高度が上がると、気温が下がり雨量も多くなるので牧草も生えているわけです。このように、山国キルギスの遊牧は牧草を求めて(南北移動ではなく、上下の)垂直移動するわけです。

 キルギスは本当に遊牧民の国です。一方、ウイグル人やウズベック人は農耕民だそうで、タジク人も山岳農耕民、トルクメン人は砂漠の半牧半農民族だそうです。
「中央アジアの5つの新独立国の中では、キルギスが一番貧しいだろう、しかし、自分はキルギスが好きだ」と、ソ連時代にイルクーツク州からビシュケクの工場に配置され、91年のキルギスの独立でも、ロシアに戻らなかった運転手ヴァロージャが言っていました。キルギスの独立後、ロシア人の割合は以前の半数の18%になりました。ロシア人の去った後には、キルギス人が住むことになったでしょう。19世紀、キルギスがロシア帝国へ合体されて以来、ロシアの移民が建てた町は、『アレクサンドロフ』村とか『イワノフ』村とかロシア語です。ロシア人が去って、キルギス人が住むようになると、キルギス語に村の名前を変えました。  
イスィク・クリの見える丘で日干し煉瓦を作る若者。
たくさんのレンガが干してある
 車中、助手席に座っていた私は、ビシュケクで買った地方ごとの詳しい地図を見て、
「この先、5キロで次の村…(キルギス語)に着きますよ」などと言って、ナビゲーダー役をしていたのですが、
「その村は、昔…(ロシア語)と呼ばれていた。ロシア人の村だったのに」と運転手のヴァロージャがつぶやきます。「もちろん、ロシア人とキルギス人は一緒に住んでいることも多かったがね、」と付け加えていました。
 確かに家の建て方を見ると、ロシア風とキルギス風は違います。キルギス風の建物は日干し煉瓦で造られています。日干し煉瓦といえば、チグリスとユーフラテスの古代文明の人たちも、日干し煉瓦で作った家に住んでいたのではないでしょうか。この乾燥した国々では材料の粘土や藁はたくさんありそうですし、日干し煉瓦の家は夏は暑さを和らげてくれ、冬は暖かいと言います。
 道の近くで若者が日干し煉瓦を作っていました。そばに山水がちょろちょろと流れていて、その水を引いてきて、この近くにいくらでもある粘土と雑草の葦(アシ)のわらを入れ、足でくちゃくちゃと混ぜています。その横には、もう型に入れたレンガや、型から出して山形に積んで干してある煉瓦もたくさんあります。一日で硬くなってしまうそうです。一つ一つの煉瓦がすごく重たかったです。もっと完全に乾燥したら、少しは軽くなるのでしょうか。

イスィク・クリ湖
 ビシュケクから200キロほど走ると、イスィク・クリ湖東岸の町バルィクチュイ(旧名はロシア風のルィバチエ、これなら私でも『漁師の』という意味だとわかる)に着きます。ここから、イスィク・クリ湖が始まるのですが、先の湖岸へ行く道路はゲートがあって料金を払わなくてはなりません。外国人は10ユーロ、キルギス人は1ユーロです。私たちは車もビシュケク・ナンバー、運転手はキルギス国籍ロシア人、助手席にはアジア顔の私ですから、支払ったのは1ユーロです。

 ちなみに、ソ連崩壊後のキルギスに残ったロシア人は、キルギス国籍を取らざるを得なかったそうです。ということは、ロシア国籍を失ったわけです。それで、ロシアへは、外国人としていかなければなりません。ビザは必要ないですが、滞在期間と滞在場所は自由ではないそうです。
 私が依頼したのは、社長がロシア人の旅行会社だったので、運転手や事務員もみんなロシア人でしたし、その会社を通じて泊まったホテルもロシア人がサービスするホテルでした。ヴァロージャの知り合いもロシア人が多く、彼は自分の子供がキルギス人と結婚するのはあまり賛成ではないそうです。
イスィク・クリの前に立つ新しいイスラムのモニュメント

