クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2006年12月5日  (校正・追記: 2008年6月24日、2019年11月21日、2020年10月9日、2022年3月31日)
17-(1)  ザバイカリスク、国境の話(1)
クラスノヤルスクからチタ州とウラン・ウデ市、バイカル湖オリホン島へ
                  2004年8月9日から8月21日
Пограничники в Забайкальске. Чита, Улан-Удэ, Ольхон на Байкале с 9 по 21 августа 2004
1) 2) ニキータ
 ホロンバイル行きの計画   イルクーツクからオリホン島へ
 国際列車で中国との国境へ   『ニキータの館』
 国境ゲート前   泥浴
 チタ州庁所在地チタ市、外国人登録部   北のホボイ岬
 チタ州観光   オリホン島を去る日
 ウラン・ウデ   イルクーツクからクラスノヤルスク
2008年3月1日、アギンスカ・ブリヤート(アガ・ブリヤート)自治管区とチタ州が合併してザバイカリスキー(非公式にはザバイカリエ)地方というロシア連邦の人口100万人余の自治体の一つができた。一方、名前の似ているザバリカリスク町の方は1904年にラズエズド Разъзд 86として基礎ができた。1958年まではアトポール Отпорと呼ばれていた。現在人口は13000人。両地名の意味は『バイカル湖の(モスクワから見て)向こう側という意味。
 ホロンバイル行きの計画

 1997年夏から2004年秋までクラスノヤルスク市に滞在していました。最後の2004年は、毎月のように旅行をしていました。まず、年末からお正月はクラスノヤルスク州南部のエニセイ支流シシム川へ、1月後半はアルタイ山脈にある保養地へ、3月は西サヤン山脈にあるキャンプ小屋へ、4月前半はトムスク市へ、後半はエヴェンキア自治管区にあるヴァナヴァラ村へ、5月はキルギス共和国へ、6月夏至の頃は北極に近いタイムィール半島へ、7月はアジアの中心トゥヴァ共和国へと可能な限り回りました。ですから、旅行の合間に働いていたようなものです。


2004に訪れた地(モスクワを除く)

 9月初めにはクラスノヤルスク市を引き上げて帰国の予定でしたから、8月ぐらいはどこへも行かないで、市内や郊外の懐かしいところをもう一度回ろうと思っていました。それに、いくら現地旅行社を通じて格安旅行をしたとしても、そろそろ私の資金もつきかけていたのです。帰国旅費も要りますし。
 ところが、中国国籍で日本在住のモンゴル人の民俗学研究のスー先生が、中国の内モンゴル自治区の満州里やハイラルのあるホロンバイルへ招待してくれたのです。その先生が、この9月からクラスノヤルスク大学でロシア語や民俗学の研究ができるよう現地連絡係をして差し上げたご縁でしょうか。
 始めはあまり現実的とは思わなかったのです。満州里までは、日本までの距離の半分はありますし、そこからクラスノヤルスクまで引き返して、それから帰国すると言うのでは、動く距離が多すぎます。ビザの問題もあります。モスクワ発北京行きの国際列車にクラスノヤルスクから乗って中国へ行こうかと思ったことは何度かありましたが、クラスノヤルスクで日本人の私が中国入国ビザを取るのは難しそうです。ということでも、ホロンバイル行きはためらっていました。
 ところが、インターネットで調べたところ、前年の9月からは、15日内の観光だと日本人はビザなしで入国できるようになったようです。でもその場合は、入国は、国際空港からか国際港からでなければなりません。満州里からの入国はビザが必要かどうか、スー先生にも確かめてもらいました。不要とのことです。それなら、私にはロシア居住許可証があり、ロシア国内は自由に旅行でき、ロシアからの出入国も自由だとクラスノヤルスク地方庁外国人出入国登録部の係官が言っていますから、『クラスノヤルスク→ロシアの国境を越えて中国の領内に入る→中国内で15日以内の滞在をする→再び中国の国境を越えてロシアに入国する』と言うコースが、すべてビザなしでできるわけです。
 事実5月に、ノヴォシビルスクの空港からキルギス共和国へ出入国した時もノー・ビザでした。日本人はキルギスへ3ヶ月以内ならビザなしで出入国できましたし、わたしのロシア居住許可証で、ロシアへの再入国も自由だったのです。
 1番難しいビザの問題が解決できるなら、トゥヴァにも似た土地で、エヴェンキ人も遊牧生活をしていると言う、内モンゴル自治区のホロンバイルへ行ってみたくなりました。国際列車に乗って行けるというところも魅力的ではありませんか。2年前にも、モスクワからチェコのプラハへ、国際列車に乗って、困難の末たどり着いたことがありました。
 
