クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 06 May, 2018 (追記2018年6月4日、9月14日、9月29日、2019年2月6日、12月26日, 2022年1月8日)
36 - 1- (1)  極寒のクラスノヤルスクとバイカル(1)
スラーヴァ・ルィヒンとモティギノ町へ        
2018年1月28日から2月13日(
のうちの1月28日から1月29日)

Путешествие в Красноярске и на Байкале эимой 2018 года (28.01.2018-13.02.2018)

 極寒のクラスノヤルスクとモティギノ
1 1/28-1/29 クラスノヤルスク着(地図) スラーヴァ・ルィヒン エニセイ街道 モティギノ着(地図)
2 1/30-1/31 飛行場。学校 パルチザン金鉱 南エニセイスク。ラズドリンスク モティギノ博物館
3 2/1-2/2 病院 ドラマ劇場、ルィブノエ村 カンスク経由 バライ村村長、クラスノヤルスク市へ
4 2/3-2/4 見張り塔(礼拝堂) ファン・パーク ダーチャ イルクーツクへ
 氷のバイカル
5 2/5 ヤクーチア郵便街道を バイカルの娘たち 『バイカルのさすらい人』 『ニキータの館』
6 2/6-2/7 フジール村再会 オリホン島南観光 氷上バレー ドイツ人メルツ校長
7 2/8-2/10 学校 ハランツィ湾の氷 北コース観光 氷上の長い割れ目
8 2/11/13 イルクーツクへ戻る ポーランド・カトリック教会 コルチャーク像 ハバロフスクのタクシー
ロシア連邦地図
 2018年の新年はバイカルで迎えようかと思っていた。元日はたまたま私の誕生日でもあり、70代に入る日だった。自宅で一人この日を過ごすのも好きだが、バイカルで迎えるのもいい。久しぶりのクラスノヤルスクも数日は滞在してみようと思って、クラスノヤルスクとバイカル湖オリホン島の知人に連絡を取った。オリホン島の方が知り合いも多そうなので新年はオリホン島、その前か後にクラスノヤルスクを訪れよう。と、いったん計画を立てたが、元日前の出発はあきらめた。やりたいことを2017年中にひと段落させてから出かけたかったが、終わらなかったからだ。1か月ほど遅らせることにした。元日や誕生日の日付を外すとなると、いつでもいい。1月28日(日)成田発、同日クラスノヤルスク着。2月13日(火)イルクーツク発成田着ぐらいはどうだろうか。関空発やソウル経由もあったが、成田発着はその日のうちに目的地へ行ける、と言うだけが利点の往復ともに厳しい乗継便だったが。
 往きは:
1月28日(日)成田14時25分発、ハバロフスク8時20分着
同日ハバロフスク20時30分発クラスノヤルスク22時00分着。
 これは2年前のようにハバロフスク到着が大幅に遅れた場合は、クラスノヤルスク便に間に合わないと言うこともありうる(2年前はひやひやするほどぎりぎり間に合った)。そんな時はハバロフスクに一泊して翌日のクラスノヤルスク行を購入するほかない。毎日は運航していないが翌日の1月29日は確かに運航していると確かめた。ハバロフスクの国際空港に到着して素早く隣の建物の国内空港に移動するには、早く降りて、早く入国審査を通り、早くターンテーブルから荷物を受け取ることだ。座席は前の方の通路側に前もって指定しておき、機内持ち込み荷物だけにして8キロに収めた。ターンテーブルから出てくる荷物を待たなくていい。
 帰りは:
2月13日(火)イルクーツク発00時50分、ハバロ着06時05分(夜間の飛行はつらい)
同日ハバロフスク発11時45分、成田着13時25分(睡眠不足での空港での長時間待ちもつらい)

 仮に先にイルクーツクに行き、クラスノヤルスクからハバロフスクに戻るにしても、深夜便しかない。ハバロフスクから成田便の出発が11時45分だから朝のうちにハバロフスクに着くには、夜中に飛ぶしかない。そうでなければハバロフスクに1泊以上することになる。
