クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 04 June, 2011  (校正2011年6月27日、2012年3月18日、2012年4月5日、2018年10月21日,2019年12月2日、2021年9月9日、2022年8月24日
28-8   晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(8)ハカシア北部、クルガンとスベ
           2010年10月22日から11月19日(のうちの11月3日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 白いユース川とサラート山の間のクルガン草原
8 ヴァロージャのハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) 大富豪屋敷跡のチェバキ村 ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ(山岳石の建造物)
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流の洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク市観光 (レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、エニセイに架かる橋) アーチンスク市、スホ・ブジムスコエ村のスーリコフ 


 ヴァロージャのハカシア史
 11月3日(水)、14歳になった次女ヴァーリャのためのパスポート申請が終わったマリーナも、この日は同行することになった。ガイドは一昨日訪れたチェルノゴルスク博物館推薦のヴァロージャだった。マリーナが知り合いの館長に頼んで紹介してもらったのだ。ヴァロージャはアバカン大学歴史科を卒業して博物館のパートの研究員だが、(パートでも正規でも)給料が安すぎるので、祖母がアイラン(飲むヨーグルト)を作っているのを手伝っているとか。
 前々日にヴァロージャに電話すると、ガイドはやったことはないが、学生時代に考古学発掘の実習があったので、案内できる場所もある、と言うことだった。ハカシア南部はベヤ村を中心に回るから、チェルノゴルスク市に来ている時は北部を回りたい。北部でも白イユース川ほとりは、昨日スラーヴァと回ったので黒イユース川を回りたい。それで、黒イユース川方面の、例えばチェバキ村のスベを見たいと言った。あまり自信はなさそうだったが、黒イユース方面案内を引き受けてくれた。マリーナがガイド料はいくらと聞くと、「1000ルーブルもらえたらいいのだが」と言われたそうだ。
パドクーニャ山のコノヴァースと
ガイドのヴァロージャ

 ヴァロージャは同じチェルノゴルスク市に住んでいるので、スラーヴァのように20キロとは言えアバカン市に迎えに行ったり、送って行ったりしなくてもいいところが、時間の節約になる。出発は8時と言う早めに決めていたので、8時20分にはもう、チェルノゴルスクから北へ行く国道54号線をパドクーニャ山まで来ていた。
 エニセイ川(この場所の標高は230メートル)にせり出す570メートルのクーニャ山はハカシアの聖地のひとつで、その裏に続くパドクーニャ山地(クーニャのパド、パドとは『下』、『裏』の意、だからクーニャの麓の意)には岩画も多い(323点ある)。今、『表の』クーニャ山には国道54号線が通っているが、昔もパドクーニャ山地を超えて、(少し川筋から離れるが)エニセイ沿いに北へ続く道があったのだろう。道端におなじみの馬繋ぎ柱・コノヴァースがある。この木製の柱は新しく、周りにチャロマがたくさん結んであった。何度も国道54号線を通るが、ここにコノヴァースがあるとは知らなかった。ヴァロージャのおかげだ。ここで私たちは乗って来た馬は繋がなくとも、乗物から降りて布切れを結んだり、コインを置いたり、アイランを飲んだりしなくてはならない。ヴァロージャは持ってきたアイランの1リットル・ペットボトルを取り出したが、私は、せっかくのヴァロージャのお祖母さんが作ったアイランだが、乳製品は遠慮した。マリーナが飲んでくれた。 
