up date | 04 June, 2011 | (校正2011年8月21日、20 12年3月18日、2018年10月20日、2019年12月2日、2021年9月9日、2022年8月20日) |
28-7 晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪 (7)ハカシア北部遺跡 2010年10月22日から11月19日(のうちの11月1日から11月2日) |
Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )
1 | ウラジオストック経由クラスノヤルスク | シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ | クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ | ベヤ村のヴァーリャさん宅 | ||
2 | ベヤ区立図書館 | サモエード語起源のウーティ村 | コイバリ草原ドライブ | |||
3 | 『無人』のボゴスロフカ村 | バービカ谷 | サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 | ミヌシンスク博物館 | ||
4 | ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 | 3つのアルバトィ村 | マロアルバトィ岩画 | 革命後の内戦時、ハカシアの村 | ||
5 | アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ | 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 | カザノフカ野外博物館をさまよう | |||
6 | トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ | パパリチーハ山のタムガ | ウスチ・ソース野外博物館の石柱 | タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 | スナジグミ林 | ヒズィル・ハーヤ岩画 |
7 | アバカン市 | チェルノゴルスク歴史博物館 | シラ草原 | ベーリィ(白)・イーリス川右岸とサラート山麓草原、タルペック城壁 | ||
8 | ヴァロージャののハカシア史 | チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) | チェバキ | ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) | チェルガトィ・スベ | |
9 | キルベ・スベ | 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 | 袋小路の先端 | 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ | ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 | ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚 |
10 | タシュティップ村 | 自然派共同体の新興村 | ペチェゴルの奇跡 | レーニンのシューシェンスコエ町 | カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画 | |
11 | ハカシア人の心、アスキース村 | アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 | アバカン山中のビスカムジャ町 | ナンフチュル・トンネル | ||
12 | ショル人会 | アスキース博物館 | アンハーコフの『刀自』 | クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村 | ||
13 | ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ | クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、、エニセイ川に架かる橋)アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ |
