クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
  Welcome to my homepage

home up date 2006年12月7日(校正08年6月24日)
 モスクワからクラスノヤルスク、また国境の話(1)
               2005年12月7日から12月24日
В Шереметьево-II. Ростов-на-Дону и Красноярск(с 7 декабря по24 декабря 2005 года)

(1)国境 (2)シェレメチエヴォ空港へ
  日本からモスクワ、さらにロストフ・ナ・ドヌ   出国できない
  クラスノヤルスク着   とぼとぼ
  ロシア居住許可証の延長   出発できるはずだった日の次の日、渋滞のモスクワ
  ハカシア共和国首都アバカン   いつ出発できるだろう、モスクワ生活
  帰りのモスクワ、インナばあさんと   『だめもと作戦』、後日

 国境

 また出入国の話です。国境を前にしてストップされたのはこれで3回目です。どれも出国しようとしていた時でした。そして、どれも理不尽だと私には思えました。この3回目、モスクワの日本領事館員の新保さんと言う人からは、
「お手上げだ、もう打つ手はない」と言われてしまったくらいです。

 1回目は2004年冬、モスクワからプラハへ国際列車で行こうとした時、途中のベロルシアを通り、ベロルシアの国境の町ブレストからポーランドに入ろうとするところで、ベロルシアのトランジット・ビザがないからと、列車から降ろされたのでした。ロシアからベロルシアに入るときにトランジット・ビザがないから入国ないと拒否されたのなら、まだ理屈が通りますが、ずっとベロルシアを通り過ぎて、出口のブレスト市で降ろされたと言うのは、ベロルシアの通過ビザも滞在ビザもないままに、ベロルシアに滞在させられたという納得のいかない措置でした。

 2回目は2004年夏、クラスノヤルスクから北京行きの国際列車に乗って、ロシアの国境を通過して中国へ入ろうとした時でした。このときは日本パスポートとロシア居住許可証を持っていました。日本人の旅行者は、その前年の9月からは2週間以内ならビザなしで中国に入れるようになったはずですし(在北京ロシア領事館に確認済み)、ロシアの居住許可証があればロシア国内は(閉鎖都市は除いて)自由に旅行でき、ロシアの国境も通過できるはずでした(クラスノヤルスクの外国人課もそう言っている)。ところがロシア国境の町ザバイカリスクの国境警備隊は、
「中国へのビザがなければ通せない」と言い、近くの州庁所在地チタ市に戻って中国出入国ビザを取ろうとすると、
「日本人は中国へビザなしで入国できるが、この居住許可証ではロシア国境は出られない、居住許可証を発行したクラスノヤルスクで出国ビザを取るように」と言われました。
 つまり、国境の田舎町ザバイカリスクと、その州庁所在地チタ市と、クラスノヤルスク市の外国人課は、それぞれ矛盾したことを言っているわけです。日本育ちの私にはエキゾチックでたまらない体験でした。

ロシア、チェコ

 そして3回目は2005年12月、関西空港から大韓航空でソウル経由モスクワへの往復の時でした。このコースはすでに同じ年の2月に無事往復したことがありました。
 その時は、事前に東京のロシア大使館に、日本パスポートとロシア居住許可証があれば、ビザなしでもロシアに出入国できるか確かめました。すると、大使館員(外務省)は専門分野が違うからわからないと言ったので、本国内務省に調べてもらったくらいです。新潟領事館員は
「できるに決まっているではないですか」と答えました。大阪は
「できます」と短い返答でした。実際、前回の2月は問題なくモスクワのシェレメチエフ空港から出入国できました。
 今回、12月に同じコースで行こうとしたときも、念のため在日大使館に問い合わせてみました。前回と今回は若干書類上で違いがあったからです。
 私のロシア居住許可証の有効期限は2006年2月19日までです。なぜなら、それを作成した時の日本パスポートの有効期限が2006年2月19日までだったからで、ロシア居住許可証には元になった日本パスポートの番号も記入してあります。ですから、ロシア居住許可証の延長をするには、まず元になる日本パスポートの更新をしなければなりません。新パスポートができると、(現ロシア居住許可証の照会もとの)旧パスポートの方は無効となります。つまり、ロシア居住許可証に記載されている日本パスポート番号と、現行の有効日本パスポート番号が、異なってしまったわけです。でも新パスポートを作らないとロシア居住許可証の延長ができないのですから仕方ありません。
 以上のことを、出発前、在東京ロシア大使館に相談しました。ロシア居住許可証の有効期限が切れていない限り出入国できる筈だし、念のため旧パスポートも持参するように言われました。大阪の方も、同じ答えでした。