 昨日と同じ道を160キロほどシラー町の方へ走る。枯れ葉色の草原と遠くの青い山の輪郭は昨日と同じだが、この日のガイドのヴァロージャの話は興味深かった。彼はハカシア人で、ハカシア人から見たハカシア史を語ったからだ。歴史の本(たとえば、シベリア史教科書などは特に)はたいがいロシア側から書いてあるが、ハカシア人のヴァロージャの説明は、私が考えていた歴史に少し近い。
チュルィム川、黒イユース川、白イユース川、エニセイ川
1.チョールノェ湖 2.シラ湖 3.イトクリ湖 
4.トゥス湖 5.オシコリ湖
6.サラート山 7.タルキン・クリューチ(オシコリ)岩画 8.ズメイナヤ・ゴルカ 9.スレーク岩画
ハカシア北部
 彼は、ハカシア人はロシア人がシベリアに進出した当時の17,18世紀は南シベリアの一大勢力であり、アンガラ川南からサヤン山脈までを支配下に置き、カマシン人(今は同化されていなくなったサモエード、正しくはサモディツィ人系で、カン川畔に住んでいた)や、カチンツ人(チュルク語系でクラスノヤルスク市付近にいたが今はいない)や、ショル人(クズネック・アラタウ山麓に住み、エニセイ語族がチュルク語化したと言われている今は少数民族)やテレウート人(今はアルタイ地方に細々と住むチュルク語系)やチュリム人(チュルク語系とチュリム川のケット人やセリクープ人とでできたといわれる民族で今はトムスク州やクラスノヤルスク西部に住む極小民族・後述)などから貢納されていた、と強調する。(しかしハカシア人はより勢力の大きいジュンガル・ハン国に貢納していた)。当時のハカシアの候国、とくにイユース川中心のアルティサル候国のイレネック候は、頑強にロシア帝国の南下に抵抗した。ハカシア人を『征服』するまでロシア帝国(の手先の)コサック前哨隊軍は100年もかかった。だから、ハカシア人が自主的、友好的にロシア帝国併合を望んだとか、書かれている歴史書も多いが、ヴァロージャの言う通り、それは正しくない。
 彼の持論で行けば、独立ハカシア共和国と言うことになりそうだ。一応、聞いてみると、もちろんそれは不可能だ。私は秘かに、チェチェンなどカフカス地方だけでなく、フィン系やチュルク系、モンゴル系の『ロシア連邦』内共和国や自治区は独立したらいいと思っているのだ。ロシア『連邦』といってもモスクワ集中政権のようでもあるので。ましてや、帝国時代は今の民族共和国などはモスクワの植民地でもあったので。(今でもその傾向があると思うどころか、まさにそうだ)
 だが、分離独立論は昔風には(そして現代も)国家反逆罪になるのか。一般にロシア人は領土に執着する。
 現代国際関係の卒論を書き、チェルノゴルスク郷土博物館のパート職員で働き、祖母のアイラン(飲むヨーグルト)作りを手伝っているヴァロージャの、『自分たちのハカシア』の明快な展望というのは聞き出せなかった。ハカシア人が少なくなったことや、ハカシア語を話すハカシア人が減ってきていると嘆いていた。だが聞いてみると彼の許嫁はロシア女性だそうだ。
 ヴァロージャは歴史学部出身だから、実は国粋主義者だ。ロシアの民主主義は欧米の民主主義とは違うなどと、政府の代弁までしている。「だからハカシアの富の大部分がモスクワに行くのね」とまで言ったところで、政治の話はやめた。だって、古代文明の観光に来ているのだから。(歴史学部出身者は『洗脳』されているからそのつもりで話した方がいい、彼らの就職先の一つは国家保安部である、とまで聞いたことがある)

 シラー町の側を通り過ぎると、昨日とは違って西へ向かう。初めの目的地のチョールノェ(黒い)・オーゼロ(湖)村まであと30キロほどのところで休憩した時、ヴァロージャが私の仕事は何か、どのくらいロシア語をやっているのかと聞く。元教員で、ロシア語力も仕事(まさか諜報員ではないが)にできる水準にはほど遠いと安心させてあげた。
 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖)
 ここから先も草原の中を快適なアスファルト舗装道が続いている。こんな辺鄙なところに、なぜ、こんな立派な舗装道がと思うくらいだ。実はこの道はチョールノエ・オーゼロ村に通ずるからだ。