モスクワから北京への国際列車は、
(1)ウラン・ウデから南下して国境の町キャフタを通り、モンゴルのウランバートルを経由していく列車4『北京号』(逆方向がbR)と、
(2)チタ州のザバイカリスクから内モンゴル自治区へ入る列車20『ヴォストーク号』(逆方向がbP9)
の1本ずつが週一度運行しています。
 内モンゴルの満州理へ行くには(2)で、列車20に乗ればいいのです。週1度しかクラスノヤルスクを通らないので、チケットはすぐ売り切れます。知り合いの旅行会社の職員に頼み、手数料を払って入手してもらいました。旅行会社に私のパスポートのコピーを預けて購入を頼んだのは、外国人の私が問題なく国際列車のチケットを取るためでもあります。なぜなら、チケット売り窓口で私のような外国人が、国際列車に乗れる、乗れないで問題が起きたとき、旅行会社の人のほうが話が早いと思ったからです。ちなみに、ロシアでは飛行機と列車のチケットの購入にはパスポートかそのコピーが必要です。実際に乗るときにはオリジナルが必要です。

 国際列車で中国との国境へ
国際列車『ヴォストーク』号
途中の停車駅プラットホームの物売り

 クラスノヤルスクから中国への国境の町ザバイカルスク市まで約50時間、楽しく寝台車に乗って過ごしました。同じ車両にクラスノヤルスクからの13人のグループがいて、その引率者が知り合いだったからです。
 ところが、ロシア側の最後の駅、チタ州ザバイカリスクに着き、乗客のパスポート検査があると、私は『問題あり』で降ろされました。去年トラブルがあったベラルシアの国境の町ブレスト市では、荷物を持って降りるよう言われたのに、今回は、荷物は持たなくていいと言われたので、その時点では、楽観していました。
 
 降ろされた乗客は私以外みんな中国人で、ぞろぞろ歩いて駅から少し離れたところにある事務室に案内されました。ロシア人の係官が私と一緒に歩きながら、
「どこから来たの」とか、
「何をしているの」とか聞いていました。
「大丈夫ですよ、通れますよ」と言ってくれました。私もそう思いました。
 国際列車は国境を越えるとき、車輌を広軌から狭軌に変えるので、4時間ほども乗客は待たなくてはなりません。ザバイカルスク駅に、国境警備隊事務所もあります。今度はそこの待合室に案内されました。
 しばらくすると、ロシア人の愛想のいい顔をした女性国境警備員が私の横に座って、
「あなたを通してあげるわけには行きませんよ。中国入国のビザがないからです」と言います。日本人は15 日以内の観光ならビザは要らないと、いくら言ってもだめです。
「いい事を教えてあげるわ。今晩の夜行列車でチタ市まで戻って、明日の朝、そこの外国人出入国登録部で即日ビザを作ってもらって、明日の寝台車でザバイカルスクに来て、あさって朝、タクシーで国境へ行き、通過したらいいですよ。国際列車は週に1本しか通らないからね」。これが一番いい方法だといいます。
 
