クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2006年12月6日  (校正:2008年6月20日、2019年11月21日、2020年10月9日、2022年4月3日)
1 7- (2)    ザバイカリスク、国境の話(つづき)
チタ州とウラン・ウデ市、バイカル湖オリホン島へ
                  2004年8月9日から8月21日

Пограничники в Забайкальске. Чита, Улан-Удэ, Ольхон на Байкале с 9 по 21 августа 2004 года


1) 2)ニキータ
 ホロンバイル行きの計画   イルクーツクからオリホン島へ
 国際列車で中国との国境へ   『ニキータの館』
 国境ゲート前   泥浴
 チタ州庁所在地チタ市、外国人登録部   北のホボイ岬
 チタ州観光    オリホン島を去る日
 ウラン・ウデ   イルクーツクからクラスノヤルスク

 ニキータ

 もうすでに3日前のチタ市からウラン・ウデへの列車の中で、クラスノヤルスクに帰る前にイルクーツクのバイカルにも寄ろうと決めていました。この2年間ずいぶんロシア国内を旅行しましたが、バイカル湖へ行こうとは思いませんでした。なぜなら、3回ほども行ったことがありますし、世界中から研究者や観光客がどっさり訪れているようで、外国人や日本人があまり知らないような所を自由に回れるようになってからは、特に魅力的ではなかったのです。バイカルは有名すぎます。

14年前のニキータ、当時のオリホン島の家で

 まだ旅行客のいなかった15年前と14年前に、バイカル湖のオリホン島に住んでいるニキータに招待されて行ったことがあります。初めてのロシア超田舎体験でした。牛の乳を搾ったり、イラクサと知らずに触って長い間手がひりひりしたり、日本の非水洗トイレとも違うロシア風戸外トイレに悩まされたりしました。その後も、ニキータが何度か招待してくれました。でも、1992年からは、私はクラスノヤルスク45市(今はゼレノゴルスク市)にいましたし、当時はロシア国内旅行がとても不便で難しかったので、せっかくの親切なニキータの招待でしたが、バイカルを訪れませんでした。時々、イルクーツクの日本人が、バイカルのオリホン島へ行って、ニキータの家に泊まった、とか行って、当時私の住んでいるクラスノヤルスク45市のアパートを訪れてくれました。ニキータの手紙には有料のホーム・スティを始めたが、私が来た時は、もちろん無料で泊ってほしい、ぜひきてください、とか書いてありました。
 チタ市からウラン・ウデ市までの寝台車の中で、
「あの時(14年前)、イルクーツクからオリホン島まで行った時は、途中のどしゃぶりの雨の道で車が故障してしまい、私は通りがかりのトラックの助手席に乗せてもらい、ニキータは、タオルをかぶって荷台に乗っていた。雨風の吹きさらしでとても寒そうだった。そのニキータは、今も、オリホンにいるだろうか。ホテル業なんかを始めたようだが、今も、続けているだろうか」と考えていました。バイカルは見なくてもいいが、ニキータには会いたくなりました。あの頃は、オリホン島の中心村フジールにホテルはありませんでしたが、観光地になって外国人観光客が押しかけているのですから、たとえ、ニキータのホテルはなくても、フジールには宿泊施設はあるでしょう。
 そこで、ウラン・ウデに着くとすぐ、ウラン・ウデからイルクーツクまでの寝台車と、イルクーツクからオリホン島までのバスの往復、オリホン島で3泊の手配をしておきました。コンパートメント(『軟』寝台車、2等)は満席だったので『硬』寝台車というのを買ってありました(2000円)。これはB寝台車に似ていますがカーテンがなく、広軌道で車両の幅が広いので通路側にも縦にベッドが並んでいます。この縦の寝棚しか空きがなかったのですが、せめても上段でなくてよかったです。通路側のベッドは狭いような気がするので、上段に寝るのは怖いです。下段は通路を通る人皆に寝顔を見られますが。

