クラスノヤルスク滞在記 と滞在後記

ホーム up date 2004年5月4日   追記:2006年6月11日、2008年6月22日、2011年6月17日、2018年12月27日、2020年8月11日、2024年9月27日
 13   シベリアの古都トムスク
     2004年4月24日から4月28日
   Томск (24 апреля - 28 апреля 2004 года)
 トミ川のほとり
 鉄道のたび
 アパートに逗留
 トムスク市と大学見物
 森林博物館
 兵役の少年
 アレクセイとターニャ夫妻
トムスク要塞があったという岡の上の記念碑
 トミ川のほとり
 トムスク市へ4月25日から27日まで、27歳の若い友人ナースチャとアリョーナの3人で行って来ました。今回トムスクは3回目ですが、行く度に新しい発見があります。
トミ川の上で
 
 トムスク中心
 トムスク市は、シベリアでは最も古い町のひとつで、大河オビ川の支流トミ川のほとりに、1604年ロシア人(コサック隊)がシベリア進出のための要塞を作ったのが、始まりです。ロシア人の進出以前は、ウラル語グループのサモエード(サモディーツ)系のセリクープ人が住んでいました。ところが、やはり、このあたりに住んでいたシベリア・タタール人の族長が、ほかの部族から自分たちを守ってもらうためにモスクワの皇帝ボリス・ゴドゥノフに要塞を作るよう依頼し(と、ロシア側資料にはある)、トミ川の下流(つまりオビ川との合流点近く)にできたのがトムスクだそうです。クラスノヤルスクとよく似た経過と目的で、ただ26年早くできました。
 トムスクはロシア帝国のシベリアへの前線基地として発展し、その後はシベリア経営と中国貿易の拠点として栄え、1804年には中央シベリア全体を含むトムスク県の中心になりました。クラスノヤルスク県の前身エニセイ県などは、後にトムスク県から分かれてできたのです。

 18,19世紀のシベリア経営の大動脈『シベリア街道』は、モスクワからウラル山脈を越えてトムスクを通り、クラスノヤルスク、イルクーツク(の少し先まで)へと通じていました。太平洋岸のオホーツクや後にロシア領となったウラジオストックへ行くにも、ここトムスクを通りました。『トムスクの歴史』という本によるとトムスクは、1639に年初めて中国から茶が輸入されたところだったそうです。輸入というより、モンゴルの部族からの貢物の一つでした。茶は1640年にはモスクワに送られ、その後、ロシア中に普及しました。シベリア幹線鉄道ができる19世紀末までの200年もの間、中国茶を積んだキャラバン隊が、トムスクを通じて陸路または河川路をトミ川からオビ川、さらにイルティシュ川を通じて西に向かっていったわけです。
 しかし、19世紀末開通のシベリア幹線鉄道は、トムスクを通らずに、少し南のニコラエスク村(現ノヴォシビリスク市)を通ったため、トムスクは寂れました。これは、トムスクへ向かって沼地の多いところに鉄道を敷設する技術的困難さと、トムスクの商人がモスクワとの競争を避けたためだったと言われています。
 それでシベリアの中心は、ノヴォシビルスクになってしまいましたが、取り残されたトムスクは昔の伝統も残る町になったのです。
 鉄道の旅
 シベリア幹線鉄道はトムスクを通りませんが、トムスク行きの支線はそのシベリア幹線鉄道が開通して、早い時期に敷設されました。分岐駅タイガからトムスクまでは80キロもありません。しかし、支線ですから、クラスノヤルスクからトムスクへ行くには、直通の列車はありますが、時間がかかります。私たちが乗った車両はタイガ駅で4時間も待たなければなりません。というのは、分岐駅タイガまでは、クラスノヤルスク発ノヴォクズネツク行きの481号列車に連結されて引っ張って行ってもらい、タイガ駅に着くと、トムスク行きの(この時は)2両だけ切り離され、引込み線に入り、目的地トムスクへ連結して引っ張っていってくれる列車が来るまで待つのです。