 頭がくらくらして、どうしていいかわからなくなりました。本当はどうなのでしょう。それで、ひとまず、私を内モンゴルに招待してくれたスー先生の奥さんに携帯(ロシアではここ1年くらいであっという間に普及した)で電話しました。スー先生自身は、電話の不便なホロンバイルに滞在しているので、何かあったら、日本にいる奥さんに連絡するよう言われたのです。奥さんのターナさんにも特にいい案はないようでした。少し待ってほしいと言われました。
 警備隊事務所に制服を着た係員が出入りしています。所長という人が出てきて、
「だめだめ、ビザがないと」と言って去っていきました。他の警備隊員が、
「じゃ、試しに自分で国境までタクシーで行って試してみたら」と言うものですから、本当にそうしてみることにしました。事務所に入ってパスポートを返してもらい、列車内に残してきた自分の荷物を探しました。車輌は広軌から狭軌へ車輪を変えるため、どこかへ行っていましたが、線路をたどって何とか探し出して、窓をたたいて車掌さんにドアを開けてもらいました。気の毒そうな顔の車掌さんと別れて、駅前にいるタクシーを拾い、5キロほど離れた国境へ行ったのです。

 国境ゲート前

 タクシーの運転手が
「知り合いを迎えに行くのかね?」と聞くので、
「自分が通過するのよ」と答えると、もうこの時間では通過は難しい、朝早くから順番をつかないとだめだと言うのです。
着いてみると、確かに国境は長蛇の車の列です。道路をはみだしてまで少しでもゲートに近いところにいきたい車が無秩序にせめぎあっています。道路といっても、そこは草原で道路らしい道路ではないので、はみ出すも何もないのですが。まわりは中国人が多くて、さっぱりわからない中国語で叫んでいます。タクシー代(400円)を弾んだせいか、運転手が私を前の方の車に乗り換えさせてくれました。税関申告書などの用紙も持ってきてくれましたが、中国語で印刷されているので適当に書きこみをしていると、ハバロフスクの日本領事館から電話がかかってきました。ターナさんが連絡したようです。
「ビザなしで入国できるはずですよ。金倉さんのロシア語力でもだめですかね。どんな状況なのですか」と聞きます。ロシア語がすこし話せて、相手に説明してもだめなのです。ロシア語がぺらぺらに話せてもだめに違いありません。私の携帯電話もクラスノヤルスクで充電し、ホロンバイルでは携帯が使えないのではあまり利用することもないだろうと、小額の通話料金をプリペイド・カードで入れただけですから、そろそろ、電池切れ、料金切れです。でも、かいつまんで説明し、今、ロシア側の国境が目の前だ、日本人はビザなしで入国できると係員に説明してほしい、と頼んでみました。
 領事館員は承知してくれましたが、現地の警備隊員はどうでしょうか。ゲート前に立っている警備隊員のところに携帯を握って走っていき、事情を話し、
「ハバロフスクの日本領事館員の人と話して!」と頼みました。慌てた様子の警備隊員は、
「自分にはその権限はない。上司に聞いてみる」と、ゲート横の小屋に入って電話しています。ゲート前には車の列が続いていて、順番抜かしをして割り込もうとする車を、別の警備隊員が怒鳴っています。
 上司というのは、つまりザバイカリスク駅の事務所にいて「だめだめ」と言って去っていった所長のことでしょうか。電話をして戻ってきた警備隊員は、
「だめです、ロシアのビザがないと通れません。」と忙しそうに言って、中国人の車の整理に去っていきました。ロシアのビザが必要なのか中国のビザが必要なのかわからなくなりました。
 
 周りは国境超え慣れした中国人ばかりで、一人ぼっちでここにいても日が暮れるだけのようです。また、タクシーを拾って、駅に戻ることにしました。ハバロフスクとの通話は、雑音が入って聞こえなくなりました。領事館員は
「もし、何かあったらここへ電話してください」と電話番号を伝えようとしていましたが、この場に至って、ザバイカリスクとハバロフスクは遠すぎます。