 クラスノヤルスクからイルクーツクの鉄道チケットはクラスノヤルスクでの日程を見て現地で購入することにした。

 成田ハバロフスク往復のS7航空のチケット代が52,730円(機内持ち込み10キロまで無料、23キロまでの手荷物があると約14,000円高くなるようだ。これも、日本に向かう便では23キロまでの手荷物代が4000円ぐらいなのに、日本からの便では1万円だ(日本で大量の日本製品を買って持ち帰るロシア人が多いからかな)。ハバロフスクからクラスノヤルスクまでとイルクーツクからハバロフスクまでのアエロフロート航空国内便のチケット代が49,430円(こちらは23キロまでの手荷物は無料)、クラスノヤルスクからイルクーツクまでの列車代が3,776ルーブル(2月20日のレートでは7139円、購入は1月30日頃なので7300円ぐらいだったか)なので、109,460円が交通費だった。航空券はロシアの旅行会社のサイトも調べてみたが結局エクスペリアが最安だった。
 成田までは、往きが、自宅から小松空港への車代、(知人にお世話になったのでせめてガソリン代2000円)、小松から羽田までが早割航空券7690円、羽田から成田のリムジンバスが3100円、帰りは成田から金沢までが新幹線16,500円で、駅から自宅近くまでのタクシー代2850円(夕方で雪があったうえ、いじわるな運転手だった、だから『近く』まで)。国内交通費は約43,000円と割高だった。もっと安く行きつく方法もあっただろうが、ハバロフスクから成田便が定時に到着するかどうか不明なため、帰りの日本国内便は帰国後に購入しているせいで高くついたのだ。(以前は、まず定時ではなかったが、ここ数年はダイヤ通りだが)
 スーツケースは機内持ち込み8キロ(10キロまで可と後で知った)としたためお土産品は一切持たなかった。クラスノヤルスクはディーマにお世話になり、イルクーツクとバイカルではニキータにお世話になるからそれも許される。

 2018年1月後半2月前半の北陸は大雪だった。小松・羽田便は、前日までの数便は欠航していた。出発の前日、我が家の母屋の水道管が破裂した。元日の前後の2週間に渡航していれば、北陸の雪もそれほど深くなく、クラスノヤルスクも零下15度から25度ぐらいだった。零下40度を下がったのは1月21日前後の数日だけだった。だから、ロシア旅行中は超寒波の少し緩んだ時期、日本では私の旅行中に超寒波があったというわけで、国内外旅行中は超寒波の影響はあまり受けなかった。
 クラスノヤルスク到着
 1月28日(日)。7時40分小松空港発羽田へ。羽田から成田はリムジンバス。成田の『S7』航空カウンターは12時近くにならないと開かないが、11時過ぎには3組ほど順番ができていた。大量に荷物を持ったロシア人男女(成田ハバロフスク便の手荷物料金が、成田発と成田着で大きく異なるのも納得)と、荷物を全く持たない年配の日本人男性だった。彼はハバロフスクの娘さんに会いに行くのだと言う。荷物は別便で送ってあるそうだ。
 出発ゲート前でも長く待ったので、彼の身の上話が聞けた。20歳以上若いロシア人妻と日本生まれの幼い娘がハバロフスクの彼女の母親と暮らしていて、3日間ぐらいの予定で会いに行くそうだ。妻と知り合ったのはかなり以前で、当時は彼女も京都の彼の家に住んでいたが、姑さんと合わなかったそうだ。鉄道マンの彼は昔、シベリア鉄道に乗ったこともある。運行を聞いてみると、それはモスクワ・ウラジオストックの『ロシア号』のようだった。ハバロフスク便やウラジオストック便に乗るときには2年に1度ぐらいは、こうした人に出会う。