 クラスノヤルスクからトムスクへ行くには偶数日はこの2両が連結された列車が1本しかありません。その車両も4人用個室のコンパートメント(2等車)ではなく、寝棚が縦や横にぎっしり並んでいるオープン型寝台車プラツカルタ(3等車)です。コンパートメント車両ですと、1両に定員は38人なのに対し、プラツカルタでは54人です。これが不便なのは上段が狭いこと、縦の寝台(窓に平行)は、通る人みんなに寝顔を見られること、トイレにすぐ順番ができることなどです。でも、クラスノヤルスクからトムスクへ行くにはこれしかありません。料金がコンパートメントの半分で往復2400円と言う安さなのですが、それでも、同行のナースチャやアリョーナは薄給なので、きついそうです。

 クラスノヤルスクを4月24日の午後4時に出発した列車は、620キロほどをゆっくり走り、次の日の朝5時にトムスクにつきました。
 アパートに逗留
ナースチャとアリョーナ
 まして、ホテルに泊まると1泊千円とかするので、アリョーナの友達の家に泊めてもらうことにしました。その友達のターニャも大学関係で薄給です。ターニャの夫のアレクセイも同様です。彼ら夫婦のアパートは市の中心の古い9階建ての建物の9階にあり、エレベーターは暗く小さく壁板には隙間なく落書きされ、犬猫の尿のにおいがするのでした。でも、数秒間の我慢です。アパートは小さな一部屋に狭い台所と小さなバス・トイレが付いた慎ましいもので、そこで私たち5人が3日間住みました。ターニャやアレクセイの言うには、10人で住んだこともあるから、5人なんて平気だ、そうです。主人夫婦は台所の床に布団を敷き、ナースチャとアリョーナはベッドに、私はクッションを組み合わせて部屋の床に寝ました。9階にあるせいか、時々断水になるのでした。なぜか、その日はお湯だけは出ます。熱いのを我慢してお皿を洗ったりしました。

 私たちは、毎晩、アレクセイのお父さんが作った自家製のぶどう酒を飲み、5人で仲良く過ごしたのでした。ちなみに彼ら夫婦は1週間前に結婚式を挙げたので、お祝いの立派な食器セットがありました。私たちは新品の食器でターニャがゆでたジャガイモや、塩漬けニシンを食べました。こんなことが、前回の2度のトムスク訪問と大きく違ったところです。(前回はホテルに泊まりました。)
 トムスク市と大学見物
トムスク要塞のあったところから市内を見渡す
トムスク大学
 