 ここまでの私の失敗の一つは、ザバイカリスク駅を動いたことでしょうか。ザバイカリスク駅でハバロフスク領事館からの電話を受けていれば、直接所長に伝えられて、もしかして話が通じたかもしれません。 
 駅の待合室では私は混乱してしまい、ハバロフスク領事館から直接ザバイカリスクの国境警備責任者に電話して説明してもらうという方法もあるとは思いつきませんでした。こういうことのために携帯電話は電池切れにならないように、料金切れにならないように、計画的に使うべきでした。(でも、わたしのような旅行者が多いと領事館も迷惑ですが)
 もうひとつの失敗は、日本人がめったに通らないようなザバイカリスクの国境を通過するなら、国境警備所員(パスポート審査官)を説得できるような印刷物を前もって準備するべきだったのに、思いつかなかったことです。まして、15日以内の観光旅行する日本人がビザなしで中国に入国できることになったのは、前年の9月からです。それ以来ザバイカルスクを鉄道で通過するような日本人はいたとしても、私のようにロシア居住許可証を持っている日本人を扱うのは、ここの出入国審査員にとって初めてのことでしょう。
 ロシアの役所は、わからないことは、きちんと調べずに(面倒くさいのかなあ)、自分に責任がかからないように「不可」とするのです。そんなことは前からわかっています。ここで何か『贈り物』をするといいのかもしれませんが、外国人の私にはその呼吸がわからないのです。
 キルギス共和国へ行った時は、キルギス政府のロシア語版ホームページを印刷して、もし出国のノヴォシビリスク空港で問題が起きた時は、出して見せようと持って行きました。そのサイトは、キルギスの日本大使館に電話して教えてもらったのでした。そうした説得できるような印刷物を用意してくるべきでした。(ノヴォシビリスクはザバイカリスクより、インテリジェンスが高いかもしれん)
 ただ、よかったことは、中国とロシアの自動車道の国境ゲートの混雑を、直接この目で見られたことです。といっても、それは後でつけた理由で、そのときは、パニックでした。

 国境ゲートから、ザバイカリスク駅まで戻ってみると、列車はまだ発車していません。クラスノヤルスクから一緒に乗ってきた知り合いたちも、わたしの困窮を救うこともできません。彼らロシア人は国境でビザを購入できるのです。私はといえばビザが要らないはずなのに。
「そんなうまい具合には(ビザなし通過のこと)いかないと、実は思っていたんだけど」と、気の毒そうに言われました。
 ザバイカリスクのような田舎の国境はどうしようもないのだと思いました。でも、今の状況では、言われたように、チタ市の外国人出入国登録部まで言ってビザを作ってもらう他ないようです。

