up date | 2006年12月7日 | (校正・追記 2008年6月24日、2018年9月23日、2019年11月22日、2020年12月19日、2022年4月8日) |
19−(1) モスクワからロストフ、クラスノヤルスク、また国境の話(1) 2005年12月7日から12月24日 |
(1) 国境 | (2)ハカシア共和国アバカン市 |
日本からモスクワ | 帰りのモスクワ、インナばあさんと |
追記 モスクワからロストフ・ナ・ダヌ | シェレメチエヴォ空港へ |
追記 ロストフ・ナ・ダヌ | 出国できない |
追記 ドン・コサックの大村 | 出発できるはずだった日の次の日、渋滞のモスクワ |
追記 クラスノヤルスク着 | いつ出発できるだろう、モスクワ生活 |
ロシア居住許可証の延長 | 『だめもと作戦』、後日 |
国境 | ||||||||||||||
また出入国の話です。国境を前にしてストップされたのはこれで3回目です。どれも出国しようとしていた時でした。そして、どれも理不尽だと私には思えました。この3回目、モスクワの日本領事館員の新保さんと言う人からは、 「お手上げだ、もう打つ手はない」と言われてしまったくらいです。 1回目は2004年冬、モスクワからプラハへ国際列車で行こうとした時、途中のベロルシア(ベラルーシ)を通り、ベロルシアの国境の町ブレストからポーランドに入ろうとするところで、ベロルシアのトランジット・ビザがないからと、列車から降ろされたのでした。ロシアからベロルシアに入るときにトランジット・ビザがないから入国できないと拒否されたのなら、まだ理屈が通りますが、ずっとベロルシアを通り過ぎて、出口のブレスト市で降ろされたと言うのは、ベロルシアの通過ビザも滞在ビザもないままに、ベロルシアに滞在させられたという納得のいかない措置でした。 2回目は2004年夏、クラスノヤルスクから北京行きの国際列車に乗って、ロシアの国境を通過して中国へ入ろうとした時でした。このときは日本パスポートとロシア居住許可証を持っていました。日本人の旅行者は、その前年の9月からは2週間以内ならビザなしで中国に入れるようになったはずですし(在北京ロシア領事館に確認済み)、ロシアの居住許可証があればロシア国内は(閉鎖都市は除いて)自由に旅行でき、ロシアの国境も通過できるはずでした(クラスノヤルスクの外国人課もそう言っている)。ところがロシア国境の町ザバイカリスクの国境警備隊は、 「中国へのビザがなければ通せない」と言い、近くの州庁所在地チタ市に戻って中国出入国ビザを取ろうとすると、 「日本人は中国へビザなしで入国できるが、この居住許可証ではロシア国境は出られない、居住許可証を発行したクラスノヤルスクで出国ビザを取るように」と言われました。 つまり、国境の田舎町ザバイカリスクの公務員と、その州庁所在地チタ市の出入国課と、クラスノヤルスク市の外国人課は、それぞれ矛盾したことを言っているわけです。これは笑い話でしょうか。 そして3回目は2005年12月、関西空港から大韓航空でソウル経由モスクワへの往復の時でした。このコースはすでに同じ年の2月に無事往復したことがありました。 |
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日本からモスクワ | ||||||||||||||
購入した航空券は往路(ロシア居住許可証の有効期限内の日時); 12月7日13時40分関西国際空港発、15時35分インチョン国際空港着、同日17時10発インチョン空港発 20時40分シェレメチエヴォ空港着 復路(ロシア居住許可証の有効期限内の日時); 12月21日22時40分シェレメチエヴォ空港発、12月22日13時00分インチョン国際空港着、14時25分インチョン空港発、16時05分関西国際空港着 という大韓航空便で合計で80,730円でした。 12月7日(水)、薄暗いシェレメチエヴォ空港に着き入国審査官の窓口を通過する時は、ちょっと緊張しました。パスポート、ロシア居住許可証、旧パスポートの順に提出すると 「まあ準備がいいのねえ」と、感心され、「あなた、ロシア居住許可証はあと2ヶ月で切れるから、そろそろ延長をしなければなりませんよ」と、わざわざ助言されたくらいでした。 