 チョールノェ・オーゼロ村には有名な薬草健康センター『プラスコヴィヤ』がある。薬草樽サウナなどで血管と関節の病気を治療するそうだ。腰痛、高血圧、動脈硬化、皮膚病、アレルギー、神経疾患、免疫性疾患などに効能があると謳ってある。十数年前、村の材木工場長が重病になり足を切断するほかないと言われた時、妻のプラスコヴィヤがシベリアの薬草で治そうとして作りだした処方だそうだ。この民間療法がききめあらたかと言うことで有名になり、ロシア各地に支部があると同センターのサイトにある。プラスコヴィヤさんのおかげで、寂れかかったチョールノェ・オーゼロ村も活気づき、彼女の私財で『生神女(聖母)マリアのイベリア・イコン教会(*)』が建てられている。2000年当時の知事だった中将レーベジ氏(**)も訪れた。その時、治療所建設なども約束したが、2002年の事故死のため実現されたのは道路だけだったと言う。
(*) そのイコン(聖画)のオリジナルが世界遺産のギリシャ聖アトス山のイヴィロン(イベリア)修道院にあるから、イベリアのイコンと言われる。イコンの作者は新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者で医師のルカであるとされている。聖ルカ病院は世界各地にある。日本には聖路加国際病院。
(**) 空挺軍中将アレクサンドル・レーベジ氏は1996年第1回大統領選では、エリツィン票が35.3%、レーベジ票は14.5%と、エリツィンにせまる人気の政治家で、第2回選挙で自分の票をエリツィンに提供。1998年6月から事故死の2002年4月までクラスノヤルスク地方知事だった。一方、実弟のアレクセイ・レーベジ氏は1997年から2期8年間ハカシア共和国政府議長、つまり知事だった。
ハカシアア北部、チョルヌィ(黒い)イユース川と
チョールノェ・オーゼロ村、ペテシェ川方面
チョールノェ・オーゼロ村、正面が薬草センター
チョールノェ湖も見える丘のクルガン発掘跡
チョールノエ湖からキーロフへ山道を
登ったところにある高台から。左に小さく見える
のがチョールノエ・オーゼロ村
 チョールノェ湖(オーゼロ)はハカシアで3番目の大きさで、ほぼ淡水。『黒い』という意味の湖は、この日は曇天だったせいか、確かに空も湖も暗い灰色にみえた。
 ハカシアには約1000個の湖があり、その半分は10ヘクタール以上あって、100以上が塩湖、つまり流れ出る川がない。流れ出る川があってもその程度によって塩分濃度が異なる。トゥス湖が最も濃くて、1リットルにつき190から250グラムと、死海の塩分濃度約30%よりやや薄い。ハカシアと言えば古代遺跡を除けば、シラー湖畔などの療養所、トゥス湖やベリョ湖畔のキャンプ場など夏場レジャーが有名だが、チョールノェ湖は、湖としては有名なシラー湖やイトクリ湖、トゥス湖、ベリョ湖、マタラク湖,シュネット湖など白イユース川右岸の草原地帯にある湖ほどレジャーの対象にはなっていない。

 シラー町から50キロも続いている舗装道は湖の北西の一角にあるチョールノェ・オーゼロ村に入る。900人くらいの村だが村並みはこぎれいだ。どの家の塀もまっすぐ立っていてペンキがはげていない。村の中心の田舎風木造平屋が数棟もある『プラスコヴィヤ』薬草健康センターの建物は特に立派で、塀も屋根も窓も色は青と白と黄で統一されている。
 1990年代、ソ連が崩壊して、この地方の農業や林業コルホーズも閉鎖されると、村々は寂れる一歩だったが、湖北西岸のチョールノェ・オーゼロ村だけは『プラスコヴィヤ』がそれに歯止めをかけて、繁盛さえしているようだ。
 私たちはセンターの美しく塗られた青い塀を見ながら村を通り過ぎ、湖の西岸向かう道を進む。ここはもうレーベジ中将のアスファルト舗装道は伸びてきてはいない。南北の長さ約7キロのチョールノェ湖の南岸は広く沼地になっていてその向こうには白バラフチン村(250人)があるが、目的地は、西岸の中ほどで、ここに発掘済みの紀元前7世紀から2世紀のタガール時代からタシュティック時代のクルガンがあると言う。
 車を湖岸沿いの道路に止め、数百メートルほど低い草が枯れかけた原っぱに入ると、クルガンの立ち石ばかりでなく、発掘されたときに現れてくるクルガン内部の石の積み上げも見える。そこは、チョールノェ湖の西岸へ低く伸びている丘の斜面で、いかにも古代人が好みそうな背景だ。
 ヴァロージャは発掘時の様子を図入りで語ってくれた。3メートルから5メートル四方の塚の内部や、発掘物の青銅製スキタイ風の動物模様の留め金の絵も描いてくれた。
 帰国後、自治体の広報を見ると、シラー区の古代遺跡確認リスト全136地点の中に128番目と129番目に『チョールノェ湖岸‐1』にクルガンが2基と、『同‐2』に10基あると出ている。