 イルクーツク着、オリホン島へ

 8月17日の朝8時、イルクーツク駅に着くと、現地の『バイカル旅行会社』とかいうところから、職員がちゃんとオリホン島行きのバスのチケットを持って迎えに来ていました。バスは、駅のすぐ近くから発車します。バスに乗せてくれて、フジール村の『太陽の島』ホテルに宿泊できること、帰りのバスは、何時にどこから乗るか教えてくれて別れていきました。この手数料が800円です(言われるがままに支払っていた私)。
 オリホン島行きのバスは朝の便があってほぼ満員です。イルクーツクからフェリー乗り場までかなりいい道になっていて、午後2時ごろ着きました。途中に以前にはなかったドライブインがたくさん建っています。ロシアでも観光業が発達したものです。フェリー乗り場なんか、立派なツーリスト中継点のようでいた。フェリーも14年前は、昔風の渡し舟で車が1台やっと乗る程度で、それも乗るときマフラーがつかえたりしたものですが、今は普通のフェリー船になっていました。安全で快適そうではありますが、昔のほうが面白かったです。。
 イルクーツクからのバスの乗客はバスから降りて順番を待つことなくフェリーに乗れますが、自家用車は長い間順番を待たなければなりません。フェリー船がオリホン島に着くと、島内のバスに乗り換え、フジールに向かいます。道は舗装こそしてありませんが(ロシアで、舗装してある島なんてあるのか)かなりよい道です。フジール村に入ると、バスは順々に各ホテルの前で泊まり、乗客が少しずつ減っていきます。

 
 オリホン島フジール村への道
 
フジール村 
オリホン島、ブルハン岬 

 村では、窓辺を飾ったこぎれいな家が建ちならび、時々ロシアの田舎で見かけるような倒れ掛かった家、傾いた塀、貧しい身なりの子供たちや老人、道端に寝ている酔っ払いなどは見かけません。車が走っています(これも以前と違う)。新装の店が目立ち、外国人ツーリストが出入りしています。今のフジール村のように景気のいい成長期の市町村と、経済の立ち直らない過疎化一方の市町村の差が、一時期ロシアでは目立ちました(その後も)。

 私が宿泊することになっている『太陽の島』ホテルは新築で木の香りがして、泊り客は今日のバスに乗ってきた6人でした。3食付きで1泊2000円、2人部屋なので、一人旅の私には相客があります。というのも、もうこの頃は、私の手持ちのお金も少なくなって、豪華旅行はできなくなってきたからです。
 フジールには相変わらず水洗トイレはありません。水道もありません。ですから、シャワーもなく、それで、週2回蒸し風呂を炊きます、ということでした。バケツにお湯をもらって体を洗うこともできます。

 ニキータの館

 バスから降りて、最初に出会った島の人に、
「ニキータ・ベンチャーロフという、元卓球の選手で、奥さんがモスクワから来たという人を知らない?」と聞いてみると、
「もちろん、知ってるよ」ということです。それで、荷物を部屋に放り込んで、教えてもらった方向に行ってみました。『ニキータ・ベンチャーロフの館』という看板が出ている大きなワイン色の屋根の家がそうだ、と教えてもらいましたから、遠くからでもすぐわかりました。
 『ニキータ・ベンチャーロフの館』付近はマイクロバスなどの車がたくさん止まっていて、大きなリュックを担いだ外国人ツーリストたちが出入りしています。隣に、そのツーリストを相手の売店が立っているくらいの繁盛振りです。『ニキータの館』内には受けつけと書いた小屋、お土産品を売っている入り口の小屋、ツーリスト用の1階建てや2階建ての小屋(と言うか、バンガローと言うか。2階建ての場合は外付け階段がある)が数軒、屋外食堂や屋内食堂、厨房、トイレ小屋、入浴用小屋、ブリヤート様式の庭、ブリヤート様式のトーテムポール群、ロシアおとぎ話様式の子供の園、いろいろな形のベンチ、バイカルの絵を書いた壁、葦の囲い、野鳥の巣、彫刻された木製のアーチなどが実に雑然とあり、さらに小屋を建て増ししている建設従事者や、焼き飯を作っているタジク人、お盆を持って行き来しているウエイトレス、ツーリストに対応している従業員らしい女の子などとにぎやかで、静閑として泊り客が7人の『太陽の島』ホテルとは大違いです。