「そうです、そのために新パスポートを取ったのです。でも、ロシア居住許可証に記入してある日本パスポートの番号確認のため、旧の方も持って来たのです」。 これはとても理屈の通った事のように思えました。そして当然のことでパスしました。 昔は出入国する時、税関でスーツケースを開かれたり、税関申告書通りかどうか財布の中を調べられたりして苦労したものでした。今はカードがあって現金を持たなくなりましたし、禁制の印刷物チェックなんてインターネット時代は意味がないでしょうから、もう税関通過の際には苦労しません。(1980年代と2005年を比べて) |
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追記; モスクワからロストフ・ナ・ダヌ | ||||||||||||||
12月7日夜の9時近くモスクワ・シェレメチエヴォ空港着。空港の出口には、2005年2月にも世話になったナターシャ・ベンチャーロヴァが差し向けてくれたタクシーが待っていた。2月は、ナターシャのモスクワの家は賃貸ししてあって、宿泊できなかったが、今回は、ナターシャが短期間だがたまたま滞在していた。だからナターシャの家に2泊した。 ナターシャはかつてモスクワの外資系会社で活躍していたそうだが、イルクーツクのニキータと結婚、モスクワの家を売却しようとしている。ナターシャによれば、気の遠くなるような煩雑な手続きが必要だとか。私には意外な書類の例として、売人が精神異常ではないという医師の証明書がある。ふらふらっとして自分の住んでいる家を売る人を止めるためか、それとも騙されていないという証明のためかと、その時私は思った。後のことだが、家は銀行が買ったそうだ。その銀行が希望者により高い値段で売るのだろう。当時個人の不動産業は未発達だったのかも。家の売却には数ヶ月要するようで、そのために、ナターシャは次男で2歳のチーホンを連れてモスクワに滞在していたのだ。 クラスノヤルスクでのかつてのパートナーのセルゲイにもモスクワ到着のことは知らせてあった。空港から家までのタクシーの中からも電話した。滞在先の住所は知らせてあった。ナターシャの家はモスクワの南で、彼の住むアレーホヴォ・ズーエヴォ区からはかなり遠い。モスクワのどこへでも、アレーホヴォ・ズーエヴォ区から出てくるには数時間かかる。(セルゲイのことは前ページで詳しい)
12月9日(金)。12時頃、昨日約束していたのか、セルゲイが約束の場所(ショッピングモールのロビーだったか)に来る。モールの喫茶店で2時間ほど話して外へ出てぶらぶら歩こうかと思ったが、彼は寒いと言って去って行った。双方に実りのない再会だった。このようにモスクワでは『ヘラクレス』以外は不毛だった。だから2006年に書いた紀行文ではモスクワを飛ばしたのだろう。セルゲイはこの前も後も日本の私にメールをよこした。自分の不遇の原因は外部のみにあると思っているセルゲイは、クラスノヤルスクにいるときはクラスノヤルスクから、モスクワにいるときはロシアから脱出できれば日の目を見れると信じていたようで、彼の「自分は殺される」「自分は病気なので治療したい」などなどと言う文面は、つまり日本へ行きたいと言うことの表現だったのだろう。しかし、私が身元引受人になって彼を日本へ呼ぼうとは全く考えていなかった(当時個人招待には帰りの旅費も負担できる程度の経済力のある身元引受人が必要だった)。なぜ、2度もわざわざモスクワへ行って彼に会おうとしたのか。なぜ彼のメールに短くてもたまにでも返事を出したのか。彼は、見え透いてはいたけれども、私を愛してると書き続けていたから(そこがぐうたらロシア人らしい)。彼の陰謀論、嘆願の言葉、罵倒の言葉を読むのも、本人とは1万キロ以上も離れているから、それなりに好奇心から読んだのかも。。2度目のモスクワはロストフ・ナ・ダヌへいく中継点のモスクワだった、ともいえる。