 これだけ確かめて行ったにもかかわらず、出国が不可になったのです。日本ぼけした私には、唖然として次の行動が取れないくらいでした。

日本からモスクワ、さらにロストフ・ナ・ドヌ(ドン川のロストフ)市

 12月7日(水)、薄暗いシェレメチエヴォ空港に着き入国審査官の窓口を通過する時は、ちょっと緊張しました。パスポート、ロシア居住許可証、旧パスポートの順に提出すると
「まあ準備がいいのねえ」と、感心され、「あなた、ロシア居住許可証はあと2ヶ月で切れるから、そろそろ延長をしなければなりませんよ」と、わざわざ助言されたくらいでした。
「そうです、そのために新パスポートを取ったのです。でも、ロシア居住許可証に記入してある日本パスポートの番号確認のため、旧の方も持って来たのです」。
 これはとても理屈の通った事のように思えました。そして当然のことでパスしました。

ドンの名物というざりがに料理
モスクワからドンへ
車内コンパートメントで同室だった夫婦

 昔は出入国する時、税関でスーツケースを開かれたり、税関申告書通りかどうか財布の中を調べられたりして苦労したものでした。今はカードがあって現金を持たなくなりましたし、禁制の印刷物チェックなんて光ケーブルのインターネット時代は意味がないでしょうから、私のような貧しそうなおばちゃんは、もう税関通過の際には苦労しません。
 空港の出口には、ナターシャ・ベンチャーロヴァの頼んでおいた車が待っていました。モスクワでは、ナターシャの家に2泊し、9日夕方、モスクワのカザン駅から列車でロストフ・ナ・ドヌ市へ発ちました。
 ショーロホフの『静かなるドン』の舞台はこの近くです。モスクワ18時10分発、ロストフ・ナ・ドヌ翌日11時35分着のこの寝台急行列車の名前も『静かなるドン』号と言います。同じコンパートメント(車室)に乗り合わせたほかの3人はロスロフへ帰る地元の人で私が日本人と知ると、日本のことを質問したり、ドン・コサックについて私の知識を試したり、ロストフ市と周辺の見どころを教えてくれたりしまた。私とすればドン川を見るだけでも目的は達せられるのです。

 ロストフ・ナ・ドヌにいたのは1日半でしたが、知り合いが車を出してくれて、旧チェルカッスク(ドン・コサックの首都だった)や新チェルカッスク(フルシチョフ時代、1962年6月、悲劇的な大デモがあった)も回り、観光客好みのコサック・レストランにも入り、ドン川も数回渡りました。チェホフゆかりの地は回れませんでしたが。

クラスノヤルスク着

 11日の夕方7時にロストフ・ナ・ダヌの飛行場からクラスノヤルスクに向けて出発しました。4、5時間の飛行時間ですから、クラスノヤルスク着は時差の4時間を入れて朝の4時と思っていましたが、途中のチェリャービンスク市で着陸して長い間待合室で待っていたので、たぶん着いたのは6時を過ぎていたでしょう。直行便だと少しでも眠れたのに、こんなに小刻みに止まっては荷物を持って下ろされ、深夜の待合室で待たされ、再搭乗する時、寒いタラップの下でまた待たされていたのでは眠るどころではありません。チェリャービンスクから新たに乗ってくる乗客もいて、空いていた隣の座席がふさがったりします。
 朝6時過ぎのクラスノヤルスクは真っ暗なだけではなく、気温が零下30℃で、外に出てみると、迎えに来てくれるはずのディーマもいないのでした。