 チタ州の州庁所在地チタ市、外国人出入国登録部

 ザバイカリスクからチタ市までは460キロで、1日1本の『ダウリア号』と言う響きのいい名前の夜行寝台に乗ると、11時間で着きます。ザバイカリスクはロシア鉄道の終点駅なので、国境を越える国際列車が週1回と、始発の『ダウリア』号のような列車が1日5本ぐらいしかありません。チケットはすぐ買えました。その日の夕方8時半に出発して次の日の朝7時半にチタ駅に着きます。運賃は780ルーブル(3000円)とちょっと高めでしたが、いい列車です。廊下にはコンセントもあったので、携帯を充電しておきました。
 チタ州の州庁所在地チタ市は、もちろん、初めてで全く知りません。外国人出入国登録部がどこにあるのでしょうか。そこを尋ね当ててもうまくロシア語で説明できるでしょうか。まず、駅のコインロッカーに荷物を置いて、タクシーに乗って外国人出入国登録部と言いました。駅からすぐ近くなのに400円もタクシー代がかかったのは、わたしのことを何も知らないよそ者と思ったからでしょう。8時半前には、もう目的地に着きましたが、窓口が開くのは9時、もう順番待ちが23人もできています。外国人出入国登録部はどこでもいつも順番がすごいのです。クラスノヤルスクの場合は、順番抜かしの方法も知っているのですが。
 でも、どうせ、チタ市からザバイカリスクへ戻る列車は夜行ですから、夕方までにビザが取れればいいのです。24番目に並んでいました。しかし周りの人によく聞いてみると、私の場合は、順番が23人もできている窓口ではなく、まず別の窓口へいかなければならないようでした。そこは、順番ができていません。9時過ぎにゆっくり来た係官に事情を話すと、ちょっと待ってと言われ、その係官は奥に入っていきました。隣で聞いていたロシア人のおじさんが、
「難しい話だね」と言っていました。しばらくして、
「日本人はビザなしで中国へ入れますが、ロシア出国のビザがいるのです。それは、ここでは作れません。あなたのロシア居住許可証を発行したクラスノヤルスクの外国人出入国登録部でないとだめです。」と言います。
「ロシア居住許可証を持っていればロシア側の国境は自由に通過できるはずでしょう。現にキルギスへも自由にいけましたし」
「キルギスは旧ソ連なので特別なのです。日本へ行く場合でもビザ(出国ビザ)がいります。」
そんなことは絶対ありません。この『居住許可証』を発行したクラスノヤルスクの外国人出入国登録部が日本へ行くときはビザがいりませんと断言していますし、事実、前年の夏休みには、念のために用意したビザをハバロフスクの国境では使わずに出入国しています。もしかしてロシア連邦では地方自治体ごとに(出入国などの)法律が違うのでしょうか。事実、そういう苦い『冗談』も聞いたことがあります。
 ここでも、ロシア居住許可証を持った(中国人以外の)外国人が問い合わせに来たことがないに違いありません。 
 この係官と口論してももうだめだと思いました。私は一人ですし、相手は、権力の体現者ですからどんなふうにも決定できるのです。なぜ、きちんとした決まりがあって、それを係官が熟知しているということができないのでしょう。チタの係官も、『不可』としておけば、無難だと思っているに違いありません。(ここに収賄横行の原因があるのか)
 その建物から外へ出て、さて今からどうしようかと、考えました。中国のホロンバイルへ行くのはどうしても不可能のようです。ここで諦めなくてはなりません。楽しみにしてはいましたが、肉親と対面に行くわけでもありません。ここで頭を切り替えて、せっかくここまで来たのですから、初めてのチタ州とチタ市を観光するのも悪くないということにしました。

 チタ州観光
 イルクーツク州、ブリヤート共和国、チタ州
 
 オノン川は1032キロ、上流の300キロはモンゴルを流れる
シルク川は560キロ。アルグニ川は1620キロで、
中国の大興安令から流れ、上流はハイラル川708キロ。
アルグニ川は900キロ以上がロシアと中国の国境
になっている

 チタ州(2004年の旅行中ではこの名前だったので、このサイトではチタ州と記)は、中国やモンゴルと国境で接します。同州の西でアルグーニ川とシルカ川が合流してアムール川になります。清朝中国とロシアの間に締結された有名なネルチンスク条約のネルチンスク市も、チタ州にあります。16、17世紀にロシア人が来る前はブリヤート人が牧畜していたようですが、その前は、今では少数民族になった人たちの祖先だったでしょうか。

  後記:前述のように、2008年チタ州とアギンスク・ブリヤート自治管区が併合してザバイカリスキー地方となった 。チタという都市名はチタ川からついた。チタとはエヴェンキ語、またはウィグル語からついたそうだ。ザバイカリスキー地方の首府で、旧シベリア連邦管区チタ州の州都。人口は35万人余(2020年)チタは1687年越冬小屋から発達したとされている.チタ砦はシベリア流刑基地として発達。その名は時代によって様々に代わって、公式にチタ市となったのは1851年だ。)

 どこかに旅行代理店はないだろうかと、探してみました。この辺の旅行取次店の多くは、格安の中国製品を買いたいというロシア人ツーリストを集めてマイクロバスをしたて、中国側の国境付近の満州理市などへ行くツアーを組んでいます。地の利を生かしたそんなパックツアーが一番儲かるのでしょうか。でも、チタ市観光をしたいというような私の希望をかなえてくれるような旅行代理店もきっとあるでしょう。まず、手始めに駅の近くの窓口にあたってみました。