 『チョールノェ湖岸‐1』は『チョールノェ・オーゼロ村から2キロ南のゆるい勾配の丘であまり広くない草原の、湖岸から200メートルの地点。紀元前7世紀から紀元前1世紀のタガール時代。1999年からキギネコフが発掘調査』となっている。
 『同‐2』は『チョールノェ・オーゼロ村から南に3.6キロのチョールノェ湖岸から0.1キロの地点。紀元前7世紀から紀元後5世紀、タガール時代からタシュティック時代。1999年からキギネコフが発掘調査』とある。それ以上はわからなかった。
 ヴァロージャが不規則な形をした石を指して、これは古代の冶金場、製銅炉から出たスクラップだった可能性が高いと言う。なぜならその石は形も成分も自然にはありえないからだそうだ。もちろん感心して写真を撮った。
 湖岸からゆるい勾配で上がっている丘の斜面にクルガンは散らばっていて、そこから曇天だったので陰鬱そうに広がっているチョールノェ湖の水面が眺め渡せた。湖の対岸にも丘陵が続いていて、低い輪郭線が湖面に映っている。湖はハカシア・ミヌシンスク盆地の北西のほとんど端にあるので、湖の背後にはクズネック・アラタウ(山脈)へと続く支脈が伸びているのだ。黒イユース川も、その支脈の間を流れてくる。
 チョールノェ湖岸クルガン群を私たち4人は見て回り、クルガン石に触り、クルガンを遠景、近景から写真を撮り、クルガンが見えている湖も写真に撮って、ヴァロージャも説明することがこれ以上なくなったので引き揚げた。またチョールノェ・オーゼロ村に戻ってから黒イユース川方面に行く方が道がよいということだった。
 チェバキ
 チョールヌィ村の背後の丘を超えて12キロも行ったところにキーロフと言うありふれた無難な名前の村がある(*)。もちろんソ連時代に改名した村名で、元はセクタ(セクト。宗派、教派と言った意味で新興宗教に対する否定的な総称)と呼ばれていた。しかしこのセクタはハカシア語のシャクトィグ сяктыгをロシア風に発音したもので、ハエの多い場所と言う意味で宗教とは無関係な名だ。この村も、「ソ連時代はソフホーズがなかなか繁盛していたが、今は寂れてしまった」とされる多くの村の一つだ。シラー町から2日に1回路線バスが来るとか。http://fototerra.ru/Russia/Kirovo/WIlli-Holzer-5628.html
(*) セルゲイ・キーロフは1934年暗殺されたソ連政治家。この事件をきっかけにスターリンの大粛清が始まった。モスクワ北西のキーロフ州をはじめ、キーロフを記念した地名、コルホーズ名などは大小を含め膨大
 正式名キーロフ村、しかし慣習ではセクタ村を通り過ぎると、まわりの山の形に注意しなければならない。有名なチェバキ・スベ(山岳石造り建造物、要塞)が道路から見えるかもしれないからだ。ガイドのヴァロージャは発掘に行ったのは学生のときで、みんなで行ったので行き方を覚えていないと言っている。それなら、チェバキ村まで行って住民に案内してもらえばいいのだ、と説得してここまで来たのだ。

 1925年にできた広大な『シベリア地方(行政中心地ノヴォシビリスク)』の19の管区のうちのひとつが、行政中心地『アバカン川河口村(後にアバカン市と改名)』のハカシア管区(округ)だ。そのハカシア管区には4つの区районしかなく、そのうち一つがチェバキ区だった(その後、アバカン右岸なども編入され8つの区となっている)。当時、全人口2万人弱のチェバキ区のうち行政中心地チェバキ村の人口は1887人だった、とシラー区公式サイト(*)にはある。19世紀後半から20世紀前半のゴールド・ラッシュ時期にはチェバキ村は栄えたらしい。
 と言うのも、鉱物資源の宝庫クズネック・アラタウ山地の東斜面にあるハカシア西北部の黒イユース川、白イユース川上流とその支流には金脈が発見されたからだ。サラーラ金鉱やボガダロヴァニィ金鉱(**)などの所有者・大富豪イヴァニツキーの邸宅もチェバキ村にあったのだ。イヴァニツキーは1915年ロシア帝国内で25人の大富豪の一人だったそうだ。
(*)シラー区公式サイトから その後、1914年クラスノヤルスクを東西に通るシベリア鉄道からの支線を南のアバカンにまで延ばす工事が始まり、途中駅としてシラーができた。1926年鉄道が開通し、1930年にはチェバキ区の行政中心地がチェバキ村から交通の便の良いシラー村に移され、名前もシラー区となった。
(**)ボガダロヴァニィ