この日4時に、ピョートル・クレシシェフКрещевさんに会った。ロストフ・ナ・ダヌには知り合いのコンスタンチン・クレシシェフさんがいて、彼の訪問のことを伝えると自分の弟のピョートルがモスクワにいるから世話になったいいと勧めてくれたのだ。ピョートルさん宅にはお世話にならなかったが、ロストフ行きの列車が出発する駅まで送ってもらうことにした。ナターシャさん宅まで迎えに来てくれたピョートルさんに日本からのお土産を渡すと、わざわざ自分の家まで寄り道して車の中で待っている私にお返しのプレゼントを持ってきてくれた。律儀な人だ。後のことになるが、帰途のモスクワでも電話でだが、困っていた私に親切な申し出をしてくれた。 モスクワのカザンスキー駅まで送ってくれた。そこから、18時10分発の寝台特急列車『静かなるドン』号に乗ってロストフへ出発したのだ。 列車は翌12月10日11時35分に到着した。乗車料はサービス料(150ルーブル)も入れて1,942ルーブル。17時間半というのは長いようだがロシアではちょうどよい乗車時間だ。コンパートメントの同室のロシア人とも仲良くなれる。同室の3人はロストフへ帰る地元の人で私が日本人と知ると日本のことを質問してきた。ロシアは教育・医療は無料だ、ソ連崩壊14年後の当時でも。しかし、無料の医療は質が高くなかったり順番待ち(例えば、検査や手術の)が長かったりするのは、その前の時代からだが、今では有料で選べれるようになった。が、2005年頃には私立の病院も大都会以外ではあまり充実していなかったと思う。質の高い医療はとても高額だった。私が日本で癌の手術をして総額約200ドルだったというと、驚いていた。癌はまだ不治の病のイメージがあり、その手術を安価に済まし、こうやって『静かなるドン』号に乗って旅をしていると言うことが、普通でないように思えたのかも知れない。(日本の200ドルも2004年当時の高額医療補助つきだったはず)。
ショーロホフの『静かなるドン』を昔読んだことがあって、それは重苦しい内容だった。1958年のソ連製ビデオ(監督ゲラシモフГерасимов)も、2015年のウルスリャクУрсуляк監督のビデオの日本語版も持っているが、気が重くて視聴できない。 ロストフ出身の彼らは、ロストフ市とその周辺の見所について教えてくれたりした。 |
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追記; ロストフ・ナ・ダヌ | ||||||||||||||
ロストフ駅には定刻に到着。迎えのコンスタンチン・クレシシェフさんが遅れたので、プラットホームで寂しく立っていたが、やがて現われたコンスタンチンさんにロストフ・ホテルに案内された。これは予約料も入れて1泊1,400ルーブル。この日はコンスタンチンさんの会社を見せてもらったり、市内を車で回ってもらったりした。レストランではこの地方の名物だというザリガニ料理をごちそうになる。広いドン川は心を込めて見渡した。
ドン川は、モスクワからたったの220キロ南の標高180メートルの丘陵(中央ロシア高地といって、ここからヴォルガ、ドン、ドニエプルなどの東ヨーロッパの大河の支流・源流が流れ出している)から南東へ流れ、同じく北からドン川に並行に南へ流れてくるヴォルガ川と60キロメートルほど近くまで来たところで(カラーチャ・ナ・ダヌ市付近。その地点ではドン川はヴォルガ川より水面が40メートル高い)南西に流れを変えて、ヴォルガから離れて黒海アゾフ海のタガンローグ湾に注ぐ延長1870キロの大河だ。(一方ヴォルガの方は、近づいたドンとは離れ、東のカスピ海に注ぐ)。ドンがヴァルガに最も近づくカラーチャ・ナ・ダヌ市近くから、ヴォルガ川のヴォルゴグラード付近まで延長105キロの運河が1952年に開通している。そのヴォルガ・ドン運河によってロストフ・ナ・ダヌは黒海、アゾフ海、カスピ海、白海、バルト海の五つの海とつながるようになった。(白海やバルト海とはそれ以前建設の運河によってがヴォルガ川と結ばれている)。ドン川がタガンローク湾に流れ出る手前46キロのところあるのがロストフ・ナ・ダヌ市だ。市の大部分は右岸(北)にある。モスクワからは1092キロ。2020年は114万人都市でロシアでは10番目の人口だ。 『ドン』とはスキタイ・サルマタイ語の川・水の意で、後述のタナイスはギリシャ神話で川の神。 