 大学内の博物館の一つ
 トムスクに到着したその日に、私たちは市内見物マイクロバスに乗り、観光コースをざっと一回りしました。シベリアの古都トムスクはサンクト・ペテルブルグをまねて作ったといわれる古い町並みが、名所となっています。大商人の木造の屋敷もよく保存されて残っていました。ひさしや窓枠、バルコニーには透かし彫り装飾があり、その模様には『火の鳥』などロシア民話がテーマなったものもあります。
 その他、トムスクにはシベリアで一番古いと言うものがたくさんあって、中でも有名なのが、1878年創立のトムスク帝国大学です。また、トムスク工科大学も1896年と言う古い時期に創立されました。つまり、トムスクは何と言っても学問の町で人口の20%以上が学生か大学や研究所の教職員です。
 (東京大学は1877年創立。ロモノーソフ名称モスクワ大学は1755年創立。1724年創立のロシア科学アカデミーから1819年独立してサンクト・ペテルブルク大学創立。京都大学は1897年)
 それで、もちろん、大学見学もしました。1885年にできた大学本部の建物は古く壮大で、もちろんノヴォシビルスクの分校としてできたクラスノヤルスク大学の比ではありません
後記:2006年から始まったロシア連邦の大学改革で、クラスノヤルスク国立総合大学はクラスノヤルスクにある大規模な3大学、国立建築土木大学、クラスノヤルスク国立工科大学、クラスノヤルスク国立非鉄金属大学を吸収して、ロシア連邦シベリア大学となった。
 連邦大学はロシア連邦にある連邦管区ごとに、ほぼ設立されている。連邦管区とは(ウラジーミル・プーチン政権の進める)中央集権化計画の一環として、8管区設定された。
 連邦大学は、現在9校設置されている。(モスクワとサンクト・ペテルブルク、およびクリミアを除く)
1. バルト連邦大学 - カリーニングラード、2010年
2. 極東連邦大学 - ウラジオストク、2010年
3. カザン連邦大学 - カザン、2010年
(4. クリミア連邦大学 - シンフェロポリ、2014年)
5. 北方(北極)連邦大学 - アルハンゲリスク、2011年
6. 北東連邦大学 - ヤクーツク、2010年
7. 北カフカース連邦大学 - スタヴロポリ、2012年
8. シベリア連邦大学 - クラスノヤルスク、2006年
9. 南部連邦大学 - ロストフ・ナ・ダヌー、2006年
10. ウラル連邦大学 - エカテリンブルク、2010年
 大学内には、シベリアで一番古い植物園の他、立派な博物館が幾つもあります。普通、博物館は博物館として独立してあるものですが、トムスクの場合は、大学の建物、内の1室(または続きの数室)が博物館で、これは、町の中の歴史博物館や郷土博物館より広く立派なのでした。「考古学およびシベリアの民族博物館」だけは外来者は有料で、入場料が20円でした。「古生物学博物館」はその日は閉館日でしたが、そこで学生たちが古生物学の授業をしていたため、ドアが開いていました。私たちはそっと入って授業の邪魔にならないように見学しました。「鉱物学博物館」は、私には不明な展示物が並んでいます。大学の高い天井の廊下を歩くと、「鉱物学研究室」とか「鉱物学講座」とか書いたプレートがドアに打ち付けてあり、その横が「鉱物学博物館」なのです。伝統ある大学ですから、「大学史博物館」も欠かせません(そんな名前の博物館は実は伝統が浅くてもあるものですが)。
 普通、町の博物館ですと、職員が来館者をにらんでいるものです。でも、ここは、職員も研究者の一人らしく、来館者には無関心に自分の机に向かって仕事をしているのでした。
 工科大学も見物しました。これは、ロシアでも最も権威ある大学で、ここを基礎に分校としてシベリアの各地にできた研究機関が、後に、その州の大学となったそうです。ここにも、もちろん「大学史博物館」があります。でも、ふと、ドアを開けて入ったところが、また「鉱物学博物館」でした。今度の職員は暇だったのか、展示物の説明をしてあげると言ってくれたのでした。「この石を、誰が、どこで、どんな状況で見つけたか」と始めました。私が日本人でクラスノヤルスクから来たと知ると、展示物の説明をしながら日本食の料理の仕方を聞くのでした。
 森林博物館
 私たちは、出発前、インターネットでトムスク市の見どころを調べてきました。トムスクには実に26もの博物館があると載っていました。市内にもあるほか、郊外に「森林博物館」と言うのがあります。私たちは3人ともエコロジーに関心があるので、そこも見学することにしました。
 トムスク市から30分もバスに乗っていったところに、チミリャーゼフ村があり、そこにその博物館があるとインターネットに載っていました。ロシアは、町はともかく村はどこもインフラが整っていません。まず、道は泥沼です。でも、そんなことにもめげず、私たち3人はバスから降りて、親切そうな村の人に道を聞きながら、村はずれの松林の中にある「森林博物館」を見つけました。立派な建物です。でも、玄関にはかぎがかかっていて、『図書館は12時に開きます』と言う小さなメモが張ってありました。「森林博物館」内には村立の図書館もあるようです。時計を見ると10時半です。
博物館の事務室で、私の向かいは図書館員
 
 森林博物館の展示物の前で
 ロシアでは予約なしに博物館へ行くと閉まっていることがあるのです。訪問者が少ないのでシーズンオフには勝手に休館になっているのでしょうか。せっかくここまで来たのですから、何とか見学したいものです。それで、村役場を探し当て、そこで文化担当の人を見つけ、「私たちは、はるばるクラスノヤルスクから来たのですが、見学出来ないでしょうか」と言ってみました。担当者は、博物館長に電話をしてくれ、私たちは、入館できることになりました。
 博物館内は停電でしたが、年配の男性の館長が案内してくれました。展示物は古そうでしたが、森林に関するものは、なんでも展示され、詳細な説明文がついていました。館長と話しているうちに、4年前、日本の早稲田から年配の女性4人が見学に訪れたことがあり、そのときの写真もあるから、見せてあげよう、また事務室へいってお茶を飲もうと言うことになりました。館長は、戸棚の中を長い間探して、日本からの手紙を見つけました。その日本人は、ロシア文学者で、マルコフと言うソ連時代の作者の研究をしているため、トムスクを訪れたそうですが、そのとき時間が余って、誰かの推薦でこの「森林博物館」を訪れた、とか言う話でした。後に、写真を送ってきたと言う封筒には、差出人の住所や名前が書いてあり、日本語の名刺も同封してあります。遠い日本から、広いシベリアの同じ所に来るとは、何か縁があるかもしれないと思い、住所と名前をメモしてきました。
 一緒にお茶を飲んでいた図書館員の女性が、マルコフの『シベリア』という分厚い本をくれました。図書館の蔵書だけれど、登録されていないので、プレゼントできるそうです。私は、クラスノヤルスクに帰ってから、丁寧なお礼の手紙と、そのとき写した写真と、日本の森の絵葉書を郵便で送りました。ですから、将来その博物館を訪れる日本人は、私の手紙も見ることになるでしょう。
 後記2023年 ゲオルギー・マルコフ著『シベリア』
 