Богом дарованный『神に与えられた』の意。1899年から1917年の間に4576キロの金が採れたと言う。革命後の内戦では赤軍とサラビヨーフの白軍との戦乱の場となり、終結後、コムナールと言う革命的な名前になった。サラーラ金脈は閉鎖されたが、コムナールは稼働している。
遠くからも見えるかつてのイヴァニツキー邸宅
イヴァニツキー宅の窓枠、優雅な装飾
ラーゲリの管理人という女性と
今のチェバキ村
革命後の内戦の慰霊碑
ビール瓶5本にヴォッカ1本
 革命後、大富豪イヴァニツキーは中国のハルビンに逃れ、1935年そこで亡くなったのだが、亡命する前に金塊を埋めたと言う『イヴァニツキーの金塊』伝説はハカシアで有名だ。1930年代後半イヴァニツキーの未亡人が来て、国家保安局員の参加の下、黒イユース川畔に隠してあった金塊を掘り上げ、遺言どおり半分を受け取ったとか。白イユース川のある目印の木の下にも埋めてあるとか。チェバキを見晴らせるある山の頂上に埋めてあるとか。金塊の話となると言い伝えが広がるものだ。

 かつては金鉱山の中心で、1924年には人口1887人だったというが、今は人口数十人と言うチェバキ村に入っていくと倒れかけた塀、屋根が落ちてしまった無人の家がポツンポツンと建つ村に、19世紀半ばに建てられたと言うイヴァニツキーの優美な邸宅が、それなりに寂れてそびえている。部分的に2階建てで高い塔もあり、100年以上も前に建てられた木造建築にしてはさすが、堅固な状態で建っている。
 辺鄙な村に似ない美しい建築物だが、美しいだけ、また状態が良いだけ、微妙に寂れた様子と絡んで、不思議な趣がある。この美しく寂れているかつての富豪の邸宅の周りはいちおう柵で囲まれている。近づいてもっとよく見たいものだ。門には鍵がかかっていたが、柵の間隔が広いのですり抜けられた。シベリアの豪商の家は、クラスノヤルスク市街地の他にアンガラ川のモティギノやアスキース村など各地に部分的にしろ残っているが、周りの景色といい、状態といい、建物自体の美しさといい、チェバキの邸宅が最高だ。実は、最近まで子供ラーゲリ(青少年宿泊場)として使われていた。だから、玄関には『ツーリスト』と書いた看板がかかっていた。
 窓枠にはレースのような透かしが彫られて、いっそう優美に見える。美しく寂れた建築物を眺めていると、住民がやって来た。と言うのも、柵をすり抜けようとしたころから、この村の犬たちがありったけの声で吠えだしていたからだ。近づいてきたのは二人の女性でラーゲリの管理人だと言う。実は彼女は家の鍵を手にしていたのだが、その時はイヴァニツキーには関心がなく、チェバキ要塞の場所を見つけようとしていたのだ。だから、せっかくの親切そうな女性たちだったが、一緒に写真を撮っただけで、邸宅のことは何も尋ねなかった。イヴァニツキーの金塊についても何も尋ねなかったばかりか、邸宅をもっと見たいとも言わず、チェバキ・スベのことだけを尋ねたのだ。(後から思い出すと残念だった。せっかくここまで来ていたのに)
 管理人の女性は、自分はその場所は知らないが、この村に案内できる老人がいる、とその名前と家を教えてくれた。

 チェバキ村も、革命後の内戦時、ガイダールの赤軍とソロヴィヨーフの白軍の熾烈な戦闘が行われたそうだ。つまり、チェバキ区はソロビエーフ軍の根拠地だった。だから、尋ねあてた老人の家の近くには、『内戦で亡くなった英雄たちへ』という文字が赤い星の横に彫られた碑が立っていた。もちろんソロヴィヨーフ側ではなく、ガイダール側が英雄だ。今、人家10軒ほどの人影も見えない寂れた村に、ソ連時代をしのばせる立派な碑も廃墟趣味をそそる。

 探し当てた家から出てきた若い男性が言うには、
「おじいさんは今いないが、自分が案内できる。また、ここまで車で戻してくれるなら、案内してあげよう」。私たちは喜んで、彼に後部座席のマリーナとヴァロージャの横に座ってもらって出発した。自分は17歳でクラスノヤルスクから来たのだ、音楽をやっていると言う。華奢で白い肌、大きな目をしたうっとりとするような美少年だった。
 新ガイドの少年が「ここだ」と言う曲がり角を待ちながら、車はゆっくりと進んでいくのだが、その美少年は山の形を見ながら
「僕の記憶は現れたり消えたりするのです」と、よくわからないことを話し出す。音楽の事や自分の精神について絶えず話し続けている。私には、彼が超自然的なことを話していて17歳にしては素晴らしいと感心して聞いていた。しかし、私以外のロシア人、つまりサーシャとマリーナとヴァロージャは厳しく、