 バルィクチュイを過ぎると、待望のイスィク・クリ湖が見えてきます。湖の美しさは、言うまでもありません。バイカルよりもっと明るい青色に見えるのはキルギスの太陽のせいでしょうか。その青いイスィク・クリ湖の対岸いっぱいに、雪をかぶった天山の山並がぎざぎざに広がっているのでした。南岸にも北岸にも天山支脈のアラ・トー(『まだらの山』という意味)が、迫っています。北岸がキュムゲイ・アラ・トー(背中を太陽に向ける)と言い、南岸がテレスケイ・アラ・トー(顔を太陽に向ける)と言うのだそうです。
 イスィク・クリ湖は面積6280平方キロメートル(茨城県より少し大きい)で、アジアで6番目の大きさです。最大深度は700メートルで、アジアで3番目。海抜1600メートルにあるので、この大きさと深さと高さは、南米のチチカカ湖に次ぐと、案内書に書いてありました。流れ込む川は多いですが、流れ出る川はありません。ですから、塩湖です。

 運転手のヴァロージャは運転をしながら、ガイドをし、また私の質問にも答えます。私は、運転手が眠くならないように絶えず話し掛け、地図を見ながらナビをし、さらに素通りできないと言う絶景のところでは、せめて写真でもとリます。

 イスィク・クリ畔のチョルポン・アタ市
 右にイスィク・クリ湖、その対岸に遠く『顔を太陽に向けている』山脈を見、左手にはすぐ近くに『背中を太陽に向けている』山脈を見ながら80キロほど走ると、チョルポン・アタ市に入ります。ここはリゾート地で、ヨーロッパ風のプライベート・ビーチもあるホテルが、ぼちぼち建ち始めています。昔のソ連風宿泊所(施設も悪くサービスも悪い、でも安いかもしれない)は、もう営業していないようです。新ホテルを建築中だったり、夏のシーズンにむけて修理中のホテルもあります。働いているのはキルギス人で、ヴァロージャによると、このように、観光業が地元の失業対策にもなるそうです。日干し煉瓦をせっせと作って売っても、あまり収入は増えないからと言っていました。

 旅行会社の案では、ここのリゾート・ホテル『ロハット』で2泊もすることになっていました。『暑い湖』と言う意味のイスィク・クリ湖でも、5月はまだ冷たくて、海水浴もできませんから、1泊、それも夕方に着いて、朝出発ということにしてもらいました。
 まだ、シーズンが始まっていないので、プライベート・ビーチにはあまり人がいません。イスィク・クリ湖に沈む太陽というのも見たかったのですが、位置が悪くて見えませんでした。太陽は高い山の端に沈み、すぐ暗くなってしまいました。ロハット・ホテルは広い敷地内にあり、周りに木がたくさん植えられ、よく灌漑されていました。ちょうどライラックのシーズンで、紫や白の花が満開で、背後の天山山脈やイスィク・クリ湖と素晴らしい取り合わせでした。

 次の日、朝食を終えるとヴァロージャが迎えに来てすぐ出発しました。チョルポン・アタ市の博物館は、ビシュケクの歴史博物館のミニチュア版のようでしたから、ガイドの説明は、私にとってロシア語の復習のようで、ちょうどよかったです。