 ディーマは、朝早く起きて、時間に間に合うように到着して、空港の違うところを探していただけなので、まもなく、きょろきょろしている私を見つけてくれました。私たちは荷物も受けだして、飛行場からクラスノヤルスクの町へ向かいました。無事再会できるとは思っていましたが、これで安心です。暗い凍った地面でしたが、ディーマの自慢の車フォレスターですから、これも安心です。前日に電話をしておいた旧友で宿主になってくれるニーナさんはちゃんと、私たちの到着を待っているに違いありません。
 クラスノヤルスクには12日早朝から20日夕方まで滞在しました。
 クラスノヤルスクに9日間いた目的は、懐かしいクラスノヤルスクを見ること、古い友達や大学関係者達に会うこと、ディーマとヴァジムに再会して彼らの会社を見ること、ディーマが車を出してくれると言うので彼とハカシアまで(片道400キロ)行くこと、そして何よりも大きな目的は私の居住許可証の延長でした。
 ハカシアへ行ったのは、クラスノヤルスクを拠点としてどこかへ行きたいと思ったからです。ディーマが、年内にハカシアに行かなくてはならない用事があったので、私の滞在中に私の『小旅行』も兼ねて行ってもらうことにしました。

 ロシア居住許可証の延長

 1番の目的のロシア居住許可証の延長ですが、どうやってやるのでしょうか。私はもうクラスノヤルスクに住んでいませんし、仕事もしていません。正規の方法では超困難のようです。
 だいたいこの居住許可証を取ったときも、簡単ではありませんでした。あちこちの窓口を回って様々な書類を集め、クラスノヤルスク地方庁の外国人ビザ登録部に何度も足を運び、足りないと言われた書類を集め(1度に全部言ってくれない)、また外国人ビザ登録部で長い順番を待ち、やっと発行されたものでした。この、役所回りと書類集めというところが日本と違い、やたらと時間と忍耐がいる仕事で、主に当時同居者のセリョージャがやってくれたのです。私があのつっけんどんな窓口嬢のロシア語の相手ができるはずがありません。

ロシア居住許可証の表紙 8に日本パスポートの番号が記入してある

 ロシア・パスポートに準じるようなロシア居住許可証(ロシアの選挙権がないというだけが本物のパスポートと違うそうだ)を持っているというのはとてもいい感じでした。大学に勤めていた時も、他の外国人講師は、外国人だというので30%の所得税が引かれていましたが、私はロシア人講師と同じ13%でした(給料がどんなに少なくても税金が引かれる、ロシアは、2001年プーチンがフラット・タックス制を導入)。もともと超低賃金なのでどちらも日本円にするとたいした違いはありませんでしたが。また、ロシア居住許可証があると、この国でたびたび遭遇する法外な『外国人特別』料金を支払わなくてすみます。外国人が近づきにくい国境地帯へもこれがあると許可がでやすいようです。

 『正規』の方法での更新は、クラスノヤルスクに住んでいても、気が遠くなるほど煩雑です。あの窓口嬢の相手は私にはできません。それにあの順番。でも、『知り合い』を通じればできるかも知れません。
 それで、クラスノヤルスクで成功裏にビジネスをしている以上は、役所関係に『知り合い』がいるはずのディーマが金沢に来ていた11月頃、彼の知り合いを通してできないかと、問い合わせてもらったのでした。できそうだという意外な返事です。彼らロシア人はどの程度の可能性があったら、そう返事するのでしょうか。ともかく、『できそう』というのは『やりましょう』ということなので、この線で始めることにしました。