「もういいから、降りてほしい」と言う。その17歳の少年が麻薬中毒になっていたとは、私にはわからなかった。
 ヴァロージャはチェバキ・スベを探すのはあきらめようと言う。帰国後ネットでわかったのだが、『沼地をぬけ、かなり険しい道を徒歩で登らなくてはならない。よく知っているガイドなしには絶対見つからない』そうだ。だから、ここであきらめたのは正解だった。ヴァロージャは、その代わり、自分のよく知っているズメイナヤ・ゴルカのスベに行こう、と勧める。サーシャもマリーナもその方がいいと言う。
 ところで残念ながら見逃したチェバキ・スベは、資料によると1888年初めに調査されたので考古学的には古典的なスベだ。大きな板石を平積みにした壁が頂上を囲んで2重に延びていて、全体の長さは210メートル、高さはところどころ180センチは残っているそうだ。要塞の壁に寄せて石の住居跡も残っている、とある。20世紀末までの調査で、青銅器時代(紀元前2000年紀)の器の破片、宗教儀式に使う香炉、石矢、斧、スクレーバー(掻器)、野生動物の大量の骨などが発掘された。スベの状態が比較的良好なので、この地が野外博物館に指定される可能性は大きいともある。(後記:2013年に訪れた
 ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山)
 ズメイナヤ・ゴルカは、チェバキ村から40キロほど北へ行ったところにある。その先にもチェルガトィ・スベや、途中にスレーク岩画もある、とヴァロージャが言ってくれる。道はいいからとサーシャをも安心させる。そこで再出発前にお昼を食べようと言うので黒イユース川岸へ下りる。
祖母のアイランを飲む
ヴァロージャ
 黒イユース川に架かる橋を渡れば右岸のガイダロフスク村(ガイダールの村の意)にでる。これもキーロフ村同様に赤軍的な村名だ。白軍のソロビエーフを一掃した赤軍の軍事指導者がガイダールで、白軍への協力者が多かったと言うハカシアでは、子供が泣くと、「ほらガイダールが来るよ」と言って泣きやませると言うくらい過酷に一掃したそうだ。その話は、アルバトィ村でターニャさんからも聞いた。ハカシア人の間では有名らしい。そのガイダールの名前を付けるとは、よほど徹底的にこの村でガイダール軍は勝利したのか。以前はフートルと言う名前だった。グーグルとヤンデックス yandexの地図ではフートルと載っている。フートルというのは村よりも小さい集落の一般名詞だが。
 黒イユース川岸に降りて、またコーリャがあの子ブタから作ったベーコンやヴァーリャさんの鶏が産んだ卵を食べた。ヴァロージャはアイランを飲んでいた。

 黒イユース川右岸に沿った道を下っていくと先ほどのキーロフ村入口に出る。そこを過ぎると山波は遠ざかり、黒イユース川が作ったオシコリ草原と言う小さな盆地に出る。そこにはオシコリ湖があって、この近くには紀元前後のタシュティック時代の岩画がある。規模は今日までに発見された中では最大で、走るシカ、弓を持った戦士、猟師、シャーマン、大釜、タムガなどで、そこには衣服や道具類が詳細に描かれている、と帰国後にネットで知った。特に長いガウンの人物は謎で、どこからかの外来者(聖職者)である、と書いてある文献もある。
 オシコリ岩画(またはこの近くの村の中らタルキン・クリューチ岩画とも呼ばれる)については旅行案内書にも載っている有名なスポットで、私は未踏だ。この時ヴァロージャに頼んで案内してもらうことができたのが、ヴァロージャは場所をよく知らないそうだ。だから、道路から見えるオシコリ湖、岩画があると言うアルガ山の方の写真を撮っただけだ。岩画の写真はサイトに何枚も載ってはいる。
ズメイナヤ・ゴルカ・スベ(要塞)跡
スベ(要塞)ズメイナヤ・ゴルカ跡
黒イユース川の流れ
スベの炉の跡だそうだ
 オシコリ草原盆地にもクルガンがたくさん見えた。上記ハカシア文化局発行『シラ区の古代遺跡確認リスト全136地点』にも『12基、紀元前7世紀から紀元前1世紀タガール時代。調査者ラザレートフ、1996年、状態良好』と出ているのが、きっとこれだ。
