クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home   up date 06 May, 2018 (追記:5月10日、9月21日)
極寒のクラスノヤルスクとバイカル(5)
バイカル湖オリホン島へ
             2018年1月28日から2月13日(のうちの2月5日)

Путешествие в Красноярске и на Байкале эимой 2018 года (28.01.2018−13.02.2018)

 極寒のクラスノヤルスクとモティギノ(地図)
1 1/28-1/29 クラスノヤルスク着 スラーヴァ・ルィヒン エニセイ街道 モティギノ着(地図)
2 1/30-1/31 飛行場。学校 パルチザン金鉱 南エニセイスク。ラズドリンスク モティギノ博物館
3 2/1-2/2 モティギノの病院 ドラマ劇場、ルィブノエ村 遠回りのカンスク経由 バライ村村長、クラスノヤルスク市へ
4 2/3-2/4 見張り塔跡(地図) ファン・パーク ダーチャ イルクーツクへ
 氷のバイカル
5 2/5 ヤクーチア郵便街道を(地図) バイカルの娘たち 『バイカルのさすらい人』 『ニキータの館』
6 2/6-2/7 (地図)フジール村再会 オリホン島南観光 氷上バレー ドイツ人メルツ校長
7 2/8-2/10 フジールの学校 ハランツィ湾の氷 北コース観光 氷上の長い割れ目
8 2/11-2/13 イルクーツクへ戻る ポーランド・カトリック教会(地図) コルチャーク像 ハバロフスクのタクシー
 ヤクーチア郵便街道を
 2月5日(月)。早朝6時35分イルクーツク駅着。早朝に到着する列車が都合いいと思ったのだ。モティギノからと、列車内からも連絡しておいたので、ジェーニャ・マステルスキッフさんЕвгений Мастерскихが駅に迎えに来てくれていた。彼は1年ほど前、金沢に来たことがある。ニキータ・ベンチャーロフを通じて(ニキータに雇われたような形で)来たのだ。1週間ほど私の家に住んでいた。彼は大工さんだったので私の家の不都合も直してくれ、私がイルクーツクに来た時は案内すると言っていた。
ロシア連邦道(アジア方面)
(1)モスクワ<M5 ウラル道>(2)チェリャービンスク<R254イルティッシュ>(3)ノヴォシビリスク<R255 シベリア道>(4)イルクーツク<R258バイカル道>(5)チタ<R297 アムール道>(6)ハバロフスク
イルクーツクツク州南東部

 ジェーニャの車でイルクーツクのベンチャーロヴィ宅に行く。そこにはニキータの姪が仮に住んでいて、ニキータの母のアントニーナ・イヴァノヴナさんАнтонина Ивановнаが私を待っていてくれた。すぐにバイカル湖のオリホン島に出発するためだ。イルクーツク観光は帰りにする。
 ジェーニャがオリホン島まで送ってくれてもよかったが、大工の彼には仕事がある。そうでなければ、私と一緒にオリホン島のニキータ所有の『ニキータ・ベンチャーロフの館』で過ごせたのに。帰りのイルクーツクで彼宅に寄り、お茶でも飲んでいってほしいと言われた。
 すぐにオリホン島へ行く車が来たと知らせがあった。8人乗りくらいのワンボックス・カーを運転してきたのはガリと言う運転手。後でわかったのだが、イーゴリの愛称(卑称)がガリだった。アントニーナさんともう一人の男性と私の3人が乗って、イルクーツク市内を北に抜けた。ガリもニキータ・ベンチャーロフのところで働いているらしい(運転手はたいてい車のオーナーだ。自分の車で『ニキータの館』からの予約注文を受ける。注文主が、主にニキータの時は、専属車ともいえる。)

 イルクーツクからカチューグКачугまでの250キロを連邦道R418道(かつての『ヤクーチア郵便街道』の一部)という。この道は、南西から北東に三日月型に延びるバイカル湖の西岸を、バイカル湖とほぼ平行に走っている。平行と言っても、バイカル湖の西岸は険しい山脈に囲まれているので、湖に沿った道路は作れない。湖岸から50キロも離れたところに、湖岸にほぼ平行に、盆地や谷間をつないでできた道だ。