ロストフ・ナ・ダヌの町は1749年エリザヴェータ・ペトロヴナ女帝によってオスマン・トルコとの税関ができたのが始まりだ。1760年に税関の近くに要塞ができ、北方の古都ロストフの大主教、ディミトリーにちなんでロストフの名が与えられた。ディミトリー砦の近くにできた集落ロストフは次第にこの地方の商業の中心になり、1796年には古都ロストフと区別するためロストフ・ナ・ダヌ市となった。 ロストフ・ナ・ダヌ市近辺、現在のロストフ州の歴史は古い。ドン下流地方やヴォルガ下流地方、ドニエプル下流地方、つまりウクライナの草原には、先史時代からキンメリア人、スキタイ人、サルマタイ人などが住む土地だった。またギリシア人達は紀元前8世紀頃から地中海世界各地に植民市を形成しはじめていた。その世界の東部、黒海沿岸に作られた植民市(ギリシャ人と現地人による)についてもギリシャ時代の歴史家が、以下のように言及しているそうだ。クリミア半島からドン川下流を含む黒海北西岸にも大型植民市が作られ、内陸の遊牧民との交易で富んだ。植民市の中で最も北にあったのがタナイス川(現在のドン川。しかしギリシャ人のタナイスは北ドネツ川をドンの源流としていた)河口近く、現ロストフ・ナ・ダヌ市の西30キロに、紀元前3世紀頃できたタナイスТанаис市だ。タナイスは紀元後1世紀頃から、クリミアのパンティカパイオン(現ケルチ)を首都とするギリシャ人のボロポロス王国に含まれるようになった。タナイス市はパンティカパイオンに次ぐ政治経済文化の中心であり、タナイス川を古代の歴史地理学者はヨーロッパとアジアの境と見なしていた。4世紀頃タナイスはゴート人やサルマタイ人の襲撃によって次第に衰え、紀元5世紀頃には廃墟となった。(19世紀発掘が始まり、現在は考古学博物館保護区『タナイス』となっている)
16世紀末の黒海沿岸の地図では、南部が広くオスマン領 北部はオスマンの保護国クリミア・ハン国(*)で、東部の内陸がワラキア公国(1330-1859,現ルーマニア南部)とモルダヴィア(ルーマニア人によるモルダヴィア公国1359ー1859、現在モルダヴィアという地方名は、1)ルーマニア領モルダヴィア、2)モルドヴァ共和国、3)ウクライナ領モルダヴィアについて用いられる)。クリミア・ハン国の西北がポーランド王国とリトアニア大公国(連合共和国・王国)、しかしその南部ドニエプル沿岸の荒野と呼ばれていたステップ地帯には半独立のザポロージェ・コサックが住む(**)。クリミア・ハン国の東北はロシア帝国領だがドン川流域の荒野にはドン・コサック自治集団が住むも、帝国の半支配下にあった。カフカスにはチェルケッスィ人が住んでいた。
近代になって17世紀末、領土の膨張を狙うロシアのピョートル大帝によるアゾフ遠征(コサック隊も参加)で、アゾフ海はロシア領となったが、18世紀初めのプルート川の戦いによってロシア帝国はアゾフをオスマン・トルコに返還。とはいえ、ロシアの領土膨張、南下政策はその後も成功しつつあった。1735−1739年の露土戦争後のニシュ条約でロシア帝国はアゾフを領有することになったが、要塞建築は禁止された(上記、エリザヴェータ女帝)。 1768−1774年の露土戦争ではクリミア・ハン国をオスマン帝国から切り離し、1775年にはザポロージェのシーチ(コサックの自治連合、前記)を滅亡させ、1784年にはクリミアを併合。そこで、かつてのクリミアとザポロージェ領はノヴォロシア(新しいロシアの意)と呼び、ロシア帝国の獲得領土の一つとなった。この ノヴォロシアは歴史的地名。現在のクラスノダール地方の黒海への港町ノヴォロシイスクとは区別。ロストフ・ナ・ダヌはアゾフ海に近いが、ノヴォロシイスクはその南で直接黒海に面している。