 20キロほど行くと小さな盆地も終わり、パドカーメニ村に出る。ここでまた黒イユース川に出会うのだが、川が曲がりくねっているのは、ズメイナヤ・ゴルカという高くはないが(578m)丈夫な山がせり出ているからだ。道は川を渡って右岸に出て、ズメイナヤ・ゴルカ山(ズメイはヘビ、ゴルカは『子山』と言う意味だから『蛇の小山・山』となってしまう)をぐるりと回って、さらに川に沿って下流にオルジョニキーゼ区行政中心地コピヨーヴォ町に向かって続いている。もちろん、レーベジ中将の道以外この辺には今のところアスファルト舗装された道路はない。
 ズメイナヤ・ゴルカのスベは、一方が黒イユース川を見下ろす絶壁になった山の頂点にある。反対側のゆるい斜面から近づけば、山の中ほどまで車で行ける。黒イユース川はズメイナヤ・ゴルカの周りをぐるりと囲むように流れているので、山の中腹まで行くと下方に黒く光って流れる川が見える。車で行けるところまで登って後は歩いて登る。急斜面なので私やマリーナは何度も立ち止まって息を継がなくてはならない。立ち止まると足元にエーデルワイスや名前のわからない赤い花やトナカイ苔(ハナゴケと言う地衣類の仲間)(*)のような白いふわふわのコケや、ウサギのキャベツ(とこの辺で言われているベンケイソウ科の仲間)などが枯れ草に交じって咲いていた。 
(*)ハナゴケはトゲシバリとともに痩せ地の指標種である。これらの地衣類が出現するようなアカマツ林は、最も条件の悪い立地に発達していると評価できる。このような群落が発達している場所は、土壌浸食は顕著ではなく、森林を構成している樹木は針葉樹が主体であって、広葉樹はごく少なく、落葉量も少ない。生育しているアカマツやネズの生長もすこぶる不良であり、亜高木林にとどまっていることが多い(『ウィキペディア』から)
 先に駆け上がったヴァロージャが頂上付近で待っている。息を切らして登ってみると、そのあたりからスベの跡が見られた。平たい石を何列にも積み上げて、場所によっては人の背ほどになっている。この石垣が頂上の三方、つまり絶壁になっていない方を囲んでいるようだ。子ブタくらいもあるような石が幾層にも積み上げられて中が小さな広場になっている所や、平たい石が積み上げられて累々と壁のようになっている所や、ごろごろした大きな石が積み重ねられて、隙間からにょきにょうきと草が生えているところや、石垣が崩れているところなど、たどっていくと頂上の広場を囲むように長々と延びている。石垣はところどころ3重になって残っている。もともと自然にあった岩も石垣の一部のようになっている一角もある。
 2000年からサンクトペテルブルグ大学のパドリスキーによって調査され、発掘物などから紀元前9、8世紀青銅器時代のスベ(要塞)と住居跡とされている。ところどころに住居跡と思えるような平坦な一角もあり、草もあまり生えていない。このあたりを発掘したのだろうか。

 山の一方の斜面は絶壁になっていて(それがすべてのスベに共通)、川岸にだけ疎林を作り、低い山に邪魔されながら、枯れ草の草原の中をくねくねうねって流れる黒イユース川がはるか見下ろせた。だからどのスベにも共通しているのは絶景の地に築かれていることだ。私たちは長い間見とれていた。ヴァロージャは何か地面を触っていた。炉の跡のようだと言う。
ズメイナヤ・ゴルカ中腹にある
赤軍の碑

 ズメイナヤ・ゴルカを下るとき、斜面の遠くに小さな古い碑が見えた。ヴァロージャが、「ちょっと失礼」と走っていく。私も、サーシャとマリーナを置いて後を追った。近づいてみると、まわりが慎ましく鉄柵で囲まれていて、トタン板を張り合わせた様な墓の頂点に赤い星が、さびてはいるが輝いていることになっている。前面に『サドーフスキイ、1904-1923、コムソモール書記。暴徒との戦いで残忍に殺害される』と点刻された板が張り付けてある。内戦時代ソロビエーフの白軍も、ガイダールの赤軍も目的のために残忍だったのか。

 黒イユース川の左岸を、枯れ草の中に突き出ているクルガンの三日月のようにとがった立ち石を見ながら、さらに15キロ下がるとウスチンキーノと言う村の側に出る。この村の中央にもソロヴィヨーフ軍との戦いに倒れた赤軍の記念碑や、赤軍委員のガイダールが司令部にしていた郵便局が、ガイダール博物館として保存されている。そこにはガイダールの個人の持ちものなどの他、彼の自筆の銃殺命令書なども保存されているとか。
 チェルガトィ・スベ