 イルクーツクはノヴォシビリスクから1864キロの連邦道R255『シベリア道』の終点で、チタまで1100キロ伸びる連邦道R258『バイカル道』の始点でもある。実際は、両連邦道はイルクーツク市内を迂回して、R255とR258 のジャンクションはその迂回路にある。モスクワからチェリャービンスクまでの1879キロの連邦道M5『ウラル道』は、チェリャービンスクからノヴォシビリスクまでの1528キロの連邦道R254『イルティシュ道』とつながっているから、連邦道『ウラル』、『イルティシュ』、『シベリア』、『バイカル』はシベリア横断の大動脈だ。シベリアがロシア帝国の植民地となった18世紀には『シベリア街道』または『モスクワ街道』として、ほぼこのルートに宿場と替え馬のある陸路が整備されていた。ちなみに、チタからハバロフスクまで2165キロのR297『アムール道』はなかった。20世紀末頃までまともな陸路はなく航路(アムール川)を通っていたと言う。さすが21世紀の2014年には前線が一応アスファルト舗装された
 道路についてもう少し付け加えると、イルクーツクから東へ『バイカル道』を100キロも行ったところのクルトゥクからはモンゴルの最北フブスグール湖へ行く道路が伸びている。また、『バイカル道』のウラン・ウデからはモンゴルとの国境キャフタへ向かう道路もある。それは18、19世紀のロシアと清朝中国のキャフタ貿易の通商路でもあった。
 アンガラ川岸にあるイルクーツクからバイカル湖岸のリストヴャンカ町に向けて68キロの『バイカル街道』25K-111が伸びている。つまり、イルクーツクとバイカルの間は60‐70キロはあるわけだ。リストヴァンカ町はバイカルからアンガラ川が流れだすところにある。後のことになるが、イルクーツク市見物をした時、アンガラ川に沿った通りに『バイカル街道』と書いた標識があった。短いバイカル街道は連邦道R258の付属とみなされているそうだ。
白装束に武器を担いだ兵士の一部
「土地売ります。電話番号」の看板
ホムトヴォ近くの兵士
エヒリト・ブラガット区に入る

 朝、また薄暗いうちに(*)ガリ運転のワンボックス・カーで北へ出発したR418(イルクーツクからカチューグ)も、シベリア運営のための主要道であって、前述のようにかつての『ヤクート街道』の一部だ。『ヤクート街道』は18世紀初めごろに通行ができるようになった2766露里の行程で、『イルクーツク・ヤクート郵便道』とも呼ばれた。郵便物、つまり行政の公文書の往復だけでなく物資や人も運んだ。イルクーツクからほぼ現代のR418でカチューグ、さらにレナ川に沿ってジガロヴォЖигаловоまでは陸路。ジガロヴォからはレナ川を航行してヤクーツクまで行く。全部で80あった宿場(郵便ステーション)のうち、イルクーツクからジガロヴォまでの陸路376露里(約392キロ)には15の宿場があった。そのうちの1つ目の宿場がホムトヴォХомутово、3つ目がウスチ・オルディンスキィУсть Ординский、5つ目がバヤンダイБаяндай、9つ目がカチューグで、各宿場は16‐35露里の間隔であった。19世紀後半、ヤクート街道では週2便の国営馬車が通り、街道の宿場には120頭の馬が用意されていたそうだ。後に、特にレナ川沿いのキレンスキィに砂金が採れるようになると420頭の馬がつかわれ、大量の荷を運んだ。物資の他に、シベリアと言えば、むろん、流刑囚の通り道でもあった。
 (*)ソ連時代から、シベリアの時間帯は太陽の動きと2時間ほど違う。2月5日の日の出は9時41分(朝焼けは7時44分から)、南中は14時18分、日の入りは18時55分(夕暮れは20時52分まで)だ。これは夕方の時間を有効に使うためだとか。
 ガリは、R418道を急いでいた。朝の8時すぎ、通行量が多いと言ってもそれは郊外から市内に入る対向路線の方で、郊外に向かう方は空いていた。ガリが言うには間もなく通行止めになるから、その前に通り過ぎようと急いでいる、そうだ。ホムトヴォまでの道端には白い装束に武器(とはすぐ気が付かなかったが)を担いだ一団が何カ所も立っていた。頭から足までの頼もしい防寒具をつけていたので初めはスキーヤーかと思ったが、イルクーツク市北東に数カ所あるミサイル基地の兵士だった。ソ連邦軍隊は陸海空軍とは独立して、地対空ミサイルや戦闘機を保有する防空軍(独立してあったのは1998年まで)があり、その基地がイルクーツク北東郊外にあるのだ。ガリの言うにはロケット(ロシアではミサイルをロケットと言う)を移動させるため、通行止めにするそうだ。だからその前に通り過ぎようと急いだのだ。村々を通り抜ける普通の道路を(連邦道は村を一応迂回して、つまり村はずれに通じてはいるが、それでも村をかすめる)、祭りでもないのにミサイルが移動する?たびたび通行止めになる?