『新しい』土地は領土膨張を成功裏に勧めたエカチェリーナ2世(在位1762−1796)によってロシアの貴族に分配され、農奴とされた農民が人家もまばらなステップの開発のために送り込まれた。エカテリーナ2世は、ドイツ人、ポーランド人、ギリシャ人、アルメニア人などの入植者を新たに征服した土地に招いた。 ちなみに、ロストフ・ナ・ダヌ市内東部の現在のプロレタルスキー区には、かつて、ナヒチェヴァン・ナ・ダヌ市と言って1928年までは別の市があった。これは、1779年にエカテリーナ2世の命によりロストフ砦の東方にクリミア半島から渡ってきたアルメニア人による別の集落、ノル・ナヒチェヴァン Нор-Нахичеванだった。ロシア帝国に併合されたかつてのクリミア・ハン国 からキリスト教のアルメニア人を移住させたのだ。移住アルメニア人は納税や軍役免除の特権を与えられ、信教の自由も認められて、1838年には市名はナヒチェヴァン・ナ・ダヌと改名、発展した。ナヒチェヴァン・ナ・ダヌ市には19世紀末までに6軒のアルメニア使徒教会が建った。エカテリーナ2世はナヒチャヴァン人(またはドンのアルメニア人とも)に周辺の土地も与えて優遇した。(女帝はそれまでイスラムでその頃新たにロシア領となったダゲスタンのキズリャールやアストラハンにもアルメニア人の移住を促し優遇してきた)。19世紀末のナヒチェヴァン・ナ・ダヌ市の人口は3万2千人。そのうちアルメニア使徒教会教徒は1万9千人、ロシア正教教徒は1万千人、ユダヤ教は600人、イスラムが200人などとなっていた(ウィキペディアによる)。前記のように1928年にはナヒチェヴァン・ナ・ダヌ市は、ロストフ・ナ・ダヌ市に合併され、同市のプロレタルスキー地区の一部になった。現在も多くのクリミア・アルメニア人の子孫が住んでいて、非公式にはナヒチェヴァンとよばれている。
ドン川やアゾフ海の水運と、ロシアからカフカースへと向かう交易路が交わる地理的な位置により、ロストフ・ナ・ダヌは急速に発展した。ロシア革命後のロシア内戦では、交通と産業の中枢であるロストフ・ナ・ダヌは白軍と赤軍が争奪する戦地となった(ショーロホフの『静かなドン』を読み返してもよかったが)。1928年にはロストフ州が成立し、19世紀以来コサックのドン軍県の行政中心地だったノヴォチェルカッスクからロストフ・ナ・ダヌに中心が移った。同年、ロストフ・ナ・ダヌは、ノル・ナヒチェヴァン(ナヒチェヴァン・ナ・ダヌ)市も併合した。 コンスタンチン・クレシシェフさんの会社を見て、食事をしてドンを見たのはまだ明るい時間だったが、市内見物の頃は暗くなっていた。だから写真が残っていない。案内してくれた会社の支配人アレクセイさんやヴラジスラフ・カミオンコВладислав Камионкоさんによると、ロストフにはアルメニア人が多いとのこと(そのときはなぜか知らなかった、ただ、現在のアルメニアに比較的近いからかと思った)。彼らロシア人はアルメニア人に対してあまり好意的な口調ではなかった。たとえ、ごく最近(18−19世紀)ロシア領になったというロストフの地元民(ロシア人)にとっても、そこに住む他の民族には冷たいのか。ロストフ市の民族構成では90%のロシア人に次いで2位が4%のアルメニア人、3位のウクライナ人は2%など。 |
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追記・ ドン・コサックの大村 | ||||||||||||||
ロシア帝国内で大幅な自治を認められていたドンコサックの首都、かつ最大の都市ノヴォチェルカッスクの20世紀初めの住民7万人は大半がコサックとコサックの家族で商人や農民はほとんどいなかったそうだ(ウィキペディアから)。ドン・コサック軍管区の行政長官であるアタマンの住居はアタマン宮殿と言った。マトヴェイ・プラトフ像が、アタマン宮殿(現プラトフ広場)前に立っている。これはプラトフ生誕100周年の1853年に建てられたが、革命後、帝国政権に仕えたアタマンの像は撤去された。革命時とその後の内戦時代には反ボリシェヴィッキの大勢力だったドン・コサックだからだ。プラトフが立っていた台座にレーニン像が建てられた。しかし、ソ連崩壊後の1993年、また同じ台座の新たに製作されたプラトフ像が建ったのだ。ポーズはほぼ同じだ。 ロストフ・ナ・ダヌにはプラノフ像は2体ある。もう1体は昇天大聖堂前の広場にあって、台座も入れて8メートルの騎乗のプラトフ像が2003年、プラトフ生誕250年の年に設置された。この像のある広場からプラトフ大通りがのびていて、その途中の旧アタマン宮殿前には、前記1993年に再建されたプラトフ像がある。