 
 レーニン像のあるレーニン広場

 『スプートニック』という旅行店に入って、2,3日チタ市と周辺の観光はできないだろうか、と聞いてみました。店長はそんな希望者は初めてだが、と言いながら、それなりのプランを考えてくれました。きっと、この数日はこの旅行店の車(ロシア人ツーリスト8人くらい乗せるマイクロバス)が空いていたのでしょう。チタ市の見所といってもたいていのシベリアの町と同様、それほど多くはありません。ロシア人にとって、特に観光都市でもないでしょうが、初めての外国人にとっては、興味深いに違いありません。
 チタ市はチタ川がインゴダ川(708km、これがオノン川と合流してシルカ川になり、シルカ川がアングーニ川と合流してアムール川になる)に流れ込むところに、17世紀半ばにできたコザック隊の冬越し小屋の集落から始まります。クラスノヤルスクと同じ起源です。ただ、クラスノヤルスクがモスクワから4000キロしか離れていないのに、チタは6100キロですから、25年ほどコザックの到来が遅れます。革命後の1920から1922年まで極東共和国(緩衝国家)の首都でした。

見習い僧(中央)と
 
  デカブリスト教会博物館
(旧ミハイロ・アルハンゲリスク教会)
 
  アレクサンドル・ネフスキィ−礼拝堂
チタ市日本人墓地
アルハナイ国立公園へ、運転手とマイクロバス
湧き水を浴びている
ブリヤート名物肉汁つき蒸し大餃子
アギンスクのラマ教寺院の一部

 チタ市の名所と言えば、旅行代理店『スプートニク』の店長によると、18世紀の木造『ミハイル・アルハンゲリ』教会(デカブリスト教会博物館)が有名で、その他、市内にはこれといってないそうです。でも、チタ州立郷土博物館、武器博物館、中央広場、市内の湖、チタ川とインゴダ川の合流地点、市内の丘からの夜景、新しくできた市の記念像などを、マイクロバスに運転手兼ガイドと二人乗って回りました。今晩泊るホテルも取ってくれました。 

 国境警備隊員や外国人出入国登録部の係官にいじめられた後で、すごすごとクラスノヤルスクに引き返さなくて、こうやってチタ市で豪華な(ロシアにしては)個人観光をするというのは、ちょっといい気持ちでした。何しろ、クラスノヤルスクからチタ市は2100キロも離れていて、こんなに遠くに来たのに、ただ戻るのは悔しいです。チタもなかなか興味深い観光地です。
 
 日本人客を相手にするのは初めての運転手もがんばってくれて、
「あっ、そう言えば、日本人墓地もある」とか言って、連れて行ってくれました。その墓地には、クラスノヤルスクの日本人墓地と同じ墓碑が立っていました。碑文も同じです。シベリア中の抑留者墓地はきっと同じ碑が建っているのでしょう。
 郷土史博物館のガイドはとても感じのいい若い女性で、熱心に説明してくれました。私も熱心に聞いて質問をたくさんしたので、
「もっとチタ州のことが知りたいなら、こんな本もあるわよ、ちょっと高いけどね(170ルーブル)」と、郷土史の本を紹介してくれました。売っているところも、運転手に説明してくれました。もちろん、その本屋へ行って買いました。チタの本はクラスノヤルスク市には売っていません。地図も買いました。運転手の奥さんも私に会いたいと言うので、夕方からのチタ市夜景の観光に同乗しました。

 一方、ホテルは朝食つきで5000円もするのに、お湯が出なかったり、国際電話がかけられなかったりと、サービスが悪かったので、2泊目はそのホテルを引き払うことにして、ひとまず荷物をマイクロバスに積み、観光に出かけました。その2日目は、チタ市から150キロ離れたアギンスキイ・ブリヤート自治管区が目的地です。『スプートニク』旅行社店長によると、ここには国立公園『アルハナイ』があるそうです。ロシアには国立公園と自然保護地区が約130箇所あります。(後者は自然がより厳重に保護されている。1999年、東シベリアでは『アルハナイ』が最初に国立公園に指定された)。