 ホムトヴォを過ぎると重白装束の一団は見えなくなった。
 森や畑地が続く。ダーチャ用の土地が売りに出されているのか、『12アール』とか『14アール』とか書いた看板が出ている。面積の下には電話番号が書かれている。エヒリト・ブラガット区Эхирит-Булагатский район(*)に入ると遠くの山まで遮るものなく広がる草原が現れる。アンガラの右岸支流で226キロのクダКуда川やその左岸支流のムリンМурин川(92キロ)の盆地だ。
(*)エヒリト・ブラガット区  その名称はブリヤートのエヒリト部族連合とブラガット部族連合から来ている。ウスチオルダ・ブリヤート管区の内の6区の一つで、管区の行政中心地ウスチ・オルディンスキィもある。人口3万人。
 草原に薄く雪が積もっているので、見渡す限りの白ベージュの世界で、その中にまっすぐな舗装道が地平線のかなたまで伸びている。雪の白と雪が浅いところはその下に透けて見える枯れ草が遠くからは薄ベージュにも見える。アンガラ川支流のクダ川の流域はバヤンダイ村あたりまでで、その先のR418道はレナ川流域のマンズルカ川Манзурка川の盆地になる。バヤンダイ村は、クダ川とマンズルカ川の分水嶺にもなるわけだ。ちなみに、バヤンダイ村からさらに13キロ行ったとことにパラヴィンカ(真ん中の意のロシア語)村がある。イルクーツクからカチューグまでの真ん中にあるからか。
 クダ川もマンズルカ川もブリヤート語か、またはチュルク語から来ている。もともとバイカル湖は両岸とも、トゥングース系(現エヴェンク人など)や、(古代)チュルク系、(先)モンゴル系の遊牧民のテリトリーだった。中国の資料ではエニセイ川からバイカル湖にかけて遊牧していたДинлины (Dingling) (丁零) または Гаочэ (高車), Чилэ (敕勒), Телэ (鐵勒)) の一派のバィゥイルク Байырку (Bayegu, Bayirqu 拔也古 (баегу или байе-гу)が、バイカル南から、アムール流域、モンゴル北に住んでいたとある。バィゥイルクは5‐7世紀ごろに契丹に追われて、より北西のバイカル両岸に移動した。バイカルと言う地名はこの『バィゥイルク人の地』の意味から来たと言う説がある。古代チュルク語、または先モンゴル語を話していたらしいバィゥィルク人はブリヤート人の祖先とされている。バイカルには、また、テレ(鐵勒、つまり、古代チュルクの部族連合)の一派 クリカンКурыканы骨利幹(こつりかん、ピンイン:G?ligan)が住んでいた。クリカンは西のエニセイ上流から移動して、東北のレナ川中流へ行き、ヤクート人の祖先になったと言われている。
 紀元後千年紀にはバイカル湖はチュルク系の突厥遊牧帝国や、キルギス帝国、契丹などの勢力下にあり、17世紀にはバイカル両岸からアムール川流域、モンゴルはロシア帝国と清朝中国の侵略の対象となっていた。
 17世紀半ばにはバイカル西岸(バイカルの近辺、つまりモスクワから見てこちら側Прибайкалье)にロシア・コサックの柵網(砦のネットワーク)ができ、現地人から毛皮税など徴収していた。17世紀後半にはバイカル東岸(バイカルの向こう側Забайкальское)にまで及んでいったが、アムール川流域より南下はできなかった。つまり念願の太平洋岸不凍港はまだ得られなかった。清朝中国が阻んだからだ。1689年ロシア帝国と清朝中国との間にネルチンスク条約が結ばれ、清朝にやや有利な国境が画定されたのだ。バイカル両岸はロシア帝国領になったが、アムール川流域は清朝中国領となった。アムール川岸にコサック隊によって建てられたアルバジン砦Албазинなどは撤去することになった。国境が住民とは関係なく画定されたので、バイカル両岸のモンゴル人はモンゴル高原の母体とは切り離され、ブリヤート人となったのだ。当時、現在のブリヤート人の祖先はバイカル両岸からアムールの源流アルグニ川(右岸・南、現在の国境)やオノン川(左岸・北側源流シルカ川の右岸支流)流域に住んでいた。ちなみにシルカ川流域にネルチンスク氏がある。