 14時25分成田発。『S7』便は搭乗が完成すれば早めに離陸することもあるとかで、ハバロフスクにも早めに着陸してくれた。前列の通路側に座席をとってあったので、最初の連絡バスに乗り、入国審査窓口のあるターミナルに入り、順番抜かしをする必要もなく審査窓口を通り、ターンテーブルから出てくるスーツケースを待つことなく税関も通って到着ホールに出た。ここにはタクシーの運転手が多い。2年前の夏、隣の建物の国内ターミナルまで走った。旅行会社の案内では歩いて15分となっているが、それは大げさで5分ぐらいだ。最近塀ができてちょっと大周りをしなくてはならなくなったので8分ぐらいだ。今、冬で夜だった。かなり冷えていて、帽子や手袋はカバンの中に入れたまま出てきた私にはきつかった。こんな近距離でもタクシーに乗ればよかったと思ったくらいだ。並んで立つ国際ターミナルと国内ターミナルの間にシャトルバスや屋根付き通路どころか、まともな歩道もないと言うのはいかにもハバロフスクらしい。帰りも同じ両ターミナルを通ったが、ぶったくりタクシーにぶったくられた(そうになった)のが悔しい(後記)。
 この時は8キロのスーツケースを、雪上を引っ張って国内ターミナルにたどり着いた。クラスノヤルスク行アエロフロート航空(アウロラ社が運行)の搭乗手続きカウンターに余裕で並べた。今度はスーツケースを預ける。8キロとはいえ機内に持って入るよりない方が楽だ。座席はインターネットで後方3列目通路側と取ってある。急いで出なくてもいい時はいつでもこの席をとる。ロシアの飛行機では飲み物や食事を配るワゴン車を引く機内乗務員はトイレに行こうと言う乗客を、ワゴン車を避けて通してあげると言うことは決してしない。トイレに近い後方の席ではその被害にあいにくい。また、座席は前から埋まるので満席でないときは、左右の空の席を独占できることもある。今回は4回乗ったが、冬季、シーズンオフのせいか、出発の成田ハバロフスク便の他はいつも3席を独占し、横になれた。
 22時00分クラスノヤルスク着、何度も利用した空港ターミナルだが、今回は前のような素朴な空港ではなく、降りた乗客は到着ターミナルに入って荷物を受け取れるような普通の空港になっていた。迎えてくれたディーマさんによると去年に完成、彼も始めて来たそうだ。クラスノヤルスク・エメリヤノヴォ国際空港から市内までは30キロあって、昼間なら久しぶりの景色を楽しめる。ディーマさんが案内してくれたのは『ドーム・オテリДом Отель』と言う中心地にあって、彼のオフィスから割と近くて、あまり目立たないホテルだった。ここは1泊6000円弱くらいで。クラスノヤルスクでの宿泊をディーマさんに頼むと、ここか『オグニ・エニセア(エニセイ川の灯)』(以前はこちらの方がやや安かった。今は『灯』もロケーションが良いのか同じくらい)になる。宿泊手続きをしてから一度出て、隣のスーパーでいつもの私の非常食、250ミリリットル入り水やチョコ、チーズ、ライ麦クッキー、クラッカーなどを購入。私は遠慮したが、クラスノヤルスク滞在中、ディーマさんがすべての費用を負担してくれた。その日はすぐ就寝。
 スラーヴァ・ルィヒン
 1月29日(月)。早朝、10時過ぎ、ディーマさんがホテルに迎えに来てくれて、オフィスへ。
 クラスノヤルスクからイルクーツクへ移動する日時はクラスノヤルスクでの予定が決まってからにしようと思っていた。まずその予定を確認しなければならない。ディーマさんの会社のスラーヴァ・ルィヒン Вячеслав Лыхинが私の案内をするそうだ。彼はモティギノ Мотыгино町出身なので、そこへ行く。行くのに1日、そこで2日、帰りに1日。戻ってクラスノヤルスクに2、3日と言う予定になるそうだ。モティギノの他にどこかへ行きたいと思ったが、提案されたのはレソシビリスクやエニセイスク、ノヴォシビリスクなどで、特に行きたいところではなく、それより、クラスノヤルスクを詳しく回った方がいいと思ったので、訪問地はモティギノのみにした。それで、クラスノヤルスクを去るのは、2月4日13時23分に出発して、5日早朝6時35分にイルクーツクに着くような列車に乗ることにした。飛行機だと1時間強で着く。0時30分に出発するような深夜便か、午後便で夕方到着するような便があり、値段は2倍ほどする。鉄道のチケットはディーマさんに買ってもらった。モティギノから帰って3775ルーブル(約7000円、1万円で釣りなし)をディーマさんに支払う。