 それで、クラスノヤルスクに着いた12日(月)の夕方、その知り合い(の知り合い)が指定した時間に指定の場所へディーマの同僚のヴァジムと一緒に行きました。中年女性が事務室にいました。その女性は以前、ビザ登録部に働いていて、そちらへの『通路』を持っているということでした。事務室にあるものといえば、机とポットと外套かけの他は、携帯電話2台ぐらいで、絶えずかけたり受けたりしているのです。その日は私のパスポートなどを預かるだけで、明日返事をすると言われました。
 翌日、その女性から電話があり、また彼女の事務室に行くと、ロシア居住許可証より、3年間の臨時居住許可証を取ったほうがいい。そのためには、申請書、アパートの賃貸契約書、在職証明書、3万ルーブル(約千ドル)以上の残高のある預金通帳、白黒の写真6枚などが必要だから、ひとまずそれらをそろえて持ってきてほしい、と言われました。
 これらすべて集めることは難しくないとヴァジムは言いますが、果たしてそうでしょうか。私には聞いただけで、まずそろえられないと出鼻がくじかれます。ヴァジムたちはやり方を知っているようです。私がそろえられるのは自分の顔写真ぐらいなので、撮ってこようといったのですが、まだ、いいと言うのです。
 次の日、クラスノヤルスク地方庁外国人課の『外国人用パスポートとビザ取り扱いセンター』(これが表機関、あの携帯電話2機の女性エレーナ・ザハロヴァは「裏機関」なのか)へ出かけると、ロビーは人でいっぱいでした。奥のドアから用事が済んだ人が一人出てくると、次の人が入っていきます。きちんと1列の順番ができているわけではないので、それぞれ自分が誰の次なのか顔をよくおぼえていなければなりません。こういうところだと、正直に順番についていても、お昼になると、
「午前の部は終わりです、また2時に来てください」と追い出されることもあります。4時半ごろには、「今日はあと一人しか話ができません。後の人はまた明日来てください」と言われます。そうするとまた順番をつきなおさなくてはなりません。地方庁(県庁に相似)なので、クラスノヤルスク市からだけではなく、離れた市町村からもやってきます。クラスノヤルスク市に住んでいるなら、明日また来られますが、遠くの村からやってきた人ですと、どこかに宿泊しなければなりません。
 公務員の方も、大勢の人を相手にしなければならないせいか、物分りの悪い人をいつも相手にしているせいか、ひどくつっけんどんです。親切丁寧な日本の窓口に慣れている人にはなかなかエキゾチックな体験ができます。

 こんなところでは『知り合い』を通じて順番抜かしをする人がいますが、そうであるからには、普通に順番につきたくないものです。というわけで、ヴァジムはその外国人用パスポートとビザ取り扱いセンターの建物の前に来ると、内部に電話して、自分達はもう着いた、と知らせます。
「ロビーに入ってください」と言われて入ります。すぐに、奥のドアが開いて、
「日本国の女市民、カナクラ タカコ、入ってきてください」と呼ばれます。待っている大勢の人の間をすり抜けて、奥のドアに入ります。これがこの国のやり方なので仕方ありません。
 パスポート、ロシア居住許可証、古いパスポートといつものように3冊の書類を見せました。しかし、ここでも、解決しません。クラスノヤルスク警察住民課というようなところへ行くように言われました。そこの係に電話しておくからと言うのです。
 ヴァジムに連れられてクラスノヤルスク警察住民課を捜して行き着きました。

ヴァジム

 しかし、そこで、私のロシア居住許可証所持義務違反が明らかになってしまったのです。ロシア居住許可証を持っている人は6ヶ月に1度以上は、出頭して所在を明らかにしなくてはなりません。どこへ出頭しなければならないのか知らなかった私は、2001年取得以来一度も出頭したことがありませんでしたが、電話がかかってきたことはあります。
 日本パスポートに押されたロシア出入国スタンプの日付をたどっても、今年2月にロシアに来て以来10ヶ月はロシア領内不在が明らかです。こんな場合はロシア居住許可証が没収になると裏書には書いてあるのですが、それ以上追求されることなく、没収もされず、ただ(たぶん臨時居住許可証の)申請書用紙と一緒に返されただけです。申請書を書いているうちに、そこは昼休みの時間になり、例によって
「閉めるから2時にまた来るように」と言われて、出されました。