 ロシア帝国の継承国家ソ連では、東シベリア州内に、1923年にはウラン・ウデを首都とするブリヤート・モンゴル社会主義ソヴィエト共和国Бурят-Монгольская Советская Социалистическая Республикаができ、1937年には東シベリア州がイルクーツク州とチタ州に分かれたことによって、ブリヤート・モンゴル社会主義自治ソヴィエト共和国から、イルクーツク州内のウスチオルダ・ブリヤート民族管区と、チタ州内のアガ・ブリヤート民族管区が分かれ出た。1958年にはブリヤート・モンゴル社会主義ソヴィエト自治共和国からモンゴルの文字が消え、ブリヤート社会主義ソヴィエト自治共和国となる。(ウスチオルダとはロシア語ではウスチ・オルディンスキィУсть-Ордынский、アガはアギンスキィАгинский。形容詞のあるロシア語の地名を日本語表記する時は形容詞語尾を取り去って語幹だけにする。施設名の場合は取らない)
 1937年にイルクーツク州内に新たにソ連邦を構成する独立の主体としてできた前記のウスチオルダ・ブリヤート自治管区だったが、2008年、イルクーツク州内のイルクーツク州を構成するウスチオルダ・ブリヤート管区(自治が消える)となった。
 現在、ウスチオルダ・ブリヤート管区は人口13万人で、ブリヤート人は小数派で40%弱の5万人しかいない。55%はロシア人だ。6個の行政区にわかれていて、管区行政中心地ウスチ・オルディンスキィ村のあるエヒリト・ブラガット区(3万人)は、その一つだ。
 全ブリヤート人は55万人から69万人いるとされている。そのうちロシアには46万人、その内訳は、ブリヤート共和国には27万人、イルクーツク州(ウスチオルダ・ブリヤート管区を含む)には7万8千人、ザバイカル地方(アガ・ブリヤート管区を含む)には7万4万人。一方、中国には7万人から16万人(中国ではモンゴル人とブリヤート人を区別しない)、モンゴルには5万人とされている。

 このエリヒト・ブラガット区を行く連邦道はどこまで行っても見晴らしの良い草原の道を通る。遠くに放牧地の雪の中から草を食んでいるヤクート馬の群れが見える。
 
 バイカルの娘たち
 イルクーツクからR418の終点カチューグまでのちょうど真ん中、前記のように、アンガラ右岸のクダ川と、レナ川左岸のマンズルカ川の分水嶺辺りにあるのが、バヤンダイ村Баяндайで、バヤンダイと言うのはエヒリト部族(前記「エリヒト・ブラガット区」の名前の由来)の8つの氏の一つだ。
 17世紀からのヤクーツク街道の宿場町だったバヤンダイ村は、現在人口は2500人。ここで私たちは直進してカチューグの方へは行かないで、連邦道を出て東のバイカルの方に曲がる。イルクーツクからバヤンダイまで130キロほどだが、目的地までまだ160キロほどあるので、ここで休憩。現在も宿場町だ。
 運転手さんたちがいつも寄るらしいカフェに入る。ここには屋内トイレがある。アントニーナさんがお茶とホット・ドックを買ってくれた。ガリはだれかと待ち合わせがあるらしく、時々電話している。そして急いでいるようだったのでホット・ドックは車内で食べる。
 バヤンダイは前記のようにアンガラ流域とレナ流域の分水嶺辺りにあるのだが、中央シベリアの大河アンガラ(サヤン山脈から北上し北極海に注ぐエニセイに合流する)と東シベリアの大河レナ川(南のバイカル山脈から流れ北極海に注ぐ4400キロ)の源流がこんなにも近いことに驚く。アンガラはバイカルから流れ出す唯一の川でレナ川はバイカル湖岸からほんの10キロのバイカル山脈の北西麓の高度1470メートルの沼から流れ出す。その10キロに細いが高いバイカル山脈がバイカル湖を縁取っているからだ。アンガラ(女性名詞)はバイカル(男性名詞)の愛娘で、レナ(女性名詞)は継娘だ、と言われているのも当を得ている。アンガラはバイカルから大量の水をもらい、始めから堂々と流れて、サヤン(山脈、男性名詞)の息子エニセイ(川、男性名詞)と結ばれる。(父バイカルの反対を押し切って勇士エニセイの方へ走ったと言う伝説がある)。一方、レナは近くに生まれているのに、バイカルからは一滴の水ももらえず、自力で深い森の中を流れ、少しずつ力を蓄えて行かなければならない。