2006年モティギノ、白い上着がスラーヴァ

 オフィスでディーマさんとパソコンから列車を選んでいるとスラーヴァ・ルィヒンが顔を出した。彼は私を案内するため昨日ノヴォシビリスクから車でやってきて、私と同じ『ドーム・オテリ』に泊まっていたそうだ。私の案内は多分彼の臨時の仕事だった。普段は、スラーヴァは脳出血で身体の一部が不随になった兄のアリョーシャ・ルィヒンに代わってノヴォシビリスクの支店を任されている。
 兄のアリョーシャと知り合いになったのは2006年12月、チケットを紛失してイガルカ市に飛べなくなった時、代案としてアリョーシャのモティギノ町へ行った。その時、3歳年下の弟のスラーヴァにも会った。スラーヴァは女性といっしょだったが、彼女は初めの妻でも2度目の妻でもないそうだ。2008年には密漁監視の国家インスペクターをしていた兄のアリョーシャの船に乗って(規則違反だが)、エニセイやパドカーメンナヤ・トゥングースカ川を航行した。2010年には冬道を通りアンガラの密漁監視を兼ねてアンガラ右岸のチャドベツ川まで行き、帰りにはモティギノに寄った。それが2度目のモティギノ。その後、国家公務員インスペクターだったアリョーシャは退職して、ディーマのノヴォシビリスク支社を任されるようになった。2011年にはそのノヴォシビリスク市へオムスクへの途中でディーマといっしょに行ったものだ。
 2013年か2014年頃、兄のアリョーシャが療養生活に入り、モティギノの材木工場などで働いていたスラーヴァが兄の跡を継いだ。モティギノの寂れた工場より、ノヴォシビリスクの店の方がスラーヴァにとってはずっといいだろう。スラーヴァはすぐにノヴォシビリスクの女性ナターシャと結婚した(3度目と言うより、後でわかったのだがそれは市民婚、つまり同棲)。スラーヴァはそれ以後、数回日本に来ている。富山県にディーマのパートナー会社がある。中古車買い取りや解体、中古パーツの販売をやっているらしい会社だ。スラーヴァたちはそこで買った車を自分たちで解体してコンテナに詰めてロシアに送っている。2015年にデーマの会社から派遣された何度目かのグループで、スラーヴァがパーシャ・クニャゼフ Князев Павелと来たのが1回目で、それ以後、年2回はビジネス・ビザの最長90日間、日本で仕事をしているらしい。ディーマの会社の費用で来ているわけだから仕事以外には、近くの日本海で泳ぐ以外の時間はないと言っている。
 2012年から2016年まで、5回もディーマの会社の前記パーシャ運転の車でトゥヴァへ行った。スラーヴァはパーシャが好きではないらしい。私はただの運転手としても嫌いだ。2016年は(パーシャの乱暴な運転で)タイヤが外れると言う事故が起き、次回からは自分が運転してあげようとスラーヴァが言ってくれた。
 (後記:その後、パーシャも退社し(結婚してお金も必要なのか、北のヴァンコール油田の飯場で稼いでいるらしい)。
 (さらに後記:そこも厳しいのでやめテ、クラスノヤルスクでフリーランサーとかで働いているらしい)。
 2018年の今回はスラーヴァが自分から引き受けてくれたそうだ。スラーヴァとクラスノヤルスク地方のどこへ行くか、それはモティギノしかない。モティギノもいいがそこへは2度も行った。その他にはないだろうか。ノヴォシビリスクはどうだろう、例えばノヴォシビリスク・ダム湖とか、と提案された。私はそこへも何度も行った。しかし、前記のように、7日間の滞在では、モティギノのほか行くところも時間もないですよとディーマに言われた。モティギノも8年ぶりだから行ってみるかと思った。クラスノヤルスクもバイカルも新しいところへ行くと言うより、知っているところの再訪、もう一度見ておきたいと言う目的だったので、クラスノヤルスクからモティギノまでのエニセイ川沿いやカンスク経由の懐かしい道をもう一度通ることにした。