 午後は、私とヴァジムはクラスノヤルスク警察住民課へは戻らず、3通の書類を、クラスノヤルスク地方庁の外国人課で、私たちを順番抜かしさせて面会した制服を着ていない若い女性に、また届けました。
 その後は、クラスノヤルスクを去るまで私のパスポートなどはずっと彼女が手続きのために預かっていました。何か新しいことがわかった時には電話すると言うことでしたが、向こうから電話はありませんでした。ヴァジムは私に促されて、こちらから電話しましたが、
「責任者にまだ問い合わせられない、もう少し待ってほしい、また電話する」と言うだけで、手続きは進んでいるのか、『ゴムを伸ばしている(そんなわかりやすいロシア語の表現がある)』だけなのかわかりません。

 ハカシア共和国首都アバカン

 ロシア到着後1週間が過ぎた15日(木)と16日(金)はヴァジムたちと連絡を取りながら、元の大学や友達と会っていました。土曜日と日曜日はディーマと400キロほど離れたハカシア共和国へ車で行きました。
 ハカシアのアバカン市へは、1998年夏に森林研究グループと行ったのが初めて、2度目は、その後2001年晩秋にセリョージャと『エニセイ川上流の旅』に車で行き、3度目は次の年の冬、凍ったクラスノヤルスク・ダム湖を車で渡る旅にまたセリョージャと行き、4度目は2003年アバカンのまだ向こうのサヤノゴルスク市に実家のある学生と一緒に行き、5度目は2004年一人でトゥヴァ旅行の時通りました。今回は6回目ですが、クラスノヤルスクからアバカンまでの道のりがまたいいです。4度目の時は冬の太陽が遅く昇るハカシアの草原の写真がよくできて、その年の年賀状に使ったものでした。今回は、途中の道に建っている古代人の塚や脊柱のあるところで撮った写真をその年の年賀状に使いました。

拡大するにはここをクリック
古代人の塚
黒い白樺
貯蔵穴倉のジャガイモ
ナースチャ、台所
アバカン市の地図と名所

 また、途中の道に立っている黒い白樺も見ましたし。

 クラスノヤルスク滞在中は、モスクワ行きの飛行機を買うからと、(飛行機や列車のチケットを買うときはパスポートが必要と言う怖い法規があるので)パスポートを一時戻してもらった他は、ずっとエレーナ・ザハロヴァかもう一人の表機関の女性のもとにありました。
 パスポートを持たずに外出することは、普通、外国人はしてはいけないことらしいです。でも、日本から旅行者が来て、ちょっと外を歩いているとすぐ警察官に呼び止められてパスポートや入出国カードを調べられるのに、私は8年間いて路上で呼び止められたことがありません。私なんかどこから見てもアジア系ロシア連邦人に見えるのでしょうか。
 ちなみに、モスクワでタクシーの運転手にしつこく乗車を勧められた時、
「あんた、トゥヴァ人かね」と言われたくらいです。
「違うよ」と答えると、
「じゃ、ハカシア人かね」と言われました。その運転手には、ロシアの民族構成についてなかなか知識があるではありませんか。ヤクート人やブリヤート人かと言われなかったところがいいです。何せ、私は長い間クラスノヤルスクに住んでいたのですから、クラスノヤルスク近郊のアジア人に似てきたのでしょう。ですから、その運転手はなかなか正確に見抜いたわけです。おまけに、私がハカシア人でないと知ると、
「韓国人かね」と尋ねたくらいです。かなり近いところまできたわけです。