『ニキータの館』のニキータ.再会できた

 焼き飯を作っているタジク人に、
「ニキータ・ベンチャーロフはどこにいるか知らない?」
「ほら、あそこに」と言う方を見ると、確かに、14年前と同じやせて背の高い金髪というより銀髪のニキータが、誰かと話しています。私はその時、度の強い近眼の2点焦点レンズのめがねをかけ、着たきりすずめでしたが、ニキータが思い出してくれるものと、
「ニキータッ」と叫びました。振り向いたニキータは一瞬たじろいだものの、すぐに私とわかって、感激の再会でした。奥さんのナターシャや長男のチィーマも出てきました。ナターシャとはイルクーツクで会った事があります。チィーマは生まれたことを手紙で知っているだけです。最近、次男も生まれました。

 その後のニキータのことは何も知らなかったので、『太陽の島』ホテルに宿を取り、宿泊料も前金でイルクーツクの旅行会社に支払済みであるとニキータに言うと、返金なんかして貰わなくていい、自分の所にただで泊まればいいといって、広めの小屋を提供してくれました。暖炉とベッドが3つ、いすが2つ、棚もありました。ロシアの下水道のない田舎のちょっと上等なホテルに時々見かける『バイオ・トイレ』という簡易移動式薬品処理トイレが、小屋の隣においてありました。その隣が洗面所とシャワールームです。バイオ・トイレは壊れていました。洗面所とシャワールームには、バケツ2杯の水があるだけでした。
 でも、部屋、トイレ・シャワー小屋全体が錠前のある門で通路から区切られ、プライベート・スペースになっているだけでも、これはデラックス・ルームです。後で部屋係の女性に、トイレの文句を行ったところ、バケツからひしゃくで水を汲んで手動で流すそうです。1日1回、手動で部屋係が薬品も入れ、汚物を捨ててくれるそうです。共同の『直接落下トイレ』へ行くよりずっと快適です。 
 
 『太陽の島』ホテルの二人用相部屋に放りっぱなしになっている私の荷物を取りに行くため、ニキータは運転手付き車を貸してくれました。理由を言うと、ホテルの女主人は、
「ニキータとどんな関係なの?秘密でなかったら、教えてちょうだいな」と好奇心と不可解の複雑な顔で聞いていました。古い友達というだけですが。
 今ではオリホン島第一のホテルの経営者になったニキータはめちゃめちゃ忙しいです。夏場しか商売はできませんし、島を訪れるほとんどの外国人ツーリストは、値段も手ごろで、ウエイトレスから女主人のナターシャまで英語ができるという『ニキータの館』の方に泊まるだけでなく、たとえ他のホテルに泊まっても、島内ツアーにマイクロバスで行くとかボートで行くとかする時は、ニキータの所に申し込みに来るようです。この料金も良心的で、外国人にすれば超安価。ですから申し込みが殺到で、ニキータやナターシャはオプショナル・ツアー関連でも、商売がうまくいっています。
 9月になれば、ツーリストはぐっと減るうえ、バイカルに氷が浮かぶようになれば、フェリーも運行中止です。真冬、氷が厚くなると車で島に来ることもできますが、それまでは島は特別な場合の飛行機を除いて交通機関もなく隔絶され、ニキータ一家も『館』をほとんど閉鎖して(番人は置くが、それでも、泥棒にかなりの設備を盗まれるそうだ)、イルクーツクに住むか国外旅行などに出かけるそうです。外国旅行には、村の学校の生徒数人を同行することもあるそうです。その費用をニキータが一部負担します。そういう形で村へ、貢献しているそうです。ナターシャに言わせると、賄賂は払いたくないが、村の行政部との関係をよくするために行っているそうで、国外ばかりではなく、モスクワやノヴォシビルスクなどの大都会へ村の子供たちを定期的に、順番に、連れていっているそうです。 