(アタマンはコサックの隊長) ノボチェルカッスクではノヴォチェルカッスクの昇天大聖堂(Вознесенский собор (Новочеркасск)と北凱旋門に案内された。昇天大聖堂は全ドンコサック軍団の精神的中心だ(だった)。1890年から1905年にかけて建てられた巨大な大聖堂で、ロシアのネオ・ビザンティン建築様式で、5つあるドームは最も高いもので約75m。この聖堂のある広場には騎乗のプラトフのほかに、17世紀イヴァン4世の命により、シベリア征服に向かったコサック首長イェルマークの像もある(シベリア侵略の先鋒はコサックだったからか)。だから聖堂前の広場はイェルマーク広場とも言う。高さは4メートルで1904年に建てられた。1581という数字はシベリア行軍に出発した年だそうだ。
案内してくれているカミオンコさんは、1962年のノヴォチェルカッスク虐殺のについて言葉を漏らした。私は全くその事件については知らなかった。カミオンコさんが説明してくれたのは以下のこと。 <1962年6月1日-3日に食糧不足や労働条件の悪さに端を発した市民の『暴動』が起こった。機関車工場でのストライキに始まり、労働者らがフルシチョフ書記長の肖像画などを焼いて賃料や配給の増加を求め、翌日には工場から市街地へと蜂起が拡大し、市党委員会などへ市民が乱入する騒ぎになった。これはソビエト連邦下で起こった最大級の労働者蜂起であった。しかし、ソ連軍によりデモ隊に対する射撃が行われるなど乱暴に鎮圧され多数の死者を出した>。これは極秘にされていて、1980年代ペレストロイカ時代にやっと一部が報道された。1996年エリツィンが『暴動』者の被処罰者(死刑・懲役)の名誉回復をした。(ウィキペディアより) 11時前にはスタロチェルカッスカヤ・スタニーツァСтарочеркасская станица(スタンは陣営、スタニーツァはコサックの大村・群)に着いていた。スタロ(旧)チェルカッスカヤ(1805年まではチェルカッスクЧеркасск)はドン・コサックの歴史だ。その名の初出は1570年とされている。17世紀中頃には軍事大聖堂(木造)も建てられているほどドン地方のコサックの中心地となっていた。17世紀から18世紀初めはステンカ・ラージンの蜂起やブラーヴィンКондратий Булавинの反乱・蜂起の拠点の一つだった。しかし、ドン・コサックは17世紀半ばにロシアの強化にともなって独立を失い、19世紀から20世紀にかけてロシア所属の最大の非正規軍となったのだ。 ところでチェルカスィ Черкасы 、チェルカッスィЧеркассы、チェルケスィ Черкесыという呼び名がよく出てくる(地図に)。スタロチェルカッスカヤは1805年まではチェルカッスクといったが、それは『ザポロージェ・チェルカスィがアゾフより60露里のところに新しい町を作り自分たちの名前のチェルカッスクと呼んだ』ことから来ているらしい。つまり、チェルカスィというのは、16−17世紀ロシア語話し手の間で北カフカス人(現在のチェルケッス人、アディゲ人)、黒海沿岸人、ウクライナ人、クムィク人、スラヴ語を話しキリスト教徒の東南ヨーロッパのコザックたちを大雑把に指す他称だった。ロシアの公文書にも18世紀末まで現われている。 スタロチェルカッスカヤ大村は19世紀末は5000人の人口だったが20世紀末は1600人くらいしかいない。2010年には2500人くらいに増えてきた。コサック・バロック様式で18世紀に立ったという復活大聖堂がスタロチェルカッスカヤの名所で、中には149枚の聖画を飾ってある聖障(イコノスタス)がある。スタロチェルカッスカヤ河川駅からドン川を航行してロストフへ行く遊覧船もある。私たちは船着き場で写真を撮っただけだ。ロストフに戻ってドン・コサックのコスチュームを着けたウェイターのいるレストランで食事。カミオンコさんは時間があったらチェホフゆかりのタガンロークまで足を伸ばしてもよかったと言ってくれたが、11日の夕方7時には、みんなに見送られてロストフ・ナ・ダヌの飛行場からクラスノヤルスクに向けて出発した。 |
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追記: クラスノヤルスク着 | ||||||||||||||