 ズメイナヤ・ゴルカから10キロも行くと、オルジョニキーゼ区行政中心地コピヨーヴォ町から、かつてのサラーラ金鉱への道にぶつかる(今でも、ハカシア北部のクズネック・アラタウ山麓への道路として重要、ハカシアは道路の数が少ない、道路網は粗い)。このT字路の近くに紀元前2千年紀のオクネフ時代からの数千点にも及ぶスレーク岩画群があって、19世紀から有名だった。紀元後10世紀前後の古代ハカシア文字やタムガ、キルギス時代の騎士、狩猟や宗教儀式の情景描写が芸術的なことでも有名だ。
 しかし、そこは見なかった。2009年にスラーヴァと見たし、そこへも寄っていると晩秋の日は暮れてしまう。
 黒イユース川の左岸支流ペチシェ川を渡って、コスチノ村の方へ曲がり、草原の中を数分走ると険しい岩山の塊が見えてきた。200メートルくらいも垂直にそびえている。
チェルガトィ・スベに上るヴァロージャとマリーナ
スベの石垣跡の上からペチシェ川

 麓は背の高い枯れ草の草原や細いカラマツ林になっている。カラマツは松葉がほとんど落ちている。その近くで車を止めた。足元にはやわらかい松葉が分厚く積もっていて、そのために地面が暖められるのか、この晩秋に緑の芽が松葉も間のあちこちで延びようとしていた。古い切り株の上にもふんわりと松葉が載っていた。まばらな灌木の茂みもあって、野バラが赤い実を残して枝だけになっていた。つまり、おいしそうなローズヒップができていて、少し採って持ち帰った。この辺の足元は野バラの茶色の葉っぱが松葉や松毬に交じって一面に落ちている。
 サーシャは車に残ると言う。またスベを見るより車の番をしてタバコでもすっている方がいいのだ。だから、ヴァロージャの後ろから、不満そうなマリーナとそんなことはどうでもいい私が、松葉のふかふか絨毯を踏んで登って行った。まばらなカラマツ林が終わると地面はごつごつしてくる。雑草も生えづらそう。痩せ地の証拠と言うトナカイゴケが足元に見える。この辺はまだ傾斜が緩やかだが、それでも息が切れるので、写真を撮るため立ち止り息を継ぎながら登った。こうするといろいろな高さからの頂上や眼下の景色が残る。早足で登るヴァロージャは時々岩に座って私たちを待っていてくれた。
 下からは垂直の岩場がそびえているように見えたが、それは一方だけで裏からは、私でも登れるような傾斜の岩場があった。
 チェルガトィは、何もなくてもこの岩の塊がそびえているだけで城壁のように見える。が、この岩山の頂上付近にも途中にも石垣の一部が一応残っていた。大小の石をはば広く積み上げたのや、平たい石をぎっしり積み上げたもの、小さな石ころを大量に積み上げたものなどあったが、どれも長く伸びているというより、小さく囲んでいるように見えた。頂上のスベの中にはやはり発掘された跡があって、発掘物の残りも落ちているようで、ヴァロージャが拾っていた。私にも道具のかけらのようなものを見つけてくれた。
 チェバキはメジャーなスベだが、チェルガトィの方は考古学論文関係のサイトには全く載っていない。準備中なのかもしれない。ただ、ハカシア共和国(自治体)の文化局の『2009年から2013年、文化遺産ツアーの発展プログラム』には、より興行的で吸引力があるべき野外博物館の候補地として35か所のスベや岩画、クルガン群、古代住居跡などが指定されているのだが、その中に、チェルガトィ・スベも含まれている。ちなみに、名前の挙がっている35か所の中にはタシュティップ区のアルバトィ岩画やベヤ区のヒズィン・ハヤ岩画などすでに野外博物館になった場所もある。
 時刻は4時を回っていた。晩秋の太陽は低く傾き、山波がくっきりみえる。眼下にはペチシェ川が作る狭い谷が伸びている。川面は見えないが川岸に茂る木の列が蛇行している。一方、コピヨーヴォ町へ真っ直ぐに伸びているのは道路だ。毎日毎日いくつもの絶景が見られて幸せだなあ。

 この日のうちに、コピヨーヴォ町から240キロ離れたチェルノゴルスク市まで戻り、ヴァロージャとマリーナを下して、そこからまた100キロ走って、3日間留守にしていたベヤ村まで戻らなければならない。
 しかし、コピヨーヴォ町への途中に発掘されたクルガン群があるとヴァロージャが言うので、そこでも車をしばらく止めてクルガンの塚を写真に撮った。長方形に囲むように、薄いが大きい板石が立てて並んでいて、大きな四角や長四角ができて、中には発掘後の1メートルくらいの穴が見えた。四角の角には大きめの石がたっていた。クルガンには一定の方向に必ず門があるらしかった。
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