 エニセイ川とレナ川の間で北極圏より南では、すべての水分は結局エニセイ川(アンガラ川)かレナ川に流れ込まなくてはならない。(北極圏内でも多くの川は両川に流れ込むが、独自に北極海に直接注ぎ込むハータンガ川やアレニョークОленёк川がある。)
エランツィ村で部品を手渡すガリ

 バヤンダイから東にほぼ直角に曲がると60キロほどでバイカルの近くのエランツィ村に突き当たる。8年前は舗装してなかったが、今は、『バヤンダイ・エランツィ・フジール』(25K-003道といって、R418の付属となっている)道と言って、大陸内はアスファルト舗装されている。バヤンダイを曲がると、オリホン区となっていて行政中心地は前記のエランツィЕланцыで人口4000人と言う大きな村だ。ガリはここの知り合いと絶えず現在地を報告する電話をしていたようだ。その知り合いに渡すものがあったらしい。約束の場所でぴたりと車を止めると、一人の男性が近づいてきた。彼に何やら包んだものを渡すとすぐ出発した。聞いてみると自動車の部品だと言う。エランツィ村にはないので、頼まれてはるばるイルクーツクから運んできたとガリは言う。
 エランツィ村はアンガАнга川のほとりにある。アンガと言うのはブリヤート語(あるいはエヴェンキア語)で動物の口、転じて谷間を意味する。これはアンガラと同じだ。アンガ川は延長99キロでバイカルに注ぐ。バイカルから流れ出すアンガラと比べてずっと小さいが、なぜか語源が同じ。
 バヤンダイからエランツィまでの道はアスファルト舗装されたばかりのようだった。前記のように、8年前は砂利道だった。シベリアに昔(10‐20年前まで)はアスファルト舗装された道はほんの僅かだった。近年道路事情がよくなり、ごつい車でなくてもかなりの場所には行けるようになった。ちなみに、オリホン島にはアスファルト舗装道はない。『バヤンダイ・エランツィ・フジール』道では、オリホン島に渡るフェリー乗り場までしかない。(フジールはオリホン島内最大の村)。島のインフラは大陸より遅れる。しかし、オリホン島では工事に先立つ地質調査は、もう行われている。
 ロシア民謡『バイカルのさすらい人』
 エランツィからフェリー乗り場サヒュルタСахюртаまでは50キロほどあるが、ここはタジェランスキィ草原Тажеранские степиと言って、草原砂漠のようで、雨量が少ないらしく樹木は成長しない。バヤンダイから直角にバイカルへ向けて曲がった道はエランツィからまた直角に曲がってバイカル湖岸を行く。タジェランスキィ草原は細くバイカル湖岸に50キロほど伸びているのだ。木の全く生えていない岩山の麓を行く。
 バイカルはブリヤート人の地だ。ブリヤートのセルゲ(馬つなぎ棒、道祖神の宿る聖なる場所に建つそうだ。馬をつないだり、自分が通ったという印の布切れを巻き付けたりする柱がある)や南シベリアのかつての遊牧民のテリトリーでよく見かけるような東屋(亭)が建っている。ハカシアやトゥヴァに似ていてやはり異なる。
『さすらい人』
湖上にあまり透明なところはない

 ところが、小高い丘の上に『バイカルのさすらい人(容貌はロシア人)』像があった時は驚いた。8年前には気が付かなかったが、オリホン島観光客が増えてきた最近建ったものだろうか。日本でも有名なかつての歌声喫茶の代表歌ロシア民謡『さすらい人』だ。http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_274d.html
 ロシアでも≪ザバイカルの荒野で По диким степям Забайкалья≫ (または ≪放浪者 Бродяга≫)という。19世紀から歌われていたらしく、シベリアと言えば、流刑囚で、彼らは金山などで働かされていた。流刑囚は脱獄する。脱獄してさまよっている。さまようのは、歌詞ではバイカルの(モスクワから見て)向こう側のザバイカリエ(東岸)だ。バイカルの向こう側と言えば当時のロシア人には地の果てだったのだろう。しかし、この銅像が建っているのはバイカル西岸、つまりモスクワに近い方のプリバイカリエだが。

 この像の少し手前のガソリン・スタンドでガリは車を止める。やはり電話で現在地を伝えあっていた別の車と乗客を交代させるためだ