 忙しいニキータの一家としばらくだけ
ピクニックへ
 
 ナターシャと次男のチーシャと

 『ニキータの館』内ではニキータと話すこともできません。絶えず、ニキータに用事のあるツーリストや島内ツアー関係者がニキータを探し回っているからです。それで、次の日、ツーリストの往来も一段落する11時過ぎ、私とニキータ一家は数時間だけでも、近くの小川にピクニックに行くことにしました。もちろん運転手つきで、目的地に着くと、私たちがおしゃべりしている間、その運転手がせっせと火をおこし、魚を捌き、塩をして焼き魚を作ったり、お茶を沸かしたりしてくれました。
 ニキータははじめ、バイカルへ来たいと言う友達やイルクーツクの学生たちを、ただで、自分の家に泊めていたそうです。そのうち希望者が多くなってきました。ただで泊めていたのでは設備の充実もできないというので、直接の知り合いでない場合は料金をとるようになったそうです。はじめは小さな小屋から始め、隣に建て増ししたり、階段を作って二階建てにしたり、離れを作ったり、また別の離れを作ったりして、新しい小屋や、新しい庭がひとつずつできてきました。増築はさらに続いています。今のところ最高200人の宿泊客は受け入れできるそうです。この『ニキータの館』が満員になれば、ニキータ提携の村内ホーム・スティ先もあります。
 『ニキータの館』はオリホン島で有名なだけでなく、ニキータの卓球選手ネット網でヨーロッパにもよく宣伝されているようです。ヨーロッパの旅行案内書にも『ニキータのホーム・スティ』という名で載っています。こんなに繁盛しているのも、モスクワの会社で働いていてビジネスに聡く、パソコンも堪能で、外国語も達者な妻のナターシャの力が大きいと島内の人たちは言っています。
 「お金なら、今はいくらでもある。昔、貧乏だった時、金沢で歓迎してくれたタカコにお礼がしたい。あの時、もらった日本製ロシア語タイプライターが今でもある」。
 でも、私の方だって15年前と14年前の2度もフジールにきて、歓迎してもらいましたし、ニキータが私に借りがあるなんてとんでもない。オリホン島滞在と島内ツアーを全く唯にしてもらって、私のほうに借りができてしまいました。
「日本へぜひ、家族で来てください」
「行きたいと思っている。お金はあるから、経済的な迷惑はかけない。自分たちの費用は自分で持つ(かつて、ロシア人を個人招待した場合は、国外へ持ち出し外貨のわずかだったロシア人の滞在費用は招待者の丸抱えとなったものだ)」ということです。フェリー船が運休中で『ニキータの館』が閉鎖中の春に来ることに決まりそうです。(15年前もニキータは私の春休み期間中に日本へ来たのです。)
  
   (後記:事実2005年春にはニキータは妻のナターシャと長男のティーマ、次男の2歳だったチィーシャをつれて日本へ来た。その後も何度も私の住む金沢市へ訪れてくれた。成長したチィーシャを連れてきたことも、『館』の従業員を連れてきたことも、イルクーツクから卓球団を連れてきたこともある。奥さんのナターシャはナターシャでピアニストを連れてきたこともある。実は、我が家のガレージの2階の物置を改造して、自分たちの仲間が泊まれるような簡易宿泊所まで作った。私はそこに、我が家で不要になったソファやテーブルを引き取ってもらった。)

再会できた島の校長先生の一家.中央は末っ子のヴァロージャ

 フジール村の隣にあるブリヤート人村訪問というツアーに、参加させてもらいました(無料)。村のはずれに観光客用にこぎれいなユルタを建て、観光客用の民族衣装を着て、きれいに化粧をした美人のブリヤート女性がブリヤートの説明をしたり、ブリヤートの歌を歌ったり、お土産を売ったりする1時間ツアーです。昔のオリホン島と比べて、なんと観光開発されているのでしょう。おまけに、民族衣装の女性の写真を撮ると50ルーブル払わなければなりません。
 ちなみに、外国人は何でも珍しがって写真をとる事を知って、島のルンペンまでモデル代を請求しているそうです。
 これは島に滞在中、ニキータの知り合いの校長先生一家とも再会したのですが、その奥さんのワーリャ(やはり先生)が言っていたことです。ワーリャたちもすぐに私を思い出してくれて、古いアルバムを持ってきました。
 私が島で初めての外国人だったこと、島で初めてのカラー写真を私からもらったこと、私が島の車を運転してみたこと(運転席に座ってはみたが、AT車でないので、でこぼこの島の道路を運転できなかったが)、いい香水をつけていたこと(今はぼろ服を着て、化粧なしのすっぴん顔)、昔は髪が黒かったのに今は茶髪なこと(白髪なので染めている)、ニキータの成功談など話が尽きませんでした。