2月12日(月)朝6時頃のクラスノヤルスクは真っ暗なだけではなく、気温が零下30℃で、空港の外に出てみると、迎えに来てくれるはずのディーマもいないので少し慌てた(当時、飛行機から降りた乗客はそのまま空港外へ出された)。 ディーマは、朝早く起きて、時間に間に合うように到着して、空港の違うところを探していただけなので、まもなく、きょろきょろしている私を見つけてくれた。私たちは荷物も受け出して、飛行場からクラスノヤルスクの町へ向かう。ディーマと無事再会できるとは思っていたが、これで安心だ。暗い凍った地面だったが、ディーマの自慢の車フォレスターで走った。前日に電話をしておいた旧友で宿主(ホームスティ先)になってくれるニーナ・フョードロヴナさんはちゃんと、自宅で私たちの到着を待っていてくれた。 クラスノヤルスクには12日早朝から20日夕方まで滞在した。 クラスノヤルスクに10日間いた目的は、懐かしいクラスノヤルスクを見ること、古い友達やかつての大学の同僚やかつての学生達に会うこと、ディーマとヴァジムに再会して彼らの会社を見ること、ディーマが車を出してくれると言うので彼とハカシアまで(片道400キロ)行くこと、そして何よりも大きな目的は私の外国人用ロシア居住許可証の延長だった。 ディーマの会社には共同経営者のヴァジムのほかにコーガンさんがいた。私がゼレノゴルスク(旧クラスノヤルスク45市)のニコライ・ナスコフの学校で日本語を教えていたとき(1992年から)、コーガンは中国語を教えていた。希望者の生徒に少林寺拳法も教えていて人気があった。その後、ナスコフの学校をやめてしまって、その2つの専門を生かして成功裏にビジネス(ロシア客を中国の少林寺の里に行く旅行業か)もやっているらしい。彼が車の購入でかディーマさん達の会社と知り合い、ディーマさん達に日本との車の取引を勧め、その頃日本に帰国していた私を紹介したのだ。なぜなら、コーガンが知っている日本人は私のほかにいなかったからだ。私はたまたま、うまく取引の仲介ができた。仲介と通訳料を要求したことも、ディーマさん達が払うと言ったこともなく、私たちの関係は、多分ロシア流に進んでいて、彼らが(仕事で)日本にいるときは私が、私が(旅行で)ロシアにいるときは彼らが助力するというような助け合いの雰囲気で続いた。今(2020年)も細々とだが続いていいる(ディーマさんが日本車のビジネスをやっているからだ)。 4日目の12月15日のことだが、コーガンさんが開くという中国料理店へ招待された。複合施設で仏像付きのプールなんかもある(まだオープン前)。この日は新しい料理のメニューをコックさん達が学んでいた。 5日目の12月16日には、去って1年あまりも経つが大学に顔を出してみた。私の後任で日本語を教えている石田先生や、私の仲介でクラスノヤルスク大学で民俗学を研究している思さんにも会い、3年生のクラスのみんなと写真を撮った。この頃は何人かと電子メールでのやりとりをしていた。前列右のマーシャやソーニャだ。後列向かって右端はサヤノゴルスクからのトーニャだ(2003年11月には彼女のサヤノゴルスク市を訪問)。 ハカシアへの小旅行から帰ってからになるが、9日目の12月19日(月)にはもう卒業しているオリガ・シャシニーナが働いているサクラ・モータースという会社に顔を出してみた。1990年代からぼつぼつと現われ、2000年代には爆発的に増えた日本車(の部品)を扱う会社の中で、サクラ・モータースは1995年から開業し、今(2020年)も経営が成り立っているらしい。2005年10月、クラスノヤルスクのアフォントヴォというテレビ会社から日本特集のため記者とカメラマンが日本に来た。スポンサーはサクラ・モータースで、その会社のディレクターのアナトーリー Тартаковский Анаторий(彼だけが日本の運転免許証を持っていた)も同行して、記者たちが日本各地を回るための車の運転をしていた。シャシニナがアフォントヴォ記者に私の住む町にも行って記事にするよう助言したらしい。彼らは我が家にも1泊したものだ。彼らのここでのテーマは老人問題だった。彼らは帰国後、日本各地で撮ったビデオをシリーズものとしてクラスノヤルスク地方で何度も放送されたらしい。