 途中に私はガリに、バイカルは氷上を通行するのかと何度も尋ねた。要領を得なかったが、ツーリストを運ぶためには氷上通行に許可がいるとか。事故で沈むこともあるせいか。ガリにはその許可がないとか。(別の事情があったのかどうかは不明)。それで私たちを下し、私たちはオリホン島から氷上を、ツーリストを乗せてきたアンドレイ運転の車に乗り換える。アンドレイもガリも、新たな乗客を乗せてUターンするわけだ。つまり。私達は氷上をオリホン島へ行く。アンドレイの車に乗ってきた中国人のツーリスト数人は、私たちが下りたガリの車でイルクーツクまで行く。と言うわけで私とアントニーナさんはアンドレイ運転のやはりワンボックス・カーに乗り換えてバイカルの氷上に降りる。
 タジェランスキー草原とオリホン島は地図上ではほとんど一続きの岬(半島)のように見え、その岬と島の内側はバイカル湖にできた細長い湾のようにも見える(次ページの地図)。南北80キロのオリホン島と大陸との間のこの細い海峡(湾)をロシア語ではマーロエ・モーレ(小さな海)と言い、ブリヤート語ではナリン・ダライ Нарин далай(狭い海)と言う。マーロエ・モーレの幅は狭いところでは5キロ、広くても16キロしかない。平均深度は210メートルはある。タジェランスキー草原とオリホン島は、前記のように一続きの半島のように見えるが、『オリホン門』海峡でわずかに隔たっている。海峡の最も短いところではわずか1200メートルだが、深度は30‐40メートル、海峡の南部では100メートルになる。『オリホン門』海峡付近は流れが急で、時に波の高さは5メートルにもなるそうだ。夏はフェリーが運航している。冬は氷上に裂け目や割れ目が多く、正規の氷上路は別のやや遠回りの氷上に設置されている。しかし、2月の今はどこも安全だ。運転手のアンドレイが言うには今年の湖面はギザギザして雪が吹き寄せられ、真っ平らで透明なところが少ないとか。
 ホーバークラフトも運航している。こちらは大きな音を立てて氷上を猛スピードで走る。車が通るコースはホーバークラフトのコースとは離れている。車はゆっくり走る(スリップするから)。と言っても5分もかからず通り過ぎるとオリホン島に上がる。この『オリホン門』海峡はタジェランスキー草原(大陸)側もオリホン島側も絶壁で、渡し船が停泊する波止場はできているが車で這い降りたり這い上がったりできるような道は、本当はない。が、何度も車が通る位置に険しかった道も通りやすくなるものだ。
 この『オリホン門』海峡に北西から吹く強風をサルマСармаと呼んでいる。淡水の巨大断層湖であるバイカル湖には特有の大気循環があり、南北や東西に主なもので4方向の風が吹くそうだ。その中でもバイカルの西岸を囲む山脈から吹く冬季の寒風はサルマと呼ばれて、時には航行の船が遭難する。サルマと呼ばれるのはマーロエ・モーレの対岸(大陸側)にあるサルマ川(66キロ)谷を通って一気に吹き降りてくる風から来ている。この方向からバイカル湖の方に吹き付ける寒風の代表名だ。後に、このサルマに当たったものだ。
 『ニキータの館』
 オリホン島に上がっても、タジェランスキー草原の続きのような荒野が続く。バイカル湖は長さ637キロ、幅80キロあるが、その中ほどの西寄りにあるオリホン島は、数ある島の中でも最も大きい。バイカル湖が南西から東北に細長く斜めに伸びているように、オリホン島も長さ75キロ、幅15キロと、細長い。また、オリホン島もブリヤート人の地で、ブリヤート語でオイホンойхон(森が少ない。小さな森)と言ったのが、ロシア語風にオリホンとなった。オリホン島には実際森が少なく、北東部にはあるが、島の面積の3分の1に過ぎないそうだ。3分の2は草原、荒野、砂場、岩山だ。雨量は年間140ミリと少なく、太陽の見えない日数は年間48日と言う、よく言えば太陽の島だ。風も強く、地層の浸食が激しい。森林地帯も砂地・荒野に代わっているそうだ。島には9個の集落があって全人口1700人のうち、行政中心地のフジール村には1350人が住む。集落は大部分西岸にあって、フジール村は島の南端のフェリー場からから37キロのほぼ真ん中にある。
オリホン島に上がっても荒野は続く
フジール村の入り口
『ニキータの館』入り口
出迎えてくれたニキータ