 泥浴

 ロシアでは、運転手つきの車を持つ場合もありますが、車もち運転手を侍らせるという事もあります。提携『個人タクシー(マイクロバスもある)』が何台もあって、自分が移動したり、ツーリストを移動させたりする時に利用するわけです。それら提携車も、ニキータだけの用事をする車から、時間のある時だけ『館』に来る車までいろいろです。
 ニキータの依頼でその運転手の一人が、私を島の南に連れて行ってくれました。小さな湖があって、数グループのロシア人が泳いだり、日光浴をしたり、泥浴をしたりしていました。泥浴というのは、ロシアで人気のある健康法で、サナトリウムでもやっています。健康にいいという成分を含んだ泥土に浸かるわけです。実際は、そんな泥土を湖の底からすくってきて岸辺で体に練りたくって、しばらく寝そべっています。
 運転手がここで水浴(泥浴)でもしていたらいい、しばらくしたら戻ってくるからと去っていきました。
 しかし、底が泥土の湖なんて歩くだけでも気持ち悪いです。それで、サンダルを履いて歩こうとしたのですが、サンダルが泥に潜って歩けません。素足で歩いてみると、一歩歩くごとに泥が湧き上がってきます。もともと中国へ行く予定だったので、水着は持参していませんでした。それで、下着姿です。
 こんな泥の中で泳ぐなんて真っ平だわ、気持ちの悪い虫も泳いでいるみたいだし、と思って、引き上げようとした所、おっかなびっくりの私をじっと見ていたロシア人のお母さんが、
「あんた、どうやって来たの」と聞いてきます。
「車で来たんだけど、運転手は、私が泳いでいる間、しばらくどこかへ行くといって去っていったわ。」
「あんた、どこから来たの」
「ニッポン」
「遠くからきたのね、泥浴というのはね、こうやってやるのよ。泥を体中どころか、顔にまで塗るのよ。特に病気の所に塗るといいのよ。私たちは今、洗い流したところ。洗う前の私たちを見せたかったわ。」といって、泥をすくって私の足に塗ってくれました。
「私たちは、もう帰るのだけど、あんた、10分ぐらいは、泥をつけてじっとしているのよ、ここの泥は効き目があるからね」と言って、その一家は去っていきました。
 効き目のある泥だと聞いたので、できるだけ長く塗っておきたかったのですが、よく見ると蛭なんかもいます。これも効き目のひとつだと、運転手が後で言っていました。

 北のホボイ岬へ

 
 バイカル湖上、
貸してくれた毛皮を着ていても寒い
 
 左からドイツ人、私、イギリス人、ロシア女性、
ドイツ人のロシア人妻
 
ドイツ人の奥さんと 
 
北の岬 

 島の北の岬へは、15年前、ニキータの知り合いの島の校長先生のモーターボートで行ったことがあります。途中でバイカル・アザラシも見ました。今回は、外国人グループと一緒でした。ドイツ人夫婦とイギリス人男性、それにトリアッチ市から来たロシア人女性の5人グループでした。ボートにはまだ3人分席が空いていました。
 ドイツ人の奥さんはロシア人です。こんなカップルがよく夏のロシアを旅行しています。イギリス人のほうは昔若くてお金がなかった頃、日本を旅行したが、店に入ってパンの耳をただでもらって、いつも食費を浮かしていた、という話を英語と日本語とロシア語でにぎやかに話していました。
 モーターボートの運転手がガイドもかねます。ガイドはロシア語しか話せないので、やっぱりロシア語を知っていないとだめです。おかげで、15年前には知らなかった島の歴史や、岩の伝説も今回はたっぷり吸収できました。
 オリホン島は夏にはめったに雨が降らないそうです。私の滞在中はずっと快晴でした。だからオリホン島がいいのかもしれません。毎日、青い空と緑のバイカルが見られるのですから。それに、湖上から見る奇岩、飛びまわっている『でぶっちょ』かもめ、遥か対岸に見える厳しい山脈。

 ザバイカリスクの『無知・怠惰・無責任主義』の国境警備員が私を通さなくてよかったわ、とこの時思いました。もし、中国へ行っていたら、オリホン島に来てニキータに再会できるのはもう10年も後のことだったでしょう。実は、チタ市やウラン・ウデ市への寝台車のなかでは、国境のことを思い出すと悔しくて眠れなかったくらいです。ザバイカリスクから遠ざかるにつれて、悔しさは薄れていきました。