 ディーマと一緒にハカシアにドライブ(と私は思っている、目的地に着くことだけが目的ではなかったから)した時も、たいてい、車は停められて調べられるので、同乗者もパスポートなしではまずいのですが、何事もありませんでした。
 ロシアにはパスポートなしではホテルに泊まれないという、これもまた(中世のようなと私には思わる)法規がありますから、ハカシアではディーマの兄さん一家の家に泊りました。その家はアバカン市にあるのではなく、アバカンの隣のチェルノゴルスク市のはずれの第9村とかにあって、もちろん都市型住宅ではありません。ロシアで都市型住宅ではないということは、上下水道がないということです。
 ここで日本ぼけを切り捨て、台所の床板をめくり2ートル下の貯蔵穴倉(常にチルドの温度か)にはジャガイモが一面に積み重なっていることに驚き、零下30℃の中コートをはおって外のトイレに行き、物置小屋の戸を開けると凍った牛の足が並べてあるのを見てぎょっとし、さらに奥の戸を開けると蒸し風呂兼脱衣室で、脱いだ服を釘にかけてその横で蒸気にあたる、というエキゾチックな田舎生活を楽しむ方がいいのです。
 ナースチャという10歳の目のパッチリした女の子がいて、珍しがって、私の後をずっとついてくるのでした。コンタクト・レンズをはずしたら面白がっていましたが、こんなもの今さら。
 次の日、ディーマの親戚達がアバカン市見学コースを考えてくれましたが、私はアバカン市で旅行者が見るようなところは大体見ています。ロシアの地方都市で名所と言えば、ロシア正教会か、郷土博物館です。その教会も復興教会が多いのです。アバカンの郷土博物館は実は3回目です。でも、私はロシアの郷土博物館と言うのが好きで、たとえば地元クラスノヤルスクでは10回以上入ったでしょう。ガイドがいて、有料で45分くらい説明してくれます。それが、いつも興味深いのです。
 ちなみに、本屋で買った『アバカン市の地図と名所』というカードには教会が3つの他、おなじみ戦争記念碑、鉄道駅、バス発着駅、空港、中央郵便局、テレビ塔、スタジアム、中央銀行、大学、共和国政府役所、カジノ、動物園、アバカン川に架かる橋、青年会館、中央市場、劇場、人形劇場、子供公園、広告会社、映画館、文化センター、卸売市場、展示会館、オフィイス・ビル、噴水、並木道、さらにホテルが2軒と、デパートが3軒が載っています。ディーマの親戚の地元アバカンの人も、
「こんなものが名所になるのかねえ」と言っていました。車でアバカン市をぐるぐる回ったので、たぶん、上記の建物はみんな窓から見たでしょう。わざわざ降りて写真を撮ったところも2、3箇所あります。
 暗くならないうちにクラスノヤルスクに帰ろうと、早めに引き上げました。確かに暗がりの草原道路のドライブなんて面白くありません。でも冬なので日没は早いです。暗くても星空がきれいなはずでした。降りて見ようと思いましたが、数分で体ががちがちに凍り始めて、あわてて車に戻りました。車の窓から、満天の星空って見えないものです。

 12月20日(火)は、夕方モスクワに向けて飛行機で立つ日でした。その日までパスポートなどを『知り合い』に裏で事情を知るために預けてありました。「可能であろう」と言う答えだけで、どの程度『知り合い』が動き、どの程度の進展があったのかさっぱりわかりません。何しろ間に何人かが立っているので、「可能であろう」のニュアンスも少しずつ変わってきているでしょう。
 エレーナ・ザハロヴナからの電話を待っていましたが、飛行場へ出発間際になっても知らせがなかったので、こちらから電話して進展のなかったパスポートとロシア居住許可証を受け取って、その足でクラスノヤルスクを飛び立ちました。