ニキータの長男チモフェィ
『館』私の部屋のある2階に上がったところから
食堂、カウンターの後ろにユリヤ(後述)
ホールに私の到着と同時に
設置してくれた薪ストーブだが
夕日のバイカル、シャマーンの岩

 アンドレイの車で40分ほど荒野の一本道を走って、12時半頃、目的地のフジール村の『ニキータ・ベンチャーロフの館』に着いた。車から降りるとニキータが近づいてきて挨拶。彼の長男のチモフェイもいた。チモフェイは20歳、サンクト・ペテルブルクの大学で芸術と文化学部で主に中国語を学んでいるらしい。大学はスモリヌィという名前だ。これは大聖堂のスモリヌィや革命時の有名なスモリヌィ貴族女子学校(現在、サンクト・ペテルブルク知事の公宅となっていて、ネヴァ川左岸にある)とは別で、場所もそれほど近くはない。スモリヌィ大学は右岸にある。1998年創立で、『スモーリニィ』は名称だけか。
 私の部屋の用意ができるまで敷地内のカフェに入ってココアを飲む。

 オリホン島には1989年と1990年の、外国人が全くいなかった時期に行ったことがある。ニキータの招待だった。当時ニキータはフジールの学校の卓球のコーチをしていて、私はその校長宅に宿泊した。3回目は2004年だった。このころニキータは妻のナターシャとペンションを経営していて、島にツーリストもかなり多かった。4回目は2008年で、冬のバイカルを見て感動したものだ。冬だったので、その頃はそれほどツーリストはいなかった。ニキータの話では韓国人のグループが去ったばかりだったと言う。
 5回目も冬にしたのは冒頭に書いたような理由からだが、観光客は多くないと思っていた。確かにロシア人やヨーロッパからのツーリストはほとんどいない。彼らは寒いところから、わざわざ更に寒いところへは観光に来ない。バイカルで水浴びができるのは夏季だけだ。しかし、中国人の客でニキータの館は満員だった。上海からイルクーツクまで直行便がある。
 『ニキータの館』ばかりか、2004年には10軒ほどだった宿泊所が、今では島全体で110軒以上はあり、フジール市だけでも40軒はあって、ほぼ中国からの観光客で埋まっている。初めて訪れた頃から、オリホン島は30年も経たないうちに大観光地となり、すっかり様変わりしてしまった。2008年には最も大きく人気のあった『ニキータの館』も、今は、モスクワ観光資本が島に入り近代的なゲスト・ハウス群を数カ所に作ったので、観光客を分け合うことになった。島の住民やイルクーツクの小資本のゲスト・ハウスやお土産屋も多く、ニキータが強く誘ってくれなければ、僻地や辺境好きの私には魅力的ではない。

 ニキータは私によい部屋を使わせてくれ、食事も観光も無料にしてくれる。(後で知ったことだが、宿泊客の1割近くは私のような『お友達』客だそうだ。お友達のお友達も無料だ)。カフェで飲むココアもWF使用料(1時間50ルーブル)も無料だ。そればかりか、『ニキータの館』専属マッサージ師の1時間のマッサージも無料だった。オリホン島滞在中の私の予定は、すべてニキータが考えてくれるのはありがたい。部屋に落ち着いて、食事も終わると、マッサージを勧めてくれた。
 ニキータの館の建物はすべて、お抱えの大工さんが建てている。必ずしも専門家ではないが、器用な男性は何でもやれる。自己流で、2階建て建物を資金と需要に応じて、次々に何棟も建てていったかのようだ。今では20棟ほどもある。2004年にはニキータ一家の住む棟や、スタッフ用の小屋、食堂の他は1,2棟だったかもしれない。オリホン島で最初にできたペンション、ホーム・スティ先がここだった。次第に大規模にはなっていったが、その過程でモスクワ出身のナターシャがモスクワのマンションを売って得た資金で、設備が整い、一層、宿泊客が増えて、一層利益が上がるようになったらしい。