 贈呈された本『シベリア』
 トムスクの森林博物館の図書室から贈呈されたマルコフの『シベリア』という1994年版のロシア語の本は、ありがたく受け取ったが、将来読むとはあまり思えなかった。ロシア語の小説を1ページさえ意味のわかる程度に斜め読みするのも時間がかかる。557ページもあって、題がシベリアというのではシベリア描写の私の知らない単語が並んでいるに違いない。私はその本をクラスノヤルスクの自分のアパートまで持ち帰り、帰国の折には日本の自宅まで持ち帰りはした。本は捨てないことにしている私は、そのまま19年間も、我が家の本箱に、その本は並んでいたのだ。
 ずっと経って、時々行っていた市立図書館の奥まった書棚に『小説シベリア』という上下2冊の本が並んでいるのを見つけはいた。これを訳した本庄よし子さんという人が多分私の前に、トムスクの森林博物館へ訪れた日本人ではないかと思った。それからずっと後になって、その図書館から、翻訳本『小説シベリア』を借りることにした。小説は滅多に読まないが、ロシア語の原本も自宅にあるではないかと。翻訳本は1998年印刷となっている。購入した本ではないから面白くなければ最後まで読まない。
 しかし、面白かった。まず第一に地理が興味深かった。本を贈呈された2004年にはオビ川も旧ナルィム要塞(現トムスク州では最初の16世紀末にできたロシアの砦)の後にできたナルィム村(トムスクから北へ425キロ、かつてはナルィム市だった,1925年まで)も、ケチ川も、その最上流でエニセイ川の支流とつながるオビ・エニセイ運河のことも、知らなかったし、シベリアの原住民トゥングース(今ではエヴェンキ人)やオスチャーク(今ではハンティ人)と、ロシア人との関係のことも知らなかった。『小説シベリア』には、右岸支流ケチ川がオビ川中流に合流するあたりのそのナルィム村やパラベリ村近くの寒村(しかし、シベリアにしてはそれなりの集落)に住むロシア人商人,狩人、漁民たちや、首都から流刑になったボルシェヴィキ(レーニンの党)の青年、その脱走を助けに首都から来た若い女性、現地で密かに革命派の脱走を助ける隠れボリシェビッキが登場する。トムスクからの脱走応援グループも登場する。
 ボリシェヴィキ青年が理想と語る社会主義のソ連はもうなくなっていて、おそらく作者は青年の思想を小説で語りたかったのだろう。執筆は1969-1973だった。まだ、この種の小説しか書けなかった頃かも知れない。
 シベリアは『小説シベリア』の1914年の頃は、原住民と毛皮獣や北方魚の取引、そのための商人達の集落が栄えていた。ナルィムなどは初めは原住民からロシア人を守るためと、シベリア膨張のための砦としてできたが、その後は、シベリア産物の中継地・集散地であり(産物はトムスクに送られた)、またシベリア流刑地の大拠点でもあり、以東の鉱山などに流刑
者を送るための中継点でもあった。(1912年頃には数ヶ月間スターリンもいたが、小説は1913年頃から始まっている。(それでなくとも小説中にスターリンを入れると,別の雰囲気になるからかも知れない)。
 