 帰りのモスクワ。インナばあさんと

 クラスノヤルスクとモスクワの時差が4時間、飛行時間も約4時間ですから、クラスノヤルスクを夕方7時に出発すると、モスクワへはやはり夕方約7時に到着します。朝9時クラスノヤルスク出発の便もあり、値段は朝クラスノヤルスク出発便が片道約8000ルーブル(32000円)で、夕方出発便が4800ルーブルです。こんなに差があるのは、クラスノヤルスクのビジネスマンが朝モスクワに着けばその日1日仕事ができるが、夕方ではそうは行きません。モスクワからクラスノヤルスクの帰りの便は夕方モスクワを出発すれば朝クラスノヤルスクに着くという便の方が値段が高いのです。そうすればモスクワで無駄な1泊をしなくてすみます。
 でも、私は夕方着いてその日はモスクワに泊るだけという安い便でモスクワに立ちました。前回2月に来た時は機中泊で、次の日のモスクワ滞在がかなり疲れたからです。モスクワでは13日前に日本から着いた時と同様、ナターシャ・ベンチャーロヴァが私のために空港へタクシーを差し向けアパートも用意してくれていました。彼女のおかげで、モスクワ滞在が1泊増えても、あまり心配しなくてもいいのです。

ナターシャのアパートのあるモスクワ南部

 ナターシャはニキータとイルクーツクに住んでいますが、モスクワに自分のアパートを持っていて、それを賃貸ししていました。でも、イルクーツクにアパートを買うため、今それを売ろうとしているのです。昔ですと、アパートは交換するものでしたが、今では個人財産になった不動産は売却することができます。
 しかし、ロシアのことですから、簡単ではありません。売却という仕事を完遂するために、数ヶ月の予定で、ナターシャはイルクーツクからモスクワに出て自分のアパートに住み込んでいたのです。不動産売却のためにどんな書類が必要なのか、気も遠くなるほどです。たとえば、病院へ行って自分は精神的に正常な人間であるという診断書まで必要なのです。ナターシャはそれらすべてをそろえ、買い手である銀行(か、その代理者)へ提出したようです。銀行がナターシャからアパートを一旦購入して、居住希望者にクレジットで売るわけです。
 私が12月7日に日本からモスクワについた頃は、まだ書類が審査中で、ナターシャはアパートに住んで結果待ちの状態でした。結果が出るのは年末になるようで、それまでずっとナターシャはモスクワにいるのは退屈だから、私がモスクワに戻ってくる12月20日頃はカレリア地方へ行っているが、アパートはまだ売却されていないので、私が使ってもかまわない。それで、ナターシャのお母さんのインナさんに来てもらって、私と一緒に住んでもらうよう段取りをたてておいてくれたのです。

 モスクワ経由でロシアに出入りする目的の1つは、今はモスクワにいるセリョージャに会うことでしたから、前もってクラスノヤルスクから電話で連絡をしておこうとしました。でも通じません。それなら、電報を打てばいいよと、クラスノヤルスクで私の宿主のニーナさんに言われました。なるほど。でも、電報を打つには郵便局の電報窓口へ行かなければなりません。ロシア人の若い友人と散歩していた時、クラスノヤルスク中央郵便局へ入って窓口を探しました。やっと見つけた窓口はやはり順番ができています。用紙を取ってきて、その友人に口述筆記で書いてもらいました。宛先の住所なども電文内容に含まれるというところが変わっています。自分で書けないこともないでしょうが、そうすると、どこか不備があったりして、ようやく自分の順番が来て窓口にさし出しても、書き直しさせられ、また順番を付きなおしたりして時間がやたらかかるでしょう。
 電報は電文を宛名人に届けるのでしょうか、それとも宛名人近くの電報局が電話で読み上げるのでしょうか。自分の家に電話がなかったり、あってもその電話が市外通話できなかったりする時には、電報は通信手段として『便利』のようです、この国では。
 第一、こんなに順番がついているところを見ると、かなり利用されているのでしょう。友人に手伝ってもらったおかげで無事、打つことができました。