 3時ごろ、そのうちの一つの棟の2階、マッサージと書いたドアを開けると、ヴァシリーサと言う若い女の子が待っていてくれた。宿泊客がそれほどマッサージを受けに来るとも思えない。ニキータお抱えのマッサージ師なのか。『館』のスタッフは、現地の人を除けば、半ば宿泊客で、宿泊料金は無料にしてもらうが、少し働くと言うバイカル好きが多いのだ。ヴァシリッサも、もう一人のマッサージ師のオリガも、食堂で働いているユリア・ズヴコヴァЮлия Звковаも、モスクワの大学院生アレクサンドル・アキンディコフАлександр Акиндиковも芸術家のレーナも数週間から数ヶ月、または数年の期間だけ、ここに滞在しているようだ。(またはお互いに気に入ればもっと長くいる)。カフェをやっている男女も、レセプションをやっている語学堪能者も、長期にはいない。バイカルに飽きれば、他へ行くのかも。
 マッサージのヴァシリッサが言うには、ニキータには毎日施術している。ニキータの家族にもやっている。私のような『コネ』客にもやっている。家族や『お友達』は『普通の』宿泊客でないので料金は不要。1時間以上もやってくれる。私は気持ちがよくてまどろんだくらいだ。
 私の部屋は外の階段を上がった2階で、外からのドアを開けるとちょっとしたホールがあり、奥に2ブロックがある。左はベッドが2台の小さめの一部屋だ。どのブロックにも、必ず外套や靴を脱ぐための入り口の間はある。右のブロックは、ドアを開けると広めの部屋(広めの入り口の間か)、その奥に洗面台とテーブルのある小さな部屋、その奥にベッドだけがある小さな部屋の3室続きだ。初めは左のブロックに案内された。こじんまりしていて悪くない。翌日、右のブロックが空いたので良ければどうぞと言われた。3室の続き部屋でも、不便な間取りで、一つ目の最も広い入り口の間は暖房がないので、外気と変わりない。私が到着してすぐ、ホールに薪ストーブを設置してくれたが、薪が燃え尽きると、すぐ外気と変わらない寒さになる。暖気はとどまらない。部屋には電気パネルがあって、24時間つけっぱなしだ。ちなみに、すべての部屋には水洗トイレとシャワーがついている。その水回りの部屋にも電気パネル・ストーブが設置されている。2008年にはバイオ・トイレで、2004年はバケツだった。(こうした水回りのインフラもナターシャのモスクワのマンション売却の資金でまかなえたのか)
 夕方5時過ぎ、ニキータがターニャТаня Бадмаеваを案内人につけてくれて、『シャマーンの岩』から、凍ったバイカルと入日を見に行く。ニキータの館は、オリホン島でも最も早くに建っただけあってロケーションがよい。2階の窓から眺められるくらいだ。歩いても近い。
 以前にはなかったセルゲが何本も立っていて、ブリヤートらしさを演出している。また車で入らないよう柵も儲けてある。
『シャマーンの岩』はバイカル湖の写真集には必ず入っている。『ブルハン岬мыс Бурхан』ともいう。バイカル湖に浮かぶ岩山のように見えるが、オリホン島から低い短い地峡でつながっている。17世紀チベット仏教がブリヤート人の間に広まり、それまでのシャマニズムと部分的には変わっていた。ブルハンと言うのはブリヤート仏教で『シャマーン岩』の洞窟に住むバイカルの主な神(?)のことだそうだ。シャマーンの儀式も行われ、仏教の祭壇もあるそうだ。
 『シャマーン岩』はアジアの9カ所の神聖な場所の一つとされている。岩山は2個の頂点があり、オリホン島に近い方は高さ30メートル、遠い方が42メートルだ。低い地峡で島に続き、絶壁の岩山が湖面に浮かんでいる光景は、まさに(ブリヤートの)バイカルだ。『シャマーン岩』は、バイカルからの浸食に耐えてきた固い岩石だろうが、それでも割れ目が多い。洞窟もあって、昔はそこでシャマーンが様々な奇跡を行ったとか。女人禁制だったそうだ。
 現在、シャマーン岩は保護されていて登ってはいけないらしい。バイカルのメイン・スポットなので、この寒さにもかかわらず大勢の観光客が、岩の向かいのオリホン島側でカメラを構えていた。ほとんど中国人で、グループで来ている彼らはロシア語を話さない。日没が、南の丘のかなたに見える。寒くて、デジカメの電池もスマホの電池も切れてしまったが、切れるまでに何枚も写せた。ポケットに入れて温めて、また1,2枚撮った。下方のバイカル湖上を人が歩いている。ワンボックス・カーも沿岸を北へ向けて走っていった。今頃から観光するのだろうか。
『館』近くの観光スポット『シャマーンの岩』とバイカル
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