アバカン市 | |||||||||||||||
11月1日サーシャ達の次女のヴァーリャが14歳になったので、住民登録されているチェルノゴルスク市でパスポート取得手続きをしなくてならない。日本では国内にいるときはパスポートの必要がないのだと言うと、いつも怪訝がられる。日本では国内の移動に何か証明書が必要だなんて思いもよらないが(江戸時代なら、関所で通行手形を見せたかも)、ロシアではパスポートなしでは国内便飛行機のチケットばかりか、列車のチケットも買えないし、ホテルにも泊まれない。国外へ出るときは別の国外用パスポートが必要。(ちなみに、1974年まで、コルホーズやソホーズの農民には国内パスポートも与えられなかった。つまり移動の自由がなかった。30日以内の出張などの短期旅行ならば農村ソヴェットの特別許可があればできた。1974年に、ロシア帝国とソ連邦の歴史上初めて16歳以上の国民すべにパスポートが与えられた。今は14歳で取得し、20歳と45歳でパスポートを更新する) それで、みんな揃ってベヤ村から100キロ北のチェルノゴルスク市へ出発することにした。チェルノゴルスクから20キロのアバカン市に長女のナースチャが勤めている私立の診療所があるので、そこにも寄り、私はアバカン市で博物館に寄ったり、本屋を回ったりできる。サーシャは市内の店で、パーツの調達などもできる。そして、その日はチェルノゴルスクのサーシャ宅に泊まり、ハカシア北部の観光を2日間ほどする予定だった。ベヤ村は南部にあるので、日帰りで北部を回るのは難しい。
と言うわけで、アバカン市に着いて、博物館には興味のないサーシャは、私をアバカン博物館前で下すと去って行った。この博物館はミヌシンスク博物館(25キロしか離れていないが、エニセイ右岸にあるのでクラスノヤルスク地方に属する)ほどは古くはない(ので、19世紀や20世紀初めに収集された記念物は少ないかもしれない)が、ハカシア民族の充実したホールもあるはずだ。しかし、修理中だった。2005年は開館していたが2009年は閉まっていた。もう修理は終わったかと思って来てみたが、カラチャコーヴァという個人のコレクション展、創作人形展、トゥヴァ写真展、恐竜展などの特別ホールだけが入場できた(恐竜展などは別途料金がいった、もちろん入場しなかった)。主要ホールの展示完成は、まだ何年もかかりそうだ。幸い、石柱と岩画の展示室は完成していたが、雰囲気を出すためか、暗室で効果的なライトアップがしてある。だから、撮った写真はどれもうまく写ってはいなかった。それぞれの石柱の見つかった場所と、何時代のものかを書いた小さなプレートが添えられているのがよかった。石柱は、元あった場所から運んだものだが、岩画も、元の岩から剥がしたものだろうか。剥がれたものだろうか。 ちなみに博物館の前庭にも石像と岩画の遊歩道があるが、説明プレートは全くない。 アバカン博物館の小さな売店には書籍も売っているのだが、市中の書店のどこよりもハカシア史の本が揃っている。それで、いつもここでどっさり買うことにしている。店員の女性と話してみると、この売店のオーナーは去年ハカシア伝統民族歳『トゥン・パイラム(初物の強度の発酵牛乳)』で知り合ったナルィルコフ氏だった。それで、あとからナルィルコフ氏から電話がかかってきて、私が探している本は売店には出していないが倉庫の方にあるから、入手できますよと言われた。彼はタシュティック時代(紀元前後)の古墳から出てきた石膏の面の写真展を各地で開催しているのだが、それを日本でやれないかとも相談された。(素晴らしい115枚もの写真だったが、日本ではタシュテック文化は知られていないせいか、できなかった) |
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チェルノゴルスク歴史博物館 | |||||||||||||||
その日は午後、マリーナが話をつけておいてくれて、チェルノゴルスク郷土博物館へ行った。20世紀初めからのこの辺の炭坑町を合わせて、1936年できたのが人口7万5千人、ハカシアで人口第2のチェルノゴルスク市で、その歴史はチェルノゴルスク炭鉱の歴史だ。
1772年(ハカシアがロシア帝国に合併されたころだ)発刊の本に、ハカシアの石炭のことが初めて載っているそうだ。19世紀、アバカン市の南のイズィフ山から採掘された石炭はハカシア塩業用に使われていた。1907年からのチェルノゴルスク炭田の初めのオーナーはヴェーラ・バランディーナと言う女性実業家だった。と言うより、クラスノヤルスク地方の豪商の家に生まれ、パリで学んだ有機化学者だった。博物館から贈呈された『チェルノゴルスク』と言う本によると、バランディーナ女史の研究をメンデレーエフやマリー・キューリーも支持していたとある。