 ときどきボートから降りてバイカルの絶景を見に、岩の上を登りました。またボートに戻って先に行きます。ボートには毛皮のコートが人数分用意してあります。水上は並の寒さではありませんから。
 北の岬をぐるりと回って、島の東側に出てしばらく行くと湾があり、ここで下船して、昼食です。ここはニキータの私設『提携』地の一つのようで、火をおこして魚スープができるような、野外設備が整っています。別のボートで来たツーリストや、車で来たツーリストたち(きっと帰りはボートでしょう)と一緒に食事をしました。
 今まで魚スープというのは好きではなかったのですが、オリホン島で好きになりました。食後に練乳入りの甘いお茶を2杯も飲みました。パンに練乳をたっぷり塗って、滴らせながら食べていると、
「まあ、ロシア的な食べ方をしているのね」と、ドイツ人のロシア人妻に感心されました。 ここでもバイカルに足だけ浸かりました。バイカルは泥はなくて岩だらけです。気持ちがいいので草の上に寝っ転がって空を見ていました。ふと、地平線を見ると遠くに土煙が見えます。何だろうと思って目を凝らしてみていると土煙はだんだん大きくなり、こちらに近づいてきます。
「チンギスカンの軍隊が攻めてきたぞ」とガイドが言います。それは、何千頭もの羊の大群がバイカルの水を飲もうと走ってくるのでした。羊もなかなかスピードが出せるものです。これだけの大群の疾走する羊を見たのは初めてです。

 
 バイカルの水を飲みに来た羊の群

  帰りはロシア製ジープでした。普通の車ではとても通れない道です。しばらく行くと平坦な草原(ステップ)に出ました。15年前、ニキータの兄さんのユーラの車で、このステップをドライブしたのを覚えています。そのとき初めてステップを見、そこには特に『道路』というものがないということに驚いたものでした。今では、車の往来もあるので地盤の硬い『道路』ができています。

 オリホン島を去る日

 8月20日はオリホン島を去る日でした。イルクーツク発クラスノヤルスク行きの列車の夜中の1時半という遅い時間のチケットをウラン・ウデ出発の時、すでに買っておきました(買ったのは硬寝台車、イルクーツク駅に着いた時、コンパートメントのチケット3800円に買い換えて、交換手数料が550円)
 夜1時半にイルクーツクを出るのだ、とニキータに言うと、それなら夕方オリホンを出発すればいいとのこと。その時間バスはないが、車の手配をするから任せておいてくれ、とのことでした。

 
 郷土博物館、館長と館員さん
 
 帰りのフェリー


 出発までの時間、校長先生の奥さんのワーリャと島の郷土博物館へ行きました。むかし、この寂れた博物館へ行った時は館長の女性が一人いて、長々と説明をしてくれました。今は、大繁盛で、館長ほか、2人も館員がいるうえ、英語で説明をするガイドまでいます。そのうえ、建て増しをして新しいホールができたり、国際交流ルームもできたりしているのでした。
 館長も、ワーリャと一緒に入ってきた私を見て、
「あ、あの時娘さんと一緒に来た人ね」と言ってました。入場は島民並みに無料。私とワーリャは外国人グループを避けてガイドなしで見物しました。本当はガイドを頼みたかったのですが、ワーリャが説明するからといったのです。ワーリャが知らないというところは、ガイドをつかまえて聞きました。何でも聞いてくださいとガイドに言われました。ガイドをはじめ島の若者はすべて、ワーリャの教え子です。
 ちなみにニキータのところの従業員も、ワーリャの教え子で、一緒に『ニキータの館』へ入ると、ウエイトレスや受付、売店の子がみんな「先生っ」といってワーリャに抱きついてきます。(英語ができないと雇ってもらえない)。でも、中には教え子でない子もいて「あの子、知らないわ、他から雇ったのね」とワーリャは冷たく言っています。
 ニキータが定期的に島の子供たちをロシアの大都会や、外国に連れて行く時も、誰を連れて行くのかという推薦は、ワーリャの夫の校長がするのです。なかなかいい仕組みができているものです。 