 そこは、ブリヤート・チベット仏教の聖地として古くからの信仰されていた山のあるところで、私たちが訪れた時は全世界チベット仏教会議がちょうど行われていました。山頂には高位僧がヘリコプターで集まっています。山裾のアルハナイでは、霊験あらたかな湧き水を浴びようとテント村がたくさんできていました。この広い公園内に17箇所の仏教とブリヤート人の聖地などの名所があるのですが、全部は回れません。ブリヤート肉汁つき蒸し大餃子を食べて、引き上げました。

 アギンスキイ・ブリヤート自治管区の首都アギンスクへもぜひ行きたかったので、回ってもらいました。そこで、ソ連崩壊後、復興された古いチベット仏教寺院を訪れ、見習いラマ僧に寺院内をゆっくり案内してもらいました。もう、こんな奥地は、外国人はまだ少ないのでしょうか。日本人と言うだけで、特待です。運転手も日本人を案内していると言うので、得意そうでした。見習いラマ僧も「コンニチワ」の一語を日本語で知っているというのでうれしそうです。でも、
「チベット仏教の本髄と言うのは一言で言うと何ですか?チベット仏教はどのようにして、いつ、ブリヤートに伝わったのですか。チベット仏教は中国や韓国の仏教とどう違うのですか。チベット仏教では、どうすれば人は救われるのですか」などという私の質問には答えにくそうでした。
「自分はまだ見習いなのでよくわからない、モンゴルに留学に行くことが夢だ」と、その若い僧が答えていました。
 本当は写真を撮ってはいけない寺院内ですが、撮らせてくれました。
「モンゴルの次は日本のお寺にも留学に来てね」と言って別れました。
 
 2日間の運転手付き車代が1万5千円です。日本にすれば安いですが、ロシアにすれば高いです。でもそれには、諸手配料も含まれていますし、個人旅行でこんなに遠くまでドライブしてもらって、1万5千円の価値はありました。『スプートニク』旅行社のほうは自社のロゴ入りTシャツをくれました。

後記:今はラマ教とは言わずにチベット仏教と呼ぶ。ラマと呼ばれる師僧、特に化身ラマを尊敬することから、かってはラマ教と呼ばれ、この通称のため正統的な仏教ではないかのように誤解されていた。北伝仏教のうち漢訳経典に依存する東アジア仏教と並んで現存する大乗仏教の二大系統の一つをなす。ラマ教という呼称は19世紀の西洋の学者によって普及したものであり、チベット仏教に対する偏った見方と結びついているため、現在では使われなくなっている。(2004年の在ロシアの私は無知だったため使っていた。この旅行記でも使っている)
 ウラン・ウデ

 チタ市からクラスノヤルスクへの途中にブリヤート共和国の首都ウラン・ウデ市があるので、そこでも、途中下車をして観光することにしました。はじめは、思いがけず立ち寄ることになったチタ市とその周辺の観光だけして、クラスノヤルスクに帰る予定でしたから、列車のチケットもクラスノヤルスク行きを買っていましたが、思いなおしてウラン・ウデ行きに買い換えました。手数料が追加で400円でした。チタ市からウラン・ウデ市まで550キロで10時間ほどかかり、コンパートメント料金は2300円です(シーツ代がほかに120円)。ウラン・ウデ到着後、旅行会社を探してうろうろしなくていいように、『スプートニク』社にウラン・ウデ市の提携旅行会社への連絡を頼んで、西へ向かう夜行列車に乗り込みました。夜中の12時40分に出発して、朝9時に着きます。(時差が1時間あるため)
 ウラン・ウデは、今年5月に観光を計画したのですが、キルギスへ行ったため、中止にしたところです。今、クラスノヤルスクへの帰り道、訪れることができたのです。