 快く引き受けてくれたと言うスラーヴァ運転の満タンにしたディーマのランクルに乗り、クラスノヤルスク市をサロンツァ村経由でエニセイ街道に向けて出発する。サロンツァにはディーマの会社の広い土地がある。まだ完成してはいないが事務所や店、倉庫を建てている。倉庫などには古いコンテナを利用している。事務所兼店は内装の他は完成。スラーヴァはノヴォシビリスクから乗ってきた軽トラックをここの広い駐車場に止めている。もちろん、24時間ガードマンがいる。
 私のロシアで購入した携帯のシムカードが、今回、停止していたので新しいシムカードを買ってくれたミハイル・ミハイロヴィッチ(ディーマの会社の副社長)も、今ここにいる。カードを入れなおして出発したのは12時過ぎ。

(以下の記述は2019年1月2日、来日していたスラーヴァと円からルーブルの両替の要件で滑川市で会ったときに、スラーヴァが話してくれたことも含まれる)
 スラーヴァの兄のアリョーシャは3回(2回か)ぐらい結婚をしている。イガルカでアリョーシャと一緒にいた女性のカーチャは、その後子供を産んだそうだが、アリョーシャとは結婚していない。ボル村にも、アリョーシャの姑と言う人がいた。(姑と言っても娘のオクサーナとは結局結婚しないで別れたそうだ、その姑さんにはパドカーメンナヤ・トゥングースカに行った時世話になったが)。バライ Балай村の村長の娘とは初めの結婚で20歳くらいの女の子 Викаがいる(後記)。今の妻(スヴェトラーナ)とノヴォシビリスクで生まれた6歳くらいのヴォーヴャという男の子もいる。
 弟のスラーヴァには娘が二人いる。上の娘のユリアは17歳でモティギノにいる。彼女の母親のナターシャ(モティギノの警察署に勤務)はスラーヴァと別れたのち、別の男性と結婚して家庭を持っているので、スラーヴァが一家と逢うことを拒否している。下の娘ミラーナ Миланаは10歳で、レソシビリスクで母親のユリアと暮らしている。スラーヴァはミラーナが3歳の時別れたそうだ(一時的かも知れない)。スラーヴァはノヴォシビリスクに来てすぐナターシャと言う女性と結婚した(正式ではなかったようだ)。ナターシャにはアルチョームという16歳の連れ子がいる。

 スラーヴァは若いころ徴兵され、はじめは極東(ウラジオストック近郊か)で訓練され、1995年から1996年の8か月の間チェチェンに送られた。それも特殊部隊(*) だった。グローズヌィ市で首筋に弾の破片が当たったり、頭部に負傷したり、足指が吹っ飛んだりしてグローズヌィの病院で治療を受けた。治療後、また戦場で戦ったが、その後ウラジカフカスへ送られ、次いで、クラスノダールで除隊になった。彼の首筋には大きな傷跡が見える。
 私はロシア連邦軍から見たチェチェン戦争のことが聞きたかったが、彼は考えないようにしているようだ。エニセイ街道を行く間にわずか数語会話したに終わった。チェチェンのどこで戦ったのか。彼は知らない、覚えていない。シャトイ村は聞いたことがあるだろうか?ある。ヴェデノ村は?ある。ベノイ村は?ない。彼が負傷したのはグローズヌィ市だった。弾が当たったのではなく破片が当たった。誰が撃ったのか、仕掛けたのか、まったくわからない。戦友が次々死んでいったと言うチェチェンのことを話したがらない。
(*)特殊部隊 Спецальное назначение スペッツナズ Спецназと普通は省略して言う、諜報活動やゲリラ活動など特別訓練を受けた。そうとうに殺気立った部隊らしい。
 しかし、滑川市での2019年1月の再会の時には、場所が日本だったからか、スラーヴァはもっと饒舌だった。特殊部隊として訓練を受けたと聞いたのもその時だった。仲間は多く死んだ。彼もチェチェン人を殺しただろうか、というのは愚問過ぎるが、聞かずにはおれなかった。ウィキペディアのチェチェン戦争の記事を読むと、ヤルィシュマルディの戦いБой Ярышмардыなどでは独立派軍の待ち伏せにあって連邦軍の特殊部隊が全滅したとか(後に彼らはロシア連邦英雄とされる)、チェチェンのある村が特殊部隊の攻撃で全滅したとかる。