私の知り合いはみんな見ていて、メールに書いてきていた。後にその日本レポルタージュの入ったビデオを贈られた。 その日12月19日の夕方にはディーマの会社へ、ミーシャ・タタエフの車に乗ってニーナ・チーホノヴァさんが会いに来てくれた。タタエフは、ゼレノゴルスクのニコライ・ナスコフの学校の卒業生だった。その頃(1992年ー1994年)、日本人の先生が来たというので友達と私の宿泊先によく遊びに来ていた。その後、彼はイルクーツクの大学を卒業してゼレノゴルスクの基幹会社で働いていた(いる)。イルクーツク大学在学中、私の仲介で短期に日本の私立の日本語学校へ留学したことがある。卒業後、つまり私がもう日本に帰っていた頃、彼は日本車購入ツアーで富山へ来た。そのとき、金沢も観光して私の家で1泊した。2006年6月には、彼の手引きで閉鎖都市ゼレノゴルスクを訪れ彼の両親の家に1泊したものだ。 ニーナ・チーホノヴァさんとはゼレノゴルスク時代の長い付き合いだ。1992年クラスノヤルスク45市(ゼレノゴルスク市の旧名)に到着まもなく、自分の4歳になる娘ナースチャの日本語個人教授を頼まれた。ナースチャは賢くて優秀、彼女と年の違う姉と兄も優秀だとか。1996年、2年間の不在の後、再度ゼレノゴルスク市に行ったときも、チーホノヴァ母娘と交流があった。その後もしばらく文通していた。今(2005年)はナースチャも17-18歳だ。ニーナさんの話では、ナースチャはもう子供があり、その子を祖母のニーナさんが世話をしているとか。 ハカシアへ行ったのは、クラスノヤルスクを拠点としてどこかへ行きたいと思ったからだ。ディーマが、年内にハカシアに行かなくてはならない用事があったので、私の滞在中に私の『小旅行』も兼ねて行ってもらうことにした。(後述) |
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ロシア居住許可証の延長 | ||||||||||||||
1番の目的のロシア居住許可証の延長ですが、どうやってやるのでしょうか。私はもうクラスノヤルスクに住んでいませんし、仕事もしていません。正規の方法では超困難のようです。 この居住許可証を取ったときも、簡単ではありませんでした。あちこちの窓口を回って様々な書類を集め、クラスノヤルスク地方庁の外国人ビザ登録部に何度も足を運び、足りないと言われた書類を集め(1度に全部言ってくれない)、また外国人ビザ登録部で長い順番を待ち、やっと発行されたものでした。この、役所回りと書類集めというところが日本と違い、やたらと時間と忍耐がいる仕事で、主に当時同居者のセリョージャがやってくれたのです。私があのつっけんどんな窓口嬢(年配だが)のロシア語の相手ができるはずがありません。 私はそのときまでそんなものがあるとも取得したいとも思っていなかったのですが、セリョージャが勧めてくれたのです。後々、このことで長く恩に着せられましたが。
ロシア・パスポートに準じるようなロシア居住許可証(ロシアの選挙権がないというだけが本物のパスポートと違うそうだ)を持っているというのはとてもいい感じでした。大学に勤めていた時も、他の外国人講師は、外国人だというので30%もの所得税が引かれていましたが、私はロシア人講師と同じ13%でした(給料がどんなに少なくても一律の税金が引かれる、ロシアは、2001年プーチンがフラット・タックス制を導入)。もともと超低賃金なのでどちらも日本円にするとたいした違いはありませんでしたが。 しかし、そこで、私のロシア居住許可証所持義務違反が明らかになってしまったのです。ロシア居住許可証を持っている人は6ヶ月に1度以上は、出頭して所在を明らかにしなくてはなりません。どこへ出頭しなければならないのか知らなかった私は、2001年取得以来一度も出頭したことがありませんでしたが、電話がかかってきたことはあります(2005年私がクラスノヤルスクを去った後、勤め先の大学にかかった電話がそれらしい)。 午後は、私とヴァジムはクラスノヤルスク警察住民課へは戻らず、3通の書類を、クラスノヤルスク地方庁の外国人課で、私たちを順番抜かしさせて面会した制服を着ていない若い女性に、また届けました。 |