 近くに石画のある野外博物館があるので、そこも見物コースに入っていました。あまり近くはなくて、車で北西の、つまり山の斜面をずっと登っていったところにあります。このチョルポン・アタ『野外』博物館を見るだけでも、キルギスまできた甲斐があります。『野外』博物館ですから、展示物を『各地から集め』、館内ではなく館外に展示してあるのかと思っていましたが、ヴァロージャがでこぼこした道をどんどん登って行き、やっと、「つきましたよ」といって車を止めたところは博物館と言うより、広い『石畑』のようでした。というのは、『背中を太陽に向けている』山脈の斜面からイスィク・クリ湖の湖岸まで続く長く広い斜面(42ヘクタール)一面に、大小無数の石がごろごろ転がっています。このごろごろ転がっている石のうちの数千個に、古代人が描いた絵があるのです。
 その『石畑』の野外博物館には、囲いもなく、ですから入り口もなく、ただ『チョルポン・アタ石画』と書いた立て札が立っているだけです。入場料がいくらとも書いてありません。車から降りて立て札のところに立っていると、小さな男に子が寄ってきて、
「僕がガイドです」と誇らしげに言います。
「何歳なの?」
「7歳です。でもガイドです」と言い張るので、その子に案内してもらうことにしました。
「斜面の上の方にある石画から見て回る3時間コースと、近くにある石だけを見る45分コースのどちらにするか」と聞かれたので、45分コースにしました。見学が始まると、さらに少年が2人(10歳と7歳)と、少し大きめの女の子3人(13歳と14歳)がやってきて、6人でわれ先に石画の説明をするのでした。
野外博物館、長い角の動物を石刻したものが一番多い
岡を下ると青いイスィク・クリ

 ここにある大小の石の約四千個に古代人が打刻した石画が、今でもかなりはっきりと見えます。描かれているのは角が螺旋状に曲がった山羊や、角が枝のように分かれている鹿、馬、獲物を追う犬、駱駝などです。年代は、紀元前2000年から紀元後にわたっていますが、紀元前8世紀から3世紀のスキタイ時代のものが多いそうです。
「とんがり帽子をかぶった狩人も、この石には見えます」と10歳ガイドが帽子の形を強調します。キルギス人の祖先はとんがり帽子をかぶっていたからでした
 男の子や女の子たち(そのうち一人はロシア人)は、考古学的、歴史的に貴重な石の上をぴょんぴょん飛び石のように飛んで、描かれた線がはっきりしていて、見やすい石のところに案内します。私は貴重な石を踏まないように、一生懸命、彼らに追いつこうとしました。家畜の糞も踏まないようにしなければなりません。

 天山山脈にはさまれた盆地とも言えるイスィク・クリ湖周辺には、旧石器時代からの遺跡が多く残っています。湖面に沈んだ遺跡もあります。2003年に行われたドイツの学術団体との共同調査の報告書(チョルポン・アタの売店で売れ残りのようなのを高い値段で買った)によると、湖周辺の、どこに、どんな石画群や、古代集落跡、古代碑文、古墳群、石彫像などがあるか、それらのうち、どれが歴史的価値が高いか、どれが保存状態が悪く早急に処置を取らなければならないかなどと書いてあります。このチョルポン・アタ石画群も処置が必要と警告しています。近くに家が建ち始め、石が移動されたり、落書きされたりしているからです。

 野外博物館の中にある太陽を打刻した石で囲まれたコーナーは、古代神殿跡、または天体観測所跡だそうです。中央の石に座って空を見上げると、本当に見晴らしがいいです。空ばかりではなく、目下に広がる青いイスィク・クリ湖と対岸の『顔を太陽に向けている』山脈の白い頂上も見えます。
 全員のガイドにたっぷりとガイド料を払い、私とヴァロージャは次ぎのグリゴリエフ峡谷へ、出発しました。イスィク・クリ湖へ北岸や南岸の山々から多くの川が流れ込みますが、それらの川が自分の峡谷を作ります。
勿忘草の原
 峡谷にはたいてい、遊牧用の斜面の原っぱがあるようです。グリゴリエフ川峡谷には、勿忘草の原っぱがありました。小さな紫色の勿忘草が一面に咲き、原っぱは緑と紫のまだらに見え、そこをたくさんの羊の群れが泳いでいるのでした。
 車から降りて羊を触ろうとすると、みんな逃げていきます。馬に乗った牧夫が近づいてきて、
「あの山羊なら触れるよ、慣れているから」と灰色の羊の群の端にいる白い仔山羊を指差していいました。でも、その仔山羊もやはり逃げていきました。ハイジのようなわけには行きません。羊たちは去り、また、一面の勿忘草畑が見えました。

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