 スラーヴァはチェチェン人を殺したことは否定しない。戦争というものだ。19世紀のカフカス戦争の時、たとえば、19世紀の1840年、ロシア帝国軍は歴史的に小チェチェンの中心と言われていたウルス・マルタン地方を全滅させたのだが、そのヴァレリク川の戦い Сражение на реке Валерикに、帝国軍中尉として参加していた(指揮もとっていた)ミハイル・レールモントフだって、蜂起したチェチェン人を殺戮していただろう。この戦いで彼は帝国に貢献したとなっている。レールモントフ詩集には「ヴェレリク」と言う詩編が収められていて、詩の朗読会にも朗読されている。
 今更スラーヴァが日本で言うには、チェチェンは独立したらいいのだとか。(以上後記)

 数日後ディーマさんと話したことだが、連邦軍兵士(その時は特殊部隊とは知らなかった)としてグローズヌィで負傷したのだから、当然その年金は出ているに違いない。スラーヴァの発音はやや不明瞭だ。外国人の私は全くわからないこともある。彼も意識して話せば私も理解できるが、普通はふにゃふにゃと話すので、聞き取れた単語からその内容を私は推測している。ディーマさんも彼の発話は不明瞭なことがあると言っていた。これは、グローズヌィでの頸部の負傷のせいか、生まれつきなのか、ただ彼の癖なのかわからない。

 (後記:以上と以下の記述は2019年1月2日、来日していたスラーヴァと円からルーブルの両替の要件で滑川市で会ったときに、スラーヴァが話してくれたことも含まれる
 スラーヴァの兄のアリョーシャは3回(2回か)ぐらい結婚をしている。イガルカでアリョーシャと一緒にいた女性のカーチャは、その後子供を産んだそうだが、アリョーシャとは結婚していない。ボル村にも、アリョーシャの姑と言う人がいた。(姑と言っても娘のオクサーナとは結局結婚しないで別れたそうだ、その姑さんにはパドカーメンナヤ・トゥングースカに行った時世話になったが)。バライ Балай村の村長の娘とは初めの結婚で20歳くらいの女の子 Викаがいる(後記)。今の妻(スヴェトラーナ)とノヴォシビリスクで生まれた6歳くらいのヴォーヴャという男の子もいる。
 弟のスラーヴァには娘が二人いる。上の娘のユリアは17歳でモティギノにいる。彼女の母親のナターシャ(モティギノの警察署に勤務)はスラーヴァと別れたのち、別の男性と結婚して家庭を持っているので、スラーヴァが一家と逢うことを拒否している。下の娘ミラーナ Миланаは10歳で、レソシビリスクで母親のユリアと暮らしている。スラーヴァはミラーナが3歳の時別れたそうだ(一時的かも知れない)。スラーヴァはノヴォシビリスクに来てすぐナターシャと言う女性と結婚した(正式ではなかったようだ)。ナターシャにはアルチョームという16歳の連れ子がいる。
 エニセイ街道を下ってエニセイ川の氷上路を渡る(地図は下記)。
カザチンスクのカフェ入り口のの洗面所と
鏡と乾燥機と右上の張り紙
カフェのカウンターで注文してお金を払う
カルギノのフェリー乗り場近くの夏季時刻表
エニセイ川氷上路の入り口
エニセイ川氷上路。車間距離は開ける
 エニセイ街道を下る。クラスノヤルスク市近くは建物が増えて少し立派になったが、20キロも行くと、15年前と変わらない村々だ。ミンデルラとかシラー、ボリシャヤ・ムルタ、スホブジムスコエとか言った懐かしい名前の村々の傍を通り過ぎる。スラーヴァがどこでお昼を食べようかと聞く。これら田舎村には、もちろん上下水道はなく、料理の水はどこからか、食器はどう洗っているのか不明で、私はロシア国境を超えると必ず不調になる自分の消化器のことを心配してあいまいに返事をしていた。街道を行くドライヴァー用のカフェ、つまりドライブイン(サービス・エリア、しかし給油施設はあるとは限らない)はそんなに多くない。私のあいまいな返事のため1つ目を通り過ぎると今度はカザチンスコエ村までないと言う。私の良く知っている15年前までのエニセイ街道では、クラスノヤルスクからレソシビリスクまでは寂しい村があるだけだ。あまり食欲はわかなかった。2時半頃、クラスノヤルスクから200キロのカザチンスコエ村の道端のカフェで車を止めたスラーヴァの言うには、この先モティギノ町までの200キロは食べるところはない。