 その日の昼食はニキータ夫妻とワーリャの4人で『ニキータの館』の特別食を食べました。4時過ぎてから、ニキータ提携個人タクシーで出発しました。これは、イルクーツク駅から、外国人ツーリストを『館』まで運んでできて、帰りに少しでも稼ぐため私を乗せたのです。来る時はタクシー代が1万2千円円ですが、帰りはたとえ客がいなくても帰らなくてはならないので割安で4000円だそうです。これもニキータが払ってくれたようです。私は、オリホン島では、『館』の売店で『バイカル湖旅行案内書』というのを600円で買ったほかは1ルーブルも使いませんでした。
 「4時に出発したのでは、到着が10時前になる。といっても、ちょうどに出発したのでは、フェリーの順番待ち次第では、遅れることもあるから、やはり4時には出発した方がいい。列車の出発まで駅で何時間も待つのは寂しいだろうから、自分の友達のところで、お茶でも飲んで時間をつぶしてください」と、ニキータは個人タクシーの運転手に私の休憩先の住所とメモを渡していました。そして、「タカコが世話になるから」と、個人タクシーの運転手を通して、その友達に島で取れた魚を数匹託ける、というニキータの心遣いです。
 フェリー乗り場では1時間ほどの順番で、フェリーの最後のスペースに乗り込めました。乗って、最後のバイカルの写真など写していると、乗組員の一人が私の顔をじっと見て、
「自分のこと、覚えているかな」と聞きます。泥浴のやり方を教えてくれたロシア人女性と一緒にいた家族だそうです。
「泥浴はどうだった?」と聞かれて、蛭が怖かったということは言わず、1
「初めての泥浴で面白かったわ」と答えました。日本では泥浴はやったことがないと言うと、意外な様子でした。

 イルクーツクのニキータの友達と言うのは、元ドイツ語の先生で、ドイツを回ってドイツ人旅行者を集め、イルクーツクでホーム・スティを受けつけ、バイカル希望者を『ニキータの館』へ送っていると言うニキータ・ビジネスのパートナーでした。

 イルクーツクからクラスノヤルスク

 イルクーツクからクラスノヤルスクへの列車では、同室の乗客が年配のフランス人女性(エヴィリンと言う名)で、一人で旅をしていると言うことでした。フランスからモスクワへ着いて、そこから飛行機でイルクーツクに飛び、バイカル観光もして、ウラン・ウデを回り、またそこからシベリア鉄道でモスクワに戻ると言うのです。バイカルはオリホン島へ行ったというので
「どこに泊まったの」と聞くと、『ニキータの館』だそうです。
「どうしてその『館』のことを知ったの?」
「ほら、この、私の旅行案内書に出てるでしょう」と見せてくれました。フランス語で『ニキータ・ベンチャーロフのホーム・スティ』とちゃんと載っています。

列車内のエヴィリン

 私たちは英語とロシア語(エヴィリンが会話集を持っていた)とフランス語と身振りで何とか話していたのです。
 ちなみに、私がイルクーツクから夜中の1時半に乗り込んだ時は、エヴィリンは私の席に寝ていました。仕方がないので私はエヴィリンの席に寝ました。ところで、夜中にめちゃくちゃ寒かったので、これはぼろ列車の窓が半壊れで隙間風が入ってくるのかと、よろい戸をしっかりと下に下ろし、よろい戸の隙間に枕カバーを詰め、私はそこら中にある毛布をかぶって、日本製ホッカロンまで出してきて寝ましたが、寒くて夜中に何度も目がさめました。
 少し夜が明けて明るくなって見てみると、窓が開いているのです。エヴィリンがロシアの列車の窓の閉め方を知らなかったに違いありません。自分は、フランスから持ってきた羽毛寝袋に包まって安眠です。その晩、コンパートメントは私たち2人だけでした。

 18時間は長い列車のたびでしたが、明るくなってちょうどクラスノヤルスク地方に入ると、私の大好きなタイガ(針葉樹林)とステップ(草原)を心いくまで車窓から見ていることができました。そんなところへ、クラスノヤルスクから車で行ったこともありました。今から2週間後、帰国の時は飛行機ですから、クラスノヤルスク近郊の懐かしい自然ともしばらくお別れです。
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