 翻訳された『シベリア』
 そうした原住民とのずるい取引や流刑者の脱走行などを描くドキドキするような小説の筋に沿ってシベリアの自然描写が美しく、懐かしい。私がクラスノヤルスクでもトムスクでも経験できなかったようなシベリアの自然だ。かつてエニセイを北へ下った時、わずかに想像できた厳寒のシベリアが思い浮かぶ。針葉樹林や夏場なら沼地となる雪原を、流刑から脱走してシンパの道案内人と行くボリシェヴィキの青年。もちろん、当地で最も権力のある警察から追われている。また首都からの知的な若い女性も、シベリア雪原を道案内人といっしょに警察をまいて進む。ペテルブルクからの革命家の(啓蒙的)思想的会話は、今では(昔でも)面白くないが、シベリアにある猟師小屋を転々として逃げ回る所はとても面白い。最小限のものがあって、そこにさえたどり着けば、ひとまず死なずにすむという小屋は、私もパドトゥングースカ川の畔で入ってみたことがある。
 ボリシェヴィキの青年は流刑になる前、伯父の著名な地質学者とシベリアの地図をつくろうとしていたのだ。つまり地下資源の探索もやったとなっている。そうして、第1次大戦に敗れ、ロシアが没落しそうになってもシベリアの地下資源がロシアを救ってくれると繰り返している。その通りになってはいる。しかし、シベリアの地下資源というのははたして誰のものか。ボリシェヴィキのインテリ青年は、トゥングース(エヴェンキ人)や、オスチャーク(ハンティ人)のことは、氷原にいるゴミ粒ぐらいにしか考えていない。それも堂々と。
 今でも、一応形ばかりの民族自治区や共和国はできているが、ロシア人はシベリアとは自分たちのもの、そこは無人の地だった、処女地だった。未開で少数北方民族がたまにいたかも知れないが、ロシア人が来てこそ開発できたのだと、悪びれず思っている。『小説シベリア』のペテルブルクから来た青年は,シベリアの資源はロシアの宝と繰り返し、小説の終わりには、地質学者達とつくった地図と地質調査を元に、開発に乗り出そうとしている。それが、現在に西シベリア油田、バシュガン沼地の油田のようだ。その頃はニジェネヴァルドフスクなどという近代的な石油産業大都市などはなかったのだ。
 兵役の少年
 帰りの列車は行きと同様、満員でした。トムスクからクラスノヤルスクへ移動する兵士がぎっしり乗っていたからです。寝棚の半分は一般旅行者が占め、残りの寝棚は兵士用でしたが、寝棚の数より兵士の数の方が多いようで、彼らは交代に寝ていました。私の横の寝棚も、1台に二人の兵士が割り当てられました。歳を聞くと17歳、かわいい顔立ちでした。まだ、1年目だそうです。ですから2年目の兵士に如何にいじめられるかと言う話をしていました。近くの寝棚にいたナースチャとアリョーナも来て、私たち3人はその恐ろしい話を半信半疑で聞いていたのです。耐えられないような軍事訓練を強制され、何とか免れるために病気になるか、怪我をしようとし、それが原因で死ぬこともあると言うことです。一人はオムスクから、もう一人はヤクート出身で、トムスクの北のセーベルスク市(ソ連時代、軍事用ウラン工場があったため秘密都市で、暗号名は『トムスク7』だった)で兵役についていて、今度はクラスノヤルスクのどこかへ行くそうです。
 列車がクラスノヤルスクに近くなると、ごつい革の長靴の中に、ねずみ色の巻き脚絆を器用に巻いて足を入れるのでした。ソ連時代の戦争映画では時々見かけます。このごつい皮ブーツでは靴下ぐらいでは痛そうです。
 アレクセイとターニャ夫妻
アレクセイとターニャ
 今回、3日間でしたが、19世紀末まではシベリアの首都といわれたトムスクを、若い友人のナースチャとアリョーナのおかげで違ったふうに見ることができました。いつもは一人旅が多いのですが、友達の友達夫婦の一部屋アパートに5人で寝るような旅もいいものです。その夫婦(妻は研究助手ターニャ、夫はレーザー光線研究者で講師アレクセイ)は、日本人が泊まってくれたのは初めてだと、喜んでくれました。

その後、夫婦には赤ちゃんができました。

2005年3月29日に送られてきた写真 2005年4月30日に送られてきた写真 モスクワの学会に参加したアレク
セイ、05年9月28日に送られてきた
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