博物館の職員が、抑留者墓地を知っていると言うので案内してもらった。サヤノゴルスクの大理石で2001年作られたものだ。ちなみに、市の公式サイトで名所として出ているのは、1987年起源の教会、1931年第8炭坑で起きた大事故の犠牲者をしのぶ碑、戦没者記念碑、戦時パイロットの記念碑、勝利の記念碑の他、この地元産キービックの大理石造りの抑留者墓地も含まれている。 |
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シラー草原 | |||||||||||||||
「自分が案内できるところは、去年、全部案内しましたよ、今度はどこへ行くのですか」と、気難しく言う。 白イユース川畔のクルガン群とスベ、スンドークは何度も訪れないと見たことにはならない、と思う。1度目には見なかったところもあるかもしれない。2009年はスラーヴァのやっと動くロシア製小型ジープのニーヴァだったが、今回はサーシャのイプサムなので、前年と違ったところに行けるかもしれない。 出発してみると、その差はやはり、大きかった。ニーヴァが登るのはつらそうで、時々止まってエンジンを冷やして(?)いた坂道も、(1996年製とは言え)イプサムは楽に登った (当然だ。アスファルト舗装もしてあることだししてあるから)。丘のゆるい斜面では羊が1群れ、2群れと草を食んでいて、その向こうには葉の落ちた白樺林が見えた。 アバカン市から160キロほどのイユース・シラ草原のシラ湖畔まで1時間半ほどで着いた。シラ湖、イトクリ湖 (『クリ』または「キョリ」はチュルク系語で湖だから、これでは『イト湖湖』となってしまう)やトゥス湖などのある草原を走るのが好きだ。イユース・シラ草原もクルガンが密集していて、その中を舗装された道が通っている。走ると、どちらを向いても草原とクルガンの立石だ。ちなみに、『シラ』はエニセイ語起源だそうだ。(エニセイ中流に古くから広く住んでいたエニセイ語族の多くは、ロシア人の記録がある18世紀ごろには周りの民族に吸収されて、今は、クラスノヤルスク地方北部のケット族だけが残っている、しかし、チュルク系のハカシア人が来る前は、エニセイ中流域に広く住んでいたので、地名が残ったのだろう)。
草原は枯れ草色だ。シックな色だ。 シラー博物館に寄るのも悪くないと言うことになった。草原の中を走る舗装の快適な国道から、シラー区行政中心地のシラ町の町道に入ると、急に道路の状態も悪く、ソ連時代の材木工場や乳製品コンビナート跡の醜い建物が見えてくる。醜さも3日で慣れるし、美しさも3日で飽きると言うが。工場などが順調に稼働していれば外見もそれほどではないだろうが...シラー町は人口9千人で、ハカシア共和国では7番目に人口が多い。保養観光地シラ湖に近いので明るい色の大きな店もあって、町の寂れ具合と無秩序さが『慣れない』目には目立つ。建設中の教会も周りにそぐわない壮麗さだ。 尋ねあてた博物館は、この日は休館だった。だが、スラーヴァが 「日本からの客が...」と言うと入れてくれた。館内に明かりもつけてくれ、案内もしてくれた。イユース・シラー草原は古代遺跡が特に多いところだから、博物館にも、マーラヤ・シーア旧石器遺跡の写真や説明書、発掘物や、スンドークで古代人が星座観測を行っていると言う想像画や、シラー湖岸で今はサナトリウムなど建っている場所で見つかった2500年前のミイラ(腕だけ)の実物などが展示してある。シーズン・オフは来館者が少ないが、夏季、シラ湖岸に観光客が多く集まる頃は、(水浴びにも飽きた)観光客が来館して、結構忙しいのだ、と職員が言っていた。 マーラヤ・シーア旧石器遺跡はノヴォシビリスク大学ラリチェフ教授が1975年発掘調査。3万4千年前とされている。 ラリチェフ教授によると、シラー草原の白イユース川畔のスンドークで、古代人が星座観測を行っていたという。博物館にはその様子を表わした大きな想像画も展示してある。スンドークとは、浸食から取り残されて準平原に孤立する一段高い丘陵(モナドノック)の一つで、頂点がたまたま直方体なのでスンドーク(長持ち)と言われている。スンドークはロシア名で、ハカシアではオンロ Онлоと呼ばれているらしい。(2009年同じくスラーヴァの案内で訪れた) |