 さて、モスクワ、国内線ドモジェドヴォ空港に着いて、ナターシャの代わりにインナさんがいてくれるというアパートに入ってからは、彼女とお付き合いすることになりました。インナさんは、
「ナターシャが都合悪いなら、私が面倒見ましょう」と言ってくれたそうです。
「私のママは、なかなか性格が難しいわよ」と予告は受けていましたが、何日も同居するわけでなく、私は外国人ですから平気です。
 しかし、自分の意見とやりかたを絶対的に人に押し付ける、自分の過去の履歴をあからさま自慢する、言い出したら人の意見を聞かないなど、確かに付き合うのに難しそうでした。私が、
「明日11時にセリョージャと会う予定です。電報を打っておきましたから、届いていれば来るでしょう」とモスクワ滞在中の予定を言うと、
「あんた、何か、顔に塗るもの持ってるの。モスクワっ子がどんなに上手にお化粧してるか知ってるでしょう。あんた、それでは負けるわよ」だって。無理もないです。クラスノヤルスク飛行場でディーマたちに分かれるとコンタクトをはずし、分厚いガラスのめがねをかけ、化粧気なしで『着たきりすずめ』だったのですから。モスクワっ子と張り合おうとは思わなかったのですが、一応コンタクト・レンズをはめ、ちょっと化粧しました。着たきりすずめは仕方がありません。
 しかし、インナばあさんが私の『デート』に付き添っていくと言うのにはちょっと驚きました。ロシアでは拉致されることもあるし、それではナターシャから依頼されたことを成就することができないではないか、と言うのです。言い出したら聞かない人のようなので、好きなようにさせました。もしセリョージャが現れれば、この二人は釣り合いが取れると思ったくらいです。
 現れたセリョージャは、例によってインナばあさんのことを『国家保安部』の手先だとかなんだとか言うことでしょう。約束の11時よりかなり前に、約束の場所に着きました。なぜなら、その日はそれ以外の予定がなかったからです。しかし、インナばあさんの期待に反してセリョージャは現れませんでした。なぜでしょう。私も待ちくたびれてもう一度電話してみました。すると今まで通じなかった電話が、ふと、通じました。それまで通じなかったのは、電話代不払いか、電話局の機械の故障か、電話線が壁から抜けていたかで通話不能になっていたか、呼び出し音にあえて答えなかったからでしょうか。
「電報読んだ?待ってるのにどうして来ないのよ」と言うと、読んでない、もし私が望むなら、空港まで送っていってもいい、ということです。夕方5時にここに来られると言うのです。それより早くはどうしても着けないのだそうです。私の飛行機は10時50分発ですから、それまで話す時間もありそうです。

待合場所の地下鉄駅近くのショッピングセンター
セリョージャを待ちくたびれたインナさん

 アパートは、シェレメチエヴォ国際空港とは、町の反対側にあります。インナばあさんが言うには、この雪空、道はラッシュで行き着くまでに何時間かかるかわからない、3時ごろ出発せよ、ということです。タクシー会社に電話してみると5時半頃でいいだろうということです。
「この雪道では、3時に出発しなければ絶対間に合わない。心の中で神様に雪が止むように祈るがいい」とインナばあさんは不満そうです。さらに、5時には、また私に付き添っていくと言うのです。なぜなら、セリョージャが私を拉致するかもしれないし、または、私がセリョージャと別れられなくてタクシーに遅れるかもしれない、それではナターシャに対して責任を果たせられないから、と言って聞きません。
 インナばあさんの好奇心はまたも裏切られ、5時15分になってもセリョージャは現れませんでした。インナばあさんのお許しでは、待っても5時15分まで、なのでした。そこからアパートまでは10分ほどかかるので5時30分のタクシーに間に合うためには絶対に5時15分までしか許せない、5時半に来るタクシーに乗らなければ、この雪道の渋滞に飛行機には間に合わない、ということです。セリョージャは来ると嘘をついたのだ、という断罪です。
 結局12月21日はモスクワ観光もなく、インナばあさんにお付き合いをお願いしただけで過ぎることになりそうです。クラスノヤルスクにもう1日いたほうがましなくらいでした
<HOME ホーム>     <ページのはじめ>      <NEXT 次のページ>