 カザチンスコエ村は村人3500人くらいのエニセイ川に沿った大村だ。エニセイスク砦(現エニセイスク市)のコサック(17,18世紀以降はロシア拡大のための前哨兵的な集団)の一部が、エニセイ川を遡って先住のクィルギス族やケット族、トゥングース人(エヴェンキ人)の遊牧居住地にロシア帝国の支配を広げようとして1650年にできたと言う砦が現在のカザチンスコエ村の始まりだ。(その砦は『コザックの草地・耕地』と言う旧名から、ほかの多くのシベリアや南ロシアなどの砦と同様、砦内のコサックは自分たちの食糧生産にも当然のことながら従事した)。
 カフェの中に入ると水道の蛇口と手の乾燥機があった。と言うことはため水ではなく井戸からくみ上げた水で洗浄できると言うことだ。おまけに壁には「当店の敷地内には暖かいトイレもあります」と言う張り紙まであった。田舎ではトイレは屋内にはない。トイレ小屋が離れたとことに建っていて、ドアを開けるとそこは個室で、ドアを閉めると真っ暗になる。穴に落ちる危険もある。隙間があれば光が漏れてくるが、寒風も入ってくる。しかし、このカフェで暖房つきのトイレがあると言うことは、入り口におばあさんがいて使用料を取り、ペーパー付で男女別のトイレ家屋があると言うことだ。寒風吹きさく真っ暗なぼっとんトイレ小屋ではなく。
 クラスノヤルスク地方は田舎でも進化した。カフェの食事も、普通だった。
 カザチンスコエ村から50キロも北へ(つまり川下へ)進んだところでシローキィ・ロック Широкий Логというエニセイを渡る氷上路の入り口に出る。夏場の渡し船はやや南のカルギノ Каргиноから、ほとんど30分おきに出る(時刻表を書いた看板があった)。エニセイ街道はエニセイ川左岸に伸びているが、モティギノ町へ行くためにはここでエニセイ右岸、つまりアンガラ左岸にわたる。というのは、東南からエニセイの右岸に合流してくるアンガラ川は合流点が鋭角になり、エニセイを渡ればすぐアンガラ左岸にでることになるからだ。ここにストレルカ Стрелка(矢印、時計の針などの意)と言う町がエニセイ右岸とアンガラ左岸に囲まれてある。
 道路はストレルカ村の傍を通り、アンガラ川の左岸をノヴォアンガルスク村に向かって通じている。ここにはゴレフスカヤ露天掘りがあって、鉛亜鉛コンビナートの工場城下町となっている。16年ほど前にここを通った時には大きくロート状に穴が開いた露天掘りが見られた。その後コンビナートの入り口には遮断機が下りていて、部外者は入れないようになった。今、近くには住みよさそうな新しい団地ができている。職員が住むこのような快適な団地を作れると言うことは、有限会社ノヴォアンガラ精錬コンビナート Группа компаний ООО ≪Новоангарский обогатительный комбинат≫、同じく、株式会社ゴレフスキィ鉱山精錬コンビナート ОАО ≪Горевский ГОК≫グループはそれなりの利益を上げていると言うことだろう。それは、のちに見たラズドリンスクとは対照的だ。ここにはロシア全体の40%の埋蔵量があると『クラスノヤルスク・ラボーチィ誌』には書かれている。Горевское месторождение (Pb, Zn).Удерейское месторождение (Au, Sb). Моготинское месторождение (Au-Ag). Объект расположен в Тындинском районе Амурской области)。また同誌によると 鉱山が発見されたのは1960年代、1978年には最初の1トンが採掘された。
 モティギノ着