イヴォルギンスキー寺院
ナターシャと野外民族博物館、
エヴェンキ族コーナー
新築ラマ教寺院
その内部
 これも新築ラマ教寺院

 このウラン・ウデでは、ホテル住まいではなく、ホーム・スティをすることになりました。といっても、知り合いの家ではなく、ボリスとナターシャと言う初対面の夫婦宅です。彼らは大学を卒業したのですが就職ができないので、自分のアパートが広いことを利用して短期の部屋の賃貸し、つまり、民宿をやっているのです。チタ市から電話をかけておいたウラン・ウデの旅行会社の斡旋です。1泊朝食つきで250ルーブル(1000円)というただのような値段でしたし、迎えに来てくれたナターシャも感じがいい若い女性なので、もちろん賛成しました。さらに250ルーブル払うと夕食も作ってもらえます。
 ナターシャは観光も付き合ってくれ(ガイドではない)、1日300ルーブルです。ここで3日間の滞在中、1度もタクシーに乗らず、ナターシャとバスを乗り継いで、ウラン・ウデで見れるだけのものはみんな見て歩き、本屋を回ってブリヤートの歴史に関する本を買えるだけ買いました。

 ブリヤート共和国はロシア連邦の中でも貧しい自治体だそうです。自然博物館はソ連時代にできたままの古びた姿で建っています。展示物もナターシャの幼い頃と同じだそうです。野外民族博物館のほうは、ソ連時代にかなりの費用をかけて作ったようで、名前も内容も魅力的なのか、外国人グループが次々とマイクロバスで乗り付けているのでした。例によって外国人からは割高料金を取っています。広い敷地で、一人で見て回るのは寂しいですが、友達のようなナターシャとは楽しく回れました。
 少し郊外のイヴォルギンスキイー・ラマ教本山だけは、あまりロシア語の話せないアメリカ人と一緒の見物になりました。そうすると見物料金が半分ですみます。ここでの案内は、ガイド専門で信者ではないブリヤート人女性でした。私が熱心に質問するものですから、とても喜んでくれて、後で斡旋の旅行会社に
「あの日本人女性に気に入ってもらってよかったわ」と話したそうです。

 歴史博物館(ハンガローフ名称ブリヤート歴史博物館)は、新しく、いくつかのホールがあり、ナターシャと全部見るのに、半日かかりました。ここのチベット医学のホールではガイドを頼んで(400円)、説明してもらいました。なぜ『チベット』医学なのか、実はよくわかりませんでした。ここでも、そのガイドに質問をあびせて、本当は40分で一巡できる所を1時間以上引き止めて閉館時間までいました。
 そこで、次の日は、実際に治療をしているというチベット医学病院へナターシャと行ってみました。ここでの見学はフランス人ジャーナリストに同行させてもらいました。ラマ僧で医師の免許を持ったものが有料で治療しているそうです。漢方とどう違うのでしょう。思わず、漢方を褒めてしまったため、同行のフランス人は私を中国人と思ったようです。

 最後の3日目は、土産店へは寄らないので、午後時間が余ってしまい、ウラン・ウデ市にあるラマ教寺院のはしごをすることになりました。新しい寺院がたくさん建っています。おかげで、仏教の「輪廻」についてよく勉強できました。死ぬと必ず誰かに生まれ変わります。自分の前世は誰だったか(または何だったか)を知るためにラマ教寺院に行きます。生まれ変わり寺院と言うのもあって、そこで『転生の本質についての簡単な説明』という本を買いました。
 7月に旅行したトゥヴァ共和国の首都クィジール市ではシャーマン・クリニックが4軒ありますが、ラマ教寺院は1軒しかありません。でも、ウラン・ウデには古いのや新しいのや建設中のなどが、いくつもあり、特に新しいのはスマートな近代的建物で、ロシアではないような整然とした内装です。仏像や、ラマ教的な色鮮やかな装飾がなければ、日本の公民館か、集会所のようです。

 8月16日の夜10時40分に、ナターシャと夫のボリスに駅まで送ってもらって、さらに西のイルクーツクに向かいました。見送り料が200円です。こんな風に細かく計算して、サービスを受けた方が気が楽です。料金も安いですし。(日本の値段にしては安いですが、ブリヤートではむしろ高かったでしょう。でも、私は言われるがままに支払いました。おかげで失業中だったナターシャ夫婦に臨時収入ができたというものです。)

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