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オンロ | |||||||||||||||
ゆっくり通り過ぎて、川岸に出る。ここで枯れ枝を集めてたき火をして、ヴァーリャさんの鶏が産んだ卵と、コーリャがあのブタから作ったベーコンのお弁当を食べる。白イユース川岸は寂しく、枯れた葉っぱが数枚残る黒い枝の灌木が川面に枝を伸ばして立っている。 2009年スラーヴァと、この一帯のクルガン群は見て回り触って歩いたが、サラート山にあるタルビック Тарпик要塞には登らなかった。スラーヴァの車がやっと動くような状態だったためだ。今回は近くまで行ってみよう。サラート山は頂上が岩場になっていてすぐ近くに見える683メートル(この地の白イユース川の高度が400メートルだから、200メートルくらいの高さ)のここから見ると形のいい山だ。イプサムで行けるところまで登り、あとは斜面を駆け上るスラーヴァの跡を必死で追った。白イユース川に面した斜面は絶壁になっているが、反対側はなだらかで、ここに平たい石を何枚も平積みにして、長さ90メートル、幅1メートル半、最大高さ90センチ(と、帰国後読んだ資料に数字が載っている)の石の壁が頂上を囲むように延びている。南斜面には尖った大石が並んだ壁が頂上を囲んでいる。
頂上の岩(砂岩)は垂直に立っているので、こんなところには必ず岩画がある。スラーヴァが身軽に岩場を駆け回って、岩画を探してくれた。何よりも、この高さから、枯れ草色の草原の中を白イユース川が三日月湖を残して蛇行して流れ、遠くに低い山の輪郭が青く見える眼下の眺望が素晴らしい。干上がって黒く跡だけが見える三日月湖もあった。春の増水期には、そこまで水が行くのだろう。見事な眺めだ。この場を離れられず、長い間見惚れていた。 スラーヴァがとなりのサラート山(別名、アシュパ山か)にオクネフ時代の『愉快な人物』岩画があると言う。岩画は『アシュパ Ашпа岩画』と言う。 その『愉快な岩画』の場所へスラーヴァが早足で案内してくれた。タルペック要塞を駆け下りたり、サラート山を駆け上ったり、スラーヴァの体力にはかなわない。山の途中に止めた緑色のイプサムが小さく見える。 その岩画をスラーヴァはニヤニヤして指さした。垂直な岩場に大きな縦の割れ目のせいで、周りの画はよくわからないが、オクネフ時代風(紀元前18―12世紀)の二人の人物はよく見える。二人の男性は神体か神輿か(宇宙的な崇拝物と言うらしいが)を持ち上げているようで、そのため異様な力が加わったのかどうか、激しく勃起している。この時代の岩画で勃起した男性描写は珍しくないそうだが、ここのは勃起のカーブがリアルと言うべきか。感心して私たち3人は長い間見入り、写真を撮り合ったり自己流の注釈を述べたりしていた。眼下に木のない草原が広がっている。 やがて車に戻り、サラート山麓のクルガン群を元来た方向に走る。この立ち石の一つにいい状態の岩画があると言うので寄ってみた。走る馬のレリーフだった。リアルな画だったがいつの時代のものかはスラーヴァに聞かず、写真だけ撮った。(帰国後調べてみると、タルキノ・クリューチと言うところのタシュティック時代の走る馬の岩画とそっくりだった)。車から降りたついでに、また何枚もクルガン群や白イユース川の写真を撮った。 舗装道に出ると一気にアバカンへ向けて250キロを走る。遠くの草原に、干し草の小山を積んだ荷車を馬が引いている。羊の群れが草を食んでいるのは、遠くから見るとぎっしり立ったクルガンの石のようにも見える。本当のクルガン石は羊のように丸くはないが。 途中のサレノオジョールヌィ村の近くにアンドロノヴォ時代のクルガンがあると言うので車を止めて、スラーヴァと一緒に探してみた。紀元前2千年紀に西から広まったアンドロノヴォ文化はハカシア盆地にはあまり跡を残さなかった。長期にわたってその前のオクネフ文化人やその後のカラスク文化人と共存していたとあるが、ハカシアにアンドロノヴォ文化の遺跡は少ない。 スラーヴァは駆け回って探していたが、どうしても見つからないと言う。前にあったはずのところがゴミ捨て場になっているそうだ。クルガンを発掘して窪地ができれば、確かに格好のゴミ捨て場にはなる。 スラーヴァをアバカン市で下す時ガイド料を渡した。聞いてみるといくらでもいいと言うので、1500ルーブル渡した。(2009年は彼の車で、ガソリン代は私持ちで1日1500ルーブルだった)。この日もチェルノゴルスクに泊まった。(当時1ルーブルは約2.7円)
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