1.スホブジムスコエ 2.カザチンスコエ 3.カルギノ 4.シィローキィ・ロック 5.ノヴォアンガルスク 6.ピエロヴォマイスク 7.ルィブノエ 8.ラズドリンスク 9.パルチザンスク 10.ユージノ・エニセイスク 11.べリスク 12.マシュコーフカ 13.トロイツク 14.タセエヴォ 15.ジェルジンスコエ 16.バライ 17.サスノヴォボルスク 18.キーロフスキィ(廃村)
クラスノヤルスク地方地図(の一部)
 前記のように、クラスノヤルスク市からモティギノ町へ行くためには、エニセイを渡って右岸に出るだけではなく、アンガラも渡ってその右岸に出なければならない。しかし、アンガラ右岸には道がない。エニセイ氷上路を渡ると、アンガラ左岸を行くのだが、アンガラ左岸にはタセーエヴァと言うエニセイ川(*)やアンガラ川(1779キロ)ほどではないが、大きな川が流れ込んでくる。タセーエヴァは源流のチュナ(ウダ)川も入れると1240キロにもなる。タセーエヴァ川はアンガラ河口(エニセイ川への合流点)より68キロ川上に合流するから、この川も渡らなければならない。氷上路の入り口はタセーエヴァ河口より15キロほど上流のピエロヴォマイスクПервомайск村(地図の6)だ。この辺は行っても、行っても森と雪しか見えない。ピエロヴォマイスク氷上路から20キロほどでアンガラ左岸に出て、今度はアンガラ川の氷上路を渡り右岸に出ると、ルィブノエと言う古い村に出る。ここからモティギノまでは近い。
(*)エニセイと名がついているのは3487キロ、トゥヴァから流れてくるエニセイの源流の小エニセイを含めると、4287キロ、モンゴルからのイデル川、つまり最も遠い水源からは5550キロ
 モティギノには6時頃着いた。スラーヴァ・ルィヒンの母エリザヴェータ・ルィヒナさんが迎えてくれる。エリザヴェータさんは64歳くらいで、年金生活者だが、以前は幼稚園の園長をしていた。10年前に来たときは別の家に住んでいて、ここには彼女の母親のヴァルヴァーラさん(85歳)が住んでいたが、足腰が不自由になった母親のため、隣のフラットに移ったようだ。だから、外のドア(長屋のいくつかのアプローチの一つ)を開けると、入り口が3個あり、真ん中がエリザヴェートさん、左のドアにはヴァルヴァーラさんが住む。エリザヴェートさんの亡き夫は金鉱で働いていたそうだ。
エリザヴェートさんとヴァルヴァーラさん
寝室の隅にあるビオ・トイレとバケツ

 このアパートは木造2階建てで、沼地に建っているため排水が悪いと言う。エリザヴェートさんとおばあさんの住宅は1階の一番奥の入口(アプローチ)から入る。エリザヴェートさんの住宅は最近井戸から引いたと言う水道と、自力での電力で温めていると言う温水があるだけで、トイレもシャワーもない。1度目に来た時も確かにトイレはなく、外套を着て犬にほえられながら外のトイレ小屋へ行った。2度目の時は寝室にバケツがあったが、その中に入れた後どうしたらいいかわからなくて夢でうなされた。今回寝室にビオ・トイレがあった。ペーパーは蓋つきバケツに捨てる。これでずいぶん助かった。
 住居は44.4平方キロだそうで、暖房、水道などの公共料金は7000ルーブルと言う。ロシアで住居費と言うのはどこまで含むのかわからない。(確か、かつて無料だった国営住宅の場合)家賃も含むのか?
 ダブルベッドが真ん中にある広い寝室をエリザヴェートさんは私に譲り、自分は居間の折り畳みベッドを広げて寝る。つまり台所を挟んで2DKで、一人住まいにはちょうどいい広さだ。スラーヴァが寝ることになった隣の祖母宅も同じようだった。この日はおばあさんのヴァルヴァーラさんも訪れて4人でテーブルを囲む。彼女の父だか祖父だかはチェルケッス出身だそうだ。エリザヴェートさんにはクバーニ地方(ロシア南部クバーニ川流域、チェルケス=アディゲ人が住んでいた)に親せきがいて最近訪れたとか。 
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